2012年12月22日

藤田東湖圧死エピソードのしめし

 小石川後楽園と水戸弘道館に藤田東湖圧死時の母救出エピソードをきちんとしるしておくべき。いまの状態では相当に水戸学や藤田東湖についてすすんで学ばないと、呆気ない印象しかのこらないから。

2012年12月19日

遺伝子としての知能因子の分析

 人類が社会をきずくときにもちこまれた要素のちがい、これがまちの個性といえる。人類はひびなにごとかのしごとをする。このしごとに個性の介在がある。需給といえる経済的行動も、個性によって相応にちがう。
 地域によって社会性そのもののちがいや、総意としての政治性にちがいがでてくるのもおなじ。
 一般に、知能はうまれつきの側面と後天的に再獲得される側面がある。このうち、おおまかに「性格のよさ」といえる側面は遺伝しやすいだろう。利他的資質は遺伝に依存している。学力テストの知識\活用比率がこれにちかいかもしれない。

県名の分析

 茨城県の茨城は『常陸国風土記』の茨城郡条なる記述の中での天皇の侵略行為に由来がある、とされる。真偽は文献がなく辿れないから、もともとあった地名を、当時の奈良つまりやまとの役人が狡猾に利用した可能性もかなりあるだろう。『万葉集』などでも確認できるが、この各地でのなんらかの目撃された事例を当時の奈良の話屋は神話じたてにしてしまう、という嘘つきの才があった。『古事記』はまさにこの集大成だろう。かなり荒唐無稽な話が多いのでほぼ虚構だと考えていいし、とりたてて科学的な証拠が存在しえない古代のことなので(後生に捏造されるものも入れて)、天皇家を偶像化しようとした役人のしわざだとおもっていいだろう。
 茨城という名前をかなり広域につかうことは、明治にはじまった慣習らしい。それまではいわゆる常陸という名が、常陸国風土記の作成時期からつづいていた。水戸のとなり大洗の手まえの茨城町に廃藩置県で県庁をおくときにこの名前が浮上して、そのまま県名になったらしい。

 北茨城市は、自明だが、この県名を市町村配置時につかって、北という最北端の理由で県議会で採用された様だ。時期的にはきわめて最近の地名であり、それより昔はちがう名前だった。いろいろ文献を辿ると、もっとも古いのは多珂という名前で、上述の常陸国風土記にみえる。多賀山脈というのはここからきている。それより古くは辿れない。もっと最近では江戸時代のものとされる『新人国記』の地図に、足洗や花園と読めそうな地名記述がある。これはいまもどちらも存在している。また、いわゆる水戸黄門が巡遊時に雨情生家から五浦まで出掛けた証拠とよべそうなものが、立て看板や史実にある。実際、雨情の父は彼自身の全集内での回顧によれば藩士だったのだから交通の要所でもあるそこが、時に係留地になったのは自然だろう。

 以下は哲学的な話だが、つまり価値づけみたいなことに関わるが、茨城という名義は二面性がある。水戸藩の存在時まで常陸国水戸藩の傘下にほぼ各地はあった。ところが、茨城という名はそもそも天皇による侵略の、場合によっては捏造された証拠なのだ。つまり過去の時点ではそうでなかったとしても天皇による犯罪行為の証拠をあげつらっているにひとしい。水戸の伝統的考証態度は尊王だったから、ここに名へ二重性が生じることになった。茨城は天皇の悪事を、国民からみれば単なる独裁権力の濫用をあげつらう示威行動の様な在来主権プロパガンダの名義であり、同時にすくなくとも水戸藩域は尊王的な風儀が依然濃厚なわけだ。
 そして国栖(くず)と書いて、実際に天皇はこの古代の土着した県央人も含め言論でも人権侵害のうえ貶めてきた。これは屑、つまり役に立たないゴミという意味をもつ言葉との二重の意味のかさなりをねらった名誉毀損罪・侮辱罪であり、実際に日本書紀の中に天皇によってみられるものだ。奈良県吉野地方にいた土着の住民も同様のことばをあてられている。ところが、歴史考証によって英雄だろう義公はこの旧悪をおもわず、うらみを超越して皇族への忠誠という藩内の風紀をつくった。

 ある意味では常陸国が先史の頃から戦国時代をへて幕末終了まで置かれた複合性の象徴なのかもしれないが、茨城という名はこういう意味で、天皇制度への批判的な理解力を示すものだろう。
 自分のかんがえでは、幕末に皇統へ忠誠を示したにもかかわらず、賊軍あつかいをうけた水戸藩がこの批判的な名義を、いわばクーデターでつくられた明治新政府から「被征服プロパガンダの意図」を込めておしこまれた。いいかえると、当時幕府の長としての徳川慶喜は水戸学によって勤皇だったから、同時に二義性をもつscapegoat: 犠牲でもあった。慶喜公の悲劇の君主としての性質はこの二義性にあるといえる。これらのわけで、水戸県という名は成立しなかった。
 永井俊哉氏によると、「スケープゴートとは、システムと環境との境界線上に位置する両義的存在者を排除することにより、増大するシステムのエントロピーを縮減し、無秩序から秩序を再創造すること」。これは最も端的になぜ勤皇であり将軍である徳川慶喜が反乱を起こした新政府側から排除されたか、の明白な理由そのものといえる。幕府は反皇的なもの、というのが水戸学の成立していなかった関西での理解であったので、関東あるいはそれ以北とは真逆の、水戸藩的な尊皇思想への無理解がかれら西日本人に大きくて深刻な勘違いを及ぼしそうさせたのだ。そしてこのことは、あまり智恵のない反幕府派の公家でも同様だった。両義的というここでのことばは、対立するか違っている両方にある部分で属しているという意味で二義ともいいかえられる。
 実はこの性質は佐竹氏にもみられた、というのが面白いところだ。反徳川ではないにもかかわらず旧豊臣方であったので、転封をうけた。

 ところでこの茨城なることばの二義性は、常陸国現茨城県の古代史から一貫したある天皇理解を示しており、そしてより緻密にいうと、北茨城もふくめ、あるいは佐竹氏支配の時代もいれて、権力を振るう事によっての侵略行為への服従しながらの反意といったものがそこにはいくらかよりみられるきがする。この「侵略」とそれに伴う「征服」状態への態度が、忠誠的であると同時に批判あるいはいくらかの抗議を含んでいるというのが、幕末に常陸圏内で集約的にみられた内部抗争でもあったのを省みる必要がある。
 この県の人にとって必要なのは、犠牲にならない様に最大限大勢を二義のうちどちらかに属させる事なのかもしれない。そしてこれは常に判断をする、2つのうちどちらかを選択する、というはっきりした決断の習慣によって可能になるだろう。茨城県という名義は以上のために棄却すべきであり、「みなと」が語源といわれるみとの美化語として美都、御都をふくみ、常陸県、水戸県または水戸都、常陸都などこれらのうちどれか一義性に近いことばにもどす方が合理的といえる。

2012年11月12日

原子力労働組合の必要

原発は費用高で夜間過剰電力をもたらす意味しかないから、自発的に再生可能エネルギー特需につないでいく県民行動をとる方がよい。つまりわたしたちは東海第二原発が原発を時代遅れの発電方式となしていくさきがけとなるべきで、即時廃炉を県民の方針にした方がいい。
 たとえば茨城県内では条例で各戸へソーラーパネルの設置を義務づけるか、国家的助成によって原子力発電と同等以上の余剰電力をうみだす、という方途がありえる。この方が将来性がある公共投資であり、なおかつ家庭用蓄電池普及とくみあわせて売電によって県民主体で利潤をあげることができるうえに、電力会社にとっても廃棄物処理問題がないだけ未来まで安定して採算のあう県内電力事情につなげられる。
 ここで東海村村民の生計のみちが課題になってくる。事実、日本原子力発電株式会社から買収され、被雇用者となっているひとたちは労働者として弱者のたちばにあるのだから、このひとたちの生計の権利がまもられねばならない。「原子力労働組合」をつくり、日本原子力発電をあいてに、廃炉と原子力依存からの脱却をかねて雇用の安定確保をたねに議論していくべきだ。このひとたちが原子力村、という曖昧な表現でなかばマスコミから敵視されかねないのはすべて勘違いで、かれらは実質、株主から犠牲になっている弱い立場の者であり、報道面からは大資本の悪と暴威、勝手きままに翻弄される存在として擁護されるべき存在といえる。

 もし原子力発電所の維持という国家的方針があったとして、これらのウラン燃料が原子力爆弾の原料として重要だという意図がわけとしてあるなら、その点をきちんとおおやけにすべきであり、ダーティボムの生産能力も同様に計画されるべき、といえる。なぜならそうすることで原子力発電所ではないかたちでウラン燃料を蓄蔵すること、あるいは使用済み核燃料を蓄蔵することを国民として公認のもと再計画できるみちもひらけるだろう。

2012年11月10日

No title

POLA化粧品の美肌県ランキングの分析。
http://www.pola.co.jp/special/bihadaken/

年間相対湿度(気象庁)
http://todo-ran.com/t/kiji/13690
で茨城は5位で、
納豆消費量(家計調査)は2位。
http://todo-ran.com/t/kiji/11483
且つ、女子小中学生体力テスト(全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果、2010年)は2位。(2013年度は茨城県が1位)
http://todo-ran.com/t/kiji/13471

大豆イソフラボンは女性ホルモンの同位体なのでこの消費によって当然肌に対して美化の効果があるはずだから、これらの指標をみてとるかぎり、美肌というPOLA化粧品の調査で最下位になるいわれは皆無といえる。
 いいかえると、POLAという株式会社は私企業なこともあり、なんらかの恣意的な調査結果をさも科学かの様にてらっている可能性が非常にたかい。さもなければ、なんらかの逆の事実をしめす指標があるはずだから。

 魅力度調査の実態もそうだが、こういった疑似科学的な統計がさまざまな公的ではない機関によって複数でてきているところに、国民は非常に注意がいる。ここにはなんらかの情報操作の意図がかくされているととらえるのが妥当で、科学的な厳密性とは無縁のものであるとかんがえるべきだ。

 POLA化粧品は売上高とも関係しているかもしれないが、水戸に美人がすくないという風評と歩調をあわせた結果を用意して俗の好奇に適合させた側面もかんがえられる。もともとのこの風評は、参勤交代の結果つくりあげられた東京商業社会での遊郭世界との対比として、都会の風俗にまみれて外面を飾るという面から俗化していない農村社会がはるかにおおかった常陸国の状態を俗塵目線で風刺したものとおもわれる。また、化粧は一般に素がよくないばあいにつかわれるものだから、株式会社としては売り上げの将来に期待がもてる場所へ宣伝の意図をもっている可能性が非常にたかい。
 現実には健康性の指標である肌の状態は、上述の指標にみられるとおり茨城の方が東京よりもよいととらえるのが自然だ。具体的に対比すると、

年間相対湿度(気象庁) 茨城5位 東京47位
納豆消費量(家計調査) 茨城2位 東京20位
女子小中学生体力テスト(全国体力・運動能力、運動習慣等調査結果) 茨城2位 東京40位

あきらかに女性の健康性をしめすはずこれらの統計値とはおおはばにちがう指標であるということは、「茨城県では健康な女性が化粧をしない」という端的な事実をしめす。どちらかといえば、これは化粧という男性の目を健康性とは真逆の技術であざむく決してよい風習とはいえないものをしりぞけている点で醇風美俗にちがいない。よって同美肌ランキングなる指標は、むしろこれとは逆のうまれつきの健康性を化粧でもってあざむこうとする勘違いしたおろかさ、もっといえば醜悪卑俗の指標であるといえる。たとえば茨城同様の類型として女子小中学生体力テストで1位、同指標で44位の福井県がある。
 それとは逆に東京をふくめ、POLA化粧品をつかっているたぐいのひとびとにとって、あきらかにその上位県である島根、山梨、高知、(東京8位)、といった都道府県は、「化粧品をつかう必要のないひとびとまで化粧をする」、といういわば都会ずれした低俗な風習、もっといえば悪い風俗がPOLA化粧品使用者層にあるととらえるのが自然だ。

 これらの指標を誤解をあたえる様な美肌、ということばでいいあらわそうとしている点に株式会社たるPOLA化粧品のあざむきと、統計学的無理解性がある。

2012年10月28日

スカートのつかわれかたからみた服装様式と文化の関係

 女性がスカートをはく、という生活形態はイングランドから流行としてやってきて、日本の中学生や高校生の制服にとりこまれて定着してしまったが、かならずしも普遍的ではない、とケルト文化のキルトスカートが男性にもはかれること、そもそも日本にはスカートという物体がなかったことなどがしらせる。睾丸の外部化が精巣を冷却化する為だったという系統発生の説をかえりみると、その文脈のうえではだが単に機能面からみればもともと男性がはいてしかるべきしろものとさえいえなくもない。

 おそらく、日本では他国とくらべて女性の貞操観念が必要以上にうすまって、誘惑的な服装をする、という決して保守的とはいえない風習がひろまってしまったとおもえる。
 貞操あるいは純潔は男女とわずもともと結婚契約を履行させる信念なので、この内的信念がうすまれば当然、離婚率もあがるはず。中世の民族衣装に、儒教圏で共通してみられる女性の第二次性徴をかくそうとする様式は、この結婚契約への封建制度内での適応化がみちびいたかもしれない。

 対照できる男性の服装がネクタイというそれなりに機能を逸脱しているかわった部分をもつことをのぞけば、男装そのものには歴史の推移でもそれほど極端な変形がない様にみえる。男性にとってむしろおどろくべきなのはかみがたがおおきく変化してきたことかとおもう。もともとは男性社会にとって機能をもつすがたにしようとすることが極端にすすむと、戦場でかぶとをかぶるためにあたまをそりあげたところからくるのだろうちょんまげの様な風習もでてくる。ネクタイがへそのあたりまで無用にながいという無駄でかわった点は、くびにまくおび、というtieのもつ忠誠的な意味を紳士社会で延長させた象徴化なのかもしれない。Informalなせきでのネクタイをはずすことがもつ社会的な意味をかんがみると。

 逆選択が女性の服装へかなりつよくはたらいているのがあきらかで、スカートというものも機能性をそれて単に誘惑以外の意味はなさそうな状態が慣習化されてしまっているところに、現代人類の一個の社会がおかれたある特殊な条件がありそう。つまり少子化という、一般の高貴化に由来した結婚可能性の減退が、そのまま女性にとっての過度の誘惑の必要をよんだのだろう。スカートをはいたことのない女性がいるとすれば、こういった社会風潮から超然としていられるあかしになるが、すくなくとも日本ではほとんど例外もないのではないか。よりながいめでみると、この風習のなかから異性への身体的な誘惑というかなり原始的な方法でいきのこってくる女性の形質はそうでない条件にあるより貞操観念がうすくなっているだろう。いわば、liberalismという状態がそれをつくりだしたのだ。それでも結婚契約の保守的妥当性はつづくだろうから、こういった貞操のないひとびとと、純潔のある安定した家庭をもつひとびととのあいだには、それなりにうめがたいさができるだろう。この2つの社会階層的すみわけは、高貴化、gentrificationの一般的結果とかなう。

 端的にいえば、先進国内では離婚率のたかい不安定で相対的にまずしげな社会と、それがひくく安定かつゆたかな社会とに純潔への価値観でわかれゆく途上にある。このうち、女性のスカートという服装はそのたけという部位をふくめそれが誘惑というもとの衣服としての機能なはず身体保護から逸脱した役割をもちいている分だけ特殊で、逆選択的に貞操観念のうすい人間が早期に身体の媚態という原始的で不安定な性関係をもつ早熟な風潮をつくりだしやすいとおもわれ、結果、そうでない集団、特に第二次性徴をあえておおいかくすtypeの服装をするひとびとにくらべればとみをたくわえる機会がそれだけへるだろう。
 おおまかにこの2つのかたを、誘惑型女装と貞操型女装とする。
 この誘惑型女装の系にあるひとびとは、まずしいかわりに早熟なだけかずがおおい傾向がつよくなるはずだ。いわばreproduce strategicな経過をとる。対して貞操型女装の系はKapacity strategicにゆたかでかずのすくない高貴化をへるだろう。この階層性は、現に義務教育から初期高等教育levelの子社会でもみることができる。高学歴にすすむ者は比較的に高貴化しやすく、あまり学力がないひとびとは早期の就業や早期に校内での配偶選択的恋愛行動がみられる。おみあいという日本独特の制度は武家が将軍へのうかがいなしに藩のあいだのむすびつきをさけるためだろう勝手な結婚を禁じた家康発の武家諸法度に直接のちなみがあるとおもわれるが、いいなづけといったそういった配偶の計画性から展開したとかんがえられる風習が封建社会では世界各国でかなりみうけられるから、これも高貴化によってきたものだろう。

 高貴化は先進国内での社会風潮化された流行で、かならずしも永遠とはいえない。しかし、早熟そのものには子のかずや不安定な家庭条件からくるまずしさという不可避の欠点もつきまとうだろう。人類の一部という単位でみると、総じて絶滅への衰退をさける範囲で徐々に高貴化しようとするのが大体のながれといえるだろう。当時の服装、つまり流行の様式はそういった社会風潮を、さらにおのおのの社会階層が要請されている機能を強化cycleにのせる様に特定のみためで強調し、象徴化する側面があるらしい。

2012年10月27日

深海魚について

 海底魚の汚染レベルによっては、鮟鱇料理というものそのものをあきらめるしかないのではないか? もし安全ならばそれなりの科学的根拠を提出する方がかえっていい。なぜどういう理由でどのベクレル検出数値だから安全なのかを説明できる状態が必要だといえる。

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2909413/9740186
福島沖の魚介類、放射性レベル下がらず 国際調査
2012年10月26日 18:23 発信地:ワシントンD.C./米国

【10月26日 AFP】福島沖で獲れた魚介類に含まれる放射性セシウムの濃度は、原発事故から1年半が経過した後も下がっていないと指摘する米ウッズホール海洋研究所(Woods Hole Oceanographic Institution、WHOI)の調査論文が25日、米科学誌「サイエンス(Science)」に掲載された。

 WHOIの海洋化学者、ケン・ブッセラー(Ken Buesseler)氏は、日本政府の公式データを基に、東京電力(TEPCO)福島第1原子力発電所の沖合いで獲れた魚介・海藻類の放射線レベルを調査。依然としてセシウム濃度が高い理由として、福島第1原発から低レベルの放射能漏れが起きているか、汚染物質が海底に堆積している可能性があると結論付けた。

 2011年から国際調査チームを率いて福島第1原発による放射能汚染状況を船で調査してきたブッセラー氏は、福島沖で獲れた魚介類の40%は日本政府の放射性セシウム基準値に照らして消費用として適さないと試算している。だが同氏はまた、時の経過とともに汚染状況がどのように変化していくかを予測するには、魚介類の調査だけでは不十分だとも指摘している。

「本当に必要なのは、福島沖でわれわれが目にしていること(魚介類の汚染)の原因となっているセシウムなどの放射性物質の出所や、汚染堆積物について、よりよく理解することだ」(ブッセラー氏)

 研究によると、検出されたセシウムの濃度は魚の種類によって異なるが、海底近くに生息するいわゆる底魚で最も高かった。また、汚染レベルに差はあっても、全ての魚介類でセシウム濃度は下がっていなかったという。

 一方、東北沖で獲れた魚介類の大半は、食べても心配のないレベルのセシウム濃度だったと研究チームは強調している。

 ブッセラー氏は東京大学(University of Tokyo)の植松光夫(Mitsuo Uematsu)教授とともに、11月12日から2日間の日程で都内で開かれるシンポジウムで今回の調査結果を発表する予定だ。(c)AFP


2012年10月15日

朝鮮学校の位置づけについて

http://synodos.livedoor.biz/archives/1929030.html
朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A 金明秀

 このページでは、水戸市議会が北朝鮮拉致問題とからめて朝鮮学校へ判断した無償化の否決的態度は、単なる「人種・民族少数派」への差別に該当している、という見解がみられる。

 水戸市の内政の問題かもしれないが、知識としてはどちらもそれなりの言い分がある。
 自分の意見としては、もし外国人学校的な私学が文科省の方針を採用していないとき、ここに「公費」というものを適用するのはまちがっている。公的利益は正義を以下に引用した類型のうち特に格差原理にたくしているはずだから、この人種・民族minorityの権利は本来保証されるべきといえるが、公費は全体の利益をめざすものだから、「部分の奉仕者」としてはあつかえない。いいかえると、公的利益つまり福祉の最大化をめざす文科省の方針を採用しているばあい、朝鮮学校には公費をつかってもかまわないことになる。
 ただ、この観点は私学にもかよいにくい経済条件下にある人種・民族minorityにとってきびしいという意味ではこころがせまい、とうけとれる部分もあるから、よく議論をかさねて次善の策をとっていく必要もあるとおもわれる。はじめはごく少数だったゲルマン傭兵が西ローマ帝国を瓦解させた例もあるわけで、水戸市の現状の方針のなか、文部科学省的方針の採用をその学校の法とするか、がむしろ主題になるかとおもえる。

ロールズ、正義の原理
 第一原理
各人は基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。
 第二原理
社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。
1. それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること。(格差原理)
2. 公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。(機会均等原理)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA


2012年10月14日

万引き認知件数の分析

 万引き認知件数は、値切り的な風習が寧ろ掛け値を抑制、万引きをへらす効果をもつ可能性を示唆してる。大阪では商人が多いはずだから、万引きをする側の人間をみつけても通報をしないという同情的な世論があるのでなければ、余計そうなる。香川県では大型店だらけという環境にくわえ、通報体制がととのっている事が不自然なくらい偏差値をひきあげているらしい。
他県では万引を通報すると警察に直接被害届を出しに行く必要があり、調書作成に何時間も拘束されるケースも。店の負担が大きく「わざわざ通報しなくても…」となりがちという。その点、香川は通報があれば警察官が店まで出向き、店舗管理者から委任された保安係らの書類作成も認めている。店にとって通報しやすい環境が認知件数を押し上げている側面もあるようだ。
四国新聞社:万引き多発県・香川
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/497/

 いいかえれば、万引きをへらすには掛け値をしない事をあえて客へしめすうりかたをするか、小型店舗でめのとどきやすい状態にする、あるいは実際に競り市でおこなわれる様な値切りという風習がもしかすると効果的なのかもしれない。


順位 都道府県 認知件数 人口1万あたり認知件数 偏差値
1香川県1,674件16.76件78.83
2東京都19,033件14.79件68.61
3兵庫県8,080件14.47件66.95
4京都府3,571件13.62件62.52
5岡山県2,644件13.61件62.49
6栃木県2,680件13.36件61.17
7千葉県8,197件13.35件61.13
8茨城県3,944件13.32件60.98
9鳥取県770件13.03件59.45
10愛媛県1,865件12.99件59.23
11福岡県6,551件12.96件59.11
12山口県1,773件12.19件55.06
13徳島県952件12.07件54.44
14長野県2,573件11.92件53.67
15三重県2,228件11.91件53.65
16島根県846件11.78件52.97
17高知県898件11.72件52.66
18新潟県2,784件11.71件52.57
19和歌山県1,169件11.64件52.24
20群馬県2,329件11.60件52.04
21岐阜県2,427件11.60件52.02
22山梨県998件11.51件51.55
23奈良県1,604件11.47件51.32
24福島県2,328件11.41件51.04
25埼玉県8,121件11.39件50.92
26広島県3,240件11.32件50.54
27青森県1,511件10.96件48.67
28神奈川県9,713件10.86件48.17
29愛知県7,901件10.65件47.08
30佐賀県895件10.50件46.32
31宮崎県1,168件10.32件45.35
32秋田県1,097件10.01件43.74
33沖縄県1,372件9.93件43.32
34長崎県1,412件9.87件43.04
35静岡県3,742件9.87件43.01
36滋賀県1,377件9.80件42.66
37宮城県2,244件9.61件41.65
38山形県1,130件9.58件41.54
39熊本県1,720件9.48件41.00
40福井県743件9.20件39.51
41富山県1,003件9.16件39.33
42北海道5,015件9.11件39.05
43石川県1,055件9.06件38.79
44岩手県1,082件8.07件33.69
45鹿児島県1,359件7.96件33.07
46大分県925件7.74件31.95
47大阪府6,802件7.73件31.89
万引き認知件数
データ出典 警察庁 犯罪統計資料 2006年~2010年
http://todo-ran.com/t/kiji/13999


