2012年7月20日

市内のちいさな水力発電所について

 http://www.neo-logue.com/mailmag/sample_vol39.html の
 津田大介氏の「メディアの現場」Vol.39メールマガジン記事によると、
 東京新聞4月2日朝刊の一面
「東電に安値で売電 最大117億円減収に」
という記事で、各自治体の水力発電所の電気つまり水力が東京電力へ売電されていた事実がスクープされていたという。

 東京都や神奈川県、群馬県と栃木県、山梨県に、これらのただ売り状態の水発がある、と。
 http://www.asahi.com/business/update/0313/TKY201203120753.html によると、北は北海道から南は宮崎県まで、全部で26の自治体が地元の電力会社に水発の電気を売っているらしい。
 ということで、水発からの売電が自由化されるべき、という趣旨の記事らしい。

 そこで、この市内の花園にある小型の発電機(浄蓮寺のうらてのがけ、すこしかくれたところにある)はだれが管理していて一体どこへ売電されているのか?

2012年7月19日

文化からの性格への影響

 わたしたちのもっている忠誠的で穏健主義な県民性文化は、おそらく県外のひとには大人しすぎるか冷静すぎるのかもしれないが、よい意味でひとつの個性であり特徴だろうともおもう。
 あれほどの大災害でも、避難所でおばあちゃんがひ孫にひとこと注意するくらいのはなしで、ほぼなんの混乱もみられなかったところにくらしてきたのであって、幕末の混沌のさなか最後まで親のいいつけどおり一意恭順の忠義を誓って上官である皇室からの命令、たとえ偽書であろうとその証拠とおもわれるもの(いわゆる倒幕の密勅)にそむかなかった徳川慶喜公が藩内でそだったのもそういう優等生的な性格をもっているひとびとのなかにいたからなのだろう。

この点がどうも、権力とは自分が実権を持って他人をだしぬき異民族をしいたげることであるとでもおもっている東京より西側のひとにはさっぱり理解できないらしい。
 というよりだれもが進化の終点ではなく相互参照をふくめ模倣や学習によって向上へのよりよいみちがひらかれるかぎり、状況が悪化するばかりなので決してみならうべきところとはおもえないが、かれらのもっている他人の長所への卑屈さがおなじ国民を心底立派だとは決してみとめたくないのかもしれない。
はっきりいうが、常陸国水戸藩のことそのものは孝明天皇まではごく重宝していたらしいが、その後の薩長支配による暴政へ迎合して一帯を冷遇されてきたともいえなくはない皇族だってそうかもしれない。実際われわれのもっているたぐいの、平和趣味の心象は想像だにできないはずだ。

 超がつくほど非常に猜疑心がつよく、つねに他人は力ですべての他者をむさぼるものであると感じているひとびとの心地には、特に関西広域連合圏で顕著なわけだが、おそらくは古くから都になったことによる商業主義の文化からの長い期間におよぶ心理作用への影響があるのだろう。
 それにくらべて、わるくいえば俗人には想定したり理解できないほど純粋すぎる、よくいえば高貴である、ほどほどにいえばすくなくともすれていない古典的な農業文化のなかにある茨城県域の世界観では、ひとが無償で忠義の一心から人助けをしたとしてもそれほど不思議にはおもわないわけだ。こうしてかえりみると、かつてまずしい松下幸之助を水戸の人があわれにおもってたすけた、というはなしもあながちつくりばなしではないはずだ。

 むしろ茨城県のひとびとにとっていくらか必要なのは、みずからの優等生的な長所はたもったままで、ずるがしこい重商主義の長所からもおのれにたりないところをならいとることだろう。
それはたとえば徹底的なライバルとの競争心とか、他人の領分さえ奪い取るほどの勝利への執着、ずるがしこいまでにおのれの身をたもつ自らの利益への執着、あるいはこまやかな気立てとか状況をみたたくみな機転、さらには内心とはそむいてでもふりまく愛想といったたくましい商人にみられる文化気質かもしれない。つまりは利にさとい、という『論語』では小人のよくない特徴とされている部分なわけだ。

 ある面からみればこういった特徴がほとんどない、というのは卑俗さからはなれている長所、武士としての教えからはぐくまれた貴族性、君子や紳士としての資質、道徳性ともいえるのだが、というか自分はそうおもって県のありかたを完全にきにいっているわけでおそらく今現在の東京都という大商業地が中心になっている大衆文化のもとで卑俗化しきったあらゆる世相に反してさえ真実そのとおりなのだが、そこにまったくもってたりていない、ほぼ存在していないかむしろさけられているふしすらあるのは「商魂」というものなわけだ。
 というか江戸時代までの世界観・学問観でいえば商業行為は人間界のなすべき仕事で最下等とされてきたわけで、これへの忌避感ににた行動形質が商業主義者から悪意をもって指摘されるとき、いいかえればいわゆる矢野新一による地域ブランド商品を売り込む気のなさ、つまり商売やる気なさへの理由のない侮辱罪、ならびに論旨をすりかえた風説流布罪である魅力といいかたをまったくうらがえしにしたたちのわるい誹謗となる。
もっといえば矢野新一という人物は、東京生まれで横浜育ちというからにはこれは推測だが、大阪商人の血を引く江戸っ子くずれの根っからの商売人かもしれないので、ご自分が一体どれほど破廉恥な風説流布罪で300万人へとんでもない犯行で迷惑かけているかなんてすこしも反省力はないはずなのだ。
 地域名を冠して恥知らずにも商材を売る気のなさ、がどこでどうまちがえれば魅力、という論旨のすりかえによる誹謗罪になるのだろうか。もし矢野新一に偏見的な恣意で調査させれば、商業国民が世界でもっとも魅力的、というはなしになるのだが。

 そもそも、かれのなかにはおのれの利潤を目的として貨幣取引による壟断行為をする商業というものを卑怯で賎しいものとみなす、といった歴史のながい国家で、とある階級が定着していた場所にはどこでもありそうな、貴族道徳のアイデアさえ頭の隅にもない可能性がたかい。
聖書にいわく、「金持ちが救われるよりラクダが針の穴をとおる方が易しい」。これすら、矢野新一には到底あたまのすみにもはいっていないアイデアだ。「君子は義にさとり小人は利にさとる」。いいかえれば矢野新一のあおっている魅力とは小人の特徴である。
キリストみたいな聖人君子を馬鹿にして、横浜(地域ブランド、なぜか言い換え魅力となづけて、きたいばらき出身の素朴な童謡詩人である一創作者の、商標権を侵害したご自慢の、地域ブランド商品ばんばん無断でうりまくっている盗用の横浜)、いってよければ俗悪きわまりないとしかいえない横浜にすんで調子に乗っているおひとなのだ。それはジーザス自身も困惑して当然の相手である。
 かまびすしい喧伝やあからさまな商業行為をいさぎよしとしない伝統的な貴族の風、武士道をそしって、みずからのためだけの銭儲けという利己的で卑しい仕事を意味もなくまねさせようとしている矢野新一だ。重々しらべてみたところ、この「小人鼓を鳴らしてこれを責めて可なり」の矢野新一が個人HPでひとりでやっているといっていい風説流布罪による風評被害の実態とはそれだけのはなしであり、調査対象が単なるうわさであるといった占い級の非科学性からいえば統計学も中途半端にかじっただけカイ二乗検定やってるとさえおもえない、矢野新一いわく、商材イコール地域魅力度、という到底なりたたない等式でもって、へんてこな商売中心目線系のはた迷惑をこえて犯罪でしかない風説と、偏見の自称ネット調査と、被災地へのはなはだしい風評被害を日々あたえているその風説流布罪ならび県への名誉毀損罪である。

 いずれ矢野新一が深刻でとりかえしのつかぬ刑罰をうけることを強く祈願しつつ、冷静に地域をふりかえるかぎり、これらの商業気質の発揮というものは儒教による教化のもとで、さらに政治階級である武家の専制支配下では徹底的に否定されてきた特徴だろうから、のばすのがむずかしいにせよすくなくとも、職業的に経済活動を専業化しているいくらかのひとがみにつけるべく努力した方が、おおきくみて「中庸」「中道」に一帯の世界観をちかづけることになるのも、あるいは一理あるとする。
 おそらくひとつこの面でのきっかけになるのは、天職思想: calling、というprotestantismのなかにみられるかんがえかたかもしれない。それはカルヴァンによって定義されているが、「救いをえるためにはみずからが天からあたえられた職にはげむしかない」、というアイデアだ。そうしてたまった利潤は決してみずからのためではなく、キリスト教倫理をまっとうするため、いいかえれば世のため人のためにつかわねばならない。
 このアイデアがイギリス帝国勃興にとってはかぎとなってきたことは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にあるとおり。資本主義として世俗化してしまってからは質がちがった議論になったが、アメリカでさかえることになった金融業の正当化さえもとはといえばこの救済、みずからが社会の役にたち救われているという確信をえるための、日本でいう封建時代の分限道徳の様なところに起源があった。そしてそれは分をおもんじる、すでにある儒教の世界観とも相性がいいはずだ。

東海村長の格調高い宣言

以下 http://ibjcp.gr.jp/?page_id=227 より転載
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●東海村長・村上 達也さんからのメッセージ

志位委員長をお迎えしての日本共産党演説会のご盛会をお慶び申し上げます。

さて、東日本大震災、福島原発事故の後、本当に呆れた政府、情けない国だとつくづく思っています。
特に原子力政策に至っては、何ひとつ新しい方向が打ち出せず、というよりは原発事故に蓋をして、まるで災害がなかったが如くにしてまでも利権集団の利益擁護に血眼になっているのですから。
政府がやっているのは電力会社の利益のため茶番劇を演じてまでの原発再稼動、そして原子力偏重のエネルギー政策の失敗の付けを国民に転嫁する電気料金値上げばかりです。
原発事故で被災し避難している福島県民の救済は全くそっちのけです。呆れるより怒りを覚えています。

私は30Km圏内に100万人が住み、かつ首都圏唯一の東海第二発電所の再稼動中止・廃炉を政府に求め、併せて福島県を除きますが全国の原発立地市町村の首長として只一人脱原発を提唱しています。
そして去る4月28日、三上静岡県湖西市長、桜井福島県南相馬市長、上原前国立市長らと呼びかけ、70数名の市町村長の加入をもらい「脱原発をめざす首長会議」を立ち上げて参りました。
東京の城南信用金庫本店で開催された設立総会では志位委員長からも直接激励を頂きました。お礼申し上げます。

