2018年12月16日

徳川慶喜と坂本龍馬

 坂本龍馬は反政府活動をしていたテロリストで、当時の政府側の中心部にいた徳川慶喜にとっては反政府活動をする極左テロの指導者で、『徳川慶喜公伝』によれば慶喜公はその存在も把握していなかった。

2018年7月13日

国際赤十字「人道憲章と人道対応に関する最低基準」(スフィア基準)

災害や紛争時の避難所について国際赤十字が提唱する最低基準(スフィア基準)は、次のように定めている。

・世帯ごとに十分に覆いのある生活空間を確保する
・1人あたり3.5平方メートルの広さで、覆いのある空間を確保する
・最適な快適温度、換気と保護を提供する
・トイレは20人に1つ以上。男女別で使えること


これは貧困地域や紛争地域にも適用される最低基準である。経済力の豊かな日本で、この基準を遵守できないとは思われないが、実際には程遠い。

災害対策予算を確保して、迅速な避難者支援をできるよう資材の備蓄を進めるべきである。

避難規模が大きい場合には、公費で宿泊施設(ホテル、旅館、青少年の家、ユースホステル等)への避難を指示できる予算措置と制度化を検討するべきである。

ーーー
なぜ日本の避難所は劣悪な環境なのか。そこには、災害対策や復興支援についての日本と諸外国との考え方の違いが表れている。

実は、前述の国際赤十字の基準(スフィア基準)は、単なる避難所施設の建築基準ではない。

正式な題名は「人道憲章と人道対応に関する最低基準」であり、避難者はどう扱われるべきであるかを個人の尊厳と人権保障の観点から示している。

日本語版で360ページ超の冊子は、冒頭に「人道憲章」を掲げており、次のように宣言している。
*災害や紛争の避難者には尊厳ある生活を営む権利があり、援助を受ける権利がある。
*避難者への支援については、第一にその国の国家に役割と責任がある。

(国際赤十字・スフィア基準「人道憲章」より)

つまり、避難者は援助の対象者(客体)ではなく、援助を受ける権利者(主体)として扱われるべきであり、その尊厳が保障されなければならない。

これは避難者支援の根本原則とされており、人道憲章に続く個別の基準にも貫かれている。

たとえば、避難所の運営や援助の方法については、可能な限り避難者が決定プロセスに参加し、情報を知らされることが重要とされる。避難者の自己決定権が尊重され、その意向が反映されてこそ有益な支援が実現できるからである。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56477?page=2http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56477?page=3
災害対策として上記のことを前提に施策を進めるべきだ。


2018年7月2日

消費料金詐欺の注意喚起





市内路面の白色化








実際に6~8℃温度が下がった!
彼らはその塗料を使い、市内15カ所にある市議会地区の周辺道路を試し塗りした。するとそこの温度が他の場所に比べ6~8℃ほども低くなったという。
ただし使ったのは、ただの白いペンキではなく地元の企業GuardTopが開発したCoolSeal(クールシール)という特殊なアスファルト用塗料で、従来より高い反射率があるという。
従来の黒い舗装は降り注ぐ太陽光の80~95%を吸収するため、温度が60℃を超える場合もある。だが、この白い塗料が太陽光を反射し、温度上昇をある程度抑えてくれるのだ。
 この結果から、現在ロサンゼルスや他の都市がこの白い塗料で屋根や舗装の反射を高める計画を立てている。
最良の作戦でヒートアイランド現象を緩和
 現地メディアによると、CoolSealはもとは軍需品で、赤外線カメラで駐機中の米軍機を探るスパイの航空機を欺くために使われた。 塗装費用は1マイル(約1.6km)当り40,000ドル(約440万円)で、効果は7年間継続する。なお、塗ってから24時間後には渇くそうだ。ーーこう暑くっちゃよ~、よし、道路まるごと白く塗っちゃえ!で、実際に効果があった件(アメリカ・ロサンゼルス)http://karapaia.com/archives/52261570.html

上述の施策を参考に、市内のアスファルト舗装の道路に白くなる塗料をはじめから混ぜるか、既に敷設してある部分については同様の白色塗料を開発し、将来的に市内の舗装道路のできるだけ全てを白色に変えていく事が、夏の暑さを緩和し、涼し気な市を演出する結果になるだろう。

2018年6月23日

参考になる自転車道

上記の様に、自転車道を歩道と分けて設置するよう茨城県、北茨城市の行政も業務改善しなければならない。

2018年6月20日

茨城差別に対する改善的適応

 都民の驕りや、都内マスメディアによる悪意ある確証バイアスで煽られた日本人衆愚等からの茨城差別、茨城への誹謗なり非難なりは、自らの落ち度が本当にあるかを反省し、改善するよすがになる、という意味で、謙虚さの維持に利用できる。この種の批判的バイアスがかかっている方が、悪さをしながらもちあげられる逆差別バイアスがかかっているので驕り高ぶり、反省力を失うより、自らの成長の為にはプラスである。
 茨城県に本当に劣った点や、間違っている点、改善点がないかどうかを逐一確認し直し、単なる偏見からくる誤解だったり、的外れなそしりだったり、寧ろ優れた点に対するねたみや貶しにすぎなかったら、それは無視すればよい。しかし本当に他より劣っていると思われる点が指摘されている時、自らを改善する余地が残っている、と考え自己向上に使うべきである。

2018年6月19日

世界を相手にせよ

 茨城県を差別してくる愚者なり悪人を無視し、広く世界中で優れた人とのみつきあわねばならない。差別主義者を相手にせず、世界を相手にせよ。

2018年5月26日

偏見をもつ側が劣っている

 差別される事は差別する悪しき集団でない、という意味ですぐれている。魅力度差別もされる側の方がすぐれている。もし大衆に同様の主観的印象の偏りがあれば、逆張りの方向性から比較検討し、真実を欺かれていないかに注意せよ。差別をするような下らない集団から差別される限り、自らは安泰である。自ら偏見に囚われ差別をしていないかに気を配れ。

2018年5月24日

ひたち県、ひたちきた市への改名

 ラベリング効果や自己成就予言、ピグマリオン効果をあわせてみると、「茨城」や「北茨城」という負の歴史に基づいた言葉をつかっているかぎり、茨城や北茨城が魅力度が高いと印象される事は非常に難しい。むしろ「ひたち(県)」か「ひたちきた(市)」に改名するか、それ以外で最も好印象な名義に変える事が最短距離だといえる。常陸と日立という2つの漢字文字があるが、ひらがなにする事でやまと言葉的な柔らかく親しみ易い印象になり、また2種類の漢字名義という分裂も統合できる。日立は義公に由来し日立市や日立製作所と重ねて印象され易く、常陸をジョウリクやツネリクでなく読める県外人はほぼいないだろう。

茨城eリーグと茨城eワールドカップ

 世界のイースポーツの中心地に茨城県をする事を前提に、茨城国体以後も、県主催でサッカーゲーム(ウィニングイレブン)を中心としたイースポーツによる茨城eワールドカップを4年ごとに開催する。また茨城国体時の協賛社らと組んで世界中のチームが電子空間上で属する茨城eリーグをつくり、県内サーバーから世界最高レベルの試合を開催すべきである。
トップクラスのeスポーツ選手の年収は3000万元に上る。収入は大会の賞金、宣伝のギャラ、オンライン中継で観戦するファンからのものである。ゲーム関連の調査会社Newzooの統計によると、中国のeスポーツブームは中国の電子ゲーム市場の発展によるもので、中国は世界最大の電子ゲーム市場になり、2017年の市場規模は275億ドルに達する見通し。テンセントや網易(ネットイース)などのゲーム開発会社、アリババグループなどは電子ゲームを次々と開発し、ファンで競技場を埋め、放送権を販売して運営している。

 アリババの子会社アリスポーツeスポーツの王冠総経理は次のように話す。eスポーツの成長が最も早く、需要が最も大きいことに気づき、その動きに合わせている。中国各地の都市もeスポーツテーマパークやeスポーツ競技場を通した市場の急成長を望んでいる。ゲーム分野の学位を設ける大学も登場した。世界eスポーツ競技会を組織するアリスポーツもアジア競技大会理事会に働きかけ、eスポーツを2022年杭州アジア競技大会の競技種目にすることに成功した。eスポーツブームは11月に北京で開かれたリーグ・オブ・レジェンド(LOL)の決勝で起こり、優勝賞金は400万ドルを超えた。北京国家体育場に4万人以上が集まり、韓国のゲーム界で有名なFakerとCuVeeがスター並みの待遇を受けた。会場はサッカーの大会より賑やかとなり、eスポーツが中国で一種の趣味、大衆のスポーツになったことを示した。

 複数の地方政府が専門的産業の発展を模索し、上海から3時間の距離にある蕪湖市もeスポーツに目をつけている。これは中国のeスポーツ市場が有望視されていることを示す。蕪湖市は5月、eスポーツ大学と競技場を建設することでテンセントと契約した。重慶市忠県などの都市も施設を建設し、eスポーツブームで利益を得ようとしている。

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2017年12月14日
電子ゲームブームが中国を席巻 eスポーツの発展を促進

中国の大手IT企業テンセント(Tencent)は、安徽省蕪湖市でe-Sportsをテーマにした地域活動を行い、「ゲーム大学」を始めとした施設を展開していくと発表しました。

蕪湖市公式Webサイトの発表およびEngadgetの報道によると、テンセントはe-Sportsやゲーム文化を強くフィーチャーした地域活動を行い、「ゲーム大学、文化的かつ創造的な特別区域、アニメーション産業区域、クリエイティブ区域、テンセントクラウド技術ビジネスコミュニティー、テンセントクラウドデータセンター」を展開していくとのこと。既に開発は進んでいるところで、完成後は国際規模のe-Sportsトーナメントを開催予定と述べています。

また、テンセントはモバイルゲーム『王者栄耀(Honor of Kings)』にスポットを当てた四川省成都市のテーマパーク計画にも取り組んでいるとのことです。

テンセントが中国でe-Sports地域活動を展開、「ゲーム大学」など予定

2018年5月18日

最終処分場排斥論

 原発立地自治体に最終処分場は立地させない、という約束の元で原発が立地されている青森県に倣い、また東海第二原発は福島原発同様に被災した原発であって、橋本知事が堤防をかさ上げしていなければ今頃我々はこの地から追われていた事を思えば、県内自治体が団結して最終処分場を排除する協議会をつくり、各首長と県民全般が最終処分場を県内から排斥する必要がある。

国と処分場を造らないとの約束がある青森県は除外し、原発事故からの復興途上にある福島県では説明会は開かない。
ーー核のごみ最終処分場「適地」900自治体に 陸地の3割    2017/7/28 15:01 日経

2018年5月15日

茨城遷都論

 日本の都会人はなぜ田舎を差別しているのか? 
1. 低IQ(自己評価過剰。傲慢。ダニング・クルーガー効果)
2. 天皇中華思想(神道原理主義カルトや宮内記者会によるマスコミを通じた都心崇拝の洗脳)
3. 拝金主義(資本主義の狂信)
4. 衆愚政の狂信(多数決原理主義)
都鄙差別は門地差別の一種で違憲、また人権侵害に該当する。上述の4つの訳を思うと、田舎を差別する人達の脳内にある差別意識と傲慢さは全て、反面教師的だという事になる。いいかえれば、
1. 高IQ(故に自己評価過小。謙虚)
2. 共和思想(神道教祖への逆差別(ひいき)を含めいかなる門地差別からも自由。万人平等を前提に考える博愛)
3. 清貧に対する理解または中道主義(資本主義カルトを狂信しない)
4. 正しい少数意見が存在するという事実から、公徳の高い単独者による王政や公徳の高い少数者による貴族政を、共和政同様に善とみなす態度(私利を公益より図る多数決原理が衆愚政に過ぎない事を自覚する)
という4つの態度が、日本の都会人一般より優れている、という事になる。
 まとめると、脱差別には、1. 傲慢→謙虚 2. 天皇ひいき→万人平等 3. 拝金→中道 4. 衆愚政→王・貴族・共和政(正しい少数意見を含む善政)、という思想転換が必要。但し、この様な考え方の転回を日本の都会人一般が直ちになしえるとは思われない。もともと低IQに伴って、傲慢、中華思想、拝金、衆愚という差別主義の諸反応が連鎖している。

 結論としては田舎で都会人から差別されている側の方が賢明であるしかない、という事であり、寧ろ差別主義という不合理な考えをもっている悪質で低IQな人を見分ける方法として、田舎差別を利用する考えでいる事になる。我々が魅力度差別に対して試行錯誤してきた事の全ても、同様の結論を指し示している。仮に我々がいかに宣伝に成功しても、日本人一般が都会のマスメディアから洗脳されやすい衆愚である限り、また天皇崇拝によって神道原理主義に支配されている限り、中華思想・華夷秩序の延長上に田舎差別が残ってしまうだろう。
 もし直接状況を変えたければ、皇居を茨城県内に移動させ、一人当たりかつ総合の県民所得・GDPで日本1位になり、人口も1位になる様にするのが、茨城が日本の都会人ないし日本人一般に受けているいわれなき差別の便宜的解消となる。他方で、これらが県内低IQ者をふやし、再び傲慢な差別を茨城から行うようではいけない。衆愚でも集めている東京に対して、相対的に賢明な人々を集める事が次善なのだろう。皇居を含め、政治都市として東京から政府関連機関を茨城にあつめる事、つまり茨城遷都をはかる方がいいのかもしれない。

2018年5月13日

朝鮮学校に関する疑義

 朝鮮学校に対する補助金を停止する、という措置は単なる人権侵害、国籍差別に該当するのではないだろうか? 北朝鮮と国交がない事を理由にするなら、強制連行した日帝下の朝鮮人の末裔へ、全権を持っていた天皇が適切な補償をするのは当時の奴隷的苦役の補償というべきではないか? したがって皇室が神道で得た金や皇室財産分から朝鮮学校への補助金を支出するべきだと思われる。また在日朝鮮人が日本へ国税を支払っているなら、補助金を受ける権利は当然あるのではないだろうか? 現時点の茨城県庁や県議は、これらの疑問に何の解決もみいださず、単に民族差別を行っているに過ぎない。したがって早急に、皇室や自民党連へ国連に属する国民は人権侵害の廉で朝鮮学校補助金の請求を行うべきである。
 朝鮮学校内で明治以後の薩長土による征韓論や、長州閥と天皇による侵略や戦時中の経緯を教えているか、これらは思想の自由に該当するというべきではないだろうか? 万一、ここでテロリズムを教育しているならまだしも、単なる客観的歴史を教えているに限っては、或いは北朝鮮国民の選出した委員長を指導者と教えているに限っては、教育の独立の範囲にあるのではないだろうか。テロ組織にすぎないなら公安が監視すればよい。
 もしミサイルの実例や、実在するとは限らない拉致被害者についての疑問から、教育の独立を侵害するというなら、これは問題のすりかえというべきではないだろうか。

2018年5月6日

ひたち電子証券取引所案

 土日も開く時間外取引を含む365日24時間営業の電子証券取引所(ひたち証券取引所)を茨城県内に作る事を目標に、投資市場全般の開発誘致に力を入れるべきだ。この証券の中には仮想通貨一切を含め、条例において仮想通貨を電子証券の一種と定義する事で、他の証券と税率を一律化するべきである。

2018年5月5日

サイン可と西暦付与の規則

 県内でハンコ文化から、サイン可に切り替える事、また元号を使う時は必ず西暦を横に付与する事を、県内の経営合理化のため県条例規則で定めるべきだ。
 元号を使う時、一般に一々西暦と対照するため検索している人が殆どだから経営上の不合理を増大させている事は疑いようがない。皇室廃止に至るまでこの不合理は避けられないので、エントロピー逓減の為に少なくとも元号の横に必ず西暦を付与するように規則づけし、極力、西暦照合の手間をなくすようにしなければならない。
 ハンコについてはサインで十分、本人確認できるのにこれを必携化するのは完全にガラパゴス化した誤った規則なので、サイン可とする事を義務づけるべきである。

一元給付制の導入と茨城仮想通貨自由都市案

 下記に示す仮想通貨自由都市政策をとった場合、 所得格差が広まる事も予想されるので、同時に社会保障の充実を考えていなければならない。イギリスで導入されたユニバーサル・クレジット(普遍貸与、福祉一元化、UC)を参照し県内の社会保障一元化をはかって、生活保護捕捉率を100%へ限りなく漸近させるべきである。水際作戦の逆を行き、積極的に県内福祉行政が基準額以下で暮らしている人に、最大限に簡素化した手続きの上で生活保護受給を勧めていく事が、所得調整後の格差を最小化する。BI(基礎所得)に対してUC(福祉一元化)の方が貧困率を引き下げる効果がある、とOECDが2018年2月の調査報告書で示唆している。これはイギリスがそうしたよう職業訓練や就業支援とくみあわせ、UC受給に職探しなどの条件を付ける事によっているかもしれないし、BIが富裕層や高所得者にも受給される事によっているかもしれない。
経済協力開発機構(OECD)の経済開発検討委員会(EDRC)は今年(2018)2月、英国が導入したような、複数の福祉給付を一本化する「ユニバーサル・クレジット」制度の方が、ベーシック・インカムよりも有効だとする調査報告書を発表した。
 EDRCの調査は、ベーシック・インカム制度の原資を得るため所得税が30%近く引き上げられる必要があると指摘。さらに、ベーシック・インカムが所得格差を広げ、フィンランドの貧困率は11.4%から14.1%に上昇すると述べた。 OECDは一方で、ユニバーサル・クレジット制度が貧困率を9.7%に引き下げ、福祉給付制度の複雑さを低減できるとした。  カンガス教授によると、フィンランドの政治家たちが議論している改革のもう一つの選択肢が「ネガティブ・インカム・タックス」(負の所得税)だという。 この制度では、所得が一定の水準を下回った場合は所得税が免除されるだけでなく給付が受けられるというもの。 フィンランド財務省のトゥーリア・ハコラ=ウーシタロ氏は、費用対効果が高く、人々に働く意欲を持たせる一方で所得格差を悪化させない制度設計が課題になると語った。 http://www.bbc.com/japanese/43875603
市町村の領域で基礎所得、福祉一元化、負の所得税(Negative income tax, NIT)、のそれぞれの効果を実験し、最も優れた制度を採用しなければならない。恐らく全てを鑑みると、福祉一元化×負の所得税(UC×NIT)が最も望ましい。福祉一元化は行政費を削減すると同時に受給者側の負担をへらすし、負の所得税は払いも貰いもしない中間所得層を挟んで受給に所得制限を設ける事で不公平度をへらすので貧困率を下げるはずだからだ。福祉一元化×負の所得税(UC×NIT)をまとめて一元給付制と呼ぶことにする。専ら北茨城市や高萩市などが県政と共に社会実験を行い、半年~1年でどの程度の貧困率低下がみられるか、その費用負担が行政面でどの程度さがったか、また受給者の手続きがどの程度簡素化されたかを、国民番号での電子手続き含む民間委託への競争入札と共に実証しなければならない。
 アメリカはフード・スタンプによって低所得者の食費負担が逓減するようにしており、茨城県域も県庁備蓄米の低所得者への無償給付を制度化する事でこれと同様にするべきである。TPP脱却が新政府によって行われるまで県内の自然的減反に対して、県備蓄米はケインズ政策的な財政投資効果をもつだろう。これと同じ事は市の単位でも可能であるから、北茨城市自身が行うのでも十分である。市場において競争入札して、災害に備えた市備蓄米を購入し、余剰分を無償で市内給食、福祉施設、市役所食堂、低所得者の配給に用いればよい。更に備蓄米が処分しきれなくなった場合は、パワーステーション茨城などバイオマス発電者と競争的に契約し、発電源にすればよい。
 
 上述の一元給付政策の完成度が十分高くなった時点で、茨城県を仮想通貨自由都市とし、県内すべての領域に居住または本社を置く個人・法人への仮想通貨に対する課税を、フランスより税率の低い最大20%とするべきだ。
 フランスは仮想通貨の所得税率が45%から19%へと引き下げられたが、社会保障関係負担17.2%が課税されるため、実質最高税率は62.2%~36.2%。日本全域では住民税の10%を含めた仮想通貨の最高税率は雑所得の約55%となっている為、他の有価証券と同様の20%以下に引き下げる事が、茨城県内での投資を促進し、企業革新を進めることになるだろう。

2018年5月2日

生分解性のない使い捨てプラスチック製品販売禁止条例案

 以下記事のようイギリス政府に習って、生分解性のない使い捨てプラスチック製品を県内でも販売禁止にするべきだ。同様の施策を茨城県選出の国会議員は国会・内閣でも主張し、規制に向けていくのが環境保護に望ましい。
英政府、プラスチック製ストローや綿棒の販売禁止 SB-Japan 2018年04月20日 08:42

英政府は18日、環境保護を目的に、使い捨てのプラスチック製ストローやマドラー、綿棒などの販売を禁止する方針を発表した。同国は今年1月に、2042年までに不要なプラスチック廃棄物をゼロにする「25年環境計画」を発表して以降、プラスチック粒子「マイクロビーズ」を使った商品の製造を禁止するなど、プラスチック汚染対策を加速している。プラスチック製ストローの販売を禁止する動きは、米国の一部の州や台湾など世界に広がっている。(オルタナ編集部=小松遥香)

英政府の発表によると、世界の海に廃棄されているプラスチックの量は1億5000万トンに上り、そのプラスチックを食べるなどして毎年100万羽の鳥と10万頭の海洋哺乳類が死んでいる。英国では、年間に85億本の使い捨てプラスチック製のストローが廃棄されているという。

メイ首相は19日、「プラスチック製品の廃棄は、世界が直面している最も深刻な環境問題の一つ。英国は、この問題の解決において世界をけん引するリーダーだ。プラスチック製のレジ袋の有料化とマイクロビーズの使用禁止に続き、使い捨てのプラスチック製ストロー、マドラー、綿棒の販売を禁止する」と声明を出した。

同政府は、英自治領や旧植民地諸国などが加盟する英連邦にもプラスチック汚染対策に取り組むことを呼び掛けており、研究や途上国の廃棄物管理に6140万ポンド(約94億円)の財源を拠出する方針。今月15日には、プラスチック汚染対策を目的に、英国とバヌアツが率いる英連邦クリーン・オーシャン・アライアンス(CCOA)に、ニュージーランドとスリランカ、ガーナも参加することが発表された。

英ガーディアンによると、年内に法制化に向けた協議が始まり、早ければ来年にも施行される。同政府は企業に代替商品の開発を働きかける意向で、企業が法制化に対応できるよう十分な時間をとるとする。

この動きに先んじて、英国では2017年9月、大手パブチェーン「ウェザースプーン」が今年1月からプラスチック製ストローを生分解性紙でできたものに変えると発表。今年3月には、英マクドナルドも同国内の1300店舗で使い捨てのプラスチック製ストローの使用を止めると発表した。

英国以外でも、台湾は今年2月、使い捨てプラスチック製品を2030年までに廃止することを明かした。その第一段階として、2020年にはすべての飲食店で使い捨てのプラスチック製ストローの提供を禁止すると発表。米ワシントン州・シアトルでも今年7月から、飲食店で使い捨てのプラスチック製ストローの使用が禁止されるほか、カリフォルニア州の一部地域やカナダ、スコットランドでも使い捨てプラスチック製ストローを禁止する動きが広がっている。http://blogos.com/article/291819/


 

2018年4月27日

都道府県ヘイト禁止法(地域差別禁止法)案

 都道府県、郡市町村などの自治体、地方、その他の地域区分によって、生まれ、育ち、又は居住地でヘイトする事、差別する事は、門地による人権侵害である。
 偏見とは「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること(もしくは善く考えること)」であり、誹謗、回避、差別、暴力、虐殺の各段階を辿って憎悪を増長させる、誤解からくるかたよった見方もしくは悪意であり、偏見を放置することは反社会行為であって、日本国民は総力をあげて、この社会にはびこる偏見を打ち砕く義務がある。
 全ての日本国民、及び、全人類は等しく尊重されねばならず、いずれの地域への偏見も人道に対する重大な侵害に他ならない。この法律は偏見からくる誹謗、回避、差別、暴力、虐殺を防止するため、都道府県、郡市町村、地方、その他の地域区分による差別一般を禁じ、当該ヘイト行為を行う個人、法人、団体等を罰する事で、日本社会における基本的人権を保護し、日本国民を含む全ての人々の社会的名誉を尊重する事を目的とする。

 日本国民は主観的統計、主観的印象操作、その他の疑似科学または迷信による、偏見及び差別一般に対し、科学的知見もしくは倫理的知見から、普遍的な人権の平等を主張または保護する義務を有する。
 主観的統計、主観的印象調査、その他の疑似科学または迷信によって、特定都道府県、郡市町村、地方その他の地域区分に順位付け、格付け等の差別または逆差別を行う事を禁じる。当該行為を行った個人、法人、集団、団体等は15年以下の懲役、または10億円以下の罰金に処する。但し地域を研究するため、犯罪率、犯罪者数の偏差など、客観的統計(偏見を意味する個々人の印象など主観を除く)を取る事について、科学的に十分実証可能な範囲については罰しない。
 都道府県、郡市町村、地方、その他の地域区分によって、個人、法人、集団、団体等へ人事等における差別を行う事を禁じる。当該行為を行った者は10年以下の懲役、または1億円以下の罰金に処する。
 都道府県、郡市町村、地方、その他の地域区分によって、個人、法人、集団、団体等へ誹謗中傷を行う事を禁じる。当該行為を行った者は5年以下の懲役、または1000万円以下の罰金に処する。
 科学的に十分検証されない主観的統計、主観的印象操作等による、順位、格付け等の提示によって、都道府県、郡市町村、地方、その他の地域区分を不当に逆差別(ひいきさせる事)する事を禁じる。当該行為を行った者は1年以下の懲役、または500万円以下の罰金に処する。