2012年10月6日

ゆるキャラ悪風の忌避

 市役所がゆるキャラとか募集しだしているが、防衛に集中するのが政府第一の仕事だ。やめてほしい。明日にでも朝鮮兵・中国兵に攻め込まれたら、ゆるキャラで首をはねられておわりになるつもりだろうか。まともな武器と構成をもつ自警団の費用にする方がよほどまし。
 もし費用があまっているのなら、防災庁舎を高台に建設するなり、消防を移動させるなり、新規に耐震化を十分にした学校をつくりなおすなり、おとなの仕事をきちんとやってほしい。市役所員や市長が耄碌しているのなら、むしろ市民がはやく、狂った使い物にならない市役所を改造させねばならない。いくらなんでも商業主義的なかずかずの愚行のうち、もっとも恥ずかしい幼児退行のまねをするのはやりすぎ。わるふざけしている人間にはばちがあたるにちがいない。みなが悪風にのまれているからといって赤信号を渡る市長や市役所員は、はやくまちがった職、仕事を退任してもらわないと将来的に市民全員が征服者に殺されることによって滅亡するかもしれない。過去の人類史みてればこれはあながち極端な説ともいいきれない。
 武家の教訓として「先憂後楽」を忘れるべきではないだろう。平時にあって戦時を忘れない事、治に居て乱に備えよもそれに入る。
 おそらくだが、この偶像礼拝的悪習をはじめた第一人者として彦根市があるのかもしれない。だが、天罰はまちがいなくその市をおそうだろう。無益な風習をするほど、経済損失はふくらむから。

仲尼曰く、始めて俑を作る者、其れ後無らんかと。:『孟子』孟子 梁惠王上
→仲尼がのたまうに、はじめて俑(ヨウ:にせもののひとがたの像)をつくる者、その子孫は絶たれるであろう、と。
��偶像で殉死の風習のはじまりを作る結果になる、という意味。)
http://www.kokin.rr-livelife.net/koto/koto_yo/koto_yo_1.html

孔子、芻霊を為る者を善しと謂ひ、俑を為る者を不仁と謂ふ。:『礼記』戴聖 檀弓下
→孔子はいう、本物の人には似ていないわらの形ならばよいが、人にそっくりの人形では仁でないという。
��これも偶像の埋葬でいずれ人の殉死の風習を起こしかねない事から、偶像の禁止をいう文言。)
http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_255.html

あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どのような形をも造ってはならない。:『聖書』申命記5:8
��前後の文脈から、神以外のものを信仰する事の危険を警告する内容。神というのは「信のミーム」ともいいかえられるから、それ以外のすべての物のうしなわれやすさ、信仰の前でのにせものさをいいあてているとおもわれる。聖書の中では人は神の似姿ということになっているので、人型の人形、つまり偶像でもおなじことになる。)
http://ja.wikisource.org/wiki/%E7%94%B3%E5%91%BD%E8%A8%98%28%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3%29#.E7.AC.AC5.E7.AB.A0


 もし芸術によってこころの慰めを得たいのならば、音楽・詩歌・建築美術などまっとうな純粋芸術を奨励するべき。環境の中で劇作の背景と化し偶像礼拝にあたらないそれらは、人類が悪徳とはみなしてこなかったばかりか人々の心情を鼓舞するよい効果をもつとかんがえられてきた。

クール茨城活動

Cool茨城(格好いい茨城)のコンセプトで、ブリタニア(UK)や韓国がやってきた事、日本政府の単位でやろうとしている事をさきどりすべきだ。
 魅力度を上げる事も多少あれともなうかもしれず、県単位での「芸術活動の奨励」はくにのanti agingをかねた公共投資になる。この為に予算を十分確保すればいい。

2012年10月4日

茨城五輪の誘致策

オリンピックを茨城県が主体となって誘致すべきだ。
 東京都は既に尖閣問題で敗北したので、その成果を被災地でもある茨城県で代替すればいい。

http://kamomenome.exblog.jp/16731240/ 国々の2種類の特徴
にしめしたとおり、五輪開催によって最上位まで魅力度があがる可能性がたかい。

2012年10月2日

除染方法の示唆

・低濃度汚染地域の表層土を削り取り、それを高濃度汚染地域の汚染土の上に覆い被せる。
・高濃度汚染地域にナタネやトウモロコシを植え、バイオディーゼルやバイオマスエタノールを製造する。
・バイオ燃料製造でできる農業廃棄物をガス化して、発電の燃料とする。
・ガスに含まれるセシウム等の有害物質はゼオライトで分別吸着し、処分する。

ひまわりによる除染の問題点は
・福島原発事故による土壌の放射能汚染のほとんどは、表面数センチメートルの土に固着したセシウム134, 137によるもので、ヒマワリを植えるために土を掘り起こしてしまうと、セシウム134, 137を深く混ぜ込んでしまうことになる。
・ヒマワリの根が汚染さえた表層土壌に根を張るとは限らない。また、ヒマワリは、水耕栽培でもしない限り、セシウム134, 137をほとんど吸い上げない。菜の花も、1年間に吸い上げる放射能は土壌中の数%にすぎないが、農地の安全利用に対しては効果がある
・ヒマワリは大きく育つので、その処分が問題になる。ヒマワリにはリグニンが多く含まれるため、メタン菌による分解・発酵には向かない。焼却するには、放射性物質の拡散を防ぐために、焼却灰の処理が必要になる。

http://www.systemicsforum.com/ja/viewtopic.php?f=17&t=22 永井俊哉氏より。傍線筆者。

2012年10月1日

茨城空港の民営化

 茨城空港はできるかぎりはやく民営化すべきだ。すでに競合多数のばあい、民営企業が合理的。

 東京のマスコミは2つの点から茨城空港の解釈をまちがえている。
 1つは、それが単に自衛隊基地の未使用時間帯を民間活用したrenovationな事が理解できないという記者クラブが震源なのだろう東京のマスコミの愚かさ。だからこのある都道府県の行政単位で実現した首都圏の一員ための空港を非難する、というのは石原都知事や羽田を優先させて成田を非難したのと同じ東京ジャイアニズムの愚劣さや悪業しか示しておらず、かりにその行政が起動単位になっている段階での経営がうまくいかなくなったとしても再び自衛隊基地にもどるだけなので国政や国家の財政にはなんの関係もないので、この茨城県の空港が無駄だとのべる者は無知なばかりか悪意をもっていてかつ傲慢で恥知らずである。単に茨城県の単位の財政支出が県民のためにつかえないとしたら、一体なんのために行政区画があるのか。国政レベルと都道府県レベルの行政どちらの単位にも無知なばかりか、首都圏や関東の利便を単に東京のジャイアニズムのためだけに恣意的な悪意ある情報操作で弾圧したがっているあしき東京人の愚鈍へ猛省をうながしたい。またこういった愚劣きわまりない都民は、もし羽田と成田がなにかの被害で封鎖されれば、いままで悪辣な東京のマスコミがいわれなく誹謗してきた分きちんと責任をとり、調布飛行場だけで我慢すべきである。いざとなって茨城空港へ助けをもとめてきてもあとのまつりだ。いままで散々意味もなく愚劣な侮辱をしてきた責任は、ローコストオブザイヤーも受賞している茨城空港の合理的現代性が理解できなかった土台馬鹿な都民にそのあしきマスコミ組織もろとも、脱出不能性の地獄としてきっちりとらせねばならない。
 2つは、これは2chのネット右翼傾向の衆愚にみられる発言だが、韓国の航空会社が就航している事を誹謗している。だがこれもかれらの本意にさからって愚である。なにも茨城県は韓国からの移民をうながしているのではないからだ。単純に就航さきを通した観光収入をとる事、これさえ日本国民の経済性にかなわないとでもいうつもりだろうか? それらのネット右翼の一部にいるマスコミに扇動されやすい衆愚は、まず自分たちのあしもとからみなおすといい。統計は在日韓国人のわりあいをきちんとしめしている。
http://todo-ran.com/t/kiji/11618 在日韓国・朝鮮人
(データ出典 法務省登録外国人統計
www.moj.go.jp/TOUKEI/index2.html
http://www.moj.go.jp/content/000078095.pdf )

順位 都道府県 在住者数 人口10万あたり在住者数 偏差値
1大阪府 133,396人 1,538.54人 90.01
2京都府 33,027人 1,290.85人 82.05
3兵庫県 54,635人 978.73人 72.02
4東京都 114,961人 922.48人 70.21
5愛知県 41,598人 578.90人 59.16
6山口県 8,081人 546.07人 58.11
7滋賀県 6,102人 442.85人 54.79
8福井県 3,554人 435.89人 54.57
9神奈川県 34,838人 395.96人 53.28
10福岡県 19,478人 387.17人 53.00

23茨城県 5,783人 193.93人 46.79

 圧倒的にその数がおおいのは大阪と東京であり、茨城など上記の様その相対的な在住者の割合の偏差値は46.79と平均よりはるか下、もののかずにもはいらないのはあきらかだ。

 首都圏にある一空港がアジアの軸となる空港とむすんだことを、なぜか移民のうながしと勘違いして誹謗中傷するのは、ネット右翼の理解力のひくさ、馬鹿さからくる愚行をとおりこしてアジアの巨大な市場秩序を軽視した自滅行為でしかない。そして現に政治的次元では、茨城県が在日外国人の犯罪対策チームをくんだり、ほか都道府県とおなじく朝鮮学校をもつ政令指定都市の水戸市が拉致問題とのかねあいを重んじて組織犯罪を日本側へおこなうばあいは一律の補助金を再考している。そうしていないのは東京、あるいは空港でもLCC市場のニッチをゆずることができず切羽つまってケチを目的に陰謀風説で誹謗をしてきた卑劣な商業主義にそまった軽薄としか言い様のない千葉県の方ではないのか。
 県政の視野はアジアの成長しつづける巨大市場についているのであり、決して偏狭なナショナリズムではない点でむしろ現都政よりもすぐれた行動を選択しているのがまちがいない。

 むしろ2ch系ネット右翼と記者クラブをはじめとした東京マスコミは、国際的にはずかしい首長である石原都知事の連続再選と、キー局が韓国の政府ぐるみでのドラマや歌手のうりこみに簡単にだまされ買収された結果おのれどもが日本の伝統芸能といえるドラマ水戸黄門を軽視して中止、韓流をはやらせたのを猛反省しろ。こっちはひとことも韓国文化すばらしいとはいっていない。友好的な近隣国とはなかよくしましょう、敵対的な近隣国へは制裁しましょうときわめて常識的な態度で接しているにすぎない。むしろ悪いのは東京なのである。Racismやnationalismをおもいっきり時代逆行で主張しているあしき東京が報道組織の独占からくる腐敗で、国政にとっても合理的としかいえない首都圏第3の補完的空港を自費で整備したらいわれない冤罪であしをひっぱってくるとは、とんだジャイアニズムにこりかたまった極悪東京としかいいようがない。

 くりかえすが、茨城空港はむしろ首都圏にある自衛隊基地のリノベーション空港として合理的であり、民営化によってさらに発展性が期待できるので決して邪悪で愚かな東京ジャイアニズムによって非難されるいわれはない。実際、大震災時に県民にとっては空の足、自衛隊にとっては主要基地として有効に機能することになった。そのときすこしでもジャイアンにすぎぬ悪質な東京都民が羽田をよろこんで県民へ貸与してくれたろうか。そんな素振りはすこしもないばかりか、当のマスコミ組織にもいのちづなである電気をおくっている茨城県の被災地からさきに停電させようとし、首都圏のほとんどの食糧をになっている茨城県でみられた自主的な弱者への分けあいやひとりあたり供給制限とは逆に、東京の企業であるコンビニでは被災し死人のいる現地でもかねもうけを優先させ販売封鎖しつつ首都圏の食料を集団で買い占めまでするなどがみられたのであって、すなわち悪魔きわまりない東京都こそがさきにマスコミから積極的に注意され総攻撃されるべきなのだ。というか、茨城県の徳行を誹謗する東京都民やそれにだまされた国民のがわが悪にしたしむ結果、はなはだしい損害をこうむるのはまちがいない。
 いままでネットやテレビ、新聞その他のマスメディアでいわれなく県政を冤罪で非難してきた東京には、行政単位および民間の単位できちんとかりをかえさねばならない。それにはまず茨城空港運営の民営企業化をあわてずいそぎ、県政は着実なインフラのみへ空港関連事業の整備を限定することが必要。

2012年9月29日

ダウンロード刑事罰の忌避

ダウンロードの刑事罰実施は、茨城県では最大限、おこなわない方がいい。
 これは過去の人類史で「先端技術」分野をおくれた思想をもった国家権力が弾圧したばあい、その国が後進化してしまったから *1)。
*1) プロテスタントとむすびついた毛織物産業者を駆逐したスペインやフランス、ユダヤ人とむすびついた科学者や資本家を放逐したドイツがそれにあたるか。
参考URL http://www.systemicsarchive.com/ja/a/hegemony.html


 刑事罰という国家権力による事実上の検閲で潜在的・顕在的抑圧がおこり、インターネットをとおした通信の秘密がこわされ、結果、全体からみればごく少数の音楽・映画業者の利権のためだけに先端技術への適応がおくれがちになるだろう。単に民事罰のままにしておけば権力が最小しか介在しなかったはずで、こういった少数者にとっても容易に個別賠償請求できるから公費を無駄につかわないですみおおきくみて合理的なばかりか、情報の後進化にはつながらなかったろう。
 ダウンロード違法化はこうして、国家にとって害がおおきい悪法とよべるが、県警というレベルでこれをできるかぎりもちいない様に工夫することで、県内の情報産業がほかよりまさる誘因をもてるだろう。

2012年9月27日

意見

監督に脚本の才があるようにはみえないから、documentaryとおなじで「撮影のみ」に監督をつかい、専用のひとへ脚本は依頼すべきかも。過去の作品の質から。

2012年9月22日

天心役

天心役へふつうに佐藤健とかつかってほしい。
http://www.asahi.com/showbiz/pia/AUT201209220005.html
によると、映画『るろうに剣心』で興行収入25億円突破、動員200万人をこえるらしい。

 そういう時代感覚がないというのは致命的なきがする。
 監督をえらんだ人が市役所のどこにいるのか、市長自身なのかわからないが、映画界であれ芸能界であれ人材をみぬく目をもっていない人がえらんでいるとしたらどうしようもない。
 映画はモノとして永遠にのこる可能性があるから本当に下手なことしてほしくないのだが。しかも市の名義でやられると、全員が被害うけるから迷惑きわまりない。気味のわるいすじがきを、格好わるい人材やひどい暴力や退廃のてらいでもって糊塗されるきがする。市税で、というわけでほんとうにすくえない。関係ないひとにまで、偏見にみちた退廃的な映画をつくって迷惑かけるのはほんとうにまちがえている。

いじめをとめる理論

 いじめはほまれとたがいに反するむきで、もしその作用をおさえたければ、ほまれをあたえればよいことになる。
 これはよわいものいじめ、つまりscape goatingが喜劇の作用なのに対して、ほまれをあたえるいけにえの作用が悲劇なのと類比できる。『水戸黄門』は公権力による喜劇作用の浄化であり、これは勧善懲悪とよばれる。それはentropyのたかい集団の最大の情報者としてのあらくれものを退治し、その集団のみだれをまわりにとっていごごちよくおさえるから。くらべて、悲劇は徳川慶喜がもっとも類型にあてはまる。例えば『徳川慶喜の英略』の様、きわめてすぐれたほまれだかい人物が当然そうあるべきところへまつりあげられることなく、悲運にめぐまれたとき最大の同情がおこる。これは集団にとってもともと公益をあたえる負のentropyの情報者を集団にとって適切に処理できなかったことへ後悔と残念さ、惻隠の情、しのびなさ、同情のなみだ、つまり武士の情けをあたえるから。そしてこれは劇作用としては、ひどい混沌でよごれているひとびとにとっての浄化になる。
 たとえば『トムとジェリー』や『ドラえもん』は混沌をおさめる喜劇で、Jesusという救世主の受難を伝道するはなしである『新約聖書』や『平家物語』「敦盛最期」で熊谷直実の出家した経緯は秩序をひろめる悲劇といえる。
 このうち、学校という劇場でいじめがおこなわれがちになるのは、喜劇作用がつねに集団におこりがちになっているから。いわばあれていればいるほど、そのクラスには最大の情報量をもつ者が排除されやすい環境が自生的にできあがる。社会集団を維持する方法として人類が祖先からうけついだ作用が劇なのだろう。だから、こういったあれたクラスを再生させるためにはきわめてたかい秩序をつねに生じさせればいいことになる。たとえば先生が優等生をつねに褒章しつづける。そうするとこの人物へのほまれをあたえることの方がおなじ恒常性をもつ集団維持にとって効率がよくなるので、いじめはやむはずだ。逆にだれもほめないばかりかしかること、つまりいじめを禁止したまま集団の個々の情報源である個人間を平等にしようとしていると、entropyは自然に増大するからかならず時間とともにふたたびクラスはあれはじめ、かえっていじめをおこなっている段階より集団維持そのものはむずかしくなるはず。

2012年9月21日

社会学

定義: 知能の地域偏差

命題: 学力指標は後天的教育によるが、それをはげましやすい文化および気候環境があり、またとびぬけた秀才はこの地域によらず出現し、うまれつきの平均した知能のたかさは特定の地域にかたよってある。
 日本ではめだってNobel賞が話題にあがりやすかったが、その授与率は出身者の地域と国際学力testや地頭(一般知能)に有意な相関がないのでおもに英語圏に依存した個人への特定の贔屓ひいき目で、地域の知能偏差と関係していない。

証明:
PISAとTIMSSという国際学力testは、
PISA: 活用
TIMSS: 知識
と類比できそう。
 PISA調査(Programme for International Student Assessment)は
http://www.intweb.co.jp/teian/PISAtoha.htm より
「学校の教科で扱われる知識の習得を超えた部分まで評価しようとする」が
TIMSS調査(Trends in International Mathematics and Science Study)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%83%BB%E7%90%86%E7%A7%91%E6%95%99%E8%82%B2%E8%AA%BF%E6%9F%BB
は、おそらく数学・法則の基礎にかかわる習得度の方があてはまるだろうから。

 PISATIMSSをくらべると、PISAとTIMSSの成績には差がある。最近のTIMSS2007とPISA2009上位を「地頭」にちかいとおもわれる順にTIMSS成績分のPISA成績(TIMSS\PISA)にならべかえると、
TIMSS2007の算数4年・中学2年・小学4年・中学2年の平均順に、
1. シンガポール 2346/4=586.5
2. 台湾 2292/4=573
3. 香港 2263/4=565.75
4. 日本 2240/4=560
かつ
PISA2009 数学的literacy+読解力+科学的literacyの平均順は、
1. 香港 1637/3≒545.67
2. シンガポール(1630/3)≒543.33
3. 日本 1588/3≒529.33
4. 台湾 (1558/3)≒519.33

ただしPISA2009、台湾の読解力495 科学的literacy520
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/12/07/1284443_01.pdf

また韓国は中学2年相当の数学と理科のみしか指標がないが、それのみで計算すると
http://www.nier.go.jp/timss/2007/gaiyou2007.pdf
TIMSS2007
韓国 (597+553)/2=575
PISA2009
韓国 1623/3=541
よって、TIMSS2007\PISA2009は
541/575=0.9408...=0.94=94%

よって、PISA2009の平均分のTIMSS2007の平均の百分率は、
1. 香港 565.7\(1637/3)≒565.7\545.67=0.9645...=0.96=96%
2. 日本 560\(1588/3)≒560\529.33=0.9452...=0.95=95%
3. 韓国 575\(1623/3)≒575\541=0.9408...=0.94=94%
4. シンガポール 586.5\(1630/3)≒586.5\543.33=0.9263...=0.93=93%
5. 台湾 573\(1558/3)≒573\519.33=0.9063...=0.90=90%

 この最後のPISAの平均分のTIMSSの平均の百分率指標がおそらく 国際学力test(知識\活用比率) をしめす。いわばおなじ学習量であってもそれをつかえるわりあいとしての、地頭のよしあしをよりくわしくあらわすとおもわれる。脳の比喩としてのcomputerでいうとCPUの性能にあたるか。

 フィンランド、イングランド(イギリス)という教育上理想視されがちな国はこの指標によるとうえにだしたくによりかわった特徴をしめす。
http://www.nier.go.jp/timss/2007/gaiyou2007.pdf
をもとにおなじく計算すると、
TIMSS2007 
イングランド 2138/4=534.5
PISA2009
イングランド 1500/3=500
よって、TIMSS2007\PISA2009は
500/534.5=0.9354...=0.94=94%
つまり、イギリス(イングランド)は成績そのものはかなりひくいが、地頭だけでいえば国際的な上位にはいることになる。
 フィンランドは1999年の調査以降参加しなかったらしいが、そのときの調査と、もっとも近い年度の2000年PISAをもとに指標をだすと、
http://www.nier.go.jp/kiso/timss/1999/gaiyou1999.pdf
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index28.htm
TIMSS1999
フィンランド 中学理科535 中学数学520 (535+535)/2=527.5 
PISA2009
フィンランド 1620/3=540
よって、TIMSS1999\PISA2009は
540/527.5=1.0236...=1.02=102%
なので、地頭のよさが圧倒的にたかいことになる。

 これらの国々を上記の指標へ編入すると、
1. フィンランド 102%
2. 香港 96%
3. 日本 95%
4. 韓国 94.08%
5. イギリス(イングランド) 94%
6. シンガポール 93%
7. 台湾 90%
となる。

 つまり、イギリスをふくめ、フィンランドにもっとも顕著なのは「もとの素質」とおもわれる生得的知能の可能性がある。

http://libfuture.web.fc2.com/pdf/finlandkyouiku.pdf
http://www.finland2.com/education01.html によると、
図書館の利用頻度(趣味としての読書のために本を借りる) (%)と図書館の利用頻度(趣味としての読書のために本を借りる) (%)の比率が日本よりフィンランドはたかく、またフィンランド人は、大人も子供もよく本を読みます。小さな子供への読み聞かせもさかんです。自治体の図書館の他に、大学や研究機関の図書館も広く国民に開放されていて、車を利用した移動図書館を含めると全国に1,000以上の図書館があります。80%以上の国民が月に一度以上図書館へ行き、年20冊以上の本やCDを借りており、国民一人当たりの図書館利用率は世界一です。
��2001年フィンランド教育省資料)

といわれているらしく、国民が読書を趣味にしているふしがある。しかし、
http://todo-ran.com/t/kiji/14250 都道府県別の図書館利用者数
http://todo-ran.com/t/kiji/12090 全国学力テスト
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 全国学力テスト(活用/知識の比率)
によると、日本国内の指標で、図書館利用率の学力テストとの相関はつよくない。
上にだした
http://libfuture.web.fc2.com/pdf/finlandkyouiku.pdf
という資料の 6. 趣味で読書すると学力が上がるか のdataにも、毎日の「趣味としての読書」時間と総合読解力得点はそれをまったくしない生徒の成績のわるさをのぞけば有意に相関がなく(本を趣味で毎日よまない生徒はかならず極端に成績がわるい)、
国立教育研究所は、「日本の生徒は趣味として読書をしなくても、読解力の得点が高いことがわかる」とだけコメントしている。

