2010年12月13日

買収者からの自然環境保護のこと

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101212-00000002-sh_mon-bus_all

引用
~~
なぜ人気? 中国人、日本の森林を相次いで買収

外国人が日本の森林の買収を進めている。この数年、日本の森林の価格は下落を続けており、今が底値と判断した海外投資家が購入するケースが多い。また、水源として利用しようと考える海外企業もあるようだ。

日本の森林を買収する外国人の中でも、特に中国人の動きが目立っている。

河川の汚染が進む中国では、汚染が水不足に拍車をかけているといっていい。中国人が日本の森林の買収に動く背景には、こうした事情がある。

 日本は資源のない国だといわれているが、実は森林と水に恵まれた有数の資源国である。そのことに気付いた外国人は、今後も日本の森林の買収を続けるとみられている。

 これに対し林野庁は都道府県にヒアリングを開始し、情報収集に努めているという。しかし、それだけでは買収を止めることはできない。諸外国のように、外国人や外国法人の土地所有について地域を限定したり、事前許可制をとるなどの制限を設ける必要性がありそうだ。

~~

こういうわけで、これが事実なら結構やばい。今までの市民性をみていると、或いは明治期以来の国民性といってもいいが、非常に「金目の誘惑に弱い」人らなので、目先の損得に踊らされて簡単に先祖伝来の土地をてばなしたり、最低でも貸し出したりしそうだ。つまりは、いま目にしている「ああ多賀の山並みよ(市民歌参照)」もあっというまに買収されて、まったく景観も無視の巨大な取水場になってすぐ放置されぼっこぼこに破壊されかねない。

国有林の法律みたいのは情報が伝わればつくられるとおもうが、県有林や市有林みたいな『公共自然』については、行政の長が交代しても簡単に売却できない条例で縛るといいと思う。私有地については口出ししがたいが、倫理感に期待すると同時に、啓蒙というか、山川海、原っぱの綺麗さを盛んに小中学校の義務教育段階から叩き込むべきではないだろうか。
これは教育委員会が自然賛美の方法を講じるところからはじまる。俳句もいい方法だと思う。俳句は季語が重要だから、かならず周囲の自然に敏感になる。俳句の制作を、国語の授業のあいまに取り入れるとか、こういうことでもかなりちがってくるというか、この北茨圏のすさまじく繊細な自然を尊ぶ心情が織り込まれてくると思う。大体、雨情にせよそういう自然風土にはぐくまれた人であり、実際にそれほど自然環境がすばらしいのが間違いない。

2010年12月6日

北茨の人生論

シュムペーターや高橋和夫氏の説に、戦争階級原因論があり、わかりやすくいえば戦争をなりわいにした階級ができあがってしまうと自動的に戦いつづけてしまうという話。

 これをおしひろげて社会活動の全般が「習性」からできあがっていくとすると、それ専用の階級ができあがると、自動的にその業をくりかえす、と定義できるはず。
いわば『社会的成果階級原因論』がとなえられる。わかりやすくいえば習い性となる、ってことなのだが。

だから、この市におなじ社会法則をもしあてはめると、結局この市がもっとも重視すべきは科学研究の習性ではないだろうか。科学の祭典もあったが、やはりあの方向性が最もすぐれている。

雨情の説に、科学知識のこまかなあれこれは純粋な童心とは相容れないってな話がある。全集の書簡集・講演集の巻にのってる説話だけど。が、自分の意見をいえば、それは相容れないのではなく「調和させれる別の能力」なのだ。科学知識の詩をよめ、という者はいない。
詩は表現のおもしろさを問うのであり、科学知識そのものは自然認識のくわしさを問う。この二つは別々の発生をもつのであり、両立させることもできるし分けることもできる。

かもめ泣く空ににじむは秋の夕焼け
かもめ鳴く空ににじむは秋の夕焼け

この二つの句をくらべて、かもめは泣きませんよ、ってのが科学知識の立場であり、泣くから眼がにじむんですねってのが詩の立場。この二つは別の立場だが、かといって必ずしも専門科学者が「泣く」の句に感動しないのではない。そういうわけ。

 もし専用の階級をつくる利点がもっとも高いなりわいをいえば、こういう道理で科学の研究家だろう。哲学あたりはむしろ水戸辺にたくわえられやすいのでわざわざ北茨がする必要性は薄い。また、息抜き程度ならわかるが、スポーツ設備を強度につくりすぎるのもまずい。
運動競技ってのはそれ自体が目的化すると勝手に阿呆というか、あんまりあたまがよくない体だけ過剰に健康なタイプをひきつけて市の教養の平均値をその運動バカのせいで引き下げる傾向がたしかにある。これは私立の学校でスポーツクラスと特別進学クラスの生徒が全然中身ちがうみたいなもんだ。

詩心は大切にした方がいい。しかし、自分の北茨人としての経験上、実はその心のこまやかさ、繊細な心情という特徴をもっとも強化しやすい習慣が「科学知識の研究」なのだ。これによって今までよりさらにこまやかな詩心ができあがる。

月の出るそらに輝く星屑よ

この程度の俳句が、科学知識の装飾によって

満月の裏に広がる宇宙のネオン

このくらい詠めるほど細かくなる。(どちらの句がすぐれているかは不明だが、童謡に感じ入るほどの心のこまやかさという長所をばあいによって強調しやすいのはたしか。単なる無知無学のままでは、どんなうまれついての天才も天然ボケとみわけがつかない危うさがある。)
だから北茨の市がもっとも大切にすべきは、長所をさらにのばす科学知識の研究の習慣をさまざな条件づけで与えて行くことだろう。茨城圏全域にいえる欠点とも言える「教養なさ」もそれでかなり補完されるはず。

2010年12月3日

県州制度の構想

いばらき域での経済的優勢を失わないのに、有効なのは州の制度を県と市のあいだに挟むことではないか? これは「県州制度」と仮になづける。

 で、具体的には先ずは水戸州として県央地域を一括する。東海村あたりから石岡以北迄で。他に、県北は日立州としてまとめ、県南はむかしの藩名から新治州とする。もしかしてこの州だけ経済力がつよくなりすぎるなら、鹿島州と新治州に分けてもいい。それは県内総生産か総所得の値、およびそれらの将来予測から割り出せばいい。
 で、おおまかにこの水戸州・日立州・新治州って分け方で、各行政の財政権益を一括りにしてしまう。なぜこれが有益かというと、たとえば図書館にかけられる金額をみればわかる。
いわきがどうして財政に恵まれているかいえば、その大きさからだ。比べていばらきの全域は、細分化されすぎていて大きな施設などはどうしても分散投資になり個々への分配量が弱まってそれぞれの施設が貧弱になってしまう。

こういうわけだから、今でいう市町村の単位は飽くまでも州の中から代表をえらびだす自治範囲という扱いにし、普通の財政はすべて州単位での決定にまかせてしまえばいい。と同時に、これらの州単位での交通路(LRTなりリニアモーターカーなり路面電車なりセグウェイやレンタルサイクルの優遇なり交通バスのフリーパスなり車線拡幅なりバイパスなり)を建設県債などで充実させること、でそれぞれの行き来を頻繁にさせる。

具体的に日立州の話にすると、大津からだいたい大甕辺までが一つの単位になり、その中で基本的な行政機能の立地をみな日立の中心市街辺に集めることで、とりまく個々の市町村はそれぞれのちいさな単位で必死に経済効果を追求する必要性が弱まるので行政の考える負担が軽くなり、もともと別の才能を伸ばすべき文化なり学術なり信教なり教育なり農林なり漁業なりに集中投資できる土壌にかわるだろう。要は市町村ごとの分業が今より進む。
学校というか大学専門学校等の高等教育機関も、茨工を中心として日立に集めることで若者が日常的に入ってき、今までより中心市街が活性化されるだろう。図書館もまずは日立へ通う生徒学生社会人が殖え、結果としてバイト雇用やら、ついでの買い物での消費やらも促進される。
常陸太田市あたりは以前の経緯からむしろ日立よりは水戸州にくりいれた方が心情的に親しいかもだから、その辺の判断はまかせる。日立州のたちばはどっちかといえば工学的な進歩主義なので、超保守派のおわす太田あたりは必ずしも意見があわない可能性もあるし。

水戸州は心配ないが、新治州では土浦と筑波のすみわけがいるかもしれない。で、経済は土浦、研究は筑波、工業は鹿島だって感じになり、結局は土浦に基本的な機能は集まるかもだが、場合によっては一部の図書館等の公共施設は筑波側に委託しても問題はないだろう。鹿島が孤立しない様、臨海鉄道あとの交通路みたいのは工夫すべきかもだが。

 とかく、こういう風に、さっきあげた水戸州・日立州・新治州の単位ごとで『産業別の集積』を利用して各市町村の中心圏へ、いわゆる経済的中枢をまかせきってしまう。これで県内の広域にわたって、今までよりも財政の改良がもちいられる筈。使える単位が大きくなるからだ。

2010年11月30日

深夜営業規制のはなし

この市の議会議院がどう感じてるかしらんが、自分の目にはあの駅前あたりの飲み屋はきったねーと感じる。きょうも駅の出入口あたりに高校生だかあたりが吐きちらしたなんだかわからん汚いのがあったみたいだけど、あんなろくでもないアジアン臭い飲み屋なんか放置しとくから酔いどれのろくでなしが出てくるんだよ。出てくるんだよ、としかいえない。
つまりさっさと規制しろってわけ。何一つ良いことはない。これは本当のはなし、勿論あれだってくだらん本やらサブカルやらと似たアジアちっくなきったねー文化なんだろうが、なにも貴べないばかりかなければないほどよい。どうせはしたがねしか回らんのだ。

 要はよる8時からは深夜営業許可を出さないべきだ、しかし、そんなの不便だってのなら最悪で10時までゆるしてやってもいい。しかしそれ以後はなにも許可しなくていいと思う。
そんなの現代に逆行してるとおもうだろうが、逆行じゃなくて先導してるのだ。夜は寝ろ。そういうことだ。
そのかわり朝は夏4時なり冬5時なりから営業していいことにすればいい。それでまともに売上とりかえせ。町をよごして深夜営業もないもんだ。そして酒などのまず、高尚な哲学論議でも日夜闘わせ娯楽にすればいい。こういうことも深夜営業なぞ許可してるかぎりは擬似都市生活に陥るだけなので、永久無理にきまってる。
あんなきたねー飲み屋つくったり、高校生からすぐ発情したりそもそも理性が欠けている人種なのだから。もとエミシの磐城なぞもっとひどい。隣接してるのが災厄だ、しかし被災をさける対策だけは条例で可。

日本人は情に流され易い性格がどうもある様だからどれほど「厳しい倫理課題」を科しても科しすぎない。これが真理だ。深夜営業規制しようと日本人は日本人だから、あのきったねーじめっぽい飲み屋みたいなのつくる卑しい人種はどっかへ逃げるだけのはなしだ。もっとじめじめした南方なり山陰なりへ。

2010年11月28日

きたいばニュース

きのう科学の祭典というすばらしいイベントがあった。しかし、ワンダーグーは規制すべきだ。なぜ市はあんな不良企業の猥褻物陳列罪を放置するのだ? 基礎に遵法意志がないのなら公職につくな。

 あと、落書きがけされちゃったけどあれはあれでさみしい。
感情の消えた機械の世界じゃないのだからそれなりの落書き程度あってもいいとおもう。勿論下品なのはみんな嫌だが。落書きそのものを洗練させていくって道もある。このあたりはあたまの古く、かたまった人物が市政の実務領域から去ってもらえねば公的には実現しにくいだろうけどいずれは。
きのきいた落書きも芸術であり、重要なのはそれができるある程度の公的スペースがあるべきってことだろう。

2010年11月23日

IT基盤のたくみさ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101123-00000014-zdn_m-mobi

~~~
山口県萩市の市役所ロビーにソフトバンクWi-Fiスポットを提供

��D Mobile 11月23日(火)16時57分配信
 山口県萩市とソフトバンクモバイルは、萩市市役所のロビーに公衆無線LANサービス「ソフトバンクWi-Fiスポット」を導入することを明らかにした。

 今回のソフトバンクWi-Fiスポット導入は、観光振興、文化教育振興、情報通信基盤の整備を目的として行われている「萩・情報維新プロジェクト」の一環として実施されるもの。今後は、萩市内の宿泊施設、官公庁施設、観光地周辺店舗を中心に、2010年度内に市内約100カ所、2011年度に市内約 200カ所まで設置カ所を増やす予定だ。
~~~~

↑こういうわけで、特定の無線ラン点だけつくれれば、全域に引いてその維持費を負担させられるよりは合理的なのがわかる。以前からここでも、私設応援団のほうでも再三指摘されてたのに、市議会議員のだれも発言しなかった。
市長の判断はにぶい。光ケーブル事業をなぜわざわざこの市が推進させねばならないのかも不明だ。なにもNTTの社員が多いわけでもあるまいし。

 やはり知識がないとは末おそろしいことなのだ。損を買ってもきづけない。
すでにいわき市立総合図書館にはウィファイの実例がある。あんなものをいくつも設けるだけで、全面敷設よりも高い効率がえられるのはあきらか。市役所員のなかに勉強会でもあれば、もっとIT基盤への理解も深まったろう。いまからでも最悪に遅くはない。国の光の道構想は一進一退してるが、基本的にLANスポットが主流になってくのはたしかと思う。

2010年11月9日

地域ブランドのはなし

県税が使われてるので注意すると、茨城がブランドの魅力度で向上させようとしてるのに無関係な対策をしてもなんにもならないし、しかも官僚主義な役人なぞにイメージアップなぞ到底不可能だ。

具体的にいうと、白い恋人とか八ッ橋みたいな『有名商品』がこの指標の素なのだ。そういう認知度の高い商材があると地域ブランドの魅力度に反映されるしくみだ。まちがっても県の魅力ではない。商材の有名無名についての調査だったということだ。

 たとえば常陸牛やら吉原殿中やらほしいもやら立派な商品はある。言うまでもないが、皮がふかふかになっちゃって味は変わってしまったけど磯原饅頭もこの一種だし、じゃんがらとか八千代おこしもある。こういうものを茨城産としてたくみに売り込むと、上述の指標に反映されてくるということだ。

けど、まえからかいてるが必ずしも“有名商品をもっている都道府県”が立派で徳の高い地域かといえばそれはちがう。そこに、乃ち地位のよさと商材の有名無名とに相関関係はない。
全然有名な商品はなくとも非常によい理想的環境の地域があったとしよう。これもそのブランド総研から魅力度で最低の値をつけられるが、まったく逆に進むべきだ、ということがわかるだろう。重要なのは『よい場所に住む』ことで、どうでもいい商材ごときの人気ではない。これはいばしんの煽り屋も理解せねばならない。

で、結局どうやって商材を売り込むかいえば、一番いいのは特産品としてお土産市場で成功してるところの真似からはじめることだ。工夫はそこに付け加えればいい。
 具体的にいえば、白い恋人は「そこでしか売らない」ことで旅行者がおみやげに必ず買うってしくみをつくったのが成功要因だった。この道理をとれば、吉原殿中は水戸でしか売らないべきだ。ほかの場所へ輸出してはいけない。水戸にきた人にだけ売る。これで超一流の特産品のおみやげとして尊敬されるだろう。
他の品物も同じく、口コミでのひろまりを重視し、特に口コミ広げやすい女性層をあいてにそのお菓子などの特産品を各市の限定地域でしか売らないことにするのだ。なお持ちがわるいというか、一週間とか数日しかもたない様な希少価値のあるおみやげ商材ならなおいい。おすそ分けが発生し、口コミになりやすいから。

で、自分的には磯原まんじゅうは前のふかふかしてない皮のがよかったから前のにかえしてほしい。あまり工夫しすぎないほうがいいような素朴商品というものもあるわけだ。ほしいもとか。まえでいう北茨城市立図書館のしおりもそうだ。
天然記念物的なものは手をくわえないほうが希少。花園牛とかもたべたことないけど、この一種なのかもしれない。
さらにいうと、有名だからいい商材とはいいきれない。地味ながら最高峰のもの、有名無実よりは確かにこの方がいい。どこで売ってるのかもわからないが天心焼きとかもその一種だろう。

2010年11月8日

コンクリートの町の批評

 水戸大工町なるところを打ち放しコンクリートで有名な建築家に頼むつもりらしいが、絶対にやめたほうがいい。水戸市民が運動を起こしてでもだ。もしつくるなら十分に燃えない工夫をした木造か、最低でも鉄骨を隠したガラス張りの建物にした方がいい。

水戸も灼熱の町にさせたいのだろうか? しかし、南蛮虫の温床になるだけでなにもいいことはない。ヒートアイランドのおそろしさをなめるべきでない。熱帯社会では人間は異なる習性に染まる。それは我々の文化を破壊する。

うそだと思うなら東南アジアを旅してみるがいい。我々とは民度も生活体験も生活様式も違う。単に、北ぐにには北ぐにのやり方がある。寧ろ涼しければ涼しいほどよい場所だ、茨城圏域は。

追記:あるいは妥協策としてできる限り屋上や壁面緑化によって熱の溜まり具合をゆるめる、ってのもあるが、それにも限界があるのであり、想定できる限り風通しをよくしてもらうとかは必要条件。まちの暑さはよい結果をつくらない。

市政の基本

かねを稼ぐのが悪なのではなく、稼ぎ方が問題。

立派な俳句で億万長者になった人は、パチンコ大王にくらべりゃそりゃ立派だろうし、天文学解説書で印税くらしの大学者にくらべれば薄っぺらい芸能人の贅沢はとるにたらない。そういうことだろう。

 結局、富裕とは「うらみわけ」なのだ。ほかより能力のすぐれた人へお礼を一杯あげて、「あいつ金持ちなんだぜ」と言ってうさをはらす。だからこういう社会では暴力沙汰は起きにくいだろう。貧乏人が喧嘩するものだから。

このよに共通貨幣経済がおこってしまってから、それを土台からいなめないかぎり人々はこのルール内でふるまうしかない。だから、市場を統治するルールの制定こそ、市政のかなめなのだろう。ろくでなしの商いをゆるす市とゆるさない市では、長い目でみればその市でそだつ者の品格を多いに違えてく。

 こういうわけで、国家資格にすら到底あたいしないインチキ施術でしかない東洋風の整体稼業なぞ、決してゆるすべきではない。もしそれをしなけりゃならないなら、きちっと医師国家資格のもとでやればいい。これは真理だ。市政はここをきちっと取り締まってもらわないと。

2010年11月6日

最低の整体いちば

ついに整体やがでかい看板まで出しはじめた。マルトの前。ろくでもない。

市は、整体やを虱潰しにまずつぶすべきだ。自分のしってる限りで3件ふえている。それはおどろくべきスピードの増殖だ。この短期間で目立つところで3件、裏にはこの倍あるとかんがえれば、あと数年、たとえば3年で6^3=36×6=216件以上はまた増える。こんなにふえないとおもうかもしれないが理論的にはそうなってもおかしくないペース。

保健所と、市の都市計画課、および民生員による隅々までの調査でそれらの営業状態をすべてもれなく把握せねばならない。そして一つずつ条例規則違反としてつぶしていくのだ。さもなくばここもあっというまに奴らに汚染されるに違いない。

 たかはぎでも早速被疑かけられたみたいだが、きたいば圏でもかならずこれに類比できる事件がつぎつぎ起こるにちがいない。整体と銘打ってやってるのはワンダーグーやコンビニや本屋やネットのろくでもないサイト級の最低最悪の循環への漸近である。それがうそだとおもうなら、抗議派系の欧米のいなかに行ってこんな店が一見もないのをみてこい。まったく救えない倭人。どこまでも底抜けに堕落しようとする。黄門様じゃないが、絶えず徹底した成敗がいるのだ。控えおろう倭人ども!

光ケーブル問題の訴追

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010102200822&rel=y&g=soc
から引用

��~~
高速通信、利用率が低迷=総務省に改善求める-検査院

 都市部と過疎地などの地域間デジタルディバイド(情報格差)解消のため、インターネットなどのブロードバンド回線を国の補助で整備する高速大容量通信設備事業で、住民の加入が進まず、利用率が低迷していることが22日、会計検査院の調査で分かった。事業には2007年度までの6年間に補助金約26億円が投入されており、検査院は総務省に利用率向上を図るよう改善を求めた。
 検査院が13道県で整備された135事業で利用状況を調べたところ、利用率の平均は17%で、全国平均でも49%だった。(2010/10/22-19:14)
��~~

↑ほらね。あれだけ注意しといたのに。市の行政幹部は、というか市長は収支勘定と言うものがないのだろうか? 本当に本当に困る。こっちは110万稼ぐのにも必死でやらねばならないのに、損失をますばかりの過剰設備に勝手に大金(一億超)をつかってしまうつもりなのだから、いますぐにでも反省したら計画を変更し最大限に縮減してもらいたい。だれでも潰れる市にいつまでもつきあうつもりはない。もしトップが注意をきけないほど愚劣すぎるなら、次は罷免しか手はない。
 それに、いくら光ケーブルとはいえ、次は量子コンピューター用の別の回線(真空回線状のものだろう)が発明される。もう実現まであと一歩の所まで工学的にはきてるのだから、僻地ケーブル維持費で市の財政を遠い将来まで圧迫するのは目に見えている。話にならない行政! かもめの話題にすらあがらない。自分以外。

はっきりいって、関本まで通してほしかっただけなんだろう。まったく救えない市長。浅ましい利己心のために自分の住んでる市の財政を陥没させる気だろうか。一億超あればどれだけ立派な「市民パソコン」を図書館に設けられたかわからない。隣のいわきの立派な図書館をみてこいと言いたい。行政人に知恵がないとこの市の財投みたいなみじめな末路をつっぱしる。悪例退散!

2010年11月5日

市内での需給

わざわざ教えてあげるのもどうかともおもうけど、ヤマダ電機のやつが本をうりだしている、にも関わらずあの内容では売れるはずない。街の本屋ともワンダーぐーとも競合するから。

ワンダーぐーはエンタメってか娯楽系にかたよった商品展開を得意としてるらしいので、たとえば都市部にあるジュンク堂みたいな専門書は置けないし、街の本屋は街の本屋で専門書だけ置くと一般客が入らなくなるだろうから経営が傾くかもしれず容易に冒険しがたい。
 つまりは、ヤマダ電機はどこでもこのセット小売りの方式でやってるみたいだが、このきたいば圏なら専門書、特に学術書を置くことだ。そうすればほかとも競合しない上、重宝がられる。

きたいば人は意外と、というか当然というか高文化の才能がある。だから一旦そういう文化が目に入れば必ず適応する。ヤマダ電機でなくとも誰かが学習参考書以上の学術系専門書を売ればあっという間に市内にとりこまれるだろう。

図書館でも大冊歴史書とかが平気でリサイクルされてるのをみれば、水戸学の余波はこの地域へも「勉強好きの文化」をいくらか及ぼしていると思われる。実際、漫画は衰退産業なので近く滅びるにちがいない。
自分がみていたあれだけあったゲームセンター類も消えていったので、あんなくだらん低文化が流行の波できえうせない可能性はまったくない。ただでさえ少子化なのだから、大人が読む重い本が実は需要面から最も生き残り易いのだ。金もオジオバがもちまくってるしひまをもてあましてるのだから。

恥広報への桜田門外ノ変論

けさのテレビで県の広報がくだらないハッスルぶりをみせつけてたが、情けないうえ様にならないのでむしろ浪士が襲撃しろってレベルだった。

まえもかいたが、ジャパンやヤポンなぞ星中の好奇の的なのだからそん中でめだたないから気にする方がおかしい。めだたない方がずっといい。魅力度が低いとか福井人調査員に言われても褒められてると思え。こんな目立つ国民の中でさらに目立つのなど恥だ。

 落ち着いた魅力というものも当然ある。だからくだらん宣伝広報なぞ潰すがいい。県に実力があればなんの問題もなく、無知な国民の方がいずれ馬鹿さを恥じることになるのだ。

俳句の褒め方

あときづいたけど、俳句大賞とかって順位つけるのはどうかとおもう。芸術は順位づけできない分野だからだ。好み、つまり趣味しかない。趣味に順位づけるのこそ悪趣味だ。

なんらかの賞のなまえ、雨情賞だとか花園賞だとか、そういう形式のほうが褒めるにしてもいい。偏差値教育じゃないのだし、じっさい選からもれたもののなかのほうが立派なのがある確率は極めて高い。芸術をペーパーテストと勘違いしても、させてもいけない。いまの市の方針は悪であり、ほんとうの才能の芽を摘んでしまう。いい句ですね、と各自の趣味でいえばいいにすぎず、市の職員やら評議員あたりの趣味が最高だって保証はない。かもめにしてみればどれも似たり寄ったりなのだから。

かもめならただ秋空が俳句なり

高等教育の再参加制度

なぜ暴走がクールとか勘違いしちゃうかっていうと、無知なだけなのは明らかだ。かれらは本当にあわれむべき無知なのである。家庭カンキョウもそうだろうし、社会カンキョウも。かわいそうといえばその通り。

たとえばきたいば人は、放送大学が地上波で受信できない。北関東まで届けてくれてないからだ。もし水戸あたりが中継してくれればみんな大学レベルの基礎教養は実質無料でつけられるのに、無知なあまりそれがない。かわいそうだ。南関東までは届いているのだが。

 で、思うにかれらがなぜ暴走なんていう犯罪でしかない行為にのがれるかっていうと、「再教育」に参加できる体制がこの社会には欠けてるのも大きい。いちどおちこぼすと、二度と参加できにくいみたいな村八分的慣習が教育システムにのこってるっぽい。

けどかれらもいつまでも子供じゃないので、いつかはじぶんが無知なことを恥じる日がくる。そのとき、地域主体で温かくかれらが自己を再教育できるカンキョウをつくっておくべき。放送大学の受信設備を図書館に入れるのもその一つだと思う。いったい。あほ市長がじぶんちまで光ケーブルとおしたいばっかりに市民をだまくらかして一人ずつ110万円ぶんどって、こんな当然の義務すら果たさない市政がまつりなどやっているばあいだろうか? 笑えるどころか憐れむべきである。まこと救えない。勉強しろ。勉強に勉強を重ねれば道が開ける。というか、もはや人類は勉強するしか道がないのである。

で、高校もやっぱりいろんな年限の人がはいれるようにしとくべきなきがする。この意味で、市の教育長は高校を社会人入学もできるようにととのえとくほうがいい。ヤンキーはかわいそうなのであり、それはオタクよりもっとかわいそうなくらいだ。なにもわからず社会に子連れででていっても派遣あつかいでみじめな気分でパチンコばかり。これで娘を虐待とか。なかごうのあの新興郊外店のあたりにはそういう生活形態をかなりかんたんにさせてしまう誘因があるのだ。なにもかもあるわりに高文化のきっかけが欠けてるのだから。小学いちにち図書館員とかみてても、磯原あたりの小学生とはとても民度がちがう。これは大津地区(そっから山奥の関本系ふくむ)もだいたいは似てる。
 だからこの市の中心地区はどうしても磯原(華川ふくむ)圏になるだろうから、そこでできるだけ高い文化のきっかけをあたえるのが必要。磯原郷英もやっぱり市民といっしょに学ぶ、という姿勢でとしょかんの自習設備とかで連携して発展すべきだとおもう。ちなみにカモメ的にいえば屋上だけは行きたい。自殺する者などどこでも自殺するのだから、息抜きのが重要だと思う。これは水戸学の風土が「一張一弛」だったことからもあきらかに。つまりは、勉強する場所と併設して、息抜きできる場所が重要。

なぜわかい市民がスポーツ設備をつかわず公道で暴走するかもあきらか。バカ市はいますぐそこを解放しろ。なにがなんでも。

↑これかいてからおもったが、私立はどうしても選良向けになってしまう。塾にいくのは成績のいいの、となりがちなのはそれがかなり学費かかるから。悪循環って意味で低所得→低学力→パチンコ→暴走族→低所得→…のループになってしまう。だからこのループにいやけがさせば自分からぬけだせるしくみを社会カンキョウがあたえておくことが重要。低所得→中くらいの学力→スポーツ→民生員→中所得→中の上くらいの学力→…ってくらいのめぐりなら許せる。だからこそこの「中くらいの学力」をあたえなおせる場所が、できるかぎり安価にひろく市の中心圏であたえられるをえる。これはやっぱり放送大学とかの設備がいちばんいいと思う。としょかんそのものはあれでもなおざりにはできない蔵書だ。
 また、都市計画学でいうと施設ってのは人口一様分布のばあい 1/(√人口) のわりあいで設けないと効果がない。なんでかって面積当たり移動距離は二乗でふえるのに施設へはその間の主観点からしか到達できないから。
たとえば下の図で あ から他のふたつの丸まで行こうとすると、距離は二倍かかる。なぜなら往復するから。