私が脱原発を唱えるのは、目先の経済的利益ばかりを求め、そのためには生存権などの基本的人権さえも抹殺して突き進む原子力ムラの権力的な文化、その体質に長年付き合ってきたがためです。
その発端は約13年前の東海村JCO臨界事故にありました。
その時も、この国は原発を保有する能力、資格のない国だと思いましたが、フクシマ以後の現在をみて更に更に強く思っているところです。

この日本で政治家や官僚、財界人や学者をみれば失望ばかりですが、今私は大いなる希望を抱いております。
それは原子力一辺倒の国策に対する民衆の戦いの盛り上がり、それは安保闘争以来、いやそれさえも超える民衆の戦いが全国津々浦々に巻き起こっているからであります。
これを私は、明治時代初期の古い言葉ですが民権運動、「国権」に対する新たな「民権」の戦いと評価しております。
今や国民世論の80%は政府に対し脱原発によるエネルギー政策の転換を求めています。

東日本大震災、福島原発事故を体験した私たち日本人には、世界の70億人の人々に対し脱原発を達成する責務があります。
そして又、原子力発祥の地である茨城県は、その先陣を切る義務と権利があると思います。
本日の会議が大飯原発再稼動後の野田政権の反動的流れを堰き止めるものとならんことを期待し、そして祈り挨拶といたします。

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 以上引用したが、東海村長のおっしゃるとおり、われわれ茨城県民が全国民に先駆けて廃炉を決断する事が日本を救う。というより、茨城県民にはすぐとなりで世界最悪といっていい大公害がおこったかぎり、一切の再稼動廃止、きっぱりと国からの交付金麻薬と縁を切る、勇気ある先導役を率先垂範で決断し、第一に達成せねばならない責務がある。
 それがみずから最新技術をためしはじめた者のもつべき誇りだろう。雄々しく進歩しようとするかぎり、人類には失敗するときもある。だれでも失敗しえるのだ。重要なのは失敗ときづいたときにごまかさず、冷静におのれ自身を反省し、間違っているとわかったならきっぱり改める事だ。君子は豹変する。
放射能汚染で犠牲になる世界人類の未来をすくうためだ。このさい、手段はえらばない。日本一国でおさまる問題ですらなく、いまより放射性廃棄物をこのちいさな島から地球中にひろげない為にはなにがなんでも、まず自分たちからそれを達成するしかないのだ。先ず隗よりはじめよ。

 原子力発電所は、いわれてきたほど決して効率のよい発電機でもなければ、ひとたびさけられない自然からの影響で大事故になれば手のつけようのない大災害をひきおこすパンドラの箱だった。さらには持続可能性、もつ性能をもっているわけでさえない。廃炉する時期がさきのばしにされるほど汚染物質がたまりつづけ、それを冷却する費用がますますかさむといった「ながいめでみて不経済な」発電装置だったわけだ。
元請けである株主からみれば、下請けにあたる製造者である、加圧水型原子力発電所の三菱重工業、沸騰水型原子炉の東芝やアメリカのGEとくんでいる国内製造業者の日立にも、国民すなわち国家をつくっている主権者自身の国内政策への態度が、最低限でも国内でこれ以上増産をするかどうかの意向へもっぱら方向性をあたえるのはまちがいない。
 というより、民間需要としての依頼がなければあれほどの費用と手間がかかる大規模装置は生産されないはずだから、なにもそれをつくらなかったからって伝統と信頼実績のある安心の日立製作所や東芝、三菱重工業といったこれまで原子炉製造にhigh technology面で貢献してきた会社法人が即座につぶれるわけでもなし、そのままおとなしくすくなくとも国内分の原子力発電所製造の関連産業分からは撤退すればよいだけなのだ。簡単にいえばこれから国内ではつくらない、これだけのはなし。
 なおす分はこわれてきたらあぶないので必要なだけなおさなければいけないわけで、否定しない、というよりできないけど。

 それにしても、現に賢慮ある東海村長殿が脱原発技術、というあたらしいことばで構想しておられるとおり、廃炉にかかわる技能やそれまでありつづけるしかない原子炉システムについては即座に需要が消滅するではない。というか、はっきりいえば合理的で経済的な廃炉技術を開発するといったあたらしい分野にむけて進んでいった方が、すでにできあがってしまっているものをほぼ自動で維持しつづけているだけよりも、はるかにかずおおくの有効需要が、下請けにあたる関連産業すべてに発生するに相違ない。
要するに、原発をやめようとすることさえ「とかくもっこをうごかす」「ふねをみがかせる」「うまくいかなかったピラミッドをつくりかえる」様な、いまの大不況時にごく景気回復へききめのあるケインズ政策なのだ。安心さえ買えるわけだから、日本最大の機械製造業者であられる日立製作所様には是非とも方針転換系の新事業をおねがいしたいものなのである。
 国際的なシェアについては、いまだに途上国のあらゆるところでふえつづけるしかない需要や、これはいいすぎでなければ是非ともという特別注文の依頼がつきないので、絶対にもう二度と事故をおこさせないという「安全技術面で貢献できる」ことはまだまだ器用な日本勢にはあるはずだ。
勿論、われわれ茨城県民が、すなわち日立製作所発祥の地でなおかつ東洋における原子力発電発祥の地でもあるところですべきことは、「ひとびとが原発なんてもうやめたいとおもった」ときにはすぐさま、もっともよいてだてで廃止できる技術をさきにつくっておくことだろう。つぎつぎ濫造したがっていて、たとえ日本の製造業者だけが手を引いたところでとめられない途上国からはまだまだでてくることになる、世界中でうずつもっていくほかない放射性廃棄物のもっとも安全な処理に関するそれもふくめて。
 しかも、(http://kamomenome.exblog.jp/16416709/ 「夜間の過剰電力のための原発」) にみられるとおり)発電量がとても調整しにくいので夜間電力の過剰化にしか役立たないとなれば、これから少子化がおこるのだから国内での大量の電力需要がみこめているわけではないかぎりできるだけはやく手を引く方がすべてにまさって賢明といわざるをえない。

 先憂後楽という水戸光圀公の座右の銘を、今一度おもいかえすべきだ。茨城県は全国民から勇気をたからかにしめすことを、いまこそ期待されているのだ。ひとびとをがっかりさせてはいけない。名誉をえるか、それとも敗北かだ。間はない。

問題をさきおくりにしたところで、どちらにしてもつぎの世代が廃炉に向けていくしかないのならば、善は急げ、というほかない。

大事なのは、中途半端ではなく、このばあいとりかえしのつかない祖先伝来の郷土を永遠にうしなうという大事故の危険性がつねにめのまえにありつづけるかぎり、中庸さえなく、県政の原子力発電事業の継続に関する意志をはっきり国家といういまの体制いいかえれば、「主権者である国民自身へ」しめすかどうかだ。世論もそれを支持するにちがいない。
このばあい、すでに大規模なデモが都心の官庁あたりや代々木で何度も起こっており、やむ風向きがないかぎりはっきりときりかわった世論のながれの風下にある経済産業省の動向については、皇統に象徴された日本国の中央政府の永い権威を重んじる茨城県民のひとりなので個人的には軽視するはずはないが、とりあえずひとりの意見の自由をもつ国民とみれば除外していいはず。
なぜなら、もし省庁がこれへ無理にさからおうとしても、つぎの選挙でこういった争点の処世にいずれたくみな穎脱エイダツの小沢氏をふくめて原発をやめさせようという積極性をもったちがう政権にかわっていくはずで、官庁はきりかわったあらたな経産省長官のなすがままにするほかないのだから。再稼動さわぎについていえば、さきにそれへさとれるかどうか、に関の東西で理解力へ一頭の差があっただけかもしれない。

 所詮、国つまり国家という体制さえ個々の国民があつまってつくっているだけなのだから、国家ということばは幻想にすぎず、実態はただの国民みずからが団結するというときの姿勢やこころざしにすぎない。特にrepublicや、民主政にちかい民衆支配状態のもとでは。国とは一帯の文化がもっているなにかをするときの雰囲気、のりでしかない。
現実にする行動といえば原発という維持していくのが不合理とわかった事業体そのものを減らしていくしかないにせよ、それとは別に、国民をひとまず安心させる結果になるので理念の上ででもいいのであるから、尊敬すべき東海村長のごとく、「はっきりやめると決断をしめす」かどうかで男として天と地の差がある。これはわらうところだが、東京都知事とは格がちがうところをみせつけるべきである。
 人事を尽くして天命を待ち、いずれひとは信じる道をすすむほかない。
 水戸学がつたえるところに報本反始、ということばがある。その思想をうみだしてきた県の北端のちいさな市民でしかない自分の常識が、身近にまきおこされたこれまでの隣接自治体での事故後の経過ならびに状況をみあやまっていたのではなければ、最終的にわが県知事殿は、あるいは未来の運命をにぎっているこどもをふくめ11万人が現に署名した個々の茨城県民の意思をどう尊重するかと同様に、無数の史跡や文化財、国宝級の文物をふくめて、歴史や伝説に事欠かないきわめて有名な県都である水戸市というまこと格式高い土地がこの決してひろくはない日本、もしくは地球そのものから将来破滅するかどうかにさえ、致命的な決定権をもっておられるのではないだろうか。

 無論、なんらかのこれらとは質のちがう方針であっても立場がことなればはかりしれない最大の熟慮のうえだろうから、以上の論旨でもって北茨城市民としてできるかぎりその決定が持っている合理性や不合理性への意見はするが、いずれ別の説得方法をもちいるなり、みずからがえらんでいる公権力である県政の方針そのものへは一県民としてさわがずしたがうつもりだが。

夜間の過剰電力のための原発

 以下の資料からよみとれるのは、原発が電力会社によってつくられるおおきなわけは、「夜間電力を余剰にするため」ということになる。つまり、その原発がまかなっている電力の大量消費地、具体的には東京都と神奈川県の夜間電力をおおはばに節電できれば、費用負担は決してほかの発電量を調整できる方式で不可能ではないばかりか、総合的にはあきらかにほかの発電源をつかった方が効率がよい。
 いいかえれば原発でなければならない必然性はない、ということだ。それがあっても本来不必要な夜間電力が過剰になってしまって、揚力発電所までつくらねばならず、むしろ総費用がたかくなることが資料からわかる。
 さらに事故後の現実をみればどちらかといえば、地震国や津波のありそうな海岸立地、あるいはテロリズムなどをこうむる可能性での首都圏事故リスクによる損害額の方があきらかに、たとえば火力発電所のばあいより短期・中期・長期すべてに於いておおきい。これは原子力発電所のひくい経済合理性という真理について、明白な知識らしい。