とある。だから、なおさら上記の指標は、生後の学習によっていないうまれつきの知能の差をしめしている可能性がある。
 そしてこの有意な差は、
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 同、全国学力テスト(活用/知識の比率)
にもみられるそのもので、科学上IQ(知能指数)がかなり以前に提出されているが、おなじことがらを国際社会でもしめしているかもしれない。
 もし将来、よりくわしく、生後に幼少期のあいだおかれた社会環境におおきく依存していることがわかるかもしれない。だから優生学におちいるのは危険だが、たとえば国内で学力の上位地域に教育資本がめぐまれているかは
http://todo-ran.com/t/kiji/14250 図書館利用者数
http://todo-ran.com/t/kiji/14230 図書館数
をみるかぎりたしかとはおもわれない。
http://todo-ran.com/t/kiji/14730 小中学生学校外学習率
http://todo-ran.com/t/kiji/14737 小中学生通塾率
にもそれほど有意に相関があるわけではなく、「学校外学習」を通塾させられるのではなくおこなっている地域、に学力testの上位県や地頭のよい人々がより多い可能性がある程度といえる。いわば子どもが自分から学習する意欲をもちやすい地域の気候をふくむ文化か、一帯の遺伝があるのだろう。
 そこで、学力・地頭で最上位県は北ぐにでしかも日照時間がすくない日本海側にかたまっている傾向もいくらかあって、外出をする動機づけがすくない分だけ教育環境的な可能性はすてきれず、遺伝された生得的知能のみの問題ではないと反論があるかもしれない。しかし、この前者の教育環境が日照条件のみという問題ではないことは、上記の国際学力testの分析で上位国家が東Asiaの日照率のたかい場所ゆえ、否定される。最後に限定された後天的要因とかんがえられるのは「教育をはげます環境」ということになり、孟母三遷のいいつたえと一致するところにおちつく。

 また、
http://www.youtube.com/watch?v=Hw-15G3CNqE
茂木健一郎氏 知性とは何か
で茂木氏によれば、
「一般知性としてのIQ」は幼少期に遺伝との相関が50~60%、思春期にIQの数値として10~20%ほど変動し、としをとると遺伝との相関は80%にあがるという研究がある
��IQ: 知能指数。年齢分の精神年齢百分率)

らしい。これが真ならば、老成後の知能も大部分教育の成果をふくむわかいころのそれに相関していると定義できる。かつ
国別のノーベル賞受賞者 (ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%A5%E3%81%AE%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85#.E3.81.AF.E8.A1.8C
によると、国別のNobel賞受賞者数と、上述の国際学力testならびに、そこからみちびける地頭(一般知能、脳のCPU性能をしめす)の比率は英語圏の受賞者数がおそらく国際語という優位性のために圧倒的に多い(英語は論文照査で贔屓されがちらしい)ほかほとんど有意な相関がなく、
http://kamomenome.exblog.jp/16752474/ あたまをよくする方法 でも分析したが「地域の平均」としての学力や地頭ととびぬけた秀才の出現率には相関がない。つまりこの賞の受賞者数はあたられかたにある公平とはいえないかたよりをもっていて、個人として英語圏にちかしい極端な変異へのえりごのみをしめすにとどまり、国際賞としてめだつ分だけ特にわけもなくめやすにされる機会にくらべれば精確な地域別の学力やあたまのよさの指標ではなさそうといえる。人類の公的統計機関ではなく、単に一財閥に由来した一国の大学組織(スウェーデンの特定の人々)がおこなっているのをかえりみるべきだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E
 よって、冒頭にかいた結論がみちびける: 証明おわり。

2012年9月13日

森田一義独裁者による県出身者への犯罪

今日2012年9月13日の「笑っていいとも」でピース綾部氏は、タモリら出演者から集団で名誉毀損罪をこうむっていた。

 かれは吉本興業に入って喜劇役者、entertainerのみちをえらんだのはえらんだのだろうが、ああいう犯罪にまきこまれそうならすぐその場を退出した方がいいのではないか。生放送だろうと犯罪はゆるされない。仕事だからとおもって我慢したのかもしれないが、あれはタモリらによる明白な集団犯罪だ。こどもの模範にならないのはいうまでもない。
 観察した結果、タモリは自身の司会者の座がおびやかされそうな実力者を恣意的に排除しようとしたのだろう。犠牲の悲劇。いわばあの番組で森田一義という独裁者の悪巧み、悪業によって平日の昼間から公然と名誉毀損罪を放映して、その偏見にみちた悪評を正当化し、自身の地位の保全のためだけに綾部氏への公的評価をおとしめようとしたはずだ。
 ちかいうちにタモリが起訴されるか、番組を降板させられることになるだろう。あまりにひどかった。ピース綾部氏は最大限同情されるべきだ。それほど適当とはおもえない悪い評価をあえてしている視聴者も人間としてまずまっとうではない悪意をもった嫉妬深い人々だろうし、性悪、陰険、悪質な小人といったところで、相手どる方がおろかだ。

 古河はウィキペディア経由の風説によると東京を向いている様でもあり、じもととしては水戸方面からの忠告やてだすけはいらないのかもしれないが。県の反対側の人間としても、全般的に綾部氏への対応を世間はまちがっているなとみえる。かれは好色者かもしれないが明るく根はいい人間なので、その性格の純真さを自信ととりちがえて天狗天狗と衆愚は誹謗するのではなく、一座のリーダーとして立てておけば仲間の内を特有の社交性でうまくきりもりできるのだ。その能力を嫉妬から殺しているひとたちは、自分たちが貴重な人材を適所につけず、結果、集団が損をするのにきづかない。またそういった統率力のある位置がかれの能力をもっともいかしやすい場なので、かれは困難があるにもかかわらずあえてそういった社交性のたかい仲間のうちへはいっていくのだろう。
 それが客観的には、単なる悪条件へ果敢にはいっていくハンディキャップにみえるわけだ。

 ピース綾部氏への世論のおおよそをみていると、今現在、日本国民の大勢は堕落していてそこから評価されるということもよい意味をもっていないだろう。「邦無道」だ。単純にnet上は名誉毀損罪にみちていて、匿名掲示板でみられる様に品性下劣で悪質なほど嫉妬を買いにくく名誉毀損されにくい様だし、そういったNazism的に団塊化している衆愚世間をわたっていく方向に入っているピース綾部氏の役者としての将来というのも、はためには憂うべきか。そういった悪質な性格者や無理解者ばかりの人気稼業でなんとかやっていくのはむずかしいばかりか、実際、悲惨だろうから。
 かれへの世間の勘違いした誹謗をみていると、天狗党の乱をおもいだせる。あれもおなじく、堕落した世界にくらべれば純真すぎる善意にみちた人間が、もっと退廃しきった俗物だらけ、陰険で悪質な人間だらけの江戸以南以西へくりだしていった結果こうむった悲劇だったろう。

 綾部氏のもっている能力、つまり仲間をまとめる能力からいえばおそらく芸能界で大成するはずだが、それ以前に、森田一義容疑者みたいに陰険で嫉妬深く若者へ害をあたえる年寄りから排除されてしまうとうまくいかなくなってしまうかもしれない。たとえ何年間芸能界にいようと、どれほどまわりから持ち上げられていようと犯罪行為を公然と昼間から自身の番組で全国放映するのはゆるされない。

2012年9月12日

防災庁舎の経験

以下の資料からいえるのは、消防庁舎とおもな派出所が高台ではない場所にあるのはきわめて危険ということ。
 Piloti形式(くい形式)などでたてものたかさをたかくすることは、市内の浸水対策でのべた様にたてものをのこす効果はあるかもしれないが、それが基盤的な消防機関や警察機関だったばあい肝心の救出用の機器をうしなってしまう。震災後からここではくりかえしのべているにもかかわらず、市政には情報がつたわっていないかほとんどうごきがないみたいだが、実際に大津波があってからではておくれ、ということ。

https://twitter.com/inosenaoki (猪瀬氏twitter)より

南三陸町防災庁舎。高さ12m。テレビで見るより大きい。


構造は阪神大震災から学び頑丈。しかし逃げた屋上の手摺りは吹き飛び、波に呑まれた。ウラ側の非常階段の人は助かった。



3階に非常用発電機も備えていたが。



  
42名中11名のみ生存。4m×3階分で高さ12m。さらに屋上の電波塔5m。だが津波は15.6mだった。

電波塔に輪になってしがみつく。助かった人と吹き飛んだ人がいた。



2階、アナウンスしていた女子職員の位置。最後は屋上へ逃げたが。


  


2012年9月10日

都市計画の特別監修役

茨城県の単位になるか、自治体単位になるかはわからないが、広域の都市計画をおこなうとき、ファイナルファンタジーシリーズをつくった坂口博信氏を監修にする、というのもひとつの工夫だとおもう。特に日立市は工業都市として独特の景観をすでにもっているが、工場が国外にでていくながれのなかで、廃墟かscrapとなりがちな工場施設あとを計画的に再生する、という面になにかのideaが挿入できそう。おもに工場跡再生事業、となるかもしれない。
 テレビゲームのなかではきわめて未来的で幻想的な機械都市景観が創造されていたが、その原型質ともいえる想像力のみなもとには、日立市の工業都市環境からうけた幼児期以来の影響がみてとれるかもしれない。それは妹島氏にも共通しているところだが、この日立市独特の独創性のたかい近現代につくられた景観はむしろ都市のありかたとして貴重なもの、未来へむかったみとおしのあるものにみえる。イタリアのローマ、フランスのパリ、イギリスのロンドン、の様な古色蒼然とした景観とはむしろ逆をいく方向で、アメリカのニューヨーク、東京の様な林立ビル街のものともことなり、あるいは文化都市的ななんらかの共通コードや意匠などでかざってある京都、神戸、奈良、石川県金沢、鎌倉といった世界ともそれはことなる。日立市民自身はあたりまえだからそうはおもっていないみたいだが実利に徹した「まちの無機質さ」が独自のcoolさ、格好よさをもっている。この点を出身の坂口博信氏がもっとも理解できるのではないか。
 具体的な建築家としては妹島氏が有能なのはあきらかだが、そのうえに坂口氏の都市計画への監修があればなんらかのいままで人類のみたことがない未来的景観や、そういったすすんだ都市圏とすぐれた場所ができあがるのはまずまちがいない。これは構想だが、いわきを介してはまどおり宇宙stationへつながる可能性もある。

 もっともにた類型: 新型都市として横浜があるが、これは1983年に着工してすすんだ再開発事業によって短期間でつくりあげられた人工都市で、巨視するとブラジリアなどとにたpatternかもしれない。こういった一気呵成な大規模開発の欠点は、行政目線でおおくの決定がおこなわれた結果、民生とむすびつかずちかく大々的な廃墟になってしまう。たてかえや大規模修繕がしがたく模様替えにしか追随性のない超高層の欠点でもあるが、時代おくれになったつくりの不便さによって空きビル率もこれからさらにあがっていくだろう。つまり、いま横浜という場所はわずか30年ほどまえに速成された高層ビル群によって洗練された景観をもっているとそれなりの日本国民からおもわれている様だが、その風化や没落もおもったよりはやいことが予想できる。
 いいかえれば、横浜にとられている先端都市imageはやりかたによっては近未来とりかえし、なおかつ決定的大差をつけるchanceがある。促成栽培の現代都市として、おそらく東京大震災とあわせてほぼ確実にくるあいての没落時期にあわせて計画的に、十分研究した成功する民生混交都市modelで日立の未来都市観の高揚をはかればいいだけだ。
 行政主導でおこなわれる上意下達型の開発は可塑性や適応力がへってしまうことになる。この欠点を十分考慮し、横浜に予想できる失敗点を、再開発の前轍とすべき。Art event系などの過度の派手な装飾性を行政側は二兎をおうものとして特段顧慮せず民生へまかせ、単にrenovationをつかった公共infraの未来化を実利の面からおいもとめていけば日立独自の世界観に到達するだろう。

 日立は県北では中心都市だから、特別な魅力をもつ波及効果は当然さらに北のここにもあるだろう。ほかでも神奈川県という単位、兵庫県という単位で先端的な景観をもって全体のimageを牽引しているちいさな市のはたす役割をおもえばおなじく。

宣伝役の選別

吉川友氏を県政は全面的に宣伝へつかうべきだ。県を広報するときにそばにたたせる、紹介写真につかうというきわめて単純な威光効果を期待して。女性の魅力としては若さが重要でもあるだろうからできるだけはやく、なんらかの長期にわたる専属的な契約、特別な茨城親善大使やふるさと大使に採用した方がいい。

 魅力をつくりだすにはこういう好感をあたえやすい人物を東京にとられるよりさきにめざとくみつけてどんどんとってしまう必要がある。茨城の付加価値としてでなければ、むしろ東京がますます派手とおもわれるだけでそれほど追加の福祉はない。限界効用は逓減するから。

 ピースの綾部氏はlooksだけを、photogenicな役で制限的にもちいるのがただしい。過当競争のお笑い芸能界では眉目秀麗な喜劇役者はめずらしいから嫉妬で非難されやすい状態にみえるが、みずからその場に身をおきたがるところをみると、個性をただしくとらえれば「悪条件下で周囲とことなるめずらしい魅力を発揮する」というtoughさの点に特徴をもっているともいえる。

 渡部豪太氏は好青年だから、元気よくするたぐいの広報全般に役立つとおもわれる。

偕楽園の拡張可塑性をたかめる

http://www.ibaraki-geopark.com/ジオサイト/水戸-千波湖/ によると、なんと偕楽園のひろさは都市公園とみて世界2位らしい。
 ということは、ニューヨークをこそうとおもえばその面積以上に拡張すればいい、というのが容易にわかる。それで1位になれるわけだから、そこからは各国の都市計画をみながら1位付近を維持していけばいい。世界で一番ひろい都市公園をもつ、それだけでも美的価値のたかい都市として世界的模範と日本国、東洋の名誉になるだろう。

 これは水戸の構造からいえば、意図すればいまの時点でも十分できそうにおもう。都市計画法の条例で、京都市とおなじでおそらくたてものたかさを水戸芸術館のタワー以下におさえる方針があったとおもったが、同時に田園都市化、という方向性にむかっていける好条件が義公によってつくられていたといえる。
 ひとつ考慮すべきは、light-rail transitの計画があったとおもうが、これと地下鉄またはmonorail、あるいはrental cycle、Segwayどれかの移動手段開発によって広範になりやすい市街地の交通利便をます必要がでてくる。

2012年9月9日

東海第二原発の命題

「まずしくとも生きのこるのがいいのか、それともかねもちだが死にかねないのがいいのか」
 この2択を、東海第二原発の即時廃止決定問題として首都圏の住民、そして東海村の村民へ問う。もし金に目がくらんで後者をえらぶのならば、そのひとびとのうえにはつねにダモクレスの剣(権力の不安定)がおどしかけられていることになる。たとえ官僚といえど、あるいは日本原子力発電株式会社とその株主としての主要電力会社関係者といえどおなじだろう。
 先楽後憂となる政策は、先哲にくらべれば堕落としかいえない。報徳に応じた来世という思想、現世の業をしらねばならない。

 そういう劣った決定をする利己主義者、公害への加担者は、当然それ相応のむくいがある。少数の悪意ある意思決定者のいのちを失わせられれば、後生にわたる無数のいのちをすくえるのだから、当然ひとびとに簡単な計算ができればそういった推進派のひとびとのいのちは狙われる可能性もあるだろう。
「金と命、どちらが大事なのか」。金とこたえれば殺されてもしかたない。そうすれば金はのこるのだから。理屈上、大株主と経産官僚の癒着体制から集団虐殺されかねない県民、あるいは県の生命体の一員からはそういえる。勿論、自分自身は穏健派で説得を重んじ、暗殺や殺害をのぞまないが、過去数度の歴史経験則からいえば、水戸藩士というものは本気をだすと確実に実行力をしめすはずだ。
 正義のために身を呈するのをいとわないひとが水戸藩、いまの茨城県のなかにはいたことがおおかった。その意味でここは江戸時代以来正義の番人の様なところがある。なおかつ首都圏全体からみれば鬼門にあり、今回も、あまりにたみをしいたげつつ暴利をむさぼろうとするやからがのさばりゆけば、当然そういうおおきな粛清劇の反動がおきうると予想できる。

 賢明なのは、そうなるまえに即時廃炉と産業転換をはかることでしかない。県民、国民、世界の市民からみれば単なる東海村付近の少数者の食いぶちのためだけに、こどもやわかものをふくむいのちをおびやかされるのは不合理でしかなく、そういう公害をもたらす欠陥のある産業の国策的転換、転職・転業の助成を講じてひきかえとするしかない。
 この点で東海村村長の主旨、廃炉技術による再開発を期待するべきだ。いつまでも地方の善意におぶさった、悪意ある全体主義官僚と利益至上主義大電力会社の株主との癒着からたらしこまれた交付金麻薬につかっているのはわるいことで、きっぱりやめるべき。これからつぎつぎ原発がふえている全世界でおなじ問題がおこり、確実にはやめにあしをあらった先輩格をみならうひがくる。

2012年9月6日

集団思考について(ウィキペディアからの引用)

 集団思考(しゅうだんしこう、groupthink)は、集団で合議を行う場合に不合理あるいは危険な意思決定が容認されること、あるいはそれにつながる意思決定パターン。集団浅慮と訳されることもある。

集団浅慮の概念と類型
ジャニスは上述の事例に基づく検討から、次にあげる条件があるとき、集団思考の兆候が現れ、それが欠陥のある意思決定につながると結論づけた。

先行する条件
��1)団結力のある集団が、(2)構造的な組織上の欠陥を抱え、(3)刺激の多い状況に置かれると、集団思考に陥りやすい。

構造的な組織上の欠陥とは、メンバーに発言の機会を平等に与える公平なリーダーシップの欠如、整然とした手続きを求める規範の欠如、構成員の社会的背景とアイデンティティの均一性などのことである。また、刺激の多い状況とは、リーダーの意見よりもよい解決策が望めないような、集団外部からの強い脅威などのことを指している。

集団思考の兆候
上述の先行する条件があるとき、次のような集団思考の兆候を示し始めることが多い。

第1類型:自分たちの集団に対する過大評価。自分たちを不死身と見なす幻想や、集団固有の倫理に対する信仰のことである。例えば、ニクソン大統領とそのアドバイザーは、不死身の幻想に陥り、ウォーターゲート事件による致命的ダメージを警告する声を無視したとされる。

第2類型:閉ざされた意識。集団による自己弁護、集団外部に対する偏見が具体例である。例えば、ピッグス湾事件における意思決定では、「敵は間抜けで弱体」と見なす集団外部への偏見が働いていたという。

第3類型:均一性への圧力。自分の意見が集団内の明白な合意から外れていないかを自ら検閲する行為や、決定が多数派の見解と一致するよう留意すること全会一致の幻想、決定の倫理性、効果に対する集団の自己満足を妨げる情報が集団に伝わるのを防ぐ成員の出現を指す。

欠陥のある決定の兆候

集団思考の兆候を示す3類型のうち、いずれかまたは全てに当てはまると、集団内の合意形成の努力の結果として、欠陥のある決定を下すことが多い。

その兆候とは、(1)代替案を充分に精査しない、(2)目標を充分に精査しない、(3)採用しようとしている選択肢の危険性を検討しない、(4)いったん否定された代替案は再検討しない、(5)情報をよく探さない、(6)手元にある情報の取捨選択に偏向がある、(7)非常事態に対応する計画を策定できない、といった点である。

Janis, Irving, Decision Making: Psychological Studies of Policy Decisions and Fiascoes, p.244.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E6%80%9D%E8%80%83

2012年9月5日

Idolの分析と質素の徳

東京圏(東京・神奈川を中心として、千葉や埼玉をふくむ一帯)を一応の終点として、東海道・Asian highwayの右端を通しておきているのは偶像化、idolizationの現象とおもえる。

 特に、最近県南でも一部のひとらがまねさせている様だが、このアイドルが舞妓として歌舞その他の遊芸をおこなう、という歌劇の商業化現象がみられる。

 すでに同質のものとして古代には芸子・芸妓・芸者、という京都圏を中心にみられる芸能者集団がいたし、現代版でこれがidolとなのっているわけ。秋元康という人物、のちにつんく♂という2名が女衒、いわば人身売買業の中心になっている。またジャニーズや、宝塚歌劇団、沖縄アクターズスクールばあいによっては吉本興業もかなり似た型にはいるかもしれない。これらのほかに、質のわるい犯罪にふみこむなんらかのサービスをおこなわせる芸能者をかこいこむ、芸能事務所の類というべきものが無数に東京都内にはある。江戸時代から状況はかわらない。
 おなじことは韓国でもかなりむかしからおきている様だ。妓生とよばれるひとびとが韓国版の舞妓で、いまでいうイ・スマンという人物が無数の歌舞や歌劇をおもにおこなう芸能者を国際的にうりだしているのも相似的といえる。この人物はもともと日本にすんでいて、日本の芸能界での偶像稼業を模倣し、韓国へ輸入したとおもわれる。

 つまり、この偶像化とは現代ではそのいいかたはおおいかくされてはいるが、社会であまったり転落した者らをかこいこんで役者にしたてる、という間接的な奴隷制度なわけだ。それがテレビによる洗脳の影響力でcelebrity: 有名人とよばれ、逆説的に羨望をあつめる様になった。

 よりひろい意味で偶像ということばをつかうと、偶像崇拝を禁じる、つまりニセモノの像ではなく、神という理念そのものを信仰させようとしたのがHebraismで、ユダヤ・キリスト・イスラム諸教の根源にあるかんがえかたといえる。ところが、Hellenismとしての多神教だったギリシアの思想、またOrientalismとしての東アジアの思想もまた偶像をかならずしも禁じなかった。総じてみて、「美術」という世界で聖像からはなれた人物やsub cultureでみられる擬人化したcharacterをとうとぶ、すくなくとももてあそぶという風習は西洋ではHellenism、東洋特に日本ではOrientalismとHellenismの結合に由来している。
 そして今日、具体的にいきている人間へこの偶像・にせの像・つくりもの、つまりidolということばがあてはめられて、いきている偶像が生じる様になった。おもとしてかなりの猥褻で歌舞をおこなう芸能者がidolとよばれるわりあいがたかい様だが、この現象はAmericaからAsiaまでの自由主義圏一帯で相当ひろがっているならわしとみえる。

 日本のばあい状況がひどいのは、Hebraismとの切断がはげしいので貞操観念からの抑制がなく、舞妓・芸妓・芸子・芸者とおなじで既存の売春社会とむすびつくわりあいがたかくなって、ますますこの生きた偶像たちは堕落していく、という多神教風土によくみられる偶像崇拝とおなじ光景がひろがるところだ。『旧約聖書』創世記にソドムとゴモラ、というまちがほろぼされた説話が有名だが、これはいまでいえば東京都と京都府といってもそれほどちがいはない。
 なぜそうなるのか。特に世襲によって最高権力者の地位をながいあいだ独占してきた天皇家の居住地のちかくでこういった現象が頻発定着するのをみると、この天皇家のもっている信仰に退廃的商業都市のなかで偶像化をすすめたがる部分があるとみえる。もしそうでなければ周囲の土地では逆の風俗がみられることだろう。すでに中世にも、皇族界隈での性の極端なみだれをかきのこした『源氏物語』のなかではソドム的な光景がみられる。本居宣長が補強したなんでもありnationalism人種差別理論(大和魂、やまとごころ、あるいはもののあわれというkey wordsで先祖返りをおこしよく再起動される)によってこれが現代にまでつながり、いまだに天皇家の巣である東京都ではソドム化がつづいているといえそう。

