2019年12月26日

交通事故をへらした効果実証済みの自転車道の絵文字

以下のよう路面の絵文字を整備することで、大幅に京都市で交通事故がへったらしい。
 道路の実延長が日本最大規模で、交通事故も決して少なくないわが県は、全面で大いにまねるべきではないか?
 自転車の走る方向・路肩を指示用 絵文字

右折用バイクボックスの絵文字


ほか、駐輪場も参考になる。
 24時間利用可能。最初の1時間が無料で、5時間100円、1日駐めても200円。傘差し運転予防のため雨合羽ひとつ100円の自販機あり。子乗せ電動アシスト自転車用に、平置きの部分も用意した、清潔で車間に余裕のある設計らしい。

2019年12月16日

魅力度についての最終結論と関連する茨城県政の方向づけ

いわゆる魅力度問題について、これまでえられたあらゆる我々県民の知見をまとめ、私自身がこのブログ等で記述したあらゆる分析を加えた最終結論はつぎのものだ。

 結論から書くと、わが県民にとって魅力度ネタは、日本人を主とするわが県をとりまく人々の「愚かさ」一般の目安になる、検疫装置(PCでいうウィルスソフト的もの)として機能する。ドラゴンボールでいえばスカウターみたいなもので、相手の一般知能因子を、大まかにはかれる。そして現時点まで10年ほどのあらゆる状況解析結果から、それ以外どんな意味もない。以下詳しく説明する。

 この問題は一言でいえば差別問題であり、人々のうち、特に日本人一般のメディアバイアス(媒体偏見)での、情報の操作され易さを示す。簡単にいえばテレビを主としたマスメディアで、主に観光地としての印象を植えつけられがちな人達は、宣伝などで現実の有様にかかわらず或る偏見をもちだし、自らその反証を怠ってこじらせると差別(ひいきも差別の一種だ)をもちはじめる。
 ゴードンホドソンらの論文"Bright Minds and Dark Attitudes"で示されている一知見によると、差別し易さは一般知能(大まかにIQ)の低さと関連している。いわば一般知能因子の働きが低いほど、みずから批判的思考できず簡単に情報操作されがちなわけだ。
 すなわち魅力度は主観的で、現に県内外を知っている側には明らかだが当然のことながらいかなる地域でも、他県市外より優れた美質も沢山みつけられる。いいかえればこの宇宙にはどの場所でも魅力があるわけで、それを相対評価でゼロサムゲーム的な順位にするのは、ある集団の一般通念に関する思想的なプロパガンダなわけである。これが差別の生じるしくみなのだが、この場合、一般知能が低いほど魅力度問題に固執したり、特に差別的評価の方をそのまま鵜呑みにしている傾向があるのは当然ともいえる。彼らの脳がマスメディアの情報操作、或いは集団的な主観の偏向でのっとられている証拠だからだ。

 こうしてさきにだした結論をさらにおしすすめると、茨城県という銘柄、ブランドを前面に押し出すと、簡単に愚か者をそうでない者から見分けられる。少なくとも日本国内では都内マスメディアの全国報道等で、テレビでも頻繁に流されることがあったのでその種の差別意識をそのまま、鵜呑みにしている層が相当数いる。誰も差別してくる相手と仲良くつきあったりしづらいだろう。裏を返せば、自動的にわが県民と交流が進むのは、国内でよりIQが高い人々、または一般知能が高い人々になるという算段である。
 IQや一般知能は同年代に対する偏差値だから、単に精神年齢が相対的に高い人々という 意味しかないにせよ、最近の科学によればその傾向は同時に、社会的成功とか金持ちになりやすさ(子供の時点で学業成績がよかった大人)長寿(高IQは21%長生き)性的魅力(もてやすさ。但しIQ120くらいがピーク)などとも一般に正の相関性があるとされている。無論IQも万能ではなく現実の成功には性格(誠実性、開放性など)の方が重要とされていたり(但し、最近では感情知能と能力のパフォーマンスには0.7%くらいの関係しかないが、認知能力には14.2%の関係があるとの見解もある現論文14ページ))、そもそも一般知能やIQの基本モデルを考えたスピアマン自身がs因子による特殊能力もあるとしていたので、一般知能またはIQが高い人達が全能ではあたりまえだがまったくないし、定義からいっても同年代の人々に比べより複数分野で頭の働きが大人びているくらいの代物だが、それでも魅力度という田中章雄氏ことブランド総合研究所が特定会員ぐるみである種捏造してきた集団浅慮的な主観バイアス・トラップによる差別意識の検疫は、茨城県にデフォルトで偏見をもつか次第で、或る程度、低IQや低い一般知能、すなわち一般的にいって愚かといえる人々をふるい落とすことができる。
 この理由が同時に、もともと孔子が「人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」といっていた飛耳長目式の情報非対称性の徳でもあって、以前はこのブログでステルス性と表現していたある有利な状態の正体である。現実にくらす県民からすると、たしかにしばしば、又はかなり頻繁に差別してくる県外人に会って面食らうばかりか、県内ですら自虐的差別意識を公然と述べている「スティグマ」状態の、精神的に危うい人達もみかける。後者はときに精神科の助けを得る必要があるかもしれないが(他のスティグマと一緒で、その汚名とか自尊心低下は、根本的には自分の反復思考による鬱的症状なので、別の事で差別されてきた人達と同じで、自己効力感をえる成功体験の積み重ねとか、昇華や向けかえで自尊心を回復するなり、思念の中でその反復をみずから断ち切る必要がある)、すくなくとも、差別意識や偏見に脳を支配されやすい、一般的にいって頭が悪い人達を簡単にみわけられるという便利があるのは、客観的な事実なのである。それで私は寧ろ情報非対称性からきたステルス性、今回の論旨でいう「差別主義者の検疫」を利用すべきだと考える。ことさら県民が意識しなくとも、県内外での交流を抽出すれば、自動的により高い一般知能、高IQの人々、いいかえれば同年代に比べすこしより複数分野にわたる頭の働きがいい人達、大人な人達と、茨城県の相性は近づいていっていることになるだろう。

 ところで大井川知事はこの問題への対処で2つの側面がある。一つはイベントを企画していたよう、イバラッパー式「最下位もう一回」ネタ化で、負の名声を無名に勝る宣伝効果としてただのり利用しようという、いわばジョブス的な方針。もう一つは正攻法で魅力度向上にとりくむという、県内外の人達の主観的印象をぬりかえる方針。
 少なくともこのブログでの上記分析は、前者の方針について半分は肯定できるにせよ、わざわざ大騒ぎしなくとも自動で高一般知能との親近(低一般知能との離反)化がおこなわれる状況であるかぎり、悪乗りに税や労力を浪費せずせずとも完全無視で構わないのではないかともいえるが、このあたりは彼の情報企業で培った経営感覚にまかせるべきかもしれない。そもそも東京圏の全国報道マスコミは炎上商法と同じで、特定自治体を公然と差別し、ネガティブバイアスで視聴者をあおって閲覧数、すなわち広告売上を稼ぎたいだけだから、単なる嗜虐快楽目的の「荒らしを構うのも荒らし」式に、完全無視が本来、彼らに点数を稼がせない為にも最善なのである。無視すれば嗜虐快楽がえられないばかりか炎上商売にならないので、勿論これは単に視聴率稼ぎマスコミだけでなくアジテーター本体の田中章雄氏やブランド総研自体にもあてはまるが、別自治体に矛先をむけかえざるをえない。
 後者、すなわち魅力度向上策についてだが(個別案件については結果がでていないのでどちらともはっきりいえないため以下で少々詳しく批評していく)、本来の都市文化論にすれば、これは単に観光客文化に属する、おもに(特定少数であるブランド総研会員の)主観のぬりかえ課題である。なぜなら県民自身の生活満足度や自県への誇りは、県民調査でわかっているよう恒常的に高いのだから(特定少数であるブランド総研会員でない、より一般世論なのがポイント)。すなわち特定少数の会員らをまず総研側にといあわせるかなんらかの仕方で突き止めて後、その人々へ集中して以下の試みをする必要がある。或る論文によると次の3つがポイントらしい。
1.茨城へ都内マスメディアらが着せてきた汚名の観点を、たとえ否定するためであってもこちらから一切くりかえしてはいけない(誤解を解こうと少しでもその種の差別的偏見を反復すると却って強化される。あらぬ汚名は相手のものなので、完全無視しなければならない)
2.茨城の魅力をできるだけ微細にうがって、相手の未知な新情報として植えつけるのに啓蒙効果がある
3.さらに茨城の魅力について相手自身がみずから進んで見つけ、もっと調べるよう促す(これによってこれまで都内マスコミから洗脳されていた思い込み、又はおのれの無知を反証しはじめ、みずからの差別や先入観に懐疑をもちはじめる)
ただブランド総研会員を除く一般人への主観のぬりかえまで含めると、フェイクニュースの強固なバイアスのため先ず国内民については困難をきわめるので、日本語情報をうけとっていない海外民からが合理的かつ効率的になるだろう。

 個別の魅力度向上策についていえば、例えば烈公の愛民哲学を伝統改造してまで偕楽園本園を県外有料化することは茨城新聞によれば来園者アンケート的には賛成多数だったようだが、本来の愛民観が「朝な夕な飯食う毎に忘れじな恵まぬ民に恵まるる身は」式の農本的公僕意識だったとすると、理屈として茨城県庁も地方交付税交付自治体なんだから、実際は全国民から恵まれているともいえ、まあ筋が通ってないともいえる。でも民衆自身がそれに自覚ないどころか寧ろ賛意だからまあいいか、商売だし一石二鳥というのが大井川流なんでしょうが、いわゆる水戸っぽ的道理には大分反しているので(まあ伝統は変わるものもある)、遠からず彼の引退後とかにまた戻ることもあるかなと思う。特に貧しい県外人がたまたま本園付近まできたとき、お金払えないか払いたくないから梅みれなかったとかなったら、元も子もないわけです。勿論、最初は藩士だけに開かれていたんだから、全ては県庁の判断によるのだけど。
 自分の意見では、有料化するなら入園に対してではなく、内部は無料でも楽しめるが有料なら普通より高級なお茶が飲めるとか、高級な料理が食べられるとか、入園無料の課金モデルにすればいいのにと思う。

