いまさっきばつのテレビ番組でおーさかの底辺高校特集みたいのやってた。しかしこれはおもうところあった。
はっきりいってさとったのは、もう底辺高校生ってのは生まれてきた時点で終ってるし負け=淘汰決定だと言っていいだろう。これはいわゆるオトナは言わないだろうけど、ぼくは真実だと思う。「生きているのが考えられない」ようなレベルだし、なにかどっかの山奥の野蛮人を見ている感じで、生後の教育でどうなるってもんでもないはずだ。教室でケショウとか。どこの蛮族だろう。
はっきりいって親同士の遺伝した知能の程度がすでに終ってるというかとても低いので(しかも病気でなく健常状態で)、やはり子どもも知能が低いまま生まれてくるのだ。
冷酷な様だが2千年後には完全にかれらの生きていた痕跡すらないだろう。人類は知能に特徴のある生態で地上に生存圏をのばしてきたのであり、この流れが変わらない限りは彼らの生存そのものが無駄なのだ。かれらより能率のいい機械がでてきた時点でかれらの命の意味はおわったのだ。
当然人類の中にも遺伝偏差があり、あたまのよしあしは生まれつきでてくるものだろうけど、ぼくが見た限り、これは教育でカバーできる差ともいえないみたいだ。教育にできるのは「いい方の人種をさらにのばす」加速であり、わるい方のヒトたちはもう終ってるというか、選良人種としてはなにをしてもムダ。おーさかのあの底辺高校のフウケイはこれをまざまざと示していた。
イギリスではあからさまな階級社会が温存されてるので、情報によれば下層の労働者階級の荒れ方がひどいということだ。けど当然そこにはすみわけがある。だから日本ほどひどい混沌が生じることはなく、上層の知識人階級はわりと円滑にくらせる条件がある。
パブリックスクールの王道に入ってしまえばよほどでないと下層労働者のまちへ近寄らねばほとんど見ることすらないだろう。けどそれが賢明というわけで、ゴキブリは見ないですむならそれが最もいい。
日本がひどいのは、キョウエイ高の話題でも書いたがまったく性格のちがうひとたちがごっちゃになってしまうことだ。この問題は先に手を打っていくほうがいい。おーさか状態になったら地域としても運命のおわりだと考えてまちがいない。あの生徒は親の種ごと絶やさないともうなにを教えても救えない。
だから、ぼくの意見では「宗教」の力を下層の民へはおよぼすのが最も合理的。具体的には現状では世界中でもっともましな宗教だろうプロテスタント系のキリスト教会を設けて、そこへおちこぼれ生徒を通わせるのが最もよい。いばきりにこういうお願いができないものか? 飽くまで法人だから需要がなければ誘致もできないかもしれないけど、宗教者はさすがに慈悲のおしえに尊いのでおちこぼれに冷たくあたることなどありえないし、もしあるなら宗教者ですらない。
そしてそこへ放っても更生できねば即刻逮捕し、牢獄で余生を送らせるのが完全に妥当だ。迷惑をかけられると優秀で未来のある市民の逞しい育成が害される。その被害対策の方が終っている親子よりは優先なのがまちがいない。人種は生まれつき違う、特に知能で違うということをあの光景は教えてくれた。
すぐれた機械のある社会でそういう親子は知能が劣っているほど生まれてくること自体が誤りであり(但し病気でという場合は良心の問題があるのでなんともいいがたいが、健康体の場合)、しかも他者と共存するための宗教心すらないときその現存そのものが害だ。
基本は「競争社会」を維持することにある。もしそれが維持できれば、つまり共産主義とか社会主義とか原理主義とかの保守思想にかぶれずにやっていける限り、ああいう救えない人種がいきのこることはありえない。もしそういういきものが生き残るとしたら人類など存在意義がなかったにひとしい。知能の特段高くない獣などいくらでもいるのだから、ほかの動物類を害してくらしている限りその生態は地球の多様化運動にとって邪魔だから。
もしキョウエイ高の生徒にこの原則をあてはめれば、もうおちこぼれていく生徒を救い上げる努力はやめたらいい。進学型=自由型日程と就職型=スパルタ型日程を分けよとはもう書いたが、それに加えてスパルタ型日程のなかでもっとも低いクラスは余分に定員をとっておいて、つねにわざとおちこぼす優勝劣敗ルールを導入すればどうだろう。これは飛び級があるのだから自然なことだとおもう。
そういう不良は放置したらもっと悪さするだろう、ってはなしは先に書いたようにできるだけ立派な宗教施設が最低限度の安全網でそこで救えねば監獄で暮らさせるべきだ。そうでなけりゃ例によって暴力であたりに迷惑をまきちらす。
おーさか底辺高校をみたらそれが妥当だとわかるだろう。ぼくには衝撃的な映像で光景だった。あれは教育などしても意味がないとまともな人間になら理解できる状態だった。話を聴こうともしてなかった。奴隷の子どもというならわかるが。