 これらの見解から、偶像化はその虚像の崇拝という悪習によって貞操観念をうしなわせたり、生きた人間をもちいるばあい背後にある奴隷制度的な人身売買を定式化するので当然悪徳となるが、そのおもたる原因はソドム・ゴモラに類比できる東京都や京都府をすみかとした天皇家から生じているといえるだろう。特にかれらのなかには国家神道として明治時代に再興された祖先崇拝やanimism、偶像崇拝をふくむ特殊な信仰が世襲の絶対権力者としてあるのだが、これが極東での偶像化をもたらす第一原因であり、また悪徳の根源といえそう。

 ところで、水戸学という哲学体系は創始者の光圀によって、この世襲の皇帝の血統の連綿さを神格化する思想をふくんでいた。おそらく論証的にみいだせる幕藩体制の理由付けとして、藤原、源や足利、徳川あるいはマッカーサーといった有力者が古代王朝の末裔である天皇家の権威を利用する、という間接統治体制をとったその根源因をこの一系性にもとめたからだろう。地球規模の世界史をみかえすとこういった連綿さはめずらしいのもたしかだが、現実には偶像化のあしき風俗をもひきつれてくるお人なのが天皇家、というはなし。歴史上例外がないからまずそうだろう。天皇家とのつきあいというのは、日本ではということだが、左翼的にそれを廃位しようとすると古代からの家系図がのこっている血統書という日本人の一類にみられる由緒の希少性をうしない、右翼的にそれを称揚しようとすると絶対主義者の偶像化にまつわる悪徳が蔓延させられつつ世襲した天皇の血中心の人種差別から世相が排外主義にむすびついていくという両極にまつわる弊害をともなうので、できたら中道的な敬遠にかぎるといえそう。しかし日本ではないばあい、この天皇家とちかづくことは地球では最大のながさをもつ世襲の絶対権力者だからありそうな腐敗加減といえばそうだが、否応なくソドム的な風紀でよごされることでもあるだろうから、できるだけおちかづきにならない方がいいのだろう。そしておそらく外国人や日本国民どちらでも、天皇の具体的な廃位にうごいていくばあいは国家神道とからんだ極右暴力団による迫害がくわえられる可能性があるだろう。
 なぜ日本国民の多数がこれをおこなわないかというと、極右暴力団や皇族の関係者による明に暗にの迫害をおそれていること、もうひとつは前述の水戸学の理念が智恵とみていきているからだろう。
 またなぜ征服者が天皇の根絶的廃位をおこなわないかいえば、すくなくとも状況的にそれがおこないにくかったこと、また水戸学的南朝正統論にもその萌芽がみられる血統の主体性への信頼感にかかわる保守性、そしてこれは和辻哲郎の『倫理学』での論旨だが多数の信仰者がいる法王状態の人物を廃位するのはその狂信下にある民衆を統治するのに不都合という3つがかんがえられる。特に3番目の論旨は、幕末の新政府軍側によってつかわれた朝敵ということば、また第二次世界大戦時につかわれた皇統ということばで現実に弾劾権のない最高権力者状態だったのが天皇だから独裁政におちいるのはあたりまえかもしれないが、そういう統治に際した不都合観をもった人間がしかもGHQをふくめた政府の中枢に複数いたのを実証している。昭和天皇が玉音放送直前に三種の神器の所在を心配していたわけも、もとは水戸学に於ける世襲権力正統化の根拠が血統論をふくんでいた、という昭和天皇の独自解釈によるのだろう*1)
*1) 北朝方は足利幕府にかつがれたが南朝方は主体性をもった天皇だったから、徳川光圀: 義公がのべたかったのはむしろ天皇制度のなかにある天皇という皇帝の意思の尊重だとおもわれる。おそらくだが、生前の最高官位が中納言であった事実からも、もっとも悪解釈したとしても御三家としての立場の限界から徳川宗家そのものの役割を皇室補佐に定める方が得策と判断し、もっとも善解釈したとすればこれがのちに副将軍と称される結果になるわけだがいまでいう水戸っぽい豪胆な気質から宗家とのあいだで生じている共生的な競合関係のなかで真の忠誠の度合いを啓発し権力者の理想をためそうとしたのではないか。この言動の動機は、兄の頼房をさしおいて藩主になった負い目、のちに早隠居による養子での家督の禅譲という有名でおそらく『史記』伯夷列伝からの影響でおこなわれた心理的複合観念の時宜におよんだ昇華だったろう。そしてこの2代藩主のいいつけへ忠実に、勝手に攘夷決行へはやった薩長とはことなり皇室からの攘夷の勅許をもとめて当時の征夷大将軍の後見役として慶喜が水戸藩主の末裔として京都へ随行した事や、そもそも勅許をえずに不平等条約へ調印した伊井直弼を越権の専横とみなした水戸藩士の理解は、おなじ意味での天皇主体論を一貫して奉じていたとおもわれる。そして現代にいたるまで、この水戸学的な真意は単に逃亡したとおもわれている慶喜へのかれらからの評価をみるかぎり、新政府側にたっていたすべての人をふくめ、旗本がわにも理解されていない様でもある。
 たとえば『人国記』『新人国記』でみられる常陸へ善悪をしらないあるいは全人がいないといった行動意図が理解できないことからくる偏見は、その哲学的深度に由来した道徳性の高みがこの俗書が書かれたと仮定される単に習俗にならうジャイアニズムの江戸とは、現代でもみられる地味主義的な常陸側のおおきな風紀のよさを参考にすればよい意味でおおはばにちがっていた証拠ととらえられる。道徳性は知能行動、つまり総合的な状況判断による将来予測性であり、一般知能に由来するのでその分だけ平均的な知識分の活用力の程度もたかいはずであり、もし地域にこの機運があるとすれば一定集団もそのとおりなはずだが、
http://todo-ran.com/t/kiji/12102 全国学力テスト(活用/知識の比率) をみれば現にそうなっている。ここで茨城県小中学生の知識分の活用比率、つまり茨城の子どもの平均した「地あたまのよさの成績」が関東地方あるいは首都圏ではほかにまさってもっともよく、全国でトップな秋田やトップレベルの北陸にならぶ成績なのに注目していい。つまりつめこみではない意味であたまのはたらきがいい、茨城の人は地頭がすぐれていると判断できる。おそらくこの茨城県民の地あたまのよさ、という長所はさらにのばされるべきだ。常陸国にふるくすんでいたのひとびとの先祖のかしらといえる佐竹氏のその後の定着地では、こどもにみられる頭脳のよさが圧倒的なのもすくなくともおなじこと、地頭の血統的な優良さとみられる現象を証左している。よりくわしく
http://todo-ran.com/t/kiji/12090 全国学力テスト の結果、また
http://todo-ran.com/t/kiji/12094 全国学力テスト(知識:A) と
http://todo-ran.com/t/kiji/12098 全国学力テスト(活用:B) を参考にかりに茨城と東京を比較すると、勿論どちらもテスト成績そのものやその地頭のよさといえるだろう数値は上位にあるわけだが、茨城のこどもはこの地あたまに比例するとみられる知識分の活用比率でのみ4位分も順位をとび級しているのにくらべ、東京のこどもではむしろ1位分の順位をおとしていてその勉強の絶対量のわりにはたらきがにぶい分だけ前者より平均して地頭がおとる可能性があり、結果として東京は茨城よりも平均して道徳性がひくいということも東京での成人後の犯罪率や犯罪発生数の極端なたかさ、ジャイアニズムにまつわる数々の過度の自信のありかから当然ある、と推察されるだろう。

 ところでこの一切をみても、複雑なことではあるが、天皇家のひきつれているおおきな悪徳のばらまきは義公による天皇家の主体性のかばいではおぎないきれないのではないか。民衆政、あるいは共和政のわくぐみのなかで多数者支配のもと、国民主権がとなえられている時勢に、天皇家を中枢としたソドムでの偶像化; ばあいによってはこのソドムである東京都や京都府その他スラム的な商業地そのものの偶像化は、決して正当化できそうにない。主権者からみれば、それらは天皇世襲制度の絶対主義的腐敗にしかとらええないだろう。実際に、なぜ東京や京都を中心地としてこのソドム的偶像化がおこなわれるのかいえば、天皇家の信仰が悪徳をもっているからだ。なされるべきなのは天皇家やその血統という古典的偶像そのものへのよく理解された見地であり、その結果、天皇主義というY染色体の血に由来した人種差別ではない面から、なにが道徳的でほかがそうでないのかがみわけられ、首都での堕落の影響からひとびとをすくわねばならない。王を擁立した理由さえ、もとはといえば最善者としての単独支配だったわけだから、その人物が劣悪で利己的、かつ悪徳流毒の原因なときは容赦なく否定されていい。

 Idol化は実質と虚像をはなしていく、という装飾的付加価値のまちがった用法だ、と結論できる。おそらく、哲学の根源的には美術装飾そのものも否定される。偶像崇拝が禁忌されている地方では、おなじ労力が人心の改善、つまり多少あれ利他的な善良性にむけられる分だけ虚栄からはなれていく。単なるひまつぶしや娯楽としての美術、またそれに類したsub cultureへもおなじく結論づけられるだろう。よって、今日みられる近代美術のわくぐみ、絵画や彫刻による建築装飾すら本来の徳からみれば堕落でしかないだろう。現に、古典的なイスラム教の世界というHellenismの影響をよわくしかうけていない地域でのみ、この無装飾性への信念がいきのこっているのがわかる。Modernismとよばれる工業製品とのかねあいでみられた装飾の罪悪視は、美術世界でいえば、水戸藩の領域で質素倹約という面からこころみられていた物品趣味の徳と鏡うつしでおなじ合理性をもっている。Americaでいうpragmatismとの一致点もみいだせるだろう。
 魅力、地域ブランド調査という東京都の総合ブランド研究所でおこなわれている地域の偶像化も、総じておなじ悪徳に堕するとみていい。その結果は質実剛健の地域性(http://kamomenome.exblog.jp/16715247/)のlogで予想されたとおり、高魅力地域でのガラパゴス商業化によってひとびとの適応性の低下になる筈だ。ときに、地球的視野のある高級官僚から日本は変な国、といわれることがあるのはこれをさしている。過商業性による大都市適応の既存習性、おそらく天皇家所在地首都制度での都好みが結果として島国でかつ文化や言語圏が少数派であるかぎり半閉鎖的であらざるをえない日本市場の風俗を無駄に、つかいづらく、不適応に特殊化する。
 なすべきなのは徳の先導だ。ここでいう徳とは、良徳、社会学的知識、智恵のことで、そのideaによって社会のなかのひとびとがより福祉にめぐまれる行動指針をいう。そしてそれは偶像化をさけたがる心理、天皇崇拝や美術物品崇拝あるいはsub culture系のfetishismや自然崇拝もふくめたなんらかの偶像崇拝を禁じようとする習性によって獲得できる。

 世界には積極的に偶像をつくりだす文化状態と、それを否定して内面心理の充実にこころをくばる文化状態の2つの場面がある、ともいえる。和辻哲郎『偶像再興』、などでとなえられているのは偶像の象徴作用を重視したたちばで、それは西洋で特にイタリアrenaissanceルネッサンス以降におこなわれてきたHellenism文化の再興とも帰一。古代日本でいえば縄文期は偶像社会、弥生期は脱偶像社会、とかんがえられる。後者があるのはおそらくなんらかのあらたな技術状況とのかみあわせがあり、いままでの装飾性での貴重品らしさが通用しなくなったという心理からの啓蒙がはかられる場面だろう。この分析点は岡倉天心『日本美術史』総叙にも、「精神鋭くして観念先立つときは興起し、形体を求むるにいたれば必ず衰頽す」と、めあては美術装飾品とかぎられてはいるがなかばにた洞察がみられる。道具や置物あるいは建物としてなんらかの機能性をもっていたものが、思潮の転換でその祭祀様式や劇そのものからはなれると単なる美術装飾品とみなされるのもおなじわけだろう。つまり偶像なるもの;人為的にかたちづくられた希少性の捏造は別の時代からみれば単なる技術様式の独特さにもとめられ、それはなんらかの象徴作用を機能化するところにある。
 おおまかに、機能性のたかさはその時代の生産様式でつかわれる道具に於ける技術革新、つまり発明からうまれる。対してこのある機能性の型に対する連続的洗練化が装飾をよぶ。前者は用途にまつわり利用率による生産性を発達させ、後者は豪華さでの権威感や威圧をよぶ。人類史は前者のするどさが後者を駆逐する、といったかたちですすむ。そうみると前者のみがすぐれている様だが、後者のよい点は貴重品がたまりやすく、後進的な世界でその伝統芸能を保全していく場面がありえるところ*2)
*2)哲学的な思想の領域でいうと、明治時代では前者が福沢で後者が岡倉のたちばといえばわかりやすいだろうか。岡倉天心の論旨にみられる日本という吹き溜まりになりやすい極東のしまの美術館視、Asiaのmuseumである、といった論理はおなじ原理、つまりanimismや多神教の風土がのこっている日本という孤立したしまぐに文明を、伝統工芸の保守率のよい適所とといているといえるだろう。

 では自分が、偶像化に対してもっぱらどんな意見をもっているかいえば、すくなくともHellenismとHebraismの結合による西洋と、その直系であり覇権をもっているAmericaの文明圏、が主導している時代に過装飾文化をもつのは危険であり、文化圏やそこでくらす生態のいきのこりのためには実用主義にもとづいて偶像崇拝を禁忌していく方がいい、ということ。もし状況がゆるさずどうしても無駄の制度化である装飾文化、偶像化をふくめたそれをみとめなければいけないとしても、その根拠はある立派な徳の象徴化作用にしか根拠はもとめられないのだから、すくなくともよい趣味かどうかが判断基準になる。わずかでもいやしいなにかしらの傾向があるとき、この装飾性は罪悪だ、とのべてもいい。
 こういった趣味観念がないまま、偶像崇拝の状態が完全に放置された結果として東京都、京都府、ソドム、ゴモラ、あるいは今日のほとんどの都道府県で大のおとながゆるキャラといいながら実在しないなにかしらへ擬人化されたすがたとして、ちぢんだ人形に身をつつんでねりあるく、といったくるった光景がある。それはまたanimationや漫画、comicsの副文化から引用した偶像化のありさまだろうが、日本全国全都道府県が一様にこの偶像崇拝的なおろかしい風俗にそまっている、そしてだれもその悪徳:ありもしない虚像へささげた愛好にもとづく祭祀を指摘しないというのは本気でおそろしい現象だ。Disney labelによって擬人化された喜劇的人形劇が、同時期に日本国内でみられた漫画での同様のcomedyをふくめ、もしかするとそのはじめの一端をになったのかもしれない。
 いまイスラム圏でも、特に石油による莫大な収入がある諸地域ではこの過装飾の美術館を複数つくりだして将来世代の観光収入をみこした来世のそなえにしよう、といったイスラム思想にもとづいた文化模倣がみられる。だがそれも総合してみかえすと、人類史上ではある堕落にすぎないだろう。もとはギリシア人らのなかでの多神教がひとがたをもった神を空想していた経歴から、とおく極東日本での神道が祖先崇拝や自然崇拝の系譜にまでこれをひっつけてしまう、という奇妙なHellenismの変遷が、像としてのかたちをもった崇拝対象をつくりだす制度につながったのだろうが、その東京都や京都府のありえる末路はソドムやゴモラとおなじでまた悲惨なはずだ。
 このにせの像、つくりものをおがみ、大事にするというのは根本的には神のつくりだした人間こそが大事であるという理解をさまたげるのであり、その人間が世界のなにごとかを模倣してつくりごとをするのはさきに『旧約聖書』*3)にみられる見解だが神の似姿であるはず人間性にそむく現象なのがあきらかだから、実用的な道具にかぎってのみそれを人間の目的につかえる範囲で人間未満にだが大事にする、というのが趣味にそむかない限度、とかんがえられる。もしおなじ論拠にもとづけば、この人間優先の領分にのみなんらかの記号を応用した装飾、できたらなんらかの自然や人工物を模倣によって連想させないそれもかぎられるべき、とわかる。わざわざいうまでもない様なはなしだが、現実にはこれに反した無数の慣習があるのでこの理想はよほど達しがたいのがわかる。しかし妥協してしまうほどのきびしい、反宗教的でゆがんだ現実性がどれほどあったとしても、やはり理想的な徳という面からはこの偶像否定の方がよい、すぐれたたちばなはずだ。「質素」、ということばがもっとも素朴にこの趣味に関する道徳性をつたえている。
*3) 『旧約聖書』出エジプト記:20
それから神はこれらのすべてのことばをはなしてこういわれた。
「わたしはあなたの神、あなたをエジプトの地から、奴隷の家からたずさえだしたものである。あなたはわたしのかおにさからって、ほかのいかなるものをも神としてはならない。あなたは自分のために、上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。それに身をかがめてはならず、さそわれてそれに仕えてもならない。」


2012年9月2日

水戸学の本質

弘道館での教育は、結局、古代ギリシアの自由人へのそれと同じ類型だったとおもう。一般教養:liberal artsによって自由人、つまり奴隷と正反対の人格をつくろうとした。
 時代に応じて教養のなかみはかわるが、人類がもとめている目標はそれほどおおきくちがわないあかしだ。この自由市民という理想がおもに是政者、政治階級にとって十分条件となる適性だったのがわかる。

いじめの解決方法

山岸俊男氏『心でっかちな日本人』第二章からひけるのは、機会頻度によったいじめ行動がみられる、という実験的知見だろう。
 何人がいじめをやめさせるかあるいはみてみぬふりをするか、というclassの平均期待値によって結果が真逆になる。この臨界値がすべての集団にあり、よいときは本来の正義感のある者らによってのぞましい社会秩序としての個性の尊重があらわれ、わるいとき、こどもでは校内犯罪の隠蔽であるいじめとなり、おとなでは組織的な犯罪の隠蔽になる。

 すべてこの犯罪隠蔽をさけさせるには、消極的には2012年9月現在滋賀県大津市で大々的におこなわれている様な事後的な刑罰もきくだろうが、積極的にはその社会集団での臨界値を風変わりだが無実な少数者をかばうがわにもっていくのが必要となる。
 排他的集団はかれらの多数がもっていない特徴のもちぬしをしいたげる。この際に、かれら根っからのわるものをとりかこむ多数者が個性尊重的な行動原理をもっているとき、あきらかに少数者の権利をまもろうとするだろう。日本でこれがおこりにくいのは、かれらの多数が遺伝的同族性をもっているうえ、かつて村八分という管理された農村社会で規制されていたふるい風習があるから。このなれが特に日本社会とよべる日本の土着人らのみの集団では頻繁に先祖返りででてくる。

 あるべきなのは個性尊重がわの人数を擁護する事、そしてそういった行動習性をもつ人間をclass、つまり一定の組織集団にふやすこと。
 それにはこどもの社会では単なる動機づけだけではなく、無実の少数者へのいじめ行為をとめさせた者へおおやけに褒章をあたえる、傍観者は潜在的ないじめ加担者だからこれをふくめとめなかった者へ厳罰をほどこす、という賞罰の原理を教育指導要綱あるいは条例規則へいれる必要がある。またおとなの社会では無実の少数者への迫害と多数者への追従によっておこした事件にあきらかな法的罰則をもうけること、そして無実の少数者への擁護やてだすけをおこなった者へ公的褒賞や報酬をあたえる必要がある。冤罪に関しての同様の場合もおなじ。
 もっとわかりやすくまとめてしまうと、とらえかたによって語弊もあるかもしれないが、「判官贔屓ほうがんびいきの制度化」をするのがいい。
 これらの無実と罪への個人主義的賞罰原理は単なる制度だから、精神論より具体効果があるだろう。さらに、単なる道徳心理をうえつけるという方法をとるばあい、新渡戸稲造『武士道』の弱い者いじめへの心理的制裁をしめす該当箇所またはおとなのばあい全体を教本としてあつかうのも実効性があるだろう。仁:benevolenceの項目につぎの文がある。

やぶれたる者をいつくしみ、おごれる者をくじき、
平和の道を立てること、これぞなんじわざ

��まけたものをいつくしみ、わがままなものをくじき、
おだやかなみちをたてること、これがおまえのすべきこと。)

 また自分自身がそこにまきこまれたばあいは、
1. 「自分が第三者であるか現にまきこまれそう」なとき無実の少数者の味方をして悪人らへみずから抵抗したり信頼できる他者へ通報するなどさまざまな手だてで「たたかう」か、
2. 「自分自身が被害をうけている」ときは「勝てそうならばたたかい、てだすけがすくなく勝ち目がなさそうならばその社会集団からのがれ別の集団に所属する」のが有効。
3. これらの中間的な「傍観」が、なにもしていなくともおこなわれていく罪へ間接加担することになるばかりか、その悪意ある集団とそっくりな一員とみなされてしまうので「もっとも危険」ということになる。
4. 勿論、「自分自身が無実の少数者への犯罪にてをそめている」ときは「もっとも損害をこうむっているのは自分自身」となるだろう。この無益なばかりか害のある行動へついやされる時間を自分自身の向上にあてた方が合理的なばかりか、犯罪そのものは外的には警察から処罰され、内的には良心から制裁されるから。