 ほか、あいちトリエンナーレ2019(以下あいトリ)の大炎上模様と過去最大の興行収入を他山の石とし、大井川氏はどうもドワンゴ出身のせいかハイカルチャーよりサブカルへの親近性のほうが遥かに高いわけである。茨ひよりは、オタクカルチャー嫌いの或る女からみたら「キモイ」らしいし(なにしろ究極的には、アニメもそうだけどバーチャルアイドルVチューバーは偶像嗜癖、偶像崇拝の要素を含んでいる。宗派や良識によっては眉を顰める代物だ)、大洗関連のガルパン推し云々ふくめ私自身その意見も重々わかるし、正直いって北茨城市長もまるでかわいくない(まあ描いたのが高萩の子供だからその子が傷つくかなあと言いづらくて、誰もいわないんだけども)センス的には疑問しかないゆるきゃらを、駅でもイベントでもやたらべりべりはりつけたり登場させるので、その種の意味不明な地方行政間の猿真似的横並び意識はやめていただきたいと恵まれない人への福祉の為の税支出が優先だろうなと判断する大人としても、旧約聖書くらい少しは読んでいる一哲学者としても思っているのだが。つまり、その種の大井川氏の趣味は、ごく世俗的といっていいし、もっといえば大衆の中の特にオタク系と変わらない。ここは評価が分かれると思うが、日本のサブカルは村上隆氏らのスーパーフラット理論による欧米への翻訳輸出以後は、まれな場合にはハイカルチャーとしての顔をもかねて、まあ外国人にもオタクがふえてかなり威張っている。しかし前知事の橋本昌氏は、県北芸術祭の企画については現代アート系のハイカルチャー推しだった。あいトリは某監督のスキャンダリズムでとんでもないことになったが(炎上商法ともいえるが右派に潜在的しこりを残したか)、大井川氏によるイースポーツ推しの方は、話題の大きさとしてはイマイチだったかもしれないが、大勢として流行も先端性も兼ね安全飛行で決着した。愛知県知事の大村氏の結果からみたら過激派といわざるをえない施策方針(彼も愛知でコスプレとかやってサブカル側にも足を踏み込んでいる)と、穏健派でありながら進歩的かつ大衆的な大井川氏の姿勢を見比べると、まあ比べる例が極端ともいえるが自分は最初、橋本氏のある種高踏的な文化政策から比べると、パンダ誘致論も入れて大井川氏のはなんか堕落なんじゃないかと思っていたが、評価を再考せざるをえない。「みんな」(但し主に日本人)から見てどうか、という貴族性を無視した観点では、文化政策にあっても、大井川氏のそれは、あいトリの例や橋本氏主導の芸術祭より、結果からみて功利的(最大多数の最高幸福という意味で)というしかないのではないか。
 裏を返せば、たとえばベルサイユ宮殿みたいな思いっきり行政側がハイカルチャーをごり押ししていた貴族文化の色彩は、大井川県政ではだいぶ後退してしまうのかもしれない。彼が町人社会の延長にあるといってもいい東京からもちこんだ、大衆商業主義の傾向だからだ。現東京都も知事がハイカルチャーの造詣にどうやら欠けているとみえ大分似た傾向というか、「バンクシーらしきネズミの絵」伝説が典型例だけど、例えば石原知事時代からやっていたとおもわれるファインアート系のワンダーサイトを終わらせて、アールブリュット(いわゆるアウトサイダーアート)に傾倒とかいっているわけである。別に障害者美術を支援するのもいい。しかしそれは一美術ジャンルである。現代アート全体を見渡して、はっきり王道を貫く支援なり、環境整備という姿勢ではない。まあこの点、サブカルの評価がまだ美術史内の位置づけ的に曖昧なことともあわせ(そもそもスーパーフラット派は、ファインアートを核とした現代アート全体からみても一ジャンルにとどまり、日本のサブカル全体が一般的先進国でハイカルチャーとみなされたわけでない現状にも要注意がいる。裏を返せば、いつサブカルの評価が歴史的でなくなってもおかしくない。つまりオタクアートそのものが後世からごみ扱いされる可能性も、まだ全然あるわけです)、美術的評価の定まっていない段階の前衛のうち、どれに肩入れするなり、あるいは放任するなり、アートメセナ的立場を行政がやるときには、正直いって美術史の教養を主とするアートリテラシー、すなわち目利きが必要である。自分が知るかぎり国内でこの点、最も成功したのは金沢21世紀美術館だろうと思う。いうまでもなく青森の十和田とか、直島とか、フランスのランスが目をつけるずっと前である。まだ駆け出しに近かった海のものとも山のものともつかぬ(もちろん専門家の間では既に注目株だったけれども)SANAAをあれだけするどく大抜擢した金沢市政には、生存者バイアスを考慮しても最大限の敬意を表したい。
 話題をサブカルそのものの評価論にもどすが、たとえばサウジアラビアで、イスラム法学者が宗教令(ファトワ)でポケモン禁止令を、偶像崇拝にあたるとして出したというニュースがあった。サブカル内での趣味自体のよしあしからいって茨ひよりは、まあそこまで下品でもないというか、相当上品側に属するだろう、無論サブカル内部でだけれども。であるが、この偶像崇拝に抵触しうる点は、ハイカルチャーなら抽象芸術とかは部分的に否定できるのであるが、まあかなり、信仰の自由への懸念がある。行政が、偶像崇拝(嗜癖)を公費で煽るのはどうなの、という批判なり突っ込みに、知事は明確な回答がだせるのだろうか。偶像禁止系の宗教とか、その種の良識・趣味にも、いくら文化的寛容さといってもそっちにも配慮する必要があるかもしれず(理屈をいえば偶像禁止も自由だけど偶像崇拝も自由、よって行政はいずれにも肩入れすべきでないとなるが)、あいトリなら反天皇ふくむ極左表現がそれだったわけだけど、やたらとサブカル系のバーチャルアイドルだとかへ公費いれるのは、やりすぎではないか。この辺、とっても繊細な話題なので、結局は現実感覚に基づいた程度問題になる気がする。直接の采配権はあらゆる信仰をもつ全有権者の県民が、大井川氏に一任してるわけだから、クラッシュしないようやっていただきたい。
 ついでにもう少し掘るが、知事記者会見でも質疑されてた気がするが上野にすでにパンダがいるのになんで日立で差異化(差別化)になるのかという謎については、大井川氏の経営センスがうかがい知れないので、一般市民レベルではまじでまったく分からん。普通に考えて後追いだし、それで例えば西日本からみて上野から日立に北上する動機には絶対ならないであろう。ではなぜパンダなのか。ま、別に茨城空港とか未来みすえて日中友好が本音ですとかなら商業的センスは抜群という最終評価なんだろうが、真意は会見だけではよく分からんレベルだ。これはツイッターで県民世論とか一部みてても、勿論、日立市民とか県北民からいったらパンダいてもいいだろうけれども、そこまで大金払う価値があるのか大体の人がわからないとおもう。でも全国報道される可能性とか、下手すると上野のが死ぬ可能性も考慮してるんだろうし、ここも疑問符ながら見守るしかない。上野のが死んでも都庁は金余してんだから余裕綽々また買うだけと思うが。

 で最後になるが、イバラキセンスとかいうアンテナショップ。私はあれはなくていいと思っている。都民になんで奉仕する必要があるのだろう。全国または世界の人が東京にくるから、といっても銀座まで出ないといけないんだろうけど茨城の物産を買いたければ便利だから、とか色々言い訳あるんだろうが、これもあしき行政横並びレッドオーシャンにしか自分には見えない。もしそこでの収益が莫大で県政を助けまくっている事実があるなら、もっとやれとなるんだろうけど、この点で行政だろうと第三セクター(官民協業)的な行政主催の個別店舗だろうと上場してないわけで、決算がさっぱりわからん。決算書あるならBLとか全部だしてほしいものである。もしかしたら私がしらないだけでもう県HPにあるのかもだが。ぶっちゃけ、民業圧迫じゃないの? と私には見えるんだが、この点は完全に行政論(社会主義的か自由主義的かの濃度論)になるし、もしかすると個別の農家とか製造業側からみると少なくとも目先の卸し先でありがたいのかもしれないし、まあ断定まではできないのだけど。大井川さんは小売出身ではないだろうし(米マイクロソフトは技術セクター、ソフトウェア業)、付加価値あげるんだっていう大方針はわかるにしても、行政が直接小売店ひらくのは社会主義政策といわざるをえないのではないか? もし私が知事だったらさっさと閉じて、その予算は削ると思うけど。最大でも県内の民間業者の通販サイトとか、小売店をまとめて紹介する県のホームページはあってもいいかなくらいの話で、それだって正直、県庁の仕事じゃないから商工会議所とかにそういうのやったらどうですかっていうくらいでいいんじゃないでしょうか? またこれも大井川氏の方が私よりずっと経営うまいのかもしれないんで(というより多分そう)、たとえば茨城空港の評価は(ま、都内マスコミにその点で不当に虐められていたけれども前知事の英断とかもあり)すごくあがってきているみたいだし(以下の日経新聞の図とか相当すばらしい成績)、断言まではしないけど。

国土交通省からの委託を受け、空港振興・環境整備支援機構(東京・港)と日経リサーチが実施した「国管理空港等における空港満足度に関する調査」
現時点では県営(公社)部分があるだろうに、これは凄い。鵜の岬国民宿舎もだけど、行政側に優秀な経営者がいるとこうなる。でも県庁の一部茨城人が優秀だっただけで奇跡ともいえる。要はこんな感じで、ガチでイバラキセンスも、競争的にアンテナショップの色んな評価で最上位を占める事になる可能性までは否定できないが、根本的な大方針レベルで「アンテナショップ業」自体が、株式会社として民営化されるべきかなと私は思うのだ。なんでかなら社会主義批判と同一趣旨、つまり効率とか競争原理、民業圧迫の点なのだが。
 大井川氏は商人出身でもあるから商業的なのはわかるにしても、民営化に積極的というわけではなく、官営部門をより合理化するのが得意で、やりたがる傾向みたいにみえる。今のところだけど。まあそこ経産官僚の基礎が発想の根底に残ってるのかもしれない。
 純粋に経済学でいうと、自分はフリードマンとかハイエクを尊敬してるくらいで、かなり自由主義寄り、しばしば自由至上主義(ここではlibertarianismの訳語)に接近する考えなので、大井川氏の思想とはだいぶ離れてる節もあり、ここでも県庁的には外部監査者みたいな意見にきこえてしまうのだろうけども(ここをもっとこうすれば経営合理化されるみたいな)、たとえでいうと、飽くまでたとえだが県を株式会社と仮定すると、株主は有権者で県民となるわけで、株主資本主義でいえばなんで都民に奉仕するのという話なわけだ。この辺すこし複雑だから混乱しないよう丁寧によんでほしいが、勿論、消費者から利益をあげてそれを公税として県民に再配分(調整)するともいえるが、でこのたとえの限界でもあるけど、アリストテレスの古典的枠組みに帰れば、実際はその役割ってほとんど民間企業がやる「配分的正義(能力に応じた配分)」なわけである。だから政府は純粋に利益追求だけできない。なぜかというと、そうして生じた不公平を矯正する「調整的正義」が伝統的な政府の役割だからだ。もう一度、純粋に経済学的な話にもどすと、自由至上主義では一般に、政府による市場介入をかぎりなく最小化しようとする。しかし現実的にはいわゆる外部不経済の内部化とよばれる公害防止とか、独占禁止法のよう状況的に市場の失敗を解消する必要がまったくないとはいえないのが現実だったので、飽くまで必要最小化にすぎない。ところが、大井川氏のようまあ修正資本主義に近い国家社会主義(県社会主義)的な市場介入をやる人の考えというのはこれとは、大分違う。すなわち日本の中央政府、経産官僚の基本通念も、リバタリアン式では全然ないわけで、よく「日本は成功した社会主義国家」と半ば揶揄こめていわれるのもその為だ。歴史的経緯からいうと、明治の薩長藩閥はおもいっきり国家社会主義で政府が財閥とつるんで殖産興業ばんばんやったわけだし、徳川時代も完全なリバタリアニズムではなかったにしても儒教の影響で、商売は商売とそれに比べれば少しは民業を放置していた節がある。これについてより詳しく私は現徳川宗家のご当主、家広氏のご著書で学んだが(たしか『なぜ日本経済が21世紀をリードするのか ポスト「資本主義」世界の構図』にその種の記述がある)、ごくおおまかにいうと徳川時代は物価高騰(インフレ)には貨幣鋳造でブレーキ、物価下落(デフレ)には財政出動でアクセルと、既に現代貨幣理論(Modern Monetary Theory, MMT)レベルの実践をして250年をのりきっていたという。
 ケルトン流MMTのほうは、日本市場を赤字国債をどれだけ積みましても破綻しないはずというハイパーインフレ耐性の実験台にしたいみたいだから、徳川氏みたいに自分が、財政面では最高経営責任者的な状態だったよりはるかに、他人事でどうしようもないわけだが、そんで経産官僚でもさすがにそのレベルの経済学的無知なのがいるとは、いくら一億総白痴化とかいわれていたこともあったとしても信じたくないわけだし、実際、いても少数派だと思う。でもまあ私も経産官僚じゃないし、自分がみた東大講義ではそこまで教えてなかったので省内の上位者がどれ程の学力水準かあるいはどの学派に肩入れしてるのか外部からわからんので、これは余談だが。
 でこれでなにが説明したいかといえば、自分は茨城県の単位でも、自由主義、自由至上主義に近い経済政策をとってもらいたいし、それと同時に税収は、相対貧困対策で福祉に回せばいいと思う。殖産興業でうまくいくのは、一般論だがそもそも民需がない開発独裁国であり、ケインズ用語でいう「有効需要」(要は無理やりの消費喚起)を政府自身が作り出す必要があるせいだ。しかし日本みたいに成熟した国で、茨城も現に所得水準は国内で中上位にあるのに政府主導で殖産興業やってると、単に民需圧迫にしかならないというのが自分の意見だ。一番いい例がアベノミクスの失敗、特にトリクルダウンが起きなかったことで格差拡大しただけに終わった国政レベルでの経済政策の誤りではなかったか。当然だが中流の形成に失敗したらその国は民需の絶対量が減るから、衰退期に入ってしまう。よって同じ事は先進国で最も格差が大きい(相対貧困率が高い)アメリカ経済にも多少あれいえるわけだが、人口減少が起きていないし、移民もいて需要が底上げされるからまだましだ。勿論、私の経済学的な立場が、上述の思考経路で民間委託を主要な手法とする自由至上主義的な完全競争市場への漸近、かつ、税収は最弱者への福祉に回すという、まあこれまでの経済学だと何々主義とまとめられていない考え方なので今の政府と違っても当然だけれども、ここで仮に「自由至上福祉主義」と名づけておく。
 大井川氏は現に県(国の支社)を経営してるみたいなもんだから、私がいまいった立場をそのまま採用してくれるかは当人次第で、まあ自分もそうだけど究極目的は功利主義と一緒で最大多数の最高幸福になるわけだが、現実的に可能な範囲で自分のみている、より進んだ考え方を使ってほしい。イバラキセンスのサンクコストがいくらかしらないけれども、正直自分に言わせていただくとアマゾンと楽天、できればタオバオにも県のアンテナショップだすとかならまだスケールから理解できるけど、これだって最初から民間委託すればいい。
 このブログには前から書いてるが、民営化と民間委託は、微妙に違っている。民営化は既に市場で競争優位を失っている(つまり民業でまかなえる)事業を県が保有している理由はないので売却すべきという意味で、民間委託は必須の公益事業をより効率的に運営するため競争入札先を探すというものだ。ここで注意が必要なのは、なんらかの公益度が高い事業は、民業で代替できない段階で民営化してはいけない。例えば十分な収益がみこめない遠隔地バス、あるいは競争相手のいない水道の様なもの。もし水道を民営化した場合、当然だが現時点で独占・寡占が生じるから水道料金があがるだけでなくサービス自体が低下する可能性もある。だがこれらも、独占・寡占が生じえないかぎり例えば不可欠な警察消防のようどうしても必須の部分以外は、積極的に民間委託し、できるだけ競争原理を採用すべきなのである。一方、民営化していいのは既に市場に競争相手が複数いて、公営部門が単なる民業圧迫にすぎない様な部分だ。これが、なぜ私がアンテナショップを民営化、あるいは新たに作るなら県営ネットショップを民間委託すべきと考えるかの基本理論である。アンテナショップは茨城県産品を主に扱う小売業にすぎないのだから、無数の小売店がある中でわざわざ、県がもっている理由がよくわからないくらいだ。日本の行政に典型的あしき横並び意識ではないかとおもうし、それこそ付加価値をみずから低めるレッドオーシャン志向で自殺行為ではないか? 一方なぜ自分が県営ネットショップならまだありうると考えるかなら、ネットショップなら在庫は民間業者側においておけばよく、そもそも県(民間委託先)側は通販の仲介をするだけで民業圧迫にならないばかりか、卸売り先から手数料をとったとしても最少人数で運営でき、黒字にしかならないと思うからである。その種の優良事業を県が保有しているなら、恐らく鵜の岬国民宿舎や茨城空港といった例でそうあるよう、歳入をますのですぐに手放す必要はないのかもしれない。