で、人口が二倍になり い の人があらわれたとすると、また移動距離は二倍ふえるのに人口は一人しかふえてない。


こういうわけで、人口あたり二乗の割合で施設をもうけないと満足な都市にはならない。だから二乗のわりあいで人口は、自然にはあつまってくる傾向がある。なぜ市ができあがるかといえばこういうわけ。
 で、いま図書館のあるあたりへ施設集積させたほうが、ばらばらに分館をつくるより二乗だけ効果が高い。ぎゃくにいうと、もし中心地域より遠くへ施設をいくらつくっても、たとえばその距離を半分にしたければ四倍の施設がいる。こんな風に。


よって、じつは公共施設というのはこういう風に作るのが合理的。


そうすれば人口が二乗比でふえても、施設はその√分の1のわりあいですむわけだ。つまりは、磯原のあの図書館あたりへ学習設備はあつめるべきなのだ。そうすれば市内のひとがより便利に幸せに勉強できる。

2010年11月4日

姉妹市策

にたもの同士は惹かれあう、って一般則をきたいばライフにあてはめれば、多分つぎに姉妹都市になるべは北イングランドにあるnorthumberland(ノースアンバーランド、北土國とでも訳せる)って所だ。行ったことさえないが、直感でわかる。

なんでかって、きたいばが置かれた立場にそっくり。

 アングロ系と土着のケルトの血が、まるで関東と東北みたくぎりぎりまざりあってるかないかの島国で最先進国首都寄り、って意味ではまさにぴったし。だから行けばわかるとおもうけど、自然景観も都市圏みたく荒らされてないので風光明媚で人間も美的感受性がすぐれてるところがあり、善悪でいえば気持ちは最悪でないと思う。賢いかは微妙だろうけど。
特に一見さんには優しいはず。きたいばもそうだから。但し、土着していく人にはとことん厳しい。
これは辺境の特徴ではないだろうか。通り抜けたり通りすがる人は多いからいちいち相手にしないが、一緒にくらすとなると利害調整が入ってくる。しかも文化がまざりあう地点だから、地形の要所らしさのごとく心象がごく複雑である。

全て遠目の推測だから、観光偵察やしないと詳しくはわからないけど。

問題あったらやめればいいけど、多分とてもたちばがにてるからなかよくなれるはず。なんちゃらツーリズムとかって横文字観光させたがってる今、まさに手を取り合うべき所だ。向こうも似た名所をもってる。だから環境荒らしてくる観光客対策もまなびあえる骨があると思う。
北限だから一見すると冷たい人らかもしれないが、それはここも同じだから和むだろう。海辺だし、かもめ仲間もいるかもしれね。

2010年11月2日

ヤンキーの棄民政策

いまさっき磯原辺をかなり旧式のヤンキー(大体、昭和50年頃の感じの)がうるさくラッパ吹きながら走りぬけていった。なるほど、お笑いとしてはましな方だ。背丈縮んだ黄色い猿の癖に昭和シミュレーショニズムを西海外の皮肉で示せるわけだから。

 で、自分として確信しているが、ヤンキーは殺処分し、或いはペアでふえる生き物なのだから雌も含めなんらかの殺虫剤で駆除せねばならない。新撰組的な組織が即座に、生化学系兵器で追走し捕縛や現行犯退治をできる市政がいる。百足とよくにている。必ず雌とペアで行動するのが生態の特徴であり、害虫で、人を刺す。人類とは似ても似つかない。
 天狗党の一見から言ってもヤンキーを普段から鎮圧し、その勢力を削いでおくのが必要だ。放置しておけば、もともと知能障害の一種なのだから、有事にはさらなる悪さを働くばかりだ。親ごと血を絶っておくしかない。だからあれらが未成年だった場合、条令でも何ででも親を監督責任者としてやはり殺処分してしまうしかない。
平和時に徹底的対策をしておかねば有事には、茨城圏は幕末と同じ目にあう筈だ。

ヤンキーとなづけられ蔑視されることくらいは理解できるのだろうから、甘えずにペアで米西海岸以東へ移民というか棄民すればいいのだ。射殺される危険性がない、と思うからか昭和風ラッパを吹いている。

2010年10月25日

いばらきの道

県が周りから気に入られるのを無意識にめあてにしてる、っぽいのがいいことかわるいことかとわれるべきだ。無条件に好かれた方が、このこすいよのなかで賢いことなのか?

もし本気でいばらき域を好かれさせたいなら、いわきじゃないけど、できたら県名ごとしたしみやすいものへかえてしまうことだ。いかにも武権の威容をほこるっぽい名称をじぶんから掲げつつ、戦後日本人から無条件に好かれようとするほうがおかしい。

 まえもかいたが、「控えおろう効果」をじぶんから追い求めてくのがより賢いのではないか? たとえば、茨城らしさと対をなす一つの地域に京都がある。京都は一見するとまわりから好かれてるかもしれない。けど実質は、彼らがそこからどの都道府県も睥睨しているところもないのではない。東京なんか伝統からいえば当然みくだしてるといえよう。それは控えおろう効果ともまた別の類型だが、「おいでやす効果」となづけてもいい。
つまり一見すれば感じのいい場所で、まわりからもブランド効果の正の側面もおぼえられるが、内容をさぐればどの地域も心から馬鹿にしている。ってのがいいすぎなら、裏ではてのひらを返している。これも真偽はとわず一つの大げさな事例だけど、はたしていばらき域のめざすべき地域さだろうか?

 やはり徳川の総元締めをひきうけた運命から言っても、この地域は控えおろう効果の方を原則としておいもとめていくべきだと思う。それは内心はどうであれ、表面上は権威の高みを誇示する所にある。へたに好かれようとしない方がいい。そうでなく、『地味な実力』をただ冷徹に追い求めて行ってればいい。それは昔から都心のある江戸東京の文脈と、御三家の核心が置かれた水戸茨城の文脈にたくされた使命の違いでもある。
筑波の科学力にせよ、日立の技術力にせよ、きたいばの芸術度にせよ、みずからの地政や県内のたちばが到れる現実面での最高度の実績を着々とあげていくことだ。県では広報が人気取りブログとかやってるっぽいが、むしろ逆だ。きらいたけりゃきらえ、って感じでおのれの道をひたすら追い求めていればいいだけである。当面の人気などきにしてはいけない。なんでもないうわさ一つでいつなんどきいくらでも変動するものなのだから。
お愛想はおいでやすの地域の方が得意分野なのだから、さいきんいばしんからきこえるあんなどうでもいいお座敷稼業など滅びるなら滅びよ、ってことで山陰と京阪にまかせきっときゃいいのだ。どうせそこらには腐るほどある。わざわざ武権のほまれたかき名門がそんなのに気を払うな。まじで。

 評判をきにするな。これが真理だと思う。実力をきにせよ。実力が劣っていなければ、そればかりかもし大幅に勝っているなら、なにもきにすることはない。必ず最後には評価が着いてくる。

2010年10月22日

北茨城文化人奨学金制度

 市内経済を巧くたちゆかせるに、『文化人奨学金』制度を設けるといい。これは市内在住で、市民の名誉と文化の発展へ寄与した人物かそれが十分期待できる人材をえりぬき、その年齢をとわずに一定額以上の奨学金を与える。

なぜこれが有効かいえば、ろくでもない使い方よりもろくでもある(他の模範になる)市民の共有していける文化財産への投資が、そういう層には期待できるからだ。いわゆるごみ捨て型の再分配とはそこが逆だ。

 普通、奨学金はまだ業績のない人物へ与える。けどそれはむしろ大学がある地域で有効だろう。この市にはまだ大学がない。奨学金を与える層は、青年期には大部分が外の市やら都市やらへ流れでていく。だから消費性向が回復するのは、彼らが地元へもどってきてからだ。

医学生へ限定した奨学金、はつねに市内から支出してもまったく損はないだろう。市内での医療従事を条件とするとしても。しかし、それだけでは消費性向をのぞましい景気感まで回復する効果は多分ない。千人単位ならわからないが数人ではそういう流れにはならない。
 だから毎年なり毎月なり十名とかそういう単位で北茨城文化人奨学金なる名目で、市税から一定額、たとえばひとりあたま数万から百万程度(可能なら消費期限つきじもと商品券のように市内での有効需要喚起を前提として)を市内の有用な人材へ再分配する。彼らがもし市内在住なら、ほかの地域でよりも市内での消費が基本になることから、或いは周辺地域であっても彼らの高い趣味に応じた消費材が売れていくことになるだろう。
そしてこういう大きな流れは「北茨城市の人は太っ腹で趣味がいい」といった評判になり、いずれはこの市内に品格のある、しかもみずから名誉を得るほど必要な財産と才能に恵まれた教養人材をひきつけてその持つ発展に貢献するだろう。

ここで文化人というのにはおもには芸術家かもしれないが、ほかにも学問上の業績(たとえば大津にある民俗学会で方言辞典を自費出版した人達など)、農林水産業上の発展や伝統の保存にあきらかに尽力した者、青少年でも賞や優勝にあたいする市の栄誉をます業績を挙げた者をさしている。

個人的におもうのは茨城県か水戸には、おなじく伝統ある「学問人奨学金」を、日立には「技術者奨学金」…筑波にはもっと限定して研究者奨学金を、鹿島なら競技人奨学金を、笠間なら宗教人奨学金…といった風に地域の特徴を強化する方向へ積極的に債権を行使するのが、現状のつまった経済状態のもとでは行政の徳だ。

2010年10月19日

再分配のほこさき

市内で下水道工事や路面舗装が進んでるみたいだが、思うに、もっと文化的な方面にも大胆に公共投資をはかってしまって全然いいと思う。ああいうのも一利あって不況時にはやらないよりはやった方がいいのだが、問題はその市債なり市税なりの再分配先が、土木作業員へ入って行くということだ。で、当然だがパチンコ屋だけが繁栄して終わる。

 自分のかんがえるのはできるだけ知識人・文化人といった層へ富の再分配が進む市財政の築き上げだ。要はむかしでいう雨情みたいのが貧窮するどころか、市内では多いに繁栄できる場所づくりが有用。

 で、それには文化方面への公共投資がいる。それは俳句あたりでも十分できる。俳句集をつくるのに市内から撰者を募りかれらの中へ再分配するなり、最近ははじまってるみたいだが講演するいば大なりいばキリなりの先生へもこの再分配をはかる。
あるいは身近で言って、市内の公共学校で市内の塾の講師をまねいて親子公開講演なり意見交換会なりをさせる。さらにいえば発明なり美術なりの展覧会でそういうすぐれた技をもつ人へ奨励金を与えるのでもいい。農林水産で最高の模範を一定額の助成で報奨するのでもいい。
 こうしていけば、市内では土木作業員の他の文化階層でも栄えていける土壌ができるだろう。かもめなり何なりと。で、飲み屋の店員からは深夜営業税の累進化が有効だ。

あとおもうのだが、パチンコへはもっと重い課税があってしかるべきだ。乱立と言ってもいい。駅前に一個あるとかならまだゆるせるが、いまの状態はひどい。特別な「パチンコ規制税」の導入が徳。

2010年10月17日

落書き募集

落書き文化、というものがある。バンクシーというグラフィティアーティストがその代表格なのだけど。

で、市内にもときどき、落書きがあって、それを上塗りで消してる。あれはあれでみっともない。
現状でいうと常磐線のマルト横の高架下、にある。ああいうのはむしろ、市で指定して、そこへ案をつのって代表者に描かせればどうか? つまり落書き募集。

 画題は自由でもいいし、主題だけ指定するのでもいい。選ばれた者へはそこへ描く許可を与える。こうすれば一々けすこともないし、いたちごっこはおさまるだろう。指定した部分を、すこしずつひろげていけばいずれは町そのものが綺麗に装飾されるだろう。

いまでも町の路面にはいい図柄がタイルうめこみとかで描かれているけど、壁もそういう風にすればいいわけで、それには若者のアイデアを活かすべきだ。

謎の整体看板

 最近、まちというか市内のあちこちに「整体」という看板がぽつぽつと見える。エステも同じ。

で、結論からいうとあれは届け出制にしたほうがいい。

 多分無許可営業できるからいくつも散発してきたんだとおもうが、あのまま放置しとくと将来は不潔な方面へ流れないとはいえない。保健所がいつでも立ち入り検査できる状態へ市内を治めておくには、必ず営業許可届けを義務づけること。

「整体」という名詞? 句、自体がいみわからん。かもめは飛んで死んで行く。人間は生きていると体が歪むのか? どこからでてきた発想というか、文化なのか? おもうに中国医学級に怪しい。科学的でなさすぎる感じがするし、近代化したまちの世界とはおもえない。

2010年10月12日

学校持論

自分の個人的な意見にきこえるかもだが、実は学生時代で最も大事なのは友情を育て上げることではないだろうか。

自分の知るかぎり、学校でしか真の友情というものは育まれない。
学校の原義はschoolで、この英語はスコレーなるギリシア語からきており、いま有る学問の祖だろうアリストテレスがいうことに、ひまのある階級でしか智恵を好む、つまり何事かを研究するという態度は出てこない。
学校はこのギリシアの学問の場をまねた制度だ。特に近代化してからは西洋風がつよくなったのでなおさら。

朋遠方より来たるありまた喜ばしからずや云々の本当の友情も、同じまなびやでまなんだ友達との間では、自分の知るかぎりでは最もつよい。それはご近所つながりより強いほど。もしかすると最も強い友情は戦友なのかもしれないが。
その意味では擬似戦争としてのスポーツ、特に部活動で親しんでいた友達はいつまでも互いを信頼しあえる様なところがある。文化部であれないことはないが。

 最近、なぜかはわからないけど、若者、しかもまだ未成年の子供へ恋愛をあおる様なテレビドラマやらマンガやら小説やら、とかくそういうサブカルが多い。あふれかえっていると言ってもいい。
けど、いま書いたみたいなほとんど一生つづく様な真実の友情の物語は知られていないというか、別に推奨もされてないみたいな感じがする。水戸黄門の助さん格さんくらいしか生き残ってないというかほぼ表面上は絶滅したんじゃないか。
時代的に少子化ゆえ早熟になれ、ということも、外敵や戦がなく平和すぎる世代も入ってそうなのかもしれないが、自分の時代をこえて見る目が正しいなら学生時代の恋愛なんてまったく価値のないものだ。
子供の判断力だからあてにならず、結局長続きもしなければ熱にあてられた様に意味がないのだ。それははっきりいえば失敗行動だ。

高校とかの時代の同級生と結婚しましたという場合とかも時にはあるのかもしれない。ヤンキーなんかはそういう世界に生きてるのだろうか。だが自分としては、そうならどこで友情を育む気だろうと思ってしまう。一般論ではないかもだが、大卒でも同様。
いちど社会へ入ってしまうと打算にまみれざるをえない。要は損得。はっきりいえば、男女関係含む一般社会(少なくとも資本経済の環境)は打算でできていると言っていいだろう。大学生活が利害打算ならそれは学問する場所として機能してない、悲惨で荒廃した大学だったということにすぎない。

『走れメロス』や『こころ』みたいな世界は、打算が入り込む余地がないからこそ意味をもっている。友情は打算を超越したものだ。
実際、学会に所属すれば尚更だが、教育機関での勉強はこの種の同じ志をもつ仲間と出会うことよりもはるかに重要なわけではない。もしそうなら通信教育の方が、わざわざ仲間と通う手間をとるより全ての面で合理的なはずだ。
無理強いして教えられたことより自分から興味をもってまなんだことの方がおぼえている場合も多い。最高の学府というのは、だから「同志を提供してくれる場所」となるだろう。

現状の恋愛煽り中心の高校生らの風紀をみてると、理性の十分そだたない若年層へ東京の出版社が戦後のゆるい未成年検閲から抜け出して売りまくる煽情的サブカルをばんばん吸収してる悪影響は、やはり明白にあると思う。どうせあの年齢でくっつこうと大半別れるのに。青春の浪費だ。韓流含め。
有性生物は放っておけばくっつこうとするものをわざわざ学校へ通わせてまでくっつかせる意味はない。少子化の原因は別にあり、要は新たな商品の発明がとどこおってるので経済状態が上向かないから新しい家庭が家計上で築けないだけの話。
素朴な話だけどよい教育、つまりたくみな進路を与えた方がその子孫は繁栄するのだ。もし少子化が起こるほど発明がでてこない固定化した社会で早熟にさせても、子供は以前の家庭状況より貧乏に暮らすしかなくなるから比べれば不幸だろう。

2010年10月11日

市の褒章、勲章制度

ある特定の目当てに叶う形質をいきのこらせる条件づけには、賞罰原理が最も有効だろう。要はすぐれた業績をあげれば誉めることだ。

だから先日かいた罰則規定の厳格さも下生えの最低限度をひきあげるには有効だが、上限へはできれば、市で「名誉勲章」みたいなものを積極的にあげて、周りの模範になる人物を目立たせるといい。

 市で俳句を募集するまではいいが、いまいちその褒章がめだたない。特に中学生なんか出そうと当選しないからひねくれて応募しないことにすらなっている。

だから市報にいいのを載せるとか、簡易な俳句集なりに選者をえりぬいてまとめさせるとか、最高の場合は報奨金や市内で優遇される各種条件を与えるといい。市内循環バス乗り放題パス贈呈とか、美術館のそういうのとか、山海館なりなんなりの宿泊付きお食事券とか。
で、俳句にかぎらず、基本はどうしても市の立場としては芸術関係にかたよりがちかもしれないが、とかく市の誉れとなる学術作品なり功績高い仕事なりを成し遂げた人物を注意深く鑑査させ*1、でその人物へちゃんとした通達なり役員の派遣なりで周知される様、表彰する。

この過程(つまり賞罰の原理)をくりかえせば、欠点とおぼわしき特徴を克服し、長所をのばしていくことも今より容易にできることだろう。放置しておくと雑草しか生えない庭の様に。


��1
この役目には特別な「目利き」が必要だ。並の学芸員ではいけない。下手に三流へ頼めば逆効果すらありえる。無理かもしれないが最善の手でいえば水戸徳川家へ是非とお願いするという裏技はどうだろう。

2010年10月9日

かもめのひとりごと

地元人の自己評価にみられる類型として、「根はいいやつだ」というのがある。これは危険な指標だ。どんな極悪人でも根はいいやつとみなそうとすればみなせるわけだ。

 要は、‘市民に教養がない’ってのが決定的弱点と思う。そもそも教養にむかう才能がないわけではないと自分は信じてきたが、これは半分本当っぽい。特に、あのじもとの中学に入ってきた体育教師とかみてると、ああいう底抜けの頭では教育しても伸び幅が限られるのも理解できないことではない。ただ勉強しなければ生き残れない環境だけが重要なのだ。

学歴社会には矛盾がはなはだしいが、利点ゼロではないのはこの批評でわかるだろう。それは表面上は受験勉強などによって、そもそも勉強のできない血筋を淘汰していく様な体系なのだ。

 教養さえあれば、善悪の水準が上がる。啓発された人にとってはタバコのなげすてすら重大犯罪ということだ。だから根がよかろうがわるかろうが、教養こそが市民の評判をおしあげるのを理解せねばならない。
どうやって教養をつけるかいえば、強制的に市民へ試験を科すという方法もある。それは「市の条令」によって最低限度の善悪の水準を強制的に上げてしまうことでできそうだ。たとえば暴力を振るう人物は市法によって、たとえ家族の間でも学校内のものでも罰金と懲役に科す。ごみのぽいすてをしたら懲役2年とかを市の特別裁判所で科す、よく高校生女がきもーいとか叫んでるがそれも名誉毀損あつかいで懲役刑、保護監察つきで毎朝挨拶させるとかだ。

こういう連鎖が入ってくると多少なり教養がないと、つまり市法を理解できないと自動的に罰則を受けるので、全く勉強できないそういうどうしようもない人物がいきのこりづらくなると思う。根はいいやつだからとかほざくどうしようもないやくざなら相当みつかる市なのだから。くおーく

2010年10月7日

市役所員の怠慢の断罪

 なぜ運動場をこの下知きわまる老廃人の市では市民へ解放しない? あのつがい高校生が帰宅部でなにをするかといって、非行以外のなんでもありえないのに。なぜ鬱屈をスポーツで発散させたがらないのか? 単純に、生涯学習科だか生涯拷問科だかの役人が底抜けに馬鹿かつ愚劣なのは分かるが、それより深刻なのは注意してもわからないことだ。

市税でめしをくいつつ、市民奉仕をしないゴキブリ役人など赤穂浪士に殺されてもなにひとつ文句はいえない。

 運動場を解放せよ。いますぐ。あの非行高校生が放課後でも昼間の帰宅部活中でもなんでも好きにあそこで戯れられる様にするのだ。具体的には市民運動場の野球場、可能ならテニスコート、でサッカーラグビー場だ。
もし荒らされるとか馬鹿すぎる観点でほざくどうしようも救いようもない老廃物役人なら、お前ひとりの存在が市を荒らす元凶だと断言できる。
合わない道理に居直る老廃物のお前ひとりさえいなければあれだけの数の先のある若者が好きにリクリエーションで気晴らしできるのだ。市税で搾取する最低最悪南蛮虫のお前さえいなければ。

お前が受付しろ。そして休日返上でいままでの行政の公務員としての奉仕の怠慢を血でつぐなえ。これは市民としての最終警告だ。

定時制度の部分的復活

教育の任にある者の意図とはちがって、現実には高校単位制度はうまくいってない。早引けするのはみているとほぼ出来の悪いグループだからだ。

つまり、教育機関としては逆効果というか、出来の悪いグループをますます出来を悪くさせ出来る方は出来るだけ伸ばすしくみとなって機能してる。出来る方には最高だが、出来ない方にはたまったものではない。教育される機会がそれだけ減るから。

 この悪循環の側を改良するには、やはり学校のおちこぼしがちな部分に「定時制度」を再興させるべきじゃないだろうか。
真昼間からつがいで帰るみたいのを町中にほうりだす意図がわからない。それで校長なり教頭なり、まともな教育効果がえられると思ってるわけじゃあるまい。職務の怠慢だ。

中郷で子供をぶん殴った親は、定かじゃないがあの昼間っから派手なTシャツにみちばたで着替えてつがいで帰ってくグループの、以前の型の分派なのだろう。それは仕方ない末路にも見える。
 成績がかんばしくないことなど何でもない。つねに上には上がいる世界だ。全人類よりずっと賢い宇宙人もいるに違いない。重要なのは、すくなくとも「常識以上の知識」は学校の教科から得ることだ。そうすれば犯罪に手を染めるほどの悪さに陥る危険性をへらせる。将来、もう一度勉強したくなったときも再スタートでとる手間がなくなる。
法律は高等学校ではあまり教えないから現代社会科を除いてほぼ自学自習するしかないが、それでも独学で弁護士もいる訳だから道がないのではない。

 出来のいい方はあまり心配はいらない。これはおよそ間違いないだろう。グループになっても、かなり仲間内の風紀は高い方に保たれてる様にみえる。
道端へごみをすてるとかの初歩の悪徳もそっちのグループにはほとんどみられえないと思われ、部活へ熱心ぽいし気質も比較的いい。というか運動部に所属してる様なのは朝練してるかはしらんが、夜遅くまで鍛えられてるから悪習にそまってるひまもないか基本ありえないのかもわからない。運動部へは激務の練習を与えるほどいい。
文化部のひとらはめだたないからいるのかいないのかもわからない。もっと盛んにやれ。

あのおちこぼし帰宅部に軽音楽部みたいのへでも入らせて流行楽器でも弾かせれば少しはましになるかもわからぬ。しかし音楽の層は厚いから上達するかは不明だが、うるさいだけのバイクのマフラーに金かけてるよりはずっと文化的だ。
デコトラ運転手の親の指導なのかもわからないから、遺伝子へはなんともいえないが、親もラジオとかでそういう音楽なんかは聞いてるだろう。車やバイクの装飾は金だけかかるが見返りはほとんどない。狭い日本というのを真剣に考慮したらいい。中途半端な反抗ぶりは滑稽だ。
アメリカ西海岸の果てしない海岸線をグランジかけてハーレーダビットソン乗り回すサングラスのヤンキーと、この極東の東日本の小規模のこぢんまりした田舎町を公道二人乗りでブブブブブブとか音させて地元人に冷笑されるちっさい黄猿とではどちらがマヌケか。モチロンどちらもなのがかなしいところだが。

 あんま関係ないが、運動場にミクルとか落書きしてあっからやっぱりエドみたいなマンガオタクの層が隠れてかなりいるのかもしれない。そういうのは表面化してないが、こいつらも新手の不良債権なので注意がいる。いつの間にかコスプレなんちゃらほざきかねないし、ろくでもない漫画やアニメやゲームを成人後も買いあさって風紀を乱すからだ。
だからさっさと漫画を焼けと言ったのに。

きたいば新撰組

市警に「特別公募員」として新撰組的組織を設け、市内で暴走族を徹底してやっつけることにしたらどうだろう? 自分もそれに志願する気負いならある。

誠に平和な市なのに、あいつらがときたま、いつもそこら辺にいるヤンキー番いみたいに、むかでの様に二人乗りぶって汚い格好でやってくるとうるさくてうるさくて仕方ない。
中学生や高校生の段階からあいつらの予備軍みたいのは多くいるから、ある程度の報酬があればこういう仕事による持続的雇用の創出も十分ありえると思う。
自分の経験上、この地域では暴走族予備軍が絶えることはまずありえない。ヤンキー階層なら腐るほどいるし、仕事にあぶれる筈はないのだ。

 警備車で追跡し、マーキングし、現行犯で抑留し、警官にひきわたす役目。これくらいなら並以上の勇気があればいくらでもできるだろうし、実際自分もやりたい。
市政側で責任とりたくないなら、一種の協同組合というか市警協会の分派として配置すればいいと思う。商工会の中に青年隊みたいのがあるが、あれも使えるかも。

2010年10月6日

下水道敷設にともなう行政の義務

関東極北まであの南蛮虫(通称御器被り)が出る様になったとは、関東全域に出没してしまう様になったということ。

しかしあれらが害虫なのは疑いない。平気で人の食事へまでたかってくるのだ。共生できよう筈がない。どれほど激減させても足りぬ。

 で、下水道というのを整備中らしいが、これは実は各戸の処理槽をいらなくしてしまうというイミでは、あいつらの汚水にみちた亜熱帯環境を絶好の繁殖場として地下に埋設するので逆効果だろう。海や川は綺麗っぽくなるかもしれないが、南蛮虫のバッコをゆるしてしまうのでくらしごこちが劇的によくなるのではないし、多少わるくなるくらいだろう。

今後の土木の命題は、「合併処理槽(汚水も排水も各戸で処理する)」を義務づけた上で、さらにそれだけを公共下水道に流す許可をとることだ。これをしないと少しも居住環境はよくならない。むしろどんどんと南蛮風習に染まらせ、野蛮になる。戦後の技術もそれだけしか進んでこなかったし、都市計画への配慮も足りなかったのだ。この為の費用は、いわゆる建設投資なので市債で補ってもできるだけ全戸に合併処理槽設置の義務に応じて全額補助しなければならない。これが下水道普及に伴う行政の義務だ。

2010年10月5日

芸術指導のコツ

らしいどころかたしかに逆説だけど、「うまさを見なかったことにする」のが良い芸術作品や作家をつねにつくりだすコツと思う。かんたんにいうと、うまいかへたかではなく、筋がいいかどうか一般論で語ることが重要だ。