2012年9月1日

国々の2種類の特徴

1. かつて皇居か幕府があり
2. 冬季を含む五輪があったことがあり
3. 有名な芸能学校がある

これが派手な都道府県の特徴。
具体的には、北海道、沖縄、東京、神奈川、京都、大阪、兵庫、奈良、長野。
ただし、

1. 所得格差がひろがり(商業化)
2. 犯罪率や離婚率があがり(風紀低落)
3. 運動テストや体力テストの成績悪化

という反面を総じてもたらしがちらしい*1)。地域名に魅せられてきた新規流入者がそういう傾向をあたえる可能性があり、またかれらの劣悪な賃金労働者としての飽和状態がスラム化をもたらすのだろう。ホームレスや生活保護者世帯数がもっともおおい方にこれらの都道府県ははいっている。
 ただこのなかで、奈良は人口ひとりあたりの総生産が日本一ひくい、というかわった特徴がある。平城京があった時代にそうだったにせよ、現代ではあまり商業化がすすんでいないとわかる。もう1つの側面として、皇室が移動後古都になった地域は平等志向が極端につよくなる可能性がある。京都では共産党の得票率が日本一たかく、奈良には宗教法人による所得調整をおこなうはず寺院仏閣や新興宗教が複数みられるから。
*1) 参考資料リンク
http://todo-ran.com/t/bestworst
http://www.best-worst.net/news_3CnH8Ra0M.html
http://todo-ran.com/t/kiji/11767
http://todo-ran.com/t/kiji/13959
http://todo-ran.com/t/kiji/13944
http://todo-ran.com/t/kiji/14268
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7342.html
http://todo-ran.com/t/kiji/14268
 特に、 http://www.best-worst.net/news_3CnH8Ra0M.html の重要データを引用する。
警察庁「犯罪統計資料(平成24年1~4月分)」によると、
「刑法犯」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.503%)
2位:愛知県(0.444%)
3位:兵庫県(0.431%)
「殺人」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0028%)
2位:大阪府(0.0022%)
3位:兵庫県(0.0017%)
「強盗」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0146%)
2位:大阪府(0.0135%)
3位:神奈川県(0.0083%)
「侵入強盗」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0044%)
2位:神奈川県(0.0042%)
3位:大阪府(0.0039%)
「放火」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.00299%)
2位:東京都(0.00248%)
3位:千葉県(0.00167%)
「強姦」の人口比における犯罪発生率
1位:東京都(0.0029%)
2位:大阪府(0.0025%)
3位:千葉県(0.0018%)
「強制わいせつ」の人口比における犯罪発生率
1位:大阪府(0.023%)
2位:東京都(0.020%)
3位:神奈川県(0.009%)
 これらをかえりみると、出所不明な俗書『人国記』『新人国記』にある常陸あるいは上総、下総などへみられる偏見項目、単に盗賊、押込、辻切が多いといった風説はおそらくこれを書いた民衆扇動家、demagogue矢野新一的な自己中心主義の武蔵国人等による悪意ある虚偽であり、現実にはそれらがもっとも多く風紀の劣るのが東京(武蔵)であり、おもにこの東京都からのはなはだしい悪影響と公害によって首都圏では、ちかばの諸地域、あるいは神奈川(相模)と千葉県、あるいはその影響はそれらにくらべれば微弱だが埼玉・千葉の県境でわけへだてられてはいる茨城県もすこしだが不本意に犯罪率を引き上げられてしまっている事がはっきり立証できる。
 これらの犯罪行為がみとめがたい点はどこでも同じ。それを現に割合、件数どちらでももっともおおくおこなっている刑法犯罪の悪党だらけの武蔵国(江戸、東京)が自分たちを闊達にして気が広いだとか潔いとかうそぶいて巧言令色で自慢をのべ、実際には真逆にもかかわらずさも自分たちこそ優良で善性かの様にみせかけるうえ、さらにあしきことにはそれらの悪徳からの公害あるいは罪の責任さえまわりの無関係の第三者におしつけるのは完全に現代にまで伝承されている、東京ジャイアニズム系の極悪の業としかいえない。単なる風説や冤罪まがいの非科学的偏見をさも真理かの様にかきつけているのはいまだにかわらないあしき風儀だといえる。
 このかなり昔の俗書にも、いまの矢野新一、総合ブランド研究所、ほか東京のマスコミにもみられる共通の特徴として、自分達自身がひきおこしている罪業をさもよいことにしたててかくしたりゆがませたりしてごまかしてしまうばかりか、まわりのむしろ善良だったり高潔だったりする人々にその事由の責任をおしつけてしまうという帝王主義的な情報偏見の悪意がある。いいかえれば、情報発信能力を独裁する事でそれを虚偽や風説でほかを害する器械とし、自らの利益のためだけに情報発信を悪用している。
 現代にも共通するこの通俗的な腐敗、情報発信力独占の弊害、権力濫用の堕落に対抗し正義や科学的真理あるいはひとびとの平等や公正な常識といったのぞましい調和を達成するには情報発信源の多元化が必需となる。このweblogもその一助になるだろう。
 現時点でもあきらかにそうだが、素朴な田園社会の延長にある茨城県域むかしでいう常陸国水戸藩あるいは下総国の方が、通商的な大都市化のすすんだ東京・江戸・武蔵あるいは神奈川・鎌倉・相模よりあきらかに風紀も民心もよかったろう。おなじことは、巨視的には関西地方にとって大阪からの悪影響下でおこっているはずだ。


 くらべて、地味な都道府県はこれといった特徴がなく、まわりにとってめだたない。具体的には、茨城、福井、埼玉、栃木、群馬、佐賀、徳島、鳥取など。同時に、共通してみられるほぼこれといったわるい面もすくない。あえていえばとなりに大都市圏があるとき、そこからの影響でなんらかの統計的数値が変動している傾向はみられる。このなかで福井と茨城、場合によっては埼玉も都道府県別小中学生体力テストが男女ともに上位や最上位にあり、特に福井と茨城はさらに都道府県別全国学力テストとその知識にくらべた活用力比率が上位にある*2)
*2) 参考資料リンク
http://todo-ran.com/t/bestworst
http://todo-ran.com/t/kiji/13465
http://todo-ran.com/t/kiji/13471
http://todo-ran.com/t/kiji/12090
http://todo-ran.com/t/kiji/12102


 質実剛健の地域性というlogで前回かいたが、この派手世界と地味世界では、派手な方がガラパゴス化しやすく、地味な方が普遍的な適応をしやすい。だからいきのこりを前提にどちらへ属する方がよいかといえば地味な方、とかんがえられる。
 こうみかえすと、おもにめだちたがりやのあつまりやすい場所、それは当然皇族や将軍、五輪関係者、芸能人といったひとびとだが、こういう者のとどまったりすすんでいきたがる条件や偶然の機会が特定の場所にそういった人口をあつめた、といえる。対してそういった派手者があつまっていないとき、はずかしがりやの世界がつくられるのだろう。

 日本でもそうだが、イギリス、フランス、ドイツ、中国、朝鮮、など封建的社会秩序ができあがった時代をもっている国家には、すくなくともこのはずかしがりやさ、shynessをとうとぶ傾向が中流社会以上にはいくらかよりのこっている様にみえる。特に良識的な家庭、あるいは土地の貴族といったイメージで。
 Americanizationでみえないくらいぬりつぶされた絵だが、それは封建時代に領主の保守性がつくりだした倫理観だったのだろう。おそらく一夫一妻制度の発祥やそこからきたある純潔主義的心情も各国ともここに由来している。はずかしがりやの方が下手な配偶をする機会や可能性もすくなくなる、よってこの地味な人間によって家督がつがれていく方が地主たちの地位は安定したとおもわれる。

 地球という単位でみると、まあたらしい国々と、安定した中世の主従社会が成立した国々とではこの2種類のおおまかな好みの性格差がみえる場合もある。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、これは植民地として樹立した最近の新しい国々だが、おおまかにめだちたがりやで、単なる成金をのぞけば伝統的な貴族というものがいないことがはっきりわかる。それゆえ保守的封建道徳へほとんど関心がない。

 以上の事をおおまかに分析すると、日本ではまずイギリス軍にねがえった明治維新によって一度目の革命、アメリカ軍による間接統治がおこってから二度目の革命をへて、保守性というものが比較的よわくなっている。だから上述でいう派手好みequal魅力という、もともと数値化できない地域のよさへ全体主義的に管理化した意図または悪意でこの方向性をせめたがっているひと(総合ブランド研究所の約10名や矢野新一など)がいるのだが、それは当の一度目の実質的内政干渉をおこなったイギリス社会ではむしろ逆なのが興味ぶかい。UKには保守党が現にあり、そもそも都市文明に懐疑的で王室までふくめ田舎: country sideを愛する傾向のある国民性という面で、自信や地に根付いた故郷愛を喪失し伝統の継続をきらう様になった反封建主義的商業化性向のあるこの日本国のひとびととは大分ことなる。北茨城というちいさないちでも大多数は、ここはおそらく日本のなかでもっとも保守性がたかいとおもわれている地域の極北なのだが、それでもやはり郊外店の侵食やcommercialismそのものへ果敢に抵抗しないという面ではおなじらしい。
 藤原正彦氏がくりかえしのべている日本の落ち度は、かれらが敗軍したあいての伝統的な保守性;ひるがえって自分達自身のそれさえなぜか否定、Americanismを勘違いしてうけとって、外様大名らの出世根性でつくりあげた新興の大商業都市文化にそまってしまったその団塊的みにくさなのだろう*3)。このおろかしさはあまりにあわててEuropeやAmericaにおいつこうとして屋上屋をかさねた明治の帝冠様式建築や公序良俗をもたない成金が多数だったことによる異常投機のバブル経済の様な変てこな勘違いをかさねた、という「邯鄲の歩み」にありそう。
*3) 要は、こういった日本の多数派はベネディクト『菊と刀』にも機会主義的とあるが、めさきの損得勘定によわく、ひろい視野や長い目をもたないことから、ほかの連合国民:アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアをはじめとしてカナダ、オーストラリア、オランダなどのひとびとにくらべれば、現実に大敗戦しているとおり一般知能が総じて低いのかもしれない。過去からみちびけばそういった理解ができるうえ、今日での東京発のテレビの俗にも空気を読め、という集団統制を意味する熟語が頻繁にみられるとおり、あからさまな全体主義さえもつ日本の大衆錯誤から被害をうけないためには個人は無論、地域の独立性が必要といえる。それは経済的諸関係から、文化の面もふくむだろう。地域の経済構造がなんらかの次元にいびつなときこの依存性がたかいとみつもっていい。茨城県にとっては県内の第三次産業以上の十分な発達が今後の課題となるだろう。
 はずかしいまちがいとしての日本的拙速近代化現象からもっとも日本でとおいとおもわれているらしい茨城県の特徴、すくなくともその集合的無意識に期待できるのは、どちらかといえば革命とは逆の世界観だ。いまの日本の多数がそまっている不義にして富みかつ貴い浮雲な世相へひとこというのみならず、その総合批判によって人類を正しい道へみちびけるとしたら、むしろ伝統的な武士道からきている古典的保守性、サムライ精神、すくなくともそのなかにやどっている道徳をきちんとたもちそれを後世へ着実につたえるという使命についてとおもえる。論語に、国に道がなければたかい言行を孫にせよとある(憲問第十四の四)。専制政治の歴史もながかったから多数が穏健主義をもつことになったという点をかんがみても、いまのところめだっていないという特長をいかしてそれは十分可能だろう。これらは政治適合性というもの、つまり調整的社会風土の十分なつよさによって茨城県域が高い福祉状態の維持に於いて常陸国時代から一貫したある貴族的格式をたもてるとしらせている。

2012年8月31日

県展のかえるべきところ

県の芸術祭の運営方式はつぎの点でよくないか、まちがっている。以下の方針をかえればよくなるだろう。

 まず淘汰方式、いわゆる試験監査によって排除的に展示作品をえらんでいるので質がさがってしまう*1)。だから参加希望者全員の展示場を確保することが重要。あらゆる傾向を決して排除してはいけない。よしあしは見物人がきめる。
*1) これは一般論としておかしく感じられるかもしれない。しかし、芸術界の原則として独創性は非排除方式のときにもっともさかえる。パリでサロン・ギルドの落選者展から近代美術が萌芽したのはそのいい例。日本でもアンデパンダン展が現代美術の萌芽になった。既存の潮流からすくなくとも適度以上にはなれた傾向が独創なので、あるいは審査をおこなう立場についている既得権益者は同時代からみれば賛同者がえられやすい保守的古典主義者なことがおおいゆえ、かれらのギルド談合方式できめてしまうとほぼ、この本来とうとぶべき独創的な芸術作品は排除されてしまうことになる。真逆に、むしろ「観客からの審査投票」というのがすぐれた芸術性をえらびだすかなめになる。しかも、ここに審査投票する観客がおおければおおいほど、消去法的な意味でだが失敗がなくなり、えらばれる趣味の傾向はよくなるだろう。世代別の投票というのも興味ぶかい結果をもたらす。若い世代がえらんだものの方が当然、既存の知識量がすくない分だけ独創性をつよくもっていることがおおいだろう。高齢世代がえらんだものはむしろ古典的になるだろう。
 つぎに、この会場構成が問題になる。せまい近代美術館をかぎられた期間だけつかうと、展示の絶対量がすくなくなってしまう*2)。だから県の芸術祭は水戸芸術館やほかの転用会場なども利用し、現代美術作品も候補にいれ、会期期間をのばして展示の絶対量を参加希望者全員分にひろげなくてはならない
*2) 自分が実際にみたところ、審査委員から落選させられていて、展示する機会がとざされ日の目を見ないまま地下収蔵庫おくりになっていた作品の方へはるかに現代性をもったものがきわめて複数あった。展示されていたのは、お年寄りのカルチャースクール級のなれあい傾向、なんの魅力もない枯れた近代美術前座のまねごとで、いまさら芸術として評価される質のものではなかった。いいかえればとじられたなかまうちでの自己満足にすぎない展示で、わざわざ遠方からひとがきたり、若者をふくめたおおくの人類が熱狂することは永遠にない芸術祭だった。

 以上のことは単なるかりる会場と会期規模の問題だから、十分な参加費をつのれば十分できること。むしろ箱物、公園、会議場、空きビルなどありとあらゆる空間と場所は県のあちこちにありあまっている。していないのは単に芸術祭に関係するお年寄りたちの気力がなく、体力面からずるをしようとしているから。上座にいてよくしったなかまをほめ、まあたらしいわざつまりすぐれた芸術性を排除しながら次世代をみくだしていれば楽ちんなわけだ。しかし魅力がひくいとおもわれている原因が、これらの怠惰なおとしよりたちにあるとしたら? 世代交代を強要し、運営委員そのものを気力と体力のありあまっている若い人間で構成することが世代間の所得移転、という深刻な不況におちいっている日本社会発展に必要な、第一歩ともなるだろう。
 これは義務だ。もしこれまでどおりよぼよぼギルドのすくえない排除方式カルチャースクールをやりたいなら、おとしより限定で県のなをかりずにおこなえばいい。どうせかねならあまっているだろうし。どこへみせようとくだらないなれあいは自分たち自身で茨城県の魅力に関する評判をおとす最悪のやりくちでしかない。さもなければわれわれ全員が、芸術面でそういったたちのわるい排他ギルドのおとしより級にセンスがにぶく全体として美意識が劣っているとおもわれてしまい風評被害によって将来世代をふくめて多大な損害をこうむることになる。くりかえすが、これは県民としての義務だ。

2012年8月29日

工場のresidence化

いま、工場が市内各地にあるが、これらが不要になるか、売りに出されて廃墟的な景観をもっているばあいもすくなからずみられる。
 これらはレンガ倉庫の要領で、art residence化してしまえばいい。NYでソーホーの再開発がはやったのが一番有名だが、ロンドン五輪もこのたぐいのinner city再開発をねらっておこなわれた。
 市の発展にとってもっともすべきなのは新世代の若者が定着してくれる状況だろう。芸術がこの起爆になるのが世界中でよくみられる。アトリエをかねた倉庫状態のたてやが複数あり、そこを安価で希望者らに開放する。これで工場というかつてなんらかの機能性をもっていた景物が、美観をもたらすものとしても再利用できる。さらにははじめかたづければほうっておくだけなので、手間賃がかからない。

 常磐炭鉱のあとには巨大なコンクリート建造物もみられるばあいがあるが、これらに安全性がある程度検証できるときはおなじことをしていいだろう。

 しばらくまえ、五浦あたりで美大につながりそうな美大芸大生誘致の構想があったみたいだが、アカデミー化というのはフランスのボザールという美術大学組織のころから疑問符されているので反対。美術大学・芸術大学といったart academyは古典芸能と化した死んだ技術をまねさせ、保守させる意味の方がつよくなって、むしろ独創や創造性をおさえこむ傾向がある。
 芸術をもっともよくつくりあげ、つたえるのは徒弟制度というのがおそらく普遍にいえる。
 外来のことばの翻訳なのでわかりづらいが、芸術:artはもともと「わざ」という意味で、職人のしごとと本質は変わらない。大工がどうやってわざをつたえるかをみていれば、技術には慣れとか勘といったある暗黙知がふくまれる。はやくアリストテレスの倫理学にもこのきづきがみられ、カントによっても『判断力批判』に天才自身が手本をみせるべし、という見解がみられる。つまりすぐれた工房があつまっているまち、といった場所が芸術家の創造性をもっともよびさましやすい。機械工業の集積がある日立市からの多珂一帯に於いて、北茨城は芸術の方面に特性が発揮されてきた経験がおおいので、おそらくこういう場所柄に適任とおもえる。

2012年8月28日

No title

映画天心は、はっきりいうといまの時点で失敗ではないか?
 茨城新聞によると竹中直人氏を起用というのでかれの過去の役柄の傾向がそうだったということと直接関係するとはかぎらないとしても、監督は天心という人物をわりと喜劇的に扱おうとしているのがわかる。
 自分もそれなりに岡倉天心について研究してきたのでわかるが、この人は根っから悲劇的な人物だ。その時点で監督と解釈が全然ちがう。寧ろ、自分くらい岡倉天心の経歴についてわかっていると、竹中氏をつかうというところにある深い悪意を感じる。和辻哲郎『岡倉先生の思い出』や岡倉自身の三部作、晩年の横山大観による天心評、或いはドナルド・キーン氏『明治天皇』に引用されている天心による皮肉が果たす歴史上の役割を読めば、岡倉という人は歴史上、きわめて深刻な理想主義者という事が理解できる。決して適当に笑っていい様な人柄ではないのだ。
 明治時代の決定的なイデオローグとしては福沢諭吉に対して決然と屹立する人間で、文明論の次元でも岡倉がいなければ世界史上、日本はただのおくれてきた野蛮な帝国主義国という烙印を押されて終わる。かれが、北茨城市内五浦、おそらく六角堂や天心邸辺で書いた有名なつぎの文で明治新政府側に組した人間へ致命的批判を最初に行っているのは、桶谷秀昭氏による『英文収録 茶の本』(講談社学術文庫)の解説にくわしい。

Those who cannot feel the littleness of great things in themselves are apt to overlook the greatness of little things in others. The average Westerner, in his sleek complacency, will see in the tea ceremony but another instance of the thousand and one oddities which constitute the quaintness and childishness of the East to him. He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace: he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields. Much comment has been given lately to the Code of the Samurai, --the Art of Death which makes our soldiers exult in self-sacrifice; but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of Life. Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were to be based on the gruesome glory of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.
'The Book of Tea' by Kakuzo Okakura, I. The Cup of Humanity

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
『茶の本』第一章 人情の碗 (*村岡博訳)


 いわば岡倉というひとは明治の弱肉強食;Social Darwinismへ隷従した専制政治、によって封建時代に確立されていた貴族の義務がうしなわれていくのを美術社会を焦点にして憂い、儒教的な君子の生き方をつらぬこうとした。新渡戸稲造にとっては『武士道』として体系化されたその精神の源流は、世に正しい道が行われなければ隠遁してそれを後世に伝えるといった『論語』にみられる東洋の理想だった。

子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也。

子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは恥なり。

孔子がいわれた。「篤く信じて学問を好み、死ぬ時まで善い道を守れ。危ない国へ入らず、乱れた国には居ない様に。天下に道が行われているなら現われて、道が無いならば隠れなさい。国に道があれば、貧しく地位が低いのは恥である。国に道が無ければ、金持ちで地位が高いのは恥である。」
『論語』泰伯第八の十三


 これは総合ブランド研究所による地域ブランド調査、いわゆる魅力度という言い振りによる商業地礼賛へもあてはまる至言ではないか? 現実には堕落した低俗な商業社会なのに、その地位や商品の有名さを魅力と印象論で自慢するのは道が無い、虚栄に染まった地域かもしれない。孔子や岡倉天心に学ぶのならば、重要なのは地味であっても道を行う地域にある事、つまり良識的な生活態度ではないか。又『論語』に「君子は人の己を知らざるをうれえず、その不能を患い己の人を知らざるを患う」とある。
 市長が旗振り役で市の宣伝を目的に発足されているとおもわれる映画天心は、2億円近くを行政の単位で拠出するわりに、市民の良識には何の意義もないものになりそう。竹中氏の起用から勝手に類推したにすぎないが、アリストテレス『詩学』以来、喜劇というのは一般に劣った人物を描写する様式で、その分だけまわりから北茨城市への印象や評価がさがってしまうかもしれない。

 起用した監督の松村克弥氏について少ししらべたが、市政がかかわっているかぎり語弊をおそれずにいえば際物ともいえる暴力映画を撮ってきた人物で、非教育的な劇作家なのがまずもってまちがいない。この純心質朴にくらしてきた地方発の映画制作というたった一つのきっかけだけで、魂をいれかえ君子豹変するものだろうか? それに、東京都出身というのがまたあやしい。というのも、自分の経験上、この東京都の大勢というのは江戸時代から御三家としてときに一目置くことはあっても、出自のしれない俗書といわざるをえない『人国記』『新人国記』にみられるとおり常陸国をある偏見から軽視している。現実には商業化した東京は上述の論語の文面でいう「邦無道」にかぎりなく近いゆえ、旧水戸藩の領域をふくめた田園社会の方がおそらく江戸時代を通じてもはるかに道がおこなわれている訳*1)だが、この東京出身者はまけずぎらいとされる江戸っ子気質もからんで、地方社会を特にわけなく現代でもいなかもの、ということばに象徴されるある軽蔑の念で等閑にしている可能性もある。

*1)東京が多くワーストを占める都道府県別犯罪件数、また多い側に属している都道府県別犯罪率を見ればよい。
http://area-info.jpn.org/CrimPerPop.html
http://area-info.jpn.org/CrimPerPopAll.html
同様の事は当然、家康の江戸開発による大都市化後もあったろう。この商業都市化のすすみかたの状況は鎌倉幕府以後、江戸幕府の開幕までより相模国に近いという地理の条件で弱い程度ではつづいていたろう。さらに、東国で唯一現存する『常陸国風土記』(713-721年)の記録をかえりみると、『万葉集』(756?-806年頃)巻14、東歌に多摩での調布の描写が初出する武蔵国よりも、常陸国はおよそさきに文明化がすすんでいたと考えられる。826年親王任国の一つになって、国司に常陸介が任官された事も関係するかもしれない。


 すくなくとも歴史にまなぶとして、水戸市のさきの映画はまさに、東京という場所、いわば傲慢な俗塵からのこういったおおきな偏見でつくられていたとおもえてならない。水戸藩士やその背景となる常陸国の人物群像がそれほど実現されず、江戸社会とひとつづきの大衆的かつごく土着的な人間として示されていたのでそう感じられた。実際には弘道館での藩士教育があったわけだが、東京の人間の手になる小説台本に忠実ともいえるとしても、そういった哲学的核心部分を蜷川幸雄監督はなおざりにしていた。
 明治から昭和を生きた雨情の全集によると「利根川以北」はある程度人間がすみわけられ、風紀がちがう。おおよそ、現代でも低俗化に染まっている東京圏とはことなりそれ以北はよい意味で清浄である。関、つまり国境があったおり、交通の不便によってそうなったかもしれない。おなじことは歴代の水戸藩主が憂うところでもあり、最後の将軍を江戸藩邸ではなく水戸でそだてようとした理由でもある。
 中国史にも孟母三遷で教育的居住地を市場からはなしたという例(『列女伝』母儀)があるが、country gentlemanはどの国でも、商業地としての大都会によってはぐくまれにくいのだろう。戦国末期、空の江戸城を居城に幕政をとるにあたって家康にとって一帯の商業化はさけられなかっただろうから仕方ないのかもしれないが、それ以降、特に第二次世界大戦後の民衆政下ではその風紀差は民度そのものにかかってくる。

 いずれにせよ誰が当監督へ依頼したのか不明。そのおそらく市役所の人の趣味の質と、判断ミスではないか。はじめから監督の過去をしっていれば予想できたはずだが、家族で安心してみられる映画にはおそらくならず、教育上のぞましくない描写に焦点があてられることになりそう。暴力や犯罪、狂気ある変質行為の描写に満ちた映画を見たい頽廃主義の人間はいざしらず、人選に疑問符がつく。責任者は実行委員長を兼ねてる豊田稔市長ではないだろうか。
 なぜ市の宣伝をしたいのか。これは市長が市の福祉をますために、経済効果をみこんだ映画製作によって市の売名をおこなおうとするからだろう。だが本当に映画というやりかたが最善で、しかもその監督がかつて頽廃主義的な傾向のある映画を撮ってきた人物でよいのか? 自分の一市民としての意見では、まちがっている。むしろ宣伝よりも市内の福祉を改善すべきであり、同時に、仮になにかしらを上映するにしても頽廃的なそれではなく市民の良識性を啓発するtypeの映画をつくりだしみせるべきだ。よってこのたぐいの仕事に向いている監督、たとえばスタジオジブリで有名な宮崎駿氏に映画製作をたのむことなどがすぐれた判断だったとおもわれる。
 制作費は2億円と2012/8/28づけ茨城新聞にあるが、それに市税を投機する意義をとうべきだ。遠目にみていれば理想的な像にみえていた岡倉の暗部をほじくりだして公然とかかげ、わざわざ波及的に市の印象をさげることになりかねない、喜劇色をもち淫靡かつ陰惨になりそうな映画へ公共の税金をつかうのはまったく賢明とはおもえない。しかも現実的に言ってその投資は専ら映画製作者らに配分されてしまい、現に被災している市内に環流するわけではないのだから。最悪のばあい、東京やその土着した人々にとって都合のいい、儒教的な理想主義の隠遁者である岡倉の劣等性をいじりまわしてさらし者とし、さらにはそれへ盲目的に追従していると悪解釈して実際には教授の高邁な理想へ殉じた日本美術院の面々の地方やそこに住まう人間を揶揄するといった悪意ある趣きの映画化で、市のよい意味での宣伝とはまったく逆効果になるのではないか。その場合、先ず監督を変える事が最善だろうとおもう。