 もう一度結論を述べると、メディアバイアスの植えつけによる魅力度差別は完全無視が基本で、仮に存在しても一般知能の低い集団を遠ざけ、高い集団を近づける結果になるのでわが県民には結果有利である。またもしこの偏向を変えたければ、先ずブランド総研会員へ直接、都内マスメディアの着せてきた汚名を無視した上で、県の魅力を詳細に渡って説明し、且つみずから更に調べるよう促すのに効果がある。また都内マスメディアによるバイアスをまだ植えつけられていない外国語圏の人々への方が、一般的にこの種の宣伝に効果がある。
 さらに大井川知事の為政方針のうち、偕楽園本園有料化は様子を見る必要があるが、園自体の哲学と照らすと理論的に破綻しているので、入園無料の課金モデルがいい。また知事のサブカル趣味は現代ファインアートの教養やセンスがない以上しかたないし、その文化について歴史的評価がどう転ぶか(低俗な悪趣味とみなされ終わる可能性も十分のこっている)も不確定な現状だが、少なくとも偶像崇拝を禁じる信仰の自由を顧慮して偶像嗜癖系(特にVチューバーなど)のタブー表現をやり過ぎない必要があるかもしれない。パンダについては上野とかぶるし高額誘致費からいっても謎なので説明責任を果たして欲しい。イバラキセンスについては競争過多で高い付加価値がみこめないので自分の経済学上の立場からも民営化(事業売却)、代わりに県内事業者からの直接通販を中継ぎする、アマゾン、楽天、タオバオでの茨城県ネットショップを民間委託で競争入札すればいい。

2019年11月2日

他県に知られず他県を知ってあるべし

魅力というものは多くの人達にわからないものであればこそ、貴いものだ。
 マスコミに洗脳され易い衆愚にあわせ自己を宣伝するより、謙遜しつつ至善に止まっていた方が遥かに優れている。それでも、歌人はいながらにして名所名跡を知っているし、それは外国人とて同じなのである。『常陸国風土記』を読まずに、現代東京人の虚偽や悪意、偏見と差別に満ちたマスコミを信じている人達など、相手にするかいはこれまでもこれからも、何もない。
 人に知られず貶されていようが、自らを知り相手を知っている側に立っていた方が、全ての面でより優れた結果になるだろう。己が人を知らざるを憂い、人に知られざるのを憂うべきではない。

2019年10月29日

差別はする側のみに原因がある

魅力度差別は100%偏見にすぎないが、その種の差別をうのみにし、侮辱的言動をとってくる人達が見分けられるという利点において(当然だが、愚か者や卑しい人達とは縁を切った方が優れているし、現に感性のよしあしについても、わが県の美質は明らかなのだから、それを見分けられない人々について同じことがいえる)、寧ろわが県以外のいずれかの県が同様に、この差別を捏造しているブランド総研の数十人とその会員の千人ほどの人達、また彼らの差別的偏見に煽られる衆愚のいずれについても、今後とも法的に門地差別を罰されでもしない限り反省や自己の偏見を見直す余地はないであろうから、全く相手どらないのが最も優れている。
 わが県もしくはいずれかの都道府県自体に原因があるのではなく、差別主義者自身に全原因があり、その責めも落ち度も全て、差別する側のみに求められる。つまり我々は県庁も含めこの点で何も変えたり、変わる必要はない。そして自動的に、差別主義者自身の自滅によって状況が真逆に変わるであろう。なぜなら、差別という悪徳へ永遠に安住できる者はいないのだから。

2019年10月20日

地域美学としての茨城県各地の独自性

茨城県や北茨城市は、単に都市として先進国とみなしたモデルのまねだけをするのではなく、世界のあらゆる文明、都市、町、村、人類や他生物の生活など森羅万象を参考に、単に自らの内なる趣味の格率、真善美を兼ね備えた聖なる掟に従ってみずからのくらしをつくっていくがいい。
 現代では奈良・平城京や京都・平安京が中国・長安を模していた経緯から、古都となって両者は観光地化しているが、似た様な近代文明の遺構に、東京圏の一定領域もなることは確かだろう。
 しかし茨城は、筑波圏を除いて厳密にはこの領域にとりこまれていない。そして水戸をはじめ、各地のその都市構造や環境は殆ど全く独自性を保っている。北茨城市も全く同じで、我々はその種の県内各地の文化多様性を、全宇宙をひきだした縮図としてさらに高める方に、創造的に工夫すべきなのである。

 長い目でみれば、この独自性をますます高めている文化圏の方が、古都として多かれ少なかれ定型化した地域に比べ、より魅力的になるのは間違いなく、すなわち茨城人は、自ら世界の美質を選択的に学び取りながらも、同時にそれへ依拠せず、かけがえのない地域性をつくりあげるべきなのだ。

2019年10月15日

妹島和世氏を茨城県総合都市計画の統括建築家に専属化する案

前から書いてるけど、茨城県庁又は北茨城市は、日立出身の妹島和世氏を統括建築家として専任し、県内・市内の主要な公共施設の総合計画を氏に依頼、その計画に基づいて、各地の個別建築物をいわゆる設計競技などで通常の各建築家・士に設計させる形にするのがよい。

 これは他の国内地域では、例えば都内では、他の建築家らとの競合などから妹島氏(及び氏の設計共同体であるSANAA)の作品を割と簡単に解体してしまい、歴史的建造物として保存する行政側の意志が殆ど見られないからだ。
 だがガウディの例を鑑みても、超一流の建築家に専属化した地域全体が総合設計の出来栄えから長期的に見て、魅力度の向上はいうまでもなく、観光誘客の面で世界に冠たる都市景観を作り得るのは歴史上の真実だ。これは意見がばらつく(余り建築の専門性が高くない人々が好き勝手に、ろくでもない意見を言う)民主的プロセスによっては非常に難しい。その実例が国立競技場問題だった。
 裏を返せば、行政の長の権限が非常に強い地域なら、比較的容易に総合都市計画を策定できるのだ。そしてその千載一遇といってもいいチャンスが今で、妹島氏は既に日立駅や日立市庁舎などに於いて世界に冠たる実績をもっているわが県出身者として誇るべき超一流の建築家なのが文化史上の事実なのだから、彼女に茨城県の建築景観に関する総合計画を、県庁の英断で是非とも策定させて欲しい。

 前知事を現知事とつるんだ自民党派閥らが追い落とそうとした時、風説流布によって特定建築士との癒着がある云々とまあいつもの自民党の手段を選ばぬ汚いやり口だが、虚偽の噂によって前知事に濡れ衣を着せていた。だがこの考え方そのものが、長い目でみれば文化行政のがんみたいなものだ。
 建築は芸術作品であり、その才能は産まれながら特定の人にしか与えられていない。天才を明らかに発揮している人物がいる場合、それはスペインならガウディだったろうし、フランスならコルビジュエ、ドイツならミース・ファン・デル・ローエだったろうが、その人物に集中投資してこそ、都市全体の魅力が確立しうるのである。それは文化行政として、かなり強い権限をもって、審美観の極めて優れた人物が判断しなければならないことだが、例えばパリのまちなかに当時は若手だったピアノとロジャースのポンピドゥーセンターを大統領が主導し設計競技で選定したなどは建築史で必ず習うけど、偉大な実例である。
 現に、妹島氏・SANAAによって金沢21世紀美術館は今世紀の建築物の中でも、特筆すべき作品として石川県に重要な歴史建造物を残す結果になっている。わが県は氏の出身地にもかかわらず、彼女が若手の間は金馬車ビルとか古河の休憩所など小さな建物しか手掛けさせなかった。今後は大仕事を任せるべきだ。

2019年10月13日

磯原中央公園調整池および磯原市街地外郭放水路計画

磯原中央公園の地下部分は、調整池をつくるべきだろう。



https://twitter.com/gameaka777666/status/1183193502298980353
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/jimusho/yonken/koji2/chikacho.html
https://twitter.com/awagadu/status/1183183969199607809

 調整池が満杯になる水量の計算上、それで十分に市街地の浸水を防げないなら、別により大規模の放水路を、市内のどこかに設置し、少なくとも花園川・大北川の氾濫を防ぐ必要がある。

参考:首都圏外郭放水路



https://twitter.com/Sen_Nakamura/status/1182292601648467968

2019年10月12日

県知事は銀座アンテナショップをさっさと撤退しその分の税を恵まれぬ県民への調整的奉仕に用いよ

茨城のアンテナショップを県庁が都内につくるのは今すぐやめ、茨城県民の為の公共福祉の充実に集中しなければならない。なぜなら県税は県民の福利厚生のため支払われるもので、かねもうけだか農産物の売り込みは商人の領域であり、公務員は県全体で生じる不公平の調整に税をつかい、具体的なかねもうけには不干渉なのが原則だからだ。
 都民に奉仕するのは都税の領域なのだから、県税を使ってやる意味はまったくない。そしてかねもうけしたいなら、県知事は民間で起業して、県税をたくさんあげる様にしたらいいだけなのである。
 そして県庁として県内経済を興隆させるための自由市場原則は、民間で競争の妨げになっている公共事業と民間企業の癒着や寡占による市場干渉の部分をなるだけなくす規制緩和に集中しなければならず、自ら起業するなら民間で、という話なのである。その最終目的は完全競争市場の実現であり、管理価格、独占や公害など少数の場合を除けば政府自身が市場に参加するのは、根本的に効率を害する一方で短・中・長期的にどの場面でもなんの得にもならないであろう。同じ意味でアベノミクス共産経済だの消費減退につながる民間増税を推進し、市場国有化を進めてきた東京政府は今後長らく国規模で日本に致命傷を与えるだろう低成長の起源であり、完全に理論的にも実践的にも、反面教師だ。それだけ経産官僚が堕落し、米日本操縦者に安直に騙されるほど不勉強になったのである。
 まあ芸術祭とeスポーツの選択結果をみると、愛知県知事よりはずっとましな判断をしたといわざるをえないが、現知事もこの意味で、アベノミクス理論で堕落した経産省や自民党閥に媚びを売る限り、永遠にわが県の世界経済牽引力を更に強化しえないというほかないであろう。