2018年4月25日

日本人の性に関する分析

 日本より性生活満足度が高く、性行為頻度も高いが、性売買罪を行わない先進国の例として、アメリカ、イギリス、ノルウェーなどがあげられ、性生活満足度は低い(日本よりは高い)が、性行為頻度は多い国として、フランス、オランダ、フィンランドがあげられる。
主要国の性行動比較、1999年、国立国際医療センター戸山病院エイズ治療・研究開発センター
世界各国のセックス頻度と性生活満足度(41か国)2005,Durex
世界各国のセックス頻度と性生活満足度(41か国)2006,Durex)
これらの国々はすべて、日本より離婚率が高い。離婚率の順位(2014、統計局)は
米国>フィンランド>イギリス>オランダ>フランス>ノルウェー>日本>中国
恐らく、これら日本より離婚率が上位の国々はつがい(恒常的なパートナー。夫婦を含む)に愛情(性欲を含む)を感じなくなった時点で離婚しているのかもしれない(但し離婚率は低いが性行為頻度は高い中国という例外がある)。また慈愛に近い夫婦愛を感じている相手に性欲を感じないにもかかわらず、離婚しない為に、性生活満足度が低いのが、多分フランス、オランダなのかもしれない。これらの仮説は、少なくとも離婚率が低いのに性生活満足度も高いノルウェーとか、離婚率は高いのに性生活満足度の低いフィンランドを含むので、確証的ではない。
 少なくとも日本と工業文明に一定の類似性のある先進国と比較する限り、日本の性生活満足度・性行為頻度の極端な低さや、性売買している割合の多さ、離婚率の低さは、文化的要因にしか原因がみあたらない。なぜなら共通遺伝子を弥生系としてもつ韓国の離婚率はフィンランド以下・イギリス以上とかなり高いから。少なくとも漢字圏の香港・台湾・中国は調査によって性生活満足度が日本に類似する程度低く、離婚率も低い(性行為頻度は日本より多い)。つまり、おそらく遺伝子によってではなく、日本の文化が、つがい間での性生活満足度・性行為頻度を下げさせている原因なのだろう。
 各国セックス観についての回答結果(2005, Durex'2005 global sex survey report')をみると、日本人は性行為にこだわりがなく、高みに達しておらず単調で、つがいに気安くやりたいこともいえず、性の補助用品を試したくもないし、新しいアイデアに触発されたくもなく、頻繁に性行為したいとも感じていないし、性生活に幸せを感じていない。この性への否定的態度は、ブッダ(悟った人)を理想とする仏教からの影響があるのかもしれない。また日本人はつがいに対してすらこうなので、或いは性売買罪が売春防止法上犯罪だという意識をもっておらず、性満足度や性行為頻度を少しでもあげる為に性売買罪を行っている人が13.6%前後もいるのかもしれない(上述・主要国の性行動比較。調査対象の先進国で最も多い)。
 また生活スタイルの力点に関する国際比較(2001, Durex'2001 global sex survey report')によれば、日本の性行為の優先順位は低く、高い方から
友人と外出>睡眠>スポーツ活動>買い物>スポーツ観戦>セックス・テレビ>仕事>インターネット>チョコレート>シャンパン
となっている。つまり性に淡泊な上に、恐らく恥を感じる事をよしとする武家文化の影響から、極端につがい間で 性行為をしない傾向が残っているのだと考えられる。と同時に、東京・大阪・京都に典型的な町人文化の残滓で、大都市圏では性売買罪が横行したままだということになる。但し調査対象国で性行為の優先度が日本より低い国々は、
日本>ナイジェリア>メキシコ>中国>マレーシア・タイ>香港・インド・台湾
と多数あり、必ずしも性行為の頻度や満足度が文化的に模範となるかどうかは明らかではない。少なくとも日本が世界平均より生活力点に性行為を置いていないのは、この調査では明らかだ。

 以上のことから、茨城県域において、堕胎前提の性行為だから少子化の原因となる事が明らかな性売買罪を政府に働きかけ風営法・売春防止法改正と同時に、県警が積極的に取り締まると共に、少なくとも先進各国どころか全世界から大幅にずれている、つがいとの性満足度の低さ・性行為頻度の低さをおそらく改善する必要があると考えられる。
 プリンストン大のダニエル・カールマンらがテキサスで働く909人の女性を調査した結果、よい生き方(well being、福祉)として楽しみ、温かさ、幸福から、不満、絶望、怒り、嫌さ、非難され方を引いたまとめ効果の最大要因が親密な関係(Intimate relationships)だとされている。
http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.320.928&rep=rep1&type=pdf,432ページ)
 これを金森茂樹はプレジデントのサイト「幸福度の要因は"資産"より"昼と夜の営み"」のページで性行為の事だと拡大解釈しているが、対象が女性である事もかんがみると、要するにつがいとの親しい関係全部を含めると考えられる。上記Durex調査で男女別の優先度をみると、性行為に関する世界の男性の力点が28%だったのに比べ女性は10%であり、どちらかといえば性行為以外の事も含めた親密さを指すのが明らかだからだ。即ち、厳密に考えるとつがいと親しむ事が女性の幸福感を高める傾向にあり、更に男性側の力点を入れるとここに性行為満足度や性行為頻度がより多く含まれるようになる、と解釈できる。
 およそ仏教的な立場からみればすでに日本人は世界で最も悟りに近い位置にいる。性を否定する事は無欲に近く、解脱と呼ばれる子供のいない安楽死を耐えやすくする。他方、性そのものが動物として否定しきれない人は、つがい間で性に対して開放的で文化の違う他国の人と婚姻するか、実際に移住した方が合理的なのかもしれない。なぜなら日本人そのものが、およそ調査対象国になっている41国の中で最も性に消極的な文化をもっていると考えられるからだ。つがい間で性行為を充実させるような知識を教えようとしたところで、もともと性行為にこだわりがなく、頻繁に性行為したいとも感じていない為、限界があるはずだ。しかし個々人でこの自由を追求する権利は、幸福追求権の一部としてある。裏返せば日本国は、性に淡泊で、そもそも非性的(asexual、性に無関心、または拒否的)だったり、性行為より精神的愛を重視するという意味で純愛的だったりする人、つまり一般に上品とされる人にとって既に理想郷だという事だ。逆にネットでは東京都(或いは大都市部)という本来違法の性売買文化が集中する場所が発信する性の情報が氾濫しているかのようにみえるが、確かにこの種の性売買的な情報氾濫は他国に比べかなり特殊だとはいえ、東京という「下品な都市」を避ける習慣づけという意味で、この種の情報を含む性売買罪は回避されるべきだし、中期的には取り締まりも徐々に盛んになるはずだ。実際、出生率も婚姻率も最下位の東京は長期的には口減らしのスラムとして人口ごと淘汰されていくだけだろう。何しろ堕胎が前提の性売買は単に犯罪とされるだけあって、不倫や浮気の悪習につながり、性病や浪費を伴うので悪徳以外なんでもない。政府は売春にも買春にも罰則を設け、取り締まりを加速しなければならない。
 日本人の特殊性が、世界の国々と比べて性に対して極端に否定的な仏教的精神生活という点にみいだせるのが上述の分析であって、その個性である特徴である文化を伸ばすべきでむしろ他国に合わせて消してしまうべきではないのだろう。この世には上品な人も当然必要なのだから。他方、キリスト教圏で性売買罪はアジアにおけるより重い罪と考えられているので、これについては政府ぐるみで取り締まりを進めるべきだろう。日本人の出生率が低い事は、今後、どちらかといえば貴重性、希少価値に繋がっていく筈だ。上品な人間が多ければその方が理想だが、お見合い結婚という文化が減少した為に、この性に否定的な国民は急減している。今後、県内に経済成長が見込まれれば、それに応じて第二のお見合い制度のようなものが作られ、必要になった人財を多産する事もあるかもしれない。

茨城いじめゼロ化運動の方法論

 偏見とは、十分な根拠もなしに他人を悪く考えること。
 偏見は、誹謗、回避、差別、暴力、虐殺の各段階を辿って強化される。
 偏見を持ち易い人はIQが低い傾向にある。
 逆に、IQが高いといろんな角度から物を見て、偏見の矛盾に気づきやすい。
 いじめとは、偏見が強化されて虐殺にいたる一連の行動。

 上述の定義から、いじめが発生する確率が高いのはIQの低い集団と考えられる。そしていじめは誹謗、回避、差別、暴力、虐殺の各増長段階を経ても、偏見が解除されなかった場合に殺人に至る。これを解除するには、偏見あるいじめ集団に高IQまたは高EQ(共感知能が高く倫理的)な指導者が偏見を解除する対立意見を提出し、その立場が集団に偏見からくる迫害行動を防止する強制力を持つ必要がある。
 偏見を解除できるほど高IQかつ高EQな人物を総合して高知能と定義する。
 場を学校に限ると、学年やクラス、集団ごとに高知能な指導者の管理を導入する必要がある。つまり一般により賢い人、または倫理度の高い人をその集団で強制力をもつ指導者にする必要がある。したがって学年そのものをなくし、学習達成度に応じて全ての年齢を認め、学習達成度が低ければ留年で再学習する事を当然とし、又クラスを固定せず単位制にする事かつ学区含め学校、クラスを授業ごとに移動できる講義制を県内学校すべてに共通化するのが有益だ。或るクラスで最も高知能な人が指導者として偏見解除をくりかえせる立場に就けるよう、もし成績別で分ける際にも、最低でも高知能者が指導者に就ける必要があるが、成績混合クラスは底上げになる可能性もある一方、恐らく成績別クラスより最高学習達成度が低下する傾向になるだろうから、必要なのは集団学習を極力避けて、個人単位で学習達成度ごとに飛び級から留年までを学区・クラス・授業の制限なしに単位制・講義制で選択できる事である。
 これらに加え、いじめ発生率は京都が4年連続ワースト、福島が最上位(最も発生しづらい)で、いじめ格差約20倍と、いじめしやすい性質の性格因子が遺伝子か文化かいずれかにあると考えられ、特定のいじめしやすい生徒を発生次第厳しく罰する、または即座に集団から取り除き更生をはかる必要がある。つまり県・市条例においていじめを校内犯罪の一部として定義し、それ以上、他の生徒と混じらせず少年院で更生させる義務が教育委員会がわにある。この際、いじめについてはゼロ耐性が必須だと考えられる。なぜなら福島のいじめ発生率が極端に低いのは、そもそもいじめをしにくい性格の者が集まっているからだと思われるからだ。いじめしやすい脳、または文化は、京都で「イケズ」といわれる特有の陰湿な意地悪の行動形質に象徴されているのであって、この種の悪意ある攻撃性についてもゼロ耐性で校内犯罪を厳しく罰し、暴力を伴う以前に少年院に隔離し、未然防止の流れにする事で、いじめしづらい人が集団に生き残りやすくなり、茨城県・北茨城市も福島程度にいじめ発生率を次第に低下させることは可能だからだ。なお生徒だけでなくいじめをする教員も同様の校内犯罪の監視対象にしなければならない。

 また成人後の会社、或いは一般社会でも、偏見をもつ人は同様にいじめ行動をしていると考えられる。差別その他の憎悪表現は成人後にもいじめをする人が、偏見脳をもっている証拠である。IQが低いほど世界解釈を単純化し過ぎるため偏見を持ち易い以上、戦争も最も拡大した偏見の最悪の帰結だと結論できる。つまり世界から戦争含む差別、他者への害を減少させるには、結局、高知能な人を遺伝選択でふやし、生後は自由教育や科学的批判思考力の形成で脱偏見の癖をつけさせるしかないのだ。
 専ら茨城県・北茨城市の単位でこの目的を達成するには、高所得化をめざす大学院を含めた専門教育や、一般教養文化を奨励する必要がある。学歴またはIQは生涯所得と正に相関しているからだ。具体的には成人後の再学習も含め、ウェブ上で完結するものも含めた大学誘致・開設をはかり、高等教育・学術研究の普及と、それに伴う客観的幸福度に正に相関していると考えられる高所得化への産業高度化・高付加価値化をめざすべきである。

2018年4月24日

茨城ブランドのマスメディア対策について

 日本の一般大衆はマスメディアとサブカルチャーに極めて洗脳され易く、彼らのもっている現実感はこの2つの媒体偏見で殆どできあがっている、製作者側から見れば操作している、といえる。マスメディア(テレビ・新聞・雑誌・ネットメディアなど)は後援者・スポンサーの投資を呼ぶため俗受けするよう手を尽くすからであり、マスメディアの一部をなしているサブカルチャー(漫画・アニメ・ゲーム・ポルノなど)は教養の低い一般大衆のうち、精神年齢も低く幼稚な若年層に訴えようとするからだ*1。日本人のうち2018年現在14~31才(1987年4月2日 - 2004年4月1日生まれ)の学習指導要領が削減されたゆとり世代は、更に他世代より教養水準が低下していて、これらサブカルチャーに洗脳され易い。
 全てのマスメディア(サブカル含む)のうち、最も卑俗なのは最も低教養で、生まれつきIQが低い層を狙って悪意ある差別や偏見を積み重ねた類の憎悪サイトであり、情報源に2ch・5chのhate(憎悪の意、ヘイト)をつかっている事からまとめサイトと呼ばれている。更に詳細にこのまとめサイトを分析すると、広告収益を目的にアフィリエイト(ネット広告をのせるaffliate:息子として加える af-to+fillius-son、を語源にもつ提携、子会社などの意)を行っている背後に、勝共連合・統一教会といった安倍晋三・岸信介からきたアメリカ属国化と韓国人支配をはかる政治運動が存在し、ネット上で右傾化めかした対米追従や安倍晋三独裁の扇動を通じて、低IQさに相関した右翼のもっている差別し易い脳に洗脳をはかっていることが見えてくる。保守性は偏見の一種であり、物事を正常性や現状維持と関連させ変化を拒否する方におもいこみやすい脳の勘違いなのだが、カナダ・ブロック大学等の調査で低IQさと差別的考えをもつ傾向は正に相関しており、結局、憎悪サイトはサブカルに影響され易い低IQ層のうち、更に最低IQの層を狙った洗脳・喧伝装置となっているのが現状だ。ところがゆとり世代は低学力化*1の影響からIQ一般も低下していると考えられ、このサイトに激しく影響されており、一般に右傾している。麻生太郎が第二次安倍内閣以後、副総理・財務相の立場から「ナチスを見習ったらどうか」と発言した事があったが、まとめサイト愛読者は統一教会の教義・朝鮮人選民主義の政治運動版である勝共思想・日本のアメリカ属国化戦略が、一般的保守性と矛盾していても批判的に解釈できず、政治的選択肢を0にし思考停止に陥る独裁主義の信奉者となり易いほど、一般知能が低い人々なのだと考えられる。このため、ゆとり世代一般の中では安倍晋三や自民党の独裁が、ほかのあらゆる保守性、あらゆる政治的思想に優越しておきかえられている。知るべき事はこの右傾の傾向は、一般知能の低下に伴う他の洗脳され易さ、騙され易さや保守性を含む差別し易さ、偏見を持ち易さと連動して出てきており、しかも安倍・自民の政略であるアメリカ属国化の一部として新自由主義の格差拡大論と正に相関している、つまり日本人の低所得層の教育程度、文化資本の貧困化、低IQ化、低EQ化につながっている。自民はこの傾向を知っていて、原理研究会に所属していた世耕弘成によるチーム世耕を前身にもつ自民党ネットサポーターズクラブというネット扇動部をつかって、安倍や自民を最低程度の一般知能層に信じさせるよう洗脳を進めているし、若いほど洗脳を受けやすいのを考慮して18歳に有権者の年齢を引き下げる事さえした。

 ところで魅力度問題は3万人にネット調査した結果からきており、ネット調査一般にみられる集団極性化やサイバーカスケードによる偏向性を顧慮しても、上述の低俗性・低教養性・低IQ性を帯びやすいと考えられる。なぜならブランド総研は20代~70代に同数になるよう調査したといっているが、もしこれを忠実に実行すればネット大衆の意見を人口比に応じて集めた結果になるため、数の多い中~低所得層や犯罪率の高い大都市部の意見がより反映されやすくなるからだ。
 マスメディア・サブカルチャー・まとめサイトに洗脳され易いこの大衆層に茨城を高魅力度と思わせるには、主にこれらの通俗メディアに他都道府県より継続的かつ効果的に最大の広告費を投入し、俗受けを狙えばいいことになる。栃木や群馬はブランド総研に提携して順位をあげる骨を購入し実際に順位をあげているので、茨城県庁も同様にするか、それらの手法にまねることも効果がある。
 他方、本質的にはブランド総研の田中章雄はこの様なネット調査による情報操作で都道府県の税を食い物にする悪徳商人という面も確実にあり、彼の書く記事をみると、いかにも自らの調査が真かの前提にたって上位県をべた褒めし、下位県を貶し、確証バイアスのマッチポンプでマスメディアと卑しい商いをしているのがわかる。また茨城以外のいずれかの県が同様の差別被害にあいつづけるのも予想できる範囲内なので、更に戦略的にブランド総研・田中章雄への対策、しいては日本人一般大衆のもつ脳への戦略的対策を考えると、次に述べる様な方法になる。
 第一に茨城は県内情報をマスメディアへ発信しない、全県で唯一テレビをもたない自治体な事から、多かれ少なかれステルス性、隠密性を帯びている為、別の見方をすれば情報漏れの度合いが全国で最も低い傾向にあるという事だ。県外人が茨城を魅力度が最低だと考えているのは実際にはこの隠密性に由来しているのであり、県内事情を熟知している側は情報非対称性の盲点が外れているので県内の魅力が他県より優れた面を大変よく知っている。孫子「彼を知り我を知れば百戦あやうからず」孔子「人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」という2つの格言は情報非対称からくる隠密性が最善であると示唆したものであり、県外人が茨城へ魅力度差別の確証バイアスを高めれば高めるほど、実際には県外から我々の情報を見て取れていない、という意味で有利有徳な立場を強化してきたのだと考えられる。
 第二に、偏見とは誹謗、回避、差別、暴力、虐殺の各段階を辿って強化され易い「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」である*3。ブランド総研・田中章雄は知ってか知らずか国内に内乱を起こす最初の偏見づけを強化する反日扇動屋だと言って差し支えなく、憲法14条(法の下の平等)違反の門地差別に該当する都道府県ヘイトで、長い目でみれば日本人虐殺を、一般大衆という名の衆愚へ煽っているのだといえる。ここが魅力度差別を看過したり、単に自県が上位化すれば済むといった次元を超えたヘイター田中の悪業、また都道府県ヘイターである日本人一般の悪業になるわけだ。前述のよう偏見は低IQに正に相関した一般知能の低い人がいだき易い勘違いの集積であり、マスメディアで容易に操作されている。裏返せばマスメディア後援者を独占してしまえば、下流全てを洗脳できるので今後、茨城県資本の第一目的はまとめサイト、サブカルチャーを含む全マスメディアを独占していく事に定めねばならない。特に若い世代ほどテレビを見ずネットを見る傾向にある(総務省)ので、将来を考えるとネットで若者に訴える広告が重要な投資先であるべきだ。田中章雄や自民党ネットサポーターズクラブ、また都内マスコミの最大の悪業は偏向報道で都道府県差別を含む、悪意ある偏見を広めている、という低倫理性にある。茨城県資本は全世界のマスメディアを独占する事で、単に茨城への偏見を解くだけでなく、全人類を含むいかなる人、いかなる場所、いかなる世界や価値観へも偏見のない寛容で自由な考えをもつよう導く使命を帯びているのだ。この遠大な目的に対して、わが県資本はまだ十分足りないし、現状では東京や大阪、京都といった大都市の卑俗で悪意ある衆愚がマスメディア後援者を兼ねているので、都道府県差別を含む偏向報道、偏見強化をやめたがらない。なぜならこれら大都市に有利で他県に不利な情報で一般大衆を洗脳する事が彼らの商業的利益や政治的権限の拡大に適うと考えているからだ。専ら政府に国会議員や県庁が憲法14条をもとに訴えを起こし、都道府県差別につながる偏見の強化につながる偏向報道を罰するよう働きかけ、ブランド総研・田中章雄という第一元凶も具体的に逮捕・罰する必要が絶対にある。大井川知事はいばらきイメージアップ大賞・特別賞の付与で田中が茨城への偏見を広める事に鼓舞を与えてしまっているが、罰するべき公害に餌付けをすれば田中がますます都道府県差別を調子に乗って行うのは明らかなのだから、日本人虐殺誘導のヘイターを誉めているのと一緒なのだ。少なくとも政府は田中の流布する偏見が日本人ヘイトの原因となっていると認め、放送法やネットメディアを含め、都道府県間に偏見をもたせるような報道や表現を憲法14条の理念に基づき、ヘイト禁止法の罰則対象に含める必要がある。
 第三に、経営学用語としての差別化は競合他社と異なる商品の特徴をだして選択誘引についていうが、上述の特別賞は大井川県政が逆張り*4の立場から、ブランド総研が負のイメージで茨城を逆差別化した、と評価したと解釈できる。つまり逆張りで茨城ブランドに投資する事は、本来の実力と情報非対称による過小評価が乖離している事が魅力度最低説の原因なのが県内情報保持者には明らかなので、いわゆる投資家とみれば正しい選択といっていい。ギャップ効果(直近で連続した相反感情は加速度的に強調して感じられる)と、ゲイン・ロス効果(悪印象を抱いていた相手への好印象は強調して感じられる)を考慮すると、魅力度調査の結果をブランド総研が出す例年10月のできるだけ直近直後にマスメディアを通じ、強烈な茨城あげの感情的な好印象報道を全国集中的に連続させるのが、ギャップ×ゲインで数十倍の投資あたり好印象宣伝効果があると考えられる。また大衆評価が低いのは逆にスノッブ効果から高級化イメージに向いており、上述のロス効果(好印象を抱いていた相手への悪印象は強調して感じられる)を通俗大衆からの高評価に伴って得やすい9年連続最上位の京都、北海道、沖縄(特に京都市、函館市、札幌市が10年連続)が低級イメージ化し易いのに比べ、茨城は大衆のよりつきがたさ、無名性によってより一層高級ブランドにし易いのである。大井川知事はこの点を知ってかしらずか銀座アンテナショップを高級化リニューアルすると予算計上しているが、フェラーリやランボルギーニ本社を擁する高級ブランドの本場の一つに該当するイタリアのエミリア・ロマーニャ州と茨城は姉妹都市であり、フジタのアトリエやディオールの別荘を有したエソンヌ県とも姉妹都市であって、それら姉妹都市から高級ブランド店やハイカルチャーに該当する芸術家・デザイナー生活圏を誘致あるいは協働し、将来的に世界中の高級ブランド地域に肩をならべ或いは超える事を志向し、いかに茨城県域の高級化をはかるかに知恵を絞らねばならない。上述のブランド総研10月発表にあわせた好印象集中宣伝に、この県内の高級化イメージを重ね、専ら国内における高級ブランドの最高位を独占するよう産業そのものを高級化していく必要がある。日立に代表される茨城の産業は農工業において日用品(コモディティ)を既に大量供給してきたので、次にめざすべきは結城紬やサガミ・クリスタル、常陸野ネストの様な非大衆的でスノッブ効果側に属する高級品を多数うみだし、その品質と評価を国内外への販売によって確実に高めていく事だ。

 話を北茨城に限ると、沿岸部の気候や風光の良さが世界で最も優れている場所の1つが明らかだから、 将来的に高級リゾート地区として北茨城沿岸部を再開発していくのが最善であろうと思われる。あんこう鍋、どぶ汁といった日本で唯一、最も美味な料理を旗印として美食文化にも発展の余地があり、世界中の超富裕層が好んで北茨城に別荘をもちたがるよう、リゾート、行楽地たる高級ブランドへの集中的開発をはかるのが効果的ではないか。また一般にこの前段階として、芸術家村が工房の集中として起きることが多く、ハイカルチャーは高級イメージを促進し易いので、マスメディア・サブカルへの広告費投入は県にまかせ、特に北茨城市はハイカルの集中をはかる事が戦術的だと思われる。五浦派はこの前々座と解釈でき、平成以後も専ら豊田氏が試みている類の芸術家村の集中を、空き家や廃屋の無償供与で若い作家を世界中から誘致する事、また彼らが生活できる市場づくり、有効需要喚起になる買い上げ、公共作品の蓄積等ではかるのが、長期的には居住への憧れをうみ沿岸部のリゾート開発に繋がっていくと考えられる。

 これらと別に、心理にはピグマリオン効果(教師の期待する程度に応じて成績が変化する)とダニング・クルーガー効果(低IQほど自己評価過大、高IQほど自己評価過小)があり、まず県外経験者が悟った茨城は世界一魅力的なのだ、という長所を伸ばす観点を不動の視座としてもつ指導力を常に維持促進しなければならない。遠からずこの種の県指導者が期待する通りの成績を県民は出しやすく、茨城は実際に世界一魅力的な憧れの地になっていくからだ。他方、単なる中華思想のうぬぼれにみられる、都民や京都市民に典型的な傲慢は戒められねばならず、県外の美質へ積極的に学び習い、県内の欠点は常に厳しい自己批判で改良を続ける賢慮を保たねばならない。総じて魅力度差別は、偏見亢進の最終段階で最悪の虐殺につながる以前に、善は急げで政府に県内国会議員が団結して訴え、偏向報道や都道府県ヘイトを大衆一般へ法的に罰する条件づけ、また都道府県全てについて等しく尊重する真の意味での愛国心の啓蒙は今すぐにも必要だが、これが今の段階でも天皇居住を主な理由に東京や京都がもってしまっている自己過大評価の陋習たる中華思想に比べればまだ救いがあるのは明らかである。なぜなら低IQ衆愚による過剰評価は破滅へ至る広い道、広い門に他ならないからだし、それなら、迫害する愚か者の多い正しくとも狭い道、狭い門の方が明らかに高IQ賢者からの高評価として立派な結果をもたらすのが現実の業だからだ。要は裸の王様につながる救いようがないうぬぼれに比べれば愚者から着せられる汚名の方がまだ害が少ない。実際、京都はイジメ4年連続最下位、観光公害、東京は犯罪数万年最下位、体力最下位など最下位に属する負の特徴が多すぎ巨大すぎて手に負えない程なのに対し、茨城は短所が少なく、長所が多いためネガティビティ・バイアス(消極性の偏見、最も劣った点で特徴がかき消される)に影響され易いだけなのである。またハロー効果(後光効果、最も優れた点で劣った特徴がかき消される)を自己過大評価で強調しているのが、北海道や沖縄、東京の低IQ的うぬぼれ傾向であって、北国・南国の極端な自然環境からくる観光地としての人気で貧困を覆い隠したり、人口の多さからくるGDPで自給率の低さや最下位の犯罪数、その他の過密によるあらゆる負の影響を覆い隠したりしているわけだ。総じて魅力度上位県に学べるのは、傑出した長所を過剰宣伝し、他の欠点を隠蔽なり無視するという「目立ちたがり屋」「うぬぼれ屋」の性格がブランドとして過大評価されている事だ。この欠点改善より長所強調に逸る態度は、単にブランドイメージづくりには最も役立つ行動様式だが、県政一般とみれば大いに疑問なのであって、地味でも厳しい自己陶冶によってのみ、真に優れた県ができると考えるのが賢明ではある。つまり、我々が魅力度調査に学べるのは、茨城の傑出した長所、特に人口あたりの研究機関数が全国で圧倒的最高位(偏差値85.76)なのを一点集中してブランド化につなげるべき、という事だ。茨城といえば研究所、高度な科学技術、先進的、賢いというブランドイメージに突出し、他の点は上述の対策などを駆使して大まかに無視していくのが正しいのだろう。そしてこの研究ブランドを完璧なものとするべく、全地球で最も、茨城に研究機関が集積しているようあらゆる点から研究機関立地に望ましい誘致・開設・助成活動をますますはかっていくべきだ。研究機関数ではいまだに4位にとどまり、最低でも東京の1139軒以上を県内に多数集積させ続けねばならない。