2012年8月26日

茨城県の将来性

人間は現代で、宇宙進出の途中にいる、ととらえるのが自然だろう。さまざまな商業活動は、おもとして資材をあつめ、この機会をつくりだすのをまっている。

 国際情勢をみると、各国のおもな国土はかぎられてしまい、大戦をさけようとするかぎりそれらのいれかえはないだろうから、もし創世記のとおり「産めよ地に満ちよ」となれば地上をこえてほぼ無限にひろがっている宇宙空間をつかうのが穏当だ。
 茨城県はつくば市、というこの重要な起点を一つもっているのでめぐまれている。おそらくたちいれない福島県の被曝地、はまどおりはそこに人家がつくられないという条件を利用して主要な宇宙stationになっていくだろう。日本国内で実質的に国有化されながら大規模な面積が確保でき、かつ首都圏からaccessしやすいのもよい点だろうから。

 現在、さまざまな商業によって財貨をかせぐ、という資本主義段階のおこないがおおくのひとにみられるが、この成果物がある宇宙技術の個人と企業、またはそれを支援する国家財政にたくわえられた結果、宇宙進出が実際にできる様になっていくだろう。現実に宇宙に長期居住する工学はまだかなり次元がひくくむずかしいとおもわれているが、いずれできるはず。
 しかし、これらの段階になってもまだ防衛権、という側面が人間についてまわるのがわかる。宇宙の広大さからいえば戦闘的な生物もいるだろうし、武力が永遠に否定されることはおそらくないだろう。日本はGHQによって便宜的に無力化されたが、ヤクザつまり暴力団という民間の不法武力組織がいたり、その前座としてみることのできる暴走族とかヤンキーとよばれている集団も国内にはいる。情報攻撃という型ではアノニマスもそうかもしれない。かれらは国内でもっとも大規模な公的武力組織としての自衛隊と警察に対して、無法者というたちばで威力をふるおうとしているのだろう。この実力、というものも冷静にみすえる必要がある。
 日本史をかえりみると、朝廷をふくめ幕府は単に最大の武力組織がになってきた。そして現代の国際社会でもやはりおなじで、人類は力をもちいるはかりごとによって徴税のための市場防衛をおこなってきた。この現実的な見方は、おそらく法や倫理的な説得という部分もいくらかはいりこんだとして、かなりの将来にわたってもそうかもしれない。

 茨城県がおおやけにめざすべきなのは、この武力面の強化といえる。その分だけ県警へ税収の大量配分がなければならない。茨城県は常陸国時代から歴史上、皇室における中央国政へ従順だったので逆らうことはまずありえない。そして大きな目標としては、国政と同等かできたらそれをひきいる単位として、宇宙進出を独自におこなえるだけの資財をあつめること。茨城県が国家のみならず世界にとっても、もっともこころづよい先駆、第一の味方となる様でなければいけない。もっとも平和的にみえる、人口増大のみちすじさえそれなのだから。
 商業活動が正当化できるとしたらこういった大義名分の上で、かもしれない。国民、県民が富み栄える道のりの途上で、その天空の住居地や生活開発に必要なだけの資本があつめられねばならず、さらにこのひとびとをみずからまもるため十分につよい防衛の武力がいる。

茨城文化の価値

岡倉天心の映画はもう大部分できあがってしまっているのかもしれないが、重要だとおもうのは、芸大を排斥された失意の岡倉が、再起の地をさがしていたとき磐城四倉から五浦辺りまでの海岸を紹介した飛田周山。はじめ四倉を案内したが岡倉のきにはいらなかった。そこでいつうらまで南下してきたら、あの雅趣に富む景観を岡倉はきにいり、地元にくわしい飛田へ周辺の敷地を買う様たのみ改めて日本美術院の本拠とすることにした。
 飛田は市内の大塚生まれの人物で子孫や生家がのこっており、美術院の人物達のかげにかくれてめだたなかったがごく大きな美術史上の功労者だろうし、市内でも精華小と明徳小にかれの手になる立派な日本画があるという。かれがいなければ岡倉も再起する機会をのがしたかもしれなかった。

 ほかに、県内の重要史跡として、佐竹寺と西山荘がある。自分の知るかぎりこの2つの建築的価値はきわめて高く、法隆寺や桂離宮に単独で張り合えるだけの威力や歴史的位置にある。現在までに建築関係者からの取材や、近代建築史学のおもな流れからみのがされてきた故に有名ではないが、単に芸術性とみても法隆寺や桂離宮という有名どころに劣っていないばかりか超えている。ある質実剛健さ、質朴さ、しかも唐風の影響をほとんどうけていない日本古来の建築様式をたもっているという面で自分は、建築学上ほとんど無名なこの重要な文化財に大いに衝撃をうけた。この2つの建物、景観は優先して保護しておく価値がある。
 軽視してる人間へも、実物を目の当たりにすればかならず、大和王朝以来の中央政府中心史観・大和民族中央史観へ必然な疑問符をなげかけるだけの文化論的インパクトがある。まえに日本の代表的建築物とされている有名な2つと同時期に見比べたらなおさらだろう。明治新政府の不当な冷遇によって不毛な地方とおもわれていた場所に古代から伝統された剛毅朴訥で偉大な技量、質素を重んじる高貴な精神性があった。歴史の見方を変えるほどの建築だ。
 文学の面からは、『神皇正統記』が書かれた県内つくば市(常陸国筑波)の小田城も日本史の転換を期している面で保全するべき遺構だろう。大日本史や水戸学を経て皇国史観に至った往時を偲ばせる史跡として整えるべきだろう。南北朝時代に県内で記された思想からの変遷としての、日本の中での文治への啓蒙を行う価値は、反省的遺産としても十分あるから。
 弘道館・偕楽園と好文亭、六角堂・天心邸と五浦海岸、或いは門を含む水戸城跡はいうまでもないからのぞくが、近代の建築でも現茨城県庁や磯原駅舎などは技術力や芸術性の高さから重要な建築的価値をもっている。これらは日立駅舎、天心記念五浦美術館、水戸芸術館ほど設計者が有名ではない故に建築的に価値をことさらたかくみとめられていないが、自分はなんらかの指標をつくって重要な文化財として優先して保護すべきだとおもう。近世のものとして大津駅前・磯原中学校横・中郷駅前の煉瓦倉庫、雨情生家などもこれに入るだろう。
 国際的な鑑識による評定も重要なはたらきをする。

追記:或いは戦時に京都が原爆の目標からはずれたのはその文化財としての価値をGHQの一部がみとめ、回避させたからという都市伝説もあるが、この真相は「敵国」の文化財を破壊させる方が略奪の次点に合理的な事から、偽の可能性も十分ある。America側に証拠がない限り、京都の人のprideの高さからきた風説かもしれない。

2012年8月23日

日本原子力発電の非人間性

子孫累々を犠牲にしてまで金儲けをして、一体、東海第二原発を推進したい人間は何がしたいのか。

金に狂って子孫を犠牲にする。この様な年寄りに経営をまかせるのは賢明ではないだろう。
 実質的には日本原子力発電という株式会社の悪徳株主に、子供の命と土地の安全を買収されているのと同じだ。大事故がある前に悟るか、それ以後に悟るかの違いがあるだけだろう。
 日本原子力発電の発電量は、東京電力のそれよりはるかに少ないのだからあってもなくとも国民生活に大差が生まれる事はない。立地自治体のegoで周辺の全住民が迷惑を被りかねないあきらかな外部不経済なのだから、万一東海村の議会が推進を決定したら県政の次元で決定的に否定できなければいけない。

 これらのどちらにもかかわらず国政が原子力発電所による国民の奴隷化を行おうとするつもりならば、その悪業に加担する政権も打倒せねばならない。主権者自身の命を守る為なのでやむをえない。

2012年8月22日

うわさ調査訴訟のさけるべきわだち

http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/44450229.html より

ヤマダ電機、満足度ランク最下位訴訟で敗訴
読売新聞 12月14日(火)19時46分配信

 週刊経済誌「日経ビジネス」の消費者満足度ランキングで最下位にされ名誉を傷付けられたとして、業界最大手のヤマダ電機(群馬県高崎市)が発行元の日経BP(東京都港区)に5500万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が14日、東京地裁であった。

 石井浩裁判長は「ランキングの根拠となった調査には、恣意(しい)的な結果が生じるような事情はなかった」と述べ、ヤマダ側の請求を棄却した。

 問題となったのは、同誌2008年7月28日号に掲載された特集記事。アフターサービスの満足度に関するアンケート調査で、家電量販店部門はヤマダが16社中最下位だったなどと報じた。

 ヤマダ電機は訴訟で、調査が事前にモニター登録していた会員を対象に行われたことについて、「読者は、国民全体からアンケートの回答者を無作為抽出したと誤解する可能性が高く、不適切だ」と訴えた。

 これに対し、判決は、同誌が会員から回答者を無作為抽出し、組織票を防ぐためにメールアドレスのチェックも行っていたことなどから、「合理的な調査結果になるような配慮がなされていた」として退けた。

 ヤマダ電機の話「極めて不当な判決で、直ちに控訴します」


それにしても、ヤマダ電機は、経済雑誌のランキングを真摯に受け入れ、サービス改善に努めれば良いものを、逆切れして損害賠償請求の訴訟を起こしたのだから、大人げなさ過ぎる。

アフターサービス満足度アンケート調査で家電量販店部門最下位だったことを全く知らなかった私のような人間にまで事実の周知をしているようなものだ。

しかも、裁判所から「合理的な調査結果」というお墨付きまで貰っている。

ヤマダ電機は控訴すると息巻いているから、またまた更にサービスの悪さを宣伝するつもりだ。

ちなみに、「日経ビジネス」は、その後も同じアンケート調査を継続しており、今年もやはりヤマダ電機が最下位だった。


この記事から、これらの風説、うわさへの統計が恣意的調査である、という立証が確実に行えない段階で行政訴訟を起こしても、敗訴してしまえば逆説的に汚名を買ってしまう危険性があるのがわかる。

 茨城県が地域ブランド調査、という総合ブランド研究所によってこうむっている風評被害、へも同様の経験則が役立つだろう。確実に勝訴できる時以外は、それほどこの事実を公にしないほうが合理的、ということ。

日本人のサッカー監督情報

J1勝率順(ネット上の情報コピーなので真偽不明)
鈴木政一 73試合 59勝6分08敗 勝率80,8%
松木安太郎 128試合 78勝00分50敗 勝率60,9%
桑原隆 86試合 50勝6分30敗 勝率58,1%
西野朗 437試合 239勝69分129敗 勝率54,6%
関塚隆 148試合 74勝32分42敗 勝率50%
長谷川健太 170試合 74勝44分52敗 勝率43,5%
岡田武史 143試合 62勝37分44敗 勝率43,3%
原博実 207試合 86勝44分77敗 勝率41,5%
早野宏史 217試合 90勝30分97敗 勝率41,4%
柳下正明 132試合 51勝36分45敗 勝率38,6%

 これがもし真実なら、突出して鈴木政一氏が有能、とわかる。この人を雇い入れるのが常勝化に必要。
水戸の方か鹿島は考えるべきではないか。

社会学

 ハイエクはlibertarianismのおこりかもしれないが、計画経済や、個性を型にあてはめようとすること、集産主義とかれがよぶもの、つまり全体主義というものの実現できなさがあらかじめいわれていた点でいまだに参照できる。
 福祉主義は国家や地域を対象にすると、おなじ見解にたちかえることになる。UKですでに福祉主義は歴史上一度いなまれている。アダムスミスからの伝統的な自由放任へかれらはかえることにした。

 だが福祉主義の理想が全体の単位で達成不可能だとしても、現実をみるかぎり、固定資本とよべるたぐいの施設や設備はこの政府によっての保守が、すむ人々にとってさえ合理にみえる。
のりとして、「公共性のたかい」資本は実際には公共という全体利益をめざすただしい政府によっておこなわれる方が結果がよくなるらしい。
享受者がごく少ない人数でも、きりすてがおこなわれえない公共事業のばあいはその費用負担は全員にかかるので社会正義とよべるロールズ格差原理と矛盾しなくなる。
 ところが、公共性のひくい資本、私的な資本はそれによって利益享受できる人々が全員ではないため、公共政府が介入せず市場経済そのものへまかせておいた方が効率よく低廉化される。

 この智恵は一般に、いますべての先進国がおちいっているある不況問題へ決定的な解決策をあたえる。
 ハイエクの論拠がいなめるとすれば、全体最適がありえないとしてもすくなくとも社会や地域、国家、地域連合や国際連合という大規模単位に編入されているかぎりこのそれぞれの単位では仮の共和をめざせる、というおおきくみるめなさ。そしてこの点にさとれるかどうかによって単なるlibertarianismの社会にくらべ、自分がいまのべたたぐいの福祉主義の方が、現実のすみ心地よい状態にちかづける。

2012年8月14日

宣伝の焦点

 株式会社総合ブランド研究所が調査の対象にしている人々が具体的にだれなのかをさきにしらべ、この人々へ集約的に宣伝効果をはたらかせるべきで拡散してもあまり意味はない。
 なぜか魅力と解釈された地域ブランド調査(http://kamomenome.exblog.jp/16562446/ によると、実質は経済的不遇への自己正当化からきた地域の傲慢度ランクだが)というのは株式会社総合ブランド研究所という約10人の組織が流している風評なので、ここからの調査対象になった人々の偏見がそのまま反映されている。ほかのだれがちがう意見をもっていようとこの組織から受ける風説流布罪による風評被害からまぬがれることはない。

http://tiiki.jp/news/05_research/596.html によると、インターネット調査、とあるので、何らかのかたちでアンケートを募集しているらしいが、その調査対象者はインターネット人口といえる。

<調査概要>
・調査方法   インターネット調査
・回答者    20代~60代の消費者を男女別、各年代別、地域別にほぼ同数ずつ回収し、日本の縮図になるように、年齢や地域人口の分布にあわせて再集計した
・有効回収数  30,537人(1人の回答者は20の地域について回答。したがって、地域ごとの回答者数は平均で576人)
・調査対象   全国1000の市区町村(全786市+東京23区+191町村)と47都道府県
・調査時期   2011年7月1日~7月14日
・調査項目   認知、魅力、情報接触、観光意欲、居住意欲、情報接触経路(「旅やグルメに関する番組」など15項目)、訪問経験(「観光のため」など11項目および訪問率)、地域資源評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など16項目)、まちのイメージ(「歴史・文化のまち」など16項目およびイメージ想起率)、産品購入意欲(食品、非食品をそれぞれ自由記述)…計67項目

��問合せ先(メディアおよび読者とも)>
株式会社ブランド総合研究所 (担当.安田、轟)
Tel. 03-3539-3011(代)  Fax.03-3539-3013
E-mail:  survey2011@tiiki.jp
Homepage: http://tiiki.jp


 県政は関東圏でしか放送されないテレビ番組に出資してるみたいだが、むしろTBS系列から全国の地方局を経由して放送されるドラマ水戸黄門の公式スポンサーになる方がいいかもしれない。

2012年8月8日

滋賀県大津市から見えてくる教育委員会の問題点

大津市長の越氏「市民に選ばれたわけではない教育委員が教育行政を担い、市長でさえ教職員人事などにかかわれない」

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20120719-OYT8T00994.htm?from=popin

 越市長は、自身も小学校と高校でいじめに遭ったことを明かしている。市教委から、まとめ資料ではなく、詳細なアンケート回答を取り寄せて読んだ。男子生徒が同級生から受けた被害がいくつも記されており、「いじめが自殺の原因だと確信した」という。

 一方、市教委は男子生徒の自殺後、「全校アンケートは不確かな情報が多く、いじめとの因果関係は断定できない」と主張していた。

 越市長は「市教委の説明を受け入れてきたけれど、前提となる事実の確認がいいかげんで信用できないとわかった。裏切られたように感じた」。アンケート結果の全面公表をしぶる市教委に対し、「事実はあなたたちが言ってきたことと違う。これは出すべきです」と押し切り、10日以降の公表につながったという。

 さらに、越市長はこれまでの市教委の対応のまずさを改めて認めた上で、その遠因に教育委員会制度の矛盾があると指摘。「市民に選ばれたわけではない教育委員が教育行政を担い、市長でさえ教職員人事などにかかわれない。民意を直接反映しない無責任な制度はいらない」と述べ、国に制度改革を求める意向を示した。
��2012年7月19日 読売新聞)



 教育制度そのものが社会主義的な上意下達によって専制され、一定の利害集団に牛耳られている事が虐めという校内犯罪を隠蔽するしくみにつながっているらしい。ギルドの様な、内輪の利害を擁護したがる体質をもっているわけだ。だから「生徒」が顧客である、といった意識がない。最優先事項が生徒の教育ではなく、かれら教員集団の利害損得になっている。
 公営の教育組織そのものへ開放性、監視性をさらにたかめる工夫がいるのだろう。たとえば父母とつくる生徒会による教員評価制度を導入するとか、教育委員会の人事も市民からの選挙であてはめていきその罷免も可能にできねばならない。

また、京都府では以下の対策をとった様だ。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20120731-OYT8T01636.htm?from=popin
 府教委側は、大津の問題を受けて、新たに作成した「いじめ問題緊急対策(案)」を説明した。

 その案では、いじめを早期に発見できるよう、児童生徒に悩みの相談にのってもらえる窓口の一覧を記したクリアファイルを、保護者には子どもの態度からいじめの兆候をつかむ「いじめサイン」のチェックリストを、それぞれ配ることを計画。

 また、学期末ごとに全学校で、いじめを見逃さないためにどのような取り組みを行っているかを調査し、児童生徒を対象にしたいじめアンケート調査でも結果を保護者や地域住民らに公開して、外部の目を取り入れていじめの有無を調べるようにする。

 新発足の検討チームでは、子どもの自殺や、いじめと関連が疑われる傷害事件といった緊急事案が発生した際、心理面の専門家や警察などとともに学校をサポートする「緊急支援チーム」の設置に向けた課題も考えていく。


2012年8月7日

茨城の目標

 現時点ではむずかしくみえるかもしれないが、茨城が東京や神奈川より全面にすぐれた地域になることが目標となるだろう。かれらの欠点を反面教師にし、長所にまさること。

 いまの段階で、警察官数の増強で自動車盗難や重要窃盗を事前におさえ、在日外国人の同性間性的接触によるHIV感染率のひろがりをおさえ、魅力とよべる地域のあらゆる美化と宣伝に全力をそそぐこと。これらができれば欠点とされている面は改善される。
 そのあとは、福島移転案もあるが、長期でみたときに皇族を水戸か旧国府のあったとされる石岡まで移住させるか、またはみずからが王族をつくりあげることだろう。参考にたとえばイギリスでも宮殿のあるバッキンガムと首都ロンドンは適度の距離にある。
 魅力というつくられた指標にみてとれるのは、皇居のあった地域は有名になるためにだろうがほかの地域での印象が良くなる傾向があるらしい。

 さらにおおきくみると、都市間の競争において東京や神奈川に勝つことが必要だ。総生産とか所得、あるいは福祉の面でも。それによっておなじアジアの上海や北京、台北やシンガポール、ソウルはいうまでもなく、ロンドン、パリ、ニューヨークといった極よりも常陸がなんらかの地位を占めつづける必要がある。
 こうしてはじめて、印象がないという評価によってほかの日本人から魅力がないとおとしめられている偏見がおしのけられ、我々の名誉が回復する。
 東京や神奈川はいうまでもなく、国際都市間の競争とみて京都、北海道、沖縄、大阪、兵庫、奈良といったすでに名のある地域にも絶対に負けないこと。これが命題といえる。

 とりあえずありとあらゆるよい分野で、単独で全面に東京にまさる。これだけでも国際水準とみてかなりの上位につくことができるだろう。

2012年8月4日

県名を変えること

 単純に、名称を水戸県か水戸府または水都にかえてしまえば、総合ブランド研究所から7年間うけつづけている風評被害は避けられるだろう。水戸は有名だからだ。(水都はスイトともみととも読める。みは美のかなだから、たとえば美化する名称としては美都でもよいとおもう。)
 水戸の語源はみなと、にあるらしく水府という名称もあるから、ほかの自治体とおなじく都構想をつかうことによって県央での二重行政の解消とともによい意味での有名さを即座にえることができる。

 明治時、不当に冷遇されたために上意下達で茨城というかならずしも美名とはいいきれない独特の名称になったわけだから、自分たちで名乗りを変えるのはむしろ賢明な選択といえる。

 あるいはこれらよりも、世界的にはHitachiという名の方が有名なので旧国名からそちらをえらぶのも長期的にはよい選択だとおもう。国際社会ではヒタチ、といったほうが通じ易い。
 どちらかといえば、日本人というのは福沢の脱亜イデオロギー以来仰いでいる欧米社会での評判にすぐ左右されるので、イギリスの高速鉄道にも名が冠されているこのヒタチという名義を維持している方が総合してむしろよい結果になりやすいだろう。「ひたち都」、というのは慣れれば言い易いはずだ。

以下の猪瀬直樹氏のツイッターにも、受注された高速鉄道車両にあるHITACHI表記の画像が。欧州ではヒタチ、という日本で聴くのとおなじキャッチでコマーシャルが流れているということ。これをかえりみると、将来的にはトウキョウよりもヒタチの方が国際的に有名になる可能性も十分ある。
https://twitter.com/inosenaoki/status/231720195696259073
https://twitter.com/inosenaoki/status/231687555756744704
https://twitter.com/inosenaoki/status/231681460124385280




茨城県の改善点と、ブランド総合研究所の悪質さ

http://todo-ran.com/t/tdfk/ibaraki より、
1位 自動車盗認知件数
2位 重要窃盗犯認知件数
46位 警察官数

 これらの指標は、警察官の絶対数が少ないために、自動車盗難事件、そして窃盗事件を防ぎきれていないことを示しており、単に見回りをする警察官の数をふやすことで解決できるだろう。

2位 エイズ患者数
2位 日本人・在日外国人合計HIV感染者数

これらの指標がでてくる原因は、http://todo-ran.com/t/kiji/11948 の日本人だけの指標で
8位 日本人HIV感染者数
にまで順位をおとしていることから、上記ページに以下のとおり分析されている。
 日本人・外国人合計HIV感染者数で上位だった茨城県、長野県が順位を落としており、これらの地域は外国人の感染者が多いことが分かる。
 相関ランキングを見ると基準地価:商業地や鉄道旅客輸送量、芸能人・タレント出身地など都市型のランキングとの相関が高く、HIVが都市で流行していると言えよう。

 いずれの値でも1位である東京都圏からの影響でこちらに悪禍が及んでいる。都市化にともなっておこっている現象といえるので、在日外国人を中心としたHIV感染、エイズ罹患への対策が必要といえる。http://passageiro.blog54.fc2.com/blog-entry-58.html によると、
 感染者の感染経路は、同性間の性的接触が約63%、異性間性的接触が約23%を占めた。