茨城空港は世界最高の主要ハブ空港となり愚劣な差別主義と中華思想の極悪東京マスゴミ都民へ必ず復讐完遂せよ

極悪東京マスゴミが首都圏北部や世界の為に国が自衛隊基地を民間共用化した茨城空港を南関蛮族である卑しい商売人にすぎないおのれの利己心の一方で侮辱差別三昧してたのは永遠に忘れない必ず復讐してやるぞ
https://twitter.com/nikkei_young/status/1159736117836558336


2019年10月11日

無電柱化の蓋つきU字鋼による低費用化案

無電柱化に際し、路面アスファルトの一部を浅く陥没させ、そこにケーブルを埋設するとき、ケーブル上部を埋め戻さず、ケーブルを収納したプレキャストコンクリート製またはステンレス製の規格化した側溝状U字鋼の上部に蓋をするだけでいいのではないだろうか? これはケーブル交換または増設時に再び埋め直す費用の節約になるし、そしてケーブルの被害時に復旧作業ふくむメンテナンス時に利便性があるからだ。
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/chicyuka/pdf04/07.pdf

2019年9月24日

KPOPは世界的成功によって地域差別を乗り越えられる証拠であり茨城圏の一つの模範

KPOPをあれだけ馬鹿にしてた人達、完全に大差でTWICEとかBTSとかにユーチューブの視聴回数でも世界的な人気でも負けて、今頃どう思っているのだろうか? この意味で芸術もやはり、公平な土壌で戦っていると思う。日本的・東京的な忖度空間って世界次元だと完全に無視される、嘘と悪意の集まりだ。裏を返すと、都民全般が「周り」である都民の多数派がいい、いいといっているものが、単に彼らのローカルな、「東京地方」のはやりにすぎないのに、それ以外をダサいといって中華思想バイアスで貶めている文脈そのものを、KPOPが完璧に彼ら以上の商業芸術で乗り越えたのだと思う。
 僕はTWICEがやってる(JYPにやらされている)ことを、茨城県の単位でどこかの芸能事務所にやってほしかった。これからでもできるならやってほしい。それは東京都民による差別の悪意を暴くからだ。トゥワイスも大阪人や韓国人いるし、完全に東京的な門地・人種差別の枠組みを批判的に潰していると思う。
 KPOPの男性アーティストは、私が男だからかもしれんけどあんまり魅力的にみえないんだけど、女性に関してはいわゆる妓生文化の延長にあって、完璧な歌舞を洗練させるという方に最大の才能を発揮してるのではないだろうか? この点で、中途半端アキバ芸妓の類がなんなのかさっぱり今の今までわからん。
 秋元康は、「会いに行けるアイドル」とかいい、ヘタウマ素人臭さをわざとなんだろうけど出しまくらせ、飲み屋の酌婦みたいなののの少女買春版みたいな、世界的に見ても異様な奇形文化を作り出した。そして僕は最初から今までそれが物凄く嫌いだった。それはTWICEが世界標準と証明してくれたと思う。東京のオタク文化に媚を売り、児童買春モドキの女衒ごっこをしていたのが秋元康、そしてつんくのお二方であって、日本人全般はそれが当たり前みたいに洗脳されつつあった。しかし少女時代とTWICEというKPOPで流行した女性アイドルが出てきたお陰で、より大人の女性が普通に魅力的と証明されたわけだ。
 僕はKPOPの男性アイドルについては、まだ「いいね」と思ったことないので、これは自分は芸術鑑賞者なので、単に異性愛者だからじゃないと思うのだが、それは構造的な意味がないからじゃないだろうか。KPOPの文脈的な意義は、今述べた東京ロリコン業界を潰してくれたのと、東亜人種差別の脱構築だ。日本のネット右翼の人らは、少女時代が出てきた時も娼婦みたいだといいやたらめったら差別していた。確かに、妓生的構造があるから曲によってそういう色彩があったと思うのだが、結局は、次にTWICEが日韓台の国を超えたアジア人で構成され世界で流行するという、脱人種差別的枠組みの前置きになった。

 ま大抵の人達は、アイドル音楽の置かれている構造なんて「純粋音楽的に」分析してないだろうし、単に金かけて整形美女みたいのが艶めかしく歌って踊ってるから紅白に出すんだろうが、根底にあるのは文化差別に対する戦いなんだろうな、と私は思う。イスマンもそういう意図で芸能事務所作ってたと思う。
 少なくとも女性観に関する限りは、イ・スマンとパク・ジニョンが世界文化史に果たした役割はかなり特筆すべきで、オリエンタリズムの強化に過ぎなかったとしても、アジア人女性が美に関して人種差別される構造的枠組みはなくなったに等しいと思う。それは彼らが韓国・東亜系芸能人を流行させたからだ。しかし、秋元康やつんくがそういう差別に対する戦いという構造的意図をもっていたかといえば、全くもっていなかったと思うので、私はこの点で、文化史的に全く評価していない。別に私に評価されなくてもどうでもいいだろうが。世界的影響も大してなく、東京ローカルのロリコン受けに過ぎなかった。
 BTSくらいしかしらないけども、韓国人の男性アイドルに関しても、恐らくアジア人男性が置かれている人種差別的位置を、歌舞の芸能によって一部改善してるのだろうと思うのである。そしてこの仕事は、東京ローカルでかっこつけ自慢しつつ田舎搾取するしか目的がなかったジャニーズにはできなかった。

 一体何が明暗をわけたかだが、第一に、東京ローカル文化は、国内市場搾取・田舎差別を目的として志が低すぎた。だから最初から最後まで国内で自画自賛して金儲けして、正に東京的で低俗かつ奇形な三流芸能で終わった。対してKPOPは、最初から日本市場含む、世界に打って出ていた。しかも志も高かった。
 嘗てビートルズが流行した。しかし現時点での音楽市場に最適化している度合いでいったら、ユーチューブの反応みてるとKPOPも世界規模でそれとほぼ同じくらいの所に到達してると思う。アジア人でそういう大衆性の次元に行ってたのはスキヤキソングくらいだったので、圧倒的に凄い話ではないだろうか。

 私は東京が全般的に嫌いだから(お前らの持ち物な東海第二原発さっさと片付けろ、人んちの近くに置くな)、東京圏の芸能事務所もできたら応援したくないのだが、もう完全に、完膚なきまでKPOPに、全面負けてるのは明白なので、いい気味だと思ってこれを書いてるのだ。しかも差別されていた側が勝った。
 ま、茨城県も東京人一般、いや関西人だの中部人だの含め(誰がどんな発言してたか私は神の如く記憶力がいいので全部覚えてるのだが)一部の県外人から普段から差別されまくっているので、このKPOP勢が東京ローカル文化を完璧に乗り越えた点を参考に、世界的成功を果たせば茨城単独で勝てると言いたい。いずれ東京ローカル文化を、或いは京都ローカル文化を、このKPOP勢の完全勝利の如く、完膚なきまでに叩きのめす。しかもコンセプト段階から意図的に完全に乗り越えて、誰の目がみても上位に立ったことが分かる状態に到達する。これは全く不可能ではないし、寧ろ世界的成功だけに集中すればいいのだ。
 私がなぜそうしたいかといえば、私を差別してきた極悪人どもに制裁する義務があるからである。そしてそれはこの世の正義なので、必ずきっかりと地獄で落とし前をつける必要があると確信し、そのため手段を選ばず全世界にあらゆる戦略を張り巡らすと共に、着実に地歩を進め続けるだけの話ということだ。

2019年9月13日

左近の桜

先日、台風で偕楽園の方の左近の桜が倒れた。皇室と水戸家の因みなど知る由もない商人上がりの大井川知事は、あっという間に跡形もなく片付けてしまった。或る県民がツイッター上で再び宮内庁に働きかけ植樹させてほしいと言っていた。私はあの忌々しい差別と虚栄の塊、京都との縁が切れてほっとした。
 大井川氏は水戸学の素養が全く無く、この面では偕楽園を強制的に一部有料化するなど完全に伝統破壊者である。シュンペーターかぶれが商売の領域ならいいが、水戸家の御前に居ながら文政領分でなら傍ら痛い。その或る県民がどうか私が傷ついたのは当知事を不躾に択ぶ浅はかな一部県民の無思慮さだ。
 大井川氏にあの桜の象徴的な意味がわかるとは思えないので、恐らく再植樹されないか、全く見当違いに客寄せパンダの笹でも植えると思うが、義公の嘆く姿が確かに私には見えるので、いずれなんらかの形で現代水戸学者らは、県政により事務的に撤去された桜の魂を祭るべきだろう。

野分経て皇下した桜木を伐る槌音を聴く水戸の町
のわきへてすめらくだしたさくらぎをきるつちおとをきくみとのまち

2019年9月12日

情報非対称性から県外人に誤解されている方が精確に知られているより優れている

以前から述べているが、わが県は東京都民や県外人からほぼ全く盲点になっている。まるでステルス状態だ。だからテレビ等でとりあげられても、彼ら都民全般の悪意の投影となっていて、我々の現実も理想も少しも捉えられていないと、都内メディアで日々実感している筈だ。
 今日、茨城県庁は、この情報の非対称性をなくそうとしている。それはブランド総研・田中章雄個人の恣意的な疑似統計がわが県の名誉感情を傷つけているからというのが第一の理由だろうが、私はこの非対称性は寧ろ拡大すべきだから、都民と一般県外人に誤解させたままにしておく方がよいと改めていう。なぜそうかなら、このステルス性は結局の所、自分達に有利、更に有徳だからだ。『北茨城学』で繰り返すが、孔子が「人の己を知らざるを憂う」とは、この認知的非対称度の高い側が上位者だと示している。

 例えばいばキラTVは県営テレビとして県外人への宣伝放送が多いが、これは凡そ全くの間違いだ。我々は宣伝費に県税を払っているのではない。そして都民一般や県外人一般が我々やその土地に差別的偏見をもっているとしたら、その人は都民メディアに洗脳されている点で暗愚であり、したがってつきあう価値がない、偽報道に騙されるほど認知力が相対的に低い相手である。衆愚に好かれるべきでない。
 いいかえれば、県税は県民全体がより幸福に暮らす為に支払うのであり、衆愚に好かれさせる代金ではない。孔子がいうよう「善人に好かれ悪人ににくまれる」県柄の方が優れている。だから当たり前の話だが、県営テレビそのものが県民に役立ち、快楽と幸福を増せる様、県民生活向上に集中しなければならない。
 確かに、下らない県内外人が差別や自虐に耽っているのをみるのは不愉快かもしれないが、釈迦が初期仏典『ダンマパダ』で「ただ謗られるだけの人も、褒められるだけの人もいない」という様、毀誉褒貶はそれを行う者の徳性とのずれなので、差別的偏見をもつ低認知力者に標準をあわせるべきではないのだ。敢えて茨城語でいえば「バカに好かれてもしゃーあんめ」である。

 ここで私がいいたいのは、この情報非対称性を高めれば高めるほど、わが県が単に対東京とか対日戦略のみならず、対世界戦略上に優れた地位を占める縁になりうるということだ。即ちこれは学であり、県外人の不学を意味している。『孫子』の通りこの世ではよく学んだ側が情報によって必然的に勝利する。
 前知事橋本氏は県営テレビ創設を行ったが、当時の目的は彼の哲学に基づく県民生活の向上だった。だが現知事大井川氏の公徳は彼に劣り、某テレビそのものが単なる大衆商業的宣伝装置に堕している。大井川氏の進退も含め、情報非対称性の上流に立つこと、学ある側に立ち続けることが最善だと私はいう。

2019年9月5日

鋭角横断歩道への改修

 
鋭角横断歩道は車両から歩行者を見つけやすくなるらしく、茨城県内、北茨城市内でも同様の交差点におきかえていくケインズ政策をとるのが望ましい。
 愛知県で導入後、26か所について設置前後1年で、事故件数が17件から8件に減った。但し道路標示の補修、LED化なども併せて行われているのでその影響も考えられるという。

