2010年12月6日

北茨の人生論

シュムペーターや高橋和夫氏の説に、戦争階級原因論があり、わかりやすくいえば戦争をなりわいにした階級ができあがってしまうと自動的に戦いつづけてしまうという話。

 これをおしひろげて社会活動の全般が「習性」からできあがっていくとすると、それ専用の階級ができあがると、自動的にその業をくりかえす、と定義できるはず。
いわば『社会的成果階級原因論』がとなえられる。わかりやすくいえば習い性となる、ってことなのだが。

だから、この市におなじ社会法則をもしあてはめると、結局この市がもっとも重視すべきは科学研究の習性ではないだろうか。科学の祭典もあったが、やはりあの方向性が最もすぐれている。

雨情の説に、科学知識のこまかなあれこれは純粋な童心とは相容れないってな話がある。全集の書簡集・講演集の巻にのってる説話だけど。が、自分の意見をいえば、それは相容れないのではなく「調和させれる別の能力」なのだ。科学知識の詩をよめ、という者はいない。
詩は表現のおもしろさを問うのであり、科学知識そのものは自然認識のくわしさを問う。この二つは別々の発生をもつのであり、両立させることもできるし分けることもできる。

かもめ泣く空ににじむは秋の夕焼け
かもめ鳴く空ににじむは秋の夕焼け

この二つの句をくらべて、かもめは泣きませんよ、ってのが科学知識の立場であり、泣くから眼がにじむんですねってのが詩の立場。この二つは別の立場だが、かといって必ずしも専門科学者が「泣く」の句に感動しないのではない。そういうわけ。

 もし専用の階級をつくる利点がもっとも高いなりわいをいえば、こういう道理で科学の研究家だろう。哲学あたりはむしろ水戸辺にたくわえられやすいのでわざわざ北茨がする必要性は薄い。また、息抜き程度ならわかるが、スポーツ設備を強度につくりすぎるのもまずい。
運動競技ってのはそれ自体が目的化すると勝手に阿呆というか、あんまりあたまがよくない体だけ過剰に健康なタイプをひきつけて市の教養の平均値をその運動バカのせいで引き下げる傾向がたしかにある。これは私立の学校でスポーツクラスと特別進学クラスの生徒が全然中身ちがうみたいなもんだ。

詩心は大切にした方がいい。しかし、自分の北茨人としての経験上、実はその心のこまやかさ、繊細な心情という特徴をもっとも強化しやすい習慣が「科学知識の研究」なのだ。これによって今までよりさらにこまやかな詩心ができあがる。

月の出るそらに輝く星屑よ

この程度の俳句が、科学知識の装飾によって

満月の裏に広がる宇宙のネオン

このくらい詠めるほど細かくなる。(どちらの句がすぐれているかは不明だが、童謡に感じ入るほどの心のこまやかさという長所をばあいによって強調しやすいのはたしか。単なる無知無学のままでは、どんなうまれついての天才も天然ボケとみわけがつかない危うさがある。)
だから北茨の市がもっとも大切にすべきは、長所をさらにのばす科学知識の研究の習慣をさまざな条件づけで与えて行くことだろう。茨城圏全域にいえる欠点とも言える「教養なさ」もそれでかなり補完されるはず。