 出典が責任をもてる個人(立命館大学国際関係学部教授の大島堅一氏)なのでこの資料の信憑性がもし十分にたかいとすると、原発・火力・水力・揚力の発電所のなかでは、水力発電所が、もっとも単価あたり発電効率がいいことになる。ダムをつくって自然破壊するのをさけようとすれば、それを最大限に安全にしたうえでこまかく用水路などに配分して多元分散型にすることがいいのかもしれない。実際、花園にも目立たないが、ひとびとにはみえないがけのうらの滝に水力発電機がある。

以下引用
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立命館の大島堅一教授が、電力各社の「有価証券報告書総覧」を基礎に電源別費用を算定

費用は、下記の3点です。
発電に直接要する費用(燃料費、減価償却費、保守費用等)
バックエンド費用(使用済燃料再処理費用、放射性廃棄物処分費用、廃炉費用)
国家からの資金投入(財政支出:開発費用、立地費用)

事故の場合の被害額、被害補償額は含まれていません。

一番高いのは揚水ですが、これは、夜間などの電力需要の少ない時間帯に原発から余剰電力の供給を受け、下部貯水池(下池)から上部貯水池(上池)へ水を汲み上げておき、電力需要が大きくなる時間帯に上池から下池へ水を導き落とすことで発電する水力発電方式です。原発は細かい出力の調整ができないので、夜間に発生する電力を有効に使うために作られました。原発のためにある発電方法です。
この2つをあわせた、(原子力+揚水)がもっとも単価の高い発電方法となっています。

[出典]立命館大学国際関係学部 大島堅一氏
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/iinkai/teirei/siryo2010/siryo48/siryo1-1.pdf)

小出氏が説明している動画 (01:06:00くらいから)
http://www.ustream.tv/recorded/13897618)

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以上の引用は http://kingo999.web.fc2.com/instant/tanka.html より(傍線筆者)

http://kingo999.web.fc2.com/instant/risc.html

「がんで死ぬ確率0.5%」の100mSvは生涯累計値


致死がん(がんで亡くなる)のリスクをICRPは100mSvで0.5%、ECRRは1%としています。
しかも、この100mSvは年間ではなく、生涯の累積なのです。
つまり年間に20mSvという設定の場合は、5年で累積が100mSvとなります。
また、非致死がんのリスクは、100mSv浴びるとICRPで1%、ECRRで2%としています。
小学校の6年間で、年間で外部被ばくを10mSv、内部被ばくを10mSvの合計20mSvを浴びるとすると、致死がんのリスクは、ICRPで0.6%、ECRRで1.2%となります。
「オックスフォード小児がん調査」からは「15 歳までの子どもでは発がん率が40%増加する」ことが示されています。
これを踏まえて計算すると、小学校の6年間での致死がんのリスクは、ICRPで0.84%、ECRRで1.68%となります。
非致死がんのリスクを計算すると、ICRPでは1.68%、ECRRで3.36%です。
小学校6年生の1クラスに1人が、がんに罹っている確率です。
決して、低いリスクとは思えません。

年間20mSvを小学校の間浴びるとした場合のがんになるリスク
ICRP ECRR
致死がん 0.84% 1.68%
非致死がん 1.68% 3.36%



【参考】 いるかちゃん ~ 子どもを守れ@福島市
【出典】 ECRR(欧州放射線リスク委員会)2010年勧告(第6章~9章)
米国科学アカデミーBEIR委員会報告書(BEIR VII報告書)「要約」

被曝検査義務は東京電力にあり

http://kamomenome.exblog.jp/14825315/
「東京電力株式会社が終生責任を負うべき人数」
の記事で過去の人類の経験値から計算される被害の発生率によると、最悪のばあいで1%の新生児への先天性障碍の発生確率上昇の可能性がある。
 具体的な人数にすると、50年間で最悪の場合で139人の先天性障碍児が、東京電力株式会社がひきおこした大公害事故によって市内にふえる可能性がある。いいかえると、最悪の場合2011年3月から~2041年か2061年まで(つまり最低でもセシウムの半減期がおとずれる30年間か5万人の市内全人口が世代交代ですべていれかわる最大で50年間までのあいだ)、毎年2、3人ずつ新生児のなかに先天性障碍をもった子がふえていくかもしれない。

 よって、国民は東京電力株式会社をあいてどって、先天性障碍や癌が胎内被曝や身体被曝によっておこった可能性がある全員へ、その心理的ならびに生活被害への賠償をさせるべきだ。国民のいのちを犠牲にしながら利潤を儲けてこえふとる悪徳企業につけあがらせ、のさばらせてはいけない。これは良識の問題なのだ。

 東京電力株式会社が大公害の原因でしかありえないのだからその法人へ、被曝した父母と子供の全数、かつ希望者全員へ、義務として被曝検査を公害事故発生の責任としておこなわせるしかない。なぜか法人格なのに、未来の子供のいのちにかかわる大公害からにげだしてこの国土を大規模に破滅させたうえ、さらに賠償費用を下知ろうとしているが、ありえない対応だ。
 こういうあたりまえの責任の義務からさらに逃げ手を打つ様なら、個人のみならずNPOや医療機関、教育機関も団結して行政訴訟まで視野にいれねばならない。福島県、栃木県、群馬県、宮城県、あるいは千葉県や埼玉県を入れる南関東のすべての県や岩手県、山形県、新潟県はては避難者をうけいれたすべての自治体までこの被害を受けたから団結できて当然だが、公害をおこしたのは東京電力株式会社であり、市民にはなんの責任もないのだ。こどものいのちを奪われる理由などどこにもない。

低線量放射線の健康影響について(引用)

http://www.nsc.go.jp/info/20110526.html
��http://megalodon.jp/2012-0719-1105-11/www.nsc.go.jp/info/20110526.html)

低線量放射線の健康影響について

平成23年5月20日
平成23年5月26日改訂
平成23年9月8日改訂
平成23年10月24日改訂
原子力安全委員会事務局
標記に関する原子力安全委員会の考え方について説明いたします。

 放射線の健康影響は、「確定的影響」と「確率的影響」に分類されます。

 「確定的影響」は、比較的高い線量を短時間に受けた場合に現れる身体影響で、ある線量(閾値)を超えると現れるとされています。比較的低い線量で現れる確定的影響として、男性の一時不妊(閾値は0.15Gy、ガンマ線で150mSv相当)や、リンパ球の減少(閾値は0.5Gy、ガンマ線で500mSv相当)があります。100mSv以下では確定的影響は現れないと考えられます。

 一方、「確率的影響」には、被ばくから一定の期間を経た後にある確率で、固形がん、白血病等を発症することが含まれます。がんのリスクの評価は、疫学的手法によるものが基礎となっています。広島や長崎で原子爆弾に起因する放射線を受けた方々の追跡調査の結果からは、100mSvを超える被ばく線量では被ばく量とその影響の発生率との間に比例性があると認められております。一方、100mSv以下の被ばく線量では、がんリスクが見込まれるものの、統計的な不確かさが大きく疫学的手法によってがん等の確率的影響のリスクを直接明らかに示すことはできない、とされております。このように、100mSv以下の被ばく線量による確率的影響の存在は見込まれるものの不確かさがあります※※。

 そこでICRPは、100mSv以下の被ばく線量域を含め、線量とその影響の発生率に比例関係があるというモデルに基づいて放射線防護を行うことを推奨しております。また、このモデルに基づく全世代を通じたがんのリスク係数を示しております。それは100mSvあたり0.0055(100mSvの被ばくは生涯のがん死亡リスクを0.55%上乗せする。)に相当します。

 なお、2009年の死亡データから予測された日本人の生涯がん死亡リスクは約20%(生涯がん罹患リスク〈2005年のデータで予測〉は約50%)です。また、その評価の基礎となった2009年度の全国のがん死亡率は10万人あたり約270人でしたが、都道府県別では10万人当たり190人~370人程度でした。

※原子力安全委員会では、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)及びICRPの文書から、その根拠となる部分を「低線量被ばくのリスクからがん死の増加人数を計算することについて」として抜粋しました。(平成23年9月8日)

※※ICRP Publ. 99「放射線関連がんリスクの低線量への外挿」では、第2章疫学的考察において、「数十mGyオーダーの被ばくに関連した過剰がんリスクの直接的な疫学的証拠」として、X線骨盤計測により放射線に胎内被ばくした子どもに関するいくつかの症例対象研究をあげていますが、「これらの胎内被ばく研究の解釈をめぐってはかなりの議論がある」としています。
出典:ICRP Publ. 99 放射線関連がんリスクの低線量への外挿 国際放射線防護委員会
   ICRP Publ.103 国際放射線防護委員会の2007年勧告 国際放射線防護委員会
   放射線と線源の影響 2000年報告書 原子放射線の影響に関する国連科学委員会
   放射線と線源の影響 2006年報告書 原子放射線の影響に関する国連科学委員会
   がんの統計'10 (財)がん研究振興財団
   人口動態統計 厚生労働省大臣官房統計情報部編

2012年7月18日

高萩と協調すべき所

 高萩は第一学院(ウィザス高校)を香川真司選手が卒業した学校である、ともっと大声で喧伝すべきだ。
 世界的に有名なマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したのだから、出身高校があるというだけでも相当の宣伝効果になるだろうし、さらに将来の有名人が名声に魅せられて来るという循環にも当然なりそうだ。
実際、ロケ地として福山雅治や堀北真希など有名人がおとずれる確率がたかい場所になっている。セレブリティの滞在を前提に市の再開発をかんがえるといいのかもしれない。

 高萩市政と現在積極的に協力すべきところは、長久保赤水の生家あたりを史跡としてととのえることだろうか。
足洗海岸が実質の立地だから、高萩市に行政区画ははいっているが、事実上は北茨城の南中郷駅から向かうというのが現実ルートで、駅前からの案内や整備もかりの行政のわくをこえて協力しなければうまくいかない。