うまいかどうかは、勿論芸術であればそれが主題ともいえるが、実はこのたくみさはそれへ注目しない様にすることで最も伸ばされ易い。

 市報にのってたが、中郷中だかの女の美術教師があまり素晴らしいうまさでもない漫画の絵をかいた生徒をうまいじゃないの、と言ってほめたらしいが、これはよくない指導である。うまいかへたかは実はそれを見ない様にすることで最も伸びる。だから「いい絵ですね」とか「面白い絵ね」とかいう褒め方は正しく、巧拙を直接褒章してはいけない。
芸術作品には悪の要素があらわれることもよくある。また真偽をぼかす表現もある。こういう要素は、芸術にとっては少しも重要ではない。迷惑きわまる技とか、嘘っぱちの天才とかは現れてもむしろ無視されるべきだ。
だからたくみかどうかは事実上どうでもいいのだ。もっといえば、ろくでもない大作家よりはすばらしい日曜大工のほうがよっぽどいい芸術家であり市民の誉れなのだ。

 間接的にいえば、教養をつけさせることこそいい作品をつくりあげる必要条件で、このなかで最も器用な者がたまたま評価されると偉い芸術家に見える。だれでも俳句は詠めるかもしれないが、その素晴らしさには偏りがある。どこにも駅はあるだろうが、実に趣のある駅舎もだれでも忘れられる様な駅舎もある。つまりこれが表現をおしあげている教養というものだ。市民憲章を参照せよ。
重要なのは『よく勉強すること』、これでしかない。

2010年10月1日

副文化の取り除き

市の為に最もなることをもし今すぐ実行できるなら、ワンダーグーと本屋に行ってすべての漫画本を焼き払うことだ。
自分には断言できるが、あれらに何一つ、まことに何一つとしていい影響はない。完全に害毒しかない。しかもこの毒素は年々つよくなっていて、何れはそれに毒された世代が将来、あのエドの狂っている親と同じ生き物になってしまう。コミックマーケットという所があり、とても近づけないが、大の大人が気が狂った恰好であたまのおかしい演技だか発狂だかをして平気でいる。
 そう考えると一種の麻薬なのだ。

『副文化を子供に与えてはいけない』。子供はきわめて環境に影響されやすい生き物なのであっという間にその状況へ誤って適応してしまうからだ。副文化はつねに淘汰されていくつかの間の流行なので、それに関わろうと見返りはほとんどない上、前時代の流行は次の時代ではまったく有効でなくなるからそこへ最適化してしまうと逆に次の時代では「時代遅れ」になり不適応になりおちぶれる。

いまではヒッピーの恰好でざんばら髪をふりまわしながらギター片手に浮浪しても少しも貴ばれないが、昔はその種の副文化があちこちで摂取されていた時代があったのと同じだ。漫画には文学ほど長い歴史がないし、古典としても完成されていないので次の時代ではそんな流行があったことさえ忘れ去られる。その昔、紙芝居や百人一首があった。だが今の子供がポケモンのアニメとビーバー人形にかまけるのとそれは同じだったのだ。

 重要な層の子供は、既におさない頃から主文化に馴らされて育つ。だからその環境にありうべき大人の義務は、環境から副文化をとりのぞき、可能なだけ格式にかなった古典的主文化の教養の海をまわりにとりそろえておくことだ。勿論すべての過去が貴いのではないが、少しも信用のおけない副文化に染めさせるよりはその主文化内での選別の方がまだいい。

この間、というかおととい、水戸版のnhkで短歌高校生女がでてた。ああいう層は確実にいるし、そういう層こそ重要なのだ。この辺の、特にあの中郷上桜井の郊外型店舗で毒された地帯で生まれ育ったサブカル漬けの高校生女はこれとは品格がまったく違うのを環境の必然とみなさねばならない。市政の責任は絶大であり、都市計画や産業誘致の道を誤る市長が何人命で償ってもとりかえしのつかないほど重いのだ。

2010年9月25日

ストロー効果ならぬ文化毒見役の注意報

 たかはぎ・いわき・きたいば首長らのかんがえは浅はかだ。誰の発語かしらんがストロー効果とかほざいて、ジョウバンとトーカイドー線の接続でかねが吸い取られることを心配し、あらゆる悪業をかんがえだそうとしている。これはこの三つの市のサイキンやってる「商業主義行政」でだれのめにもあきらかだろう。誘致、誘致、で市民へは足蹴り。これは本当のこと。政治が腐った地域は悪が栄える。これが歴史の真理だ。

政治家のくせにかねもうけ? なら小売店でも開け。なにをかんがえている凡俗極悪の市政なのだろうか? まことにはなしにならない。かもめ界ではもっぱらの悪評である。

公園をつぶし、金網で囲い、田園を売らせ、かねをかきあつめる。そいで市民のまともな意見(光ケーブル事業でのNTT一人勝ち助成なぞより図書館へネット接続端末導入のが先だろとか、さっさと市民運動場開放しろとか)を無視。かわりにかねをかきあつめるための工場誘致。これがこれらのジョウバン三市のアホい意向なのである。なにをかんがえて行政府に入ったのだ?
そんなにかねがほしけりゃさっさと野に降りて商売をはじめろ。ふざけるな。これがかもめ界の尊攘派ではもっぱらの世論。世論てかカモメ論。
行政奉仕、市民への公僕として当然の義務を無視し、利己的に(つまりかね搾り中心に)ふるまう首長ども。これは寡頭政治の末期である。まことに話にならん。しかも清流とか海辺とかすぐ潰すし。すこしの繊細さもない。なにをかんがえて悪をふりまくのだ?

たかはぎ市の駅前の空き地、あれとかコンペでもなんでもいいから公園にしたらいいとおもうのだが。そういう公益にはすこしも思い至らない。すぐかねもうけ売店をよびよせ、そこから搾取するための凄まじくすきまのない江戸家屋にしてしまいたがる。くだらなすぎる。さすが黄色人種。

 東海道線接続の最大の問題は、関西の不純な文化素がこっちまで流れ来る危うさのほうにある。我々は水戸藩の高い道徳風紀に慣れすぎているので、特に土着系の首長はその「禍々しさ」をしらない。情報化でもなんでも、行政人にとって最大の命題はそれらの不純な文化素をできるかぎり事前に濾過する工夫であり、かねもうけの追及などではない。かねをもうけたけりゃ、何度も書くが、さっさと野におり好きに自分の商売をはじめればいい。だれもそうなればいくらもうけようと非難するまい。商売人は商法をまもる。だがその風紀をとりしまる行政人自身が権力をかさに商売をはじめてしまっては誰も公益には無関心になる、ってこと。こういうのを政商という。つまりまちは滅茶苦茶に荒れまくるということだ。西海圏に行けばだれでもこれは分かるだろう。

政経塾でなにをならったのだろうか? かねもうけの術など行政権威に必須ではない。
くりかえすが、『公益事業』こそ財政の目的であり、それはわたくし企業では必ずみおとされる‘かねにならない’‘もうからない’分野だからなのだ。その意味でこそ公僕という自重がなりたつ。
また民間事業は安定に欠けるのが一般なので、長期視野がないことが多いゆえに公平な市場を見守る名君は「基盤施設」への投資を優先してきた。これに反する行いを習性にしている首長は、よく越後屋とかとつるんでオヌシモワルヨノオな悪代官と代名詞化されてる連中にすぎない。どこの市とは言わないが!

すべきなのは、雨情の甥氏がかたってる様に利根川以北は「水戸の風紀」を堅持し、一切ほかの地域に譲らないことだ。具体的にはろくでもないギラギラした看板の群れ・くだらない女飲み屋および乱れた深夜営業(こういうものが五万とうちよせてくるのは予想できる。それは関西の影響をうけた北陸地帯から秋田まで飛び火したのだ)・人口過剰によるカンサイ弁の流行・異常な性行動の増大・或いはついでに汚い江戸文化の下流の悪影響、これらの入り込みを最低でも利根川まででせきとめることに協力せねばならない。
可能なら静岡から名古屋まで、最終的には西日本全体の文化素を大陸側へ押し返す必要がある。さもなくば我々がやつらのあしき公家文化の餌食になる。すでに名古屋から福岡までは完全にその近畿圏のみにくい影響に染まりきっているし、青森・秋田・山形・会津・新潟・・・と陸奥北陸諸県もほとんど似た状態。これを予想せずストロー効果とか金だけに注目して語り、自分が毒に口をつけたのに理解がおよばない首長どもの浅さよ! よく各地の実情をあつめねばならない。情報は持った側が有利になる。

もしきたいば野郎がどうしても金ってか行政のつかえる税収を激減させたくない(これすら動機が不純だが。重要なのは行政の知恵であって、金ではない。これは福井や金沢あたりの関西圏北陸地方を視察すれば理解できる。金があり余っているほどみっともない政はないのだ)ってなら、すべきことは前も書いたが行政奉仕の水準をまわりの自治体よりはるかにひきあげること。これは努力でもできる。
最低、愛想をわるくしすぎないとか、市民へ(何しろ市民が税収で養っている用心棒なのだから)下手に高圧的態度をとらないとかだ。普通で図書設備や公営運動場が豊かで公園・それに類した行政保持のかわらない自然が広く、綺麗にごみ拾われてるとかだ。
このかねがないとほざくなら、まず市の領域をひろげる努力がとられるべきなのだ。決してそこへむやみと商業をよびこむことではない。そうなると人口密度があがり、東海道線のまちとかわりなくなってくる。もしそういう地帯に住みたいならそっちへ移住するがいい。
徹底した自然破壊のひきかえに商業誘致と、自然は完全にのこっているかわりに広く豊かな土地財産とでは、一体どちらがいいか。これは地域に住んできた者なら誰でも理解できそうなものだ。かもめ界では海べがなくなったら暑いし困るともっぱらのうわさ。

ジョウバン三市での連携は微妙なはなしなのでいますぐどうできるってんでもない、という意見はあるが、経済的にあまりに衰退しすぎてドウシヨウモナイとなったら市の領域を広げるべきで、ヒタチ州に編入後、イワキとの領域連携に進むこと、でそれでも足りないとなれば(ということはないだろうが)ジョウバン州・ときわ州のごとき水戸以北から仙台以南までの一帯を自分らの共有経済圏にすればいい。
 自分の私的洞察では、西日本から東海道の文化よりは岩城・福島から仙台・宮城の文化の方が幾分ましだ。それは涼しい気候も手伝ってるだろうが、おそらく水戸徳川家の功徳や一種の威光がそこまで及んでいたのも皆無とはいえない。この一帯では真面目な性格の方が多い。女性もそれほど極端に女々しくない。伊達仙台藩ら奥羽越列藩同盟の最後は見事に南蛮の裏切り者どもへの制裁を目指したのはこの結果だ。だから日本でいえばこの一帯の文化が他より堅実なのは間違いないと思う。この事実をなおざりに、東海道からいまさらながらかねもうけしようとは・・・なんという低俗さ。だれの市とはいえないが・・・。
はたして黄門様に平謝りしたらどうだろうか。控えおろう蝦夷ども! と、かもめ界ではもっぱらの黄門ブーム。

2010年9月22日

市民教育の優先

いまの市長界隈は、カネが好きで好きでしょうがない如何にも黄色人種みたいな性格をしているみたいなのでそういう性格の者へはなんともいいがたいが、派遣労働者群をふやすための工場誘致ばっかりしていて(なら光ケーブルはそこだけに敷け)、少しも公益には感心がないか、もともとその為の洞察もないのかもしれない。これは性格なのでどうしようもないし、民間企業ならそれでいい。

工場からの税収が一番大きい。よって工場誘致しよう。これでわしはウハウハだもんね。これが全員協議会を非公開で牛耳った市長独裁の意味だとしたら笑ってしまう低級民俗だが笑えない。

 問題は、市民にふさわしい教養度と矛盾する非正規労働群(偽装請負などの悪質な手口含む集約的単純労働)のさそいこみはムイミだということ、また大金持ちの俗物の町と、質素だが高尚な町とではどちらが理想かすら分からない人格などお笑い芸人にしか見えないことだ。お笑い芸人だとしたら相当成功している。せっかく市長選までやってギカイひらいてんのにいつも観客一人なんだから。どれだけシュールな澄まし芸なのだろう。まあどうでもいいことだ。
カモメにはカモメライフがある。カモメログにはカモメログなりの見方があるのと、あのお笑いギカイは同じだろう。まあ現代劇すぎてだれも笑ってはないみたいだが、心底の冷笑だ。

もし中国移転を上回る利益があるなら、「品質の高い製品」の製造業に限るのは誰のめにも明らかだろう。だから工場用地の売却益と税収でウッハウッハとかほざきたい市長界隈は、先ず『市内の教育民度』を最優先させろって話なのだ。それ以外のいかなる方法であっても桁ちがいの中国の人件費に比べ、日本で工場誘致した結果の市民生活の末路と言って最近あちこちで復讐におよんでるみたいなまじで蟹工船式の使い捨て奴隷化にされるだけだ。
で、文武不岐と水戸学の理念をひいてるくらいなのだから、さっさと放課後にクソ帰宅部どもが息抜きで仲間同士の運動できるくらいのサッカーラグビー場開放くらいは必ずせよ。そもそもスポーツ選手、特にフットボールやらラグビーとかいったはげしい競戯なぞするのは低級きわまる労働階級だ、相手にならん、先ずはアリストテレス的散歩程度と市街観照による高尚なる哲学議論だという意志があるならある程度尊重しようではないか。が、現実に僕がみてるとそれ以下というか、発情発狂じみたミニスカチャラ高生があちこちでだきつきあって交尾前途まがいの自称青春模様にはげんでいるサル山ごっこが平日市街地ではあまねく散見できる。なにが労働階級みくだし市政なのだろうか? 現実には底辺派遣をいまさらながら量産し、その税収をばくばく喰らうつもりの俗物独裁なのではないか。悪党め!

 光ケーブルで超高速情報化など後手でいい。世界一の図書館設備と蔵書、最高の運動施設とその全面的開放をもうけ、教育委員へは地上最高の人物を優遇に優遇をかさねて土着してもらい、それからやっとこさ工場誘致に進むなら一市民としてよしや納得しようではないか。かねもうけ市長など誰がのぞんだんだ? これは。

かーもめかもめ

2010年9月21日

教育の均衡

いまの国内での教育は、公教育と塾教育の競い合いがあればいまより熱心で、ひらけたものになるだろう。なぜ義務教育やその延長としての高校大学がなかば壊れているかといえば、制度上、塾の側に単位がみとめられてないことがあると思う。

 要するに、塾だけ行ってりゃ卒業同等の資格があたえられる制度をつくりあげられれば、あのクソ学校での陰湿きわまる虐めの数々にわざわざ関わり続ける意味などまったくない。教師すら暴力で生徒を虐める地域なことをよく考えたほうが良い。

だがここいらのイバ人は、とくに教育委員会所属ともなれば石頭のかたまりなので、こんな前衛制度みたいにみえるものを自分から実現するなぞは星が降ってもできない。必ず「重役」みたいのが恐喝に近いおどしをかけて命令する以外では動かない。で、当然だが企業は楽な人事策な学歴サベツにのっかてりゃいいとおもってるから、その中の人らはまったく改革などのぞまない。
だからできることは、できるかぎり公教育のボイコットをつづけまくることだ。そして事実上、大多数が虐待しかできない腐りきっている公教育なぞいくまいと悟ったとき、塾や家庭教育・家庭教師のやくわりが浮上してくる。この時まではどれほどきつくとも徹底して公教育を責めて責めてせめまくるしかない。モンスター親など足りぬ。煉獄の閻魔親となって教育委員会員どもを責めて責めてせめまくるべきだ。裁判は絶対避けてはいけない。また、どれほど苦しくとも、どれほど孤立しようが絶対に学校を批判して批判して批判しまくる。これしかない。

僕は北欧の中学生が私服で、円卓へばらばらにすわって院卒の先生におそわってるのを見た。それにくらべればこの極東の奇形島の島民どもは家畜だ。いかにジャップがバカかわからないから当然なのだが。まさに養鶏場。まあ、それにも一理あるとかいう意見は分からなくもない。企業奴隷を量産したいクニならそれが合理的だ、って話だろう。だが当然だが、二度と高度成長期のごとき機械労働者の需要はかえってこない。もしそれがかえってくれば中国が沈んだときであり、少なくとも100年はありえない。が教育委員長は当然その老廃世代だ。これでは批判しまくる以外に、奴隷教育の方針を改善する道はない。
 ただ、岩城の前例みてると、ジャップは倭すぎて上から言われたとおもったらてのひらをかえした様にへこへこ従う生き物なので、真逆にかじをきりすぎて一切放任化させ最低限度のマナーや倫理すら公教育分野で放棄してしまったりかならずする。これも予想範囲。ということで、塾と張ってくる頃になったら今度は塾批判・学校擁護に方針をきりかえる必要がある。重要なのは公教育のおもすぎる比重を移し、ほかの教育組織へも流れをもたせることだ。

いわゆる虐め地獄的状況(それに伴う自殺や発狂事件)は、どんづまりというか、公教育しか逃げ場がないうえそこへ過大な負担をおわせようとする地域の教育体制のおろかさがうみだす。不況時点ではこういう事件が隠蔽されて膨大な数起こっているが、ほんのいちぶ表面化したものはマスコミに盗まれてさんざんたたき台になる。これらはどちらも、勝ちすぎて腐っている公教育へ行かせまくる親の無知が生み出した惨めさなのだ。もし生徒がこなければ営業がなりたたず、教育委員会に雇われ教師もろとも廃校になるのだから。


 具体的にいえば、子供は「学校へは行かない。但し、塾へは行く。勉強はしたいから」という主張をどれほど親から脅されようが、ケータイでもなんでもいつでもすぐに県警へ連絡する手段を整えて徹底して言い張りまくる。これだ。

keisoumu2@pref.ibaraki.lg.jp
↑メールではここへ相談できる。参考につかってほしい。

フダンから備えておくには↓

警察安全総合相談センター
月曜日~金曜日8時30分~17時15分
��土日および祝日は留守番電話対応)
029-301-9110

で、親が暴力してきたら迷わず 110 番にかけること。「発狂した人が家にいます」、と言うこと。これで親は連れ去られる。

 で、改善されるとしたら、市の暴力教師をクビにし、クラスは塾の様に能力別で分けられ、以前よりはるかに平穏な学校ができあがる筈。もしそうならなければ教育委員会が潰れるまで批判して批判して批判しまくることだ。どれほど裁判をやってもいい。虐待しているのは常に権力を持った側だからだ。なぜならもし生徒が本当にわるいならただ退学にすれば済む話なのだから。

2010年9月18日

市債問題の啓蒙

いまの市はがめつい。これは企業誘致へかける情熱、市内の様々な場所でみかける「万引き問答無用」の文句でわかる。だがジーザスが言う様、金持ちが慈善者より救われる保証はない。もしいますぐ死にそうな貧者がパンを一つとっても、この市ではまちがいなく警察へ突き出すに違いない。なんという無宗教の悪人市!

市長自身がそういう性格なら仕方ないが(何しろそれを多数決選挙したのだ。仕方なさすら合理的でないという理屈が通る)、大体政治家が金儲けを考え始めたら終りで、その民は全員が損得勘定だけで動き一切の慈悲心を失い、あらゆる弱者を虐げながら山ほどカネを儲けまくる。
 結局国政に於ける財政破綻うんぬんってのは「建設国債越えの程度」が尋常じゃなくなりかねないデフレ下での浪費(つまり某マンガ首相の公家的浪費の誇示)へ頭にきた知識層があおって、マスコミの馬鹿に攻撃させたのだ。建設国債ってのは国内消化の借り物ならいずれは国民にもどってくるって話で、複式簿記でいう投資=消費の関係を利用してるわけで問題は特にない。やばいのは日銀総裁が呆け老人すぎてこの金融学の初歩すら理解できず、ばしばし一度に貨幣を刷っちゃうときだろう。
つまり薄めた水を生理食塩水と言って熱中症に与えても逆に渇きまくって死ぬかもしれない。国内でデフレを緩和するのに急ぎすぎた結果、貨幣価値が限度をこえて暴落したら海外からの投資は冷え、ハイパーインフレとかにつながって企業はどれだけ製品つくっても国内では叩き売られるので元がとれずに国内を無視する暴挙に出るだろう。
でまじめにこうなったら国内問題ではなくなって本気で破綻するかもしれないから賢い国民は逃亡せねばならない。東ドイツになる。湯に黒あたりがすでに海外逃亡はかってるのは企業いきのこりとしてはどうかしらんが、デフレ逃避ということだ。つまり、企業が利己的なとき必ず国民家計の逆の動きをする。

なぜこれらの専門的話題を書いたかいえば、市ががめついのは下らないという意見だ。

 総論だけど「国内産業の空洞化」自体は何をしてもとまらない。それは高等教育の普及と同時に国際貿易をつづければ100パーどの工業化先進側の国でも起こる現象で、国内の単純労働が安価に雇える層から機械へ移っていく歴史の必然。で、この流れへ乗るしかない以上、がめつくしてる市は「市民奉仕」をなおざりに企業誘致その他の商業擁護を優先して市民は足蹴にしているのは矛盾。どういうことかといえば、空洞化が起こる地域ではこの市民自身が知識上の高等さによって機械操作の手になるしか道はない。それ以外のすべての道はすべて国外流出で食う産業としては終る。だから市民への教養教育を無視し、どれほど企業やら商業やらを起こしたところで「稼ぎ手」の取り分が少なくなるだけなのだ。
 素人には遠回りに見えるだろうが、上述の金融学的見識をひけば、これらの稼ぎ手の取り分を高度な教養教育の程度を利用させてできるかぎり高めること、つまり『教育的財政投資』が最終的にはその市へ入ってくる財産を向上させるのであって、途上国へ立地させ量産させればはるかに安価な手工業や以前の第一次二次系の産業を誘致することではまったくない。端的にいえばそういう層をよびこむほど市は貧しく、暮らしづらくなる。たとえだが全員が工場での細切れ派遣労働者の町と全員が医学博士兼医師の町があったとしよう。さてどちらの市の財政が比べて見て豊かだろう? 
だからがめつい市政は過ちなのだ。むしろ市民奉仕が甚だしければ甚だしいほどその市は将来がある。この限度はおそらくないだろう。もし市へ国の問題をおろしてくると、「建設市債(つまり日銀発行外の公的に限度づけられた、民間から借り入れた市債発行の範囲。もし問題を県内に敷衍すると「水戸信発行外」となるかもしれない*1)」がごく豊かに使われても問題はない。赤字財政というのをしろうとが見るとこれもきりたがる節がある。特にレンポー氏とかああいう。だがそうではないのだ。
政治家は日銀を持っているので破産する企業とは違う原則で動かねばならず、それは公共分野への投資によって私的企業では不足する部分を補わねばならないからだ。前の記事に書いたが、運動場(何しろ市民の払った金でつくらせたのに自分らを締め出すとかなにを勘違いしてるバカ市役所員なのだ? おまえすら市民が養ってること、お前の子孫すら俺たちが血税で養ってやってることを自覚しろ。勉強しろ)を開かず、えせ儒教ぶって官で独占管理するとかは頭がおかしい。そんな町にまともな人間が着くだろうか。発狂運動不足のサブカルエドなら住みつくかもしらんが、消えろ以外の感想が出ない。

あと上に第一次第二次と書いたから農家や工場を終りと言ってるかというとそれは違う。第六次産業とかいう造語でも分かるが、単に情報化・知識化によって以前のかたちがより機械によって能率的に行われるだけだ。ガソリンスタンド店員がいらなくなって手動充電スタンドになるかもしれない。コンビニ店員がいらなくなって自動コンビニになるかもしれない。同じ様にスイッチ一つで田圃を耕す耕地ロボが鴨を追い駆けるかもしれない。販売は生協のネット経由で自動配達されるかもしれない。工場はオートメーションが進んで立ち入る機械すら遠隔操作かもしれない。それでも食料製造や工業そのものがなくなるのではないのだ。この流れに逆らう意味は特にない。下手に急進すると誤って失うもの、たとえば詩心や童心だとか、素朴な工芸品だとか細やかな心づかいだとかは大事だ。しかしそれは「文化」によって維持されるのであり、産業構造の後退趣味によってではない。

こないだ高萩でおりたアホ中学生がどっかのトウキョウのアイドルだかなんだかわからん肩出しルックで電車で下劣きわまるバカ騒ぎしてたが、お前終ってるなってわけだ。そんなのが稼ぎ出すみじめったらしい金よりはるかに、上述の産業構造の進展で得られる利潤も、市民生活への改良効果も大きいのを理解せねばならない。それは蛆虫と巨人ほど違う。


*1 水戸信は貨幣を刷れないのでこのあてはめは厳密にはまちがいじゃないか、って観点もある。県内で流通する全財産の借り入れ・貸し出しに限定したらそうかもしれない。つまり水戸信→市債→財政投資→市民の労働賃金→水戸信、って循環が永遠に回るとしたら、貨幣を刷れる日銀と同列に扱うのはおかしいのであり、この循環そのものには経済上の問題はないことになる。だが、この論旨で言っている観点を県際の問題に広げると上述のあてはめには理が通る。つまり県内で循環する貨幣量(この概念を『県の貨幣価値』と呼ぼう)も考えに入れると、原則として県内で最大の金融機関からの借り入れは望ましくない。
なぜなら、もし外部銀行→市債→財政投資→市民の労働賃金→水戸信、って流れに入れば、それは県の貨幣価値は比べてあがってきて、いってみれば経済大県になる。水戸信の貸し出しできる分量が常態として上がるからだ。で、輸入がつねに有利というのは実質的には「安く買える」こと、また輸出品が「高く売れる」ことだからもし国内に限ってはこの常態が続けられるのが今のところ良い。もし事情が逆転するとしたら、県債市債の踏み倒しがフツウになった戦時だけだ。万一そうなったらこれらの原則はうちすてて、水戸信からごっそり借りて県内消化にかえりざくのがいい。それで県の貨幣価値の低さのためにバブルその他を演出できる。勿論これらも金融財政に限る話題であり、政治のばあいによってはどうでもいいことだ。まつりごとは商売ではない。
 で但し、償却不可に市債だしすぎて陥った時は、県が救済するか、さもなくば水戸信にのりこんできてもらうことになるのでまずい。「発行限度額」を市民全体の財産以上にならない様にせねばならない。これは市の財政がどれほど苦しくてもそうだろう。もしものときは食堂禁止、全員弁当持参、給与カットの上ボーナスなし、公用車はすべて最も安い大衆車、冷暖房の節減で庁舎内では半ズボンとマフラー可、挙句にはサービス残業、とこういうところではないか。サービス残業は民間企業のまねだ。あきらかに奴隷である。というか、「公僕」という概念を高萩市長から引けば、まさにそれが理想だろう。

市の運動場の閉鎖性

この市は性悪説でやってる傾向が以前からあり、特に現市長の間は教育も含めすべてがその流れできていると思う。たとえば青少年を単位フリーとかほざき放置しながら一切の運動施設から締め出すとか。許可を取れ許可を取れと張りがきし、そんなの未成年がいちいち許可とりにいけるだろうか。もうすぐ死ぬ老人は当然、運動での抑鬱発散などいるまい。死ぬのだから土になって好きなだけ運動してほしい。ただ、先のある若者を運動施設から性悪説かつケチんぼで締め出すのは最悪だと思う。

学校とかも、東京で流すテレビのニュースの見すぎなのか過剰防衛張って許可を取れ許可を取れと書き、少しも運動場で遊ばせない。窒息しサブカルで自慰をしてろ、カネはわしらのもんだ、わっはっはというレベルのクソみたいな老廃市政である。

 できるだけ広い運動場を市民へ全面的に開放しきること。これが重要だ*1。これがないままで青少年へのきつい締め上げを行っても、自殺者や発狂者、異常発情での歪んだ性行動、或いは市が放置したままで青少年を不健全に育成したがっているサブカルチャー類のマンガ・アニメ・ケータイ小説・くだらん芥川賞系の大衆小説・ケータイマンガ・テレビドラマ・インターネット経由の不埒情報の数々・アイドルもの・カンリュウのそれとかのさまざまな有害情報をない金つかって買いあさらせてるに等しい。
はっきりいって、現状では若者は一切金がない。高度成長のなごりで年功序列が残ってる上、若年雇用のしめつけがあり、しかも市ではスポーツなどでの抑圧発散を行わせない様にあらゆる運動場を許可制にしてフェンスで覆い締め上げている。はっきりいってこれで自殺しない方がおかしい。引きこもるのなど良いほうだ。


*1 しらべによると、10日前までに申請せよとかいうおかしいルールを生涯学習課(市の教育委員会所属、おそらくはスポーツ振興係)がしいている。だが常識でかんがえればわかることだが、運動不足の10日前にその10日後の運動可否が予想できるだろうか? たまたまたてこんでもう運動しにいけないや、とか行こうとおもったけど体調わるいやとか不確かな要素は排除、これで市民奉仕してるつもり?
 で、休日の「受付」すらない。市役所は土日閉まる。これで鍵かけてだれも使ってない広大な敷地が余ってるってわけなので、生涯学習どころか生涯拷問課と言える。休日受付の設置、最低でもそれ用の料金所だか受付だか(そもそもかね払えってところがケチくさい。税収で養われてる職員のくせカネを払えとは! なんというカネの亡者だろうか、それとも権力を身につけた商売人なのだろうか。この低サービス役所は)を設けるべきだ。一刻もはやく。あの高校生らとか、アスファルトの上であぶない上しょぼい擬似運動しかできない若者がこんな悪環境で水戸ホーリーホック入れっつっても無理に決まっている。一年中、歩いて5分の芝生敷きサッカー場とか、河川敷とかがある「高行政奉仕」の適所にいる市民とくらべてどれほど悪条件だろうか! 少しでも空き地の広大な広場があれば潰し、かねに換金しようとしてくる。しかも政治屋が! なんという吝嗇民俗!

