2010年10月12日

学校持論

自分の個人的な意見にきこえるかもだが、実は学生時代で最も大事なのは友情を育て上げることではないだろうか。

自分の知るかぎり、学校でしか真の友情というものは育まれない。
学校の原義はschoolで、この英語はスコレーなるギリシア語からきており、いま有る学問の祖だろうアリストテレスがいうことに、ひまのある階級でしか智恵を好む、つまり何事かを研究するという態度は出てこない。
学校はこのギリシアの学問の場をまねた制度だ。特に近代化してからは西洋風がつよくなったのでなおさら。

朋遠方より来たるありまた喜ばしからずや云々の本当の友情も、同じまなびやでまなんだ友達との間では、自分の知るかぎりでは最もつよい。それはご近所つながりより強いほど。もしかすると最も強い友情は戦友なのかもしれないが。
その意味では擬似戦争としてのスポーツ、特に部活動で親しんでいた友達はいつまでも互いを信頼しあえる様なところがある。文化部であれないことはないが。

 最近、なぜかはわからないけど、若者、しかもまだ未成年の子供へ恋愛をあおる様なテレビドラマやらマンガやら小説やら、とかくそういうサブカルが多い。あふれかえっていると言ってもいい。
けど、いま書いたみたいなほとんど一生つづく様な真実の友情の物語は知られていないというか、別に推奨もされてないみたいな感じがする。水戸黄門の助さん格さんくらいしか生き残ってないというかほぼ表面上は絶滅したんじゃないか。
時代的に少子化ゆえ早熟になれ、ということも、外敵や戦がなく平和すぎる世代も入ってそうなのかもしれないが、自分の時代をこえて見る目が正しいなら学生時代の恋愛なんてまったく価値のないものだ。
子供の判断力だからあてにならず、結局長続きもしなければ熱にあてられた様に意味がないのだ。それははっきりいえば失敗行動だ。

高校とかの時代の同級生と結婚しましたという場合とかも時にはあるのかもしれない。ヤンキーなんかはそういう世界に生きてるのだろうか。だが自分としては、そうならどこで友情を育む気だろうと思ってしまう。一般論ではないかもだが、大卒でも同様。
いちど社会へ入ってしまうと打算にまみれざるをえない。要は損得。はっきりいえば、男女関係含む一般社会(少なくとも資本経済の環境)は打算でできていると言っていいだろう。大学生活が利害打算ならそれは学問する場所として機能してない、悲惨で荒廃した大学だったということにすぎない。

『走れメロス』や『こころ』みたいな世界は、打算が入り込む余地がないからこそ意味をもっている。友情は打算を超越したものだ。
実際、学会に所属すれば尚更だが、教育機関での勉強はこの種の同じ志をもつ仲間と出会うことよりもはるかに重要なわけではない。もしそうなら通信教育の方が、わざわざ仲間と通う手間をとるより全ての面で合理的なはずだ。
無理強いして教えられたことより自分から興味をもってまなんだことの方がおぼえている場合も多い。最高の学府というのは、だから「同志を提供してくれる場所」となるだろう。

現状の恋愛煽り中心の高校生らの風紀をみてると、理性の十分そだたない若年層へ東京の出版社が戦後のゆるい未成年検閲から抜け出して売りまくる煽情的サブカルをばんばん吸収してる悪影響は、やはり明白にあると思う。どうせあの年齢でくっつこうと大半別れるのに。青春の浪費だ。韓流含め。
有性生物は放っておけばくっつこうとするものをわざわざ学校へ通わせてまでくっつかせる意味はない。少子化の原因は別にあり、要は新たな商品の発明がとどこおってるので経済状態が上向かないから新しい家庭が家計上で築けないだけの話。
素朴な話だけどよい教育、つまりたくみな進路を与えた方がその子孫は繁栄するのだ。もし少子化が起こるほど発明がでてこない固定化した社会で早熟にさせても、子供は以前の家庭状況より貧乏に暮らすしかなくなるから比べれば不幸だろう。