2010年7月29日

サブカル市場は去れ

この市の一番の問題は、サブカルチャー市場しかないということだろう。本屋がつぶれ、かわりにできたのは巨大なサブカルの城みたいな量販店。これでは市場としては文化面で終っているに等しい。当然子どもの時代から豊富な高文化にふれてくらせる層に比べればそこから出てくる品種も、育ちのわるさ、商売道徳、低俗さをまぬがれない。

��0代前半の親が幼児虐待で逮捕=10年ほど前の市の教育がすでに崩壊していた、ということを冷静に反省してみるがいい。つまりボクがみている「悲惨な文化状況」はあと十年後ほどになって結果になるのだ。そのとき我々が感心することはまずないだろう。低俗人が市から出ました、これは恥と罪でしかない。
だからボクが言うとおり、底辺高校の最も下の層は他の市に追いやる為に徹底迫害を得る。教育の場での積極的おちこぼしもそうだが、市政そのものが制裁措置をたくわえるべきだ。勉強しないならカネをはらって馬鹿の子どもを高校にやる必要などなく、そんな親は淘汰されて消えていけばいい。
サブカル品ばかり売りまくり買いまくる下賎な親子などすこしもほらむべきでないばかりか迫害すればするほどよい。アメリカへ行って日本村みたいな場所であつまって住めば州の支配率に応じては放置されるだろうが、国内でそれをやられると将来世代が絶望的となるので禁忌するしかない。

 美術館だけがいまのところ救いだが、もしキュレーターが下手な交代とかしてサブカル市場におもねりだしたらおしまいだ。そうなったら亡ぼすのにどんな留保もいらない。
 いまのところ市民の教養度が愚劣なのはあの本屋の構成をみれば一目瞭然。まずアダルトコーナー(これはとみに女性向けのものも含む。)をまっさきに潰し、次にくだらなすぎるマンガコーナーを潰すこと。しあげにゲームコーナーを壊滅させる。これが必要だ。マンガにもいいものはある、という意見などはふみつぶしていい。なら図書館がよく内容を考慮した末に購買してみればいい。それならブラックジャックとか作品として完成された古典に限定されるはずだろう。

たよれるのはまだ高貴さも残っていた旧世代の蓄積した資料の幾分かはある図書館だけで、図書館資料を電子化してひろく利用しやすいかたちにまとめることが必要だ。市場にまかせていてもこれは、ほぼ永久におこなわれない。なぜなら版権をもっている過半は、体面だけつくろった下層社会である忌むべき東京にある企業なのだから。
これをしなければ、馬鹿高生とその馬鹿親が買いあさりまくるサブカル品だけで市が埋め尽くされ、教養層がいきのこる余地がどんどんせばまり、市の風紀は下落しつづけるだろう。
中産資本主義経済の限度もこういう場所に見えてくるのではないか。それは衆愚政化にちかづくにしたがって(たとえばなにまろのお隣の市みたいな)全体趣味も商売道徳に染まって高貴さが欠けてくるというところだ。けっきょく『選良議決政治・選良投機経済』はこの面で必須なのだ。つまり最大数の量的幸福だけを目指している限り文化面で決定的に敗退してしまう。

サブカル市場は駆逐されるべきだ。東京文化は否定すべしとはこういうことでもある。善なる影響よりそれをつくる下層の比較多さから悪影響が、総合してみると大きいからだ。私的趣味をいえばイングランド、最低でも水戸に習うべき。知識人層との接点を最大限もつことがいきのこりの鍵となる。このための市政の枠をよく注意深く開け放つのは早すぎることはない。
いまの時点では市場そのものの動向はほとんど終っている。サブカルものだけながれてきてもなにもいい影響はなく、以前よりわるくなるばかりなのを冷静にみわたせねばならない。教養書のみの本屋に子どもをつれてこれる親と、くだらなすぎるワン○ー×ーの下劣サブカル市場づけの親子では結果は育つ以前に決まっている。
は○まろ稼業というおとなりの醜態をみているとこれは一刻もはやくないとこの市はあやうい。世界には「立派なひとたちの市場」もある、ということを文化全域のサブカル化まえに理解したらいい。地上最高品質の科学書が並ぶ本屋に誇りをもつケンブリッジ人も、政治研究書や哲学書がメインの棚につねに据えられているベルリン人もいる。そしてそういう層しかいきのこりの意義はない。きたいば人はエヴァンゲリオン新入荷しました(しかもタイミング遅れて)ではどこへ行こうと笑いものである。最低レベルのサブカル本屋を田園つぶして建たせたことを愧じろ。