また黄金虫についての風説あり

http://mainichi.jp/life/housing/petnavi/news/20100708ddm013100137000c.html?inb=yt

↑たまたまこういう記事をみつけた。消えたときのことを考えてなかみを要約すると、毎日新聞 2010年7月8日 東京朝刊に

��梅谷さんによると、野口雨情の童謡「黄金虫」はゴキブリの歌だという。雨情が生まれた茨城県北部ではゴキブリをコガネムシと呼び、たくさんすみ着くと裕福になるとの伝説も残る。

というあきらかに誤った記述が載っているらしい。この記事を書いた者は、この「梅谷さん」とよばれている昆虫学者の梅谷献二さん(79)という人物、の風説をうのみで流布している。これも風説の流布という点では、天下の毎日にして同罪だといえるだろう。堂々と雨情の生まれた北部ではとか書いているのだから。私はまったくこの該当地域で暮らしてきた一個の証人だが、いちども聞いたことない上、そもそも十年前まではいなかった。蔵のある商家でも同じで、その出身者の年寄りの証言でも人口がこれだけふえるまでゴキブリなぞ生まれて一度も見たことなかったという話がある。結局この自称昆虫学者の梅谷献二さん(79)は根拠のない風説を平気で流布していることが理解できる。

ちなみにこの人物のプロフィールを転載すると


うめや けんじ
   昭和6年(1931)1月16日生まれ

【略  歴】 : 
 昭和34年(1959)北海道大学大学院農学研究科(博士課程)卒業(農学博士)。
 同 年、農林水産省入省。植物防疫所、各試験研究機関を歴任。
 平成 2年(1990)同省果樹試験場長を退官。
 (社)農林水産技術情報協会技術参与を経て
 現在 (社)農林水産技術情報協会研究顧問
 日本応用動物昆虫学会名誉会員
 (独)農業・食品産業技術総合研究機構フェロー
 中国林業科学研究院資源昆虫研究所名誉教授
 生き物文化誌学会評議員

【著  書】 :
「虫の博物誌」、「虫の民族誌」、「ヒトが変えた虫たち」、「虫のはなし・Ⅰ~Ⅲ」、 「こん虫のふしぎ」、「作物害虫ハンドブック」、「日本農業害虫大事典」、「虫を食べる文化誌」、「虫けら賛歌」等々、編著・共著を含め約80冊



これだけ権威ばった人物が風説の流布というのは話にならない。もし万一、この人物なりの正当化できる根拠があるなら、それをはっきり市の雨情会へ提出してもらいたい。故人へのいわれない中傷に近い虚偽を流すというのは犯罪のひとつ(刑法223条 虚偽の風説の流布、刑法230条 死者への名誉毀損罪)だからだ。コガネ虫と堂々うたっているのにゴキブリとうたうはずがないだろう。なにをかんがえている? 同時に、根拠のない記事を堂々と載せている毎日新聞へも賠償請求を行う準備に入るべきだろう。


追記
http://www.afftis.or.jp/konchu/gokiburi/goki03.htm
↑こういうページも追加でみつけた。

��また、野口雨情の「こがね虫は金持ちだ」に始まる有名な童謡の“コガネムシ”は、金属光沢のある甲虫のコガネムシではなく、 チャバネゴキブリだという説があります。
��雨情の故郷の茨城県ではゴキブリを方言でキガネムシと呼んでいたことに加えて、その体系が小判に似ていること、 雌は腹端に昔の財布(きんちゃく)のような形の卵の袋(卵鞘)をつけて持ち歩くことなど、この童謡の主人公としてふさわしいかもしれません

という記述をまた同一人物梅谷献二さん(79)がしている。要はこの人は「実証主義(実験や経験でくりかえし検証した事しか真実として認めない思想)」の考え方がないので、いろんなところで得たうわさをそのまま真実みたいな権威のベールで覆ってバシバシ流布している習慣者なのではないだろうか。他にもいろいろ書いてある耳目を驚かす記述にも根拠が引用されていないところからそれが分かる。
哀れむべきことでもあるけれど、迷惑こうむる身として身も蓋もない嘘を広められちゃどうしようもない。もうお歳だが犯罪は歴とした犯罪と思う。

魅力度調査の判断

いばらきケンへ魅力を感ける者の割合、全国でもっともすくないという調査がいばしんにのってる(ネットで見たが9月17朝刊だとおもう)。で、県ではPRに力いれるとかのコメントつき。

で、この議論だが調査したのあやしげな研究所だし、調査対象がネット限定なうえ調査期間が異様にみじかく、恣意が入ってる割合を考慮しても、まあ妥当ではないか? はっきりいって、いばらき県民そのものがやたら好かれたがってる県民性ではない。名前からして。当の自分もそうだし。愛想はまあ比べてわるいと言っても良い部類だろう。で、県全体がそうなわけで、そういう個性ということだ。
 県のPRになんでだれもに好かれたいのかがわからない。日本人にへんてこな調査で最も好かれたら必ずいいことがある、というなら話は別だが。その調査で上位にはいってる県は、観光地か、又はいわゆるスタンドプレー好きの目立ちたがりといったところだ。どことは書かないが想定内とかんがえていいメンバー。逆に「めだたない」場所は魅力を感じられてない。どうもこの点でこの研究所の調査は恣意的に思える(つまり魅力=派手、という誤用か解釈があると思われる。さもなくば地方にしてこれだけの人口はないし、経済規模もない筈)。めだってても周りの人から嫌われている地域も数多い、又はすくなくとも耳にする。
目立ってて好かれている地域、これは神奈川・横浜あたりということらしいが、結局それは「都市開発」の最先端ということになりそうだ。その一帯は異常な高さの高層ビルから総合開発型商店街から目白押しで、人々の流入も流出も甚だしい。ある都市計画学者の説ではあんな辺鄙ないなかが今は…ということだが。勿論人口の過剰増加は必ず反面に退廃を伴う。神奈川県は急激な開発を伴って東京と一帯化しつつあると考えてもいいだろう。あからさまなベッドタウンとしての埼玉、空港や某遊園地の誘致を介したその一種としての千葉にもこの余波はあるが、神奈川ほどではない。
所でめだたないなら、しかしそれでいいのでは? なにを必死になってどんどんキリギリス的に好かれていこうという? 地味の浪費だ。関東で最も伝統ある地域(風土記参照)として独自の個性を目指そう。

多分、この新聞記者の意向としては観光面で好かれたら得やん、とかの単純な損得勘定でないかと推測する。だが一般則だが観光地はよごれまくる上、人心は一回限りで二度と会わないどうでもいい一見さんばかりを相手にしてるので荒廃する。産業の質は下がり、どこの馬の骨ともしれないスラムの山ができ、すみごこちは当然わるくなってく。どれほどはした金をおとしてもらおうとそれでは元も子もない。
但し、ほどほど中間くらいのランクでなく最も魅力度が低い、という調査結果のはあきらかに逆相関であり別の理由があるだろう。

 自分の考えでは、おそらくこの調査結果には「控えおろう効果」とでもいえる功徳が働いてる。要は、マキャベリズムだ。それは是政者の徳を恒常的にもっているということにつながる。つまり県政の王道からみればこの結果を挽回する必要など全くない。もっともっと県の格式として大いに畏れられた方が却って良い。
 但し、おそらくこの徳の一面に必須だろう慈悲深さ調査みたいのすると印象から言って奈良が上位にくるはず。で他意はないが商業都市の大阪が最下位にくるか。こういう印象は重要かもしれない。仁慈の実例を程度こそあれ誇大宣伝してでも、県の印象をより「控えおろう効果」の増幅につなげるべきだ。

自分の意見をいうと、いばきりの勢力によって奈良に比肩かそれをこえた格式ある宗教施設を建立する、又は親鸞の喧伝をするのはどうか? 奈良には法隆寺というものがあり、空海の高野山がある。その関東版だ。(笠間をあとおしすべし)

でそういう個性も必ずや重んじられる。世界中にいるだれであれ、どっかの誰かへ観光客相手に愛想笑いばっかしてろとは思わないだろうし、実際そうしている人の末路といって絶対立派なものともいえないのだから。究極で言えば県民自身が自身の管理している風光明媚な場所に遊べるのが最も良い。観光地化でカネを、ってのはまず話にならない。それは実質は窮余の一策であり、どこでも主要産業のない後退的僻地はそうなる。

2010年9月16日

下水道計画の問題点

下水道に虫が棲みついているらしさはないのだろうか? こないだオオサカの繁華街でマンホールの下に五万と虫がうんぬんというのを偶々なにかでみかけたのだが、下水道普及には亜熱帯環境に適応している虫が棲みつきやすい、という弊害があるのかもわからない。

この問題点はいずれ解決するを得る。市の都市計画課で調査や研究できれば一番いいと思う。
どうもゴキブリという生き物は自分は見たことなかったのだが、この数年の間に町に出てくる様になってしまった。この原因は実は公共下水道に虫対策がほどこされていない、という都市計画の欠陥にある気がする。鉄筋コンクリート製の建物もやはり問題だが、もしそれがなくなっても、夏場の蒸し暑い時期にアスファルト舗装の路面の下に大量の水と共に一年中暖かい虫の繁殖場を提供してしまってるとしたら、これはどう仕様もない。

日本風土は蒸し暑くなりがちなので、涼しくする事はどれ程工夫しても足りない。

2010年9月4日

エイズ罹患率の減退策

おもにその罹患は県南、特にむかしは「新治(にいばり)」とよばれてた埼玉と千葉にまたがる一帯が殆どなんだろうけど、エイズ罹患の人口あたりの比率が茨城は全国二番目に多いという統計があった。これには驚いた。県民性としてみた一帯はかんがえ方として保守的なのだから。勿論、もっともそれが多い東京の悪影響は近隣諸県に及ぶのは予想できるとしても二番目というのが気になる。ちなみに長野が三番だ。

で、実際その統計で「外国人を除く」とずっと順位が下がる。それでも八番目とかなのだが。要は県全体でみて最高に高い性道徳風紀とはこの時点でいえない。が、なぜ外国人の罹患割合が高いかを分析すべきだと思う。
 で、感染のルートを見ると、6割が同性間の性的接触によるらしい。簡単にいうと、ガイジンの同性愛者がとても多いわけだ。それでも八番目なので、勿論ニホンジンの同性愛者も割合としてたとえば罹患率そのものが低い東北や中国地方にくらべれば少しは多いと言えるだろう。なぜ長野も茨城の様にそういうガイジンがとても多く住んでいるのかは不明だ。

東京はいうまでもなくサイアクにエイズ罹患率が多い。これは反面教師にしかならない。で、都市化の進んでない土田舎は全体として低い結果がある。こちらをみれば、おそらく「人口過密」によって性行動が異常化するのが主な原因じゃないだろうか。たとえば昆虫でも相変異という現象があり、過密状態ではおかしな行動をしたり健康異常が出てきて普段とは違う発達をする。
 一方で、健全な異性関係として純情にして清潔な状態が最善だろう。だから東京を反面教師にすれば『人口過密をなくし、健全な異性関係を保全する』ことでこのよくない結果は今より改善できると思う。

僕が前から思ってるに、東京の企業がまきちらす性情報はどれも歪んでいる。大体がおかしな異常な行為を描写したり、そういう部分を強調したりする。これは西日本の文化(京阪神がおもな発信源だが)でも同じだ。どうしてそうなのかといえば、それらの場所が上述の人口過密状態にあるからなのだ。そこでの性行動はヒトとして正常の状態からかなり歪んでいるので、いまのこの市でも本屋やらワンダーグーやらコンビニやらでそういう都市でつくられる異常な性行動の記録がいろんなかたちで販売されているが、どれも害ばかりある。だから即刻規制して締め出した方がいい。そんなものを売りつけて何一ついいことはないのだ。

健全な性行動はどんなものか? という問いがあるとする。それは「自然状態」のものだろう。いわゆる情報汚染を受けていない状態が最も健全な性愛を示す、とかんがえて先ずまちがいないと思う。さらに人口過疎ならより望ましい。人口の面での大集合都市をつくろうとすることは人道の面からみれば過ちなのだ。
だから僕は市長の判断でトウキョウとか西日本でつくられる異様な性情報を、市民に光ケーブルを通してどんどん浴びさせるのは大いなる間違いだと指摘しているし、批判している。それはなにもいい結果をもちいらないばかりか、茨城県そのものの歪んだ性行為の割合を煽りたて罹患率をさらにあげるだけだろう。いまの段階でもフィルタリング(情報濾過)で、たとえば携帯電話での青少年ふくむ市民のそういう情報への接触をできるかぎり防ぐのが行政権としては当然の義務だと思うが。全国二番目にエイズ患者が多い県であることを深刻に考えないと、いずれは県北地域にもそういう人が、土浦から水戸を経由してふえてくるだろう。

あのタバ高とミニスカ高生の愚かさをみているとこれは確率としても僅少ではないだろう。どうして子どもがあんなにヤンキーなのかは分からないが。おそらく教育度が低い地域、学校や研究組織があまり多くない地域では下請けなどの商売に陥る割が高いので、その連鎖が子どもを内的増加率のたかい=発情周期の短く数の多くなるヤンキーへ育てがちなのではないか? よって茨大工学などの啓発、或いは知的水準の徹底向上はごく重要だ。ヤンキーがウイルスを広める確率は、あきらかにおとなしいタイプの場合より高いはずだ。偏見でもなく。

2010年9月3日

高萩のロシアぶり

たかはぎでTHINK TANK構想がでた。が、これまた微妙。最近の高萩は微妙だ。

なにが問題かって、行政営の研究所というのは旧ソ連時代を連想させる。つまり社会主義的=全体主義の機関なのはまちがいない。失敗しないはずがないだろう。
政府が研究しても問題ないのはおそらく軍事問題くらい。採算度外視できるし。どうしてあの市長は政府に入ったんだろう? もし私立ならなにもそういう行いに問題はないと思う。あのキャラ稼業もこの一種で、政府でそれをやるのはまずい。社長としてはどうかしらんが、首長としては軽率な判断が多い。若すぎるのだろうか。

 むしろ前からカモメが言ってるが(言わない)、それ系のチシキジン問題は外注した方が効率もいいし本質でかしこい。行政府の中で雇うと、必ず権益に擦り寄ってくるし(たとえばトウキョウの現状をみたらいい。囲い込むと絶対イエスマンしか集まらない)、なにも徳はない。儒教の悪はここにある。
よって議会に「識者枠」を設けてここへ議員達の選挙で一定水準以上の信頼のおける人物、特に教授以上をまねくといいと思う。

石津家をよべ、と書いたがこれも微妙になってきた。どうも土浦辺のアイドル化しつつあるみたいで、はっきり言って重要なのはその選手本人じゃなくて業績である。どうやったら世界レベルの運動選手になれたか、をききとればいいのであり、偶々そのレベルに至った選手本人を優遇してもなんにもならない。かもめは死ぬ。そうではなく、かもめから飛び方をまなぶべきなのだ。イミが分からないが。

2010年9月2日

エヌティーティーの当然の見解

引用
��~~~
��NTT>「光」完全移行は20年度以降 孫社長に反論

毎日新聞 9月1日(水)20時19分配信
 NTTは1日、加入電話に使われている電話網から、超高速ブロードバンドを提供できる光回線網への完全移行は20年度以降になるとの見通しを発表した。15年ごろをめどに超高速ブロードバンド利用率100%を目指す総務省の「光の道構想」に絡み、ソフトバンクの孫正義社長がNTTの光回線事業を分社化する「構造分離」を行えば光回線の普及を促進でき、15年の完全移行は可能と主張していることに反論した。

 ソフトバンク側の主張を受け、光の道構想を推進する原口一博総務相が8月末までに完全移行についての考え方を提出するよう求めていた。この日、提出内容について鵜浦博夫副社長が記者会見した。

 鵜浦副社長によると、公衆電話や他事業者の回線との接続機能は光回線に対応しておらず、技術開発や事業者間の合意に時間がかかるため、早くて2010年代後半から切り替えが始まり、5~6年かかるという。

 また、構造分離については、分社化した「アクセス会社」は孫社長の試算よりも光回線の維持費などが大幅にかさみ「赤字は必至。株主に提案できない」と反論。「光回線敷設のための投資額は2兆5000億円」とする孫社長の試算にも、光回線の幹線の整備率は面積ベースで9割に達しているが、需要に即応できるのはその中の約半分の世帯向けにとどまるなどとして「5兆円以上」との見通しを示した。

 鵜浦副社長は「(契約者の実際の)需要に対応して整備しなければ投資額が多額になる」と説明。「光の道構想の推進に貢献する」とも述べたが、それも「(超高速ブロードバンドの)需要喚起」が前提と強調。光回線のインフラ整備やNTTの組織論が先行することをけん制した。【望月麻紀】
��~~~

この最後の含蓄ある言葉をききましたか? 『需要に対応して整備しなければ投資額が多額になる』
なんと重みのある(字面ばかりでなく)言葉でしょうか?
 はっきしいって、そうやってイミフメイなサブカル物の低俗な高速動画とか通してもなんの意味もないばかりか、害ばかりある。もし本当に情報隔離をなくしたいなら、市がADSL回線(すでにある電話回線をつかう広帯域網)の契約を安くあげる方がよっぽど情報の流れは速くなったろう。しろうと、ってかITオンチは救えない。即刻引退させるべきオオマチガイ判断だ。民間企業ならこんなへぼ社長がいたらクビになるか即日倒産まちがいない。まじで。

もしその光回線ひかせたところで、維持費は市が負担すんのか、NTTが負担すんのか? この線引きが最も重い。市ならまじでぶちぎれるところだ。なんでそんな下らないもの(しかも勝手に原口氏と孫氏が引いてくれるっていってんのに高々10年待てないばかりに2億5千万ちかく浪費する。どいなかのどこに超高速回線網の需要がある?)に我々一人ひとりが馬鹿高い費用を払わねばならないのだ? まったく道理が通らない。この問題はあくまでも墓場の底までも追及していく。

2010年9月1日

平和の悪さ

戦争はヤバイが、平和はもっとヤバイ。どちらも悪さではさほど変わらないし、平和状態の方がより悪くなる傾向がある。カントという学者も『人類の歴史の憶測的起源』に平和による退廃という現象をいいあてていた。今の日本全域、またこのきたいば圏に限ってもこれはいえる。チャラ男みたいなのとミニスカケバ娘は大量にふえてきたが、一向に文化の向上に益しようという高い精神性はみられないし、戦後すぐの時点よりも気力でも心のできばえでも劣っている。安心しすぎてなんでもあり、みたいなもので、マンガをよみあさり、すぐ発情し、まともに勉学しない。放課後は束になってタバコを吸い、部活に精進もせず、すぐひっついて人目をはばからずいちゃつく。ヒトから舞い戻ってサルになってしまったみたいに見える。

 変な話にきこえるだろうが、意図的に競争状態をつくりあげる智恵が必要だ。下手すると淘汰されて死ぬかもしれない、という危機感がないと、ヒトといういきものの過半は何もしないばかりか悪さばかりする。この厳正な事実をよく見通さねばならない。過度の戦争状態に陥ると悲惨さもますが、まったく争いごとがないと却って戦時中よりも精神はたるむ。

タバ高生をおちこぼし、犯罪者として隔離し、みせしめにする。暴走族をとりしまる市警や自治組織をいとなみ、まとも以上の青少年に暴走族どもを一網打尽にさせる。チャラ男どもを淘汰しつくすために、学問・芸術・発明・競技など高尚以上の才能本位の文化活動をさかんに盛り立てその他のザコっぷりをあらわにし面目をつぶす。こういう工夫が必要だ。
 女の言うことに従うとろくなことにならない。これが歴史の経験則。金儲けをいくらしようと、衰退したらなにものこらない。岩城もこの面ではまったく役立たずだ。チャラチャラチャラチャラ穢土っ子みたいなザコだらけで相手にならん。

2010年8月31日

図書館の栞

図書館の受付で、前まで必ずいい感じのイラスト入った栞がもらえてたのだが、なぜかハイテクぶってなんの変哲もないレシートになってしまった。文化の退化が機械化に伴って起こった例だと思う。すばらしい工芸だったのに。がっかりする。

2010年8月28日

イワキの対処策

イワキはなんとなく女が多い。だからそこにうろつく男もどっちかといえば女っぽいというより女々しい傾向が強い。第一の原因は、首都圏や福島市へ出稼ぎに出てしまうので、地元には女しか残らないのではないか。さらに、なぜかはしらんが中国人女がかなりいる。(どういう理由でか集団による移入が起きているのだろう。)

あのキタナイ商売はこれらの事情が大きいと思われる。女が過剰にいるので、そのあぶれどもが放っておくと勝手にああいう界隈に落ちぶれる意識もなくおちぶれるのだろう。結論を言えば、この女過剰の社会というのは全然のぞましい状況ではない、というか害毒である、というわけだ。故事にいうごとく牝鶏晨する社会は明らかに没落期に入っている。あの漫画しか売ってないラトブ本屋のサイアクの市場文化状況をみれば遠からずおちぶれるのは間違いない。

 きたいばとしていえるのは、イワキとの連携より日立とのそれの方がずっと優先度が高い。イワキはろくでもない、と言ってしまってもまあいい。没落中の社会に関われば関わるほどわるくなる。この事情は、説教しようがイワキ市議会が迅速に反応をみせないところをみると、女の論理(つまり理屈でなく感情論だ)の方が力がつよいと思われ、そういう社会には何を言ってもまったく受け付けない。勝手に自業自得でおちぶれさせた方が楽だ。

但し、日立も女性建築家が出たりしてるので油断はできない。とかく女が活躍しはじめた社会は中世京都の様にかならず退廃のきざしに入る。ただ日立そのものでおもに活躍してるんではないからまだいいが。

どの様な手段をつかってもいい。イワキとの行政連携はできる限り断つべき。さもないと必ず足を引っ張られるし、ああいうキタナさの被害をうけるだろう。現市長は広域連携とかしようとしてるみたいだから最大の批判と注意が要る。

2010年8月25日

情報隔離より災害情報の備えがいるでしょうに

情報隔離=悪、ゆえに是正しなければならない、みたいな論理は魔法っぽい。

情報という言葉自体、information(inform:形を中に ate:与える ion:こと)の翻訳語として適切か疑問だし、あまり有効でない。結論を言えば情報隔離など余りかまわないばかりか寧ろ希少価値で上な気がする。誰だって首都圏の情報漬けのいなかなんか帰りたくも行きたくもない。いなかはいなかでいてほしいしその方がいい。

但し、大衆報道(マスコミ)のみが主要情報源という状態はまずい。デマに流され易いからだ。
 思うに行政の義務は、この「正確な必須報道」の分に限られるのではないか? ひたちで災害しらせる市営ラジオ機を配ってるらしいけど、あれがこの目的に最もかなうところある。ネットは庶民に与えるとすぐ悪用されやすく、望ましくない。無用か害毒でしかない情報、というのの悪影響の方がおそるべきことだ。
��この意味でわざわざ市で光ケーブル通してどんどんトウキョウ系の邪悪な映像やらネット虐めスポットやら諸々を流したいなら、なにより先にフィルタリングの義務を啓発せねばならない。はっきり言ってインターネットはまだ無法地帯なので地獄の様になんでもある。だからインターネットでわるい情報に触れて犯罪にかかわる市民も多数出るだろう。あとついでに思ったが、市でケータイにフィルタリングしてない親がいるばあい、これもネットに接続してさまざまなあしき情報をこどもが得たり発信しているのはまちがいないので、この親を管理不届きで罰金と状況が酷いときは数年以上の懲役で罰するべきだ。この危惧のほうが高速の大量な動画などの需要開発よりはるかに優先すべき。)

で同じ億単位つかうならひたちの実例に倣うほうが、災害時での緊急連絡や市の必須情報を与える面でも優先度が高かったと思う。民業圧迫という観点も幾分かある。あまりに金額をあてすぎなのはまちがいない。もし津波や大地震がきて、一時的にデマがとんだとかこういう時点で電気通信や電線に依存するネットはつかえなくなるのを知らねばならない。正論すぎて笑えないが、猛暑なのでゆるせ。どうでもいいが、すべての路面を透水性のいい芝生にしたら涼しくなると思うが夢だろうか? これから先、もし浮く車とか廃止道路とか出てきたら試してほしい。草場が比較的涼しいのは光合成と蒸散でその上部の気温が数度下がるからだ。アスファルトの黒っぽい路面は勘弁してほしいし、だれが発明したかしらんがむしむしする日本風土に合ってない。即刻廃止を求める。

サーファーが発見したという話

あまりしられてないみたいだが、中郷のうみべに死体が流れ着いてた(日曜に、まつりのかげで)みたいなニュースをきのうのいばしんでよんだ。身元はしれたのだろうか? 年齢はおばあさんだと報道されてたが長く流されてたとしたら真相はわからない。

2010年8月21日

空中歩道計画(仮)

さっきおもいついたのでしたが、国道ってか自動車道をバイパス化するより、歩道をいわゆるペデストリアンデッキ(要は空中歩道だ)として海と空に開いてった方がよくなるきがした。ただし、この考えは地上レベルがどうなるのかな、って感じだ。海浜のじべたに住んでる人たちは高架がばんばんできちゃうとあんまり家の周りがいい環境になるとはおもえない。

もし温暖化で南極大陸の氷がとけだすから海岸線をいまよりひっこめなくてはならないってのが治水の前提としてあるなら、すくなくともこの空中歩道の拡幅とかのがまだいい気がする。

たとえば大磯という神奈川の海岸にいってみるとわかるが、浜辺のすぐそばまでデカイ自動車道が通ってくると海岸線はあんまり綺麗じゃなくなる。なんとなくじめじめとして日が当たらなくなるからだと思う。
それなら小回りのきく空中歩道をちょこちょこと設けて国道をまたぐ、くらいのがまだいい。それなら大部分は人の手が入らない状態を維持できるだろうし。ただバリアフリー化ゆえある程度の長さの傾斜路はいるきがするけど折り返せば問題ない。

現物みたことがないのだが、鹿島の神栖あたりに大規模な海岸散歩用の歩道がつくられてるらしい、木造りだったっぽいのを写真でみた。ことしのいばしんのどっかにのってた写真だった。あれが多少参考になる感じ。いわゆる防風林の松林の上を走ってるみたいなものだった。

2010年8月20日

雨情の黄金虫は純正な黄金虫である(地元人談)

ウィキペディアでごきぶりの欄にいそはら辺で黄金虫はごきぶりだ説が流布されてるが、聞いた話がないので誤りだと思う。そもそもごきぶりなんて生き物を見たことがなかったし、それは昔から蔵のあった家でもそうみたいだ。近代化した時に常磐線を北上してきたのだと思う。この10年の間にとつぜん現れるようになった。