 まえまえからくりかえしてるが、「多珂」と『常陸国風土記』に記述がみえる地域は、いまでいう常陸那珂よりきたがわだが、立地やひとびとのきまじめな対文化意識がほとんど一体といえる。
廃藩置県でいまの区画になるまえは実際ひとまとまりだったのだろうから、いまの区画はまことかりのものでしかなく、協調を前提にすすんでいく方が人口縮小にともなって行政の省力化のため、ちかい将来ありそうな自治体再編にも益する。規模のちいささからいっても対抗すべき地域同士ではまったくない。

県政の課題

 県としての課題をいえば、いまはつぎの3点があげられるだろう。
1. 地域ブランドを強化して地域名にまつわる魅力度をあげながら、風説流布源の矢野新一を法で罰する事。
2. 県警が自動車盗難へ徹底した防止策を講じること。
3. 在日外国人による同性間性的接触によるHIV感染率をひきさげる啓発。

販売権と知的財産権の対横浜戦

赤い靴の女の子、という雨情の童謡からおもいっきり知的財産権を盗んだ菓子が横浜で売ってるのだが、こういう神奈川のたちのわるいずる、というより犯罪によって調子乗った矢野新一がますます魅力魅力と自画自賛ほざいて卑劣にもつけあがるわけだ。
 ちなみに、神奈川県の汚点をあげようとすればつぎの様に無数にあげられる。東京都はいうまでもないからいまのところは略すが。
 神奈川県のランク
1位 不登校生徒数
1位 校内暴力発生件数
47位 肺ガン死亡者数:男性
47位 火災死亡者数
47位 小学校数
47位 書店数
47位 美容室数
47位 図書館数
47位 図書館蔵書数
47位 外科医師比率
47位 睡眠時間
47位 病院数
47位 療養病床数
47位 精神病床数
��http://todo-ran.com/t/bestworst より)
 こうして客観的に状況をみてみれば、最低だらけの神奈川県が自称魅力という虚構をつくって、とりたてて欠点のない茨城県をおとしめようとしているだけなのがはっきりわかる。矢野新一はこの面で、風説流布罪によって県の全体へ営業妨害をくわえている明白な犯罪者に類していると自分にははっきり見える。調査意図そのものが非科学的な風説にすぎないのに、あたかも統計学的に有意な情報のごとくに装って流布しているから。

 雨情財団は、実際に只で販売させるほど損なだけだから、作曲者と協調して販売権であれを製造販売している会社とあらそうべきではないか? 知的財産権からいえば、著作権をもつがわに宣伝効果からえた利益の一部以上は提供すべきなのが当然の道理だろう。過去に得た利益もふくめて。
 いい機会だからこの件で世界最高の先輩格であるディズニー・レーベルの厳格きわまりない姿勢を徹底的にみならうべきだ。著作の販売権へは完全なゼロ耐性が肝要か。

 商材、勿論よい意味でのそれに地域名を冠するだけ、のはなしではあるが、現に世界企業のひとつの日立製作所もふくめ単純にこの「地域名を利用する」ということによって、矢野新一発のはなはだしい風説流布罪による県内全300万人の国民や企業法人に対する営業妨害の犯罪、凄まじく悪質な風評被害によるかずかぞえきれない県への損害をこれからは積極的にさけていくべきだろう。

人口理論

余剰人口で労働への最低賃金がさがる、というのりをみれば、少子化そのものもかならずしもみじめではないことになる。

 少子化でこまるといっているのは、高度成長期の価値観をもちつづけているひとが政策をになっているからかもしれない。
 どちらかといえば、少子化した方が人口あたりの所得水準があがるか。

 生活水準を世代間で向上しつづけるには、この人口あたりの所得(人口\所得)のあたいをあげるしかない。
人口が逆数なので、少子化にともなって所得水準があがっていくことが、過剰人口をかきあつめる政策態度よりも、たみのしあわせに寄与するところおおきい。

 反論者の態度のなかには、戦争を前提にその先勝をえるべく人口増強をとなえている、いわゆる富国強兵へにた思想がみられる。
たとえば現東京都知事や現大阪市長などは人口は国力だと公言されているのを私はみたことがあるが、戦争を前提にしなければ、この国力という概念へうたがいをもつことができる。
 政治学上いえるとおり、防衛力に致命傷をあたえるだけの人口の極度のすくなさは問題だろうが、それをのぞけば戦争せずにすませる方が本来の先憂後楽のむねにかなう。
いいかえれば中規模以上の人口比が軍事バランス上あって、なおかつ持っている兵器の技術レベルが戦争がおこりえるすべての諸外国とくらべて十分に高度ならば、かならずしも人口の絶対数というものがいきのこりに不可欠ではない。適応放散があるから、はじめの種は極微でも最後には最大数をもつ可能性がつねに生物にはある。
 自分の観察するかぎり、現に東京や神奈川の平均的な土地家屋でのくらしより、茨城のそれの方が水準が高い。
そして統計からよみとれるのは、むしろ労働者の数を南関東圏へながしてしまうのは、茨城そのものの平均的な所得水準をあげる効果が人口密度のひくさにともなってあるということ。
まず子供がへるなかで労働力のたたきうりがひとりでにふせがれ、最低賃金があがる。つぎに人口密度がさがるのでひろい持ち家を確保しやすくなる。これで父母より教育費に余裕がありかつ勤労であってもし所得がすこしでもあがるなら、投資すべき子孫がすくないほど以前より生活水準があがらないはずがない。

 くわえて、「所得水準のたかい事業」へのえりごのみをつづければ、ますます県内の高級化がすすむ。福島原発の人災による風評被害というものも、産業構造の避けようのない高度化につながるならかえってプラスになる。だから、おおきくみると製造工場の海外移転もそれより所得のたかい設計開発部門の集積と反比例するほど、県民にとって家計的に望ましいことになる。
 おなじ理論は大量の電力を要する工場が誘致されるかどうか、あるいはまた産業へつかわれる大規模発電所がどれほど必要かへ、高度成長期のそれとはことなった態度をもちいるだろう。

 唯一、この高級化にとってさまたげとなりえるのは民衆政の多数決の原理だろう。最大の人口数のもつ意向が、多数決ではとおりやすくなる。
 もしここへの対策をこころがけるなら、情報のかざかみにたつしかない。
いわばあらゆる媒体、特に発信力のおおきなマスメディアをできるかぎりもつことが、人口比にくらべた世論と国際的影響をはたらかせるにたる策だろう。それは姿勢や理念であって、かならずしも資本規模だけではないはず。
 BBCワールド、みたいなちいさな国から発信されてはいるがほとんどの国々へ影響力をはたらかせている世論の基準は、このひとつの手本といえそう。質の高い情報をできるかぎり広域につたえる努力をつづけていけば、そういう世界世論への指導的な地位をえられるだろう。

2012年7月16日

学校の改良について

 自動車教習所みたく、(1)教科を自己選択制にし、(2)クラス制度を廃止する。
これだけでクラス・システムによるいじめというカースト化はかなりふせげる、という情報があった。

 実際、単位制度にしてあれば、大学や専門学校でもいじめというものはほとんどみうけられない。これはクラスをつくる、という集団性をもたらす要因がほとんどないからだろう。
 強制的な集団化、集団教育というしくみがつまりカーストをつくる元凶なのだろう。その期間が長期にわたるほどカースト化しやすい。だから中高一貫などは、かえって時代に逆行しているか、スクールカーストをおよぼす悪い半面がある可能性も否定できない。

 茨城県の教育委員会に理解があれば、「グループ学習」とか「集団行動」という無理強い、仲良くない者同士の集団化という拷問の錯誤をさせる学習指導要項は一切とらないべきだ。私立ではいうまでもなく。

いじめのへらしかた

さかもと ?@sakamoto444

いじめは減らせます。自動車教習所がわかりやすい。 (1)教科を自己選択制にし、(2)クラス制度を廃止することでいじめてる暇が無くなる。 10年以上前から宮台氏が言っているのに着手せずいじめを温存し続ける。いじめ問題の本質は「システム依存問題」です。


ユキちゃん(=^. .^=)ミャー ?@yukipedya

.@sakamoto444 では、単位制の都立新宿高校はイジメが全く無いのか?それを公表して新しいモデルケースにすれば良いと思います。

混雑税による柔軟な通勤

 水戸への通勤者(北では日立、南では土浦か筑波)が最多とおもわれるが、このrushを緩和するには「混雑税」を導入すればいい。

 もっともこむAM7~9時、PM5~7時に、水戸市(あるいはばあいによって日立、土浦、筑波)の高速道路をとおるか電車をつかおうとするひとへは、特別な税をうわのせする。
 これで他の時間帯につかおうとするひとがおおくなるだろう。会社や官庁ではflex timeにちかくせざるをえないので、はやねはやおきになるか、通勤通学が快適になり、無用なstressもかるくなって県内の就業者らは以前より能率よくはたらくことになるかもしれない。さらには財政収入もあがるわけだ。

知識の道具性

 科学の「名誉」におよぼす側面は過大評価されすぎているきらいがある。
 科学、知識、scienceはこの名誉をもとめる心によってよりよくつくられる、とはおもえないし、かりにそういうつくりかたをしたところで現実の生活levelとかさなることはほとんどなさそうにみえる。

 わけは、学習というものがあって、ほかのばやひとびとでつくられた知識さえ、ほかのひとがカンタンにまねれるから。
 このあたりまえの道理をみると、本当にあたまがいい、といえるのは「実用」つまりつかえる、という特徴をともなって発展していく文化ではないか、とおもえる。

 自分のしるかぎり実用性はほとんどないが、単純に名誉だけをめあてとしている文化体系のひとつとして芸術、という分野がある。この芸術についてだけは名誉へむかっての選択がはたらくのはただしいのかもしれない。なんらつかえないわざ、というものが目的そのものとしてえらばれるのはそういう世界でだろうから。
 だが、科学: scienceと工学: technologyが両輪みたいにすすんでいる状態は、おそらく科学そのものの探求にとってもかなり幸福だろう。

 Pragmatismがアメリカの哲学者らによって、もう一度といなおされたのもこの名誉制度と化した科学の探索という業からぬけだそうとしたひとびとがいたからかもしれない。栄典の授与、とか先取権への競争、これらはかなり長い目でみればほとんど大した問題ではないだろう。
 おおきくみれば「よりよいくらし」ができる、そういう文明化のためにひとびとは、あたらしい知識をもとめ、また日常生活のなかにその学習されたなんらかのことばと記号による、ものわかりを応用していく。