とあるとおり、在日外国人による同性間の性的接触がその原因になっている事が主な悪因らしい。いいかえればこの在日外国人による同性間の性的接触ルート(主にはそれをおこなわせる温床となる店舗や場所)を行政が率先して強制閉鎖し断ってしまえばかなり解決するだろう

4位 30代男性未婚率

 という指標はおそらく30代にある男性についての出会いの機会の少なさ、を示している。ただ、4位なのでそれほど焦る点ではないかもしれないが、対策すべきなのはそれを活発にさせる様な30代男性の出会いの機会の創出が必要ということだろう。


43位 青年海外協力隊隊員数

 この指標は海外への協力が多い地域はかつて移民という事例がおおかったのをしめしてもいるので、海外の姉妹都市などとの協調性がたかまると自然に順位があがるかもしれない。

42位 図書館数

 この指標は図書館の絶対数がもっと多くてもいい、とおしえている。濫造するくらいで他の地域と数があうはずだ。

44位 米消費量
46位 喫茶店店舗数

 これらは食習慣にかかわる指標だが、第一に米を食する機会をふやすこと、そして喫茶店がふえる様に頻繁に利用すると中庸にちかづくとおしえている。

46位 診療所数
46位 男性医師数
46位 現役医師数
45位 外科医師数
45位 精神科医師数
44位 大学医学部数

 これらの医師数のすくなさは、大学の医学部数と逆比例している様だ。付属病院つきの医学部を新設するなかで医師数をふやす。これが地域にとって必要としらせている。

46位 中学男子陸上部員数
45位 中学女子陸上部員数

 これらは、中学生の陸上部員を意図してふやすといい。

35位 面積
40位 森林面積
46位 森林率

 常陸という国号がもともとはひたみち、ともされるので、陸がおおくて面積の割には平原が多いので仕方ないかもしれないが、人工植林も有効になるだろう。

46位 ふるさと自慢
46位 郷土愛
47位 魅力

 最後に懸案のこれらの指標だが、ふるさと自慢のしなさはかつて儒学をひいた水戸学に於いての理想を美徳としたがゆえの謙遜の民度もあるはずだ。
孔子『人の己を知らざるを患えず、己の人を知らざるを患う』。大事なのは他人の長所からならいとり、己の短所をなおす事だ。ことわざに「人の短をいうな己の長をとくな」「自慢高慢馬鹿のうち」「実るほど頭の下がる稲穂かな」などとあるが、要は謙遜や謙虚といった態度の習性が自慢や高慢といったそれよりも美意識としてすぐれて道徳的である事をしめそうとしていることばだろう。
実際、おそらくもっともよい状態というのは、自慢や宣伝しなくとも他人から褒められ尊崇されている状態であるはずで、そういった高貴な人格性に茨城県の総体がちかづくためにはこのみずからのもつ地域性への謙虚さは、どちらかといえば地域の風紀としての美徳にかぞえあげられるはずだ。
 http://todo-ran.com/t/kiji/13384 によると郷土愛、というのは生活保護受給世帯や年間完全失業率、学校給食費滞納率といったネガティブなランキングとも正の相関があるらしく、経済的に恵まれない地域で郷土愛が強いとおしえている。戦後海外移住者数とも高い相関関係を示していて、戦後海外移民の多くも経済的困窮から海を渡っており、経済的困窮が人々を団結させて郷土愛を高めると考えることもできそうらしい。
つまりはそういったたぐいの過度の地域ナショナリズムは決してよい意味をともなっておらず、どちらかといえばたかくてよい指標とはいえない。というよりも、ここで郷土愛とされている地域の致命的な不経済性の反作用でしかない心理的合理化の指標は、むしろ低い方が内部のみならず外部へさえ開放的でよいといえる。
 さらに、最後につけくわえればこの最後の指標名になっている魅力というのは、http://tiiki.jp/ex_news/org_news/13survey/2010_09_08tiikibrandsurbey2010.html に
各地域に対して魅力度など全63項目の設問を設定し、地域のブランド力を、消費者が各地域に抱く「魅力」で数値化し、「魅力」の要因を観光、居住、産品など他の項目結果から分析できるように設計している。

とあるとおり、実質は観光や新規居住者への募集をふくめた「地域名を冠した商材の宣伝性」、といえる。ふるさと自慢という驕りの名目とにているが、おそらく、長期的にみればこの過度の宣伝はわるい指標だとおもえてならない。
 前回の記事 http://kamomenome.exblog.jp/16562446/ で分析したとおり、この指標は犯罪率・頭や体の悪さ(生徒の学力や体力テストの成績の低さ)・生活保護受給世帯の多さとのつよい相関にみられる「平均的な生活状態が特筆して悪い居場所が自分自身の地域自慢に興じている=自称魅力」、というのが実態であるらしく、どちらかといえばここで魅力といわれている指標が低いところの方が謙虚で地味だがすぐれた生活状態をもっている様だ。
いいかえればhttp://tiiki.jp/corp_new/about/about.html に会社概要がある総合ブランド研究所株式会社、と名乗っている法人は魅力となづけてどちらかといえば悪所に住む人々の高慢の習性という悪徳を賛美しているわけで、結局はなしにならない。
というよりも、ほぼまちがいなくこの会社法人はとんでもない風説流布罪に該当した悪業をしているわけだからいずれはつぶれるだろうし、悪影響をあたえる悪徳の証拠である指標をさもよい点であるかのごとく公然とたれながしているのだから迷惑をこうむったひとびとから大変なうらみも買おうし、できたらそこ発の卑しい風説を目にする事もなく二度とかかわりあいになりたくないほどだ。
 地元の人々が暮らし易く、生活状態がすぐれている事が重要であって、こういった非統計学的で非科学的な印象や噂の調査による風説流布罪の蓄積には公然と刑罰が必要なゆえんだ。なにしろこの総合ブランド研究所が垂れ流していた非科学的で恣意的な風説流布によって受けた、すくなくとも300万人の経済損失は甚だしいのだから。
ちなみに、この実質は悪徳賛美としかいえないふるさと自慢、郷土愛、魅力という地域偏見への三つの指標は、どれもhttp://tiiki.jp/ の総合ブランド研究所株式会社という東京都の法人がつくりあげていたらしい。
 これらは、実質をとればつぎの様にかきかえてもなんらかまわないだろう。ただし、それを誹謗してくる悪意ある東京都の法人である総合ブランド研究所と矢野新一がいるかぎり、かれらが驕った悪意でもっておとしめてくるかぎりは、この実質を彼ら傲慢な東京都と神奈川県にある特定の法人や個人は決してみとめたがらないだろうが。尤も、そんなくだらない俗悪な風説流布罪の業がいつまでもつづけられるほど日本人という国民が理解力のない愚劣な人々だとは自分にはおもえない。

2位 謙虚さ
2位 地域の開放性(恵まれた経済的余裕)
1位 生活状態のよさ(低い犯罪率×頭と体の良さ×生活保護受給世帯の少なさ)

 なお、http://www.brandri.co.jp/corp_new/about/about.html によると、このブランド総合研究所というのは2005年に田中章雄(2012年現在53歳)という人によってつくられており、今年で7年目の会社法人だ。これらをかえりみても与える影響の全般が悪い会社であり、むしろ経済損失をうみだす外部不経済の公害はなはだしい悪徳会社法人であっていつまでもつづけられる会社ではない。すくなくとも300万人がすさまじい風評被害を日々うけつづけている。県そのもののみならず、県名を冠した企業の損害額はどれほどだろうか。同じくこの3つの恣意的指標によって風説流布罪をこうむってきた埼玉県や栃木県、佐賀県にもすさまじい被害額が累積しているにちがいない。地域ブランド研究所とやらの犯罪している社員は10名で2500万円しか資本金がない様だが、地域経済の被害額はおそらく数兆を超えるはずだ。すさまじい悪業の会社法人であるかぎりは、かなりはやい時点でおおきなうらみを買い自滅するだろう。県税を大量に費やしながらこの人物による非科学的な偏見調査へこの自分さえ7年間耐え忍んでいるわけで、田中章雄容疑者へは風説流布罪で損害賠償を請求するためにすぐに行政訴訟や県の関係者団体が訴えを起こして刑罰を施して欲しいと心からおもう。

2012年8月2日

社会学

 人間界では、
あらたな知識→技術革新→経済発展→税率による調整
という循環が延々とつづいているだけ。

 このめぐりゆきがすぐれているかどうか、それがひとつの文明の度合いとたしかめられる。

 人間界でなせることのすべても、おもにこのめぐりに入っているだけだろう。
��ところで法律、そのもとになる道徳というのは独特で、いわゆる形而上学、後自然学とよばれている考えからでてくる。パスカルが『パンセ』(*1)で「山ひとつこえればちがう正義」というとおり、道徳は各地でかなりちがっている。この考えというものが各地のひとびとでことなっているあかしでもある。
 考えがちがうと習慣もちがうので、結果として人倫の最高のすがたとされる人格の理想も、かれらがもっている道徳観、つまりひごろからの善悪の判断によってことなるのだろう。善悪というものへの意識が「考え」とよべる、学資の総合的な判定能力によって大いにことなるのがこれでわかる。)

 かりに小型の地域であっても、文明がすすめられる循環がすぐれているばあいは、程度がたかい分だけ有効なはたらきをするだろう。名声というものがおもな役目をはたすのは、マズローの欲求段階でいう自己実現の極度に国家の人倫の完成度をたかめることがあてはまるからだろう。

―――
��1 『パンセ』; 294 「川一筋で仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理が、あちら側では誤謬である。」

2012年8月1日

留学生の選抜

山口県では生徒5人を毎年、イギリスまで留学させているらしい。
 松陰あたりが『孫子の兵法』にならったものか某密偵にちなんだというのが傷は傷ではあるが、すくなくともそのこころみの中から参考にできるのは、国外のできるだけすぐれた学校におさないころから一度いれてみること。これが重要な経験になるとおもう。

 英米でもレベルのひくい学校はいろいろ問題があるみたいだが、上級の場所にいれてみるのはかえってきて国内のせまい、うちむきの組織とはちがうなんらかのアイデアをもちこむかもな点で有徳。

2012年7月20日

市内のちいさな水力発電所について

 http://www.neo-logue.com/mailmag/sample_vol39.html の
 津田大介氏の「メディアの現場」Vol.39メールマガジン記事によると、
 東京新聞4月2日朝刊の一面
「東電に安値で売電 最大117億円減収に」
という記事で、各自治体の水力発電所の電気つまり水力が東京電力へ売電されていた事実がスクープされていたという。

 東京都や神奈川県、群馬県と栃木県、山梨県に、これらのただ売り状態の水発がある、と。
 http://www.asahi.com/business/update/0313/TKY201203120753.html によると、北は北海道から南は宮崎県まで、全部で26の自治体が地元の電力会社に水発の電気を売っているらしい。
 ということで、水発からの売電が自由化されるべき、という趣旨の記事らしい。

 そこで、この市内の花園にある小型の発電機(浄蓮寺のうらてのがけ、すこしかくれたところにある)はだれが管理していて一体どこへ売電されているのか?

2012年7月19日

文化からの性格への影響

 わたしたちのもっている忠誠的で穏健主義な県民性文化は、おそらく県外のひとには大人しすぎるか冷静すぎるのかもしれないが、よい意味でひとつの個性であり特徴だろうともおもう。
 あれほどの大災害でも、避難所でおばあちゃんがひ孫にひとこと注意するくらいのはなしで、ほぼなんの混乱もみられなかったところにくらしてきたのであって、幕末の混沌のさなか最後まで親のいいつけどおり一意恭順の忠義を誓って上官である皇室からの命令、たとえ偽書であろうとその証拠とおもわれるもの(いわゆる倒幕の密勅)にそむかなかった徳川慶喜公が藩内でそだったのもそういう優等生的な性格をもっているひとびとのなかにいたからなのだろう。

この点がどうも、権力とは自分が実権を持って他人をだしぬき異民族をしいたげることであるとでもおもっている東京より西側のひとにはさっぱり理解できないらしい。
 というよりだれもが進化の終点ではなく相互参照をふくめ模倣や学習によって向上へのよりよいみちがひらかれるかぎり、状況が悪化するばかりなので決してみならうべきところとはおもえないが、かれらのもっている他人の長所への卑屈さがおなじ国民を心底立派だとは決してみとめたくないのかもしれない。
はっきりいうが、常陸国水戸藩のことそのものは孝明天皇まではごく重宝していたらしいが、その後の薩長支配による暴政へ迎合して一帯を冷遇されてきたともいえなくはない皇族だってそうかもしれない。実際われわれのもっているたぐいの、平和趣味の心象は想像だにできないはずだ。

 超がつくほど非常に猜疑心がつよく、つねに他人は力ですべての他者をむさぼるものであると感じているひとびとの心地には、特に関西広域連合圏で顕著なわけだが、おそらくは古くから都になったことによる商業主義の文化からの長い期間におよぶ心理作用への影響があるのだろう。
 それにくらべて、わるくいえば俗人には想定したり理解できないほど純粋すぎる、よくいえば高貴である、ほどほどにいえばすくなくともすれていない古典的な農業文化のなかにある茨城県域の世界観では、ひとが無償で忠義の一心から人助けをしたとしてもそれほど不思議にはおもわないわけだ。こうしてかえりみると、かつてまずしい松下幸之助を水戸の人があわれにおもってたすけた、というはなしもあながちつくりばなしではないはずだ。

 むしろ茨城県のひとびとにとっていくらか必要なのは、みずからの優等生的な長所はたもったままで、ずるがしこい重商主義の長所からもおのれにたりないところをならいとることだろう。
それはたとえば徹底的なライバルとの競争心とか、他人の領分さえ奪い取るほどの勝利への執着、ずるがしこいまでにおのれの身をたもつ自らの利益への執着、あるいはこまやかな気立てとか状況をみたたくみな機転、さらには内心とはそむいてでもふりまく愛想といったたくましい商人にみられる文化気質かもしれない。つまりは利にさとい、という『論語』では小人のよくない特徴とされている部分なわけだ。

 ある面からみればこういった特徴がほとんどない、というのは卑俗さからはなれている長所、武士としての教えからはぐくまれた貴族性、君子や紳士としての資質、道徳性ともいえるのだが、というか自分はそうおもって県のありかたを完全にきにいっているわけでおそらく今現在の東京都という大商業地が中心になっている大衆文化のもとで卑俗化しきったあらゆる世相に反してさえ真実そのとおりなのだが、そこにまったくもってたりていない、ほぼ存在していないかむしろさけられているふしすらあるのは「商魂」というものなわけだ。
 というか江戸時代までの世界観・学問観でいえば商業行為は人間界のなすべき仕事で最下等とされてきたわけで、これへの忌避感ににた行動形質が商業主義者から悪意をもって指摘されるとき、いいかえればいわゆる矢野新一による地域ブランド商品を売り込む気のなさ、つまり商売やる気なさへの理由のない侮辱罪、ならびに論旨をすりかえた風説流布罪である魅力といいかたをまったくうらがえしにしたたちのわるい誹謗となる。
もっといえば矢野新一という人物は、東京生まれで横浜育ちというからにはこれは推測だが、大阪商人の血を引く江戸っ子くずれの根っからの商売人かもしれないので、ご自分が一体どれほど破廉恥な風説流布罪で300万人へとんでもない犯行で迷惑かけているかなんてすこしも反省力はないはずなのだ。
 地域名を冠して恥知らずにも商材を売る気のなさ、がどこでどうまちがえれば魅力、という論旨のすりかえによる誹謗罪になるのだろうか。もし矢野新一に偏見的な恣意で調査させれば、商業国民が世界でもっとも魅力的、というはなしになるのだが。

 そもそも、かれのなかにはおのれの利潤を目的として貨幣取引による壟断行為をする商業というものを卑怯で賎しいものとみなす、といった歴史のながい国家で、とある階級が定着していた場所にはどこでもありそうな、貴族道徳のアイデアさえ頭の隅にもない可能性がたかい。
聖書にいわく、「金持ちが救われるよりラクダが針の穴をとおる方が易しい」。これすら、矢野新一には到底あたまのすみにもはいっていないアイデアだ。「君子は義にさとり小人は利にさとる」。いいかえれば矢野新一のあおっている魅力とは小人の特徴である。
キリストみたいな聖人君子を馬鹿にして、横浜(地域ブランド、なぜか言い換え魅力となづけて、きたいばらき出身の素朴な童謡詩人である一創作者の、商標権を侵害したご自慢の、地域ブランド商品ばんばん無断でうりまくっている盗用の横浜)、いってよければ俗悪きわまりないとしかいえない横浜にすんで調子に乗っているおひとなのだ。それはジーザス自身も困惑して当然の相手である。
 かまびすしい喧伝やあからさまな商業行為をいさぎよしとしない伝統的な貴族の風、武士道をそしって、みずからのためだけの銭儲けという利己的で卑しい仕事を意味もなくまねさせようとしている矢野新一だ。重々しらべてみたところ、この「小人鼓を鳴らしてこれを責めて可なり」の矢野新一が個人HPでひとりでやっているといっていい風説流布罪による風評被害の実態とはそれだけのはなしであり、調査対象が単なるうわさであるといった占い級の非科学性からいえば統計学も中途半端にかじっただけカイ二乗検定やってるとさえおもえない、矢野新一いわく、商材イコール地域魅力度、という到底なりたたない等式でもって、へんてこな商売中心目線系のはた迷惑をこえて犯罪でしかない風説と、偏見の自称ネット調査と、被災地へのはなはだしい風評被害を日々あたえているその風説流布罪ならび県への名誉毀損罪である。

 いずれ矢野新一が深刻でとりかえしのつかぬ刑罰をうけることを強く祈願しつつ、冷静に地域をふりかえるかぎり、これらの商業気質の発揮というものは儒教による教化のもとで、さらに政治階級である武家の専制支配下では徹底的に否定されてきた特徴だろうから、のばすのがむずかしいにせよすくなくとも、職業的に経済活動を専業化しているいくらかのひとがみにつけるべく努力した方が、おおきくみて「中庸」「中道」に一帯の世界観をちかづけることになるのも、あるいは一理あるとする。
 おそらくひとつこの面でのきっかけになるのは、天職思想: calling、というprotestantismのなかにみられるかんがえかたかもしれない。それはカルヴァンによって定義されているが、「救いをえるためにはみずからが天からあたえられた職にはげむしかない」、というアイデアだ。そうしてたまった利潤は決してみずからのためではなく、キリスト教倫理をまっとうするため、いいかえれば世のため人のためにつかわねばならない。
 このアイデアがイギリス帝国勃興にとってはかぎとなってきたことは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあるとおり。資本主義として世俗化してしまってからは質がちがった議論になったが、アメリカでさかえることになった金融業の正当化さえもとはといえばこの救済、みずからが社会の役にたち救われているという確信をえるための、日本でいう封建時代の分限道徳の様なところに起源があった。そしてそれは分をおもんじる、すでにある儒教の世界観とも相性がいいはずだ。

東海村長の格調高い宣言

以下 http://ibjcp.gr.jp/?page_id=227 より転載
―――

●東海村長・村上 達也さんからのメッセージ

志位委員長をお迎えしての日本共産党演説会のご盛会をお慶び申し上げます。

さて、東日本大震災、福島原発事故の後、本当に呆れた政府、情けない国だとつくづく思っています。
特に原子力政策に至っては、何ひとつ新しい方向が打ち出せず、というよりは原発事故に蓋をして、まるで災害がなかったが如くにしてまでも利権集団の利益擁護に血眼になっているのですから。
政府がやっているのは電力会社の利益のため茶番劇を演じてまでの原発再稼動、そして原子力偏重のエネルギー政策の失敗の付けを国民に転嫁する電気料金値上げばかりです。
原発事故で被災し避難している福島県民の救済は全くそっちのけです。呆れるより怒りを覚えています。

私は30Km圏内に100万人が住み、かつ首都圏唯一の東海第二発電所の再稼動中止・廃炉を政府に求め、併せて福島県を除きますが全国の原発立地市町村の首長として只一人脱原発を提唱しています。
そして去る4月28日、三上静岡県湖西市長、桜井福島県南相馬市長、上原前国立市長らと呼びかけ、70数名の市町村長の加入をもらい「脱原発をめざす首長会議」を立ち上げて参りました。
東京の城南信用金庫本店で開催された設立総会では志位委員長からも直接激励を頂きました。お礼申し上げます。

私が脱原発を唱えるのは、目先の経済的利益ばかりを求め、そのためには生存権などの基本的人権さえも抹殺して突き進む原子力ムラの権力的な文化、その体質に長年付き合ってきたがためです。
その発端は約13年前の東海村JCO臨界事故にありました。
その時も、この国は原発を保有する能力、資格のない国だと思いましたが、フクシマ以後の現在をみて更に更に強く思っているところです。

この日本で政治家や官僚、財界人や学者をみれば失望ばかりですが、今私は大いなる希望を抱いております。
それは原子力一辺倒の国策に対する民衆の戦いの盛り上がり、それは安保闘争以来、いやそれさえも超える民衆の戦いが全国津々浦々に巻き起こっているからであります。
これを私は、明治時代初期の古い言葉ですが民権運動、「国権」に対する新たな「民権」の戦いと評価しております。
今や国民世論の80%は政府に対し脱原発によるエネルギー政策の転換を求めています。

東日本大震災、福島原発事故を体験した私たち日本人には、世界の70億人の人々に対し脱原発を達成する責務があります。
そして又、原子力発祥の地である茨城県は、その先陣を切る義務と権利があると思います。
本日の会議が大飯原発再稼動後の野田政権の反動的流れを堰き止めるものとならんことを期待し、そして祈り挨拶といたします。

―――

 以上引用したが、東海村長のおっしゃるとおり、われわれ茨城県民が全国民に先駆けて廃炉を決断する事が日本を救う。というより、茨城県民にはすぐとなりで世界最悪といっていい大公害がおこったかぎり、一切の再稼動廃止、きっぱりと国からの交付金麻薬と縁を切る、勇気ある先導役を率先垂範で決断し、第一に達成せねばならない責務がある。
 それがみずから最新技術をためしはじめた者のもつべき誇りだろう。雄々しく進歩しようとするかぎり、人類には失敗するときもある。だれでも失敗しえるのだ。重要なのは失敗ときづいたときにごまかさず、冷静におのれ自身を反省し、間違っているとわかったならきっぱり改める事だ。君子は豹変する。
放射能汚染で犠牲になる世界人類の未来をすくうためだ。このさい、手段はえらばない。日本一国でおさまる問題ですらなく、いまより放射性廃棄物をこのちいさな島から地球中にひろげない為にはなにがなんでも、まず自分たちからそれを達成するしかないのだ。先ず隗よりはじめよ。

 原子力発電所は、いわれてきたほど決して効率のよい発電機でもなければ、ひとたびさけられない自然からの影響で大事故になれば手のつけようのない大災害をひきおこすパンドラの箱だった。さらには持続可能性、もつ性能をもっているわけでさえない。廃炉する時期がさきのばしにされるほど汚染物質がたまりつづけ、それを冷却する費用がますますかさむといった「ながいめでみて不経済な」発電装置だったわけだ。
元請けである株主からみれば、下請けにあたる製造者である、加圧水型原子力発電所の三菱重工業、沸騰水型原子炉の東芝やアメリカのGEとくんでいる国内製造業者の日立にも、国民すなわち国家をつくっている主権者自身の国内政策への態度が、最低限でも国内でこれ以上増産をするかどうかの意向へもっぱら方向性をあたえるのはまちがいない。
 というより、民間需要としての依頼がなければあれほどの費用と手間がかかる大規模装置は生産されないはずだから、なにもそれをつくらなかったからって伝統と信頼実績のある安心の日立製作所や東芝、三菱重工業といったこれまで原子炉製造にhigh technology面で貢献してきた会社法人が即座につぶれるわけでもなし、そのままおとなしくすくなくとも国内分の原子力発電所製造の関連産業分からは撤退すればよいだけなのだ。簡単にいえばこれから国内ではつくらない、これだけのはなし。
 なおす分はこわれてきたらあぶないので必要なだけなおさなければいけないわけで、否定しない、というよりできないけど。