雨情は黄金虫のあの玉虫色からシンプルに童謡のイメージをひきだしたのだと思う。それは今よりさらに素朴だった時代の町を知ってれば確信できることだ。本物の黄金虫なら身近にいた。ごきぶりなんていう意味不明な南から来たろう熱帯産の生き物はどこにいるのかも知らなかった。少なくとも地元人の自分はそうだ。

こういう俗説は初期に批判しておかないといずれ広まる。おそるべきことだ。市民は雨情生家にといあわせてみてほしい。矢島稔さん(江戸人)とかいう在命中の昆虫好きが勝手にこの説を広めているらしいのをほぼ日で確認した。ありえない話だ、無責任にも程がある。方言でもごきぶりなんかを黄金虫なぞとまるでありえなく言う話は地元人のひとりとしてきいたはなしがないのだ。黄金虫は黄金虫である。さもなくばあんな童謡ができるか。南蛮虫などもっと殺伐とした生物でぜんぜん親しめない。栃木の商家ではそう言ってたとか書いてあるのもたいてい俗説だろう。これだからウィキペディアは信用しがたい。

2010年8月19日

まちにはびこる汚い商売

クソきたいば女(なぜこういえるかというと、少しも高級でないから)がイワキあたりの穢れのまねしだしか知らんがエステとかはじめている。だから言ったのに。先ず駅前のマンションの英国式マッサージとかなんちゃらの看板を撤去せよ、次にクソエステとやらをつぶせ。

見た目を気にするより先にその腐った発情精神をたたきなおせと思う。夏休みなのでクソ高校生が来ないのだけ今の救いだが、まちで発情しかしないキタコー級の市民があっという間に幼児虐待に進むのもクソエステとかろくでもない業種を放置した業だ。居酒屋もやたら多いが誰が行っている? 酒でうさばらしするより学問で身を立てろ。修道女になれ。

2010年8月16日

緊急性の高い行政検疫

二億とか四千万とかをホイホイ「有効需要(=購買力平価に還元される需要喚起=民間への行政権からの投資)」率を考えずにつかいまくる脳髄抜けた市なので、いまさらながらだが、企業でいう外部監査のかわりに『行政費用診断士』みたいな制度をつくり、副市長(女性だから経済観念=損得勘定はあるだろう、という楽観予測に頼り切らず)の提出した行革案を費用面から客観的かつ公開されるデータの上で絶えず診断してもらうのがいい。これがないと、これまでみたいな経済効果とは無関係な衰退美化みたいな、しかもアホ高生のたまり場なうえ光合成吸熱効果のないコンクリ埋め公園とかに市税がばんばん使われてしまう。

おもに筑波から仙台間、遠くても栃木圏内にいる中小企業診断士とかの資格をもつ、研究所系の人物を議会で精査のすえ選び抜き、その行政予算の健全性診断をしてもらう方がいい。それほど遠くなくこの市の財政もいま国会でやんややってるレベルの大規模な陥没が明らかになる。ばらまきじゃないが、談合用のコンクリ系予算か意味不明なさきばしった光ファイバー幹線にウン億つかっても痛みどころか罪すら感じないのは、独裁者よろしくこの経費感覚が麻痺しているに等しい。麻生首相みたいなもので、百円稼ぐのがどれほど難しい仕事かも理解できないんだと思う。やはり育ちみたいなものがある。経済感覚のない首長は、今後の衰退市場下ではすこしも貴べない。いつ負けても文句はいえないのだ。

中国人富豪が観光まぎれに大金を落としまくるのを大口あいて眺めてる、みたいな方法論(いっちゃわるいがこれが県の現状の行政方法論だ。経済学面では正しいのだが、文化的にはどうか?)だけではいずれこの地域も中国化して終わる。いまの中国はとんでもないくにでぜんぜん尊重できないのはまともな判断をもってれば理解できよう。
 やはりさきごろのイングランドあたりの事情、あきらかに産業というか市場競争面での衰退はまぬがれてないが、文化や学術での名分から一定以上のpresenceを保つ、これしかこの規模の中小市に行政発展の道はないだろう。

はぎ○ろの人気取りぶりっこをみてると、あれはあれで問題がある。衆愚にこびてもはした金しかこない。そうではなく、長期的展開を考慮した文化学術的質を底辺レベルから高めつづけるほうがいい。じかには妹島和世氏みたいな一流の文化人を多数輩出する、といったところが目標だ。ほかの雑魚はふみつぶすしかない。ミニスカ高生とか。笑いものにすらならないし、そんなレベルのくずは穢土にいけば山ほど浮浪していてめずらしくもない。

2010年8月15日

図書生協のすすめ

市内にまともな書物がこない=教養度がおちつづける、というのは当然。
で、ヤマグチというところではエヌピーオーへトショカンそのものの経営委託をする、ってニュースがあったが、これよりさらにすすんだ考え方でしかも巧みなのは、「図書生協」をトショカン付属で設けることではないか?
生協会員には格安で売る。もしくは終日自由に資料コピーする権利を渡す。この会員からは一定の預かり金を毎月すこしずつ積み立ててもらい、その金利を運営資金にすることで量的売り上げに左右されない高級な書物も買い入れることができるはずだ。いわゆる大学生協とかでやってることを市の単位で行う。ばあいによっては茨大茨キリと相互提携してもいい。品揃えを交換条約みたいに連絡しだいでいつでも自由に流通させる。

問題はこれから出版そのものが電子図書化に入ってくというところだ。
だから市民営の図書生協にはダウンロード専用のホームページも設ける。で、ここから同じ様に格安でも新着の注文書や教養書を売る。

いわきの本屋もやばいらしく、漫画しか置いてない。しかしそれならますますまともな読者からみすてられる。どれだけ小金を稼ごうが本格的読書家にはあきれられてしまうだけだ。そして漫画自体も衰退産業だ。自業自得。伊達に勉強させてるのではない。人は生きている限り知識を求めるが、成長してしまえば低俗な娯楽はいらなくなる。映画という流行もそうなのではないだろうか? 4千万ちかくかけて観覧席を…いやなんでもない。クオーク

代理投票員を設けること

間接民主政の問題は、かなり数が多いと民主政の意義が発揮されないこと、つまり一票ずつの価値が薄まってどうせ投票しても衆愚=最大多数におされ受かるべき人が受からないということ。

これを解消するには「代理投票員」選挙制度をもうける。より柔らかくいえば代わりの選挙だ。
 この代理士へ一定の資格や教養をとりつけることができれば、現状みたいなどうしようもない結果にはならない。なぜ民主政治なのに討論なしで議題がスルーされていくか=無能な市議会議員だらけ=市税虫食い、ってわけ。

だれもがまわりからこの人なら一定の信頼が置ける、と思う人物を推薦してこの代理選挙を行い、つぎに市議会議員選挙をかれらの投票で行えばいまよりはましな議会が展開される未来がひらかれるだろう。
数としては各町から数名、その選挙費は当然カネのかからない清潔な選挙が今後の(戦後のくさりきったジャップの自民党式談合体質からぬけだすべく)命題になる。よって推薦主義でおこなうとして、その町費をもとに一定の代理選挙費を等分し、だいたいひとり5万円程度をわりふってこの中でのみ公正な選挙活動をさせる。

かもめは不衛生なばにすめない。そういうわけでもしこの市がいままでどおりきたないやりくちをつづける様なら旅立つしかない。市の鳥にすらみすてられたら…みなまでいうまい。クオーク

2010年8月12日

コンクリ詰めの悪循環を抜け出すには

できるだけ市の緑化率をあげること、この対策には緑化助成金が有効だと思う。大規模公害型店舗(誤字ではない)や高層ビルへは屋上緑化または建築面積あたりの緑化率を義務付けるのも必要だ。

暑い→冷房かいまくりつけまくる→熱排出→熱帯夜→ますますコンクリ+アスファルト詰めの高気密都市

この悪循環をたちきるには「緑化」しかない。光合成は吸熱反応なので。
たとえば
暑い→緑化しまくる→徐々に涼しくなる→扇風機で十分か→風通しのいい家がいい→森林資源有効活用
という善循環に入れば環境問題の解決で先端に立てる。

耐震化で児童の命を守る予算より、どうでもいい高画質動画買いに市税を費やす薄情なうえ痴呆入ってる市議会員どもには理解不能かもだが。かもめの先見の明は人をはるかにこえている。たいてい空からみているのだから。

2010年8月10日

馬鹿げた市議決! 全員一致は勘違い

どうもこの報道局の先見の明は無視されたか通じてないか、談合に利用されたかどれかのために、せっかく原口大臣系の総務省とか孫さん系のソフトバンクが全国に「光の道」を敷いてくれるはずなのに、北茨城市民税を費やしまくって僻地に好んで住んでる変わり者のために大金かけた大工事網を敷くらしい。馬鹿げているばかりか、まともな経済勘定をもっているものなら即クビにしなければいけないほどの愚策を本日、臨時会議までして議決してしまったらしい。

きたいば議会員は村社会談合よろしく‘全員一致’をさせてしまいがちだ。だが冷静にかんがえればわかることだが、民主議決でいちばんおそろしいのがその議題の欠点をみのがしきってしまう様なこの‘集団の和’なのだ。それで満州国以来自滅の道へ進んだことを反省してみればいい。
��きたいば議会の機能不全はあきらかなこと、特に新世代の意見が通らず、馬鹿げた1000年前の論理で動いてしまう。戦後は終わった。もう談合型の公共投資で成長できる時代ではない=社会基盤への初期投資は回収してしまったのだ。現時点で赤字倒産中の政府はいかに行政費用を節減するかへ血眼になるしか生き残りはない。)
つまり全員一致の会議というものは無意味か、機能しておらず、腐敗しているとかんがえてまず間違いない。2億5000万を自分で市場で稼いでみろ、という話だ。無駄がねをくだらない用途につかってしまうと二度と取り返せない。ただでさえこの僻地は縮小市場なのだ。

 おとなしく待つことができない者は決して大成しない。徳川家訓を参照するがいい。この議決は市議会議員どもが無能である証に違いない。いつかこの業は奴らの貧乏症のために報いられるだろう。

もう一度参照すると、
・ソフトバンクと総務省が光ファイバー網の全国一律敷設を計画している。
・僻地に住むのは自業自得で片付けられる(さもなくばすべてのサービスを行政負担にしなければいけなくなる)。
・光ファイバー=100Mbpsを大幅に超過した過剰機能の回線(主には動画用途)という今後も永久維持費のかかる贅沢施設はいらない。
・すでにある電話回線を利用したADSL網(50Mbps相当)でも通常のインターネット使用に問題はないばかりか十分すぎるほど。
・現段階で何人の需要が見込まれるか試算すべき(市議のとおり光ファイバーを僻地敷設すると、5万人\2億5千万円で関係の有無にかかわらず市民一人あたり約110万円を支出せねばならない)。
・VDSLという既存の電話回線網を利用した戸別のブロードバンド契約でも十分に対応できる(100Mbpsが理論値)。
→市費を使う合理性はない。現時点では市費による一律敷設計画へは保留が妥当である。
※なお簡易な無線基地を独自に設け、そこから電波で各接続先へ高速回線網を敷くことも技術的に安価かつ即座に可能である。

カコ記事の参照URL
http://kamomenome.exblog.jp/11372514

ま、負け組み一直線ですな。社会主義国家じゃねーんだぞ? なぜきりがない僻地住民どもの私的用途のためにわれわれが110万円ずつ貢がねばならない? 通らない道理であしを引っ張る悪党はこの市から出ていけ。こんな初歩の問題すらまちがえる様では先がおもいやられるどころか、おちこぼれるに決まっている、給料もらいまくってる役立たずの市議会議員どもは勉強不足だ!


追記
単純になぜこの答申がおきたかというとネットを使いたい、という単純な論旨だったのではないか? 先ずそれなら市庁舎でも図書館でもいいから「市民のパソコン」みたいな常時接続ものを一台から数台用意してみればいい。それでも利用者は驚くほど少ないだろう。そういうわけで足を引っ張られ迷惑かけられるのはご免こうむりたい。ネットしたいのはまだわかるが、それならじかにNTTやソフトバンクほか回線業者とプロバイダーへ談判していけばいいわけで、公費を意味不明な私用されては話にならん。花園神社に超高画質ブロードバンド動画(しかも常時接続)を通してなにがしたい? 都市生活したければ町へおりろ。話はそこからだ。

2010年8月5日

のらねこ保安のおふれ

トクツナ(将軍)じゃないが、ねこ保護条例を制定してほしい。これはおととい、うちにいきなりいままできたいば人生でみたこともないおまんじゅうみたいなゴキブリがでてきたから。

この十年ほどのあいだにきたいばにはゴキブリが決定的に進出しだしのをだれもがしっている。その原因は、そもそも日本風土の蒸し暑さを増幅させるみたいな鉄筋コンクリートマンションの増産にある。これはまちがいない。そのころからでてきたのだ。コンクリートをへらすしごとがどれだけあってもたりない。これは一般の戦後型行政談合人とは真逆の発想だが。

海川のコンクリ護岸も、ほんとうに合理的なんだろうか? 砂浜というのは砂浜でいいんじゃないのか? 河川敷は河川敷でいいんじゃないのだろうか? 単にそれらの広さ・高さがあればいい。
なぜ治水ぶってコンクリ埋めしたがるかっていうと、実は土建票ねらいというのはさんざん国会で批判されてる通り。そいで民主党に国意がながれた。
ってわけで、ゴキブリがすみつきやすくなる亜熱帯環境にこの土地をしたくなければ、どれだけコンクリート談合をなくしても足りは市内のだ。誤字ではない。

 で、のらねこがもっとも重視されるを得る。のらねこは肉食者なので、インドの牛じゃないが、ひとの衛生上はゼンゼンのぞましくないあいつらゴキブリどもをくらっていってくれる。比弱な飼い猫ならしらんがのらねこのタフな繁殖力に期待大。かもめはそんなものたべない。

2010年8月2日

(かもめ)病院のニオイ

病院の話ですが、病院のニオイがほんとうにいやな人は多いはず。あれは、はっきりいって換気と消臭のモンダイだとおもう。

かもめ病院という名誉(カモメ界で)な病院へはこれをもっとも期待しなくちゃ。
窓は微妙か最大限にかあけられるのだろうか? とにっかく病院=病院くさい、というのがサイアクで、これを解消するにはどんなに努力してもらってもいいきがする。要は最大限の換気能力をもたせ、消臭の方法も最大に講ずる。これだけで病院が忌まれなくなるとカモメ界ではもっぱらのうわさ。

いぬのしあわせ

これはいますぐどうとかいう問題ではないけど、看板に県と市の名義で「犬の放し飼いはいけない」とか書いてあった。

で、ドイツやイギリスの話なのだが、普通に放し飼いされている。というか日本の犬とは犬のかしこさが違うらしい。首輪をつけたり紐でつながれたりしなくとも人へ悪さをしづらい様に専門のトレーナーとかが大体ついてしつけされてるということ、および「育種」がジョウシキなのでわがままだったり単に凶暴な犬はさっさと保健所で殺されてしまうということだ。イギリスでは二回かみつくとアウトで法的に保健所行きらしい。
で、日本の犬があれだけ凶暴だったりするのは、この育種観がなく欠点も溺愛ぎみなのに加え、いつも鎖につないで縛りきってるので少しの刺激でも神経症のごとく吼えたり暴れて抑圧を解消したがってるというところもあるみたいだ。

 こういう知識からいうと、放し飼い禁忌で日本の犬、というかこのへんの血統種がヨーロッパの優秀な犬に勝る能力を得るのはむずかしいのでないか? やはり環境というものがある。馬はいるかもしれないがきたいば犬というのはしらない。それはそうだ。優秀な犬を愛護する考え方がなく、厄介者あつかいなのだから犬としてはめぐまれない。

あるときボクはすてられた犬を見た。その少年犬はひどく傷ついたらしく、しばらくみてから去ろうとするとキャンキャンと泣き叫んで向こうにいる少年グループへと次のあるじ候補を求めに走った。ああいう犬をみているとこのあたりの犬は感情の繊細さがあるのかなと思う。そういう品種を育種しようとすればできるだろう。
で、それには大人しく、ききわけがよく、へたに噛み付いたり叫びまわったりしない血統書つきの交配を厳しい目でつづけていけば、このあたりの市民性の中でいまよりは幸福にくらす未来像がひらけるのではないだろうか。なにもわるさをしたくて糞をしまくるのではない。それが野生犬というものだ。どこで排泄すべきかを教えるのも飼い主と訓練家のしごとだ。

西洋の幸せな犬に比べると、あの捨て子犬と看板のつめたい文句はきたいば市民が無責任なばかりか犬への真の愛情、『より優等な血統へ育て上げる』という思想が欠けているあかしに思う。だが犬を粗末にする者は犬からも粗末にされるわけだ。狂犬病対策とかすらされていない猛犬がうろちょろしてるなら鎖は必須だが、飼い主の責任にすぎない糞放置で即放し飼い禁止もちょっと過酷すぎる気がした。

まふゆの大爆発

まわりがどう思ってるかしらないが、某有名旅館でまふゆの海へはなびをぶちあげるというしたたかなのかまぬけなのかなカン違いサービスをやっているのは、海岸にすんでいるすべてのいきものが知っている。というのは、日本の静寂にみちた行く年来る年のほか除夜の鐘しかきこえないはずお正月に爆弾おっことしたみたいな大きな爆発音が心臓縮み上がらせるほどまちじゅうに響き渡るのだから。

お年寄りはびっくらこいてこの世から出て行きかねない。まじめに。

 某有名旅館は違法じゃないもん、というかもしれないが、騒音は騒音規制法でしばることができる。市議会議員やその他としてあれは今後も放置するつもりなのだろうか? それともときたまあらわれる暴走虫を駆除するよりは後手にまわしたいのだろうか?

海の轟きどころか爆発音にしかきこえない騒音をまふゆの透き通った空気へひびきわたらせるかわりに、どっかトウキョウあたりからきた一見観光客どものいっときの余興に市民の心拍数を浪費させたいのだろうか? トウキョウとなどかかわればかかわるほどわるくなる。なにしろもと穢土だ。

2010年7月31日

へびのおや

どっどっドウロの みちばたで
てくてくあるいてた へびのおや
とおりにおどりでて へびのおや
ジテンシャきたら へびのおや
びっくりギョウテン のたうった
くさむらさがして のたうった

2010年7月30日

シャンハイ便はあんまりこのましくない

きたいばのカモメごときが口を出すのはおこがましいが、参考になるならということで進言すると、イバクーはイングランドかホンコンかタイワンの三箇所としかLCC空港つながりする意味がないと思う。というのは、いくら外貨獲得ったってひどく文化が低い相手からかねをもうけようったって、そういう低俗商売に反映されるだけで県民生活は壊滅する。ヤマダ電機の青田買いみたいなものだ。もう伏字にする必要すらない。
かねほしさに文化段階の低い相手とつきあう=堕落する、というわけで、かねとひきかえに魂を売るとはこのことなのだ。ま、ボクとしては県政の賢明さには信用をおいてるのでいずれ悟るでしょうけど。

「人はつきあうものに似る」というわけで、よくない相手とは縁を切ったほうがいいほどだ。

いわきの穢多さ

いわきエタ市は中高生もがんがん通るみちばたにキタナイのみやの看板を掲げはじめている。気が狂っているのでなければエタ人種としかみえない。どうして市政でそういう産業を撲滅させていこうとしないのだろう? エタには話が通じないのだろうか。

いわきエタ市はどういうつもりで汚い飲み屋の店を大量出店させ、平気なのだろう? 隣で醜悪な習性をみせつけられても嫌悪をこえて差別感しか感じない。いわきエタ市では理性ある人間として最低限度の風紀のとりしまりができないのだろうか。

国法がかえられないから仕方がないというのなら市民運動で撲滅するしかないのだ。東京土民などにしたがってもなにもいい結果にはならない。いわきエタ市はどう責任をとるのだろう。あいつらエタどもは金をもうければ勝手にふえていく。その公共の福祉への流毒が「人畜公害」として我々の市へも悪影響を及ぼすということが想定できないのだろうか?

2010年7月29日

かもめの警告

なぜ公然とうらで景品と現金を交換させている犯罪人格の溜まり場であるパチンコ店の社長が市政に入り込んでいるのだろう?

この市には腐敗以外の名称がないのだろうか?

なぜだれがみてもおかしい公然猥褻物をしかも子どもにすら購買できるかたちで陳列しまくれるのだろう? 刑法を知らない犯罪者ぐるみの市なのだろうか?

 これらは市警のないことに起因する部分も大きいきがする。なぜきたいばには市警がないのだろう。高萩などはぎまろレベルの公家やろうなので少しも相手にできない。公家は信用できない。太平洋戦も戊辰戦もすべて公家の悪業であり、さいごにはいいのがれしきれず自殺するようなクズどもなのだ。

もしこの注意がきこえない程度の阿呆加減なら市政などにすこしもかかわれるはずがない。猶予は置く。この公益に類する警告が理解できないようなら、つまり犯罪者パチンコ屋社長が市政から引退せず猥褻物販売を放置しつづけるようなら…そのときはかもめテロ(人のではない)でもなんでもやるしかない。

話し合いにならない犯罪者集団の支配は「革命権」の行使必然さに該当している(日本国憲法第12条「~自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない~」)。その革命による市政の覆しと乗っ取りは民主法の原則のみならず世界人権宣言で永久に擁護される。
��世界人権宣言第29条「すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当たっては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。」=つまり世界人権宣言の受諾国民は法秩序に服さねばならない。)
抵抗権は三権分立以前の権利の主張だというやわっちい批判があるが、これは違う。三権分立そのものが現状の様に機能しなくなった時点でそのしくみ自体を『公共の福祉』の為に抵抗によってくつがえす必要がある。まともな議員が議会前に暗室の全員協議会とやらで意見発表の自由を事実上牛耳られている以上これは外部から革命を行うしかありえないのだ。

でかもめの特攻(飽くまで人ではない。しかも何者かが教唆したわけでもない。かもめのカモメ意思による)で市庁舎がボコボコに糞だらけになってもそれはキタイバ人の悪業の因果応報であろう。勿論かもめには人相当の権利はないのでこれはどこからどうみても犯罪ではない、上空をとびまくってなにがわるい?(かもめが。カモメの権利はないのか?) これはまじめな話だ。

サブカル市場は去れ

この市の一番の問題は、サブカルチャー市場しかないということだろう。本屋がつぶれ、かわりにできたのは巨大なサブカルの城みたいな量販店。これでは市場としては文化面で終っているに等しい。当然子どもの時代から豊富な高文化にふれてくらせる層に比べればそこから出てくる品種も、育ちのわるさ、商売道徳、低俗さをまぬがれない。

��0代前半の親が幼児虐待で逮捕=10年ほど前の市の教育がすでに崩壊していた、ということを冷静に反省してみるがいい。つまりボクがみている「悲惨な文化状況」はあと十年後ほどになって結果になるのだ。そのとき我々が感心することはまずないだろう。低俗人が市から出ました、これは恥と罪でしかない。
だからボクが言うとおり、底辺高校の最も下の層は他の市に追いやる為に徹底迫害を得る。教育の場での積極的おちこぼしもそうだが、市政そのものが制裁措置をたくわえるべきだ。勉強しないならカネをはらって馬鹿の子どもを高校にやる必要などなく、そんな親は淘汰されて消えていけばいい。
サブカル品ばかり売りまくり買いまくる下賎な親子などすこしもほらむべきでないばかりか迫害すればするほどよい。アメリカへ行って日本村みたいな場所であつまって住めば州の支配率に応じては放置されるだろうが、国内でそれをやられると将来世代が絶望的となるので禁忌するしかない。

 美術館だけがいまのところ救いだが、もしキュレーターが下手な交代とかしてサブカル市場におもねりだしたらおしまいだ。そうなったら亡ぼすのにどんな留保もいらない。
 いまのところ市民の教養度が愚劣なのはあの本屋の構成をみれば一目瞭然。まずアダルトコーナー(これはとみに女性向けのものも含む。)をまっさきに潰し、次にくだらなすぎるマンガコーナーを潰すこと。しあげにゲームコーナーを壊滅させる。これが必要だ。マンガにもいいものはある、という意見などはふみつぶしていい。なら図書館がよく内容を考慮した末に購買してみればいい。それならブラックジャックとか作品として完成された古典に限定されるはずだろう。

たよれるのはまだ高貴さも残っていた旧世代の蓄積した資料の幾分かはある図書館だけで、図書館資料を電子化してひろく利用しやすいかたちにまとめることが必要だ。市場にまかせていてもこれは、ほぼ永久におこなわれない。なぜなら版権をもっている過半は、体面だけつくろった下層社会である忌むべき東京にある企業なのだから。
これをしなければ、馬鹿高生とその馬鹿親が買いあさりまくるサブカル品だけで市が埋め尽くされ、教養層がいきのこる余地がどんどんせばまり、市の風紀は下落しつづけるだろう。
中産資本主義経済の限度もこういう場所に見えてくるのではないか。それは衆愚政化にちかづくにしたがって(たとえばなにまろのお隣の市みたいな)全体趣味も商売道徳に染まって高貴さが欠けてくるというところだ。けっきょく『選良議決政治・選良投機経済』はこの面で必須なのだ。つまり最大数の量的幸福だけを目指している限り文化面で決定的に敗退してしまう。

サブカル市場は駆逐されるべきだ。東京文化は否定すべしとはこういうことでもある。善なる影響よりそれをつくる下層の比較多さから悪影響が、総合してみると大きいからだ。私的趣味をいえばイングランド、最低でも水戸に習うべき。知識人層との接点を最大限もつことがいきのこりの鍵となる。このための市政の枠をよく注意深く開け放つのは早すぎることはない。
いまの時点では市場そのものの動向はほとんど終っている。サブカルものだけながれてきてもなにもいい影響はなく、以前よりわるくなるばかりなのを冷静にみわたせねばならない。教養書のみの本屋に子どもをつれてこれる親と、くだらなすぎるワン○ー×ーの下劣サブカル市場づけの親子では結果は育つ以前に決まっている。
は○まろ稼業というおとなりの醜態をみているとこれは一刻もはやくないとこの市はあやうい。世界には「立派なひとたちの市場」もある、ということを文化全域のサブカル化まえに理解したらいい。地上最高品質の科学書が並ぶ本屋に誇りをもつケンブリッジ人も、政治研究書や哲学書がメインの棚につねに据えられているベルリン人もいる。そしてそういう層しかいきのこりの意義はない。きたいば人はエヴァンゲリオン新入荷しました(しかもタイミング遅れて)ではどこへ行こうと笑いものである。最低レベルのサブカル本屋を田園つぶして建たせたことを愧じろ。

2010年7月28日

競争社会は良いことです

いまさっきばつのテレビ番組でおーさかの底辺高校特集みたいのやってた。しかしこれはおもうところあった。

はっきりいってさとったのは、もう底辺高校生ってのは生まれてきた時点で終ってるし負け=淘汰決定だと言っていいだろう。これはいわゆるオトナは言わないだろうけど、ぼくは真実だと思う。「生きているのが考えられない」ようなレベルだし、なにかどっかの山奥の野蛮人を見ている感じで、生後の教育でどうなるってもんでもないはずだ。教室でケショウとか。どこの蛮族だろう。
はっきりいって親同士の遺伝した知能の程度がすでに終ってるというかとても低いので(しかも病気でなく健常状態で)、やはり子どもも知能が低いまま生まれてくるのだ。
 冷酷な様だが2千年後には完全にかれらの生きていた痕跡すらないだろう。人類は知能に特徴のある生態で地上に生存圏をのばしてきたのであり、この流れが変わらない限りは彼らの生存そのものが無駄なのだ。かれらより能率のいい機械がでてきた時点でかれらの命の意味はおわったのだ。
当然人類の中にも遺伝偏差があり、あたまのよしあしは生まれつきでてくるものだろうけど、ぼくが見た限り、これは教育でカバーできる差ともいえないみたいだ。教育にできるのは「いい方の人種をさらにのばす」加速であり、わるい方のヒトたちはもう終ってるというか、選良人種としてはなにをしてもムダ。おーさかのあの底辺高校のフウケイはこれをまざまざと示していた。