 つかえること。この方が名誉をえている、という事象よりも科学者にとってのぞましいかもしれない。
 知識そのもののふかい探求をへていくと、なにかに実用性をともなっていない、純粋な好奇心での理解をもとめるべきときがでてくるはず。が、科学は所詮は道具にすぎない、という初歩にかえるときがふたたびやってくるだろう。知識の一切は、その社会の中でより高度な技術に応用する、あるいはくわしくたしかな将来予測を通してみずからの属した種や類をたすける、という目的につかえるだけだ。

2012年7月15日

茨城県単体の放送局について

茨城県単独で、全国とできれば世界への放送局をもつ、という事が目標になる。

 県政は東京都への広告代に出費しているが、長い目でみれば東京都へ投機しているのと変わらないかもしれない。広告を打ってもそれをこえる分だけ回収しなければ、利潤という目的にはかなわない。

 大手の広告代理店、とか日本でいうジャニーズエンターテインメント、韓国でいうS.M.エンターテインメイト、こういう「宣伝行為」そのものを目的とする事業活動が、NHK水戸放送局だけではなく一つ以上あれば状況は変わるとおもう。なぜいままでのところ東京からの偏見報道が過熱するかといえば、記者クラブを中心とした報道ヒエラルキーに全国がのまれてしまっているから。
 独立した報道体制が、東京ではない、少しそこからずれている冷静で批評的な目線を全国に届けられれば、随分情報の風通しもよくなるはずだ。

偶像への態度差

キリスト教はいうまでもなく、イスラム教でも偶像崇拝、アイドル崇拝は禁じられている。

なぜその簡単な信仰が、日本人の民衆にはむずかしいのか。多神教や、自然崇拝・祖先崇拝・偶像崇拝の体系ともよみとれる神道とのかかわりをさぐるべきだ。

2012年7月14日

佐賀の留学助成

2012年06月12日 17時39分

佐賀県が県内中高生の留学費用をサポート
 グローバル化が進む中、佐賀県教育委員会は留学費用の一部を助成する取り組みを開始した。助成対象者となっているのは県内中高生で、3ヶ月以上の留学は50万円、3週間以上3ヶ月未満の研修旅行は10万円を補助。国際社会の中で活躍する人材の育成に力を入れる。

 対象となるのは「全国高校生留学・交流団体連携協議会(高留連)」や「海外留学協議会(JAOS)」の加盟団体や学校等が主催するプログラムに基づく留学や外国への研修旅行や個人留学、外国への研修旅行で、2013年3月31日までに出発するもの。また、在籍する学校長の推薦を受けていること、申請者本人が助成の対象を満たしていることなどが条件となる。

 応募は出発月の前月15日までで、留学については今年12月15日、研修旅行は13年1月15日まで。提出書類の受け付け順に審査・面接を行い、予算に達し次第募集を終了する。

http://english.oricon.co.jp/rank_english/news/2012894/

廃炉の率先

 廃炉を全国に先駆けます、とできるかぎりの大声で公言した方が、茨城県の名誉のためにいい。善は急げという。
 現在の日本国民の平均レベルは、電力価格の高騰による深い生産への影響とか、国際的な空洞化を考慮するまでの知的水準ではない。
しかもどちらかといえば、わざわざ対中関係をこじらせる尖閣諸島へのちょっかいへ12億円超も出すという「ちょっとおつむの足りない成金」のあつまりだから、こういう人達の脳にとって首都圏に原子力発電所が現にあり、しかもそれが日々大変に苦労しながらつくられており、東京や横浜という大都市圏への致命的な供給源になっているなど少しも理解できていない可能性がたかい。

 つまり、東京や横浜の人間、具体的には矢野新一なんかだが、こういう人物を助力してやる必要は皆無だ。どちらかといえばいますぐに電力など止めてやればいい。北関東と東北が連合を組み、食料供給も止めてやればどれほど傲慢きわまりない罪業を東京・横浜がおこなってきたかやっとわかるだろう。
むしろ南関東の俗物連中を手伝えば手伝うほど、茨城県が損害をうけるだけ。一切、かれら東京と横浜への利益供与はやめるべきだ。これは極端なことをいってるみたいにきこえるだろうが、真実である。
 茨城県にとっては東京都市圏がどうなろうと、世界的に見た中国家規模の経済力は維持できる。

 いわゆる大衆向けマスコミをはじめ、東京レベルの低俗な群集はきわめて利己的で、犯罪も平気なうえ、極度に無理解で匿名でのありとあらゆる誹謗中傷罪に馴染んでおり、なんら信義がないので、立地自治体の背負ってきた大きな負担へ感謝の念など全然ない。
ゼロ以下で、逆に助けてきたがわをそしるレベルのマイナスでしかない愚物。これが余剰労働者のあつまりなるものであって、全国でもっとも知的レベルの低いか、もしくは大阪と底をあらそう東京人の平均値なのである。
 大事故があろうと原発ビジネスだからとひらきなおってくるばかりか、場合によっては東京の世論レベルはあまりにおろかすぎて、法人としての東京都の企業でしかありえない日本原子力発電株式会社を責めるのではなく、「製造」したがわや「現場」はたまた「政府」といった第三者へ責任転嫁して逃げ出す、最悪のばあいわけもなくそれら、かれらが恩恵にあずかってきた電力供給のための努力を無意味にくちぎたなく罵ることが容易に予想できる。しかもすさまじくきたない言葉で。なぜなら、現に福島県で起きた直前の例、すぐとなりでおきた際でさえそうだったのだから。
むしろ被災してざまあみろ程度の悪しき脳髄をしていることは、いまの都知事にされているあの人物の人格の程度をみれば一発でわかる。馬鹿の底がないばかりか傲慢きわまりないジャイアニズム性格そのものの東京都だ。すなわち、手伝いするだけ茨城県の損害なのだ。

 矢野新一の普段からの風説流布の態度をみていれば、万一、東京都が搾取するためにつくった東京都の企業である日本原子力発電株式会社が大事故をおこしても、神奈川県という場所の道徳性すなわち知能の平均値さえあまりに愚劣なので、商業上のめさきの損得勘定だけで東京の肩をもって被災地へ責任転嫁することはほぼ100%まちがいない。スネ夫的な性格の横浜だ。
国会議事堂前でデモをしている民衆は、この矢野新一の悪意をどう見るだろう? 東京と横浜という大都会を助けるために、食料供給から電力供給まで何十年もつづけてきた茨城県が好意をなくし、それら一切をとめてしまえば、かれらに致命傷を与えられるのだが。
 痛くも痒くもない、とつよがっている東京と横浜にとって、茨城の助力がどれほどの協調的な下支えを陰に陽に現にしてきたか、おもいしらせるべきだ。風土記から連なる大国の妙なる歴史的にすらそうなのだが。
場合によっては東国の主の座を奪い返してしまえばいい。事故の危険を避けて国土を保全することはすなわち日本のためだから、皇室とも最大限の連携をとるべきだ。
事実、東京都というとんでもない愚かな所は東日本大震災時に、我々茨城県がつくっている電力供給をなんと津波被害や放射能災害にまきこまれているばかりか倒壊した住居のうちにあって水道やガスがとまっており、食べ物やガソリンも尽きるなか、こどもや老人たちをふくめ真冬できわめて寒く、衛生的にも十分とはいえない避難所ぐらしを余儀なくされていたこの被災地から先にとめようとした、極悪人都知事の居場所である。さらには人が死んでいるのにその場のテレビで偶像崇拝の選挙、AKB総選挙がどうちゃらその大被災地へ向かって、我々が日々汗と血を流し死人を出しながら供給してやっている当の電力で愚劣にも放映していた。最悪すぎることに、なんとこれらの、首都である東京にたとえ嫌々ながらも国家のためを想って最大限の協力をしてきた被災地へ「天罰だ」とほざいた悪魔の住処東京都、そんなきちがいじみていて不徳かつ俗悪なところに追々主導権をにぎられているべきなのが天命ではないだろう。

「廃炉をする」と公言し、かつそれを辞める事業施設での再開発をめざす東海村の村長の意見は、これらをかえりみると、洞察されている問題意識から言えばすくなくともすべての原発関係者のなかでもっとも正しい。かれが見抜いているのは単なる経済ということばづらにかくされた、非人間的な搾取と奴隷制度のからくりなのだ。
 簡単にいえば、口裏合わせをしながら詐欺で騙して、日本原子力発電株式会社と東京電力株式会社は立地自治体の人生を無責任に破滅させる権力を買収していたのだ。この権力はいわゆる経済産業省と癒着してきたので、いままで世論の俎上にほとんどのってこなかった。だがもうおそい。
 自分の意見では、前福島県知事の佐藤栄佐久氏はその先見の明に於いてノーベル平和賞を授かるべきだ。日本国内で、経済産業省と東京電力株式会社の癒着をはじめに指摘なさったのは彼だった、といって過言ではない。

 もし廃炉の決断ができなければ、日本原子力発電株式会社という民間企業を潰す方がいい。さもなければ茨城県民が犠牲になるだけだ。

2012年7月13日

地政学仮説

 常陸国、茨城県のあたりでなんらかの有名性へ向かって大きな活動をする傾向が抑制されているとすれば、もしかするとつぎの文化的経緯に関連している可能性がいくらかある。
 専制政治や内部粛清的な歴史が、古代の黒坂命による侵略という伝説(実証性が低いのでおそらく作り話かもしれない。『常陸国風土記』)や佐竹支配、その後の徳川時代から延々とつづいてきたので、現在でも権力迎合的な行動傾向が伝統社会に残存しやすくなっている。
このために、文化の傾向として派手に目立つ行動をとる人物は相対的に少なかったり、仮にそれへちかい行動をとるにせよ、「忠誠的」な場合が多い。

 なぜ西日本の、たとえば幕末にこれとは真逆の行動傾向をもった諸国、山口県、鹿児島県をはじめとして高知県、熊本県、そして大阪府や京都府、愛知県などが徳川慶喜の深い忠誠心をほとんど理解しなかったかもこれで容易にわかる。(同様に、アメリカ文化の中から明治の時代を分析した、ドナルド・キーンの 'Emperor Of Japan: Meiji And His World, 1852-1912' にもこれとおなじ、反抗的な側の肩を飽くまでもつ偏見がみられる。徳川の忠誠へ、陰湿なまでに疑いを向けるくだりにそれがよみとれる。)
彼らの文化では忠誠性を示すよりも、権威や権力へとかく深い意図があろうとなかろうと反抗的であった場合に、名声を得る状況を経たからだろう。