2019年8月9日

文化的主導権

茨城で0歳の頃から育ってるからかもしれないが、食べ物を粗末にするな、という躾が無意識に刷り込まれているらしく、発酵食品にせよ何にせよ揶揄の文脈で食べ物を侮辱する人みると、自分は寛容なので何にせよ流しているのだが、時間がたち相手の発言をおもいだすと度し難い義憤の様なのが湧いてくる。
 義烈両公からの農本主義や愛民思想が文化ミームになってわが県のおそらくほぼ全域、少なくとも旧水戸藩の地域を覆っており、自分の育った最北端でさえ、農家の労苦を思いやるのが当然で食べ物をありがたがるのは当然としても馬鹿にするなどありえないのに、東京神奈川だのの連中は金に執着するだけだ。今で言えば商人どもということになるが、やつらの精神構造はまさに下劣極まりないもので、東京神奈川にたかって朝から晩まで下賎極まりない蛮行をしている。具体的には金を貪る為に薄汚い俗受けの生業をし、私の専門の絵でいえば明らかな猥褻物をばらまき驕り散らしている。これも我慢しているのだが。
 東京中華思想が馬鹿の証拠なのはみな知っていることだから、都内の下衆商人があれこれと差別をまきちらしているのも、茨城の人士は眺めていて本心で見下しているだろうが、一々連中に説教した所で何一つ反省するだけの知能はない。根が悪い者はよい実を結ばない。この世では差別する側のみが悪いのだ。

 私は自分の武士道が真に徳といえるか確かめるため徹底的に反証することにし、経営学、経済学、商売の類をこの数年で猛勉強し、少なくとも世人に優るとも劣らないところまでもってきた。元々軽蔑していた分野だが或る程度以上に覚えると一理あるのもわかった。が、やはり武士道の正しさに本心がある。より正確にいうと、ひたすら批判的に武士道の徳目を反証し続けていても、自分の根が高潔すぎて全然、商人道におちぶれられないのである。一度高貴な側に入ってしまうと、もう幾ら努力しても下賎の側に混じれない。まるで庭付き一戸建てで緑に囲まれゆとりある田舎で暮らしたら都内を地獄に感じる様に。
 私にいえるのは、茨城県は嘗て水戸学という立派な道徳体系をもっていて、その中には儒学、神道含む国学、仏教、その他の武士道的要素が全て含まれていたわけで、簡単にいえば高貴なる士族が支配していた歴史がある。即ち水戸の徳川家のもっていた徳目を、基本的に我々は失うべきではないのだと思う。私はこれも十分に反証した。水戸学を全て洗いざらい批判しなおす為、この十年くらい北茨城学なるブログを書いてその思想的問題点をのりこえ、改良した。例えば尊王論は意味をなしていない。天皇は侵略者だ。真の伝統は共和政にある。だが個別の徳には、農本主義とか愛民思想のよう残すべき点が多い。
 東京都内に暮らし南関東圏の文化を内奥まで探り、本質を概観した限りそこにあるのは中華思想の驕りと町人道だけだった。要は下劣な側面が非常に多いし、その虚栄の本体は権力俗物性だけだった。私は汚泥になずむ前に都内を去った。随分東京文化の改良にも努力したのだが民度が下劣すぎ無理だと悟った。
『常陸帯』か定かでないが、今自分が書いたのとほぼ同じ内容の文言を、京都から公卿だかが江戸時代の常陸国へ訪ね来て言っていた記録を読んだことがある。曰く義公以来の立派な風教があるのだからそれをありがたく思い、大切に守る様にすべきと。同様のことは慶喜公個人へ勝海舟も言っていたと思う。もっと遡ると『常陸国風土記』に辿り着くが、既に古代奈良の教養貴族からも常世の国と呼ばれていたのだから、今自分が生きている平成・令和期でも本質は何も変わっていない。風説でわが県を貶めている都内下人は、往々にして確証バイアスで脳内妄想の卑しい差別をばらまいているだけと思う。

 既に書いたよう私の場合も、0歳から食べ物を粗末にしてはいけないと当然のよう躾けられているのでそれが当たり前と思って生きていたのだが、東京で大量に注文し食べもせず出て行った大人を見たときは本当に驚いた。悪い文化衝撃が殆どだったので、江戸期に烈公が教育面を慮ったのから何も変化はない。つまりは義烈両公を代表的な思想家として、わが県に無意識レベルで伝承している徳目は、農人形で象徴化されている類の農本思想とか、偕楽園の愛民思想とかなのだが、今の県知事はどうだろう。彼はアメリカかぶれ、東京かぶれと私は思って最初から支持していない。水戸学など何も学んでいないだろう。
 なにがいいたいかといえば、確かに新しい考え方、よりよいミームを外部から学ぶのはとても重要なのだが、東京圏の下衆がやっている類の中華思想みたいなただの馬鹿でしかない差別とか、オタク文化やサブカル俗物界、拝金主義みたいなただ下劣なだけの要素などは純粋に反面教師にした方がいいのである。

 今回のあいちトリエンナーレ2019大炎上事件はどうだろう。私は津田氏に事前に懇切丁寧かつ真摯に、純粋美術の世界観を忠告していたが彼は「(この程度の企画が)過激な筈ないでしょう?」とぶち切れブロックしてきて、この有様だ。驕れる者は久しからずとしかいいようがないではないか。
 正直な所、天皇陛下を侮辱するのは、茨城文化、常陸文化の伝統からいうとよくないが、もっと複合的な捉え方ができる。大和からの黒坂命の侵略、新皇宣言で独立国を作った将門、そして水戸徳川家の歴史。総じて天皇を侮辱したらダメ、なる短絡的な見方は愛知県の歴史的系譜の底の浅さと思う面もある。将門も慶喜公も朝敵扱いされたが、将門にしてみると当時の渡来人集団とでもいうべき奈良の暴力団に支配されるいわれもないのだから最初の武士として民族独立を回復するのは当然となるし、慶喜公は尊皇を叩き込まれていたのに冤罪をかけられ、徹底した自己犠牲までして明治天皇自身から汚名を雪がれた。彼らの生き様からいうと、高々芸術祭で天皇批判の表現をしたら脅迫されびびって撤退というのは、桜田義士をなめてるのかなという感じで、本気で死ぬつもりなら撤退しなければいい。愛知県知事も。それだけの覚悟なのだ、天皇批判って。歴史的にそういう事例を愛知県民は多分、知らないのだと思う。
 欧米知識人ぶって「表現の自由」とかいう底の浅い、日本の伝統にない言辞でどんなに言い繕っても、飛鳥時代からずっと続いている皇室の伝統の前では無力でしかない。神道信者も奈良時代からずっといるわけで彼らからすると、天皇崇拝は存在意義のほぼ一部になってるのだから。
 私が今回の騒ぎで一番感じたのは、義公との対比だ。彼はライフワーク『大日本史』で、当時知りえた全世界史へ自国の存在意義を批判的にぶつけるという壮大な知的射程で、間接的に彼の出世が頭打ちになっていた幕藩体制の崩壊後を計画したといってもいい。つまり象徴天皇制を彼が構想していたわけだ。しかし津田氏のブレーンだった東氏の炎上後の言い訳というのは大変見苦しいもので、朝敵の覚悟どこか狼狽し謝罪してしまう。普通に考えて、天皇批判とは朝敵になることなのである。私は当然それを踏まえて共和政論者なのであり、全神道政治論者を止揚しのりこえているから、政教分離で一歩も引かない。
 私は朝敵の対立概念として「民敵」という言葉を造語した。あんまり使ってないけど。天皇って民敵なのです。なにせ古代奈良から渡来人王朝を率いた祈祷と殺人徴税が仕事の世襲邪教祖なのだから。自然崇拝の方が本来の宗教だし、12万年続く共和政の方が本来の伝統だし、天皇制や王政は海外の猿真似だ。

 朝敵として許さんとかいわれ、尊皇志士だか皇道派に命を付け狙われるなんてこれまでの日本史知ってたら当然視できる話で、その程度でびびって謝罪するのは意味が全く分からないし、妥協して天皇制支持者の気持ちも慮るべきだったとか筋が何一つ通っていない。聖像破壊がヘイトなのは当然なので。愛知県知事が天皇ヘイトしながら「表現の自由」とかいって尊皇派に脅迫され、自分で検閲してるのに責任転嫁も全くお粗末としか言い様がない。それをまともとか褒めてる自称文化人も、一体全体、天皇の歴史を何だと思っているのだろう。皇国史観を欧米思潮で馬鹿にするつもりなら論理的裏づけが必要だ。
 私は徳川家の方が政治的才能は遥かにあったと思う。この点で天皇家はまさに象徴でしかない存在で、実権与えたら原爆見送って仕方なかったとかほざくわけで、燃やされるべきどころの話ではない。地獄を永遠に輪廻しかねない無能である。だからこそ水戸学の意義が光っているのだ。尊皇派がいるのだ。
 ついでに書くが、私は冷静かつ客観的に歴史をみて、薩長土肥と呼ばれている幕末から明治の人達は往々にしてイギリス帝国主義の表面だけ猿真似して暴力振るってただけの野蛮人と思っている。それが厳正なる真実です。今の日本史は全く正反対のことを主張する三文小説史観みたいなので埋まっているが。明治の元勲とかいってあの国家テロやってた西日本の果ての下級武士を神扱いしている誠に愚かな連中は、彼らのイデオローグだった松陰さえ、アジア一帯を侵略しろとかいってた(『幽囚録』)本物の極道だったのをどう説明するつもりなのだろう。何一つとして善と呼べる点がない神とは邪神というのだ。
 はっきりいって今回も同じだ。東浩紀というイデオローグが事の原因を作っているのは皆も見ているであろう。津田某は彼の手先みたいなもんだ、実質は。アヅマは動画中で美術だか哲学を知ったかぶってるが、彼が美術についてまともに批評できてた場面など一度もみたことがないし哲学についても同じだ。カントが言っていた、真の批判とは世の中について控えめに意見を述べるくらいのもので、そもそも声高に自分の正当性を主張できる代物ではないとね。多分『判断力批判』のどこかに書いてある筈です(『判断力批判』40章160節の注意書きだった。そこでカントがいってるのは「啓蒙」の定義で、今の言い方なら、客観的事実を論じる科学に比べて倫理・道徳は人の信念にすぎないのでそう簡単に語れない。なので哲学を知ったかぶる知識人は嘘つきで、本来の啓蒙は控えめに誤り易さを指摘する程度との説)。これは即ち今はやりの知的謙虚をいってるのだが、ダニクル効果からいってもそんなもんだ、知性って。もう少し正確にいうと、世の中が何かしら誤りを犯してる時に、批評家なり哲学者は、その誤りの理由を指摘するのが全能力の限界だと言い切ってたと思う。アヅマ某、津田某はこれの真逆で批判してくる奴はコロスリスト入りとかいっていたわけで、いってみれば絶対唯一神でもなければそんなの無理なのだ。
 私は全てのイデオロギーは批判する為にあるという強度の懐疑論の立場に近い。かといって道徳観念を無意味とみなすほどではないので、最近の科学専門家に多い理系至上主義みたいなのは嫌いだ。原発の何が悪いみたいなのはサイコパスでしかない。そして科学専門家、理系学者なんて大体は倫理が弱いのだ。

 アヅマ某は動画中で政治と芸術を意図的に混同させつつ、スキャンダルを起こして炎上させないのが芸術性とはっきりいっている。美術史のどこをどう解釈したらそうなるのかさっぱりわからないが、寧ろ炎上自体が記録されることがあるもそれはスキャンダリズムに過ぎない。無論アートは大人しいのもある。
 今回の大炎上は、まず祭政一致という水戸学がいう日本の伝統を、単なるスキャンダルを狙い小ばかにしたので尊皇派がぶちぎれた。ここまでは彼らも事前に計算していたようで早々に適当な逃げ口上で検閲、撤退し「表現の不自由事件作り」に集中し始めたが、火の手がやまず小中学生まで巻き込みだしたと。
 無関係な子供へガソリン放火などでの大量殺人の脅迫が回ると流石に似非アートスキャンダリズムで済まなくなり、アヅマ某が先に「天皇制を尊重する人にも考慮すべきだった」と心にもない言説を弄した。なら最初から令和ムードの時に? とか知ってて悪ふざけする筈もない。つまり脅迫の逃げ口上である。唱道者の腰折れをみた津田某も謝罪し始めた。曰く批判者をコロスリストに入れているなる過去の発言で傷ついた人に謝る、トップとしてふさわしくなかったと。これもよく分からない言い訳で、なぜブロックし続けているかの理由になっていない。天皇を公然侮辱し右翼に大規模脅迫され困ってるだけと思う。
 スキャンダルを起こして炎上させないどころか異様な大炎上が全然おわらないので、アヅマ某の定義ではこれは芸術ではない。ただの行政ぐるみでの国家テロリズムになっている。天皇を愛知県が侮辱してしまったのに気づいた愛知県知事大村は安全確保の建前で検閲したが時は既に遅しである。
 大村が為すべきなのは、「国と国民統合の象徴を侮辱する表現を自由と判断したのは、一行政長としてふさわしくなかった。謝罪する」といい右翼の歓心を買うことなのだが、彼は表現の自由は天皇ヘイトに超越すると教条的憲法論で通そうとするので、ますます尊皇派から怨恨を買う。随分小知恵が回らない。