ーーー
*1 サブカルチャーは低俗な人達を主な享受層と考え馬鹿でもわかる様な表現を使う大衆商業芸術であり、単に本能や卑俗な欲望に肉薄した扇情で俗受けを狙うだけでなく、実際に子供ほど影響をうけやすいよう理解に必要な前提的知識をできるだけ減らそうとする。単純で幼稚な表現、また卑猥で下品な内容に向かいやすいのはこのためであり、根底にあるのが生計の必要に迫られた貧民にとっての商材であり、また金儲けそのものを高尚性より目的にした商人の作った売り物らしさである。よりわかりやすさを重視し、音や絵や文字・言語、身振りをくみあわせ応用芸術化する傾向もある。これに対し、王侯貴族や金持ちが後援者となってきたハイカルチャー(伝統的又は前衛的な純粋美術、音楽、美術、建築、演劇)は、無教養な一般大衆と自己を差別化する為、理解の前提知識をさらに増やし、難解で近寄りがたい威厳とか、商品価値と異なる聖性とか、知識人や教養人にしか親しみえない高尚な特徴を目的化してきた。ハイカル内でサブカルを用いる時は、大衆一般や卑俗な見方で自ら享受してきた場合の鑑賞態度と違って批判的考証とか知的分析、文化的批評といったメタ認知に解釈点がおきかえられているのであり、ハイカル自体の多様性や通俗的大衆、時代の理解に寄与する道具としかサブカルは捉えられないだろう。

*2 PISA 非ゆとり(2000)科学2位→ゆとり(2006)6位 数学1位→10位 読解8位→15位 東大ランク2004年(非ゆとり)12位 → 2018年(ゆとり)46位 (Times Higher Education)

*3 米国の心理学者ゴートン・オールポートによる。

*4 ぎゃくばり。相場用語で値が下がったところで将来の値上がりを見越して買う方法。

2018年4月22日

公立教育無償奨学金について

 政府が奨学金を付与する範囲を「公立」に限るなら、これは学生の費用負担の面から合理的である。他方、公立について一律無償化するなら、寧ろ富裕層に有利だから、奨学金拡充に比べ議論の余地がある。また私立を含む無償化が過剰な富裕層への再分配だという論理は、正しい。
 奨学金の中でも貸与(有償)と給付(無償)があり、政府の行う奨学なら常に給付・無償であるべきだ。なぜなら拠出元が国税なのだから、学生自身が二重負担するのはおかしいからだ。
 給付奨学金(無償の奨学金)を政府が公立生徒・学生に与えるのが正しいとして、この際の所得制限を見分けるのに費用がかかる。つまり進学を諦める誘引となるほど一定より貧しい家庭や学生生徒に限って実質無償となる奨学金給付する。その基準は進学率を向上させるため、中程度の所得以下に定めるべきだろう。一律無償化の方がわかりやすくなるのはこの手続き費用のためだが、公平を考えると奨学金の方がすぐれている。
 給付奨学金の所得制限調査に国民番号を使った機械的手続きを行うべきであって、この種のしくみを最大限に民営化する事、特にウェブを通じ手続きを簡素化する事が最も合理的だ。国民番号を用いる以上、暗号化を含めた手続きサイトの運営母体自体を民間委託のコンペで選び、この委託先を一定期間で、手続きの全てを市民に公開記録・録音録画・ライブ配信して再審査する事が有用だ。給食費や修学旅行等経費も含め、できれば学校側で奨学金対象者を自動的に把握できるウェブ上のしくみと共に同運営業者を公募すべきだろう。

 茨城県についていえば、2018年現在、4位の可住域に比べ、大学数9個(23位)と少ない。しかも公立1校、私学も5つと、国立大は3つで同じ数である京都が公立4校、私立27校もある事に比べ圧倒的に少ない。大きな理由は大学数が最大の東京都に進学する人が多すぎる為だが、国に働きかけつつ大学誘致を積極的に図り、特に私学誘致に有利な税制を造る事、またオンライン教育を含めた公立大の設置に積極的な施策をとる事で先端的教育の集中地となる事をめざすべきだ。
 国から与えられる奨学金に加え、県内大の進学者について上述の無償奨学金を付与する事で学費負担を世界で最小にする事が、世界中から優秀な学生を集める鼓舞となるだろう。
 既存の大学についていえば、通信制大学である放送大学の茨城学習センターの利用案内を県内の全公立校・私立校に配り、この大学は高卒資格なしでも、或いは高校時代から単位認定の為にオンラインで講義を受けられ、費用負担も通学生に比べはるかに少なく、オンライン授業が主であるから入学定員も基本的になく無試験でだれでも入学できることからも、高校教員に大学紹介を義務づけて県内進学者を多産するべきである。と同時に県内の国立・公立・私立の大学にオンライン授業の講座開設を官民で推奨し、入学定員なく希望者全員が県内進学できる体制を手急ぎ整える必要がある。

2018年4月7日

潮干狩りの乱獲防止策と茨城潮干狩り祭り

 県内潮干狩りは乱獲防止のため、現場で焼いて食べる範囲に限り、持ち帰りを禁止する条例を各市が決めるべきである。同時に、漁師、漁協や商工会、商業者は毎年、茨城潮干狩り祭りをシーズンに開催し、現地でとった貝をパーティのように食べられる会場をつくり、県産品の販売会をかねるべきだ。国内外の客をよびこむ潮干狩り特区を決め、そうでない海岸と区別し、砂浜の汚染を防止する。

2018年3月29日

事前了解協定への参加

 原発再稼働事前了解の協定に、北茨城市と高萩市、いわき市も進んで参加するべきだ。
 いうまでもないが、これらの自治体は原発災害で致命傷を受ける(受けてきた)のに、普段から何の保障も受けていない。今後も同じだろう。北茨城市が身を挺し被災者の代表として、東海第二原発を止めることなしに、茨城県が子育て支援をしているなどと述べる事はできようがない。いつ大事故が起きるか分からない場所で、進んで子育てしようとおもう母親がこの宇宙のどこにいるというのだろう? 人が怖がる施設、いや命を奪う施設の最たるものである原発が、魅力度を下げる要因の一つなのはまちがいない。

2018年3月26日

茨城県研究所集積策と、北茨城美術品控除税制案

 茨城県が1位のことは沢山あるが、我々が悟るべきなのは、この既に1位の分野をますます圧倒的に傑出させるよう力を使い、かつ力が余ったら(その機会は圧倒的な集中に対してはるか少ないが)現時点で2位の為もう少しの努力で1位になれる分野をも1位にし、この「圧倒的な1位」を茨城県の単位でますますふやす方が、欠点の克服より戦略的に望ましいということだ。
 鹿島アントラーズの小笠原満男選手が「1位以外は2位も最下位も一緒」という王者のアイデンティティで士気を鼓舞しているのは、勝負の本質を示している。と同時に、茨城は実際には孤独ではなく、他46都道府県と同じ国に属しており、茨城が世界1を取ったということは、同時にそれが日本が世界1を取ったことでもあるのだ。つまりチームプレーとは互いの傑出した長所をかけあわせて最も優れた協調性を発揮するものなのであり、国という単位に属する観点からは、個性に他ならない欠点を自ら補うより、他都道府県の長所で我々の欠点をカバーしてもらう様にした方が総合力を発揮し易い。例えば既に京都(あるいは北海道、沖縄、東京)といった自己の魅力を喧伝する事について傑出した自治体が国内にはあり、わざわざ赤い海としての観光集客的な自己宣伝を我々までが行ってみたところで、既に有名なブランド価値をもっている自治体を茨城がのりこえるのに要する費用は莫大となる。費用対効果が低い。そして欠点のない自治体はどこにもなく、それどころか茨城県がもっている欠点はどちらかといえば少ない方に属する。全般的に長所が多い分、はっきりした欠点が極めて目立つというわけなのだ。
 嘗て分析されてきたよう、ここでいう欠点として県民がここ最近の共通課題としているブランド総研の魅力度調査は、生活先としてより観光地としての魅力度をつよく反映している傾向があり、実際にくらしている県民である我々自身は県内の優良観光地をしっているにせよ、それ自体が県外人の趣味嗜好と異なっていると同時に、資本を投下して宣伝したりますます有名にしていく傾向について日本で最も欠けている、と県外日本人の一部から評価されているのである。例えば偕楽園、水戸弘道館、西山荘、例えばネモフィラの丘、例えば筑波山、例えば霞ヶ浦、例えば五浦、磯原海岸、雨情記念館と生家、例えば鹿島神宮、例えば日立駅、例えば大洗水族館、大洗海岸、例えば花貫渓谷、例えば久慈川の渓流、例えば水戸線の田園風景、例えば見渡す限り地平線まで黄金の稲穂の稲敷市、例えば袋田の滝、例えば利根川、例えば古河の桃まつり、例えば大津の御船祭り、例えば水郷潮来のあやめ祭り、例えば水戸芸術館、例えば鵜の岬、例えば牛久大仏、例えば常陸風土記の丘、例えば虎塚古墳、例えば那珂湊反射炉跡、例えば日立の工場、例えば佐竹寺、例えば板谷波山記念館、例えば茨城県庁の展望台、例えば美浦トレーニングセンター、例えば筑波サーキット、例えば筑波学園都市、例えば奥久慈しゃも、例えばあんこう鍋、例えば吉原殿中、例えばローズポーク、例えば雨情の里牛、例えば竜ケ崎コロッケ、例えば天心焼、例えば結城紬、等々、これら県民にとっての有名どころでさえ数え上げればきりがなく、北茨城市民のみならず、茨城県民自身が身近に愛好し、極めて高い歴史的価値、魅力を感じている観光資産はほとんど無限にあるのだが、県外の人々は我々について日本で最もなにもしらない。そしてそのことについて、県外の人々は関心をもとうともせず、却って無知を合理化するべく何もないと差別的に我々の名誉を侮辱し、我々自身はこの不条理な県外日本人らの態度にがっかりし、内心軽蔑感を感じつつも、自足している。なぜなら我々は県内外の観光を共に充実して行えるし、実際に行ってきたのに、県外の人々は我々の観光資源について余りに無知すぎ、その事を恥じたり反省する気配すらないので、茨城人と県外日本人の間のすれ違いは終わらないからだ。こうしてみると、茨城県という地域は不思議な運命に導かれている、ある種の聖域といってもいいだろう。首都圏の情報が直接入るので自前の民放テレビ局を持つ必要がなかった、という条件は、栃木や埼玉、千葉、神奈川についても同様だったはずだが、儒教を経由した水戸学上の謙遜の美徳の為か、それとも茨城放送の経営基盤の脆弱さの為か、茨城の情報についてひとりでに県外に対して隠密化させた。前知事橋本氏がいばキラTVを作って以来、多少なりとも県内情報が発信される様にはなったが、これを除けば日本で最も自己発信しない、日本で最も謙虚な自治体が茨城であり、その目立たない地味さを好むわが県の処世態度が、魅力度が最低であるという偏見を県外の愚民に持たせる原因になったと洞察できる。そしてこの自己謙遜という美徳は、今日の世界でみればむしろ嘗ての封建領主や貴族が多かれ少なかれ上品さとしてもっていた特殊な思慮深さに由来しているのであり、インスタグラムとかツイッター、ユーチューブ等の情報発信を気軽にできる媒体が増え全人類がその自己宣伝に感けている今日、ますます希少になりつつある。もし如何に県外の無知な日本国民、ブランド総研の田中章雄を含む衆愚から、我々茨城県民が侮辱され、誤解され、わが県が不当に辱められていたとしても、これに心ある者なら全人類のだれでも感じるだろう怒りを抑え、愚かな日本人を相手にしてもできるだけ寛容に接しつつ、県内の良所について謙虚に述べる事ができたなら、それはわが県民が功徳の結晶によって聖なる人々な証拠である。尤も、多少なり知性がある人物ならわが県についても好奇心に基づいて既知の筈だから、この種の無意味な差別や偏見を喧伝している、田中章雄や今日の虚報に満ちた都内マスメディアの衆愚性へ何らかの仕方で憂慮を表明してくるであろうし、最低でも知らない相手について侮辱するとか、田園地帯を訳もなく都心中華思想で差別するといった明らかな愚劣さを示す事はない。

 ところでわが県に既存の長所のうち、現時点で研究機関数の人口比が圧倒的に1位である事が、今後も世界1をとりつづけていく一つの有効な戦略であろう。すなわち、全世界から研究機関を茨城県域へ集積させる様、この点に集中した誘致・起業活動を行うべきである。IT事業といってもその中で、シンクタンク、研究所という情報分析・戦略的な研究分野の起業や誘致をはかり、制度的に鼓舞するのがおそらく最も、わが県が世界史に重要な貢献をする為に有効である。四六駢儷体の民俗学的地誌『常陸風土記』からはじまり全編漢文による正史『大日本史』、筑波大における3つのノーベル賞受賞者等の伝統的傾向にみられるよう、常陸と下総の一部を含む茨城県民は知性を発揮する事にかなりの実績をあげてきたのであり、より上位概念としては、知識集約的な産業集積をはかるのに好適な環境条件が揃っているのだろうと考えられる。例えば年間を通して穏やかな気候や、分散型の都市構造をもつために大都市の喧騒から離れ研究に集中し易い事、また広大な土地は研究機関を立地させるのに好ましいのだろう。県民の平均学力という点でみても比較的上位に位置する状態だが、更に知的労働者を集めた結果として、県民の知性の中央値をひきあげる結果をもたらす事が、一般知能や学歴と正に相関しやすい生涯年収または所得、そして所得の対数に比例する主観的幸福度へと県規模でつながっていくだろう。
 他にもメロンや栗といった17品目以上の農作物の出荷高とか卸売市場での青果物シェアや、真珠の産出量とか、平野、川、工場、耕地、住宅の広さ、等々についても1位であり、公園や湖の広さ、小中学生体力テスト成績、五輪選手の金メダル数等々についても2位が多数あるわけだが、これらについては別のところで考察する事にする。

 最後に北茨城市の現状に上述のことをあてはめると、伝統の傾向から美術家を集めようと考える事は、美術一般もそうだが、特にそのうち特に純粋芸術は知識集約的なしごとだから、同様に茨城県の未来を拓く基本戦略と合致し得る。既に県内取手市には東京芸大のキャンパスが存在するわけだが、そもそも芸術系大学という制度はその創始たるフランスのエコール・デ・ボザール教育にみられるとおり、古典の模倣をさせる傾向をもち、歴史的には前衛性に対する反動として機能した。芸術の本質が独創にあるからには、芸術は学習しえず、むしろ教育し得るのは単なる学習可能な知識の体系としての美術史や芸術史、或いは個別の素材についての材料工学くらいのものである。これらは科学に属し、多かれ少なかれ、学生が前例をまねることができるからだ。したがって最も知識集約的な美術分野とは、これら美術史の教養を背景に、材料工学の応用として表現される、前衛的な純粋芸術そのものだといえる。ところで、この種の前衛作家が市内に多数集積する為には、彼らの作品が市内でできるだけ高額で盛んに購買される需要がなければならない。特に世界最大のシェアをもつ競売会社が未来のいずれかの時点で市内にでき、ここが世界の投機美術市場を牽引する事で、世界中からわが市に最先端の美術家を必然にあつめる事を企図しよう。また同時に、そもそも市民がより知的な負荷の高い、理解しがたい前衛芸術を好んで高額で購買する様な条件づけが必要なわけだが、アメリカに倣い、投機商品として前衛性のある作品の先物買いや、その種の潜在的才能をもつ作家への先行投資が、この市にて世界で最も活発におこなわれるようにならなくてはいけない。これは絵画を中心とした美術を嚆矢とし、彫塑、建築、音楽、文芸といった純粋芸術一般、或いは応用芸術としての陶芸や民芸、その他のサブカルチャーといった商業芸術一般についても同様になり得るが、選択と集中が投資収益率や市場シェア占有率の乗数としてより効果的であるかぎり、特に五浦派の前例がある絵について、模範的な役割を示すべきであろう。
 そもそも、これらの美術を装飾品として買うに足る資産家が、市内に多数存在している必要があり、それには金融教育を通じ、できるだけ稼いだ額について些細な消費に回さず、投資を行う習慣をつけるべきである。個人投資家・与沢翼の説では、圧倒的な富裕層になる筋道は2つしかなく、1つは経営者になる事、もう1つは投資家になる事である。このうち、経営者は起業または出世・相続によって自らの事業をもち、その純利益を高める必要がある。投資家になるには証券口座を開いたり、仮想通貨を含む為替取引業者に送金し金融商品を売買すればよい。すなわち、北茨城市内に既にある会社か、それ以外に自ら起業し、組織か個人で事業の採算性を高めていくという筋道か、合理的な投資知識、金融工学に基づいて利益の上がる金融商品を保有する、どちらかの道を辿り、このうち経済的には投機・投資商品の一種とみなせる美術品を市内において活発に取引する文化を形成していくしかない。市内に作家が糊口をしのぐ以上に多数集積する為には、潜在的構造として、この経営・投資的な経済人が美術史的教養をもって、存在していなければならない。またこの経済人は金融資産の一部または全体を使い、市内作家の前衛芸術、前衛美術を買う必要があり、できればこの美術品の購入にかかる消費税を市内で無税または減税措置とするか、購入した美術品を市内・県内の公的美術館へ寄付しそれが美術館側へ受け入れられた場合、または市内で取引した場合に、作品の市場査定額を税控除する制度が有効である。そうすれば寄付を目的に進んで購入した先物的な前衛作品を、市内にこの経済人が寝かせておく条件をつけられるし、作品売却代で市内に作家が生活でき、またこの経済人の寄付後は市内・県内の美術館は査定額の高い作品を実質的に無償で寄贈される事ができ、行政にとっても民間の経済人にとっても相利的になる。美術館が既に市場査定額の高くなった、美術史上、または美術いちばの評価が定まった作品を購入する税負担より、先物買いのリスクを民間人が進んでとってくれる、この北茨城市・茨城県美術品寄付控除税制の方がたやすく傑作を手に入れやすく、美術館のみならず市県の名声を高めるのである。

茨城どうぶつの家の構想と、茨城県動物愛護条例改正案

 茨城の犬の飼い方や制度改革についていえるのは、先ずドイツのベルリンにあるティア・ハイム(ドイツ語で動物の・家)とよばれる民間施設へ北茨城市と茨城県の動物福祉の関係者(そもそもこのような職種がないなら、保健所の職員)を留学させ、またアルシャー・京子氏という啓蒙活動をしているドイツの日系獣医師と連絡をとって、市県の現状について相談しつつ、ドイツの法制度と犬を町中の殆どあらゆる場所でほぼ放し飼いで飼っている地域もあるそのペット共存社会の文化の在り方を根底から学びまねる事からはじめるべきである。この後、フランス、イギリス、その他の西洋、またそれ以外の国々の現状をつぶさに視察研究し、茨城とその他の自治体の長短を見比べて、動物の幸福度も人間同様に可能な限り図るという動物倫理学に基づいて、市県の条例や飼育文化のありかたを見直し、つくりかえねばならない。
  具体的には、次の点が模倣されるべきである。
動物の5つの自由(イギリス動物福祉法2006第9条)が尊重されねばならない。即ち
1.乾きと飢えからの自由 
 (1)健康を維持するために栄養的に十分な食餌を与えられている。
 (2)きれいな水をいつでも飲めるようになっている。
2.不快からの自由
 温度、湿度、照明など、それぞれの動物にとって快適な環境を用意できている。
 (1)自由に身体の向きを変えることができ、自然に立つことができ、楽に横たわることができる。
  (2)  清潔かつ静かで、気持ちよく休んだり、身を隠すことができる。
  (3)  炎天下の日差し、雨風を防ぐことができる。
  (4)  キツすぎる首輪など苦痛のある飼育環境にいない。
※  身動きのできない狭い場所、糞尿まみれの状態、日よけのない炎天下、雨風や騒音などにさらされている、といった飼育環境は動物にとって好ましくはありません。
3.痛み、傷や病からの自由
 (1)  怪我をするような危険物のある環境にいない。
 (2)  病気にならないようにふだんから健康管理をしている。
 (3)  痛み、外傷あるいは疾病の兆候があれば、十分な獣医医療が施される。
4.本来のふるまいをする自由
  (1)  各々の動物種の本来の生態や習性に従った自然な行動が行えるようにする。
  (2)  群れや家族で生活する動物は同種の仲間と生活でき、また、単独で生活する動物は単独で生活できる。
5.恐怖・苦悩からの自由
  (1)  精神的苦痛、過度なストレスとなる恐怖や不安を与えず、それから守ること。
  (2)  動物も痛みや恐怖、苦痛を感じることを理解し、もしその兆候があれば原因を特定して軽減に努めること。
・ティアハイムを丸ごと参考に改良を加え、公設民営、または県内有志の愛護団体からなる自主民営の「どうぶつの家」株式会社を作り、保健所に代わって野良犬や捨てられた動物を獣医師やブリーダーと共に茨城どうぶつの家、北茨城どうぶつの家といった愛護施設で保護する。そこでは暴力性の極度な動物や苦痛の多大な末期の動物への安楽死(窒息などの苦痛を伴う方法をとらない)を除き、殺処分を原則として0へ向けかぎりなく最小化させ、飼いたい人々へ有償で動物を引き渡す。また保健所と異なり、いかなる条件にある遺棄された動物も保護し、飼い主が飼いきれなくなった場合にも保護する。飼い主による動物虐待が明らかな場合は条例で、飼い主から動物をとりあげこのどうぶつの家を含む動物愛護施設へ輸送する事を義務づける。飼い主が愛護施設からペットをとりもどす際には罰金の代わりの料金を徴収する。これまで保健所が行ってきた遺棄動物の殺処分という業務を禁じ、代わりに保健所は遺棄動物や迷子の動物を、可能なだけ動物5つの自由を守った形で、上述の愛護団体施設へ届ける役割、または、人を激しく咬み傷つけたり死亡させる事故を起こした為に危険と判断された犬を、同じく同愛護団体施設で安楽死させるまで安全に運ぶ役割を担う様にする。飼い主に受け渡す動物にはマイクロチップを装着し、遺失してもGPSで位置がわかるようにする。例えばどうぶつの家では一般市民が有料で飼育動物と遊べる場を設け、児童公園やカフェを併設する事で、飼い主にならないまでも動物たちと戯れる癒しの場を想定し、自然に接するよう選ばれた立地地点と共にできるだけ魅力的な親しみのある現代建築と共に地域の資産となるよう構想する。たとえばティアハイムが犬の檻が花弁の様、中心から輪の様に配置されているのは、社会的動物としての犬同士が互いを見る事ができるよう、同類から完全隔離されないよう配慮されているという。獣医学や動物倫理に基づいた設計とし、豊かな植物と自然環境に囲まれ、だれでも動物とふれあえる場所として茨城県や北茨城市の世界的に有名な観光名所となる事をも構想できる。それには、少なくとも世界で現時点で最も進んだ同様の意図による愛護施設と考えられるベルリンのティアハイムを超えた工夫と改良主義的な先進性の美質が必要である。(参考1参考2参考3
参考3、ベルリンのティアハイム(出典1

 ・県犬税、市犬税を、上述の動物愛護団体を除き、飼い犬または販売店における売り犬の頭数あたり取り(頭あたり年額1万円以上数万程度か)、この税金を犬のしつけを行う専門家としてのブリーダー教育をおもとした動物愛護団体への投資(上述のどうぶつの家の主要株主になる事を主として、市県の動物愛護関連投資に用いる)、犬が自由に走り回れる広大な空間であるドッグランの整備や地域公園への併設、市県各地に置く清潔を目的にした犬のトイレ跡を入れる専用ごみ箱の設置、或いは狂犬病の予防接種費の助成などに使う様にする。この犬税の目的は販売店が安易に犬を販売する事や、飼育しきれない飼い主の無責任な犬の衝動買いを防ぎ、販売店・飼育者両方の負担を今より重くし飼育前に熟慮を促す事、なおかつこの犬税水準を県内の遺棄動物を「どうぶつの家」から有料で貰う方が安くつくように設定する事で、すてられた動物、虐待する飼い主から強制的に離された動物に、どうしてもその子を飼いたいと考える新たな飼い主を見つける鼓舞をつけられる。(参考

