かもめ界も大変だなとおもわれるでしょうが、きのうのつづき。
きたいば的な民営ビジョンとしておもうに、やはり学術先進田園都市みたいなものが目標だと思う。仙台を抜くというのは出し抜くやつらを出し抜くことなので、ある種の成果で最先端に立ってしまう。
西日本の果ての山口県という場所がある。昔は長州といわれてた場所だ。そこは維新のころイギリスと関わったので、かなり先鋭な文化を盗めた。スコットランドまで秘密裏に藩士を留学させてたりね。が、ぼくかもめの目でいえば、山口と張れみたいなのはない気がする。
文化の構成が違いすぎ、目指すべき地点も違う。毛利元就の時代から、山口付近は「反幕府」という姿勢で貫かれてる。その辺がもうわれわれとはとても違うので、これは決定的に将来像も違うはずだ。
より詳細にいえば徳川方と秀吉方では文化面でも大きく違ってしまった。大坂に根城があった人物と、三河出の江戸住まいでは影響を与えやすい地域も東西に分かれた。で、やはりわれわれは(というよりか、かもめの一匹は)秀吉文化に親しんできてないのでどうも考え方が違う。反幕府というのも実感がないのがその証拠だろう。中にはそういう人もいるだろうけど。
結論からいうと、歴史の流れからすると幕権を、つまり当時の実質的政権を尊ぶのは当然に思える。だからライバルはその流れの中にいるので、長期的には山口はライバルでない。遠すぎる上、文化が目指している地点が違いすぎる。東京に負けるなという意味がよく分らないし、勝つ動機づけも土地の歴史には特にあるでもない。
強いていえば佐竹減封とかだがそれは徳川家のあらたな伝統でうちけされている。つまり単なる伊達にゃあ負けてられねえという気持ちは湧きやすいが、徳川打倒というのはよく分らん。いいじゃんとすら思うし。関西から遠いので京都文化に親しんでないのが地域の特徴で、国際化にあたっても特別な利点な訳だ。
その意味で、今は素朴路線でやってるがやはり首都圏に近いだけに永遠に素朴一本でやってけるとはいいきれないだろう。本当の素朴(というか未開)とはムラの外のことは何も知らないわけで、テレビみてる以上はその影響下に入ってしまう。
普通に駅前まで多摩や横浜から旅人か誰か(善人悪人含む)が来れる地点にあるのだし、いくら鄙びた世界にしようと思っても平気で入ってこられるほど交通方法が開放されてる以上ムリだ。交通の用地になりやすい海辺の土地とはそういうものだし、ある意味で地元人にされている天心からして中央美術界の人物だったのだから、以前から完璧な鄙社会ではないのだ。
ぼくが言いたいのは、「田園都市でありながら先進化」するのは可能で、それは仙台都市圏のいろんな例を参照しつつ小柄な目立たなさを長所に、巧妙に出し抜くみたいな方法で大体オーケーだろうってこと。
先進の定義によるかもだが、大都市equal先進ではないはずだ。それに商業化equal先進ともいいきれない。まえも書いたが(かもめペンで)、規模じゃなく質をめざせばいいだけ。市域エコバック必須とかはその例。あの都市の規模でそれはしにくいのだ。
もっぱら重要なのは、どう市民の学問・教養の底上げするかってことだろう。仙台と比べて見劣ってるか、決定的に遅れそうなのは今んとこそこかなって感じだ。他はあまり変わらないし、美術館の出来とか自然自体の綺麗さではずっと勝っている。ぼこぼこビル建てまくったり地下鉄ぼこぼこ通すのはどうなのと思えるくらいの。
こないだ書いたが(かもめペンで)、放送大学を市庁舎か、又は図書館の自習室・視聴覚室あたりで常時流すくらいはしてもいいのではないか。(内容がわるいものではないので童心つぶすみたいなことにはまずならないはず。そもそもできのいい中高生以上しか興味をもたないだろう。)
首都圏では普通に流しているので、単に地上波では電波がここまで届いてないだけで利用は誰でもできる。どっか関西のガッコが校内で自由閲覧用にながしてた。そんなのやっていいのだ。設備投資費も、もし図書館設置なら簡単なテレビと受信用のアンテナだけだし数十万単位でおしまいだろう。できれば磯高の利口なタイプが利用できるように高校と単位互換で市が協働か相談できれば最善かもしれないが。
放送大学そのものは国が運営主体らしいからあまり潰れるおそれはないが、万一その設備が将来つかえなくなる可能性をかんがえておけば、市庁舎から市内広域まで飛ばすよりは図書館にきてる自習生とかもどうも結構いることだし、そこへ簡単なテレビ器具だけ設けとくほうが合理かも。もしその受信が不可になっても別のつかいかた、たとえば映像資料の閲覧に転用できるだろう。