 私がなにをいいたいか。先ずアヅマ某、津田某らは身の程知らずの一言でいいきれるであろう。美術素人に等しいのに知ったかぶってスキャンダリズムへ安易に手を出し、しかも哲学面でも洋学かぶれのサブカル俗物程度なので、国学の長い伝統に抵触しまくって内国的に居場所をなくしたに等しい。大村某は実に浅はかな官僚出身の知事で、お仕着せの勉強はやったとしても理解が教条的すぎ自分が朝敵行為をしているのに自覚がなかった。いや自覚していたのに軽んじていた。なぜなら彼は天皇機関説式に皇室解釈している近代主義者なのだろう。それでコスプレで俗流にのりつつ片手では表現自由という。

 これがいいたかったのだが、なぜ愛知県がこの種の致命的失点をしたかといえば、彼らは東京文化圏の流行においつこうとしていた東京中華思想の信奉者だったのだ。差別に自ら媚を売っても何一つとして良い結果がこない。よくわかったではないか。中華思想は愚者の驕りだ。悪い面は絶対学んではいけない。
 わが県は東京の某会社から全国報道で毎年、一方的差別を受けている。もう10年近くになるが、この間、わが県は隠忍自重してきた。愛知県をみよ。東京下種の為すがままにされた結果だ。差別など無視するに限る。自ら正義を行っていれば全世界に恥じることはない。文化的主導権は自ら握らねばならない。

2019年6月25日

昼間に役所が鐘を鳴らすのは騒音公害にあたる説

北茨城市役所が鳴らしている昼間の鐘(雨情童謡のメロディ)は、夜勤の人や夜型の人にとって昼間の安眠を乱されるのだから一種の公害にあたるのではないだろうか。試みが行われたはじめは気づかなかったが。以前から昼12時には消防署がサイレンを鳴らしていたけど、震災を期に設置された市役所の災害用拡声器で、新たに午後6時頃に童謡が流される様になった。この点で、別の方法で通電を確かめるのが次善ではないか。尤も、西洋などでもこの種の公共の鐘の音というのは伝統的にあるに違いないけど、昼間中心主義という考え方は既に遺伝子レベルで夜型の人がいるのが分かっている以上、時代遅れと思われる。
 また、そもそも音割れがして公共放送の内容が聞こえないことが多いから、同時に市のホームページのトップに、分かりやすい場所で同放送内容を文章でも記述しておくべきと思う。且つ、音割れがする拡声器そのものは災害時にも機能を果たさないのではないだろうか? きちんと声が聞きとれるかを各地点で役人は第三者と立ち会って確かめるべきだ。

2019年6月18日

北茨城市立大学案

北茨城市に必要なのは大学だと思う。公設民営大学、又は公立大学を作るのが穏当ではないか。なぜ日本全体の少子化の中でそう思うかだが、寧ろ少子化だからこそ、若い世代を呼び寄せる環境づくりが必要といえるからだ。

 自分が経験した限り、大学が集中している都内は、学生にとって望ましい環境では全然なかった。雑多な情報が多すぎ学業に集中できないのはいうまでもなく、犯罪率などの風紀も大変よくない。というか東京都が日本で一番悪い方に属する。そもそもお金の面でも物価地価が高すぎるので、わざわざ都内で勉学しようとするのは自分から地獄に入って行くみたいなものだ。
 それに比べ、北茨城市はどうだろう? 自分が0歳からくらしている経験則あるいは気候図などの知識では、ここは自然環境面ではほぼ理想的といえる。今更いうまでもないが、海・山・川・湖などに囲まれ、小都市もあって、まあ欠けているところがない。一言でいえば綺麗な自然で、夏は涼しいし冬も暖かく、春は穏やかで秋も爽やかである。他県なり市外と全然違うところとして、梅雨なんてのも海から山へ風が吹いて常に湿気払いをしているせいと思われるがさして湿度があがらず、とても過ごし易いばかりかどっちかといえば心地よいくらいで、太平洋側で普段は乾いているからじめじめしていないし、豪雪地帯では全然ないため雪も化粧みたいにすぐ融けて行くから単に美しいばかりで除雪に困る筈もない。地価も物価もさほど高くないのでエンゲル係数(食費の負担率)も低いだろうし、いわゆる商業地がそこまで大きくないから学生を誘惑する場所も基本的にない。学業に集中し易いというのは自分自身が生活した限り絶対に間違いない。勿論、都内にくらしたのと比較しても遥かに北茨城の方が学業する為に優れた環境といえる。
 ではなぜこちらに大学がなくて都内に大学が集中しているのか? 答えは日本人全般が「群れる」習性が激しくあって、原因は脳内セロトニン・トランスポーターの遺伝的な少なさだと思われるのだがとかく合理性を無視し、都心に突っ込んで行きやすい。が海外の大学をみれば殆どの名門大学は、筑波大学くらい、もしくはもう少し田舎の環境にあるのが確認できる。海外の一流大学と、日本の大学群を比べたら、日本の方が質が低いといわれているし、実際に研究の質という意味でも、学生の質という意味でもそうなのではないか? 理由の一端は、明治政府が旧帝大なり国立大を各地の主要都市に作らせたことにも原因があると思う。学生が各地の中心的商業地に集まったらどうなるか。当然、商業地で消費して遊ぶに決まっている。だから学業をろくにしなくなったのだ。ディズニーランド行く感覚で大学を消費地、いわゆるレジャーランドにしてしまっているわけだ。特に若いうちは孔子が君子三戒でいうよう性愛に魅せられやすく、東京の性風紀は江戸時代以来最悪でもある。九鬼周造『いきの構造』式に都民はそれを誇ってさえいるから文化圏自体が他と違うのだが、少なくとも学業を完成させる方向性と、警察に逮捕されるまで集団乱倫するのは全く逆の方向性でしかないでしょう。これはいっておくけど、なぜ早慶の国際大学ランクが全然低いかというと正にこういう風紀の悪さがあるせいだ。まじめに勉学するつもりがない人達がブランド欲しさに大量流入しているが、大学の資金源になっているからろくに勉強してなかろうと完全放置されているわけです。まあ形骸化である。
 ニューヨークのコロンビア大学みたいな例外はあるだろうけど、オックスブリッジみたいに田舎町の中で川辺なんか散歩しながら友人と議論や、思索や、学究に耽るというのが世界標準の理想的学問環境なのであり、いわゆる大学町というのは本来そうなっているべきなのである。もっというと、そもそもその種の大学のモデルである西洋の主要大学というのは、神学部が古典的な基礎なので、いわゆる修道士の為の組織だったわけだ。上述のよう明治以後の日帝が、近代工業を推進するべく旧帝大を作ったのとは根っこからして違っているから、日本の大学って一般に静かな環境にないのだ。無論、日本でも中にはそういうのもある。茨城でいう筑波大も確かにこの点では些か人工的ではあるが(寧ろ人工的な面で、通常の大学町にはない広大さや開放感もあるけど)、日本国内では最も世界の主要大学一般に近い類型を目指した例だけど、要は都市型大学ではない田園都市、または生活必需品は十分そろうくらいの田舎町の中に「学問に全力で集中できる環境をおもんばかって」、静穏な場をつくるのが長期的にも学際的熟慮というものだ。

 少子化なので学生が集まらない、という考えは分かるが、自分がみるところ少子化は永遠に続くわけではない。この現象は日本全体の経済がうまくいっていない為の副作用で、簡単にいうと大企業と自民党が企業献金を通じ癒着しきっていて、彼らは日本全体の中流の生活状況を向上させるという目的を忘れ、小泉政権(特に竹中平蔵氏が政策ブレーンになって)以後と思うが新自由主義を導入して格差拡大路線に行ってもどってこない。いいかえれば日本全体の衰退とひきかえに、金持ちをますます金持ちにし、貧乏人をますます貧乏人にするという経済循環そのものが巡らなくなる構造を、大企業と自民党が共謀してつくっていった。当然これは少数派の利益を全体の利益に優先する判断にすぎず、いわゆる堕落した少数政治の代名詞である寡頭政治、ここでは自民党寡頭政治なわけだ。日本人の一般大衆がこの構図に最初から気づくほど賢ければ、当然、他の主要先進国同様、少子化がここまで深刻化していない。今後、否応なくこの新自由主義路線の失敗は修正されざるをえない。
 投資家のジム・ロジャースがいうよう移民導入でアメリカ風の社会構造を、現安倍政権は目指している様だが、文化素(ミーム)の多様化を進める点で別に移民を入れるのが悪いと私は思わないからそれはいいとして(余りに移民コミュニティが巨大化してきたら、移民法みたいなもので、帰化していない人達の国民への害を減らす何らかの制限を加える必要は出てくると思うが)、問題は非正規雇用法が不安定な労働者ほど賃金が低い状態を放置していることである。できるだけ早く非正規雇用法を撤廃し不安定な労働者の雇用条件を安定化させるか、さもなければ不安定な非正規雇用者の方により高い賃金を与えねばならないという風に法を改善するか、どちらかだ。一言でいえば中流の最多性を復活させる必要がある。これは帰化した人達、もしくは移民そのものも含めての話だ。すなわち、大企業と自民党の癒着関係による二極化の推進が否定されるにしたがって、徐々に少子化は改善に向かい、維持できる人口動態へと戻って行くのが予想される。日本国民全般がそこまで利口ではないとしたら、少なくとも茨城県、又は北茨城市の範囲で中流の豊かさを取り戻す方へ経済政策を先進させないといけない。
 総じて、上記の経過を辿って出生率は回復し、経済のしくみに導かれて過去と同等以上のくらしができる状態になり続けるだろうから、その際、市内に定着する若い世代の数が多ければ多いほどこの市の将来は明るいといっていい。学生が多いのもその一つだけど(ここでは今後、日本で必要だろう成人学習の文脈は後回しにしておく)、もっと大事なのは仕事場が市内にあることだ。しかし経済資本が集まってくる最初の原因は、私のみるかぎり文化資本の蓄積なのではないかと思う。よく学ぶ学生が沢山いたら、そこから飛び出して(スピンアウトして)独立した事業体ができるのがありうる話だ。いずれにせよ、学業は一般に低所得者を量産する方には進まない。市内の産業を高度化する方に行く筈だ。だから北茨城市立大学の様なものを構想し、行政が将来を慮って市内に若者を集める方途をとるべきだ。

 私個人は私立大学の形で自分が将来作れるかなと思っていたんだけど、費用や文化の違いという面で、私立大以外にも公立の大学があった方がいい。現時点で学校の形は変容していて、ネットに講義流し、テストも時間区切ってオンラインで完結みたいになっていく流れだなと私は洞察している。費用面でも放送大学形式が最も経済合理的なのは目に見えている。だからもし私がなんか私大つくるなら、恐らくオンライン完結型になるだろうなと思うし、それはいわゆる普通の大学ではないでしょう。なので公立大学という、普通に住んで広大なキャンパスへ講義に通う形の大学もあった方がいいと思う。なぜなら学生コミュニティができ易いから。
 学生時代に同じか似た志をもつ仲間ができるのはそれなりに役立つだろうし、アリストテレスがいう友情は、正にその種の広義の哲学(知恵を愛する)仲間がお互いに中庸を弁えた善い友人であれば永続するといっているわけで、旧キャンパス型大学の存在意義はそれがほぼ全てといえるのではないでしょうか。教授の人柄に触れるみたいなのとか、研究施設を借りるとかもあるでしょうけど、総じてこういうのは師事したり、研究所に入れば大学以外でもできるので。