 これらの文化的気質差が、現代社会でもある程度より生きている傾向は否定しきれない。かつ、もしそこに文化のちがう点があるとすれば生き残りの面から、系統のちかい種にとってむしろのぞましいものかもしれない。つまり文化差が「国」の単位にあることそのものは、それらの間に協調性があるかぎりでのぞましい。今日でいえば経済的共通基盤がこれにあたるか。

 また男性にあって、女性より過去の数万年におよぶ淘汰の結果、上下関係による競争的な秩序をつくりやすい傾向が進化論のわくぐみで指摘されている。集団行動での狩り、戦争、資源獲得への競合が、うまれつきの性差にそういう心理的規制をしてきたかもしれない。
 よって総合的に判断して、権力や権威への忠誠が機能すべきところに身を置くことが、茨城県に長く暮らしてきた人達にあう可能性がある。同時に、「優れた指導」で命令を下すことによって、放任状態では目立って来ない潜在的な能力が十分に開花される可能性がある。
これらの特徴はどちらかといえば男性社会的な傾向かもしれない。つまり集団行動がよい成果をあげる場面も多い可能性がある。

追記: ひとことでいうと、茨城県では「お雇い外国人」による成果があがりやすい条件がそろっているのではないだろうか? たとえば鹿島アントラーズはこの成果モデルといえる。優れた指導者をまねくことで、全般的な性能があがる、というeducationalな効用が、ほかの反抗タイプの文化でよりも、忠誠的な茨城県域では高いはずだ。できるかぎり、指導部には超のつく優秀な人材を置く。これが常陸国の潜在能力を十全に発揮させる骨かもしれない。勿論、指導力がきわめて優れていれば国内の人がかしらでもよいわけだが。
 現在までの状況をみていると、水戸藩の歴史からこのかしらの最上位には天皇陛下が当たっている。問題はそのあいだにどういう指導者を置くかだろう。これをといなおすちからをふくめて、自分の経験上、戦勝国であってかつ利害に鋭敏な英米系の人材を活用する、ということが日本人の勤勉な特性を活かすのにも重要な部分かとおもう。できるだけ英米系の人材を、茨城県内のひとびとがやとわれているさまざまな企業や組織の司令部に入れることができればいい。これで相当状況が改良されるとおもう。
 特にちかごろ命題みたいになっている魅力度、とかいう矢野新一が流してる風説への対策だが、英米系の、いわゆるアングロ・サクソンのアート・コンサルタント的な人物を採用して全面的な指導力を発揮させれば数年で東京や横浜を抜くのではないか? 自分の個人的な感じだと、ロンドンみたいな都市に、立地の似ている水戸をちかづけていこうとすればできそうなので、また「忠誠」という共通の価値観をもっているイギリス人のそういうひとをもちいればいいのかもしれない。たとえばダミアン・ハーストやバンクシーとか先端的なアーティストを県が直接雇って、県内のさまざまな装飾や環境づくりをさせる。或いは妹島氏を広域都市計画や個々の大規模公共施設設計の基本的な監査役; マスターアーキテクトにする。

2012年7月11日

否定すべき集団主義教育と肯定すべき習熟度別学習

 滋賀県の大津中学校のニュースをやってるけど、自分の経験上、義務教育レベルの公立学校は行かない方がいいと思う。いやだとおもったらすぐやめて、自宅で自力で勉学を続けるか、学習塾に行くか、私立に籍を置く、最善のときは家庭教師を設ける、このどれかだろう。
 古典的には有閑貴族が師弟をあつめて学校にしたパブリックスクールの模倣なのかもしれないが、日本のバージョンは軍隊教育的な集団主義のうえ、非常に質が低いというのは疑うべくもないし、統計的に不景気の際、貧困層の子が憂さ晴らしに弱いものいじめする、という法則がある様だ。憲法に於いてさえ、といっても憲法には処罰規定はないから理想をうたう空文ともいえるわけだが、そこでの義務というのは親が子供へ普通の教養レベルをあたえる、という意味であって拷問するという意味でもないし、集団主義に適応させろというわけでもかならずしもないはずだ。死ぬくらいなら単純に行かない方がいいし、苦しいだけなら行かなくていい。

 すべきことは最低でも「読み書きや計算ができる程度の教養」をつけておくことだ。これがないとおそらくどんな職業もできず、将来きわめてこまるからだ。これができれば、無理そうならほかは省略していいともいえる。
 寺子屋式、公文式に習熟度別の学習をさせられないとしたら、その公立学校のつくりかたが粗雑だからであって、子に責任はない。遺伝子や生育環境や個性にちがいがあるかぎり、習熟度は子供すべてがかならずわかれているのだから。そういう習熟度に応じた学習を、子がもっともしやすい環境でおこなわせることが、親の義務なのだ。

 学校の中でどんな校内犯罪が現におこなわれているかへ親が飽くまでも無知だった場合、子にできるかぎり説得する、警察へ110番する(電話で110とかければよい)、それでも駄目なら親戚をたよって家出してでも行かないほかないとおもう。親に自殺するくらいなら行かないと説得して、理解のない親だった場合はそのことさえ警察に相談してしまうべきだ。これは親による子への自殺教唆罪ともうけとれるから、親が刑事罰の対象になるかもしれないから。
 現時点では校内犯罪を裁く、という機運がないかぎり、子供がみえないところでおこなっている犯罪はおおやけになっていない。こどもあつかいして済ませてしまおうとしているのは単に親が無知なだけだ。なんでもいいから、成人する20歳になるまではかくしごとをせずに親におしえてしまう、暴露してしまう方がいい。保護者の義務というものがそこにはあるのだから。

文部科学省の相談窓口はここから地域の教育委員会にかかる様になっているらしい。
24時間いじめ相談ダイヤル 0570-0-78310 (なやみ言おう)

 教育委員会も閉じた組織の可能性が高いので、場合によっては国際機関にまで相談すべきだとおもう。
 国連の末端にあるユニセフの学校相談窓口などへ相談すれば、もしかすると日本語だけでも外部のひとに情報がつたわるかもしれない。
学校事業部
メール se-jcu@unicef.or.jp
TEL:03-5789-2014
(受付時間:9:00~17:00土日祝日休)

ユニセフ本体へのEmail
http://www.unicef.org/about/contact_contactusform.php へ
でも、かりに日本語で書いたとしても、国連のなかのだれかに情報がつたわる可能性がある。子供の権利条約という日本が批准している条約のなかには、第37条に「拷問の禁止」がのっている。
 締結国としては校内での暴行罪や傷害罪、名誉毀損罪や誹謗中傷罪を放置しているとしたら、その学校長ならびに直属の教員と関係各者と加害生徒と加害生徒保護者とが法人格として刑事罰を受けねばならない。こういう原則を裁判で適用すると、今度は加害隠しがおこなわれる確率が高いので、重要なのは証拠をあつめてメディアを通じてきちんとおおやけにしていくことだ。犯罪の隠蔽そのものが悪なのだ。
 ネットを介した同様の犯罪にもゼロ耐性でこたえていくしかない。放っておくほど犯罪者の側は増長するからだ。少しでも犯行があれば厳罰をくわえる覚悟がいる。

 日本の組織は「内向きの輪」いわゆる和というイデオロギーで、すさまじい悪さを隠蔽するしくみになっている。すべて、国連に相談、テレビ局や新聞社でもいいが、できるかぎり開かれた外へとおおやけに発言をしつづけることしかこれを緩和する方法はない。

2012年7月8日

常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」

http://rekishinosato.com/essay2_1.htm 
https://web.archive.org/save/http://rekishinosato.com/essay2_1.htm より

常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」特集に誕生の経緯の記載がありましたので紹介します。
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明治2年6月の版籍奉還の時点で茨城県域は14藩があり、すべて藩主が藩の知事に任命された。14藩は水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生の各藩であった。この中で谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わって明治4年7月14日の廃藩置県の時は15藩が存続していた。中央政府は政府の権力を強化するために、薩摩、長州、土佐の3藩の武力を後ろ盾に「廃藩置県」の詔書を出し、各藩は抵抗せずにこれを受け入れた。茨城県域の15藩は、この廃藩置県でそのまま15の県(正確には若森県(旧天領地)を含め16県)となった。その年の11月13日にこれらは3県に大別された。すなわち茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)である。県庁はそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれた。この時はじめて「茨城」という名をもつ県が誕生したのである。(今でも11月13日が県民の日である)。明治6年7月に、茨城・新治の両県を統合して新たに「石岡県」を設置しようとの案が政府内で検討されたが実現はしなかった。明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入され、逆に千葉県が管轄していた一部の地域が茨城県に編入されて現在の茨城県域が形作られた。結果的にみて茨城県は旧水戸藩を中心にその他の藩を吸収してまとまったと言える。茨城県の県名「茨城」は水戸が茨城郡に属していたことからそのまま県名になったものとされるが、茨城の語源は、奈良時代の「常陸風土記」の冒頭に「古は常陸とはいわず、ただ新治・筑波・茨城・那珂・久慈・多珂の国といった」というような意味のことが書かれている。この「茨城」の読みは「うばらき」とするのが研究者の間では一般的になっている・・・(中略)・・・この後、風土記に記されている二つの説を紹介している。ひとつは黒坂命(くろさかのみこと)が服従しない者たちを悪賊とし、外に出た時をねらって、茨棘(うばら)を住居である穴ぐらにしかけて馬で追いたて穴に戻ったかれらが茨棘のトゲに傷つき死んでしまったもの。もう一つは茨(うばら)で城を造ったというものである。これは先に記載した内容と同じである。藝文では「茨城」の言葉の由来に定説はないとされ、さらに次のように記載されている。「風土記の二つの説話には、現代の地方立脚の見地からすれば受け入れがたいものがある。黒板命が征伐したのは、大和朝廷にとっては悪賊であったが、地方の側からすれば土着の先住民である。まさに中央史観、一方的な見方だが、風土記の成立事情を考えれば、むべなるかなと言える。・・・何しろ、中央集権化を進める明治政府が、地方支配をより強固なものにするために新たに設けた行政区画の名称である。それは中央集権化の象徴として政府関係者があえて用いた名称であったかもしれない。」また水戸は県庁はとったが「水戸県」の名称の実現はできなかった。
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としている。(2007.12.1追記)