茨城県動物愛護条例は4条2「終生飼育」5条「係留」11条「殺処分」の項目についてそれぞれ改善しなければならならい。
 先ず終生飼育に関し、動物5つの自由を必要十分に与えられなかった飼い主については事実上の動物虐待と見なし、飼い主は動物に関する実質的所有権を失うと考え、動物福祉の観点から行政が同条例に基づいて原則として該当の動物を保護し、動物愛護団体へひきわたさねばならない。またこの愛護団体は同様の5つの自由を動物に確保すると同時に、この自由を動物へ与える事が確実と見なせる新たな飼い主へ、飼い主の義務と基本的しつけを守る制約の元で引き渡すよう努めねばならない。公共空間でリードなしに放任した際に動物が他者へ与える害や、噛みついたり、吠えたてたりする事で他者へ与える怪我や恐怖を厳しく罰したり、飼い主が犬の習性としての縄張りづくりとして排泄行為をした際、固形的排泄物を清掃する義務を必ず守るといった、この基本的しつけの範囲については、獣医やブリーダーと相談の上、同条例で或る程度細かく規定しておくべきである。同条例の基本的しつけを飼い主が怠っていると明らかに見なせる場合は、警察が罰金に処するか、他人が与えられる害を防ぎ、動物を保護送致するまで当該飼い主を適宜に一時拘留し、獰猛な危険犬種について他人を容易に致死に至らせる状態に置く等程度が酷い場合は刑期を与えねばならない。但し、現にドイツやフランスをはじめとする西洋圏では犬が放し飼いにされているのが現前の事実なのであり(実際には州によって異なるリード付の義務などがあるとされているが)、日本でそれが不可能なのは、犬へのしつけが適切に行われていない事に原因があると考えられる。すなわち、犬を飼う為にはこの放し飼いにされても公害を与えないための基本的なしつけを飼い犬に対して飼い主が行う責任があると考えられるのであり、上述の「どうぶつの家」等の愛護施設には専用のブリーダーを備えたドッグ・スクールを併設する事を同条例で義務づけ、基本的しつけが整い、飼い主もその扱い方をおぼえるまでは飼い主の元で暮らせない様にするべきである。各個人の元で繁殖した犬についても、この飼い主が自らドッグ・スクールに通わせるか、同等以上の基本的しつけを与える義務を同条例で定義し、この規則を破った場合には罰金、動物保護の為の拘留いずれかが与えられねばならない。端的にいって、人間社会で飼育する際に自らの飼い犬へしつけを与えないということは遠からずその犬の反社会性の為にこの犬が世間から害悪扱いされる将来を予想させ、一種の動物虐待だと考えられるのであり、したがって同条例では犬へのしつけの義務を飼い主の最も重要な義務と定義しなければならない。さらに、子犬を生後8週間たたないと原則として親犬から引き離せない(親がいない場合を除き、無理に引き離した場合は罰金を伴う)規則、飼育する檻・ケージ・小屋・囲い等の最低面積は体高50cm(立った状態で地面から背中までの長さが50㎝)までは6m2、65cm以上は102mとし、採光、通気、暖房設備などに基準をつくる。これらの規則と基準はEU動物愛護法にのっとるドイツの現行規則に倣ったものだが、茨城県動物愛護条例でも同則へ準じ、世界の動物愛護制度を寧ろ改良した立場にたつよう努めなくてはならない(これらの規則・基準の過酷さは動物販売業の負担となる為、遺棄動物をどうぶつの家から貰う誘因を間接的にもたらす結果になっているとされている)。そして様々な生活状況から動物をそれ以上飼うのがいかにしても不可能になった場合、少なくともその動物を動物愛護団体へ自己責任の元で必ず返す義務もこの飼い主の義務に含めねばならない(参考1参考2参考3)。
 次に5条係留については、上述のよう十分にしつけられ獰猛さという意味で危険性の低い犬種については事実上の放し飼いが放置されているのがドイツやフランスで都市部にみられる現象なので、例として以下にあげられている代表的な危険犬種の様な、人に死傷級の怪我を与える可能性が十分高い血統を除いては、寧ろ人へ公害や迷惑を与える可能性が高いと考えられる場面では飼い主の自己判断でリードをつけるよう努めるとか、別の規則で犬のもちこみが禁じられている場所(盲導犬についてのバリアフリー化を考えると、この様な場所は基本的に最小であるべきだろう)については予め定められているか、飼い主が適切と判断した位置へ一時的に係留する、と定める程度に緩和するべきなのかもしれない。公共空間でリードをつける事は、少なくとも未然に噛みつき事故を防止するという意味で、茨城の方が西洋世界より先に到達している公的マナーなのだと考えられるが、他人と接触する公共空間を除けば、できれば盲導犬のようよくしつけられている為、係留せずリードをつけなくとも暮らせるよう、人だけでなく犬の自由も増大する方向へと進歩しようとするのが正しい動物福祉の道筋だろうと自分には思える。ただし、万が一を考えて飼い主の自主性に任せたままで、公共の場では犬にリードをつけつつ、噛みつけないような口マスクを飼い犬へかけるのが飼い主の尊敬されるべきマナー、と捉えられるようにするべきなのである。つまり、現時点の茨城県動物愛護条例での係留の義務に関しては、「公共空間ではリード(綱)をつけ、万が一の噛みつき事故を未然に防止すると同時に、犬を好まない人へ飼い犬が接近する事を抑止し、公共交通機関などの中では飼い犬へ口マスクをかけるといった公共マナーを、飼い主が率先して守る義務」がかきくわえられるべきであると同時に、また私的空間での係留の義務は、公共空間での一時的な係留や危険犬種を除いて解除し、少なくとも飼い主がドッグスクールやブリーダーと共に厳しいしつけの義務を負う条文を義務づけるべきであろう。他国の危険犬種への扱いを参考にすると、危険犬種の一部については繁殖、販売、入国そのものを禁じている場合も、また飼育について許可証が必要だったり、その証明書をとるための適正検査を科している地域もある様だ。したがってこの種の人命にかかわる致死的攻撃性をもつ犬種を、私的空間から公共空間へみだりに遁走させるのは極めて公害度が高いと考えられるので、この場合に限っては飼い主が緊密に係留する義務と、遁走させたり他者を傷つけたり、恐怖を与えた場合の罰則や、一度以上の事件を起こした危険犬種を市県の行政が強制的に愛護施設等へ移送し、より厳しいしつけを行うか、攻撃性や狂乱性が明らかなとき、最大限安楽死を避けて終生、人に危害を加えない環境に隔離され育てられるようにする必要性を条文へもりこむべきである。このとき、例えば殺人を犯した犬に罰としての死刑や安楽死すら与えられないなら、究極のところ、人における死刑における安楽死の導入、あるいは死刑廃止論や終身刑を最高刑とする刑法体系への転換をも促すきっかけになるかもしれない。既にノルウェー等で実現している死刑廃止が動物・人による殺人発生率の漸減によって将来必ずわが国の単位でも実現するとしても、その途中では遺族の感情を十分に勘案したうえで、死刑に該当する安楽死とか、終身刑に該当する生涯隔離の妥当性をあてはめていくべき、となるだろう。単に愛護施設・受刑施設側の容積が足りないといった物質的理由で命を奪う事は決して文明的ではない。この場合、費用が足りない分は、公共や司法の分である税金から補填するのが当然といえるだろう。(参考
 11条殺処分については、これまで保健所が行ってきた時限措置としての炭酸ガスによる強制窒息死が動物の5つの自由を妨げ、動物の感じる主観的苦痛としての不幸をましているのが明らかだから、麻酔薬による苦痛をより小さくしか感じない安楽死をとる必要性がある。この事は人の死刑についても絞首という残虐な刑罰の仕方が、遺族の復讐心や憎悪感情へ配慮するあまりとられている日本にあって、同様の方法がとられるべきと示しているように思われるし、この種の安楽死の求刑そのものの倫理的本質を問えば、「単に自由を終生、反省のよすがを与える程度に制限する」だけに留まる終身刑の方が、本来の意味で償いの機会を与える、より過酷な刑罰だといえるのである。即ち、単に犬をはじめとした動物について、如何様にも生存が見込まれず苦痛のみがある個体に安楽死を与える方が生命倫理上正しいと獣医が判断した場合、動物の感じる苦痛が最小化する方法をとる必要性を、茨城県動物愛護条例にはっきり書き込まなくてはならない。保健所の殺処分業務はこの点で終了するべきである。同様に、動物一般に関する話から離れるが、茨城県の人間の刑法犯についても、最高刑が自由を奪い生涯を被害者と遺族への償いに捧げる終身刑になるべきであり、原始的な暴力による同罪報復論に過ぎない死刑は揚棄されると同時に、安楽死が今日の倫理的に正当化されるのは刑務者が深刻で甚大な苦痛を伴う重大な病気で回復の見込みがない為、それ以上の生存を刑務者が自らの意思において望まない様な場合に限るであろう。(参考1参考2参考3

2018年3月25日

芸術における聖俗と品性について

 芸術には高尚なものと低俗なものがある。美術用語として低俗な芸術を表すlowbrow、又これらに対して高尚な芸術を(慣用句としては半ば軽蔑的に)表すhighbrow、それらの中間を表すmiddlebrowという言葉があり、(browは眉)、それぞれ理解に要する知識の難易度を高中下で示していると考えられる。これに対してハイブローな芸術をhigh artとかhigh cultureと呼ぶ事もあり、ローブローな芸術をsub-cultureと呼ぶ事もある。これらはある作品の理解に要する知識の難易度による分類だといえる。ローブローを自嘲気味にいう漫画という言葉が、ハイブローな本画に対しての概念だという事も同様の枠組みで説明される(白川字学によれば、漫はさんずいと婦人の目の美しさを表す曼の組み合わせで、とりとめのないという意味もある文字である)。
 また芸術には上品なものと下品なものがある。上品さとは欲望の直接性を否定している程度であり、下品さとは欲望の直接性に肉薄している程度である。日本語における上品下品、そして中品は、それぞれ仏教語であり、悟ったブッダを上品、悟っていない凡愚を下品、半ば悟っている修行者を中品と呼んでいると考えていいと思われる。芸術についてもこの観点を援用すれば、上品な作品とは或る欲望を具体的に表さず、寧ろありとあらゆる欲望を表現上に否定しているほどそうなのである。苫米地英人によれば、仏教哲学でいう究極の抽象概念である空は、有と無をもちあげたもの(止揚したもの)であり、情報量が極小の概念である一方、情報量が極大で人類には把握できない概念は矛盾だという。もし芸術が現実の具体的模造なら、クローンとしての完全複製が矛盾に該当し、逆に宇宙の時空間そのものが空の最も抽象的な表現形態だといえるだろう。いいかえれば、とりあえずの定義として、芸術とは時空間そのものという最も上品な作品から、クローンという最も下品な作品までの間にあるものである。我々が世界の諸現象を芸術という情報形式の中で再認する事は、抽象化された学習の一種だといえる。例えば科学とか哲学と呼ばれている知識体系の修得も、言語記号を通じて為される限り、広義の言語芸術を経由している。なぜ我々が芸術を通じた学び方をとるかといえば、嘗て人類が編み出した諸々の学習法の中で、模倣による再現可能性がある形式という意味で、それが最も合理的だったためなのだろう。
  ところで、子供は一般に、大人、或いは美術に造詣の深い専門家が解釈できるより低俗な芸術を好む傾向がある。他方で、この低俗さは必ずしも下品さではない。すなわち低俗さは下品さと等しくない。高尚だが下品な作品とか、低俗だが上品な作品というものがあるのだ。前者は回りくどい文体で和歌を差し挟み高尚めかして書かれてはいるが内容は皇族・公家による単なる卑賎な不倫劇である『源氏物語』(紫式部による物語文芸)の様な作品であり、後者は大抵の子供にも入り込みやすい具体的な人物の心情表現であって背景知識も要求されないが表している事は人類による自然・環境破壊で暮らしを追われる小人に対する同情の念を通じた近代文明への根本的懐疑である『借りぐらしのアリエッティ』(宮崎駿によるアニメーション映画)の様な作品である。そして我々が子供の教育の際に重視するべきなのは、高尚・低俗の違いではなく、むしろ作品の上品さの方だ。その作品がわかりやすいという事を、ここでは低俗である、ローブローである、という言い方をとっているが、子供のもっている美術史、芸術史の知識は限られており、したがってどうしても古典様式に対する否定媒介的な進歩性として弁証法的に更新されていく規則をもつ高尚な作品を段階に順じて理解するのは難しい。しかし今日、低俗な作品群のかなりの部分は、同時に下品でもある。なぜなら東京の商業出版社とか、映画配給会社、そして大衆作家は俗受けするほど大量に売れて金が入るという商業作品の条件から、ますます低俗かつ下品な作品を大量供給する鼓舞に駆られているからだ。
 ではそもそも上品な芸術を愛好する事で育まれる高貴な趣味の意義とは何かといえば、究極では、道徳の高い人格、即ち多少なりとも利他的な人を作る事であり、それはとりもなおさず、全ての利己につながる直接的欲望を否定し、無欲に限りなく近い態度で生きる悟った人を理想としている。この人徳者は利他的な人物だから、少なくとも他の人にとっては有り難い人物、最上の場合は聖人だといって差し支えなく、逆に下品な人間であればあるほどますます我執的で利己的、且つしばしば害他的でもあるだろうから、この様な俗人が最悪の姿をとるとき極悪人や大犯罪者になるであろう。

 上述のことをまとめると、この世にある高尚な芸術は理解に要する知性を高める結果にはなっても、 必ずしも道徳的な意味で上品な作品とはいいきれない。逆に、サブカルチャーやlowbrowな作品一般を含め、低俗で幼稚といわれる作品の中にも、時に上品な物も含まれており、子供は知識の少なさのため絵本とか漫画、アニメーション、ゲームといったよりわかりやすいと同時に複合的で情報量が多い応用芸術を好む傾向があるにしても、その子の道徳性を育てるという意味では、親や教師が作品を精査してできるだけ上品なものに親しませる様にするべきだ、という事である。
 また高尚かつ上品な作品というものがこの世には最善の物として存在し、それが純粋芸術一般の目的とする姿だといえるだろう。少なくとも嘗て人類が美術史の中で、中心領域として辿ってきたのはこの傾向をもつ真面目な作品であり、我々の審美的な哲学が深化するにしたがって芸術作品の質もまた洗練されてきたといっていいだろう。たとえば過去の人類は色々な種類をもった抽象絵画どころか、その前座として現れたキュビズムさえ殆ど理解できなかったのだが、美術史を修得した現代の美術家らはこれらをもはや援用されるに過ぎない単なる過去の様式とし、先へ進もうと試行錯誤してきた。逆に、低俗かつ下品な芸術、具体的にその中でも最悪な作品として、極めて分かり易くサブリミナル的に悪意を植えつけたり、ありとあらゆる品性下劣な大犯罪や醜行を正当化する様な悪魔的作品が現に卑俗さの程度として存在するのだし(例えば猟奇殺人後の死姦等の凶悪行為を美化する石原慎太郎の小説群)、この種の作品が年少者の心象形成にもたらす悪影響を勘案すると、村上隆がスーパーフラット理論で全てをミドルブローと事実上混同させようとして言うのと異なり、到底、最善最美の純粋芸術と同日の談で語りえない事は明白であろう。要するに全てを実質的に中間中品と同列に見なすスーパーフラット理論の観点は、結局、趣味の一切についてなんの判断も持たないという無知や無批判、思考停止をもってくるだけであり、それは糞味噌という言葉に示される様、聖俗を混同する悪趣味自体より酷い混沌状態をもたらすだけである。
 我々は高尚かつ上品な純粋芸術や、わかりやすい表現ではあっても少なくとも上品な作品が望ましいと考えるべきであり、それは決して聖俗を混同したり、上下の品を転倒する事にあるのではない。

ヤンキーという概念から分析した茨城県域の情報非対称論

 第一に京都府の少年刑法犯の人口当たり割合は2009年に全国ワーストとなり、その後徐々に減少してきたものの人口比で見ると依然高く、かたや虐め発生件数は京都府が4年連続で全国最下位であった(つまり全国で最も年少の犯罪者や虐め発生件数が多いのが京都)(2012~2016年度、文科省)。また少年刑法犯数は東京がワースト、ついで神奈川、埼玉の順に多く、人口比で見てもこの順位は首都圏内で変わらない(2016年、警察庁統計)。対して、茨城は人口比で京都より少年刑法犯の数が少ない事に加え、首都圏内では群馬に次いで少ない。つまり、首都圏で非行少年が多いのは東京、神奈川、埼玉、千葉、栃木、茨城、群馬の順である。茨城は全国規模で見ても、少年刑法犯数は人口比で23位に位置し、都道府県人口が11位に位置するにもかかわらず、総数でも14位であり、全国平均よりどちらかといえば少年刑法犯の数や人口比が少ない県に属する(2012年、少年刑法犯検挙人員)といえる。
 これらの統計からいえるのは、茨城では非行少年がとりわけ多いわけではなく、首都圏でも少ない側に入り、人口比で見ると首都圏で群馬に次いで少なく、また全国平均でみても平均より少ない方に属するとわかる。

 他方で、私が現に経験した事だが、或る京都府の人とSNS上で話した時、初対面で面と向かって「茨城はヤンキーのイメージしかない」と、極めて差別的な発言をされた。その人物は30~40代女性で、どこかの地方から京都へ嫁いだ人物らしく、京都を鼻にかけるあまり、非常に無分別で無礼千万な発言を茨城県民に対してしたのだろう。水戸の徳川家が京都の皇室を尊崇していたという事について聞いたその女性は、初対面で私に向かって非常に差別的な発言をし、茨城と京都は天と地ほど違うかの様に全く似ていないと侮辱的な言動をとり、挙句の果てに上述の発言をしたのである。恐らくこの女性は茨城県について何も知らないであろうし、一度も訪れた事も無ければ、今後も関わる気はないだろう。
 これは一つの例にすぎないわけだが、それにもまして京都の人々のこの種の非常に差別的な中華思想や自文化中心主義、自己中心な利己性は平安時代から何も変わっていないし、京都市長や府知事を見れば一目瞭然なよう、今後も強化するつもりこそあれ、自己反省したり、己の差別観を疑うような事はないであろうと考えて間違いない。私はこの一例だけでなく、他にも数限りなく京都出身者が同様の言行をする場面を見たし、自己愛障害的に京都を自己崇拝し、他の地域を差別的に蔑視する京都出身者達の中華思想というものは、寧ろ京都では千年来、文化的慣行の一部にまでなっているし、その虚栄心を傲慢に誇示する態度そのものが生きがいとさえ彼らの中で考えられているといっていい。更に、東京都内の人々も、江戸幕府以後にできた新都市という負い目を、古都という虚栄心をもつ京都へのある種の敬慕として思い描きがちであり、この京都の人々の差別主義を一層、増長させる様な卑屈な賛美に終始しがちである。その京都劣等感、古都劣等感における卑屈さの反動として、東京都民は他の地域への蔑視を京都からの不当な差別に乗っかってさらに強調する様な、二重の田舎差別を行う傾向がある。この都民の屈折したコンプレックス、即ち京都への古都劣等感と、他地域への新都市優越感という二重の複合観念は、東京発のありとあらゆる情報に乗って散布され、日本国民全体を洗脳し尽くしているといってもいいであろう。また横浜市民あるいは神奈川県民は、みなとみらい地区の国による再開発後、同様の優劣観念を都の陰でもつようになり、京都の人々や都民の差別意識に乗っかって自己宣伝しようとする傾向がある事があげられる。

 ところで前述の統計をみれば、これらの人口密度、経済規模、皇居の立地、政府機関の集積度といった首都的要素に基づいた想像上の優越感と、現実の年少者の犯罪傾向は違いがある。上述の京都の女性が想像上の差別を多かれ少なかれ意図して発言した茨城の少年は、京都の少年より非行の度合いが低い。また一部の都民がマス・メディアを通じ好奇に供するため盛んに北関東、ことさら茨城を侮辱する為に、田舎、ださい、ヤンキー、不良といった確証バイアスに基づいた偏向した差別情報を県内から取材し、喧伝し全国民を洗脳しているのと逆行して、現実の東京は日本で最も少年刑法犯の数が多く、また人口比でみても首都圏で最も非行少年が多いのであって、しかもその衆愚的な攻撃対象としての茨城は全国比でみても、非行少年が少ない側に属するのである。それどころか、ブランド総研の田中章雄の調査で高魅力度として盛んに称揚されている北海道、沖縄、そして京都の各所は、少年刑法犯数でいずれも茨城より多く、特に京都と沖縄は人口比でも非行少年が多い
 ここから導けるのは、マスメディアを通じた偏った確証バイアスの流布は、統計や事実とはいかにも異なる情報操作に過ぎないという事、そして京都や東京の人々がもっている中華思想的な虚栄心や、田舎差別観は、彼ら自身とメディアを通じた洗脳によって日本国に暮らす人々の正常な認知を大幅に歪めているという事だ。茨城県民の為に正しい情報を述べておけば、茨城で他の地域より明らかに統計的に多いとみなせるのは研究機関数(2014年、偏差値85.76。経済センサス)である。また農業経営体(家族経営体と組織経営体を合わせたもの)の数は最も多いといわれているものの(2015年、農林業センサス)、農業就業人口そのものは2位、人口比では20位にすぎない。これらからいえるのは、茨城県民の真実の姿としては研究機関に務める研究者の数が人口比で他県より圧倒的に多いのである。ということは、上述の京都の人や、多くの都民、日本国民は極めて真実から遠い茨城イメージを固定観念や先入観として持ち、しかもそれをマスコミを通じ拡散しているのである。なおかつ彼らはこの偏見を、神道や皇室崇拝の念、或いは資本主義的観念からくる皇居・都心崇拝と田舎差別という彼らが人生観の一部にしている確証バイアスで補完し糊塗しようとしている。この種の中華思想の震源である天皇家、皇族を擁する都民、嘗て擁してきた京都人の自己愛障害的傲慢さと裏返しの田舎差別主義からはじまった、低俗で、非科学的な偏見や差別観が反映されたのが魅力度調査というバイアスなのだと言っても、ほぼ間違いないであろう。そしてこの都鄙差別のモデルである華夷秩序の観念は、天皇家の千年以上にわたる専制的独裁政を通じて、また東京圏や関西圏のメディアや政府発の教育を通じた洗脳によって、日本国民一般の差別主義の心底まで染み込んでおり、一朝一夕で消え去るとは到底思えない。
 確かに茨城にもヤンキーというアメリカ人の愛称を、非行少年少女への蔑称に援用したことばで呼ばれる様な人々は、他都道府県、或いは首都圏より数や人口比は少ないにせよ存在する。一般論としていえるのは、この種の人々は生まれつき一般知能が低いので、社会において要求されている適応行動を理知的にとるほど賢くない。したがって建設作業員、いわゆる土方とか、工場労働者といった種類の、高度に知的な専門職や企業経営者に比べれば比較的低賃金なブルーワーカーになる割合が任意に高いであろうし、親から同様の遺伝や少ない資産を継いでいる可能性もかなり高いので、長い期間をかけて自己への高等教育を志す人もまれであろうから、低学歴であり易い。この様な人は単に日本全国にいるのみならず、全世界に存在する。一方で、一般知能が比較的高い為に高学歴になり易く、結果として晩婚化し、ホワイトワーカーに属し易い人々の遺伝より、彼らブルーワーカーの遺伝の方が現時点で、数が多いであろう。またこのブルーワーカー階級の中で、最も法的に反社会性を伴った行動傾向をもっている人々が、少年刑法犯として検挙される確率も、そうでない人に比べて高いのだろう。実際、小・中卒、高卒、大卒の比(中退者を卒業者とみなす)でみると、低学歴な人に刑務所入所者数が偏っている(法務省「矯正統計」)。これは基礎学力と相関している可能性のある一般知能が遺伝的に低いと、より法を学ぶ機会が少なくなり、また遵法の意味を理解できなくなる傾向があるからかもしれないし、もし一般知能が遺伝的に高かったとしても、高等教育を受ける機会を逸失すると同様の学習を得る機会を失う為かもしれないし、またこれらと異なって社会の側が学歴差別によって低学歴者へ圧制を行い、任意に検挙率をあげているからかもしれない。いずれにしても、少年刑法犯の検挙人員の構成比からわかるのは、大都市に多い傾向がある少年刑法犯にもかかわらず、人口の多い自治体順でみて茨城県の少年刑法犯の人口比は北海道、静岡に次いで少ないのであって、上述のよう研究機関数の人口比が圧倒的に多いという茨城の特徴からいって、むしろ一般知能が低い人はこの県においては全国に比べて有意に少ないのではないかと考えられる。

  では具体的に、このヤンキーと呼ばれる様な人々を茨城県への確証バイアスで県内に見出し、差別したり蔑視したりする都民とか、京都人、日本国民に対して、我々はどう対処するべきだろうか。それは対自的に最も身近な例でいえば、このヤンキー達の趣味といえば、騒音を鳴らす二輪自動車の改造で公道を暴走する事以外考えられないのであって、茨城県条例、かつ北茨城市条例において、二輪車や自動車を通じた騒音を鳴らす事を罰金刑や警察による取り締まり・啓発活動によって防止し、その種の改造にも同様の罰金刑を与え、また公道の暴走行為に関しては拘留や刑期を含む罰則を与える事である。年少者がこれらをした場合も更生施設へ入れる措置を盛り込むべきなのだろう。それ以外の非行として何等かの公害が見つけられれば、適宜、条例を作って対処するべきなのである。これらの条例策に加え、根本的には一般知能が低い人の中で、法的な学習が欠けている人が違法行為を犯しやすく、かつ、道徳的な知能の低い人が公害を起こしやすいと考えられる。茨城は既に全国比で県民の平均値を見れば一般知能は高い側に属するであろうし、実際、全国学力テストでも継続的に上位の成績をあげている傾向もあり(2017年度は10位)、いいかえれば、幼少期から法的・道徳的な教育を適切にはかれば、寧ろますます少年非行の数は比較的容易に減っていくと考えられる。既に茨城は橋本県政の元で道徳教育を国より先にとりいれてきたし、次は最も基礎的な法教育を、県や市の教育委員会が小中高校で年少者に与えるべきだといえるだろう。文科省の学習指導要綱に法教育は含まれていないし、場所や時代、或いは人の信念によって変わる特定の道徳を与えるものとして上意下達で教える事には矛盾が多い。したがって茨城県の公教育では暴走行為を行う年少者の発生防止を前提として、交通ルールを最も基本とし、刑法と民法の基礎中の基礎について、道徳副読本と道徳の時間の中で最も先に触れる事を前提とするべきだろう。そして道徳については作文と討論を通じて、或る倫理的命題(例えば自分が急いでいる時に困っている人を助けるべきか、といった善悪の判定に関わる命題)についてそれぞれの子供が自由に意見を述べ、教師はそれらについてどれが正解かを決めつける事なく教師自身の意見として批評する、そして生徒自身にもう一度考えさせるという形式が最も優れているのではないかと思われる。それなら生徒自身が将来にわたっても善悪の判断について自己反省的に考えたり、新たな社会的認識を得るたびに己の判断を吟味する習慣をつけられるからだ。但し、この際、教員には倫理学の専門知識が要求されるだろうから、県や市の教員養成課程や資格試験の中に必須科目として、倫理の講義を導入しなければならないだろう。これらは公教育についての対策だが、飛び級や専門化が容易である自宅学習や独学をおもとした子の個性に応じた生き方も今後ふえてくることが見込めるので、この種の副読本、つまり法の基礎を含む茨城県・北茨城市の道徳教育の本については求めに応じて民間にも販売するか、さもなくば民間の優れた本を採用する事が有益である。実際、今日ではこの一冊では時代にそぐわなくなっているかもしれないが、嘗ては『論語』がこの目的で使われていたわけだ。高校では洋の東西に渡る網羅的な形而上学の基礎知識が含まれる既存「倫理」科目の参考書や、「現代社会」科目に含まれていた法学の基礎知識をよりわかりやすく解いている参考書などで専ら十分だろう。
 また、県内・市内における教育・教養水準の底上げは、より付加価値の高い為事を選好する人をつくるという意味で高所得と正に相関しやすい。したがってこれまで通り、研究機関を全世界から誘致し、県内・市内へ高度な頭脳を世界で最も多く茨城に集積させる事は、所得の対数と正の相関がみいだせる主観的幸福度をも底上げするであろう。