2019年4月12日

つくば県かつくば都へ改称すれば魅力度云々の無知な県外人による下らない印象差別は気にしなくてよくなる

つくば、またはつくばみらい、という言葉の科学、学術、芸術、先端技術、IT、教育、子育ての町としてのイメージはブランド総研会員の中で非常に高いらしいので、普通に大衆受けを狙うなら「つくば県」とか「つくば都」に改称すればいいだけではないか? 
 一般大衆なんて県の中身等何も見ていないのだから、そんなもんだろう。
「茨城」は『常陸国風土記』で皇族が侵略蛮行し先住日本人を虐殺したという故事によっているのだし、明治にあわてて県庁所在地が茨城町だったから明治政府側が採用しただけで、県民側もそれを県名として特にこだわる理由はないと思う。一方、つくばは古くからある地名なわけだ。ひらがなの方が覚え易いと。
「日立」もつくばに継いでブランド総研会員の印象がいいらしいが、こちらは常陸国以来の伝統的なひたち(『常陸国風土記』によるとひたみち、または浸しに由来がある)を、義公が日立市の高台から日の出をみて当て字にしたものなので、Orient(日が出る方向)の語源と重なるし、日本の象徴的な意味としてもいい名前だと思うけど、「ひたち県」で印象が抜群によくなるかといわれれば微妙なところかもしれない。所詮、これまで散々分析されてきたよう一定のブランド総研会員に俗受けしなければこのランキングにあうことはないのだから、一々、ブランド総研ごときにあわせるのも大変馬鹿らしいとは思うが、つくば県でいいんじゃないだろうか。どうせその後の変遷からまた別の名義にかわることもあるとおもうので。
 https://twitter.com/wata_ibamemo/status/1110145109843075072

2019年2月25日

国策公害というべき東京都内の会社・日本原電の寿命が尽きた老朽東海第二原発で働いていた少数県民の為に、当然の廃炉と同時に、より好条件な職を斡旋する義務が原電・日本政府・東京都庁・自民党員側にはある

もし老朽化して40年の寿命を過ぎた老朽東海第二原発を日本原電がカネほしさに公害をもたらしても再稼動したいとほざくのに、周辺自治体が同意するつもりなら、そこに唯一ある懸念というのは東海第二原発での仕事をしている少数の東海村近隣県民(たぶん数百人以内だろう)の失業だけなのだから、これまで他県に原発公害をおしつけ暴利を貪ってきた日本原電と日本政府、東京都庁、そして自民党員に、彼ら失業する者の為に以前より好条件な仕事を斡旋するよう命じるのが正しい解決であろう。これは公害をこうむってきた県民側の当然の権利というべきだ。

大井川知事は再稼動是非の県民投票を行わず反日やくざであるところの日本原電・自民党・東京都庁・天皇政府らとつるんで300万人の日本国民の命を犠牲に保身を図るのか?

茨城県民投票で、東京都の会社である日本原電が要請している、老朽化した(福島原発と同様の)東海第二原発の再稼動是非を問うべきだ。
 大井川知事は自民党の支持を受けて前知事を破っているので、自民党に媚を売って保身をはかり、県民・国民の命を犠牲にしようというのだろうか? 東京都民の金儲けの犠牲になって何百万人も大量虐殺される、しかも自分の統治する県民が殺されていくのを後押しし、手助けする知事が大井川氏だとしたら、これはもはや反国民的存在という他ないであろう。すぐに全県民に、また都民による原発公害で被害を受ける周辺県民にも再稼動の是非を問うべきだ。
 はっきりいって、利己的なダークトライアド風の悪意で、原発公害を他県民におしつけ、犠牲にし、自分だけ金を儲けようとしている国民殺しの死の商人が東京都民であって、要は都民全般が極悪人なだけなのだから、この権力乱用の構図は本土政府と沖縄県の間にある不正な関係とおよそまったく類似である。東京都民全般は自分の金儲けの為には茨城県だろうと沖縄県だろうと、福島・青森・新潟だろうとどこであれ大量虐殺を平気でやろうとしている。それは完全に悪意でしかない。殆どが東京都民であるところの日本政府がその種の権力乱用の悪癖に耽って恥じないのは彼ら公務員が皇族含め腐敗しきったからだ。
 われわれ日本国民は全精力と全才能を尽くし、東京都にある日本政府と東京都庁を完全に覆し、原発公害だの基地おしつけだのありとあらゆる悪意で日本国民大量虐殺をはかって金儲けしている東京都を征伐しなければならない。この為には手段を選んではいけない。相手はそれ以上の悪事をしてくるのだから。

2019年2月23日

東海第二原発再稼動の是非を問う県民投票を行うべし

茨城県庁も東京都の会社である日本原電による東海第二原発再稼動の是非を問う県民投票を行うべきだ。当該原発事故で悪影響を受ける周辺県民にも投票権を与えるべきだろう。
 東京の一企業による暴利の犠牲で茨城県民含む日本人が大量虐殺される大公害、外部不経済を是認するのは、反県民的国政・県政というしかない。当然どんな手を使ってもこの非国民的な日本原電の悪業を防止する必要がある。自民党政府が腐敗しているならその完全解体も視野に入れるべきだ。

2019年2月22日

東京都の会社たるところの日本原電の再稼動公害による国民大量虐殺を阻止する為には革命権行使での日本政府転覆も躊躇すべきではない

東京都内の会社である日本原電の村松衛社長も恐らく東京都民なのだろうけど、簡単にいえば茨城県民を大量虐殺しながら、命と財産を奪う大公害施設で東京都民である己の金儲けをさせてくれ、と、意味不明な再稼動目指したいとかいう伝達を、今回2019年2月22日に茨城県庁で大井川知事にしたわけだ。
 で、この人が単に極悪人なのはもうすぐ隣の福島原発をみれば明らかなことで、前知事の橋本まさる氏が堤防かさ上げしてなかったら、日本原電単独だったら茨城県も福島県と同じ状況にあったことはほぼ確定的である。確か、津波をぎりぎりで防げたのはほんの数十センチとかの差だったし、電源喪失自体は日本原電の方でもしていたのだから。
 これを全て鑑みる限り、この村松衛という人物は、裁判で処刑されても仕方ない国民へ公害をばら撒いている人物なのが間違いないことであろうと思う。勿論それを容認している自民党政府の側にも致命的な悪意がある。東京都内につくればいいではないか。皇居原発だのお台場原発だのを作ればいい。その上で安全だといってこっちにおしつけてくるなら分かる。どちらにしても馬鹿はバカだと思うが。どうしてここまで、日本原電社長は、自民党員は、そして日本政府や天皇や、彼らを支持する日本国民一般は人間的に最悪になれるのか。まあ先ず間違いなくこの村松氏はサイコパスであろう。だから他県民が死のうが恐怖でご飯も喉を通らなかろうが、自分さえ金が儲かれば何でもいいと思っているに違いない。
 外部不経済を内部化する能力がない日本政府や自民党安倍政権は、勿論既に国益どころか国害以外なにものでもないのだし、その上に胡坐をかく天皇皇族閥も一斉に永遠に国政から除去されることが先ず大前提として、次にこの日本原電社長もやはり国民に対する公害のおしつけをする極悪人として、裁判なりそれを超えて倫理的責任を問うことが未来永劫必要であろう。当然それは怨嗟の念にもなるだろうし、どれほど謝罪しようが、一族郎党、永遠に憎悪され、日本人全体を超え未来の全人類から恨まれ、場合によってはあらゆる手立てで、合法的な方法をとってさえ心理的には復讐されることになると思う。そしてそれは当然の報いだろう。なぜこの村松という人の金儲けのためにわれわれが殺され、命を常に脅かされ、精神的不安やら心的外傷やらストレスやら、土地財産を奪われねばならないのか。再稼動前になんらかの革命が起きて、日本原電も東電も、日本政府も天皇家ごと除去されることになると私は予想する。そうなる以外、国民自身が命を守る手段がないのだから、革命権が行使されるはずだ。そしてこの村松氏は、日本原電という公害会社の全利害関係者もろとも、未来の全人類から怨まれる結果、なんらかの因果応報で不幸な生涯を終えることになるだろう。それが業というものなのだから仕方がないと思う。
 単なる共通善としての法が極悪公害を裁けないなら、心理的・社会的制裁として復讐が遂げられるはずだ。日本全国民の金儲けしたさの強欲、貪欲、他人の命を殺してまでも己の金を儲けたいという悪意が、原発再稼動という都会からの公害おしつけの体たらくに現れているのだが、もはや人道の面からいえばこの種の極悪日本国民自体が滅亡してもおかしくはないのではないだろうか? 実際そうなりつつあるが、少なくともどれほど怨まれても足りないだけのことは日本人全般はしているのだから、地獄におとされることだろう。
 結論をいうと、この村松氏がなんといおうが再稼動は絶対に禁じるべきだし、それは命と金では比べ物にならないもので、命の手段なのが金だからだ。高々電気料金をけちりたいがために同国民を殺そうとするなど、幼稚園児でも悪事だと気づくであろう。それに気づけないとしたらこの村松氏だの日本政府の構成員だの、自民党支持者全般だのがサイコパス度が高すぎ脳の良心を感じるはずの部位が機能不全だからに過ぎないし、さもなくば群集心理で国民虐殺という大悪業をしているのに自己修正が効かなくなっているだけだ。したがって大井川氏がどんな判断をしようが、一日本国民として、いやただの人類として、人の命を奪う原発再稼動は絶対に防止しなければならない。大公害で殺されるか原発を止めるかであれば、どんな手立てを使ってでも原発を止めるしかないであろう。そのためには公害をばらまいている日本原電だのその背後にいる邪悪な日本政府だろうと打破し、完全に新政府を樹立し、自民党を解体し、皇族閥を永久日常から除去し、神道を消滅させてでも、日本人自身の命を守るほかないであろう。それは人類に恒久普遍の権利であるところの革命権があるからだ。

2019年2月13日

偕楽園の有料化は避け、バリアフリー化の費用等について寄付を募る方がよい

偕楽園に象徴された烈公の愛民思想を、恐らく新県知事の大井川氏は十分理解しておらず、単に経営合理性という面で県外人の有料化をはかろうとしているのだと私は予想する。もしそうなら、これは茨城県民にとっての屋台骨というべき水戸学の無理解によっているので、遠からず失政となるのではないだろうか? 私自身、水戸学を批判的に考証しのりこえようと努力してきたので、このブログも北茨城学というその後継者としての名前にしてみているわけだが、少なくとも理解した上で欠点を改良するとか止揚することが必要で、水戸学の理解を前提にしないところに議論のしようもないのではないか。
 実際、茨城新聞で同記事に対して水戸の市井の人が「烈公の精神と違うのではないか」と述べているのをみた。恐らくはその通りだと思う。県外人は旧常陸国から見たら外国人だから攘夷とまでは行かずとも料金を頂戴せよという算段か。県に払われている国税から整備費を支出することにして、全国民のみならず全世界の人へ無料のまま、偕楽園の整備費を特別予算として国に計上すればいいのではないか? 差異化という意味でも、他の庭園が優良だからと民と偕に楽しむ意味を失う改悪をするというのはどうなのか? 単に整備費が足りない、もっとあれば県外人にもアピールする整備に使えるということなら、全ての出入り口で寄付を募るという形にすればいいと思う。そうすれば貧しい県外の人にとって梅の観賞ができないといった当初の精神と矛盾する事態など起きようもないし、為政者として狭量なけちさを、愛民とは言いがたいと思う。
 大井川県政が烈公に学ぶとしたら、県政が今日あるのも全ての民が国税や県税を通じ彼らを養ってくれているからなのであって、その民の間に差別をするなど以ての外となるであろう。このことは道徳的にほぼ正しいと思うので、整備費が足りずに質素なものに留まっても、また国税から十分な維持費がもらえないので県税のわずかな額でこれまでより立派な施設などつくれないとしても、それが水戸徳川家の質実剛健な気風を受け継いだ正しい公共施設の精神的態度だとさえ思う。
 英語等で流暢に愛民の精神を正しく伝えられれば、植民地主義の嵐が吹きすさぶ只中で先駆的に全日本の統一と近代化を実現した弘道館共々、偕楽園が世界遺産になることは先ずまちがいがない。弘道館も偕楽園も、寧ろ施設の豪華さではなく全ての民に飾らず素朴な梅の姿をみてもらうためにバリアフリー化を進める方が先決だと思う。これについても費用が足りなければ、広く出入り口やホームページ、政府広報等で寄付を募った方がいいと思う。