 イギリスではあからさまな階級社会が温存されてるので、情報によれば下層の労働者階級の荒れ方がひどいということだ。けど当然そこにはすみわけがある。だから日本ほどひどい混沌が生じることはなく、上層の知識人階級はわりと円滑にくらせる条件がある。
パブリックスクールの王道に入ってしまえばよほどでないと下層労働者のまちへ近寄らねばほとんど見ることすらないだろう。けどそれが賢明というわけで、ゴキブリは見ないですむならそれが最もいい。
 日本がひどいのは、キョウエイ高の話題でも書いたがまったく性格のちがうひとたちがごっちゃになってしまうことだ。この問題は先に手を打っていくほうがいい。おーさか状態になったら地域としても運命のおわりだと考えてまちがいない。あの生徒は親の種ごと絶やさないともうなにを教えても救えない。

だから、ぼくの意見では「宗教」の力を下層の民へはおよぼすのが最も合理的。具体的には現状では世界中でもっともましな宗教だろうプロテスタント系のキリスト教会を設けて、そこへおちこぼれ生徒を通わせるのが最もよい。いばきりにこういうお願いができないものか? 飽くまで法人だから需要がなければ誘致もできないかもしれないけど、宗教者はさすがに慈悲のおしえに尊いのでおちこぼれに冷たくあたることなどありえないし、もしあるなら宗教者ですらない。
そしてそこへ放っても更生できねば即刻逮捕し、牢獄で余生を送らせるのが完全に妥当だ。迷惑をかけられると優秀で未来のある市民の逞しい育成が害される。その被害対策の方が終っている親子よりは優先なのがまちがいない。人種は生まれつき違う、特に知能で違うということをあの光景は教えてくれた。
すぐれた機械のある社会でそういう親子は知能が劣っているほど生まれてくること自体が誤りであり(但し病気でという場合は良心の問題があるのでなんともいいがたいが、健康体の場合)、しかも他者と共存するための宗教心すらないときその現存そのものが害だ。

基本は「競争社会」を維持することにある。もしそれが維持できれば、つまり共産主義とか社会主義とか原理主義とかの保守思想にかぶれずにやっていける限り、ああいう救えない人種がいきのこることはありえない。もしそういういきものが生き残るとしたら人類など存在意義がなかったにひとしい。知能の特段高くない獣などいくらでもいるのだから、ほかの動物類を害してくらしている限りその生態は地球の多様化運動にとって邪魔だから。

もしキョウエイ高の生徒にこの原則をあてはめれば、もうおちこぼれていく生徒を救い上げる努力はやめたらいい。進学型=自由型日程と就職型=スパルタ型日程を分けよとはもう書いたが、それに加えてスパルタ型日程のなかでもっとも低いクラスは余分に定員をとっておいて、つねにわざとおちこぼす優勝劣敗ルールを導入すればどうだろう。これは飛び級があるのだから自然なことだとおもう。
そういう不良は放置したらもっと悪さするだろう、ってはなしは先に書いたようにできるだけ立派な宗教施設が最低限度の安全網でそこで救えねば監獄で暮らさせるべきだ。そうでなけりゃ例によって暴力であたりに迷惑をまきちらす。
おーさか底辺高校をみたらそれが妥当だとわかるだろう。ぼくには衝撃的な映像で光景だった。あれは教育などしても意味がないとまともな人間になら理解できる状態だった。話を聴こうともしてなかった。奴隷の子どもというならわかるが。

じもとの商品交換券

じもと商店街の活性化には「北茨城紙幣」というか商品券を発行すればだろう? すればだろうってこともないが。どうときくまでもなく、現金よりは利回りがよくなるとおもう。

現金をつかうのが不安なのなら、それをとりのぞく工夫をすればよく、これは5~15%くらいの利幅(つまりそれだけじもとで使う得)のある商品券と景品やキャッシュバックサービスで交換して、そっちで消費してもらうのがかしこい。かもめデザインを施してくれれば一石二鳥だがそれはいうまい。

2010年7月25日

涼しげな計画

きのうのいばしんの最後のページにものってましたけど、きたいばはやはり涼しい。朝晩とか特に夏とはおもえない。といってもこのあたりにうまれてからしぬまで住んでる分にはきづかない涼しさだ。やはり気化熱での冷涼効果が大きいとみえ、山側ではさほど涼しくないという話です。

で、ぼくがまちのために今もっとも有用だと感じるのは「都市公園」の計画。ひとつのモデルは偕楽園だが、あれもきたいばの自然にかかれば雑だ。

きたいばの特徴として涼しいというのを前面におしだせば、浜辺の延長か川岸の拡幅や開放がいいのかも。水辺ばっかじゃ冬は寒いじゃんという意見へは山があるでしょうといえる。しかし全体とみればイギリスなんかにくらべて日本は暑い国なので、涼しくしようとするのは正解と思う。なにしろ冬は冬で、あおもりあたりみたいな豪雪でもないのでこま雪がふればふったで綺麗なのだから。
とにかく温暖化の時点ではできるだけ水辺を広めてまちを冷涼にするのがかしこい。昔はその点でもコンクリのビルやアスファルトの熱をためやすい路面もなかったうえ川はいまより綺麗だったのであちこちで子どもが泳ぎ涼をとっていた。エアコンがんがんつけて周りにも地球にも迷惑まきちらすのではないこういう世界にも利点はあったのだ。

スーパー堤防(超堤防と訳せ)というアイデアがあり、段々をゆるくするかわりに親水ひろばみたいのを広く設けるということなのだが、あれもいい考えと思う。特に下流の方ではいまでもやろうとおもえばできる。草ボウボウになってる場所をゆるい勾配で川まで降りてけるように少々土をもればいいだけだ。
もと、みとの千羽湖は人工池というか非常飲料をかねて那珂川の迂回でつくったらしいから、こういう考えをひけば磯原のまちなかにも涼みのための流水路やそっから個人宅までひいた池をつくったりできそうなものだ。

もしかすると市の計画で国道バイパス化しようとしてる議論があったのは、海辺ってか浜辺をまちまでつなげようっていう大胆な長期構想があったのかもしれないが、それなら歓迎する。浜辺は涼しいものだ。単に津波だけ景観と矛盾しない堤防の計画で避けれればいい。

 あと地味なはなしですが、路面の熱容量をへらすには白塗りにすると効果があるとどっかできいた。簡単なはなしだが、今後道路を市内、特に中心市街でつくったりなおしたりするときには都市計画課で検討してほしい。
国道交通省の法的規則とかで路面は生アスファルトの黒ときまってるわけではないとおもわれ、たとえば高速でもたまに生コンクリの白がでてくるが、ああいう白色をアスファルトの上に塗るだけでまちは涼しくなる。これがまちがいないことは陽射しのはげしいので有名な地中海の街並みみればいっぱつでわかる。かもめ風にまっしろですから!
なにも磯原・大津あたりの市街部だけ都市計画で白塗りしたからって怒られるなんてありえない。びびってやらないよりはやってみる方がいい。昔はアスファルト舗装道路そのものがなかったのだからあのむしむしと蜃気楼のたかる黒色が伝統というわけでもないので固執する意味はなにもない。

2010年7月23日

川のキレイさ

ポピュリズム(人気政治)にあらがうには、現実にある堅実な話題でできるだけ行政の長に余計な人気とり稼業をさせないこと、つまり「つねに仕事をあてがっておく」必要がある気がする。放っておくとテレビ出演で一人勝ちしたがるのが民主政末期の症状=衆愚政。

で、きたいばでいうと下水道の整備率とかだ。これはひくすぎるのではないか? 要はなかば未処理のコレラ菌とかがへたすると川に流されてないともいえない。

実際花園川についていえば中流にたくさんできてきた新興住宅付近での洗剤のにおいとかひどくなってきた。陥没しているところでは泡が浮いている。浄化槽は単独で浄化能力が十分ではないと思われ、それ以前に川に流す場合もあるのかもわからない。
こういう喫緊かつ長期の課題をなおざりに、豪華すぎる娯楽設備完備とか問題があると思う。あと応援団にもかかれてましたが、耐震改修の遅れはひどすぎる。大地震があれば子どもは死ねと言っているに等しい。こういう堅実な課題はクリアしても自己犠牲しかないとおもうからだろうか、美術館とかなんちゃら施設とかカラクリなんちゃらそういう目立つのにお金つかって人気取りはよくない。

 けっきょく、行政人のモラルとは「自己犠牲」にあると思う。そうしたくなければ行政府に入るべきでもないのだ。まちの基礎ができてないのに上っ面飾ってもなんにもならない。この面では○まろとかまじで切れる。どこに住んでるのかしらないが、なにせまろだ。公家じゃねーんだぞと。ま、どうせ違う市だから放っとくが、人気取りは長期でみればろくなことにならん。川がドロドロでアユ死滅ボウフラ大量繁殖、ヒトはコレラ感染、大地震で子孫ども生き埋め、こういう末路に至りたくなければなんのかのと削減した予算は地味に基礎建設にまずまわすのが道理でないか。

ふつうに暑けりゃ川で遊んでる子どもとかあるていど昔はそこら中にいたわけだが、いまはあまりヒトが近づく様子がないのは行政の怠慢と新規住民の低モラルがあるとおもいます。

2010年7月22日

東京文化は否定すべし

石岡のまつりポスターがひどい。オタクにおもねる意味がわからない。ひたちの国まで江戸カルチャーの余波に侵されたら関東もおわりだ。石岡はつぶすべきだろう。

偶像崇拝を煽るという意味では、お隣の市のポピュリズムもひどい。キャラクター稼業みたいの、ほんとやめてほしい。キリスト教であれイスラム教であれ、偶像崇拝を認めてない宗教の意義がわからないとみえる。わかすぎる市長をえらんだ市民の末路だから外部からはどうしようもない。

 しかし、石岡のオタクポスターにせよお隣の市のポピュリズムにせよ、ひたちの国も卑しい東京文化に毒されつつありまこと心配事が多くなってきた。だから天皇に関わりあうなというのだ。天皇に関わりあうと必ずおかしいことになる。鬼神を語らず、これが原則なのだ。

へたするとこの市もへんな偶像キャラでこどもだまししつつカネでもむさぼろうとしだしたり、あるいはおもっき大衆政治にかじをきっていわゆる石井政権とかを樹立しかねないからこわい。ぜひとも堅実に歩んでほしい。そしてお下劣オタクカルチャーには少しも妥協しないでほしい。さすがに天心ありきの市ならその心配は県南よりはしないですむとはおもうけど、一応。

石岡あたりはもうおわりなのかもしれぬ。水戸でもアホすぎる商店街が自分からアキバ化みたいな漫画売り込みしだしてるみたいで、ひたちの国も半分は江戸・東京の大衆文化に毒されてほとんど急病人みたいな状態になりつつある。黄門ちゃまとか。
ほんとにつぶすしかなくなったら県ごとつぶすしかない。キャラクター稼業とかはじめたら市にでもなんでも批判をこえて攻撃を仕掛けるべきだ。もしそうしなければ末路はもっと悲惨なのだ。偶像崇拝が子どもや民衆のこころに及ぼす影響は大きく、いわゆる宗教心をどんどん失わせる結果になる。つまり道徳観念が実在しない仮想キャラクターへの感情移入で歪みまくる。政権に携わる大人すらこういうことをはじめているので、日本の大衆民主主義はもうおわりに近い。水戸黄門は実在した人物だからまだしも、なにまろだかしらんがカモメの硬派ぶりを見習わせたいものだ。カモメは鳥である、海へ行けば飛んでいる。

2010年7月21日

きたいばカルチャーの知的鼓吹

ひとにより趣味がことなるとしても、ボクはいわき人が夜のまちでけばけばしい女にかこまれて嬉しがっている意味がわからない。単純に、そんな女不愉快でしかないだろうし、むしろ死ねとしか思わない。これは本当に感覚がちがうんだと思っていわきをみていた。

文化としてのいわきはあまり高級でもなければ尊敬すべきにも思えない。はっきり言って中途半端に劣っている。福島広域にもこれは言ってしまえる気がする。野口英世はわかるが、生家を補修でもちこたえさせるよりあの金属製の覆いはどうなんだとか思う。白虎隊についてはノーコメントだ。われわれの土地の流れからするとそうするしかない。もともと公家と組んだ薩長は戦うべきでない相手だったのだ。

で、たとえばだがいわきがどうしてああなのかいうと、雨情ジダイからそうなのだが女が多過ぎるのではないか? なにか文化面で、女を褒めるところがどっかにあるのかも。印象としてもそうだし、じっさい女子大発祥率が高いわけでそれは確からしい。もう一つは福島は伊達・徳川の中間地になってしまったので都市部へ成人男性が流出してしまうことが一因だろう。
どうも人口構成面でも福島のひょうたん型はこの面で特殊だ。生産人口に比べて幼年者が極端に多い。どうもきたいばもこの傾向に多少近い。これは本屋の構成内容をみてるとわかる。後期高等教育以後の人口が老年まで抜け落ちるから教養書を置かないわけだ。で、知的人口の少なさはパチンコが繁栄してることで理解できる。

 要はいわきに従うべきではない。人類史の一般則だが、女権がつよくなると滅亡に漸近する。だからいわきとは距離を保つほうがいい。ああいう女飲み屋の意味がわからないのも妥当なのだ。彼らの知能がボクとは全然違うからあれらのイミフメイな営業がなりたつので、まったく協調できない。
ということは、のこる選択肢は高萩と広域提携に進むことくらいだ。日立の勢力を考えると、遠い将来には日立州みたいな単位の一部としてきたいばは県北端で独自の地位を占めるだろう。地理の条件をいえば、日立・高萩・北茨城はじっさい一体といっていい。海と山が急激に隣接した地域独特の感覚は、どうもほかの地域にはなく、この三つの市にしか存在しないらしい。海と山に同時に近いというのはあまり例がなく、そのどの地域も海からの日の出のみられる土地であるのは共通感覚をもっている証拠な気がする。ここら出身のひと以外にとって初日の出を水平線からみたことのない人も多いものなのだ。

で、これを考えるとこの三者に共通の公立大学は茨大工学部だけなので、われわれ県北三市の意向としてこの大学町としての発展をのぞむのが妥当ではないか。どうもいわきは女には甘くていいかもしれないが、将来性を考えてあまり上等でもない。
よって、各市立図書館同士で連携をつよめて、茨大工学部の書籍や講座と互換的経営をしたらどうだろう。なにか知的風土がとても減退しつつあるのがこの市の雰囲気にはあるていどみてとれるからそこが補強点かなと前から感じている。がいわき明星は上述の理由で、茨大工学部にくらべれば優先優遇すべきでもないだろう。結論をいうといわきは商圏としての利用しかのぞめない。文化面ではつねに日立側に着くのが賢いはずだ。

具体案だが、茨大工学部の準教授とかに講演してもらい、いわゆるカルチャーセンターみたいな生涯教育のムードを市政にとりいれたらどうか? ぼくが見てると、へたに若者だけでああいうイミフメイないわきの猿くさい享楽にふけるより(雨情もその辺でずいぶん暗に批判されてきたので来る勿れ問題のありかがわかろうというものだが)、知的たしなみの中でおのずと交流を深めるという方がよほど高級であり教養高いと思われる。
市のサークル活動みたいのもそのあたりの趣味から生まれてくるだろうし、こういうのがひきこもり年寄りの孤独死にも事前の予防線になるのがまちがいないと思う。わかいころから温泉街のろくでもない店に逗留してるようでは先がおもいやられるのだが、逆にわかいうちに最前衛の発明への意欲とか最先端の技術への研究をいろいろ説き伏せられてれば、大多数はそっちへ興味をもつだろう。
ほかにもこのカルチャーセンターでは華道、茶道、碁、将棋、大体このあたりが定石で、そういうのの交流の中でわざわざはずかしい結婚紹介所を介さなくともしりあいの機会は創出できるはずだ。なによりよくないのはいわきみたいな、放埓な男女関係の増長とかをゆるしておくことだ。スナックもこの観点に弱みがあるので、従業員の精査でいわゆる居酒屋(イギリスでいうパブ、つまり立食か座卓形式の個人個人の酒飲み場、程度。まあこれすら前から言うが国際規制の流れの中にあり最終的には流行らなくなり消えるので規制実行を視野に入れつつ)をこえた営業の一切は消滅させるのが賢明だ。のんだくれに何一ついいことなし。
だれとはいわず先人の汚点にまなんではいけない。いわき市政というものもそういう点では徳川直系より道徳観念ではるか格下なので注意してできるだけ距離を置いていなくてはならない。かれらにしてみればきたいばブランドなるものが過去の逸話からいくらかあるので、中華思想よろしく抱き込みにかかり誘惑してくる傾向があるがこれは罠だ。われわれの立場は関東圏の諸々の条件を利用できるという意味でかれらより優位、または悪影響を避ける対策という面でより複雑なのだからほぼ同じ条件では語り得ない。

2010年7月19日

図書館の考え

かなり前衛な考えだから理解されるかわからないが、市立図書館がてぜまという意見にどう拡張するかという議論は、この方針はどうだろう。
可能ならだけれど、いま上桜井のとこにあるヤマダ電機くらいの規模のとても簡潔な倉庫っぽいだだっぴろいたてものをつくってそれをぜんぶ倉庫型の開架書庫にする。出入り口で管理すればいい。

敷地として、むかし、今の図書館のうらには自動車整備工場があったのだけれどそこがいい。ただし本は水浸しになったらおしまいなのでこの倉庫システムは床高を相当高くする必要はある。だからスロープ(迂路)かエスカレーターでそこまで足腰のつよくないヒトも誘導することだけは必要だが、ほかはとくに工夫もいらない。イメージとしてせんだいメディアテークの図書館を平屋でだだっぴろくひろげたみたいなもの。

倉庫というのはいくらでも転用がきくし、平屋なら安価にたてられ、しかも改築や建て壊しも自由にできる。わざわざあたらしい図書館を(どうせ電子図書化していけばそんなふるいものは利用されなくなって高級すぎるたてものそのものが無用になる)ゼロから建てるよりは、この方針のほうが実があるとおもう。で、いまの図書館のたてものは閉架か貴重書か管理者用にすれば持つと思う。
最近の再開発ではいままであった思い出深いタテモノをすぐぶっつぶしてなにもなかったことにしようとするが、あれだけは避けてほしい。なにか過去がすべて消えた気分でまことさびしくなる。市民が寄付すらしてでもできればあの今は図書館としてつかわれてる建物は保護・補修して遺したほうがいいかもめ。
サイアクでも、表参道ヒルズの場合みたいに一部はのこすべし(調べによると、あれは原型で建て替えたということだ。そういうアイデアもある)。あと屋上は開放して市民の憩いにすればいいと思う。屋上というのは行ってみればわかるがとてもいい場所だ。空しか見えないし、空気がいい。それを昼休みでも何でも利用しないのは市民として損失とおもう。

2010年7月18日

あたらしいトショカンの注意報(かもめ)

 図書館拡張は現時点では慎重かつ巧妙にやるべき。なぜかって、電子図書がいま国立国会図書館なんかでも対応はじまってて、出版界の再編もあるだろうから、いままでのルールがそのままでは通用しなくなる。いわば電子化した図書館のほうがジョウシキになる。

具体的には図書館というかたちそのものが不要になる確率が高い。現時点でもあおぞら文庫とかつかえば普通に昔の文学系の本をわざわざ借りてくるのはものずきとしかいえない。

で、いわき市立ソーゴー図書館のあの膨大な書庫は反面教師。しかもイミフメイなことにとりだす高価過ぎそうな機械を導入している。これだからいわきは中途半端なのだ。
由来をいうと、いわきは情報化のスピードを予見できなかったので、数十年前からあの駅前再開発計画をつくってたのだが、そのなかで図書機能がどれほどはやく進化してくるかを見通せなかったのでああいう膨大な機械庫まで建築計画にはじめからいれこんでしまった。
アイパッドや英米の動向をみてると、あきらかに電子図書がジョウシキになる日はそこまできている。で、グーグルが実践しているみたく出版界もかならず電子ベースにすべての書籍をのせるのを基本にしないといきのこらないし、実際これに遅れてしまえばまちがいなく淘汰される。電子ベースにのせればいままでかかってきた経費がすべて削減できるので、当然安価になかみを提供できるから。

で、国会図書館ではむかしの書籍はすでに電子古書庫している。この流れをよめば、「北茨城シリツトショカンの電子書籍化」はとうぜん今後の設計にくみこむしかない。だから開架図書というかたちそのものをかえてしまうべき。
すべて電子アーカイブによみとりして、市民のカード番号をネットで入力すれば全世界のどこにいてもその市民はきたいばシリツトショカンのなかにある図書はみなよめますよ、というのが基本だろう。で、いままでやってきた窓口での貸し出しや開架書庫での閲覧のかわり数台から数十台の液晶端末を常置しておいて、ここから自分で検索させる。
で、開架書庫や貴重書の閉書庫(いまのところそれがあるようにはみえないが、いずれできるかも)は貸し出し用というよりは「自由閲覧」のために設けるべきだろう。そこでぱらぱらとみて、その図書名をメモるなりで端末で閲覧する世界にしていくのが合理的だし、じっさい使い方おぼえるのがはやい若者とかはすぐそういうかたちになれるだろう。

これを考えると、いわき市立総合でやってる方針はいくぶん時代遅れてしまったというか計画の柔軟性を欠いてたのでちょっとせきすぎたとおもう。あんな機械は電子化さえしてしまえばいらんし、維持費もかかるのであまり賢明じゃないと思う。単に閉書庫にして機密に管理するだけでよかったのだ。


きたいばシリツトショカンの拡張計画は、こういう時代の基本をよくおもんばかってもらいたい。カモメの分際でとおもうかもだが、カモメこそ屋上でよく眺めているのです。そして屋上も気晴らしにいいから開放したらいいのにといつも思っている。
要は広くする意味はない。今後、トショカンは狭くてもよくなる。単にもしこれ以上電子版でない図書(それも近く絶滅に向かう)を購入しつづけたいなら書庫をいままでよりわずかに広く設けるくらいで全然行ける。だから再開発ビル内に「トショカン別館」みたいにして閲覧機、アイパッドでもパソでもいいだろうけどそれをいくつも置いとくだけでなにもおおげさな無駄がねをつかう意味もない。

 出版社との関係だけれど、著作権の切れてないものは購入した途端その閲覧権はトショカンにある、というのは当然なので、まずそこで電子化しておいても作者ふくめ訴訟されることはない。たにしゅんみたいな巌のごときお年寄りがたは例外だ。大多数の作家・著述家には出版過程が省力化され取り分も多くなるから望ましい流れなのだから。
問題はこの閲覧権を、どのていどにしておくか。はっきりいうと「市民サービス」の範囲でトショカンカードある市民にはネットから入力するだけで入荷しだい閲覧できます、というのはセーフゾーンだと思う。いまですら人気作品ですら数冊とか買うか買わないかのキボの図書館なので、なにもすることは変わらないし予約の手間がはぶける(何人も同時閲覧させられるから)だけ良い。
 で、版権問題とかは国と県とにまかせてこの基本システムだけはさっさとやっても大丈夫だろう。もしなんか言われたらそこで変えればいいし、グーグルへ訴訟してるのはたにしゅんらの協会でしかない。むらかみりゅーとかも電子書籍にのりだしているし、あの流れのが普通になるのがまちがいない。直接電子版で買うかそれとも書籍版で買って図書館でスキャンするかは安い方にすればいい。

あと音楽や映像の視聴覚資料は、こないだ土浦のどっかの図書館でネット配信もできるようにしたからそれに追随してるほうがかしこい。いわゆる管理システムを導入すると高くつくので無駄くさいから、それなら図書館内で持ち出し禁止のみききだけさせて貸し出すかわりに私的利用の範囲でダウンロードしてね、という方が利口だ。
��いばしんでさっき調べたら契約上ストリーム形式ではあるらしいが年に15万とか26万とかでいいらしいから市民の規模分の費用を考えるとひとりあたま5万人分の15万円=3円/年で済むわけでこれは使わない手はない。但し、貯まらないとフローのが多くなってくだけな気もするので、いわきや県立でもやってる購買方式も一方ではやった方がいいし、そのあたりは歴史民俗資料館と協調すべきだろう。つまり市に関わりある貴重品だけは必ず買う、と。)

こっからさきは情報化専門性の高いはなしだが、
ぼくが個人的におもうのは、ファイルのタイプをわざわざPDFというマックでも読めるというふれがきに誘われた重たいファイルにするのがはやってるけど、実はJPG(ジェイペグ)の方がずっと軽い。
だから永久保存版はPDFでおそらくいいとおもうが(大多数の作品がそのファイルのタイプをえらぶから、おそらくOSとかに大幅な進化があっても移行や救済がしやすいはずだから)、ふだんの閲覧にはふつーにJPGのがいい。
 これはきたいばらきシリツトショカンが軽快なホムペもってることからも、百ページ以上の書物でも単によめる密度のJPGでまとめてスキャン後アップロードする、だけでいい気がする。永久保存版は市が勝手に鍵つきのハードディスクなりDVD‐Rなりにdpiを高くした高級画質版でしまっとけばいい。この両方版をつくるのがめんどうなら、中間の画像でPDFでつくっといてすべてまとめてJPGにするのが簡易だ。
でブラウザ上でよませるにはわざわざ専用のページを国立図書館とかではつくってるのだが、重くてはなしにならんのでいわゆるファイル&ファックスビューワーとかふつーのウィンドウズ上の画像閲覧のソフトでみせればいいに過ぎない気がする。その操作法のがお年寄りでもできそうな気がするし。
このあたりは市や図書館のホムペ自体もシンプルイズザベストでかなり優秀なつくりしてるのでまかせとけばうまくいくだろうけど、一応。

2010年7月17日

地区のすみわけ

この報道でおもうに、やはり市民性・県民性もあるとおもうけど批判的というか欠点をなくそうとする論調が多い。どうしてもそうなってしまう。水戸藩の影響がおおきいのかもしれない。副将軍を自称してただけあってそのへん自分らに厳しい。

褒めるのが才能を伸ばす骨なので、褒めれば褒めるほどよいわけだが、自分の住んできた感想をいえばこのあたりのすぐれた点は自然環境だとおもう。これは衆目一致するのでは? 穏やかともなんともいいようがない。関東にありながら涼しい。
こないだ吉田松陰の東北遊記よんだが、かれもこのあたりを通過したときはながくつづくキレイな白い砂浜にそうおもったらしく海の漢詩をつくっていた。

 原則として、なにかこのあたりに市民らしさの余地があるとおもう。いくら褒めようとおもっても、文化発表みたいな機会のすくない土地ではそういうものが仮にあるにせよなかなか表にでてこないし、でたがらない達すらある。帯刀と竜馬をくらべてみればそういう性格差は一目瞭然。
がこの利点もあるというか、気づかれないほうが勝手にやれるしへたな観光名所にもなりにくいので自由でいれる。こういう身軽さをのばしていくべきかも。

日立ときたいばのすみわけの余地もなにかそのあたりにあると見る。立地のちがい、自然環境の微差ものちには大幅なちがいになるとおもわれ、市の方向性もこれにならえば北関東圏でもかなりおもむきのちがう世界ができあがるかも。

かんたんにいうと「文化の造りや性格は消極的だが自然環境は抜群に良い」という考え方がもっぱら基本か。自然環境面でいって、これはすみごこちのよい世界の骨なのだが、単に放置するのではなく単に手を加えるのでもなく自然の特性を強調するのがいい。海辺は海辺らしくし、山間は山間らしくする。この工夫がないと未開地と変わらない。
で、地区制の導入もその一案だけれども、建築条例とかで海山川の三箇所にちがう規則を設けるとかもいいとおもう。山で目立ちすぎる高層は原則として抑制、海辺では帆の様な軽快な構造をガイドラインで推奨とか、川べりでは親水空間を設けると助成あり、とかこんなものではないか。それで市や県がもってる生の自然との対照がかなりそろってくる気がする。
 なにも私に口を出さない範囲でも、ぎちぎちの堅い規則にならない程度になにか共通の符号というかデザインコードを公共物に導入するだけでちがうと思う。いわゆる古都とかで自販機を茶色で塗らせるとかいうレベルのものだ。
いまの段階でも町の通りには雨情系の図柄や雰囲気がつらぬかれてるけど、ああいうことを地区毎にあるていど考えと趣をかえていくとさらに多彩になる。自然環境のよさをほこるにはそういう工夫がいると思う。