 もし上述の全てが体よくいって、茨城県内の非行がさらに減り、教養の程度も上がり、幸福度も上がったとして、京都や東京、その他の日本人が茨城県民を相も変わらず事実と相反するヤンキーの先入観で糊塗し、確証バイアスを強化し続けたり、都内から田中章雄が現にそうしているよう魅力度差別で地域全体を蔑視したりしてきたとしても、これらは我々県民自身が対策できる範囲を超えているといえるし、対策するべきでもないと思われる。なぜなら、元々この魅力度差別が首都圏北部、特に茨城に対して継続的に行われている理由は、茨城が日本で唯一、民放テレビ局によるマス向け情報発信を行っていない県である事、及び、商人階級が過半となった日本人一般からの農業差別感や田舎蔑視に由来していると考えられるからだ。先ずこれらの差別的観念のうち、農業差別感や田舎蔑視についていえば、農本思想や重農的な考えに基づいた水戸家が茨城県域を国内有数の農業生産性をもつ地域へもっていった事が、これと逆行し極端な商業化を進めた江戸・東京から蔑視される結果になった訳だが、現実に茨城と東京に長く暮らせば分かる事として、農業の多面的機能としての環境整備効果は茨城の公園的な緑に満ちた生活環境をコンクリートジャングル化した過密都市の東京に比べて良好にしているのである。この生活環境の緑の多さ、環境良好性は他の田園地帯でも同様だが、県内最大都市の水戸市にさえ世界2位の広さをもつ大都市公園・偕楽園がある事からも、とりわけ水戸家の農本政策の功徳と結びつけて考えられるはずだ。少なくとも茨城のエンゲル係数が他の自治体より非常に低い状態にある、つまり食費の負担が47県中40位と非常に小さいのは、食料多産地である事に原因の一つがあると解釈してもよさそうであり、たとえばネット通販が発達した今日、大商業地の買い物における利便性はますます低下していくのであって、全てを考慮すると、田舎を蔑視している人達の根拠は単なる過密都市に固執する夜郎自大に過ぎず、真剣に相手どるに値しないただの傲慢に他ならないといえそうである。実際、イギリスの様に田舎を過密都市より生活に好適な環境とみなす考え方の方が、世界全体で見れば当然の認識に近く、世界の奇形民族というべき東京都民や京都市民がもっている様な都心中華思想の源泉は中国の皇帝制度を模倣した天皇にあり、この種の皇帝もどきが全国民を奴隷化する為に植え付けた華夷秩序を大真面目に信じこまされ、その田舎差別意識が通用する範囲とて彼らの洗脳が成功した日本衆愚の一部や、皇帝制の残滓がある中国国民の一部に限られるといってもいいであろう。即ち、都鄙差別を伴う中華思想は中華皇帝の模倣者として天皇が日本国内に広めた考え方であって、この日本人奴隷化の為の洗脳劇場へ大真面目に追従している都民や京都人の方が世界規模のまなざしでは少数派で、風変わりな異人なのであり、またこの種の語るに落ちる傲慢かつ卑俗な悪意ある差別観をそのままマスメディアや日本政府を通じて鵜呑みにしている日本人愚民の差別主義についても、一顧だに値しないといえるのではないだろうか。
 差別とはそもそも、愚者が事物を単純化して認識する為の偏見に基づく非科学的な省略装置であり、思考を大雑把にショートカットしてしまう上に事実や道徳的善とは正反対になり易い。一般に、低IQと差別意識には正の相関関係がある、つまり低IQなほど思考を節約せざるをえず物事を過度に単純化して捉える目的で、差別意識を偏見として己の思考パターンに刷り込み易いと考えられる(2016年、Social Problems誌、トロント大学ジェフリー・ヴォトケ(Geoffrey Wodtke)による「言語能力テストで高スコアな人は黒人の知性や職業倫理にネガティブな見方をする人が少ない」とする研究。2012年、オンタリオ州のブロック大学、Gordon Hodsonチームによる「低IQの子供は、偏見を持つ大人になる可能性が高い」とする研究など)。我々にとって重要なのはこの種の差別から最大限自由に判断し、事実と空想、あるいは何者かによって捏造され流布されている通俗的偏見を峻別し、最も適切な人生上の選択を適宜冷徹に行っていく事である。
 総じて、我々が社会を形成する理由は、単独生活に比べた何らかの公益を他者の存在から受ける為である。この種の公益を最も高次的な概念で表し幸福とすると、我々は茨城県民や北茨城市民として自らの幸福に益する範囲でのみ、市外、県外の人々と接すればよい。なぜなら無制限の交際が我々の不幸につながる場合、この種のつきあいは有害だからだ。このつきあいの中に市外、県外の人の思考習慣や偏見、差別感を何らかの啓蒙や情報提供などで変更するというかなり大変な手間を含めるとすると、上述のよう差別的な人は同時に低IQな傾向があるかもしれないという見解、そしてこの種の人々の低IQさが低学歴や低学力、低所得といった成績と正に相関しているという一般論からいって、どちらかといえば我々が市外・県外の愚者を見分ける有効な手段として、茨城県に対する差別意識の有無が使えると考えて専ら間違いないであろう。都民や京都人が神道や皇室への中華思想的な妄信や自己愛妄想の為に流布する通俗的偏見や田舎差別を、何の批判的意識もなしに鵜呑みにしている人々は、想定される限り低IQだろうし、それに加えてヤンキーという非行少年に関する確証偏見を、全国平均より少ない数と割合でしかこの種の少年刑法犯をもたないわが県へ悪意からあてつけてくる市外・県外の劣悪な性情の者については、二重につきあうべき価値をもっていないといえるだろう。この種の衆愚的差別主義者が単に都内だけでなく京都をはじめとした関西圏、あるいは日本国内に非常に多いとするなら、これらの人々はその様な差別意識をはじめからもっていない、或いは今後もつ由もない茨城県民一般より知性、道徳性のどちらの面についても劣っているのだから、我々は努めて、この種の差別や偏見をもっていない国外の自分より知徳に優れた人達とつきあうようにしなければならないのである。この場合、愛国心やナショナリズムという固執的な全体主義の偏見に基づいて、日本国という単位にこだわり、人間性において自分以下の連中と関わるのは害悪ですらある。

 『孫子』に「彼を知り己を知れば百戦して(あやう)からず」とあるのは、自己に有利な情報の非対称性こそ敵の出方を予想する戦術的上策という意味であろうし、この彼という言葉を任意の市外・県外人にあてれば、茨城に民放テレビ局がない事や水戸学に結晶されている儒教的な謙遜を尊ぶ君子道徳は寧ろ好運な偶然とはいえ、魅力度調査に明らかに表れている様、県外との情報の非対称性をうみだしている。私はこの事象を茨城のステルス性、隠密性と呼んでいるが、我々は世界のあらゆる情報摂取と分析に長け、市内・県内情報をできるだけ茨城圏内にとどめながら市民・県民だけで共有し、ますますその外に知られないよう自己隠蔽的な情報環境を今後もこれまでの路線で構築していくべきだと信じる。そもそも、孔子が『論語』で「君子は人の己を知らざるを憂えず、己の人を知らざるを憂う」と述べている情報非対称性についての道徳的態度と、孫子の見解は一致している。この逆を行っているのが都議や都政の混乱をさも全国ニュースかのよう不躾にばら撒く都民や、文化交流の中華を志向する過度の自己宣伝によって観光公害を併発している京都市、そして観光先としての魅力度を強調し47都道府県を差別する疑似統計で商売をしているブランド総研・田中章雄の立場ではないだろうか。茨城が世界の情報にますます通じかつ県外・市外への情報発信を抑え今後さらにステルス化され、外部から如何なる誤解や差別、何らかの汚名や負の偏見を受けたとして、またそれが我々の尊厳欲求を傷つけ、名誉感情を損なう様な結果を伴っていたとしても、逆に外部に全てを知られているが我々が県外・市外について何も知らない井の中の蛙である状態に比べて遙かに優れた結果を伴うだろうことは疑いようがない。なぜなら、我々が知識とか、学力と呼んでいる能力の本質は、実際には多かれ少なかれ抽象的な次元における世界に対する情報の非対称性そのものなのだ。いいかえれば、茨城県民の知性が高まれば高まるほど、我々の存在が無知なままの県外に知られる機会は減り、寧ろ我々が世界を知っている程度が高まる筈だ。
 究極のところ、所得の対数に比例すると考えられる主観的幸福度に格差が生じる根本原因も、学ぶ習慣として自らに有利な情報非対称性を選好する人々が、情報交換としての相互利益のため或る一か所に集まり易い傾向からきているのだと考えるのが自然である。この現象をより素朴に解釈すると、主に言語記号や芸術といった抽象的思考の体系を通じた学習能力の高い人々がより高所得を得やすい、即ち、一般知能の高い集団側がより恵まれたくらしをする傾向にある、と考えられる。
 敢えてこれらに加えれば、我々が芸術一般を有益な文化とみなすのは、それが現実の諸情報の抽象・具象度を調節し、主観的情報量という意味で圧縮・解凍して表す能力があるからである。例えば宇宙という文字は現実の宇宙を形相化したものだが、我々はこの言葉を通じて具体的な宇宙について或る縮減した認識をもてる。他方、宇宙についての詩や小説、絵、漫画、アニメなどは、この宇宙という概念についてより具体的かつ詳細に説明できる。つまり芸術の意義は世界の抽象度を或る理解にとってふさわしい程度に調節できる事なのだ。
 芸術が政治的喧伝の装置に使われている時、嘗て天皇家がそうしてきたよう、天皇居住地を中心とした華夷秩序に類する表現、例えば『古事記』や『源氏物語』、その他、皇国史観を連想させる書籍や絵画、儀式芸能的な表現を流布したり褒賞する事で、人々の現実解釈の仕方を皇室にとって恣意的な方向へ歪ませることすらできる。今日、都民はマスメディアやサブカルチャーを通じ、同様の目的で東京大衆社会の低俗さを日本国民含む商業上の客層に向け盛んに喧伝している。これらはどちらかといえば応用芸術を通じた洗脳だが、歌会始のよう、短歌という短詩形式の言葉を天皇を主催者として朗詠する儀式によって、国民全般を皇室崇拝者へ変更しようという純粋芸術的かつ宗教的な喧伝活動もみられる。逆に、これらの喧伝による洗脳を啓蒙的に打ち消す様な表現も、本来の芸術の役割である。現代の都民は自らの後光の為にその種の反天皇的な表現をタブー視し、マスメディア業界から封じ締め出す事で、水戸学の尊皇論へ知らぬうちに追従しているのだ。前衛的な芸術は常に、当時の禁忌を表現の中で破っていく筈だ。それは政治的、宗教的喧伝の手段にされていない、純粋芸術にとっては表現の可能性を拡張し、世界に対する多義的な再解釈の手段を提供するという意味で、本来的な事ですらある。
 もしわが市、わが県民が芸術を、我々に有利な情報非対称性をつくりだす有効な手段の一つと考えるなら、我々はできるだけ高尚な芸術を目指すべきである。なぜなら低俗な芸術が人気を博するなら、それはやはり低俗な人々の間だからであり、ここでいう低俗さが、鑑賞の前提とする知識の少なさだとすれば、それは愚者にとっての慰み物に他ならないからだ。一般に高尚さが理解しがたさ、難解さだとすれば、或る芸術の抽象度が高ければ高いほどそれを理解する為に要する情報非対称性の度合いも高い筈であり、高尚な作品を愛好する人が茨城県域や北茨城市に多ければ多いほど、わが県わが市の教養水準が高いことも同時に要求される。主観的幸福度を高める端的な方法が所得を指数的に倍増させる事であるからには、より合理的な商業上の立場をとりつづけるべく世界を分析し将来予測する情報について学習効率も高める必要があり、したがって情報の圧縮性が高いほど、その作品を鑑賞する意義も高い事になるだろう。北茨城に美術品競売界を今後構築するにあたっても、より前衛的であり、より高尚な作品を選好するのが、即ちわが県わが市の幸福度を間接的に高める結果になるであろう。わが県わが市が高尚な人々の間で有名になり、愛好される為にも、高尚な芸術表現の中でこそ集中的に茨城にまつわる諸情報が頻繁かつ必要不可欠に登場する事が極めて有徳である。

2018年3月24日

ばんどう太郎のアメリカ進出案

 ばんどう太郎は日本食レストランが普及していないアメリカ南部へ自主的に進出し、新鮮で豊富な茨城産の食材を使い、アメリカから海外における日本食レストランの代名詞となる事をめざすべきである。

バイナンス茨城誘致の必然

 金融庁が近いうちに破綻するとしても、それに構わずバイナンスの日本支社を茨城の経済界は一致団結して県内へ誘致するべきである。フィンテック中心地を茨城にする為にはいかなる敵対勢力も全力で潰していく必然性がある。場合によっては頭の固まった長州閥自民党幕府を完全倒幕してもその方が茨城のみならず、後世の日本の為になるのが明らかだからだ。
 フィンテック革命の世界の中心を茨城県内にする事こそ、わが県の将来を希望で満たす事になる。

2018年3月21日

世俗的日本人にみられる理論の軽視についての分析

 動物は理論的な行動をとらない。人類が文明を築いた第一の原因は、記号や言語による抽象的行動としての理論性にある。
 屁理屈という侮辱語を使う人は、単なる愚者である。特に指導的な立場、権力をもった人間がこの侮辱語を用いてより整合性の高い理論を貶めようとするときその災いは果てしない。なぜならより愚かな理論、またはなんの理論にも基づかない行動は体系的たりえず、成功度が低い為、結局あらゆる損害を自他へ及ぼすに過ぎないからだ。
  知行合一という概念を陽明学がもってきた事から、実践的ではない理論の価値を貶める人々は、遂に原始的社会を抜け出す事ができなかった。純粋理論は全応用の基礎なのであり、技術的発展や法規範という実践的側面にのみ、その価値が求まるのではない。また愚かさにこだわり、行動偏重の考え方を受け入れた人々は、脊髄反射の様、より低い次元での誤りやすい行動、或いは愚行をくりかえす結果になり、悉く失敗していく。実際には、理論、実践、それらのくみあわせである技術は、それぞれ異なる価値をもつ体系であり、特にこのうち実践に関わらない、或いは実践を超えた理論だとか、全く理論に基づかない実践だとかが価値そのものとして存在する限り、知行合一は両者の中間性にしか関心をもたない単なる技術主義にすぎない。
 アリストテレスが言う通り、理論的生活が人間にとって最も高度な活動であり、技術や実践はこの理論を別の目的に応用したものにすぎない。より獣的で、大脳新皮質が未発達な人間であればあるほど、本能に近い、多かれ少なかれ利己的でしばしば害他的な行動しかとることができず、最低限度規範としての法的学習やのなさや、倫理学的思考の不足とも相まって、違法性や不道徳性を犯しやすく、結果として自らの悪業の故に自滅していきやすくなる。悪人とか愚者とか卑しい人が生じるのは、理論の軽視によっている。

 不完全性定理やその物理的側面である不確定性原理の存在からいえるのは、抽象度、抽象性の高い言語記号的行動としての理論の内部自体でさえ、命題における真から偽まで、また、同一律(A→B)、排中律(A∨¬A)、矛盾律(¬(A∧¬A))という最も基本的な論理法則まで、あらゆる論理的結合がありうるのであり、それらのどの理論も理論そのものとしての価値があるという事だ。現代文芸、現代詩の世界で現にみられる通り、矛盾律や偽の命題を含む不合理な想像的世界がつくりだされているし、究極のところ、脱構築という概念を口語一般を含めて拡張すれば示される通り、全言語記号のくみあわせについて、それを示した人物がどの様な意図をもっていたかについて本当に知るすべはない。
 一般に、真の言語記号のくみあわせを探求する分野を科学や知識と現在我々は呼んでいて、同様に、美については(現象の一切を広義の象徴的な言語記号と見れば)芸術、善については哲学と呼んでいる。これらの言語記号による部分集合は、全宇宙という全体集合に対して、それぞれ、真に対しては偽、美に対しては醜、善に対しては悪という価値づけの部分集合を含まない様な集合である。これらの全言語記号の定義を脱構築し続ける活動が、我々の学術活動である。その中で、より価値が高いとみなされるのは、常により専門的な分類の中で或る分類規則について、これまでより優れた分類規則をみいだす様な活動である。我々が真善美という、それぞれ、理論、技術、実践の基本的価値についてより精密な定義を知る、この学術活動の必要性は、誤った知識に基づいた迷信(地球は亀の背中に乗っている等)、劣った醜い技術(整備された上下水道のない暮らし)、悪辣な行動から成る社会(暴力、殺人、盗みに満ちた状態)を想定すればわかる。真善美の上位概念は聖であり、その対立概念は俗である。即ち、理論という或る聖性の最も基礎的な出発点を軽視している様な人にとって、単に世界認識について無知や誤解に留まるのみならず、偽に基づいた劣った技術、冤罪について真偽を問う事すらない悪しき俗世間により害悪を受けることは明らかである。端的にいって、理論的でない事を合理化する言葉としての屁理屈、という侮辱語は、人類にとって最悪な堕落を最初にきっかけづける悪魔的言行だといってまずまちがいない。この言葉は暴力、悪意、あらゆる蛮行を第一に正当化する為に、最も愚かな人、全知と思いあがる人、知識や技術に基づかずでたらめに実践すれば成功すると猿未満の考え方で自滅する人の自虐的信念だといってもいい。
 我々はこれまで人類が発見した諸々の文明的な段階からいって、技術や実践のどの側面についても、理論的批評や批判的考察が有用だと知っているのであり、理論を軽視する卑俗な態度こそが、その観点からいえば最も軽蔑に足るといっていいだろう。たとえ聖俗の分類が究極のところ不確定だとしても、それを再定義する際にさえ、言語記号や象徴的行動による理論性が必要なのである。特に、我々を含むある人類が、決定的かつ飛躍的に進歩を果たし、人々の幸福を増大させる様な場合、明らかにこの理論的進歩によってこれまでの行動規則を見直し、新たな展開を行える様になった場合だけだ。ニュートン力学や電磁気学、相対論、量子論が理論そのものを目的に確立されてから、ようやく、それらの基礎知識に基づいて我々は自動車、電車、宇宙船、そして量子コンピューターや宇宙エレベーター、タイムマシンを生み出していくだろう。現代に至っても理論を侮辱する人、理屈を罵る人は、単にこれらの技術的恩恵にあずかりながら、世界の理論的認識においてより進歩した人々の前で、己の無知に自覚せず誤り易いくらしをしている自分を合理化しているという点で、愚者なのである。しかし、我々はこの愚者を説得できないかもしれない。なぜならこの人は、言語記号認知の知能が劣っている、或いは言語記号的学習を怠るか、そもそもできないという自らの大脳の変異において、理論的認識を避けるような行動原理を自己に癖づけてしまった人だからだ。我々が文明化したにもかかわらず、全ての人が善良でもなく、等しく賢くもなく、また何らかの点で器用な技を身に着けているでもなく、或いは政治体制が異なったり、資本という意味で貧富にも差がある理由は、この種の脳変異を含む別の個体が生じる可能性があるからだ。理論的能力の低い人、即ち一般的な意味で言語知能の低い人から受ける害を最小化する為に、我々は法を作り、場合によっては理論家らの集団を作って粗野な人々から自らを学園集団や文化サロンとして隔離する。或る社会が確定的に進歩する時、この様な理由で、その根底には理論上の進歩があるといえる。
 例えばコンクリート、鉄、ガラスという近代建築の素材がはじめに西洋で現れた時、これらを使った建築物が石や木という古典的素材によるより醜いとみなされていたのであり、ル・コルビュジエやデ・ステイルに属した人々は盛んに理論的啓蒙活動を行って、近代建築の美を宣伝しようとした。彼らへの正当な評価は死後随分たっても、古典的美に泥んでいる西洋の人々の中でも十分行われているとは言えないだろう。ここには技の鑑賞における批評という理論が、人々の生活に与える重要な進歩がみられる。木と紙によった日本建築は、明治以後の西洋崇拝に基づいて、石造建築とコンクリート・鉄による近代建築をまとめて一挙にまねようとしたため、西洋に於いて起きた様な近代材料との審美的衝突はそれほど激しくは起きなかったとおもわれる。寧ろ近代化としてこの鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物が好意的に受け入れられた結果、いまみられる茫漠たるコンクリート・ジャングルの東京都ができたのである。
 また実践的理論としての基本的人権とか国民主権の導入が、それまで水戸学に基づいた祭政一致や、松陰に基づいた一君万民とかが天皇主権の帝国主義をつくりあげていたところに大きな政治的変革をもたらしたのは誰が見ても明らかである。哲学はこの自然学の後の分野として社会学を含み、道徳を定義する言語記号的な活動であり、この理論的認識を具体化すると政治になるのだ。つまり、或る善についての理論が前提になければ、我々の政治さえ古代未然の類人猿段階まで退行していくのである。法学や、その再定義を行う法哲学を含む実践的な理論を軽視しながら政治活動をする、ということは、そもそも不可能なので、人間界において最も実践的な活動、最も具体度の高い活動というべき政治、そのなかでもかなり行動に依存していると思われる行政活動ですらそうなのだから、人が己の無教養や言語知能の低さを正当化する為に理論を蔑視するということは、単に愚かさの自己証明になるに過ぎないであろう。また、例えば運動競技とか、芸能活動といった一見して学識を使わない様に見える活動にあっても、それぞれの秩序の中では一定の象徴的な記号の規則が存在し、多かれ少なかれ理論的なのである。全く理論性のない、単なる実践の為の実践という活動がありうるなら、それは最も無秩序な行動にあたり、およそ文明と呼べる活動の範囲には入らないことだろう。もし人が国に管理されていない無人島や無人の荒野にたどり着き、そこで全く目的性のない行動を乱雑にとるとき、それより実践の為の実践活動は無い筈だが、この行動はそもそも意味をみいだす理論においては無意味といわれるであろう。
 したがって論理的整合性のない矛盾を述べる事や、単なる利己性を言いつくろう詭弁を指して屁理屈、という侮辱語を用いるのは一定の意味付けがあるとしても、寧ろこれらについてはそれぞれ「矛盾」とか「詭弁」というそれ自体ととれる表現の方が正確であって、理論を軽視するという陽明学の悪解釈は、単に俗悪な末路を結果すると言ってまず間違いがないであろう。経営者が行動を重視する発言を述べている時、この人はより理論的に正しい行動という意味を述べているのであり、いかなる象徴的理論にも基づかず無目的かつ無秩序に行動する事が正しいという場面は、単なる息抜きとか、偶然性を生かす芸術といった無意味さが要求されている様な、特殊な場面に限るのである。

 これらは技術的知能や、実践的知能そのものの価値を少しも貶めるものではない。例えば失語症や、言語知能の低い人が、運動や技能において優れていることもあるし、そもそも実践的活動や技術的活動の一切が、理論より技や具体的行動について人より優っているといえる人にとっての適所である。そして一切の事について劣っている人もいるし、それ自体が生の無価値を意味するとはいえない。なぜなら道化や慰めといった有用さの側面だけでなく、何かについて劣っているということは別の面からみれば優れていると解釈される場面があり、例えば勇気のない人は消極的な意味で平和を作り得るし、愚かさのため核分裂の知識や応用する技術のない人は原子力発電所事故や核爆弾投下すら起こしえないであろう。知的障害とよばれている程度に言語知能が低い人についても、サヴァン症候群の様な別の能力が突出した場合だけでなく、単に劣っていると思われる事が逆に何らかの長所と解釈される場合がある。実際、人類の中の一定数の人が知的障害を伴って遺伝される事は、慈悲深い世話好きな人を見分ける条件づけとなっているとか、慣行と異なる行動をする人が集団の盲点になっている何らかの気づきのきっかけとなるとか、かつては無意識を表現するという神がかり的な人物と解釈される事で偶然性を伴う事象を占ってとりあえずの安心を得る、といった様々な利点があったから、単に直接的な意味のみならず、縁を生み出す間接的な意味でもその遺伝子が残ったのである。







2018年3月20日

花園川沿いスロープの併設

 磯原の花園川沿いの道を川まで降りられるようにした階段は、車椅子や足の不自由な人も運動時に橋げたをくぐれるよう、市政がスロープ(傾斜路)を併設するべきである。

ブロックチェーン技術を応用したネット投票システムの公募

 北茨城市や茨城県の選挙管理委員会における経費節減と、投票率を上げる事、また選挙の効率化を目的に、ネット投票システムを全国に先駆けて実現させるべきだ。国民番号ごとに投票権を与え、できるかぎりシンプルなサイトにしたネット上での国民番号を入力したうえでの投票システムを、民間業者への試用サイト公募の上で、一定年度ごとに採用するべきである。
 このサイトはPCやスマホを含むブラウザ閲覧可能な全ての機器から投票可能とし、国民番号と照らして自らの投票先が確認できるようにするべきである。また期日前投票にも対応し、サイトに入ってから国民番号と照合後、最短で、できればワンクリックで投票できるようにするべきだ。不正な第三者による国民番号の流用に際しては、SMS認証を通じて訂正可能にするべきである。
 また公募するシステムの中に、ブロックチェーンによる第三者認証を導入し、投票の信頼性をあげたシステム要件を含めるべきである。