2019年2月9日

茨城県民はさらに都市の中に自然を増やすべきかもしれない

イギリス政府の国民健康調査のデータを使ったカーディフ大学の研究によると、コミュニティの安定に必要な要素のうち自然との接触回数が占める割合は8%、地域の犯罪発生率を左右する要素のうち自然との接触回数が占める割合は4%だった。他方で、収入、性差、年齢、教育はそれぞれ3%の影響しかもっていなかったとされる。
 いいかえると、もしこれが普遍的な事象なら、なぜ都会で犯罪率が高くなり田舎で下がるか、或いはなぜ都会で暴動や無秩序、コミュニティの崩壊が見られ易く田舎でそれらが見られづらいのかの大きな原因は、「自然との接触(地域の自然との主観的経験)」が都会には欠如しており、田舎には溢れているからだといえるのかもしれない。
 そしてもしこの仮説が正しければ、茨城県民は既に存在している自然に溢れた環境を維持し、或いは都市化している場所も更に自然を増やす様につとめるべきだ、ということになる。
Regression models suggested that about 8% of the variance in community cohesion could be explained by subjective experiences of local nature alone (table 5), a striking finding given that individual predictors such as income, gender, age, and education together accounted for only 3% of independent variance; it appears that the role of natural spaces was robust in comparison with other constructs we would expect would influence people's experiences in society.
該当論文:
Seeing Community for the Trees: The Links among Contact with Natural Environments, Community Cohesion, and Crime.
Netta Weinstein Andrew Balmford Cody R. DeHaan Valerie Gladwell Richard B. Bradbury Tatsuya Amano.
BioScience, Volume 65, Issue 12, 1 December 2015, Pages 1141–1153.
参考ブログ:パレオな男「 自然のなかで過ごすと性格が良い人になれるらしいよ 12/02/2015」

2019年1月26日

ブランド総研・田中章雄の擬似統計による茨城県への魅力度差別についての対策

ブランド総合研究所(ブランド総研)による魅力度調査は標本母数が少ない上に作為的(ブランド総研会員)かつほぼ一定で、経過や中身も非公開で不透明であり、統計的に信頼できるデータとはいえない。いいかえれば、ほぼ一定の人には各地域に対するほぼ一定の主観的評価の偏見がある(確証バイアスの存在)、ということしか語っていない。よってこの擬似統計で地域差別や地域への偏見を強化しているブランド総研の代表取締役・田中章雄や、それに扇動される都内を中心としたマスメディア各社、さらにそれらマスメディアの発する偽科学を鵜呑みにする衆愚は、いわば科学的思考力が低く幼稚な衆愚なのである。
 これは他の差別についてもいえることだが、差別そのものや差別的偏見はなんらかの認識の間違いに当人が気づいていないことによる愚かさの一種であり、しばしばそれが単なる偏見であると知っていながら差別を行う悪意も混じっている。つまり差別観をもっていたり、主張する人というのは端的にいえば愚か者と悪人である。
 人は進んで愚者や悪人に関わるべきではなく、むしろ極力その様な人を避けて生きた方がよい。
 したがって魅力度ランキングという名目の擬似統計を用い、各地域にくらす一般国民を地域差別している田中章雄以下の諸集団は、単に愚者・悪人いずれかであるから、実害がなければ無視するか(同個人に関わらない)、できるだけその種の人々から離れる(同集団に属さない)のが基本的対策となる。然るべき統計機関、日本国政府などの公的機関が憲法以下の基本的人権や都道府県間の競合を禁じる地方自治法などに基づいて、同調査の偽科学性や差別による国民的・人道的損失を非難し、ブランド総研を解体するということは、当然近い将来、風評被害による公害対策として行われるだろう。だがそれが実行されるまでの間、最良なのは魅力度差別という低知能さに基づいたある人々の特徴を衆愚性の判別装置として用い、むしろその下らない疑似科学を反証するべく思い行動する相対的に賢い人や、擬似統計への理解はなくとも被害者の側にたって差別の加害者らを責める様に動く善良な人とつきあうようにするべきなのだ。いいかえれば、この実に低次元な差別は方法論的には同扇動に対する反応で、日本人一般の知能と性格のよしあしを見分ける為に使える。
 端的にいうと茨城県民や茨城関係者全般は茨城の魅力を高評価する人とつきあえばよく(これは常識的だ。つきあうべき対象は単に日本国民だけでなく、全世界を含む)、対して同差別に基づいてそれを低評価する人はもともと科学的思考力が低い愚か者で、さもなくば差別を喜んでする悪人かいずれかなので関わらなくてよい。

2019年1月22日

田んぼカフェの例

タイの田んぼカフェは、日本で最も田んぼの面積が広い茨城県内の各地でもまねられるビジネスではないだろうか。夏場に、最低限度の風通しのいい骨組みを、田んぼの真ん中にたてればよい。参考になるので情報を載せる。


2019年1月19日

公共施設の予約手続きの簡易化

磯原地区公園のテニスコートや市民サッカーラグビー場などは磯原にあって市民の中心的生活圏に近く、容積もかなり大きいので一般市民が日用するのに向いている。したがって子供でも予約できるようにしくみをわかりやすくし、予約の仕方を施設の入り口に掲示するべきだろう。いばらき公共施設予約システムは存在するようだが、よりスマートフォンでもアクセスしやすく、みやすく、表示も大きく、タップやPC上のマウスクリックのみで可能なように手続きを簡易化するべきではないだろうか。
 磯原地区公園クラブハウス(0293-44-3090)に電話すれば磯原地区公園のテニスコートは予約できるようだが、そのようなことは施設自体に書いていない。ホームページを通じてしか予約状況は確認できない。実際、市民は誰でも100円で利用できるし、市外の人も(料金は200円だが)利用できるとは、市民の側にまだ思われていないのではないだろうか。電子掲示板などで予約状況をクラブハウスの入り口付近に掲示すればよいのではないか。
 市税などで作られた公共施設は市民の生活を向上させる為にあるのだから、利用促進をおこなうのも市政の義務とおもわれる。

2019年1月13日

堀江部長フェイスブック友人限定暴言事件についてのさえずり

鈴木雄介@suzukiyuusuke3
返信先: @okasanmanさん
僕は東京にも茨城にも住んだけど、茨城の方が東京より優れている点はたくさんあるし、魅力という意味でも茨城の方がある面は大きい。東京都の報道関係者が自民族・自文化中心主義で茨城県を差別し汚名を着せ続けてると、要するに国内に不和の原因と怨嗟の念を残す事になる。

東京都の報道関係者が茨城県の魅力を盛んにとりあげて、それを全国に報道しないと、日本国民全般はその悪意ある偏見を身に着けてしまい、無意味な差別を強化していく一方だ。この部長もそういう都民の悪業の被害者だ。差別はする側が100%悪い。される側には原因も罪もないのだ。

差別する側は茨城県の風評被害による経済的損害に何の保障もしないのみならず、被害者の精神的傷が永遠に癒えることはない、と知らない。差別を永遠につづけられるわけはないので、いずれ、その罪の重みに耐えかねて、都民や、扇動された日本国民自身が自壊するのだろう。

わたしは、6年以上もの間、都民の悪意ある差別報道に耐えかねてきただろうこの部長に、お疲れ様といってあげたい。魅力のない地域など世界中のどこにもないのだ。それに気づかない人達が鈍感なだけだ。




2019年1月9日

いばキラTVのUUUMへの民間委託策

大井川氏はツイッターをさぼっているというか、もはや使っていないように見えるが、岩手県知事の達増氏などは盛んに公的情報発信を続けている。ネットが得意といっていたのはどうなったのだろうか? もっと県政全般の情報を大井川氏個人のセンスで自主公開するべきだし、県外に対する広報活動という意味でも、インターネットリテラシーにおいてはおそらく全知事のみならず世界中でも最高度の部類に属するだろう大井川氏個人のSNSの使い方ともあわせて、SNSのあらゆるプラットフォームを知事自らつかいたおすことが県の信用度をあげることにつながるのではないか。
 わが県は対外地上波テレビ局をもたない唯一の県なのだが(東京圏のテレビ局は基本的に全てデフォルトで受信できるが)、若い世代ほどもう地上波を見ていないしテレビ自体をもっていない。つまり今後はSNSを通じた情報発信が王道になり、特に地上波テレビにかわる役割をYouTubeが果たすことになる。いばキラTVはよりシンプルにテレビ茨城か茨城テレビに改称していいとおもうのだが、この県営放送局(というよりYouTubeチャンネル)を、他局より圧倒的な発信力や、情報収集・整理・展覧の能力(いわゆるcuration力、策展力)をもつように育てる事が、地上波に対して投資をするよりはるかに重要で、未来を見越した政策だ。実際のところ茨城県営放送としてのYouTubeチャンネルを、その中に公益放送枠(たとえば議会中継や知事会見、選挙の際の政見放送、県民へのおしらせなど)を確保する事を前提に、広報事業として定期的な競争入札と内容の再検討により、民間委託するのが、この為に最善の方策である。つまり県庁職員自身には民間人より視聴回数を伸ばす技術や才能が相対的にないのだから、自己開発はあきらめ即座に撤退するべきだ。そこで業者をえらびだすとき投資額あたりの収益性(投下資本利益率、ROIC)の高さがひとつの目安になる。そして県庁自体が何らかの意図でこのチャンネルを基本的にいじらない事が、寧ろ最も世界中の民間に茨城県の魅力を発信することにもなるはずだ。YouTubeで収益化をはかろうとすれば、必然に視聴回数をふやすか、イベントなどを通じて国内外でできるだけ多くの人気を得ようとしなければならないからだ。
 ところでヒカキンらの属するUUUMが多少なりとも社会的な倫理意識や遵法意識が高いYouTuberらの最大の上場株式会社だが、最も単純にはこの会社にいばキラTVの業務を外部委託すれば、国内での茨城の魅力の広報は最も合理的に行われるだろう。他のYouTuber会社にVAZなどもあるが、こちらは組織規模が小さいのみならず倫理的な意識が相対的に低く、公営放送の為には適さないと考えられる。
 UUUM以外にこの方針に叶う会社や個人がいるなら、そちらを選択しなおすべきだが、上述の競争入札という原則と矛盾しているようだが、最大の上場企業より投資収益率(ROI)の高い業者がみつかる可能性はかなり低いのではないだろうか。実際、日本の群れ易い国民性からいっても、新興YouTuberも国内ではUUUMに吸収されていく流れにあると私は思う。貴重な県税を広報に投資するのに際して、UUUMより収益性にほぼ直結する宣伝力がある組織は、国内ではしばらくの間でてこないだろう。尤も、国外への宣伝力を投資の目的のひとつにするなら、私は詳しくないが海外のYouTuber会社や影響力の強い個人を選択しなければならないはずだ。

2019年1月8日

欧州の健康市場と納豆の輸出について

以下の日経産業新聞を引用したツイートで、納豆は欧州在住の日本人向けとしてのみならず、菜食主義者(vegetarian、ベジタリアン。野菜しか食べない)や純菜食主義者(vegan、ヴィーガン、ビーガン。動物由来の物を受けつけない)向けの市場をもっていることが示されている。新たな健康志向の食品として欧州のベジタリアン・ビーガン市場を自主的かつ広範に開拓するという貿易革新は、納豆のおそらく世界最大の生産地として、また国内で最高のブランド価値を持つ立場からも、県内の関係各者が率先してまねるべきことだろう。
 単に市場開拓という意味のみならず、心理学において一度ついた負の印象(レッテルやスティグマ)を拭い去ろうとするより、新たなつきあいを求めた方が効率的という立場からは、もはや茨城県民一般が、茨城を低く評価したり、安く買い叩こうとしたり、危険施設をおしつけてきたり(どの党かはいうまでもないが)、差別してくるおろかな他日本国民と積極的に交わる利益も義務も余りないのではないだろうか。わが県の特徴を高く評価する人々との交際を、販路においても海外全てに視野を向け次々開拓した方がわが国の為でさえある。愚民相手にすべからず。


2019年1月4日

再稼動に関する電子県民投票

茨城県庁と当県知事の大井川氏は、原発再稼動の可否についてPC・スマートフォンでも可能なネット投票を有効票に含めた全県民投票を行い、日本原電に対して県民の総意を前提に意思決定をするべきだ。というより、魅力度向上といいながら再稼動する事は完全に矛盾しており、都民の悪意によって自ら茨城をますます貶める結果になるばかりなので、この県民投票で再稼動賛成が多数であっても県知事の独善で即刻停止を判断するべきでしかないのだが。
 少なくともPC・スマホでの電子投票をしくみとして構築する前提をつくることは、今後の県知事その他の選挙でも投票率をあげる準備になるので、早速おこなうべきだろう。