僕が子供のころ遊んだ華川の清流は道路拡張でコンクリ護岸でつぶれてしまった。それも地区ごとにこまやかな配慮をしないから実質の自然破壊になってしまったということだと思う。おなじことは、中央政治の一本やりで貫こうとすると海でも山でも川でも起こるはずだ。

2010年7月16日

深夜営業規制のこと

 きがくるった人物が通りがけに爆竹を爆破させていくまじでおかしいきたいば社会。ヤンキーのレベルが。

 それはそうと、東北圏の低い倫理観の悪影響を受ける前に市の深夜営業規制はできるだけはやく制定した法がいい。法がいいとしかいえない。誤字ではない、東京に、国法にまかせておくと永久に規制できない。つまり市の条例で規制してしまうべきだ。

夜8時以降は、飲み屋をふくめて従業員が客を相手に商売してはいけないことにするといい。要するに夜8時からはどれだけ出歩こうが無人店舗の自販機とATMしかない、という状態が環境浄化の目標だ。これは制定が早ければ早いほどいい。そうすれば早起き営業がはじまるだろうが、これは都市風紀の健全面からどっちかといえば望ましい。カモメライフをみよ。
これから先のあるこどもが安心していられない町にしてはいけない。ねしずまった町に爆竹放つどうでもいいヤンキーの溜まり場しかない町などだれも望んでいないし、望むなら嘴太(はしぶと)ガラスのように大都会へ帰って欲しい。ここは童心の町なのだ。
カーカーとさみしく鳴くみやまがらすしか呼んでないし、それは童心があるからそう鳴くということになっている。そういうわけで、あのグリーンマンション看板も外してほしい。だれも注意しないらしく放置されてるが、住む場所をまちがえてるのでさっさといわきへ帰ればいい。

それとどうでもいいが、いわき市で深夜営業規制をなぜやらないのかわからない。福島そのものがろくでもないからだ、という理屈もあるが、問題はわれわれはいわきと隣接してるというわけだ。よっていわき市については深夜営業やめてほしい。へんなのがこっちまできたら困る。もしやるなら郡山あたり奥地でにしてほしい。それなら磐越東線とかローカル線でしかつながりなくなる。
常磐線界隈ではそういうのを浄化して行こうと思うし、実際浄化し易いだろう。なんでかって一つの場所でそういう条例が通れば、その沿線でも同じくしないと意味ないので、さっさとおじさんがおうちに帰って連鎖すると見た。カモメの遊ぶ海岸線をよごさないでほしい。人間どもの勝手きままな深夜営業でながれてくるごみくずで。

 あとこれに加えておもったが、市内には二つある本屋、あとコンビニとワン○ー×ーでつねに売られてる成人向け漫画雑誌DVDゲーム他を、市政の議員はいちどどんなのか行政の監視のもとで閲覧するといい。東京都ではそれをやってみた結果、あまりのひどさにおどろいて規制しますと言った。無知は罪。さいきんのひどい漫画は底なしにひどい。当然これも販売禁止かさもなくば身分証提示を義務づけねばならない。
だいたいああいうものを売って儲けるということが悪業だ。それに、日教組とかの過激派が教育だとか偽って未成年に無益な放埓をおしえこもうとする。その結果は未成年から成人以後までの時間を無駄にするだけだ。結論から言えば、ヒトは動物としてどうせどっかから生殖知識などひっぱりだしてくるものだから、刺激しないでおけばいいだけだ。ゆえわざわざ販売してまで教えようとする意味はまったくない。
 市議会議員の親御が知ってるかどうか、男性向けではなく女子向け、むかしでいう少女漫画がひどいのだ。これでは先々がおもいやられる。どの国へ出て行っても日本人といえばみたいなまなざしで偏見づけられるのも時間の問題といえよう。自業自得。行政閲覧での販売規制に限度はないわけだ。端的にいって、イギリスでそういうゲームがさっさと規制されて日本製成人向けゲームequalろくでもないみたいな図式ができかかってるが、それが賢明だ。本当なのだから。

2010年7月13日

かなり以前

九州大の教授がちょうちょ型のロボを開発した、とべますというのを日テレ系のあさのニュースで映してた。ずっとまえですが。

結論からいうと、あの教授とじかで契約して、日立あたりが量産または関東近郊のベンチャー企業との別注にすすむといいと思う。なんであんな朝から全国放送してたかったらつくったはいいがどこにも受け入れ手が、特に九州圏にはなかったんだろう。
はっきり言って軍事用途しかいまんとこないとおもうが、そう純粋に考えればとてもつかいみちがある。県警、すくなくとも筑波警にはあのくらいの先進設備は導入してもいいと思う。被爆地での迅速な救済とか、そういう事前の準備にもなる。そのくらいすぐれた発明だとおもったが、風流ねぇみたいな見方をしてたのでそれも一理あるが二理はない。

2010年7月11日

市内の教育クラスわけ

公教育のはなしなのですが、全国キボのはなしされてもここはきたいばだぞ、という庶民はのみなさん(読者がいない)のご意見はうけいれないことはないですけれども、まじでおかしいというのは自覚してもらわないといけません。

塾で学校の予習復習させる、というシステムは公教育が機能してないにひとしいのではないでしょうか。これは正論すぎておもしろくないはなしでしょうけれどね。「教員はくにの方針でまじめにやってる。なにもおかしいことはない」というはなしは、くにがおかしければあなたもおかしいのだ、で終る。税収で生活しているのだあなたは。土台おかしいだろう。

 単純に、「塾だけで卒業できるシステム」ならおかしさは少ないのですが、おちこぼれうけいれ装置としての義務教育の学校はそういうよく勉強ができる層のあしをひっぱることしかできてない。文科省の意向は権力闘争でころころ変わるし、けっきょく塾の方がもともと大学受験まで視野に入れるクラスで分けるので信頼できる。これはたしかなはなしです。

日本人が習慣として公教育とかそういう公共分野での機敏さに欠けるのは重々承知ですが、市内に高校がひとつしかない時点でもこれを継続されると、ほぼ絶望的となる。
どうせ日本人ごときにはムリだろうが、『市内の塾と単位互換』を画策したらどうだろう? もしこれが実現すれば、いわばあの足を引っ張るだけの底辺タバ高校で希少な人材が駄目にされる確率は減るので有効だと思うが。要は文科省と徹底して折半して、私立の高校互換装置として市内の塾を格上げしてしまうのだ。
もし市の特例的条例だけでこれが可能なら一番いいが。こういうことを実行してしまえるのは若手だけだから、老後はさっさと席を譲るか、または反省して意欲と理由ある新人を抜擢していくべき。世代交代なくしてあのタバ高が生徒指導の自己評価をBやCにするなどという大甘の醜態がきえさることはない。未成年の犯罪許してるのか? この市の教育は。

2010年7月10日

また土建票ネタ。戦後(笑)すぎる

http://www.pref.ibaraki.jp/download/02summer/002.html

↑このような県のホムペ発見。要は自然破壊しますよ宣言を堂々とされても少しも共感できない。いい加減土建談合選挙票バラマキ国家の体制が終ってるのを認識したらどうだろう。うらみと禍根しかのこさないわけだから。それとも市でやってやってとせがんだのか? そうなら余計救えない。

こういうことをしているから人が入らない自然までごみ捨てられ、「いたちごっこだ」とか堂々と市政でほざく。循環とは自業自得ということ。いずれそいつの住んでる家まで不法投棄(悪意の)で終るのだが、かもめにしかきづかれない。かもめライフは飛んで崖に舞うほか、砂のもくずに帰るだけだし自然破壊されればべつの土地へ移住するだけだからまこと気楽。

長浜破壊やろうの身元をつきとめてフンおっことしてやる。

2010年7月7日

地区制の考え

これからトウキョウあたりでもやりだすかもさはもっちゃ高いが(どこ語だ)、「自治圏の移譲」は流行というか、中央集権一本槍でやってきた近代日本の行政区画が経済発展面ではおわりに近づいてるというかもうその限界効用はすぎたみたいなので、水戸かきたいばかどっちか先にやるといい。

きたいばでやれる策としては、つぎの広域圏ごとに「地区長」をえらび、かれらに自治権限として現行法で可能なすべての権限を委譲し、ほかへ干渉させないことがあるのではないか。
つまり中郷地区・大津地区・磯原地区・華川地区。(あるいは華川と磯原は中学校見たく統合してもいいのだが、どうも山びとと海びととでは考え方に昔から差があるみたいで、そもそも意向が違うのだから協調させなくてもいいとボクは思う。山は山でのんびりやりゃいいし、海は海でばんばん進めばいい。この両者を同列にあつかうのはムズイ。特に経済の方針的にそうなる。どっちかがいやおうなく歩み寄るまではそうしてればいい。)
でこの地区に限っては租税率・土地区画・自警団とか要は行政の基本機能を勝手につくってもいいですよとしておく。代表は、市議会に出席させる。超薄給で。というのは微妙だが。最終的には市議会の権限と市長のたてまえに従うべきだけど、その内部でのはなしあいを地区ごとの意向をもちださせてより詳細にしようというわけだ。

で、それらの間に一定の競争関係みたいのをみちびけば、今ある矛盾みたいのは減るかもしれん。つまり大津野郎がこっちのまちなかでチャラチャラタバ高生してんじゃねーよ、とか商業化した中郷地区住まいのくせに華川の平和な山里へ口出すんかいとか、磯原住まいなのになんで童謡ムードじゃないのよとかそういうものだ。そんなのあるのかもしらないけど。ビミョウにしかないからいわれないのかもだが。

けっきょく、各地区の問題点とか希望は本人らがいちばん知ってるわけで、相互干渉させないほうがいい。まちの人はつぎつぎ発展したいかもしれないし、山や海やの人はほっといて欲しいだろうし、中郷の人は温泉やるなり畑やるなり放っといてほしいと思う。
で、こういうプラン詳細を市長に一任しちゃうと、ようそろーvs国道バイパス化みたいないらん地区間バトルが頻発し、全体として長い目でみたとき調和が乱れる。先代と意向が違いすぎると各地区がばらばらに動いてしまう。炭鉱跡の活用なしとか、工場でなにやってんですか、え、温泉つぶれんですかとかはここから出てきた。地元の内情しか知らないのだからそれは仕方ない。

それらの中で福祉のレベルもびみょうに変えたらいい。華川ではおとしより一軒家見回りとか必需だし、まちなかではうざいから町内会をのぞいてそれはいらないかもしれない。こういう行政奉仕のこまかな分配は中央集権ではたぶんムリか、陳情聞ききれないのでむずい。
大津地区では絶景鄙び旅館やら美術館やらようそろーの文化施設と港多いので泊りがけアンコウ観光にも特化したまちづくりにできるだろうし、その場合わざわざ市の許可とか市や県ののろい計画道路敷きとかにかまってなくても地区権限でプランを提出し、部分認可された途端にやってしまえばいい。中郷は農家とああいう商業施設に土地売った人らの間で所得ギャップを是正してほしいと思われ、それには固定資産やら法人税を累進化すべきかも。かもめ。

2010年7月5日

議会で知識人枠の専決

おもうに、というかJ.Sミルが言ってたのだが、市議会員のなかに意見評議委員として「知識人枠」を設けるのはどうだろう。これだけ規模の小さな議会だからこそできるはず施策で、水戸あたりでもできないことはないだろうけど規模が大きいから導入は遅れる。

へんなはなしなのですが、この市で傍聴人が一人しかいないのが通常とは、最大多数は「公益」について真剣に考えたり討論する習慣も動機もない。要はいわゆる愚民だ。が、それにも利点はあり、御しやすいというか操作するにはいいわけで、実際儒教はこの点で是政者にゃ有利な思想であったわけ。

 こういう特殊さをかえって長所にかえるには、本来は市民全体の同意がいる過程を、かなり選良主義的に省略できるということで、好機ともいえる。
はたしてこの市に知識人なぞがいるかって、そりゃ高校教師くらいが関の山だろう。だから『外注で知識人枠』を設けるといいのではないだろうか。もちろん、この議会は公開を要する。ホムペにのせるとかもいいが、それだけ戦略漏れでもあるわけで、単にいままでどおり市議会の場だけで意見交換してればいい気がする。

かんたんにいうと、教養を底上げするにはそれ専業者にまかせるのがいちばんだが、市内にはその人材が不足してるので、外部から先生を招くのが最良。でこの頭脳層をいつも定常的に確保してくのが市のいきのこりには唯一の施策らしいので、つねに厚遇する意味でおもいきって市議会委員と同等のあつかいにしちゃえばいい。
そもそも、議会サボり議員もどうも一名ほどいつもいるようで、ふつうに体面飾ったコネ談合にすぎず無駄すぎるわけだ。これはお話にならんわけで、市の中でも市政への正確な批評ができる程度の市民の監視は機能していると考えれば、そういう層(文化人層とよぶ)とのつながりこそ教養の土壌たりえる。
なんもしないコネ談合員へ年額1200万、つまり公費を月に100万つぎこむのはなんと言っても大馬鹿である。決して浪費したカネはかえってこないのだ。公費は民の脂であり、その味は苦い。なぜならそれが良薬というものなのだから。

ところが、この分を(この程度なら意見表明のために議会のたびに市外から足を運んでもらうのは申し訳ないほどだが、市議会の頻度を考えれば好意から受け入れてくれる教授や研究家の方もいるはず)まったくもって市の発展エンジンそのものである知識人枠へ投資すれば、のちにどれだけ豊かな地域財産となるかわからん。
具体的には、ポピュリズムに陥らず、冷静に筑波大教授か、東北大教授、または水戸あたりの名門家(地味に徳川界隈の血統は遺伝しているのだから)、しかも直近の市政の課題にもっとも関連の高い分野の先生をまねくのが賢い。あるいは今回みぢかな土浦でああいう一流のスポーツマン(ウーマンだが)を育てられた石津家のお父さんも、環境作りのため的確なアドバイスを受けるにはいいはず。
特に、市にとってはるかに不足している科学者系の方。これを重視すべき。
現職にかぎらず市長の独断だと偏見から問題が起きるはずだから、この対象もよく公開された市議会の場で討論したらいい。
最低でもいわき明星大か茨キリから。こういう工夫で、市の文化環境が底上げ的に向上する未来が期待できる。政治というしんがりのたちばで上限が上がるというのは、いやおうなく最低レベルの市民も感化されてしまうということだ。
 それとこれに関連しておもったに、反面教師の意味だが(結果はどうあれ。また必ずしも批判ではなく、参考事例として)むかしの水戸市長が実質一任で選良抜擢型のまちづくりを進めてる感じなのはビミョウな気がする。
具体的には時代の有名な一流建築家とかを安易にまねいてしまいやすい。大工町再開発にせよ、水戸芸術館にせよ。けどそれの結果としてみえてくるのは、地元っぽさが歪んで都市計画の全体があまり連携してないということだ。つまり上意下達だと、特にまちづくりは全然巧く行かない。しかも計画どおりにいかず衰退すらする。社会主義とはそういうことだ。
おなじことはきたいばにも言え、いわゆる石井さんにたのんでしまったり勝手にやっちゃう感じは、将来をみこすとあまり賢くないはずだ。やはりプロポーザルとか公開でやった方が、総合してみるとおもしろいものができたりする。たとえば金沢21世紀美術館とか、ああいうのは公開でやってたら意外なのがひっかかったみたいに偶然さが入り込んでいるから魅力なのだ。俳句もそうでしょう。
要は市長の趣味のおしつけは、本人の意思如何に関わらずけっきょくみんなに迷惑がられる結果が多い。きびしい商売だ。

文科省から大学評価というのの中に透明性の確保という意味で分割だけじゃなく「競争発注」の有無というのがあって、イバ大と張ってる奈良研究なんちゃら大学院があり、そういう点での競争(正確には協議だろうけど)の確保はやはり有効だと思われる。
つまり上述の知識人枠でも、できるだけ市議会員みんなの意見をとりいれる形で、投票、最低でもくじで決めたらいい。そうしないなら私的にブレインとして雇うべきだ。公費を使うわけだし、そうでないと人気を遠ざけるほどお堅くなりすぎてしまうわけだ。所詮つーかよかれあしかれお役所人事であるから。クオーク

��あと付け加えみたいだが、ぼくが前からみてるところでは、「市民からの多数決型の公募」は無用か、すくなくともあまりよくない。かんたんにいえば衆愚な意見になる。これはいわき市の動向をみてると「なあなあさ」がいっちゃわるいことだがほんと反面教育になる。何億かけて駅名かえてんだとか、ラトブってぷぷぷとか、なんでたにしゅんやねんとか、共学にすりゃいいってもんじゃないでしょとか山ほどでてくる。史的にもなんでそこで降嫁やねんにいたる。
つまり『選良の意思』を全体に優先させるのは賢いのだ。全体の衆議つまり世論を無視しろとはいえないが、重視する必要条件はない。もしそうなら何のための選挙かもわからん。)

2010年7月4日

子供手当てのアホさ加減

戦後型集団教育というシステムが、この一世紀内には崩壊し尽くすと思う。ボクのこどもの時点ではもう完全に終わっていたのだから。まったく機能不全だし、悪影響しかなかったと言っていい。

格差論というのはそれがどこまでも広がること、それが進化という思想なことを理解していない社会主義系の人が言うとすべて間違える。子供の時点で生後の努力の有無に関わらず、100m走で世界記録を出せる遺伝は決まっているし、後天な学習でも到達できる範囲は、かなり時代の中で決まってしまっている。
だから集団教育は粗雑な「急いで高度成長させたがった上意下達」のぼろい方法で、これを信じているアホなジャップがどんどん自称公教育の悪意に呑まれてってもなんの疑問も感じないほどだ。もちろん、この話は知識人以上にしか通じないわけで、義務教育のシステムは労働者以下には有効でありつづけるだろうけど。

要するに選抜型の集団教育システム自体はこの一世紀のあいだは機能したがるだろうし、現に学歴社会の残滓があるかぎりそれは残り続けるだろう。この地域の特性から言って、井の中の蛙みたいに東京文化圏の影響にある程度遅れて追随したがる傾向が、特に知的下層の部類にあると分析や仮定すると、これはここでは一世紀後にも残る可能性がある。
「学校に行け。」と命ずる親は、この地域ではあと一世紀(つまり百年)後もある数はのこるかもしれないが、その子らが5000人規模のまちで生き残る可能性はほとんどないだろう。進化の先端から遅れすぎているし、独立自営農民の身分(武士階級などには農奴視されてきたわけだが)がどれだけ安定した第一次生産者でありつづけられるかも疑問だ。

 ボクの私的予想では、21世紀で公教育の現実的機能は終ると思う。で、それは関東が最も先に進むだろうから、この地域もその余波か先鋒で学校組織自体が意義として終る。
けっきょく、この推論にもとづくと「地域の子供を教育しましょうビジョン」はほとんど古い考えなのだろう。その子供は出て行くしか生き残る道がないのだし、出て行った者のなかでもほとんどが淘汰される社会環境ではそんなことに時間を割いていられない。変なはなしだが集団教育の終焉みたいなのは子供手当てとか言い出したころからもう見えてきた。
そんなのなぜ負担させられるのかがわからないし、日本が滅びようと生き残ればいいのである。なにを考えているのだ? やはり女脳に救いはない。他人の子供にかまっていられる次元の頭なのだろうか、誰とは言わないがあの南蛮奴は。完全に無駄なうえ害なことをやっている。

タバ高生など死んだところで誰が困る? そんなのしてしまう成育環境と遺伝の時点で終っているのだから、親が悲しむのかもしれないが自業自得ではないか。誰も同情などしてられない。45000人の市民はあと25年後にこの真理に気づいて呆気にとられるか、諦めるに違いないが。

 ボクがこの入力でいいたかったのは、『選良以外は亡びていい以上、馬鹿への全員負担原則の投資はムイミ』という厳正な真実。機械の方がタバ高生よりよく働くしミスも少ない。なぜそれなのに、暴走や発情しかしない劣悪な人口などをふやしたがるのだろう? まったく戦後育ちの思考能力は蟻より低い。やはり栄養面での問題があったのだろうか。
選良層への迷惑さえ排除できればそいつらがどこまで堕ちようとまったく同情もいらないし、同情のひまさえ無駄なのだ。これが本当のことだと、今後永遠に回復してこない経済状況のなかで多数の市民も自覚していくだろうが、カモメなんかには現時点でわかる。空からみれば一目瞭然ではないか。なぜ地を這う?

2010年7月3日

国際語のはなし

http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-374.html

↑この楽天批判は役立つ。そう考えると急速な英語公用化にも一定の留保がいるのかも。つまり、「損が最小」になるとき採用すべきで、それは現地とのつながりが過大なときに限る。

というわけでもないのは、たとえばサム○ンがどれだけ以前から海外市場を視野にいれてたかってはなしと似ている。つまりこの批判も擬似批判というか、結果論で、サム○ンを考えれば「国際語としての英語圏との親和」は相互作用みたいにして進んでくわけ。
公用化と実用化のどっちが先でもない。保守チシキジンからは英語による自己殖民まがいなどとんでもない、と反論されるはずだが(某数学教授など)ぼくの見る目がまちがってなければ、それはいやおうない趨勢なだけ。

つまり日本語が地球の公用語になる未来は確率からしても過少でほぼ無限の時間がいるので(どう考えても人口分の経済力が足りない。漢語圏との親和にしか古語の生き残り策がなかったように)、そうならそうでどう国際語に親しむかの方が優先。
公教育のたちばを思えば、ボクは公用化はすぐれた考えだとやはり言う。しかし現実には厳しいという意見がやはりあるべ。そこで『イギリス人教師』が有用。これさえ数人以上入れれば漸次に文化そのものがひとりでにおきかわるはず。

水戸学が朱子学派の最先鋒になりえたのは、朱舜水の功績がいかに大きいか分らない。ぼくとしては、ツクバがケンブリッジつながりあるところからやはりそこから招くのが最良だと思うけど、本物が難しいなら周縁圏から注意深く選良を招くのが賢い。

ecologicalなバッグの清潔問題

ほのぼのでもない話ですが、ecology bag(そうはいわない)のはなしで、きたいば圏でくばったのは何製かしりませんが汚いらしい。というか洗えないと普通にやばいらしいです。こういう盲点があるわけです。食中毒の季節、これはやばい。市でどう責任とるんだとかいわれるとおもいます、化け物親(そうはいわない)に。

しかしエコバッグというと日本人っぽくあほくさいのだが、生態学かばんというのはいい。それとも生態学的鞄なのだろうか。そういえばいいのに。庶民はエコがなんなのか(「囲う」という意味の英語の接頭語でせう)理解していないはずで、やはりその辺が日本人ですね。大腸菌ひろめるバッグをエコというのか? とか思い出すやからすらいるだろうに。

 市報とかに載せたらいいですし、載せないなら店頭から条例で洗えるバッグだけを残したほうがいい。使い捨ては清潔のため、という考えは新しいものでもない。問題は素材であり、再生資源ならむしろその方が単価が安ければいいのかもという場合もある。薄い麻とか。
むかしの風呂敷素材ならサイショから洗うの前提だから問題なかったのだが、ナイロン製とか洗濯いるの? って雰囲気で問題ありそうだ。

2010年6月29日

またイジメ

ぎふの女の中学生がはだかんぼの同級生女の写真をイジメ送信で少年院送りみたいなニュースみた。けど、じぶんがこの地域で育った感想をいえばこんなのこのあたりでも普通にやってるがみつかってないだけだと確信する。きたいばにイジメというのはもう完璧にありまくったし、それは馬鹿すぎる教師が半分くらい煽ってるのだ。ターゲットを教室で規定するみたいな、「この人はおかしいですね、みなさん」みたいな空気とか平気でつくるし、中学ともなれば教室裁判みたいな事態へ発展させて公開処刑とかしてた。絶望的にクソな学校で、教師があれなので誰にも相談できなかった。このへんの親は狂信者みたいなもんで、教師=聖職みたいな古代幻想をひきずってるから手に負えない。

要は「チクり相談所」みたいのを、メアドでもいいから市がもっとくべきだと思う。で、めっちゃ周知しまくる。現状では私の提案とかいかにも相談するには手軽じゃなさすぎる手段しかなく、もっといえば目安箱の方が重要なわけだ。俳句ポストはこの問題へは風流すぎて使えないだろう。
そういうあきらかなチクり奨励策がなければ隠蔽しかしない市民性だ。逆にいえばムリにでもチクりまくること、たとえば市の広報へ投稿する、あるいはじょいふるとかああいう市報系の情報誌へ寄稿しまくる、実際子どもがどれだけそういう判断力あるかったらほぼ足りないだろうから、その場合は親へチクって事態を解決した実例をおおやけにほめて、チクればチクるほど世の中は良くなるのだという事例へするしかない。
しかしそうなったらそうなったで、特にこのへんの土着した子ども系の女はまちがった使い方をするだろう。これも自分が地域のニンゲンを長く観察してきたから予想できるが、たとえば無知のあまり本来はすぐれた業績をわざとわるく言うとかそういう悪用もばんばん起こるはずだ。
具体的には重要な訴訟を準備している誰かの家庭の機密情報をもらして事前に正しい行いをわるくわるく言ってつぶそうとするとかね。しかしそういうのは情報漏洩と言うし、プライバシーの侵害と言い、立派な犯罪だ。要は「何もしないよりは、サイアク中のサイアクの事態を避けれる可能性が上がる」点でしか推奨できない。だからそういうチクり相談所へ置くのは、最低でも市外、できれば県外の有識者(法律の知識とカウンセリング系心理学の資格があるような)をもちいるべきだ。そうでないとこの人物すら悪意をさとれないというか、きたいば的偏見を平気でつづける危険性が高い。特にこのへんの教養のきの字もないうえ気が荒いだけのどうしようもないイバ女か、水戸くさい簡単な刺激で怒りまくる冷静さの足りない県民性をせおった年長の男性。この二者をゼッタイにそういうたちばへ置いてはいけない。置けば悲劇だ。
 教員募集のラフさはもうなにを言っても市の教育関連職員が阿呆なら救えないというか、ああいうイジメ先導をしている教師が現に現役で市内の学校でめしをくってるわけで、これはもう本当に絶望するしかない。だからここいらのクソすぎる学校へ行くな、行く奴は覚悟しろというのは当然で、あとはどう市の教育委員会を責めて責めて責めまくり降伏させるかしか道はない。どれだけ責めても責めすぎはない。必ず言い訳、校内犯罪の隠蔽、かつ言い逃れが末路だ。それがこのクニのもとの教育体質で、ひどい場合は教師集団自身がみつからないような暴力をふるって(あるいは最低でも暴言での生徒脅しで)状況を悪化させたがる。実際、自分が体験してきたとおり弱い立場の生徒へは暴力で物をいわせていたのだからこれは間違いない。
水戸黄門のみすぎで暴力を肯定しており、土台あたまがおかしいのだ。まったく救えない場合は教員を裁判所へ訴えるしかないし、やはりこの地域ではそうしてのみイジメは最終的解決にいたるはずだ。

2010年6月28日

田園のまちづくり計略

あれだけの田園面積がさっさと売りに出されたわけは、その方が儲かりそうだからというにすぎない。要は農業の方が儲かればヒトは単純でそっちをやる。つまり中心市街でもなけりゃ田園地帯の方が市の景観でも情趣面でもいいというなら、民主的な市政の工夫でそっちのが儲かるように誘導するしかない。この手は早い方がいいとみた。
どうせ潰れれば荒地になってかえってすべてがわるくなるので、今後も車道沿いの農家が目先だけみて資本家に売る=実質では田園が乱開発でつぶされる可能性が高い。しかも数年で潰れるのは目に見える。国道沿い、中心市街地でも同じ現象が起きたのだから当然予想内だ。飽きればなんの留保もなしに打ち捨てられ、ただの薄汚れた救えない荒地が残される。
まるでこの世知辛すぎる半開社会での、どいなか底辺ミニスカorタバコ高生の端から終ってる末路の様だがそれはいうまい(言っている)。ま、居直って勉強をつづけてくれれば希望もあるはずだ。まれなのぞみと書いて希望。