2012年7月7日

茨城の名称と北茨城の向き

 欠点を解消する、という意味で茨城県自体が名称を変える、のが一つの決定的な改良点かもしれない。
 茨城は奈良地方の豪族、いまの皇室の祖先(くにさかのみこと、黒坂命、とされる)が一方的に侵略して土賊を滅ぼしたという『常陸国風土記』にもとづく名称であり、現代水準でみれば皇族の侵略的犯罪行為への言及という意味では忠誠心と反抗心という二重の意味合いをもつ。
明治時代をとおして、やがて茨城町へ県庁を移した際に敷衍したが、茨城という名称そのものを否定してしまう方が印象論としては好都合だったともいえる。『常陽藝文』2007年12月号「茨城県誕生」特集に、帝国主義に傾いた明治時代の中央政府が主導した名称付けらしい、とある(*1)。なので、現地からの目線、いわゆる専守防衛(当時のいいかたでいえば尊皇攘夷)の側の主義を否定しようとした可能性があると私はおもう。
 明治以前、茨城という名前ではなく、単純に常陸国水戸藩、あとはそれぞれ個別のなまえで呼ばれていたわけだ。

 名称変更は多大な経費がかかる。たかが矢野新一というひとりの風説流布者からの、情報テロにさからうために県名さえ変えるというのは合理的かどうかわからない。慎重に考える必要がある。
いわき市が平(たいら)という駅名をいわき駅に変える、あるいは磐城という表記をひらがなにした際にどれだけの経費がかかったかを参考にできる。看板や形式的文章一切も変えねばならない。
 だが、大阪がさわいでいるその名義変えの時期に一緒にやってしまうと、現地のみならず中央からみて好都合という場合もしばしばあるかもわからない。

 そもそも、茨城町へなぜ水戸から県庁が移されたのか? 県政史にくわしい方ならわかるとおもうが、自分はまだしらない。
 そこで、もしこの過程へたずさわった公務員らに深い考えが無意識にでもあればだが、二重の意味合いをもつ、なかば「新官軍」なるものへの皮肉もはいっているといえる「茨城」の名称地を知的にえらんだ可能性もまったくなくはない。事実、古来の皇族には容易に理解できる話だが、日本史や小説レベルでも常陸国の縁起によっている尊王心そのものがshogunateの絶対主義的な側面そのものと誤解されてもっと俗説にまみれているわけで、この次元の理解ができるひとは、それなりに水戸学系の大日本史をはじめとして朱子学を日本化した哲学・形而上学が分かるひとたちだけだろうけど。

 皇室はさすがに、大国の歴史的伝統もあり、水戸藩に於ける勤皇の証明もあり、で「茨城」という古来の皮肉もあり、そういう茨城県という名をそう軽視されないだろうけど、矢野新一程度の江戸っ子あがりは普通にしがちだ、と経験上も感じる。江戸という新興商業地へ大阪から家康に誘導された商人らの末裔は、きわめて表層の見栄しかみないうえ、これは『人国記』にも記載されてるが武蔵一帯に驕りの気象があるので。江戸時代さえこれのゆえに副将軍なる伝説をふくむ、質実の続柄がこっちにまわってきたわけだ。
 この迷惑をこうむるかぎりで、茨城県は、もしくは北茨城市もそうだが、茨城という名称をさけてふたたび、『常陸国風土記』からきている常陸という自分たちでつけたよい意味をもつ名前に返すか、別の名称、例えば水戸あるいは企業であるHitachiの知名度をもちいるために水戸県かひたち県にしてしまうかだとおもわれる。
 名は体をあらわす、なることわざもあるが、水戸県とすると全体がやはりこれまでの水戸藩の歴史をせおうことになる。これはこれで剛毅な姿勢で、古くから筋の通った一貫した印象もあり、たとえば東京や横浜といった新興の名義よりむしろ格好はいいとおもうが、佐竹時代との干渉を避ける為によりあたりさわりがない方でいえばひたち県、となるかもしれない。
すくなくとも、Hitachiという企業は現時点で国内最大の重工業系の機械製造業者だし、今後はおそらくさらに拡大するだろうから、ひたち県という名前にすると国際的知名度は最初から非常に高いだろう。客観視して、水戸よりむしろHitachiという名前の方が一般的知名度は世界的に高いとおもわざるをえない。

 常陸県日立市かひたち県日立市か、こういう名称が起きえると、多珂とよばれてきた県北一帯の高台の一部を日立と命名した水戸黄門は予想しなかったかもしれない。しかし、わかりやすさと印象からいうと、茨城県というよりは常陸県のほうがやわらかい。
 もうひとつの策とかんがられるのは、茨城のままでも、ひらがな表記を採用することかもしれない。いばらはBrierというのが直訳になるが、のばらのことととらえていいだろう。とげのついた野薔薇を強調して古語でうばらとかいばら、と呼ぶ。いばらき、をひらがな表記するとbrierの意味合いがより緩和され、ばらつまりroseの印象にちかづく可能性がある。
バラは若者に一番人気の花という。実際、真紅の場合は特に若々しい印象がある花。
 しかし、いばらき、という命名の根幹がいばらによる騙し討ち、なのでバラをつかうとしても、そのままで印象をよくするのはむずかしいかも。

 自分の総合的意見としては、県花がバラでもなんら問題はないとおもうが、茨城という名称をきっぱりすてて、ゆたかな水辺で衣が濡れること(ひたし)とかひたすら陸の道なので、という語源によりちかい、しかも常陸国風土記の成立からいっておおむかしの地域の民がみずからえらんだ「ひたち」の名称を採用しなおす方が合理的におもえる。
 県民アンケートをとるというのも参考になるかもしれない。水戸黄門ご自身は、ひたちを日立、つまりorient(日の出ずるところ)の意味で再解釈されたのだろうけど。実際、この地域でくらしていて日の出の清心な印象がきわめてつよい。清らかな朝というのが日々存在する。
太平洋からのぼるので、真新しい太陽という感じが強く心に刻まれる。これは陸の方から朝になってくる武蔵国や相模国ではえられない心象らしい。太平洋側にくらしている、ほかの青森、岩手、宮城、福島、千葉にももしかすると共通の感覚かもしれないが。

 都道府県のわくぐみをぶちこわして、より広域な自治体に再編する、という意図は大阪がああいう行動をしだして少し下火になっているが、もしかするとそういううごきの際に期を見計らって「ひたち」という名義にかえすと、そもそも名前しかきいたことがないというひとが過半数でしかない印象論も、たったそれだけで改善される可能性がたかい。
 水戸県にする、という案もあるのはたしかだが、水戸の希少性がへってしまう部分も出るかもしれない。同様の理論は、宮城と仙台、神奈川と横浜、兵庫と神戸のことにもあてはまる。つまり、地域の文化的な特別さをともなうところでは特殊な名称をもっているのも個性をつよめる方策でありえるかもしれない。

・・・

 さて単純に県名をまねて最北端だから北茨城市になったこの領域については、きたひたち、ひたちきた、どちらかに変えるか、『新人国記』の地図にどうやら名称のある古い名前の足洗に変えるか、中心街の磯原という名前を有名にする方針でいくか、どれかだろう。あるいは、市街の構成から中心地とはいえないが、地味にいつうら、五浦という名前も岡倉と関連して意味をもっているかもしれない。
 自分の感じからいうと、将来、日立市のなかに北茨城市の部分まで編入されていく方が広域行政として合理的だと見ている。この日立市、高萩市、北茨城市は一定の県北独特の共通性が、立地条件からかなりある様におもえる。事実、市区町村令までは、常陸多賀や山脈に名をのこしている多珂(たが・たか)という名称でおおまかにくくられていた、と考えていいだろう。高萩、たかはぎの名称はもしかすると、多珂を直系でひいているのではないか。
 この三つの市の個性としては北茨城市がもっとも素朴で、日立市がもっとも都会化されており、高萩市は中間的なのだろうけど、文化面ではきまじめさが似通っている。日立市のひとのなかには出稼ぎ労働者が多いこともあるだろうが依存的なほど東京方面だけを見ている人が多い様だが、文化のつくりかたとして、北茨城市はむしろ東京ではありえない方向性をあえてさぐってきているとおもえてならない。北茨城論みたいなはなしだが、実際、先人はやみくもな都会化からの避難地や隠遁の場所として、大都会ではありえない安全地帯としてこの一帯へ再帰した様な形跡がある。
 それは住んでるひと、訪れたひとも関東圏の極北だけあってわからなくはないとおもうけど。何度かきている証拠のある皇族さえ、こられたかたには感覚的にわかるんじゃないだろうか。しかも、有名じゃない分だけまったくもって俗化していない。
軽井沢とか那須とか、観光客や別荘が多い北関東圏のそういう静養地系の場所ともそこがちがう。正直なところ、葉山や大磯、鎌倉なんか典型だが皇族や政治家が御用邸をもうけると周囲は俗化してしまう形跡すらある。
要するに、「僻地のよさ」を求めてここにきたり、定着するひとがかつてから地味にいるのだ。そしてそれは大都会志向、いわば中央主義とはかなり差がある心地だ。

 常陸国の最北端には独特の素晴らしいよさ、特に文化をふくむ自然環境の繊細な美があるのだが、それは中央主義や大都会志向とはきわめてちがったよさであり、美しさなのでそれがわかる人はすくない。茨城という遠目にかならずしも印象いいとはおもえない名称をもってる方が、意図的に人を遠ざける結果内々そのよさが庇護される、という忌避性の効果も鑑みねばならない。そしてそれは訪れたり過ごしたり暮らしてみたりしたことのない人には決してわからない種類のよさ、遠目には永遠に理解できないよさなのだ。
 沖縄や北海道、あるいは京都、横浜もしくは東京という観光地化をすすめた自治体は、いま自分が書き記した種類の加護された審美性からどんどんとはなれていくだろう。観光客でよごされるという方向性は、自分のおもう私たちの地域の本来のよさを活かす道ではないかもしれない。
 さっきもだした軽井沢みたいに別荘地化するという方向性もあるにはあるが、それはそれで成金が休暇ではした金を落とすといった俗物根性の到来も意味しかねない面をともなう。かつ、いわきへの交通量からいって秘境というほど山奥ではない。
 結局、心情的に日立、水戸、あるいは磐城に感覚的な近さをもっているが、北茨城市のあたりは自分がおもうには独自の道を行くしかない。それはさっきかいた、よい意味での「僻地のよさ」にあるとおもう。有名じゃない方がいい世界もあるわけ。このあたりのことわりは実際、文化行政に関心ある、一定より教育されたひとは市内でも共感できなくはない部分だとおもうけど。教育面でも理想化された素質のよさ、country gent化、素朴の純粋性みたいなもの、ある面ではかばわれた高潔さ高級性が結晶されていけばいい。それは環境づくりに関しても同じで、名称の方向性についてもそれをかえりみればいい。大都市性にくらべれば、いやおうなくそうするしかないこともある。