2018年3月19日

常陸野菜・果物シート世界シェア100%戦略

 JA常陸を含む県内農協、また農家は、今後明らかに流行し大いに販売先が広まるだろう野菜・果物シートを、はじめから非常に原価が抑えられる規格外の野菜果物の買い上げ体制と、それをシート状に加工する合理的な生産設備と共に開発し、作物シート市場の世界的覇権を野菜・果物王国である茨城県産が干し芋同様に世界シェア100%を目指しできるかぎり独占するよう、輸出、販売、営業までも含め今すぐにでも六次産業化するべきである。県産品目が日本一豊富であり、市場に流通しない作物を使えるという意味で非常に原価が抑えられ、加工技術を高めたり世界展開を工夫するほど高い付加価値がつけられるすばらしい青い海である。茨城産作物シート事業は高ROEが予想され、地理的表示(GI)、意匠(パッケージ等のデザイン)、特許(農業生産方法)取得を含むブランド化や商標登録を含めて、全県ぐるみで本気で乗り出すのに極めてふさわしい。おそらく最も効率よくこの事をなしうるのは、JA常陸または県内農協が共同出資で野菜果物シート専用株式会社を率先してつくり、この会社に市内県内の農家から市場に出回らない規格外の野菜と果物をできるだけ安く買い上げさせる事が大いなる成功につながる。利は元にありというよう、殆ど限りなく原価を抑えられる必然性があるからである。
 思うに、世界で最も高級料理のイメージがあるフランス料理に最も合うような、加工バリエーションの中での最高級品を茨城産が世界で最も先に開発し、これを実際にフランスの一流料理人やパティシエへ積極的に最も先に売り込み大いに使ってもらい、不満や改良点を料理人や批評家、客から常に聞き出して世界一品質の良い、他に追随しがたい野菜シートの粋に達するまで洗練させ続けるべきである。この後、他社がいかに模倣改良しても、特許や商標、ブランド障壁、そして県産価格差でそれを未然防止する。世界の料理界から一目して最高級品と認められるよう、茨城産シートを使った料理や店が国際的に著名な受賞を総取りするまで、高級品イメージの宣伝を行うべきである。これらによって高付加価値化と、県産が占有的な高シェア率のままでの大量販売が両立し得るだろうから。そしてこの様な一商品の極めて高い評判は他の茨城産作物の後光にも作用するだろうから、乗数的な効果があがるかもしれない。

 専ら、長崎県平戸市にある資本金2億以上の株式会社アイルの作っているベジートがこの業態の先駆だが、これはシート加工した海苔状の作物がべたっとした食感になってしまう事を、長崎女子短期大との共同研究で、酵素分解術と寒天を応用することでパリっとした食感に変えたところに工夫があった。とりあえずこの会社の商品を取り寄せて、農家農協が徹底研究しながらこの会社の製品を模倣改良し、茨城側に有利な戦略として量産化するところから出発するべきだろう。2018年春までにアイル社はトマト、かぼちゃ、パプリカ、バジル、梅干し、レモンの本格販売を行おうとしているが、量産化できているのは人参と大根のシートだけだという(AERA2018.1.3「仏の星付きレストランも採用 日本の「シート状野菜」その味と可能性」森田悦子)。即ち茨城勢が創造より費用が低い模倣によって先回りしてその他の食材の量産化にも進めればまだ勝機がある。そして追随しがたい決定的な革新が見られる段階まで県産品の改善が進んだ段階で、企業機密としてこの加工技術等をもった商品を商標登録するべきだろう。

北茨城サッカースタジアム複合施設案

 水戸ホーリーホックがJ2で首位に立ったことを記念して、北茨城市もチームのホームタウン入りを表明し、将来的に市役所前のサッカー・ラグビー場をスタンド付きの天然芝のサッカーグラウンドに改良して、ホーリーホックのジュニアユース本拠地の1つとして使われる様になる事をめざすべきだ。ホーリーホック自体がJ1規格グラウンドの観客席数15000人に満たない事に悩まされている。北茨城市自身がその規格を満たした専用競技場を供与し、自らユースチームを主としたホームタウンになる事で、ホーリーホックの資金不足という課題解決の一助になりうるし、かつ、北茨城市の若年層や練習と試合時に消費と活気を呼び込むという町おこし目的の2つを同時に満たせる。
 北茨城市在住の子供にとって誇りや愛郷心の源泉にもなる事、またサッカーラグビー場の立地場所が試合観覧と共に海を見渡せるという絶好のロケーションにある事からも、日立駅や日立市役所を設計した、日立市出身の世界的建築家である妹島和世氏に、建築史、世界史に永久に残る、世界で最も前衛的な新スタジアム建設を依頼するべきである。建築的傑作を作る為には、日立駅をみればわかるとおり建築物を取り巻く環境がごく重要であり、必ずしもかける値段が名作を生み出すのではない。したがってこの為の費用負担を過剰に見積もる必要は無く、北茨城市の芸術文化水準の高さとその名誉を世界中に知らしめる、というコンセプトを主題にして、決して過大な費用をかけることなく整備計画を推進していくべきである。
 勿論、このグラウンドはこれまで通り、市内外のサッカー少年少女団や市民にも、最大限開放するべきだ。優秀な選手を生み出すには、24時間365日、子供の頃から毎日広いグラウンドでボールを蹴り続けて練習を続けていられなければならず、その様な理想的練習環境を新市民グラウンドにつくることが必要だ。
 また老朽化していく市立体育館と市民プールを、このスタジアムと同時に一体的に最開発する様に設計案を進め、市役所周辺を津波などの災害時の避難所や核シェルターとしてできるだけ多い市民が避難できるようにし、主に夏場はスタジアムの庇による太陽光発電を蓄電池へ溜め夜間電力や施設冷房に使ったり、また冬場は地下での熱電併給(cogeneration)システムを体育館・市役所内の暖房・温水プールなどに用い、場合によっては市内のバイオマス発電所であるパワーステーション茨城等と緊急時の電力提供を締結し、予想される災害時に耐えられるだけの最小限度の生活維持機能を持たせるように設計しうるかもしれない。いずれにせよ、基本コンセプト以外は、建築家側の提案を最大限受け入れて、県内にまだ少ない妹島建築が北茨城市に代表作としてできるだけ残る様にする事で、将来にわたってわが市、そして日立駅と日立市役所を少なくとも有している日立市を含む茨城県北部が世界から建築史上に残る偉大な建築作品を有しているという点で尊敬される事になるのは疑いの余地がない。この作品1つで茨城のイメージがガラッと変わってしまうような、世界でまだ誰も見た事がない世界一魅力的と考えられる極めて見栄えのよい建築物を世界的建築家である妹島氏に依頼するべきであり、このスタジアムの効果で市のみならず県全体の魅力度が180度転換する様に考えてもらうべきである。この様な事を成し得る天才は市役所員自身には恐らくないので(例えば市役所が過干渉した市立図書館の建築が世界中で有名になっておらず、世界中の建築学生や建築ファンが次々訪れてもいない事からも明らかなように)、目的に沿う基本コンセプトを除けば、できるだけ自由に設計してもらうべきである。

 これらのスポーツ複合施設建設にかかる財源は、スタジアムと体育館・プールの複合施設の命名権で一定程度まかなえるかもしれない。それで足りない分は、市長と現時点で梶山弘志氏や額賀氏に近い自民党市議、茨城4区の自民党県議らと共に、スポーツ庁に対して、茨城県は五輪の金メダル数や小中学生体力が全国で1位から2位に位置し、鹿島アントラーズという名実ともに日本最強のチームが世界クラブチャンピオンシップで世界2位を獲り、現に日本の名誉を高めてきた実績からいって、この潜在能力が十二分にある茨城県民にあって現在J2で活躍中の水戸ホーリーホックのホームタウンに十分な運動競技を行えるだけの規格を満たしたスタジアムが不足している事がわが国民の運動能力と天才の発揮に大いに差し支えがあり、ぜひ我々が計画するサッカースタジアム複合施設の整備費をわが国の威信にかけて要望する、また、このわが市の市民体育館は東日本大震災で死者を出す被害を受けながら避難者を守り、天皇皇后両陛下の慰問を受けた歴史と由緒ある場所であり、決してこれを再開発するにあたってなおざりに建設できない、茨城国体や東京五輪のサッカー競技茨城開催も控えている手前、我々のいまおこなっている計画は現在国政の第一課題たる地方創生の明白な第一手そのものなのである、北茨城市は首都圏で唯一、死者を出した自治体であり、心的外傷を負った子供らに日本の未来に希望を持たせる復興の象徴に津波の恐怖のりこえてこの海が見えるサッカースタジアムをしたいのだ等々。丁寧な文章と納得感の十分にあるわかりやすい資料を持参しつつ、(額賀氏を主とした)自民党県議と地方創生担当大臣(現在、梶山氏である)を引き連れて、内閣府、国土交通省、復興庁、スポーツ庁長官らを説得し、国の予算をできるだけ北茨城市と水戸市のスタジアム整備費に引っ張ってくる要望を省庁へくりかえし行って、粘るだけ粘って最大限分捕るべきである。したがってこれは茨城県北の振興にもホーリーホックのスタジアム建設助成にも該当するので、水戸市長や、茨城県知事の大井川氏、或いは水戸ホーリーホックの社長らとも事前協議の上で、彼らと連名で要望をくりかえし行うべきではないだろうか。
 また未来についていえば、茨城五輪を開催する事がわが県名を世界轟かせ、茨城(或いは将来、道州制や連邦制のもとで新たな国名になる可能性がある「ひたち」)という言葉を好印象で刻みその名誉を高めることから、 この北茨城サッカースタジアム複合施設は将来の五輪競技の用にも使い得る様な規格を、後の拡張や修繕、再構築を含め、できるだけ満たす様に計画するべきである。

 水戸ホーリーホック関連の興行収益を市の単位でふやすことを目指し、ここから得られた財源を、 もともと推進中である市内でのテニス環境整備費へとふりむけていく事が、将来性のあるスポーツ関連投資になると思われる。



2018年3月18日

茨城県種子条例を2018年4月までに取り急ぎ制定すべし

 2018年4月に安倍独裁の影響で種子法が廃止される。このため堤未果『㈱貧困大国アメリカ』に詳しいが、モンサント社をはじめとしたアメリカ企業が人命に致命的影響がある事がわかっている遺伝子組み換え種子と農薬の年契約セットをさかんに売り込んでくるし、途上国がアメリカ企業支配によって既に農業と健康を致命的に破壊されたとおり、日本農業をつぶしにかかってくることは明らかとなった。遺伝子への悪影響、また農地への農薬散布による食料・環境・人体汚染、一度契約してしまえばもう元の安全で高品質な農業へもどることはできない毎年の契約金によって、茨城農家がモンサント社から利益を収奪される悪影響の結末が完全に見通せる。日本最大の耕地面積と農家数をもつわが県の食と環境、人体が遺伝子・農薬公害で破滅するだけではなく、首都圏を含む多数の作物の生産高が日本一、二である事実からいって、日本全体の食の安全がおびやかされるだけでなく種子や飼料を含む食糧封鎖をたねにした外圧に弱くなり、アメリカ依存の属国化を伴うことになる。
 したがって、茨城県も滋賀県同様に県独自で対処し、旧種子法の「国」の項を「県」におきかえた茨城県種子条例を率先垂範、県農作物の安全性と収益の独立を目的に、茨城県の食糧安全防衛を即刻、県議が行わねばならない。
 もはや安倍最悪政治は全く信用に足らない。完全に狂気じみた独裁政を行うアメリカの傀儡にすぎない。それぞれの農業県が、既に世界中で起きた合衆国資本による食料侵略を研究のうえ他山の石とし、米国農政複合体からの人命被害と食料支配による属国化という陰謀を見抜き、県益とその延長上にある国益を自主自衛するしかない。
 以下参考資料。

「安倍政権、日本の農業を根絶せしめる愚行…ひっそり種子法廃止」
ページ1
・・・今年はとてもそのような“ウキウキ気分”にはなれません。この先ずっと、今年のこの感覚は残ることになるかもしれないほどです。

 4月に「主要農作物種子法」、通称・種子法が廃止されるためです。昨年2月、国会が「森友学園問題」「加計学園問題」で大揺れしているさなか、閣議決定された種子法の廃止は、4月には国会で可決成立し、一年後の今年4月には有無を言わせず施行されることになったのです。

 種子法の廃止が国民生活にどのような影響をもたらすのかということに関しての議論もなければ、きちんとした準備期間もとられてはいません。なぜ、国はこれほどに種子法の廃止を急ぐのでしょうか。・・・
ページ2
種子法が制定されたのは1952年5月でした。・・・
この頃の日本はまだ、戦後の混乱期から完全に脱することができていませんでした。つい数年前までの食糧難の時代の影は、世の中に色濃く残っていたのです。それを踏まえた上で国は、国民を飢えさせることなく十分な食料を確保し供給するのは国家としての責任だという使命感から、種子法を制定するに至ったのです。

 同法では、「米・麦・大豆などの主要な農産物に関しての優良な種子の安定的な生産と普及は、国がその役割を果たすべきである」と定めています。地域性に伴った優良な種子が農家に行きわたること、またそれを実現するための農業試験場の運営にかかる費用など、必要な予算は国が責任を持って調達することになっていたのです。それによって、日本の農業が守られてきたという側面は否定できません。

 種子法が未来永劫このままでいいとは筆者も思いませんが、廃止してはいけません。それは遅かれ早かれ、モンサント、バイエル、ダウ・デュポン、シンジェンタなどのいわゆる多国籍企業に日本の食料を支配されることにつながり、これらの企業の世界食料支配戦略に加担することになるからです。

 もとより、日本は食料自給率が異常なまでに低いことで知られていますが、それでも最後の砦として、米をはじめとする主要農産物を守ってきたのです。それが4月以降、主食である米の種子までも売り渡してしまうことになるのです。これについては、もっと議論が必要だと思いますし、またそうでなければいけないはずですが、当の自由民主党内の農林部会でもまったく議論されていません。なぜにそのような手順を省略してまで廃止したのかと嘆きたくもなりますが、とにかくこの種子法は廃止されてしまうのです。筆者は、そのことを憂えると同時に、将来に禍根を残すと危惧しています。・・・
ページ3
米をつくるための水田は、同時に灌漑装置でもありました。米でつくる餅や発酵食品は、重要な保存食であるとともに地域に根差す季節ごとの行事や、祭りなどの祝い事に欠かせないものでもありました。種子法の廃止は、私たちが守るべき文化そのものを否定し、根絶せしめるものだと筆者は考えます。

 今年、お子さんや、お孫さんが入学式を迎える、または幼稚園や保育園に通い始めるという方もいらっしゃるでしょう。お祝いにお赤飯を炊くおうちもあるのではないでしょうか。その赤飯に使うもち米やあずきが、遺伝子組み換えの種子だったとしたらどうでしょうか。日本古来の種子からつくられた作物ではなく、食料の支配をもくろむ一派がつくった種子からつくられたものだったとしたら、どう感じるでしょうか。

 種子法の廃止は、そのようなことにつながっていく危険性が大きいのです。多くの方々がこれを真剣にとらえないのは、マスメディアが取り扱わないことも大きいでしょうが、それは種子法を廃止することで利益を得る企業の支配力がそこまで及んでいるということの証左でもあるのです。

 私たちにできることは、自分や家族が食べるものを真剣に見直し、きちんと選択することです。種子法を廃止する根拠はあまりにも薄弱です。それでも強行する裏側には何かがあると考えるべきではないでしょうか。

 食料を支配された国は、まちがいなく主権を奪われます。66年前に主権を回復した日本は今また、それを自ら放棄しようとしています。私たち国民の多くは、それを本当に望んでいるのでしょうか。それとも、この国が主権を放棄する方向に動いていることを、ただ知らないだけなのでしょうか。
(文=南清貴/フードプロデューサー、一般社団法人日本オーガニックレストラン協会代表理事)Business Journal 2018.03.15

種子法4月廃止、独自要綱策定し継続へ 滋賀
3/12(月) 22:50配信
京都新聞
 コメなど主要な農作物の種子を安定供給するために都道府県の役割を定めた「主要農作物種子法(種子法)」が4月に廃止されることを受け、滋賀県は12日、新たに県独自の要綱を策定し、原種の保管などこれまでの取り組みを継続する方針を明らかにした。法の廃止に伴う影響を懸念する農家の要望に応える。
 種子法は、食料増産に向けて優良な種子を普及させるため1952年に制定。コメと麦、大豆について、県に奨励品種の調査や種子の基となる原種の生産を義務付けている。種子の品質が安定したことや、民間企業が種子生産に参入しにくいことを理由に、昨年の通常国会で廃止が決まった。
 一方で、県内で生産されるコメの89%は、種子法に基づき農協を通じて供給される種子を使用しており、生産者から種子の安定供給や価格に影響が出るのを懸念する声があった。県は今月中に要綱を策定し、種子法とほぼ同様の内容を引き継ぐという。
 県農業経営課は「『民間業者から種を買わなければならないのか』といった不安の声も寄せられていた。優良な種子を農家に提供する体制をこれまで通り守っていきたい」としている。

2018年3月17日

産業や芸術文化の振興面からみた基礎所得論

 観光振興も過度なら観光公害をもたらすし、そもそも観光依存度の高い地域は土産物を除けば高付加価値品を販売できない為かGDPと負の相関傾向がみられるようだし、北海道、沖縄、京都、或いは東京という大衆観光集客を進めている地域は、反面教師という面も大きい。単に観光業という意味では民間によって、できる限り、高付加価値をもたらす客を選び、それにふさわしい高品位の奉仕を、世界に範を探して自ら研究するべきだといえる。大井川氏は高級ホテルを誘致しようとしているが、これも県内の既存の旅館ホテル業者に対して害悪だし、自由市場に対する干渉に他ならない。もしそうする合理性や勝算があるなら自分が民間で起業するなり、いずれかのホテルに投資して大株主になって総会で命じればいい話である。例えば山口県は農業生産高は低いが工業化されており、一人当たりGDPはかなり高く、長門市が経営破綻した白木屋グランドホテル跡地に星野リゾートを誘致した。この県民は長州閥一般がそうであるよう国家社会主義的であり、安倍晋三も含め、政商行為を平気でやる傾向があるわけだが、政治家に商才があるなら最初から商売をやるべきなわけで、自分がみる限りかなりの高確率でこの行政が企てた温泉街再生は失敗する筈だ。大井川県政がこの県から何かを学べるとしたら、市場放任の合理性に逆らった地域での骨折り損のくたびれもうけであり、また県有地を工業団地化し市場に放出する事によって一人当たり所得やGDPを上げる結果を鼓舞できるという点だろう。しかし、所得やGDP、人口の増加の為には県内に集積の利益がある商業地である大都市圏をつくる方がより効果的であって、高さ制限でこの高密度化を妨げている水戸市街地を改造するか、日立、筑波、土浦のいずれかの都市部の人口密度を高めるか、いずれかの方が優れているといえる。水戸市は芸術館塔の高さに合わせ条例で市街地の高密度化を防いでいるわけだが、この事が土地辺り生産性を低める結果になっているし、集積の利益に逆らう結果を伴っている。京都市は古都の体裁を繕う為に高さ制限を導入したわけだが、県内外の誰にとっても水戸市がもつ江戸時代の歴史景観に価値を認める人は少なく、歴史家にとってを除けばただの中小都市だと思われている結果になっている。例えばドバイをみればわかるよう、ランドマークになっているブルジュハリファは世界一級の高さをもっていて、周辺地区はその高さに追いつくよう開発され大都市化したわけで、水戸市街のどこからでも芸術館塔がみれるように、という水戸市議会の考え方は、塔の高さが現代都市にとっては低すぎるという問題点を解決できていない。京都市自身、高さ制限が経済合理性を阻害している。よって、今後の県都の発展を考えれば高さ制限を撤廃するか、さもなくば新たな高さの基準となる世界一高いランドマークを建設し続けるかだが、このどちらについても高さのあるランドマークを行政がつくる意味は何らかの都市計画についても特にないのであって、単なる自己満足でしかないだろう。
 結局、目指す県の理念や夢が何かによって、観光集客、産業振興、都市計画、がそれにあわせて生起するともいえるのであり、この点について茨城県知事は日本一幸福な県、という路程標しか建てていない。しかし日本一幸福ということは非常に低い目標だ。日本の客観幸福度は国連調査で示されてるよう万年下位だからだ。めざすべきは世界一幸福な県たり続ける事であべきだ。高い(不足していると考えられる観光的)魅力度というのは、観光業者の繁盛に加えて県民一般の尊厳欲求を満たす手段としてこの世界一の幸福の部分を為すものであり、目的に達するまでに経過すべき一里塚にすぎない。尊敬されたいとか羨望されたい、という俗物根性的な名誉欲が尊厳欲求の一部に含まれている限り、下衆や無知な人から魅力度差別を受け続けるのは不合理であろう。勿論、この俗物的承認欲を超越し、いくら不条理に下衆共から侮辱されようがわが道を行く事がより尊い態度だろう。京都市や東京都における自文化中心主義的な中華思想の例を見れば明らかなよう、承認欲に限度がないのも明らかなので、寧ろこの種の国内魅力度競争を避けて、全く自分の為にも他人の為にもふさわしい生き方をする方が悟っており、もっと大人びているといえそうだ。
 最初に挙げた通り、観光推進を今の自民党がはかっている訳は、安倍晋三という人が円安誘導に理由をつけてアメリカ政府と日本操縦者から内政支持を受けつつ権力行使をし、徳川に負けた恨みから形成された長州閥原理主義を狂信したい、というもので、はっきりいえば根底にあるのはただの山口県出身に執着する門閥の利己心であって、幼稚な話である。また観光業界でしばしば世界一の評価を受けている京都市の市長・門川大作という人の根底にあるのは、昭和の市長が作った世界文化自由都市宣言の延長として、平和や文化交流という名目で自文化中心主義をまっとうし、世界中から賞賛されたいという名誉欲と俗物根性である。皇族を含み、東京都民の目的は権力欲の満足であり、家康の頃は平和を実現する天下統一のため関西圏の覇権を切り崩す目的があったかもしれないが、慶喜以後は徳川家の影響力圏を出て、天皇が予てそうだったよう帝国主義的中華思想の権化に成り下がった権勢欲の俗物趣味そのものである。薩長土肥らの権勢欲は敗者側になった幕藩体制への恨みに由来し、現段階では西国一般同様、東京のカネと日本政府を含む権力への嫉妬と羨望がその由来におきかわっている。北海道と沖縄については珍しい自然環境をもっているので天然で観光振興している。人口減少に悩んでいた東北は震災復興に大変で、事態を傍観している。これらが現時点の日本人らがもっている欲望一般なのである。どうだろう。我々の模範に足るところがどこかに一つなりともあったろうか? この種の俗物達から差別され、侮辱されたところで、我々とは何一つ関係ないのが分かるのではないだろうか。我々茨城県民や北茨城市民の精神性、道徳心の方が、根底から言って、彼ら県外の、皇族を含む、おもに西南地方の人々より高いのではないだろうか。何しろ我々にとって中国韓国北朝鮮を差別しながら欧米模倣したり白人から名誉を与えられるためとかく権勢欲を満たしたい、という大分県出身の福沢諭吉的野望は特に身近でないし、天皇家のよう自分が皇帝だの現人神だの自分の先祖が中国人の神だのといった自己優越の妄想をいだいて全国民を差別蔑視暴虐暴利して回る様な野蛮人は先ずみたことがない。冷徹にいって、南西日本の我執によった傲慢な権勢欲から学ぶに足る点はない。
 仮説としてもし理由をみいだすなら、我々がこの種の上位の精神性を得るに至ったのは、嘗てこの地を支配し、先日ご当主が亡くなられた徳川慶喜家からの伝承ではないだろうか? この慶喜という人は、水戸学を弘道館で習った後、自ら大政奉還し、開国のうえ軍事を近代化し、天皇のもとでの合議政体をつくりつつ大変な苦労をされて、烈公からの庭訓を守って朝廷に弓を引かず、恭順しながら貴族院議員として薨去した。にもかかわらず下衆から名誉毀損され続け150年、母と正室が皇族であった事とあわせて悲劇の将軍というべき人物だが、彼を信じて亡くなった天狗諸生両党の思いを汲んでも、これほど権勢欲と無縁だった人物は歴代将軍の中にいないのであって、初代頼房が天下が欲しいと天守閣から家康の前で言ったとされる夢が15代目で叶ってからも、我々この県で生まれ育った者の中に或る達観をもたらしているのではないだろうか。それは権勢欲のむなしさ、権力の無常に対し一定距離を置いた、定府的で、副将軍的で、メタ認知的で、批判的で、自己超越的な物の見方であり、上述の承認欲に根差す俗物達について我々が余り、或いはほとんど共感できないとすれば、慶喜公という先人の偉大さに精神の高貴さについて少しも及ばないからかもしれない。ゆめ朝廷に弓を引くなかれ、という彼の家の哲学としての当為に対し、徹頭徹尾自己犠牲的にふるまい、世間の誹謗にも耐え、遂に当主も亡くなられたという現実の前で、やれ自分が維新の胎動だの、日本人をスコットランド人との武器取引を経て殺しまくってやっただの、当時の政府警察をテロで殺戮しただの、自分の先祖は神だから崇拝するだの、世界の文化中心が自分の町だだの、世界の都市格でわがみやこが一番だの、まことに卑小な連中というべきではないだろうか。この尊皇論というものの原型が、義公による名目的君主政体の定義、といういまでいう象徴天皇制の理論的根拠にあるとしても、イギリスかぶれの皇室や宮内庁は、GHQに命じられて類似の制度をもっていたイギリス王室を模倣しているのだと思っているのではないだろうか。なぜ将軍を首相という名義に代えて、絶対君主による帝国主義という逆行を経てまで、世襲の天皇が日本を一度亡ぼしたかというと、この天皇家の知恵が、慶喜を含む水戸の徳川家に劣っていたからだといえるだろう。岩倉、伊藤、毛利に島津ら西国諸藩主に、五摂家その他の華族連はいうまでもない。気宇高邁な主君の統治を経てきたわれわれからみれば、薩長藩閥の外様大名の領地から東京に出てきて暴れまわる人々の権勢欲それ自体に意味がないどころか、天皇を自称して恥じない家の様な、子供じみた我執そのものが愚かしく見えるのも、当然だ。