で、農業でこの辺が儲かるためには一つしか道はなく、それは産直ブランド化だ。しかもそれには筑波とか、茨大農学部がすでにある土浦とか、ああいう高い化け学技術系の発展が約束されてる土地でもいまんとこないから、追い着き追い越すには「めずらしい品種」を育てるしかない。技術は平凡かもだが目の付け所が違う、という意味でのブランド化しかないというわけだ。
ガラス工房とかいうのもそういう地域性というか、こまやかな自然環境のせいで美意識がするどい点を活かしていこうという姿勢がみうけられる。というかそれしか今んとこ発展のための手段もなにもないのだ。磯高は下限がひどいのでたまたま入った秀才は大変だろうが、大抵の大秀才は周辺の別の進学校から都心へ出てってしまうので、やからにでも分る品種改良をみちびくしかない。だから高度な技術よりは、趣味のよさに懸けるしか今のところはない。

 産直というのは、常磐自動車道一本で運ぶにも福島浜どおりから県央と西は栃木までが限度だろう。こないだあおもりの出稼ぎの方がきてたと書いたが、あれは遠出すぎてこの辺の雰囲気が理解できてない感じが失敗っぽかった。梅雨に手作りリンゴjuice売ろうってのが、スーパー間の競争が少ない地域との理由差でもある。
つまりはキタイバの農協がめずらしい品種がありますよ、という売り方でいきのこるのが妥当。市のホムペにあやめを減反でも植えましたという利口な記事が載ってたが、そういうことでしょう。高萩駅前みたいなのが想定内の末路。それ以前にあれらの将来の荒地へどうやって気候に合った特別な品種を育てられるかが優先事項。生花でも当然いいだろうし、なにかバイオマスみたいな分野へ投入する雑穀でもありえる。

とにかく身近に高級な化学農法みたいな知識をもってきてくれる機関が今あるでもないわけで、いわきでは一部にみられる大規模ハウス栽培の導入とかを煽るのも、多分農地面積でいえばいわきや県央以南よりずっと不利なのでありえない。狭い面積ゆえかえって繊細な育て方ができましたみたいな焦点を狙うしかないと見る。

 どうも近代の市史の方角としては美術・芸術関係者が来る機会が多い土地柄みたいだし、転作系なら生花市場をねらうのが理にかなうのではないか。
それならまさに田園としか言えないわけで、咲いてる状態でも綺麗なので、画家も詩人にも大うけなのはまちがいなく、情操教育というもっぱらの磯高生への課題にも合致する。
��ま、花咲いてるだけでは話にならないがなにも咲いてないよりは蜂や蝶みたいなものでましに感じるかも。それならおはなしにならん犬じゃねーんだぞな抱きつき如きを人前で誇示されてもかなわん話なので、詩やら曲やらの一つも高校生の分際でつくりだす確率があるわけ。)
むしろ公園と兼ねてその共有地化した農園内に入るにちょっとした入場料(百円とか。年間パス千円とか)とって常駐管理するとかね。
そういう場所もひたちなか海浜公園の改良バージョンだが、どっかにはありそうなものだ。そうすりゃ開発前提の中心市街地への、遠出客のついでの回遊効果も十分ある。つまり生花市場を兼ねて、ああいう田園地帯をなんらかの広域な構想で守ってく方がいい気がする。

もしほっとけばあのへん高層住宅とか乱立しかねないし、そうなったら日立あたりの山あいみたいなのと変わりなくなってきて、この辺の独自さが保てない。
つーかもともとの考えが綺麗なので自慢できるところを伸ばそうって話だから、このへんを先々に超大都市の仙台超え一大都会にしちゃいたい人には話が通じないかもしんないが、それならそれでどうやって港町系の横浜や神戸や上海のあの規模に勝つかって話だがまるっきり大幅に遅れてしまってるし、人口比の将来予測からしてもよほどの天変地異がなけりゃそれはありえないし、個人的にも嫌。人口がふえれば、今でさえもっと生活排水浄化で川とか海辺をキレイにしたいのにますます汚くなるわけだから。

 育てる品種としてははじめはもとここいらの山奥に群生してた水芭蕉、あやめ、あかねからはじまって菖蒲、かきつばた、或いは市の花のしゃくなげ、或いは県花のバラでこういうのを豊富なイギリス或いは市でつながりあるニュージーランドあたりからえりすぐりでもらってきて(もちろん強壮すぎる外来種は比弱な在来種を駆逐しがちだから、最大限の慎重さと事前研究を前提にして)、いずれは独自品種の確立をめざして徐々に交配の知識へ進む、というこの辺りではないか? 
よくみればいろんな花が咲いてる市なので、海・山・川のコーナーみたいにすれば単にとってきて植えただけでもとても多彩に見えるだろうし、実際におどろくほど多彩なのだ。もともと群生してたのは、ここいらの気候で合ってるから生えてたのだと思う。だからそれをきっかけにするのが賢い。
それとも大昔に誰かがわざわざ植えたということもないのだろうけど。誰かがこういう将来を見越してあそこまで種を持ってったのだろうか? かもめが。という。
 あと滋賀のどっかの女性の市長がいるところで菜種の栽培でバイオマス発電やってたから、「輪作」というアイデアをとりいれれば、いちねんじゅう咲かねばならんもんじゃないのが世阿弥もいう花というものなので「有閑期に菜種」はありだと思う。それで市のエネルギーくらいはタダ同然でまかなえる話にこれからまちが縮小すれば、なると思う。循環型という市の計画にもあってるし。

 が、生花市場にもライバルな既得権が千葉の南房総はじめ結構いるわけで、相当戦略的・計略的というか巧妙にやらないと失敗しておわりだ。市でやるならそれは市民全員に責任かかってくる話で、農協へあらましだけ提案しておわりのが気楽かも。
おもっき市営でやろうとすると、経営的にはほぼ百パー失敗する。甘えるから。つまり必ず経営そのものは、株保有権をのぞいて委託でやらないとゼッタイ長くは続かないはず。青少年の家も経営がうまく行かずに潰れてしまったわけで、これは予言できる。

2010年6月27日

おかしな話なので

かもめ界も大変だなとおもわれるでしょうが、きのうのつづき。

 きたいば的な民営ビジョンとしておもうに、やはり学術先進田園都市みたいなものが目標だと思う。仙台を抜くというのは出し抜くやつらを出し抜くことなので、ある種の成果で最先端に立ってしまう。
 西日本の果ての山口県という場所がある。昔は長州といわれてた場所だ。そこは維新のころイギリスと関わったので、かなり先鋭な文化を盗めた。スコットランドまで秘密裏に藩士を留学させてたりね。が、ぼくかもめの目でいえば、山口と張れみたいなのはない気がする。
文化の構成が違いすぎ、目指すべき地点も違う。毛利元就の時代から、山口付近は「反幕府」という姿勢で貫かれてる。その辺がもうわれわれとはとても違うので、これは決定的に将来像も違うはずだ。

より詳細にいえば徳川方と秀吉方では文化面でも大きく違ってしまった。大坂に根城があった人物と、三河出の江戸住まいでは影響を与えやすい地域も東西に分かれた。で、やはりわれわれは(というよりか、かもめの一匹は)秀吉文化に親しんできてないのでどうも考え方が違う。反幕府というのも実感がないのがその証拠だろう。中にはそういう人もいるだろうけど。

 結論からいうと、歴史の流れからすると幕権を、つまり当時の実質的政権を尊ぶのは当然に思える。だからライバルはその流れの中にいるので、長期的には山口はライバルでない。遠すぎる上、文化が目指している地点が違いすぎる。東京に負けるなという意味がよく分らないし、勝つ動機づけも土地の歴史には特にあるでもない。
強いていえば佐竹減封とかだがそれは徳川家のあらたな伝統でうちけされている。つまり単なる伊達にゃあ負けてられねえという気持ちは湧きやすいが、徳川打倒というのはよく分らん。いいじゃんとすら思うし。関西から遠いので京都文化に親しんでないのが地域の特徴で、国際化にあたっても特別な利点な訳だ。

その意味で、今は素朴路線でやってるがやはり首都圏に近いだけに永遠に素朴一本でやってけるとはいいきれないだろう。本当の素朴(というか未開)とはムラの外のことは何も知らないわけで、テレビみてる以上はその影響下に入ってしまう。
普通に駅前まで多摩や横浜から旅人か誰か(善人悪人含む)が来れる地点にあるのだし、いくら鄙びた世界にしようと思っても平気で入ってこられるほど交通方法が開放されてる以上ムリだ。交通の用地になりやすい海辺の土地とはそういうものだし、ある意味で地元人にされている天心からして中央美術界の人物だったのだから、以前から完璧な鄙社会ではないのだ。

ぼくが言いたいのは、「田園都市でありながら先進化」するのは可能で、それは仙台都市圏のいろんな例を参照しつつ小柄な目立たなさを長所に、巧妙に出し抜くみたいな方法で大体オーケーだろうってこと。
先進の定義によるかもだが、大都市equal先進ではないはずだ。それに商業化equal先進ともいいきれない。まえも書いたが(かもめペンで)、規模じゃなく質をめざせばいいだけ。市域エコバック必須とかはその例。あの都市の規模でそれはしにくいのだ。

 もっぱら重要なのは、どう市民の学問・教養の底上げするかってことだろう。仙台と比べて見劣ってるか、決定的に遅れそうなのは今んとこそこかなって感じだ。他はあまり変わらないし、美術館の出来とか自然自体の綺麗さではずっと勝っている。ぼこぼこビル建てまくったり地下鉄ぼこぼこ通すのはどうなのと思えるくらいの。
 こないだ書いたが(かもめペンで)、放送大学を市庁舎か、又は図書館の自習室・視聴覚室あたりで常時流すくらいはしてもいいのではないか。(内容がわるいものではないので童心つぶすみたいなことにはまずならないはず。そもそもできのいい中高生以上しか興味をもたないだろう。)
首都圏では普通に流しているので、単に地上波では電波がここまで届いてないだけで利用は誰でもできる。どっか関西のガッコが校内で自由閲覧用にながしてた。そんなのやっていいのだ。設備投資費も、もし図書館設置なら簡単なテレビと受信用のアンテナだけだし数十万単位でおしまいだろう。できれば磯高の利口なタイプが利用できるように高校と単位互換で市が協働か相談できれば最善かもしれないが。

放送大学そのものは国が運営主体らしいからあまり潰れるおそれはないが、万一その設備が将来つかえなくなる可能性をかんがえておけば、市庁舎から市内広域まで飛ばすよりは図書館にきてる自習生とかもどうも結構いることだし、そこへ簡単なテレビ器具だけ設けとくほうが合理かも。もしその受信が不可になっても別のつかいかた、たとえば映像資料の閲覧に転用できるだろう。

2010年6月26日

けさおもいついた

カン違いされると困るが、けさ思いついたに、きたいば方針の基本姿勢としては「仙台にマンマーク」してりゃいいのではないか? これは作戦としてはまちがいないと思った。

なんでかっていうと、この辺りって地政的にいわきとひたちの間の圏なのでその両方の文化に影響を受けやすいわけだが、そのどちらも考えようによっては関東圏と東北圏の中間地帯にある。要するに属してるのは名目上も関東だけれど、東北へはどこより目がつけやすい。半分あしをふみいれるかいれないかの要害の地にいると言っていいだろう。
だから雨情の祖父が宿命を背負ったみたいに伝統的にもそうなのだろうが、仙台圏との最北端としての通訳か諜報になる可能性が高い。結論から言うと、関東の戦略としては覇権は持っておきたいわけだから、そのへんはわれわれとしても協力すべきでしょう。
が、われわれ自身の利害からいえば関東に染まりきるのもどうかと感じるふしがどこかにあるはずだ。なにせ半分以上いわきに親しんでるし、商業や観光にもつながりがつよいのは事実で、ある種甘えさせてもらってさえいるので(たとえばいわき市立図書館でもキタイバラキは隣接自治体あつかいしてもらったりしてるわけ。頼んだのでもないだろうに、おそらく好意から)。

ということで、われわれの使命としては自分らとして東北最大の都市な仙台には関東圏の一員として最大限注視せよみたいな所にある気がした。なんでこれを思ったかっていうと、ビジネスホテルアーバンに停まってた車のナンバーが横浜・多摩、で水戸だったから。そんな遠くから何の用事か? いくらなんでもわざわざこの関東の最果てまで。

われわれとして仙台に決して自由にプレイさせなければ関東への貢献は多大なものがあると見た。(その意味で、水戸や東京ふくめわれわれは基本的に関東系の都市とは張らなくていい気がする。張ってもそっち方面の政治・経済界の伸び幅で勝てる確率はほとんどない。
が仙台は大型な相手だが、立地そのものがわれわれきたいばと大変似ており、単に人口が多いだけで前も書いたが「教養の質」みたいな点ではかえって向こうのが不利な条件にある気がする。東北はやはり奥の細道の世界なので、首都圏の情報はほとんど一足遅れてしか入らないのだ。それがわれわれの、都心により近く小回りが利くからずっと有利な点だろう。)
性格として自由にやりたい仙台にとってはその内情や戦法をいつの間にか見透かされるみたいでややこしい相手かもしれんが、地域ごとの競争とは結局そういうものではないか。作戦勝ちが基本だろう。ちょっといわきへ行けばすぐ東北圏の主要情報は手に入るのだから。われわれは仙台へ照準してつねに動向を何歩か先駆けるようにしてれば失敗しないと見た。

どうでもいいことだが、ツバメはとてもかっこいい鳴き方をする。けさ聞いた。あの体格でああ鳴くとは。かもめもちょっとビビるほど鋭い。

教員評価制度での解雇促進は必要不可欠です

クソ高生が反省しているふしはまったくない。またつるんでタバコ。つまり学校教員のレベルが最低級なので、生活指導とか言って人前でdisるとかタバコやってるやついるらしいじゃないか!とかほざいて殴る体育教師(←こいつが最もバカなのだが)とか、そのレベルなのはまちがいない。
あの名実共に最底辺高校生なのだから上等で高貴な理屈でなぜ彼らの行いが非行と呼ばれるのかを理解させたりはできない。現状は郷英どころか迷惑高校であろう。まじで。

そこで提案だが、最底辺高のくせに希望実現とかかっこつけて確立した自主性もない年齢層へ単位制度なんか導入してるくらいなんだから同姿勢で当然できるはずだが、ふつう一流以上の大学には必須の「教員評価制度」を導入して出来損ない体育会系のどうしようもない救えない教員をどんどん解雇してったらどうか。そんなの市内の某学校にはどんどん来ててサイアクだった。
理不尽な暴力しかふるえない歪んだ性格の、あと何年勤続してくるか分らんサイアクのやつらだった。なぜあんなのが教員やってるんだ? というのは教員免許がさほど難しい課程でない国側の制度のゆるみがあるうえ、市の雇用基準が教育なめてるというか安っぽすぎるので底辺教師がくるわけ。
で漸次、試みを市内の小中学までは家庭からの評価書提出の義務と、市議会員か情報公開制度での公的閲覧の原則で広げるといい。そうすれば家庭と子供の連携も緊密になり、地域による教師の評価という点で、現状の学内でどんなクソすぎる自称指導の暴力が日常か(自分がそこで育ったのだからよーく分るクソさ加減だ)を、市でもおおやけにしていけるはずだ。
��これ書いてから思ったが、それでも市民平均のああいうミニスカ放置親レベルでは、ある意味で歪んだ評価がでてくる確率が高い。つまり好き嫌いとか。下らんが、それが民というものの本性でもあるのだから、公開市議会以上、市内外のよく選考した有識者と出てきた評価書を洗い出す手間がいるかも。これをしないと理不尽な解雇が今度は起きる気がするが、何もしない現状の喫煙習慣放置高よりはよくなるはずだ。)
新陳代謝が必須。前から書いてるが最底辺高校しかない市を愧じろって話で、修士は前提、普通にイギリス英語(つまり本場というか本家本元)という国際語を母語としており、可能なら博士号自主退学以上の教員を雇用するがいい。ポスドク問題を注意深く観察していれば、たとえば筑波か仙台あたりになぞそんなのいくらでもあまってる。優遇措置など銘うちゃ3秒でできる仕事量でありこれしか子世代以降の市民の生き残りがないという真理が理解できれば容易だろうに。

この平和ぶった未成年犯罪放置(喫煙教唆の罪も法規範内だ)の極悪社会ではその程度の厳しさがなければ、まじで美人副市長あたり(?)に財政牛耳られて終る。歴史の一般論として言って、滅亡する国はこういう形で後宮的位置づけにある女性の権勢でことごとく判断をまちがえて自滅していくのだ。西太后の朝鮮王朝、邪馬台国の卑弥呼、エジプトのクレオパトラ。数え上げればいとまがない。
要するに、近代のアメリカの女性優遇の行きすぎが支配者の性格を要する政治的思考力に向いていない男女同権をひろげてきたので、これに騙された国は確実に落ちぶれる。一体、史上で成功した政治家の何人が女性だったろうか。それは星屑分の砂の中に埋まったダイヤくらい「ほぼゼロ」なのだ。結論からいえばサッチャーしかいないし、あれも単に能動的な施策っつーより以前のイギリス伝統の放任経済へゆりもどしした田中まきこ的気丈婦なので成功といいきれるか疑問だ。思想を要さないので誰でもできたかもしれない。
それが嘘だと思えば磯原海岸であしたじゅう潮干狩りするがいい。その歴史の重層を、単なる遺伝勘定のみならず十分理解した方がいいだろう。おちてるものといってカモメの屍骸であり、それが厳しい自然の掟というものなのだ。かもめは死ぬ。一刻の猶予もない。

2010年6月24日

あるおしえ

これは奇想天外なアイデアにおもえるだろうから市の教育委員長とかには到底いまんとこ通じないだろうが、今後の市の人口がふえる可能性はゼロでしかもへたに行政が手出しして不自然にふえたらふえたで下愚がふえる(本来は社会淘汰か、生活保護いきの層がふえちゃう)わけで、つまり賃金形態上高いレベルにいる稼ぎ手、人口扶養力が減る社会構成は負けである。
以前より貧乏になった人たちが大量にあふれても幸福なおもむきには思われないでしょう。

でそのアイデアの核心は、「市の教育をぜんぶ英語化する」こと。これは価値あるというか、これしかないと思う。ユニクロがけさの毎日新聞系のニュースで発表した内情だが、これは勝ちたければまねるしかない。
負けてもいいじゃんという人は日本語で教育すればいい。しかし、日本人が英語おぼえたからって日本語でなくなるかって、それはない。俳句さえつくれればいいみたいな話である。
書物そのものが日本語で書かれてる間は文語としての日本語は完全には消えないはずだ。話される確率は減るかもしれないが、われわれのいまでいう古語もそうだったのだから文句は言えない。

 要は進学先をつねに海外に見据えること、しかもできたらイギリスの一流大かアメリカのそれ、以上を目指すには英語堪能が大前提で、これには子供のころから英語で囲う教育環境しかありえない。で、市で校内は英語ですという原則で締めたら数人は救い手がでてくるかも。
それすら出ないならこの地域産で文化教養人はあきらめ、天心の場合みたいに他から輸入してくるしかないだろう。冷酷なようだがこれが真実で、あの統合後磯高生では勝つも負けるも勝負にすらなっていないのですよ。笑われるための勝負ならいいところいくだろうが、それすら本場大阪には数で負ける。つまり現状の生徒では(きわめてまれな一部の突然変異をのぞいて)どうしようもないのだ。

『きたいば市内の教育は英語で』。これはできるだけ急いで採用するをえる。カモメからいきのこるには貝すら歩くので、人が歩かねば話にならない。啄ばまれてからではおそい。がおー

まちの戦略

 事実上、経済発展でまちおこし、というのはきたいば的にナシなんじゃないだろうか。そういう方向性はもう諦めていい。だから、カモメとしていえるのは(いえない)かばさんが半分本気でゆってた(ゆわない)、「若者よびこんで勝ち組だぜ路線」はもうありえない。これはおもいきって切ってった方がいいはずだ。
ゼッタイにこのまちの規模では経済発展でウハウハには向いていないし、ありえないうえ、だれもよろこばない。

ぼくはカモメだけにいろんなまちをみてきたが、南の世界は特に人がふえる適所なので必ず経済発展をめざしていく。しかしそれが幸福かといえば、ちがう。かれらとしては「東京と隣町に負けたくない」みたいな考えしかないまま経済発展したがるわけで、まちのビジョンとか住み心地とか景観とかは後手なのだ。
要するに、我々が東京以南と経済規模で張ろうとするのはおもっきしまちがっている。規模じゃなくて、「経済の質」ならまだわかる。
要は個々の家計が豊かになるということはまだ可能で十分ありえるだろう。それには個々の家庭の教養が高ければよい。
それで安易な安物買いをせず、彼らがうまく商売をしているかぎりはとにかく量産量産で行ってる人らよりもまち全体としてみれば豊かな世界になっているふしもあるはずだ。

かば氏が発表してた高精度の予想統計、あと50年後には5000人規模のまちになる、というのはほとんど確かな未来ではないだろうか。
たしかに戦後の成長だけをみてきたひとらには想像つかないだろうが、実際、今後も無人化店舗みたいなのがふえてきまくるわけで今は雇用されてるバイト従業員も全然いらなくなってく。と、農林水産の事業者・工場警備員・教員・専門技能職・役人、大きな数としてはこのあたりしかまず残ってこなくなる。
��第三次産業種は都市部へ集積するので、ここいらでいえば東京か水戸か仙台へと流れ続けて若者ごと地方からはどんどんと消滅する。)
通販と流通の合理化の拡大は特に小売店舗あたりを直撃するので、そういうのはいわゆる再開発ビルみたいなのによりあつまって(いわきラトブみたいに)なんとか生き残りをはかっても厳しいだろう。商店街の会誌とか出してるみたいだけど、今後もっと結束してってもそこの内でも必然の淘汰は避けられない。

で、かもめ的に見えることと言って、南側が勝ち組で他は負けですね、かといえば必ずしもそうならないだろう。数で勝ってるから個々の生活が豊かとは考えづらい。ウサギ小屋に住んで満員電車ってる勝ち組がなんの勝ちなのかフメイである。

だから、きたいば的には市民憲章にもありますが『教養主義まち計画』しか道はないだろうと思う。経済発展路線はすべて失敗する。その路線ではいわきにすら勝てる見込みはない。
しかも技術の日立が隣の隣には控えてるのだから、これも企業規模から言ってもいまさら追いつけるかといって成員の性格から言ってもそんなのやだよ(茨城人的短気さから言ってもコツコツまじめな理工系の好きなタイプばかりとは思えん)、となると思うし、あの高校生らが日立マンになるとしても出世出世で行くとは到底思えない。
まったく井の中の蛙なので高校で遊んでる自覚ないまま勉強しどきの貴重な青春期をテキトーに橋の下でいちゃついちゃった連中が、世界の一流企業の出世頭をめざしたり、めざせる確率すらほとんどないし、冷酷だが学力から言ってもきびしすぎる。アメリカ留学組ばかりで固められたエリート企業のサム○ンがライバルで、つまり「ない」のだ。派遣まっしぐらである。

で、ここまで突き詰めてくれば道はやはり教養主義にあると思う。個々の市民が非常に教養高い場合だけ、経済規模として量ではてんでおはなしにならないが、家計規模では南のどの地域にも負けないことになる…可能性もゼロではない。

で、その戦略というか作戦なのだが、たとえば仙台市なんかおもっきし半分は大学町みたいな大きさなので、東北全体からの求心力から言っても教育事業ではこの市がおっつくつかって、それは突然変異があろうと全体数としては時間がかかりまくるだろう。
きたいば市に通ってる平均的高校生からしても学力面で到底やばいのは目に見える。もちろん例外もあるだろうが、茨城にはほかにも筑波や水戸があるので求心力の面でも現在の条件は不利だ。
ということは、とても巧妙にやらない限り、教養主義化させてくにしても(もちろんそこにしか道はないっぽいので振り返ることはできないわけだが)うまく行くとは限らない。
 かもめ的には5000人規模になったときに、過半が教養層な場合だけ、このまちというか市は成功したことになると思う。そんなことがありえるかって、そりゃやり方次第である。最大限に教養を尊びそういうのをもたらす人(知識文化人)を優遇すればいい。

で、教養が高いという意味でだけ優秀な若者がなつかしさ(というかどこより優遇される好条件)のあまり再帰してくれれば、全体の経済規模ではおはなしにならない小国だが、個々の家計ではほかの地域よりずっと豊か、という未来がありえる。それ以外は失敗した未来ということだろうと思う。かもめ的にはね。

結論をいえば、超利口にやるしかないし、それには学問芸術文化教養の担い手を盛り立てまくるしかない。そういうのに惹かれて寄ってくる精選された文化教養人をできるだけ定着させてこそ平均的市民性の質は高められる。
だから天心雨情大観をやたらほめまくってる市政の方向性自体は正しいと見た。それしか道はないのだから、ほめすぎはない。

自然が繊細でこの上なく綺麗なのはまちがいないので、それをさかんに美化する文化人を大量に定着させれば、単なる観光地としてではなく(観光地はかならず荒れるので自然保全からいえばのぞましくない。芭蕉のせいもあるのか、有名になりすぎちゃった松島あたりをみてくれば分る)、教養文化面での算出からして持続した発展ができるまちになるかも。珍しい風物があればあるほど人はそれを乞いに来る。
要は個々人が生計にあたって利口すぎるなら数は少なくとも人口扶養力の面で沈没することはない。その意味での5000人の勝ち組もある。迷惑でしかないバカ高生はバシバシ流出してもらう方がありがたいほどだがそれは言うまい(言うまでもない。かもめ的には、勝手に出て行く程よいのが見通せるし、市がいきのこるためには家計の質から言ってもジャマなので出て行くしかない。
そういう小規模で再生産率の高い家庭は大都市の下町に集まっていくだろうし、格差社会ではなんらかの設備面でもそうするしかないはずだ。要は貧困者用の住宅がある場所を求めるし、それは地価の急落した都心の足元にしかない。
情報だが、生活保護費の給付が数千円単位で多少ゆたかな千葉のとある市へ東京からホームレスが入り込みすぎて困るという話があって、大多数の負け組みはそういう行動形態をみにつけるしかいきのこりはないのが現実だろう)。
で文化教養面でエリート中のエリートの居場所になる場合にだけとても小規模の地方だが、ここいらは「調和した田園都市の感じのよさ」で尊敬されるかもしれぬ。
ていうか勝てなくてもいいや、という意見があるとおもうが、その意見は50000人から5000人に(つまり4万5千人が淘汰されるように明らかに)なってくあと25年後の段階でまわりを見ればだれかれ無職放免しかいないような状態になれば、誰もこわくて言えないはずだ。単に儲からないどころか若いほど食い詰めているわけだから。

万一の可能性として中央政府が福祉国家をめざしだすかもしれない。そうなると今も政治通に議論されてるが一律でバウチャーみたいにしたお金を政府が配りますみたいにならないともいえないが、問題は、仮にそうなったとしても市からの流出人口自体は決してとまらないだろう。
日立工場も将来は縮小か中国・東南アジアへやるのが基本で、となると国内空洞化はこの地域をもいまは安穏としてるがおもっき直撃してくる。よって上記の作戦は有効でありつづけるだろう。福祉国家にもし近づいたとしても地域のなんらかの振興そのものは重要なので。
完全に福祉国家にした北欧でも高度に民主的自治が考えられてるのは、そうでないとすぐ状態は悪化するからなのだろう(あるニュースでは実際、英吉利なんかより学力も低下しだしたらしい。つまり「努力なくして成果なし」なのだ)。働かなくてもいい社会でまじめに働く者は損をするわけで、勉強も高福祉でタダならするかって全然しないのがニンゲンといういきもの。いまの磯高生をみてればだれでも分る話だが。全然勉強する気がない。我々の国税で学校にやってるわけだが。下愚は追い詰めれば追い詰めるほどよい。
われわれ選良かもめ界(綺麗な海岸にすみつく層です)ではそういうことはない。海を見つめてるだけじゃないのですよ。飛ぶ練習とか。