一切、我々は大都会、特に東京圏にはおもねらない方がいい。完全に東京ではよい意味でありえない文化をつくりだすべきだ。
我々からすれば、東京は大衆化されていて凡庸なうえもっとも堕落した都市であって、完璧に反面教育にしかならないし、しない方がいい。そしてこの姿勢でいるかぎり、商業上のつながりもあってもっと東京へ実質親和的な、仙台都市圏ともちがう世界が、いまの北茨城市圏ではかたちづくられるはずだ。
 もともと西日本の世界とは文化の根本原理がちがう、というのはよく感じることだ。
我々のもっている種類のきまじめさ、あるいはキリスト教的な意味での純潔性や安定した家庭環境が前提にある社会条件というのは、東海道の影響できわめて意識が商業化した東京や横浜もそうだが、自分のしるかぎり西日本にはほぼ皆無であって、防衛者としての職分が実質空位化してきた皇室の系譜が土着した時代の長さが影響あったのだろうが、北陸や中国地方にまで甚だしい文化的一帯性がいわゆる京阪神の領域からつながっている。
しかし、われわれは大変とおい僻地にあったので、この文化的影響はほとんど皆無にちかしい。そしてそれは近代以後はまったく有利かつ有徳な条件なのだ。

 われわれは既存のアジア地域の模倣の染み込みが足りない分、ふりかえりもせず、ヨーロッパや北欧、そして米英の優良策をみていればいい。これが自分の意見だ。
それによってこれまでの汎アジア的な西日本文明とはまた趣味のことなった、独創性をわれわれは発揮できることになるだろう。それでもわれわれの居場所は完全に東アジアではなくなったり、人種的にさえ全体数がまったくアジアの人ではなくなったりもしないはずだが、すくなくとも西洋や米英の世界とそれほど致命的にちがいがない、個人主義によりちかい文明が築けるはずだ。そしてこの姿勢であるかぎり、異系配偶という生物の強壮につながる人種的な多重性を尊重しない、誤ったnativismや軽々しい暴力にたよった移民排斥の排外思想とも別れられるだろう。

 この脱関西文化の意図は、忌避性のある名義は逆説的に警戒色に似てもいて威嚇的効果もともなう可能性があるので、その利点だけを既存の日本人社会で活かすべきであり、単位時間あたりの婚姻の頻度を抑える結果としての常態的人口密度の低さをむしろ文化的高貴化に向けるべき、かつ地理的条件の袋小路さを既存の国内社会からの交通量より新規な親善外交にあてる方向性があたまがいいということだ。
 いわゆる開放貿易への適応とも密接に関連している。なぜなら、輸出國となるだけの条件は農業生産性のたかさにはある。農作物すなわち食糧を自前でまかなえるほどエンゲル係数はひくまり単位生産性は高まりえるのであって、勤労によって他の生産物の輸出にとっても有利となるはずだ。これからは消費地としての東京を見ず、直接海外との通商をすすめていけばいい。

 特に中国や朝鮮との渡来文化を摂取してきた西日本人からは後進的に見える、アジア社会の悪い面が深く染み込んでいない、というわれわれ僻地の条件は大きくみればより先進的なヨーロッパやアメリカの文化を取り込むのに刷り込みがない分だけ確実に、偏見のないだけよいところだった。だからうしろをふりかえらず、イギリスやアメリカやフランスという世界大戦の先勝国を注視し、深くつきあい、こちらからも文物をふくめて輸出すればまたそのよい点をとりいれて自分のものにしていけばいい。
 財政力や経済規模からいうと、普通に現状維持でいければそこらの中小国家かそれより大きい程度の自治体なのが茨城県という単位であり、この北端としてなすべきことは前例のおおい芸術でも美術でもいいが、文化面で最上位にある人をできるかぎり沢山かき集めてはなさないことだろう。
 われわれは経済力という面から茨城県そのもの、ひたちのくにへ貢献するほどの人口のおおさとはちょっといえないし、つくば付近の県南の方がどんどん都内からの移住者があるだろうからその面では期待できるとおもう。
単に、地域としてわれわれにできそうなのは、東京ではない種類の文化的な優秀性を全般的に発揮し、これは結局人材の集積がすべてだとおもうが、一石を投じるばかりか首都圏にあって東京より茨城がわのほうが文化的に高貴性をもっている事実をさらに構築していくことだ。実際、大衆文化に流されてしまう商業地が貴族さとか希少性をもつことはむずかしいので、意図して高貴化をめざすだけで十分為しえる話になるだろう。

『日本美術発祥の地』ということばがある。これはいまの市長がいってたが、いいすぎでもなんでもなく、まさにそういうことだ。こういう決定力のある主張を、東京みたいな陸でなしのあつまりは放っておいてばんばん自分らだけで世界中へ宣伝して自慢していいまくるべきだ。
岡倉天心という人物が日本美術院をつくって定着したので実質、ここが日本美術なる考え方の発祥の地というのがまったく哲学的にあるいは歴史的に正しい。それまでは対外的な独創性を主張しない、大和絵とか唐絵とかそういう内向きの言い方でしかなかった。体系的に理解や分類されてもおらず、岡倉の『日本美術史』でははじめて整然ととらえられる様になった。
西洋の美術思潮に対して日本美術の独自性を主張する、というアイデアはたしかに、まちがいなく、あのいつうらの六角堂で岡倉天心がたったひとりで考えついたらしきもの。そしてそれはおもいっきり西洋美術のまねをしだした明治の中央政府とは全然ちがう向きだった。これゆえに、明治画壇でも概念的にも日本美術院所属組の人達の仕事は希少さや高貴さを保っているといえる。個人主義の文化とはこういうおはなしをいうのだとおもう。
 よい意味で変わり者や変わり種に寛容である文化は、つまり他人の害のない行動は放っておいてくれる文化はそれだけ独創性をつくりだしやすくなる。
岡倉天心を中央美術界から排斥した明治政府の集団主義は、北茨城市にまでは力をおよばさないでほしいとおもう。ほうっておいてくれればわれわれはうまくやれるはずなのだ。ロンドン市庁舎みたいに後代に設計図どおり再建しただけで日本美術発祥の地の文化財登録を解除したんだからどんな中央文化かしらんが、もうできたらほうっておいてください。
わざわざ、愛想わるいなまえ名乗ってるくらいなんだからもう二度とこないでくださいね。一見さんすらこないでください。

―――
��1
http://rekishinosato.com/essay2_1.htm より引用
��~~以下
 常陽藝文2007年12月号「茨城県誕生」特集に誕生の経緯の記載がありましたので紹介します。-明治2年6月の版籍奉還の時点で茨城県域は14藩があり、すべて藩主が藩の知事に任命された。14藩は水戸・土浦・笠間・古河・松岡・石岡・下館・結城・谷田部・志筑・牛久・宍戸・下妻・麻生の各藩であった。この中で谷田部が消え松川・龍崎の2藩が加わって明治4年7月14日の廃藩置県の時は15藩が存続していた。中央政府は政府の権力を強化するために、薩摩、長州、土佐の3藩の武力を後ろ盾に「廃藩置県」の詔書を出し、各藩は抵抗せずにこれを受け入れた。茨城県域の15藩は、この廃藩置県でそのまま15の県(正確には若森県(旧天領地)を含め16県)となった。その年の11月13日にこれらは3県に大別された。すなわち茨城県(県北・県央)、新治県(県南・鹿行)、印旛県(県西)である。県庁はそれぞれ水戸・土浦・千葉県印旛郡に置かれた。この時はじめて「茨城」という名をもつ県が誕生したのである。(今でも11月13日が県民の日である)。明治6年7月に、茨城・新治の両県を統合して新たに「石岡県」を設置しようとの案が政府内で検討されたが実現はしなかった。明治8年5月7日に新治県が廃止され、茨城県と千葉県に分割編入され、逆に千葉県が管轄していた一部の地域が茨城県に編入されて現在の茨城県域が形作られた。結果的にみて茨城県は旧水戸藩を中心にその他の藩を吸収してまとまったと言える。茨城県の県名「茨城」は水戸が茨城郡に属していたことからそのまま県名になったものとされるが、茨城の語源は、奈良時代の「常陸風土記」の冒頭に「古は常陸とはいわず、ただ新治・筑波・茨城・那珂・久慈・多珂の国といった」というような意味のことが書かれている。この「茨城」の読みは「うばらき」とするのが研究者の間では一般的になっている・・・(中略)・・・この後、風土記に記されている二つの説を紹介している。ひとつは黒坂命(くろさかのみこと)が服従しない者たちを悪賊とし、外に出た時をねらって、茨棘(うばら)を住居である穴ぐらにしかけて馬で追いたて穴に戻ったかれらが茨棘のトゲに傷つき死んでしまったもの。もう一つは茨(うばら)で城を造ったというものである。これは先に記載した内容と同じである。藝文では「茨城」の言葉の由来に定説はないとされ、さらに次のように記載されている。「風土記の二つの説話には、現代の地方立脚の見地からすれば受け入れがたいものがある。黒板命が征伐したのは、大和朝廷にとっては悪賊であったが、地方の側からすれば土着の先住民である。まさに中央史観、一方的な見方だが、風土記の成立事情を考えれば、むべなるかなと言える。・・・何しろ、中央集権化を進める明治政府が、地方支配をより強固なものにするために新たに設けた行政区画の名称である。それは中央集権化の象徴として政府関係者があえて用いた名称であったかもしれない。」また水戸は県庁はとったが「水戸県」の名称の実現はできなかった-としている。(2007.12.1追記)
��~~以上