 最初の問題に戻ると、世界一幸福な県とは諸々の欲望のうち、最も高貴なものを満たしている状態であろうし、それは恐らく自己超越にあるのだろう。自慢合戦や大衆観光集客を主としたメディア洗脳ゲーム、工場誘致による仕事場作り、あるいは芸術祭による集客や傑作の収集、大都市化だか低層都市だかによる人口密度の調整、世界で名誉を得る為のノーベル賞だの国際賞取得の努力、万世一系だか万代一系だかの当人は平気で政治干渉するが民主党政権からの政治利用は禁忌という腐った世襲祭祀長の護持、はいはい、外様大名のもとにいた下士の身分制度への反発、復讐劇としてのアジア侵略自慢、異民族同士に内乱させて征服するジェンタイル・フロント戦略じみたスコットランド商人経由のイギリス製銃器で自衛戦争ぶった日本人同士の内乱罪や侵略罪の山を糊塗する薩長クーデター妄信、まことに結構。これらの事はすべて俗事であって、われわれの幸福とはほとんど関係がないように見える。なぜならどれも他人より自分の方が優れた状態になりたい、比較して自分の方が優越していると信じたい、という利己心の発露なのであり、この種の競争の本質が無我でばかげていると分かればこそ、現実の位相の上に或る理想の世界観を持てるのだ。万民平等とか、調和とか、四海兄弟とか、永久平和とか、こういった理想に比べれば、国家や地域連合の単位を含む自治体間の競争とか、個々人の間の優劣とかは、まったく意味をなしていない。結論をいうと、世界一幸福な県や市というのは、誰とも競争していない、そして誰の事をも見下したり見上げたりしていない人の考え方を指している。少なくともいわゆる空観(クウガン)にできるだけ多くの人ができるだけ長い間とどまっている様な状態を、主観的な意味では世界一幸福だというのである。無欲であればそれ以上を求めもしない。対して、物質的、欲望的な充足としての客観的幸福は、その競争と開発にきりがない。全ての観点からみて最も、物質的、欲望的に充実しきっている人が、おそらくもっとも俗物的にみえるであろうことも確かだから、この比較に基づく客観幸福というものは、実際には永遠に満たされえないのである。
 スカンジナビア半島の北欧三国の人々に、あなたは完全に幸福で満たされているかと問えば、大抵の人ははいと答えると同時に、世界中のどこかを探せば、彼らより物質的、欲望的に満たされた人はきっといるであろう。知らぬが仏という通り、情報不足のためにこの人達は自分の身近な人達と比べて、物質的、欲望的な満足度が高いと考えている。
 この例と同様に、現実にある諸々の物質的欲望は、彼らの認識している他者に比べて自分の生活が優越していると認識する、嫉妬を感じない状態であって、かつ、うぬぼれを満たしてくれる様な状態を目指しているのだ。これこそ、仮観(ケガン)の世界である。帝国主義はこの我欲を満たす為に物質的状態を全ての人よりまさった状態に置き続けようとする、一人の権勢欲から生み出された考え方であり、今日、蓄財を手段とする資本主義がこの後継者になっている。
 天台宗の理論、一心三観では、空観、仮観をもちあげた中観(チュウガン)が覚めている事だとされるが、究極の主観的幸福としての無欲と、客観的幸福と呼べる単なる物質的欲望の優位な充足とのふさわしい関係は、できるだけ多数の人が、できるだけ長い時間、無欲にとどまる為に丁度いい程度の物質的条件が最上なのである。ここで物質的欲求に、マズロー欲求階層でいう自己実現以下の全ての欲求(生理、安全、愛と所属、尊重、自己実現)を含むとすると、これらはそれぞれの段階について無限に追求できるのだが、より高次の欲は低次の欲を包含する関係にあり、或る人が低次の欲について持っている期待がなくなるか、その期待が十分満たされた時に飽きる。そして自己実現を超えた段階が無欲なのである。苦痛をなくし快楽を味わうべく欲望を満たす、という快苦の原理に基づいて言行している限り、それ以上求めるべきいかなる快楽もない状態は、不足がないという意味で現実に求められる限り最上の幸福だといえる。脳内で何らかの不足を感じるということは、ドーパミンによって意欲が惹起され、アドレナリンに導かれ多かれ少なかれ言行を起こさざるを得ず、目標達成によってオキシトシンが満足の合図となるまでのあいだ、多かれ少なかれ苦痛を味わうことに等しい。したがって、資本主義における情報化とは、比較対象を視聴覚を主としたメディアを通じて無数に展示させ、嫉妬や羨望の感情を起こさせることによって、仮観的誘惑を行い、消費活動を鼓舞するものに他ならない。平成の一般的不幸の原因は、この情報メディアの氾濫による嫉妬という苦痛の蔓延である。無限の競争は、新たな欲望が起きる限り無限の苦痛の原因発生をも意味し、より高い品物を消費したい、羨望されたいという承認欲を満たす為、商人や成金という生活様式に陥った人々の集まりが、東京圏や関西圏、名古屋圏といった商業都市の実態である。
 我々が幸福でありたければ、自らをとりまく情報環境を、我々自身が無限の仮観的競争に巻き込まれない程度に矯正しなければならない。時に引きこもりとは社会病理ではなく、現代社会への賢明な適応の仕方の一つだといえる。人が集まるところほど比較対象がふえ、羨望させる為の罠も、広告や公然たる浪費によってふえてくるからだ。欲望を刺激する機会が少ないほど、その人の現状への満足度もます事だろう。大都市生活が不幸にさせる誘引で満ちている限り、今後、過密都市に移住した人類はもっと内向的になるかもしれない。もし仮観そのものを目的にしたとき、天皇家にみられるよう、終わりなき虚飾に追われ生涯、心休まる暇はない。この事は帝国主義者たる天皇家の業である。

 大都市化や、情報化はその程度が物質的欲望を惹起しすぎない程に中くらいである時に、最も幸福と正に相関する。極端な大都市も、一切の情報の遮断も、合目的ではない。
 観光集客は自文化を羨望させるのに役立つ、という京都市や京都府にみられる俗物根性は、観光客や文化庁、官公庁、皇族を、京都人自身の承認欲を満たす手段にするものであり、この種の京都教義的志向は多かれ少なかれ客に嫉妬させるという苦痛を与え不幸を増すので、遠からず逆の評価が反動として与えられるであろう。これは手前味噌のうぬぼれで世界の人々を呼び込もうとしている安倍自民党の政策についても、各地方自治体についても同様だから、日本自体が世界から、羨望や嫉妬の苦痛を与え不幸にした仕返しを受けることだろう。茨城県は逆に、水戸学に抽出された儒学的教養の伝承によって謙遜の美徳が維持されていた為に、これら飽きがきた観光客らによって与えられる反動の悲惨から多かれ少なかれ免れるだろう。我々が観光業態について持つべき哲学は、顧客に自分達のもっている観光資本を自慢するのではなく、さも顧客自身が我々の気づいていない貴重さをみいだすかのように仕向ける事である。要するに、我々は茨城県内、北茨城市内を観光客向けにわざわざ美化したり、不自然に装飾したり、案内板を設置したり、いかにも観光地であるかの如く、外からの目線を意識して整形したりするべきではないのだろう。この種のわざとらしさが微塵もないかのよう、単に我々が幸福に暮らす為の生活様式を存続していればいいのであって、その種の作られていないありのままの暮らしこそが、本来の意味での文化多様性であり、観光客にとって最も興味深いものであろう。我々がどこかへ旅に出て、大衆観光客向けの整った道路とか、ルート整備とかがされていたら、その人の印象には全くこの種の事は残らなくなるし、寧ろつまらないと感じるのであるが、目的地までの道路が整っていないとか、何も知らない地元の人達に紛れて行ったとか、外部の人の目が意識されていないため外の何かを模倣しようという意図がないとか、昔からの生活における信仰の跡がちゃんと残っているだとか、要するに外部とは違う状態が自然な形で残されている、という事が、良い意味で最も印象に残る。逆説的な命題であり、大衆観光と正反対の見方だが、真の観光魅力度を向上する為には何もしないのが最善なのだ。県内のホテルや旅館におけるアメニティの充実とは別にしてである。この事はブランド総研の田中章雄やその他の卑俗な日本人一般にはまったく理解できないかもしれないし、某調査への即効性がある解決策でもないが、観光学的真である。したがってこの基本原則、即ち観光誘客のため特に何もしない、むしろ生活者にとっての満足度をはかるという事を徹底すれば、世界で最も優れた観光資本をもっていると口コミによってひとりでに認められる日がやってくるであろう。実際、我々は栃木や福島を観光し、京都や東京を観光したより不快だったり、不満だったりしたことがあるだろうか? 事実は、魅力度調査とまったく逆の様である。ということはこの調査は観光魅力度ですらなく、数百人足らずの主に大都市住民の観光素人であったり俗物趣味であったり、単に身びいきな会員によるきわめてかたよった偏見であり、統計的真からほど遠い事しか示されないであろう。根本的に、多数派が好む観光地は低俗という意味で最も下らないところだろうし、この母数やアンケート先が定常的で偏った疑似統計が示している羨望の的も、やはり通俗的な結果になっているのである。

 また産業についていえば、高付加価値化を進めるべきとはいえ、近隣諸県や世界全体と比べて遜色がないか、多少あれ優っていればそれで十分といえるだろう。もし所得や一人当たりGDPについてある地域が世界一を達成しても、ある地域内偏差としては一定程度の所得を超えるとそれが幸福感と正に相関しないという仮説がリチャード・イースタリンによって示されている。つまり幸福と所得の相関には飽和点がある、という仮説である。他方、ミシガン大学のジャスティン・ウォルファースとベッツィ・スティーブンソンの仮説では、お金があればあるほどますます幸せになって飽和点はないことになり、その伸び幅は収入の対数と幸福のグラフを描けば無限になると考えられている。金森茂樹は、2017年3月雑誌『プレジデント』の記事中で、収入を一定の水準を超えて指数的に伸ばせる人は現実に殆どいないので、両仮説の実質的帰結は同じと述べている。また大竹文雄は論文『失業がもたらす痛み』(『勤労者福祉』No.71、2003年1月)の中で失業経験や失業不安を含め、失業が単に所得低下という以上に幸福度を引き下げると示している。
 これらを鑑みると、幸福追求に最も合理的な行動原理として、第一に、地域の所得水準をなるだけ高めようとする努力そのものは正しいが、或る個人の能力を超えて収入を高めようとすると、それに伴う苦痛は要する指数的努力に見合わなくなるかもしれない。つまり幸福感が高まると感じるまでに必要な収入が倍々に、自乗で増えていく。100万円に対する1万円を増やす努力と、100億円に対する1億円を増やす努力は、経験効果を省みても、後者の方が多大であり、その苦労の倍々の増大に対して、有り余る大金から得られるだろう幸福感は割に合わなくなる傾向がある、という事なのだろう。この逓減の程度は、感覚量は刺激強度の対数に正比例するというフェヒナーの法則と関係しているかもしれない。
フェヒナーの法則
E=K log R=KR
E: 感覚量
K: 定数
R: 刺激強度
いいかえれば、成金趣味や皇族閥の贅沢、顕示的消費が生まれるのは、この羨望されたいという承認欲に要する感覚量を得る為に、指数的な収入増大が必要となるからな可能性がある。文化資本という名目で地域自体が成金趣味や俗物根性を奨励する傾向がある京都や、江戸幕府や明治政府を経て覇権的な自己優越の錯覚を顕示的消費によって強化する傾向がある東京は、この様な理由で、競争相手や比較対象の多さの為に幸福感を感じ辛い環境であり、法政大・坂本光司の調査による客観幸福度も低くなっていると考えられる(2011年4月~9月の調査では京都が42位、東京が38位)。また神奈川、大阪、兵庫、千葉、埼玉、福岡や、宮城、北海道といった大都市圏をもっている地域も、失業率の高さのため同調査で軒並み幸福度が低いとされているといえる(これらの大都市地域群は上記の調査で、33位に位置する千葉以下であり、茨城は30位とされている)。求職者は就業先の絶対数が多いと考える大都市部へ進んで集まる傾向があるからなのだろう。
 第二に、失業経験や失業不安は、将来にわたる所得低下を予想させる事が多い為に、幸福感を削ぐのかもしれない。そうであるなら、これまでこの論文で示された通り、失業による幸福度低下の効果も、所得や収入向上による指数的な幸福度増大の効果も、また顕示的消費から得られる幸福感逓減の効果も、所得と幸福の経験的法則としてまとめられる事になるだろう。すなわち、茨城県や北茨城市が施政の中でとるべきなのは、基礎所得を将来にわたって保障するか、それが不可能なら失業率低下の為にありうべき対策を打つことであり、また地域内の所得水準をできるだけ上げるとともに、できるだけ不幸を感じるだろう最低所得の人の水準底上げの方に力を使い、見栄の為の浪費に関しては京都や東京といった自己優越感の錯覚が強い中華思想的な傾向をもつ人々の方にまかせておくことだろう。なぜならこの浪費によって得られるだろう承認欲は、有り余るカネの使い道としては決して県内市内住民の幸福感の増大に対して割に合うものではない事が、必要となる財源を得る指数的努力の苦難に対して明らかだからだ。それに比べて、県内市内で最貧の人々の客観幸福度を増大させるには、極めて少額の保障でもそれら比較貧者にとって幸福感が得られる効果は極めて大なので、功利的な投資対象としての費用対効果が高いことになる。この様な理由で、高福祉高税率の北欧諸国の客観幸福度が世界最高水準を維持してきたのだ。我々茨城の人が学ぶべきなのはこの北欧的福祉主義の幸福合理性であり、見栄を張る為に自慢をくりかえす東京や京都、或いは福祉を軽視し、調整的正義を殆ど完全にばかにしきっている一部のリバタリアン社会ではない事になるだろう。もしこの種の自由人主義(アイン・ランドの客観主義的なものや、選民的なユダヤ思想、self-made manや独立心を尊重する開拓者的気質を内に含む)に一理あるなら、それは経済社会における政府からの無益有害な規制のなさに対してであって、政治社会とみた最貧者を含む社会全体の幸福増大には役立たないどころか、かなりのところ有害でさえある様だ。したがって、茨城や北茨城において産業の高付加価値化を進める事は是非必要で、例えば金融庁の国内FX業者への高レバレッジ規制は少ない資金で高利益が見込める事からこの点で投資家育成に極めて害悪であり、今後、茨城県域や北茨城市域について法や条例を改善できるなら、県内・市内で開業した仮想通貨商品を含む為替業者にゼロカット導入を義務づけながら、ロストカットがスリッページによって遅れた際の損失補填を業者に負わせる様にするべきとなる。そして現在の高付加価値産業の代表は金融業であり、次点がIT業なので、幼少期から金融literacyの高さで世界一を目指したり、ネットでの自宅学習を中心にプログラミング教育をはかり、またこれら金融とITを専らとした高付加価値産業の規制緩和に対して世界一の優遇措置をとりつつ、農工業に関してもありうるかぎり高付加価値化、つまりより投下資本収益率(ROIC, Return On Invested Capital)、特にそのうち有利子負債を除いた株主資本利益率(ROE, Return On Equity)の高い事業形態を民間人が選択し、集中的転換を進めるべきとなる。未上場であったり、株式会社化されていない事業形態や個人事業についても、ROEをさらに高くする事業形態を集中的にとりつづけていれば、この事業は投資する為に割安になり、株価収益率(PER, Price Earnings Ratio)を下げる結果となって投資資金が次第に集まり、最初にあげたROICの増大につながる好循環が生まれる筈だ。これらの始原はROEの向上、つまり元手に対して得られる利益が高い、効率の高い商いをめざす事だが、その根源にあるのはrisk reward比率(平均利益/平均損失。損益率)の高い生業、つまり平均した損失の割に利益の見込める事業の選好である。一般に、高付加価値化と言われる行動の根底にあるのが、損益率についての選択眼だといえるわけで、たとえば農業の6次産業化が損益率を下げる可能性がある時、これは望ましい選択ではないだろう。鹿児島県知事の三反園訓(みたぞのさとし)氏は2017年1月に紀ノ国屋社長と5月に千疋屋総本店常務と県庁で会談し、同年5月20日から県産マンゴーを紀ノ国で、同年6月26日から千疋屋総本店で県産パッションフルーツを販売してもらっているという。
(記者)
それは,いずれも知事がトップセールスで実現したということなのでしょうか。
(三反園知事)
私自身が決め手になったかどうかというのは,逆に先方に聞いていただいた方がいいかと思います。いずれにしろ社長にお会いして頭を何回も下げたことは事実でありますし,常務さんにお会いして「なんとかお願いします,千疋屋(せんびきや)に置いていただくことがブランド化になります」と。「ブランド化になることによって,生産者の所得を上げたいのです。やっぱり後継者を育てなければいけません。そのためには,本当にいい物を提供いたします」と。そして「途中で生産が追いつかないということにはいたしません」等,いろんなお話を率直にさせていただきました。ただ,今後とも置いていただけなければいけませんので,ある意味でフォローアップといいますか,そういった努力もしていきたいと。もっともっと増やす努力をするということでありまして,そういった努力もしていきたい,その結果によってたくさんの物を置いていただくような,そうなればいいという気持ちの中で努力していきたいと思っております。
鹿児島県、平成29年7月26日定例知事記者会見
この施策は一見すると鹿児島農業にとってプラスの様にも見え、六次産業的なものに見えなくもないが、農業の最終責任主体が県庁ではない事、特定業者と官民の癒着を招く事を考慮すると、この種の行政行為はあまり望ましいとは思われない。また愛媛農協が生果出荷時に厳格な糖度コントロールを敷き高く売り、そうでない蜜柑をポンジュースに回して、農家の損失分を農業全体で補償していたことに学んだ和歌山県庁が、同様の糖度管理を通った蜜柑にラベルを張り、糖度不足の物にラベル不許可とし、損失分を農協に加え県庁が補填した結果、単価アップしたうえ蜜柑産出額で日本一となったという。他方、和歌山産蜜柑の販売単価は(2017年段階で)7位に留まるのだが、その理由として和歌山産は早生に出荷集中し、市場が品薄になる晩生のころ静岡産が出て高い値で売れていくとわかり、和歌山県の研究所で和歌山産にも高い値をつけられるよう晩生の新種を開発普及を行っているという(和歌山県、知事からのメッセージ、平成29年3月のメッセージ)。計画経済は不可能というハイエクの洞察が正しければ、民間事業者が行うべき生業について県の研究所が深く関与するこれらの事例は、本当に合理的なのか疑問に思われもする。新自由、自由人主義側の見解では、市場の需給とずれが生じ供給・生産過剰で価格低下を含む市場の失敗を招く、つまり民業圧迫という事なのだろうが、もしそうなら、鹿児島と和歌山の県知事、県庁が行政の立場から県産品をより高く値づけさせる事は、結局失敗を招くとみていいのだろう。私がみるところ、価格が高いと需要が減るという需給曲線の関係からも、また消費者がブランド価値に高い値段を払うのは結局その裏付けがある時なのであって、実が優れていないのに高い値を付けて売ろうとするのは矛盾しているわけで、すなわち優れた商品を作るか、それにふさわしい販売まで行う技量と資本が必要なわけだが、これらの事をうまくやる才能があるのは結局、民間の経営者とか労働者のがわなのだといえるだろう。なぜならこの種の才能、商才があるなら最初から起業したり民間事業体で自ら働く方が収入上昇も能力発揮も上限がないからだし、民業圧迫の末に事業を倒産させても減給や失業という責任を負わなくて済む行政という立場にある以上、どうしても本腰を入れて取り組むはずがないだからだ。その上、行政は全体の奉仕を行う調整的役割だから、特定事業に肩入れした結果、別の事業をなおざりにしては本位にもとるとなるし、そもそも民間企業のうち成功する者が現れるのは市場競争の淘汰によるのであり、無数の会社や起業家のうち、どれが潰れどれがうまくやった結果になるのか、未来は変わるので基本的には誰にも事前にわからないのである。高付加価値化をめざす産業振興という面の最終結論を茨城県や北茨城市についてだせば、行政の立場からの民業圧迫を最大限に避け、経済に関する事は公害を及ぼす民間企業についての全体調整役に徹すればよい。具体的には企業連合による過度の独占や寡占を一定程度制限したり、原発や産廃の不法投棄、善良の風俗に害のある生業といった外部不経済を内部化する、つまり公害について企業や有害な事業者自身に責任を負わせて公共の費用負担を減らすよう努めればいいのだ。究極の場合、起業資金を希望者に提供するがなんの返済も義務づけないエンジェル投資家のような事、をもし行政がやろうとしても、さきに挙げた通りそもそもROICやROEを上げるべく行う高付加価値産業の振興にならない事は明らかである(投資あたりの収益が目的でない以上、投資家側に立つ行政と起業家側の民間事業者どちらの意図にも関わらず、収益力のない事業に対しカネをどぶに捨てるのと一緒になるから)。
 これは芸術祭への投機とか、市民祭りの開催という現時点の北茨城市長豊田稔氏が行っている事業体について当てはまる事で、この効果は京都市が進める類の文化振興という名の部分への奉仕と同然で、大盤振る舞いの結果として、税金を貰った個人とそうでない個人の間に不平を招いて民業を圧迫し、人々へ多かれ少なかれ行政の長による浪費の影響力をみせつけることで幸福感を低減させてしまう。また豊田氏は子育て支援住宅という名で、教職員住宅の跡地を県から借り上げ、土地を民間に貸し、管理建設させた集合住宅を市が借り上げるという複合的で実験的といえるだろう政策をとったわけだが、この施策は豊田氏自身は人口減少を憂うという善意でやった事なのかもしれないが、子供がいる世帯をひいきして市税を投入し、子供のいない世帯を結果的に冷遇する事になるし、憲法15条2地方公務員法29条、30条に記されている全体奉仕者たる公務員の旨に反するというべきだし、そのうえ税金で補填した分、割安な価格で一部の市民に限定し市場に住宅を供給しているので、不当な競争条件を与えている意味で民業を圧迫する結果にもなり、二重の意味で矛盾している。市営住宅を公設公営で作るより、管理が民間委託された分だけ市税の費用負担と集合住宅管理の質が高くなる可能性がある、程度の進歩に留まるだろう。より本質からこの事を分析すると、端的に言って人口が減るのは必ずしも悪い結果ではなく、幸福度という面からみれば人口523万人のノルウェイ、549万人のフィンランド、人口990万人のスウェーデン、或いは573万人のデンマークといった国々の例からいっても、人口の多さと幸福度に相関関係はない。つまり豊田氏が人口減で市税が減るとか、消滅自治体となって最低限度の人口すら持続できないかもしれないという不安を憂いているとしたら、この事はごく勘違いした考え方で、心配するべきなのは今現在生きている市民と今後生まれ来る市民にとって生あるうちの市内での体験が幸福かどうかなのである。失業の結果としての低所得が幸福感を減らす事実があるとすれば、それは最貧者をおもとして比較貧者へ累進的に基礎所得を与える事で最大化するのだから、その為の市の財源を確保したり、それ以前に市内の最低限度の所得水準を上げる為に国からとってくる財源によっている生活保護補足率を100%に近づくまで高めるとか(腐敗行政による人権侵害に他ならない水際作戦の正反対を行く必要があり、希望者全員に保護を与えるという事だ)、それらの分を市内でまかなうには上述のよう市内産業の高付加価値化、具体的にはROEの向上、いいかえれば商才のある市内民間人の出現率を高めるような規制緩和とか環境整備、更に具体的には失敗しても再起できるだけの基礎所得保障と、成功が見込まれる損益率の事業へくりかえし挑戦できるだけの投資資金源の貸与、あるいは現時点の市の財政を例にとれば主な財源である工場用地の取得と販売を、外部不経済の内部化にあたる環境排出による費用負担の企業への転嫁という環境保護条例の制定と共に進めるべきである(2割の人が8割の成果を上げるというパレート法則によると、市内経済人のうち2割の上位能力が市内経済力の上限をひきあげるので、資本を集中させる必要がある)。
 仮に人口が減っていっても、市民全員の所得が徐々に向上していく傾向しかなければ、この市での暮らしは幸福な経験になる可能性が高い。仏教の見解によると子供のいない解脱した無欲の生、最低でも少欲知足の境地に留まる事が最も安らかな人生であり、旧約聖書を含むキリスト教や、イスラム教の見解では、産めよ殖やせよとか、アッラーが育てて下さるというよう子供が多い事を奨励している。この種の両極端な人生観の立場をまとめていえば、或る世帯の子供の有無に応じた人生観が選択され得るのであり、子供が多くとも少なくとも或いはいなくとも、これらは生きる経験において必然に生じる多様性の一端に過ぎず、どれも必要不可欠ではない事になるだろう。たとえばピケティが2015年1月29日の来日シンポジウムで日本全体について述べた事(『週刊朝日』2015年2月13日号)のうち、継続的人口減が恐ろしいとか、長期的人口増大が相続財産の偏りを緩和し格差縮小につながる、といった意見は眉唾ものであり、彼が主張する事のうち、2015年1月31日記者クラブ会見で述べた(『読売新聞』2015年02月03日)低所得者への低課税、若者に有利な税制という2つの点については、上述の様、今後の所得低下の予想が幸福感を減らすという幸福学に一致する分だけ善の可能性がある。仔細にいえば、高齢者が人口減を憂う理由があるとすれば、ミラー・ニューロンを通じた共感性の次元で、将来にわたる所得低下が若年層の不幸を予想させる、という親近な同族連帯への心配にあるのだろう。又この種の共感知能が摩耗した不徳な人であればあるほど、原発を推進し子供を地獄に叩き落したり(自民党閥や一部の東京都民など)、神道原理主義に基づく皇族閥とか薩長藩閥の明治維新と名づけた侵略・内乱戦争を誇って嘗ての内乱罪や植民地収奪での犠牲を美化したり(薩長土肥京芸、いわゆる西日本各地の人達、或いは皇族と西軍)、武器輸出で金儲けしたり(兄が三菱財閥の安倍家や、坂本龍馬、米国軍産を賛美する人々)、自然環境破壊を何とも思わなかったり(例えば東京五輪関連の産業廃棄物を茨城県内に不法投棄している都内業者)するわけだ。まとめていえば、豊田氏は市民の将来を心配するあまり、善意によって子育て世帯に偏って税を再分配するという違憲行政を行っているともいえるが、これは子供がいない最貧市民にとって税を不公平に子育て世代へ優遇調整する悪政に他ならないし、子供がいる事で不幸を被る事例を含め、老婆心というべき単なる杞憂を超えてみれば、住宅に需給の選択肢が多い民間事業で十分なしうることであるからには、単に無益有害な市政といえそうだ。既に作ってしまった子育て支援住宅を民間に売却するべきである。そして芸術祭に関していえるのは、例えば武家が狩野派に城内装飾を施させた事例とか、ナポレオンが美術品を収奪し宮殿を飾ったとか、現に皇室が日本芸術院に皇居内を装飾させているとか、佐賀県が県内出身画家の絵を県立美術館を飾る為1億3000万前後で複数買い上げているだとか、こういった己の権威を強調するため官が発注する美術というものがしばしば存在してきたとはいえ、自分がみるところ決してかわいいとはいいがたい悪趣味なゆるキャラを選んだり、そもそもディズニー並の子供向け遊園地ではあるまいし、ゆるキャラというサブカルじみてはいるが意味不明かつ横並びで笑止千万な流行を模倣している豊田氏の元での市役所の審美眼が特別優れているとは思わないし、他にも豊田市政になってから磯原駅の改札正面に飾ってあった市内名勝の立派なホログラム・アートは低俗な広告もどきで詩とみてもつまらない文句が重ねられた低品位な画像(ここにも醜いゆるキャラが並べられていてキッチュさに驚く)に入れ替えられてしまい、また仮設展示が主な祭りは蓄積する物が残らないだけ単なる一過性の浪費に終わるので、正直いって福祉に回すべき財源を減らす無用な事だといえるのではないだろうか。裏返せば、ごく優れた審美眼をもつ市長なり知事が歴史的価値をもつ作品を購入し、その保有や展示によって市の権威を上げるとか、芸術祭という形をとっていてもいなくても、仮設展示を除外し、恒久展示の公的作品のみを増やしていくという形で市内装飾につとめるのなら、これは前の作品が次々残るという意味で文化資本の蓄積になるため一定の環境美化効果があるかもしれない。尤も、審美眼が非常に優れた人がやった時にしか陸なものが残らないだろうし、審美眼がない人がやれば却って長い間、どうしようもない作品を公に飾る結果になって恥を売る結果にすらなる筈だが。但し、この種の方法で過去の世界遺産だらけになっている京都市の事例でいうと、庭や建築を含む何らかの恒久展示物を役所が管理すると費用が必要になるので、その管理費がユネスコから貰える世界遺産登録をめざすわけだが、パブリックアートの管理費が嵩んだ結果、撤去を余儀なくされたり管理費が市税を圧迫する可能性もあり、またそもそも贅沢品、奢侈の支出である芸術品の購入や芸術活動の助成は幸福論の観点からいえば将来の所得漸増を予想させるという市民全体に対する福祉政策より公益への効果が薄く、最悪の場合は見栄を張る事で逆に成金趣味が軽蔑されたり、不公平感が蔓延する事で市民の幸福度を下げる可能性もある。基本的に公的支援を受けない市内の作家に対する民業圧迫につながるので、市や県の芸術支援による町おこしなるものは、市長や知事の善意の正反対の結果を伴うのであって、はっきり一言でいうと害悪でしかないと思われる。そもそも市民の中にいる作家も払った税金が、市外からきてすぐに去る旅芸人のような人々の遊興費に使われて消えていくというのは、どう見ても市内作家への嫌がらせでしかないし、それならルネサンス期のイタリアやフランスの都市国家とか、戦国時代に秀吉が利休を召し抱えたような例でみられたよう、行政の長が直接この市内在住作家らへ公務員に類する形で給与を払った方がまだましである(例えばダ・ヴィンチはフランス国王フランソワ1世に招かれてその地で亡くなっているが、館や年金をもらっていた)。勿論これも民業圧迫に該当するだろうし、選ばれる作家についても市長の好みが反映されるにすぎないだろうから、全体の奉仕にふさわしい結果が得られるとは余り考えられず、私個人はこの方法論が望ましいとは思っていないが。又これらは芸術史という観点から高尚な立場で言っているが、逆にこの種の例が単なる通俗的な意味で成功していると民衆によってみなされるのは、京都市とか奈良市、鎌倉市といった古都がそうであるよう羽振りの良かった或る権力者の嘗ての栄華を誇る、という後から偶然観光地になった場合とか、伝統工芸という形で現代の需要がしぼんだ死んだ技術を絶滅しない程度に保全する様な文化保護という名目の慈善活動、すなわち退行的な場合に違いないのだが、自分がみるところ、これらはすべて本来の芸術があるべき姿から遠い、ただの欺瞞である。最も典型的にその事がわかるのは、フランスのアルルという町であり、ここの人々は当時の前衛画家だったゴッホを狂人扱いして精神病院に幽閉し、絵を一つも買ってあげず、困窮した画家の生活を助けてあげたりもせず、ついに困り果てたゴッホが自殺してしまってから徐々に評価が上がった彼を、今度は町の宣伝材料に使っている訳である。この事例からいって、アルルの住民は現時点でも、ゴッホ同然の暮らしをしている不遇な芸術家を信じがたい冷遇の境涯に置き去りにしている事は疑いようがないのではないだろうか。却って芸術の天才が最も活かされている市があるなら、その市は今現在生きている市民に芸術の需要があり、現に盛んに供給されている様な市であって、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェは、商売で成功したメディチ家という大金持ちが当時のキリスト教で推奨されていた慈善の手段としてできるだけ立派な聖像を求めた事から、我々が知っているダ・ヴィンチとかミケランジェロとかを呼び寄せ、一生を芸術の研究に捧げても食い扶持に困る事がない食客の身分を多数設けたり、教会の礼拝堂を庶民に理解できる宗教画で飾る目的で、そもそも仕事を盛んに発注したわけだ。対して現代美術は第二次大戦で戦場にならなかったアメリカに西洋の作家が移民し、商売で儲けた人々が広大な自宅を飾ったり、美術館への寄付が税額控除の対象となる税制をつかってより高く査定されるだろう作品を進んで買う流れができて、先物買いの投機を駆動力とした前衛美術の画廊ができるようになった事に由来し、これに経済的に衰退したが見栄を張りたいイギリスの人や、パリに近代画家が集まっていた栄光をとりもどそうとするフランスの人などが追随者となって、多かれ少なかれ欧米の民間画廊による美術品オークションを中心とする形でできている。日本はこの流れから大変取り残されていて、美術史の教育などもなおざりにされているので、この投機市場に現役でとりくんでいる様な人はほとんどいない。大衆商業芸術であった漫画アニメを、越境文化的な差別化の戦略で投機市場に持ち込んだ事が、アメリカのポップアートや、大衆的な工業製品を模造し独創性というオーラを失った流用作品との関連付けで評価された村上隆や奈良美智が、一応日本側で欧米における現代美術界の嚆矢になっているのはこういった訳だが、対して豊田氏がこれら欧米の動向との明白な位置づけを伴って芸術祭を行っているのではないのが目に見えているのであって、誰が観衆であり顧客かにもよるが、何を目的とした芸術振興なのかもいまいち分からないほどである。豊田氏の単なる自己満足でないというなら、天心を指導者として大観ら五浦派の美術家らが過ごしていた歴史がある市が、一体、世界の誰に向けていかなる芸術の需要喚起をしたいのか、またなにを供給しているのかについて、適切な美術振興の戦略を、税負担している市民へ予算案と共に提示するべきではないだろうか。
 尤も、このブログでは遥か以前から指摘してきた事ではあるが、全員協議会という市議会前に密室で非公開のまま行われている市議全員を伴う会議が、豊田氏という行政の長を座長にして行われている事から、この市の行政と議会は癒着しているとみなせるのであって、独裁とは三権分立論に立脚する或る定義によれば行政と議会が相互監視と批判検証を伴う牽制の能力を失い一致してしまっている状態を指す言葉なのであり、それは現時点の国会で自民党の安倍党首がまったく同じ状態になっているが、豊田氏も例外ではない。今の日本政府は国会議員から首相を選ぶという行政権の独立が図られていない劣った制度なので、早急に大統領制または首相公選制の導入が必要だが、市政については市長が直接選挙で選ばれている以上、市民自身がこの豊田氏の野放図を自ら選択しているともいえる。豊田氏自身が全員協議会をやめようとしない市政運営の誠実さに欠けている事をあわせみても、市政の腐敗の一つの原因がこの全員協議会という二権癒着あるいは二権混同の害悪にあるのが明らかであり、公開された市議会の場で、市議会議員が市長の行政権行使に関して、きちんと批判的検証を行う必要が絶対にある。その検証が正しい物か、単なる誹謗の類なのかを判断するのは市民の側の役割なのであり、この種の公開された外部検証が行われなければ、市長の行政行為がいかに不条理で、恣意的かつ反市民的なものであっても、そのこと自体を市長自身が反省的に懐疑する機会すら失われかねない。たとえば新市民病院の位置が市の中央部により近く初期計画の場だった現在の新消防署がある高台より、どうみても市長の自宅がある北側に近く移されたり、これに伴って市南でより人口比が高くなっている中郷地区をはじめとする多数派の人々の公益と利便性は大幅に低下したわけだが、この事は診療所の設置でなんとか補填される形式をとったにせよ、市長は高萩市側に病院があるといった市の責任とはいいがたい答弁に終始し、結局はきちんとした理由づけがみあたらないようであり、市長の身びいきだったのではないだろうか。この種の事例は、単に病院建設の場合を引いたが、ここで取り上げた目的がはっきり全市民に公示されているとはいえない芸術祭とかその為のアトリエに使う小学校改造を市北にあたる関南地区を中心にして行うとか、市民や公開済みの会議の場で公正な審査を経たとはいいがたい経緯で参加作家が選ばれている不透明な市税供与とか、あるいは国道沿いには津波の被害も想定される極めて老朽化した市営住宅がまだ残されているのに、子育て世帯向けの住宅をのみ優先する部分奉仕の施策とか、どちらかといえば不公平で全体の利益とはいえない市の行政の例については、市長自身の善意とは別として現に、ただの市長の身びいきに多少あれ該当し、恐らくその様な行政を行っている理由は、彼の暴走を止める職員は当然いないし、市議会が全員協議会で市長から統率されてしまい、市政を監視したり批判的に意見を述べる人が議員の中で殆どゼロになっているせいが大きいのではないだろうか。つまり全員協議会をやめろという話だ。集団浅慮や全会一致の幻想が致命的な集団心理、集団思考の過ちをもってくる。科学一般が反証可能な命題についてしか真理らしさを保ちえないことからも、多数政で反論者がただ1人もいない案件が間違った結論な可能性は100%だといっていいだろう。もし、この案件が本当に善であると論証できるなら、少なくとも1つ以上の観点からそうでない証拠があげられるはずだからだし、もしこの種の反対証明となる証拠が見つからないとするなら、その案はそもそも正しさがまったく検証されていないのと同じなのである。善か悪かの判定についても真偽判断と同様の規則が使えるとすれば、多数の者が参加する議会の有効性は、単に条例という法の整備についてだけでなく市政に関する一切の事についてのこの反証可能性にあるのであって、神ならぬこの世で人の行う絶対善が存在しない事は明らかだから、少なくとも幾つかの選択肢の中から最もましな相対善を選び取ることしかできず、それが相対善と証明される為には、必ず他の選択肢と比べた何らかの悪い面をもっているという反証による比較検証が必要となる。嘗て王が道化を隣席させ猥雑な諧謔の中で王の過ちを周りには冗談に聞こえる形で指摘させたり、今日の企業で外部監査という専門の批判者が用意されているのは、この反証の為なのだ。日本で共産党が政権をとる可能性は極めて低くなっているが、何でも反対するという一つの重要な資質において、この政党は非常に重要な位置を占めているといえる。少数意見の尊重という一般に言われる多数政の長所は、この反証可能性を最小の支持者しかいない人からまっとうさせるという点に求まる。実際、賢愚や善悪は相対的だから、偏差値の様にその意見の正解度を分布させうるとすれば、或る案件の問題解決案の提示で最も良い成績の人物は、ある集団の中でたった1人しかいないはずだ。殆どの人、ほとんどの市民は、この最優秀者の成績を100点とし、最劣等の成績を0点とした時、それらの中間点のどこかに該当する意見しか持ちえないはずだ。アリストテレスが公徳の面で最優秀者の単独政(いわゆる王政)を最善といいい、多数政を消極的な意味で誤り辛いとしか述べなかったのは、何らかの形で君臨する王か、多数派が選出した長によって行政が行われるどちらの場合でも、王自身が極めて賢明であって他の全市民より自己批判に優れている様な場合があるとしても、特にこの行政権の行使に関する反証可能性を満たす様な場合に過ぎないといえるだろう。市長を少数者である貴族的集団から選ぶときについても同様である。
 具体的に市議の場についていえば、市長の政策立案についてそれが相対的に正しい可能性があると証明する為には最低でも1人以上の反対者が必要になり、この検証の見地が市長自身が気づかない盲点をついたものであればあるほど優れて望ましい指摘にあたる。よってある議題について全員一致で賛成の案件については破棄するか、要検証として保留する様な条例を、単なる市議の慣行としてのみならず既存で作っておくべきだ。逆にこの条例のもとで或る案件に市長以外の全議員が反対の場合、市長の意図を集団浅慮で全議員が読み違えている事しか証左されない為、議会と行政の分離の旨から、この案を推進する事に問題はない可能性がある。なぜなら市長が最善者だった場合、必ずそれより劣る公徳しか持たない全議員が全員反対に回る事になるだろうからだ。市長が独裁化し明らかに最悪の政治を行っている時にも全議員が反対に回る事が考えられるので、全員賛成、全員反対のいずれの場合でも、全会一致はその案の盲点が反証されていない事になる。よって、たとえそれが最善案にも関わらず全員反対だった場合でも、少なくとも本当に最悪案かどうかわからない為、保留するか、さもなければ再考が必要と考えるべきである。市民は市政から給与をもらっておらず、専用の議員を選出してもいるので、全立案について無償で市民に監視する役割を担わせるのは困難である。つまり議員か、それに類した外部監査役の中からこの市政監視の役割を担う人が必要である。