 それにしても、現に賢慮ある東海村長殿が脱原発技術、というあたらしいことばで構想しておられるとおり、廃炉にかかわる技能やそれまでありつづけるしかない原子炉システムについては即座に需要が消滅するではない。というか、はっきりいえば合理的で経済的な廃炉技術を開発するといったあたらしい分野にむけて進んでいった方が、すでにできあがってしまっているものをほぼ自動で維持しつづけているだけよりも、はるかにかずおおくの有効需要が、下請けにあたる関連産業すべてに発生するに相違ない。
要するに、原発をやめようとすることさえ「とかくもっこをうごかす」「ふねをみがかせる」「うまくいかなかったピラミッドをつくりかえる」様な、いまの大不況時にごく景気回復へききめのあるケインズ政策なのだ。安心さえ買えるわけだから、日本最大の機械製造業者であられる日立製作所様には是非とも方針転換系の新事業をおねがいしたいものなのである。
 国際的なシェアについては、いまだに途上国のあらゆるところでふえつづけるしかない需要や、これはいいすぎでなければ是非ともという特別注文の依頼がつきないので、絶対にもう二度と事故をおこさせないという「安全技術面で貢献できる」ことはまだまだ器用な日本勢にはあるはずだ。
勿論、われわれ茨城県民が、すなわち日立製作所発祥の地でなおかつ東洋における原子力発電発祥の地でもあるところですべきことは、「ひとびとが原発なんてもうやめたいとおもった」ときにはすぐさま、もっともよいてだてで廃止できる技術をさきにつくっておくことだろう。つぎつぎ濫造したがっていて、たとえ日本の製造業者だけが手を引いたところでとめられない途上国からはまだまだでてくることになる、世界中でうずつもっていくほかない放射性廃棄物のもっとも安全な処理に関するそれもふくめて。
 しかも、(http://kamomenome.exblog.jp/16416709/ 「夜間の過剰電力のための原発」) にみられるとおり)発電量がとても調整しにくいので夜間電力の過剰化にしか役立たないとなれば、これから少子化がおこるのだから国内での大量の電力需要がみこめているわけではないかぎりできるだけはやく手を引く方がすべてにまさって賢明といわざるをえない。

 先憂後楽という水戸光圀公の座右の銘を、今一度おもいかえすべきだ。茨城県は全国民から勇気をたからかにしめすことを、いまこそ期待されているのだ。ひとびとをがっかりさせてはいけない。名誉をえるか、それとも敗北かだ。間はない。

問題をさきおくりにしたところで、どちらにしてもつぎの世代が廃炉に向けていくしかないのならば、善は急げ、というほかない。

大事なのは、中途半端ではなく、このばあいとりかえしのつかない祖先伝来の郷土を永遠にうしなうという大事故の危険性がつねにめのまえにありつづけるかぎり、中庸さえなく、県政の原子力発電事業の継続に関する意志をはっきり国家といういまの体制いいかえれば、「主権者である国民自身へ」しめすかどうかだ。世論もそれを支持するにちがいない。
このばあい、すでに大規模なデモが都心の官庁あたりや代々木で何度も起こっており、やむ風向きがないかぎりはっきりときりかわった世論のながれの風下にある経済産業省の動向については、皇統に象徴された日本国の中央政府の永い権威を重んじる茨城県民のひとりなので個人的には軽視するはずはないが、とりあえずひとりの意見の自由をもつ国民とみれば除外していいはず。
なぜなら、もし省庁がこれへ無理にさからおうとしても、つぎの選挙でこういった争点の処世にいずれたくみな穎脱エイダツの小沢氏をふくめて原発をやめさせようという積極性をもったちがう政権にかわっていくはずで、官庁はきりかわったあらたな経産省長官のなすがままにするほかないのだから。再稼動さわぎについていえば、さきにそれへさとれるかどうか、に関の東西で理解力へ一頭の差があっただけかもしれない。

 所詮、国つまり国家という体制さえ個々の国民があつまってつくっているだけなのだから、国家ということばは幻想にすぎず、実態はただの国民みずからが団結するというときの姿勢やこころざしにすぎない。特にrepublicや、民主政にちかい民衆支配状態のもとでは。国とは一帯の文化がもっているなにかをするときの雰囲気、のりでしかない。
現実にする行動といえば原発という維持していくのが不合理とわかった事業体そのものを減らしていくしかないにせよ、それとは別に、国民をひとまず安心させる結果になるので理念の上ででもいいのであるから、尊敬すべき東海村長のごとく、「はっきりやめると決断をしめす」かどうかで男として天と地の差がある。これはわらうところだが、東京都知事とは格がちがうところをみせつけるべきである。
 人事を尽くして天命を待ち、いずれひとは信じる道をすすむほかない。
 水戸学がつたえるところに報本反始、ということばがある。その思想をうみだしてきた県の北端のちいさな市民でしかない自分の常識が、身近にまきおこされたこれまでの隣接自治体での事故後の経過ならびに状況をみあやまっていたのではなければ、最終的にわが県知事殿は、あるいは未来の運命をにぎっているこどもをふくめ11万人が現に署名した個々の茨城県民の意思をどう尊重するかと同様に、無数の史跡や文化財、国宝級の文物をふくめて、歴史や伝説に事欠かないきわめて有名な県都である水戸市というまこと格式高い土地がこの決してひろくはない日本、もしくは地球そのものから将来破滅するかどうかにさえ、致命的な決定権をもっておられるのではないだろうか。

 無論、なんらかのこれらとは質のちがう方針であっても立場がことなればはかりしれない最大の熟慮のうえだろうから、以上の論旨でもって北茨城市民としてできるかぎりその決定が持っている合理性や不合理性への意見はするが、いずれ別の説得方法をもちいるなり、みずからがえらんでいる公権力である県政の方針そのものへは一県民としてさわがずしたがうつもりだが。

夜間の過剰電力のための原発

 以下の資料からよみとれるのは、原発が電力会社によってつくられるおおきなわけは、「夜間電力を余剰にするため」ということになる。つまり、その原発がまかなっている電力の大量消費地、具体的には東京都と神奈川県の夜間電力をおおはばに節電できれば、費用負担は決してほかの発電量を調整できる方式で不可能ではないばかりか、総合的にはあきらかにほかの発電源をつかった方が効率がよい。
 いいかえれば原発でなければならない必然性はない、ということだ。それがあっても本来不必要な夜間電力が過剰になってしまって、揚力発電所までつくらねばならず、むしろ総費用がたかくなることが資料からわかる。
 さらに事故後の現実をみればどちらかといえば、地震国や津波のありそうな海岸立地、あるいはテロリズムなどをこうむる可能性での首都圏事故リスクによる損害額の方があきらかに、たとえば火力発電所のばあいより短期・中期・長期すべてに於いておおきい。これは原子力発電所のひくい経済合理性という真理について、明白な知識らしい。

 出典が責任をもてる個人(立命館大学国際関係学部教授の大島堅一氏)なのでこの資料の信憑性がもし十分にたかいとすると、原発・火力・水力・揚力の発電所のなかでは、水力発電所が、もっとも単価あたり発電効率がいいことになる。ダムをつくって自然破壊するのをさけようとすれば、それを最大限に安全にしたうえでこまかく用水路などに配分して多元分散型にすることがいいのかもしれない。実際、花園にも目立たないが、ひとびとにはみえないがけのうらの滝に水力発電機がある。

以下引用
―――


立命館の大島堅一教授が、電力各社の「有価証券報告書総覧」を基礎に電源別費用を算定

費用は、下記の3点です。
発電に直接要する費用(燃料費、減価償却費、保守費用等)
バックエンド費用(使用済燃料再処理費用、放射性廃棄物処分費用、廃炉費用)
国家からの資金投入(財政支出:開発費用、立地費用)

事故の場合の被害額、被害補償額は含まれていません。

一番高いのは揚水ですが、これは、夜間などの電力需要の少ない時間帯に原発から余剰電力の供給を受け、下部貯水池(下池)から上部貯水池(上池)へ水を汲み上げておき、電力需要が大きくなる時間帯に上池から下池へ水を導き落とすことで発電する水力発電方式です。原発は細かい出力の調整ができないので、夜間に発生する電力を有効に使うために作られました。原発のためにある発電方法です。
この2つをあわせた、(原子力+揚水)がもっとも単価の高い発電方法となっています。

[出典]立命館大学国際関係学部 大島堅一氏
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2010/siryo48/siryo1-1.pdf)

小出氏が説明している動画 (01:06:00くらいから)
http://www.ustream.tv/recorded/13897618)

―――
以上の引用は http://kingo999.web.fc2.com/instant/tanka.html より(傍線筆者)

http://kingo999.web.fc2.com/instant/risc.html

「がんで死ぬ確率0.5%」の100mSvは生涯累計値


致死がん(がんで亡くなる)のリスクをICRPは100mSvで0.5%、ECRRは1%としています。
しかも、この100mSvは年間ではなく、生涯の累積なのです。
つまり年間に20mSvという設定の場合は、5年で累積が100mSvとなります。
また、非致死がんのリスクは、100mSv浴びるとICRPで1%、ECRRで2%としています。
小学校の6年間で、年間で外部被ばくを10mSv、内部被ばくを10mSvの合計20mSvを浴びるとすると、致死がんのリスクは、ICRPで0.6%、ECRRで1.2%となります。
「オックスフォード小児がん調査」からは「15 歳までの子どもでは発がん率が40%増加する」ことが示されています。
これを踏まえて計算すると、小学校の6年間での致死がんのリスクは、ICRPで0.84%、ECRRで1.68%となります。
非致死がんのリスクを計算すると、ICRPでは1.68%、ECRRで3.36%です。
小学校6年生の1クラスに1人が、がんに罹っている確率です。
決して、低いリスクとは思えません。

年間20mSvを小学校の間浴びるとした場合のがんになるリスク
ICRP ECRR
致死がん 0.84% 1.68%
非致死がん 1.68% 3.36%



【参考】 いるかちゃん ~ 子どもを守れ@福島市
【出典】 ECRR(欧州放射線リスク委員会)2010年勧告(第6章~9章)
米国科学アカデミーBEIR委員会報告書(BEIR VII報告書)「要約」

被曝検査義務は東京電力にあり

http://kamomenome.exblog.jp/14825315/
「東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数」
の記事で過去の人類の経験値から計算される被害の発生率によると、最悪のばあいで1%の新生児への先天性障碍の発生確率上昇の可能性がある。
 具体的な人数にすると、50年間で最悪の場合で139人の先天性障碍児が、東京電力株式会社がひきおこした大公害事故によって市内にふえる可能性がある。いいかえると、最悪の場合2011年3月から~2041年か2061年まで(つまり最低でもセシウムの半減期がおとずれる30年間か5万人の市内全人口が世代交代ですべていれかわる最大で50年間までのあいだ)、毎年2、3人ずつ新生児のなかに先天性障碍をもった子がふえていくかもしれない。

 よって、国民は東京電力株式会社をあいてどって、先天性障碍や癌が胎内被曝や身体被曝によっておこった可能性がある全員へ、その心理的ならびに生活被害への賠償をさせるべきだ。国民のいのちを犠牲にしながら利潤を儲けてこえふとる悪徳企業につけあがらせ、のさばらせてはいけない。これは良識の問題なのだ。

 東京電力株式会社が大公害の原因でしかありえないのだからその法人へ、被曝した父母と子供の全数、かつ希望者全員へ、義務として被曝検査を公害事故発生の責任としておこなわせるしかない。なぜか法人格なのに、未来の子供のいのちにかかわる大公害からにげだしてこの国土を大規模に破滅させたうえ、さらに賠償費用を下知ろうとしているが、ありえない対応だ。
 こういうあたりまえの責任の義務からさらに逃げ手を打つ様なら、個人のみならずNPOや医療機関、教育機関も団結して行政訴訟まで視野にいれねばならない。福島県、栃木県、群馬県、宮城県、あるいは千葉県や埼玉県を入れる南関東のすべての県や岩手県、山形県、新潟県はては避難者をうけいれたすべての自治体までこの被害を受けたから団結できて当然だが、公害をおこしたのは東京電力株式会社であり、市民にはなんの責任もないのだ。こどものいのちを奪われる理由などどこにもない。

低線量放射線の健康影響について(引用)

http://www.nsc.go.jp/info/20110526.html
��http://megalodon.jp/2012-0719-1105-11/www.nsc.go.jp/info/20110526.html)

低線量放射線の健康影響について

平成23年5月20日
平成23年5月26日改訂
平成23年9月8日改訂
平成23年10月24日改訂
原子力安全委員会事務局
標記に関する原子力安全委員会の考え方について説明いたします。

 放射線の健康影響は、「確定的影響」と「確率的影響」に分類されます。

 「確定的影響」は、比較的高い線量を短時間に受けた場合に現れる身体影響で、ある線量(閾値)を超えると現れるとされています。比較的低い線量で現れる確定的影響として、男性の一時不妊(閾値は0.15Gy、ガンマ線で150mSv相当)や、リンパ球の減少(閾値は0.5Gy、ガンマ線で500mSv相当)があります。100mSv以下では確定的影響は現れないと考えられます。

 一方、「確率的影響」には、被ばくから一定の期間を経た後にある確率で、固形がん、白血病等を発症することが含まれます。がんのリスクの評価は、疫学的手法によるものが基礎となっています。広島や長崎で原子爆弾に起因する放射線を受けた方々の追跡調査の結果からは、100mSvを超える被ばく線量では被ばく量とその影響の発生率との間に比例性があると認められております。一方、100mSv以下の被ばく線量では、がんリスクが見込まれるものの、統計的な不確かさが大きく疫学的手法によってがん等の確率的影響のリスクを直接明らかに示すことはできない、とされております。このように、100mSv以下の被ばく線量による確率的影響の存在は見込まれるものの不確かさがあります※※。

 そこでICRPは、100mSv以下の被ばく線量域を含め、線量とその影響の発生率に比例関係があるというモデルに基づいて放射線防護を行うことを推奨しております。また、このモデルに基づく全世代を通じたがんのリスク係数を示しております。それは100mSvあたり0.0055(100mSvの被ばくは生涯のがん死亡リスクを0.55%上乗せする。)に相当します。

 なお、2009年の死亡データから予測された日本人の生涯がん死亡リスクは約20%(生涯がん罹患リスク〈2005年のデータで予測〉は約50%)です。また、その評価の基礎となった2009年度の全国のがん死亡率は10万人あたり約270人でしたが、都道府県別では10万人当たり190人~370人程度でした。

※原子力安全委員会では、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)及びICRPの文書から、その根拠となる部分を「低線量被ばくのリスクからがん死の増加人数を計算することについて」として抜粋しました。(平成23年9月8日)

※※ICRP Publ. 99「放射線関連がんリスクの低線量への外挿」では、第2章疫学的考察において、「数十mGyオーダーの被ばくに関連した過剰がんリスクの直接的な疫学的証拠」として、X線骨盤計測により放射線に胎内被ばくした子どもに関するいくつかの症例対象研究をあげていますが、「これらの胎内被ばく研究の解釈をめぐってはかなりの議論がある」としています。
出典:ICRP Publ. 99 放射線関連がんリスクの低線量への外挿 国際放射線防護委員会
   ICRP Publ.103 国際放射線防護委員会の2007年勧告 国際放射線防護委員会
   放射線と線源の影響 2000年報告書 原子放射線の影響に関する国連科学委員会
   放射線と線源の影響 2006年報告書 原子放射線の影響に関する国連科学委員会
   がんの統計'10 (財)がん研究振興財団
   人口動態統計 厚生労働省大臣官房統計情報部編

2012年7月18日

高萩と協調すべき所

 高萩は第一学院(ウィザス高校)を香川真司選手が卒業した学校である、ともっと大声で喧伝すべきだ。
 世界的に有名なマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したのだから、出身高校があるというだけでも相当の宣伝効果になるだろうし、さらに将来の有名人が名声に魅せられて来るという循環にも当然なりそうだ。
実際、ロケ地として福山雅治や堀北真希など有名人がおとずれる確率がたかい場所になっている。セレブリティの滞在を前提に市の再開発をかんがえるといいのかもしれない。

 高萩市政と現在積極的に協力すべきところは、長久保赤水の生家あたりを史跡としてととのえることだろうか。
足洗海岸が実質の立地だから、高萩市に行政区画ははいっているが、事実上は北茨城の南中郷駅から向かうというのが現実ルートで、駅前からの案内や整備もかりの行政のわくをこえて協力しなければうまくいかない。

 まえまえからくりかえしてるが、「多珂」と『常陸国風土記』に記述がみえる地域は、いまでいう常陸那珂よりきたがわだが、立地やひとびとのきまじめな対文化意識がほとんど一体といえる。
廃藩置県でいまの区画になるまえは実際ひとまとまりだったのだろうから、いまの区画はまことかりのものでしかなく、協調を前提にすすんでいく方が人口縮小にともなって行政の省力化のため、ちかい将来ありそうな自治体再編にも益する。規模のちいささからいっても対抗すべき地域同士ではまったくない。

県政の課題

 県としての課題をいえば、いまはつぎの3点があげられるだろう。
1. 地域ブランドを強化して地域名にまつわる魅力度をあげながら、風説流布源の矢野新一を法で罰する事。
2. 県警が自動車盗難へ徹底した防止策を講じること。
3. 在日外国人による同性間性的接触によるHIV感染率をひきさげる啓発。

販売権と知的財産権の対横浜戦

赤い靴の女の子、という雨情の童謡からおもいっきり知的財産権を盗んだ菓子が横浜で売ってるのだが、こういう神奈川のたちのわるいずる、というより犯罪によって調子乗った矢野新一がますます魅力魅力と自画自賛ほざいて卑劣にもつけあがるわけだ。
 ちなみに、神奈川県の汚点をあげようとすればつぎの様に無数にあげられる。東京都はいうまでもないからいまのところは略すが。
 神奈川県のランク
1位 不登校生徒数
1位 校内暴力発生件数
47位 肺ガン死亡者数:男性
47位 火災死亡者数
47位 小学校数
47位 書店数
47位 美容室数
47位 図書館数
47位 図書館蔵書数
47位 外科医師比率
47位 睡眠時間
47位 病院数
47位 療養病床数
47位 精神病床数
��http://todo-ran.com/t/bestworst より)
 こうして客観的に状況をみてみれば、最低だらけの神奈川県が自称魅力という虚構をつくって、とりたてて欠点のない茨城県をおとしめようとしているだけなのがはっきりわかる。矢野新一はこの面で、風説流布罪によって県の全体へ営業妨害をくわえている明白な犯罪者に類していると自分にははっきり見える。調査意図そのものが非科学的な風説にすぎないのに、あたかも統計学的に有意な情報のごとくに装って流布しているから。

 雨情財団は、実際に只で販売させるほど損なだけだから、作曲者と協調して販売権であれを製造販売している会社とあらそうべきではないか? 知的財産権からいえば、著作権をもつがわに宣伝効果からえた利益の一部以上は提供すべきなのが当然の道理だろう。過去に得た利益もふくめて。
 いい機会だからこの件で世界最高の先輩格であるディズニー・レーベルの厳格きわまりない姿勢を徹底的にみならうべきだ。著作の販売権へは完全なゼロ耐性が肝要か。

 商材、勿論よい意味でのそれに地域名を冠するだけ、のはなしではあるが、現に世界企業のひとつの日立製作所もふくめ単純にこの「地域名を利用する」ということによって、矢野新一発のはなはだしい風説流布罪による県内全300万人の国民や企業法人に対する営業妨害の犯罪、凄まじく悪質な風評被害によるかずかぞえきれない県への損害をこれからは積極的にさけていくべきだろう。

人口理論

余剰人口で労働への最低賃金がさがる、というのりをみれば、少子化そのものもかならずしもみじめではないことになる。

 少子化でこまるといっているのは、高度成長期の価値観をもちつづけているひとが政策をになっているからかもしれない。
 どちらかといえば、少子化した方が人口あたりの所得水準があがるか。

 生活水準を世代間で向上しつづけるには、この人口あたりの所得(人口\所得)のあたいをあげるしかない。
人口が逆数なので、少子化にともなって所得水準があがっていくことが、過剰人口をかきあつめる政策態度よりも、たみのしあわせに寄与するところおおきい。

 反論者の態度のなかには、戦争を前提にその先勝をえるべく人口増強をとなえている、いわゆる富国強兵へにた思想がみられる。
たとえば現東京都知事や現大阪市長などは人口は国力だと公言されているのを私はみたことがあるが、戦争を前提にしなければ、この国力という概念へうたがいをもつことができる。
 政治学上いえるとおり、防衛力に致命傷をあたえるだけの人口の極度のすくなさは問題だろうが、それをのぞけば戦争せずにすませる方が本来の先憂後楽のむねにかなう。
いいかえれば中規模以上の人口比が軍事バランス上あって、なおかつ持っている兵器の技術レベルが戦争がおこりえるすべての諸外国とくらべて十分に高度ならば、かならずしも人口の絶対数というものがいきのこりに不可欠ではない。適応放散があるから、はじめの種は極微でも最後には最大数をもつ可能性がつねに生物にはある。
 自分の観察するかぎり、現に東京や神奈川の平均的な土地家屋でのくらしより、茨城のそれの方が水準が高い。
そして統計からよみとれるのは、むしろ労働者の数を南関東圏へながしてしまうのは、茨城そのものの平均的な所得水準をあげる効果が人口密度のひくさにともなってあるということ。
まず子供がへるなかで労働力のたたきうりがひとりでにふせがれ、最低賃金があがる。つぎに人口密度がさがるのでひろい持ち家を確保しやすくなる。これで父母より教育費に余裕がありかつ勤労であってもし所得がすこしでもあがるなら、投資すべき子孫がすくないほど以前より生活水準があがらないはずがない。

 くわえて、「所得水準のたかい事業」へのえりごのみをつづければ、ますます県内の高級化がすすむ。福島原発の人災による風評被害というものも、産業構造の避けようのない高度化につながるならかえってプラスになる。だから、おおきくみると製造工場の海外移転もそれより所得のたかい設計開発部門の集積と反比例するほど、県民にとって家計的に望ましいことになる。
 おなじ理論は大量の電力を要する工場が誘致されるかどうか、あるいはまた産業へつかわれる大規模発電所がどれほど必要かへ、高度成長期のそれとはことなった態度をもちいるだろう。

 唯一、この高級化にとってさまたげとなりえるのは民衆政の多数決の原理だろう。最大の人口数のもつ意向が、多数決ではとおりやすくなる。
 もしここへの対策をこころがけるなら、情報のかざかみにたつしかない。
いわばあらゆる媒体、特に発信力のおおきなマスメディアをできるかぎりもつことが、人口比にくらべた世論と国際的影響をはたらかせるにたる策だろう。それは姿勢や理念であって、かならずしも資本規模だけではないはず。
 BBCワールド、みたいなちいさな国から発信されてはいるがほとんどの国々へ影響力をはたらかせている世論の基準は、このひとつの手本といえそう。質の高い情報をできるかぎり広域につたえる努力をつづけていけば、そういう世界世論への指導的な地位をえられるだろう。