 結局のところ、産業に関して、北茨城市長や茨城県知事は、全体調整的で、公害がない限り民業放任の原則に立つ経済政策をはかると同時に、保障に関しては、最貧者を最優先とし、比較貧者の側へ傾斜的・累進的な基礎所得保障を進め、BIと負の所得税を茨城、北茨城行政が導入し、県・市域の幸福度を最大化する事が必須となるだろう。

  水戸市の高さ制限に話を移すと、これは市街地の人口密度を低下させる要因となっており、集積の利益に有害だが、他方で大都市化をある程度防ぎ、結果として失業者を生み出す潜在要因も、求職者を南関へ吐き出す事によって未然防止する結果になっているかもしれない。したがって、この正反両面をもちあげて、集積の利益を発揮させながら失業に伴う所得低下という潜在要因を防止する必要があるが、前提として電車で都内へすぐ通じる距離に留まる鼓舞がなければならない。それは事業を行うにあたって水戸市の方が少なくとも都内より、できれば世界で最も有利な何らかの誘因でなければならず、この産業誘因が現存する場合において、市街地の超高層化が合理的なら条例の撤廃か、ランドマークの改変どちらかが有益になるだろう。また産業誘因が現存していても、市街地の超高層化が不利になる場合、例えば同じ業務あたりより広い敷地が必要なので市の地価が高騰する場合は、高さ制限を維持するべきになる。いずれにしても、比較優位となる産業集積の条件が市街地に必要であり、基礎所得の保障による人口減少率の低下もこの事に役立つかもしれない。無限の大都市化そのものへの志向は、上述の仮観論で述べた通り、際限ない情報氾濫がもたらす嫉妬を呼ぶ競争対象に起因した不幸感という面で決して、合目的ではない。幸福からみれば、都市住民全員の所得増加が無限の未来に向かって見込まれる様な状態が合目的である。
 イギリスが高福祉化の果てに、被生活保護者の人口増加によって生産性の低下を伴い、サッチャー時代に中福祉的な新自由主義政策へ転換した。日本政府は小泉・竹中のペア以後、広がる格差を縮減すべく民主党時代に高福祉化を部分的に図ろうとしたが、東日本大震災後の混乱や菅直人政権の暴走、自民党による妨害が反動をもたらし、結局いまみられる低福祉化を進める新自由主義路線を続けている。この路線は安倍長期政権下で偶然起きた団塊の世代の大量離職と少子化の二重の幸運によって失業率の低下をもたらしはしたが、就職先ほしさの若年層が、倫理自粛のないインターネット文化として匿名の悪意が集積した2chまとめサイト等の極右メディアから差別主義に洗脳されていた事とあいまって、長州閥原理主義に基づく明治右翼を自称し退行的ともいえる民間介入を伴う国家社会主義や、アメリカ経済のやり方に追従する富裕層優遇の金融緩和政策(つまり金融商品の利益にかかる減税と、日銀や年金機構による日本株買いでの株価釣り上げで、国内外の投資家、特に外国人投資家へ日本企業の売却をはかるバブル誘発政策)をとるアベノミクスの成功と勘違いする状態になっている。端的にいって安倍独裁政権は小泉・竹中路線以後の自民党政権がGDPの低下、国力低下をもたらした国家的失墜と帰一であり、報道統制や北朝鮮の砲撃に恐れおののく近隣国への差別意識から洗脳されていた衆愚がこの独裁者の失脚以後に日本経済の敗北をしったところで、時は既に遅いとなっているであろうし、現になっている。イギリスの経済政策についてもいえる事として、金融緩和という名目で投機や投資を煽る路線は必然に格差拡大をもたらし、少なくとも低所得側に不公平感や嫉妬の苦痛を与える為に幸福度を低減させるという事であり、金融緩和策をとる前には十分な社会保障、特に将来も所得低下が起きないという意味での基礎保障の充実が必要だったという史実である。アメリカはオバマ時代にフード・スタンプという形で、少なくとも配給による低所得者向け基礎保障を行ったが、日本の側は皇族閥に属する安倍、麻生両氏が総理・副総理になったという世襲財閥の寡頭政治が進んでいる事、また被災者がこれら薩長藩閥の末裔と対抗した福島を主とする東北側の人々であったことからも、小泉・竹中が進めた非正規雇用法の延長下で低所得者を冷遇する事の方が優先された。安倍独裁下で日本の相対貧困率や子供の貧困率が上がったと同時に、安倍の生まれ育った都内の富裕層の数が増えたのはこの為であり、総じて、安倍党首のもとで自民党の一党独裁あるいは自公寡頭政治は、新自由主義の牙城であるアメリカより一層、国民全般を不幸にする様な施策をとった。その上、軍艦島や松下村塾を含む、侵略主義の証拠を、政治学的に疑義が呈される中で世界遺産登録するといった、安倍の地元である山口県への不当かつ周旋的な利益誘導もこの中に含まれているし、既に決まっていた栃木福島地域への国会等移転を無視して大都市であると同時に安倍の地元への道のりの途中にある京都市を他の過疎自治体より優遇して省庁移転を決定させる等、森友や加計学園だけでない数多の権力濫用を含みつつである。この醜い現実から目を背け、差別主義や独裁者への狂信を補完する確証バイアスを得ようとした愚民は、都内マスコミが視聴率めあてに模倣する、極右的な自画自賛の愛国番組を、まこと恥ずべき事だが熱心にみて、現実逃避していた。日本国民の過半数が愚民であるという事は、過去の歴史や他国の有様と比べて何ら遜色ない(これは全体主義軍事独裁政権が天皇帝国の元で行っていた数々の蛮行を省みれば余りに傲慢な意見であろう)が、先進国と呼ばれる国々の中にあって、その政治民度の低さは最下位級であるという事がまぎれもない真実である。我々が政治的に愚昧な制度をもっている、という事実について我々は冷静に認め、抜本的改善につとめるしかない。神道という自民族中心主義の教祖が象徴と名乗り、議員全員を全会一致の幻想で無理やり洗脳しつつ退位法を違憲立法させ得るほど三権の中核について実質独裁し、しばしば宮中祭祀といって徹夜で怪しげな儀式を行っている恐ろしく時代錯誤で旧態依然な現状からいって、政教分離すらはかれていない悪質で後進的な体制であり、中華思想的な態度に終始する官僚主義とか、平気で企業献金を受け取って恥じない一党独裁の体制等、他の全ての面についてむべなるかなと現実の国政が証明している。
 県内で最大都市といえる水戸市が、或いはそれ以外のいずれかの県内都市が産業面で高い占有率をもち、競争優位に立つには、上述の事情からいって、起業リスクを世界一とりやすい基礎所得保障が最も有効だといえる。ある会社、またはある事業、ある投資が成功するのは確率にも依存し、失敗する危険を侵す必要があるが、それら挑戦を行うには、失敗しても再起できる最低限度の損益率の管理が必要である。ところが日本政府の経済政策は、低い資本金でも挑戦できる高レバレッジの為替取引や仮想通貨取引を規制してみたり、低所得に留まる非正規雇用法の維持とか、学歴フィルターをかけた新卒一括採用の慣行と中途採用の少なさといったひたすら国民の再挑戦を阻むあらゆる陋習にみられる通り、むしろ危険とか例外的才能を最小化する方へ傾倒する。これは日本政府だけでなく、セロトニン・トランスポーター数が少ないため不安を感じやすい脳の遺伝子をもっている、日本に在来してきた人々の生得的な性格傾向にも原因がある。悪い意味でお役所仕事といわれるよう公務員がその最たる存在だが、日本人の頭が固く、融通の利かない場面がとても多くみられるのは、機械のよう型にはまった事をくりかえすのが最も不安を感じ辛いからなのだろう。事業の成功にはその裏に凄まじい数の失敗という試行錯誤がどうしても出てくるものであり、素早く問題解決学習をはかる事ができこの種の失敗を他人に比べてし辛い人がいたとしても、なおそうである。要はこの様な安全志向の脳をもっている在来の遺伝を考慮し、それでも膨大な失敗にめげず挑戦に次ぐ挑戦を行うよう鼓舞する条件づけが、県内の人々のうち一部の人が大成功する為の最低限度の方法論である。行政が為すべきなのは、起業や投資、事業を興して失敗しても、その他、研究や探検、探求のいかなる事例の失敗を含む試行錯誤についても、最低でも挑戦する姿勢を何もしない臆病より奨励する前提に立って、致命的にならない範囲での失敗を損益率の計算から許容しつつも、県民の全数が何らかの事業で失敗した後に少なくとも再起できるだけの基礎所得保障を徹底する事だ。ごく簡単にいうと、何もしないよりやってみる方がましであるとし、リスクを許容する考えでいなければならない。大抵は失敗するかもしれないが、工夫を重ねて目的を達するよう続けていれば、少なくとも県内の誰かが何かについて、圧倒的に傑出した成果を上げる結果になる筈だ。またもともと不安を感じやすい脳であるからには、この種の危険を取る事を極度に嫌がる人もいるのだから、進んでリスクをとる挑戦者という気質を全体主義的に押しつけるようなことは避け、飽くまで当人の意思と好みに基づいて自由の範囲で、この種の行動原理や環境づくりを促進し且つ推奨しなければならないのだ。大井川氏も、あるいは豊田氏も、水戸市の高橋靖市長を含む県内の全郡市町村長も、特に大井川氏が見逃している事は、或る危険度の高い事に挑戦するには、少なくともリスク・リワード比の点で自分が死ぬことはないとか、失敗してもやり直せるという確信が持てない限り、人は命がけの無謀さをなかなか持てないものなのである。無謀は危険の過小視、臆病は危険の過大視に由来し、両者の中庸である勇気は危険度を適切に見分けるところにある徳である。再起可能な最低限度の基礎所得さえ確約され、危殆に及んでは実際に手に入れられていれば、県民市民は死なない範囲で好きに行動するはずであり、殆ど成功する見込みがない様な事とか、間違えれば損害を被るような事についても、自分からやってみる人がいるのである。つまり、起業を奨励するとか、産業上の成功を求める為には、実際には事業をする側へ手を加えるとか助成するのではなくて、その地と図を反転し、失敗した場合の安全度、つまり基礎所得保障が完全であればあるほど挑戦しまくり易く、結果として成功者を続出し易くもなるのである。上述の人々のうち、和歌山県や鹿児島県の事例は具体的な農業の革新そのものを主体となっている県庁に依存したり頼る癖を呼び込んでしまい、京都市や佐賀県、あるいは北茨城市や茨城県の事例は文化という名で芸術の挑戦そのものを行政が身びいきな大甘の判断によって保護する結果になり、却って前衛性を損なうであろう。これらは市場の合理性とか、現代美術が欧米オークションでの投機市場を中心に回る様になっている現状(つまり現代美術の審美眼について素人級の一行政人が現代美術の流れを変える様な業績を、他にも用途がある税金を顕示的に消費する範囲で主導できるとは思えない事)にかんがみ、官製の民業圧迫が基本的に全て害悪であるという見地に基づいて、寧ろ県政市政はすべて、これらの不安がりの人々の主観からみて損益率が必ずしも芳しくない様に見える挑戦をも進んで行えるような基礎所得保障の側に一切の舵を切るべきであると知らせているといえるだろう。勿論、損失に対して利益の割合が高い、つまり損益率が高い生業を選ばねばならないのだが、保守主義の傾向をもつ人がそうであるよう、過度に臆病な人々はこのうち損失を課題に見込む傾向があるのだ。俗な言い方をすれば、「下らない事あれこれやるならとりあえずそのカネくれよ(そうすれば好きにやるわ、なにしろ税金が定収入としてもらえている公務員には終ぞわからないのだろうけど、庶民は明日食うものにすら困っているんだから)」、という事であって、寧ろその方が県民市民を幸福にするし、芸術を含む文化や産業の振興にも結果的になるという論証がこの論文の趣旨であった。