2010年12月13日

買収者からの自然環境保護のこと

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101212-00000002-sh_mon-bus_all

引用
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なぜ人気? 中国人、日本の森林を相次いで買収

外国人が日本の森林の買収を進めている。この数年、日本の森林の価格は下落を続けており、今が底値と判断した海外投資家が購入するケースが多い。また、水源として利用しようと考える海外企業もあるようだ。

日本の森林を買収する外国人の中でも、特に中国人の動きが目立っている。

河川の汚染が進む中国では、汚染が水不足に拍車をかけているといっていい。中国人が日本の森林の買収に動く背景には、こうした事情がある。

 日本は資源のない国だといわれているが、実は森林と水に恵まれた有数の資源国である。そのことに気付いた外国人は、今後も日本の森林の買収を続けるとみられている。

 これに対し林野庁は都道府県にヒアリングを開始し、情報収集に努めているという。しかし、それだけでは買収を止めることはできない。諸外国のように、外国人や外国法人の土地所有について地域を限定したり、事前許可制をとるなどの制限を設ける必要性がありそうだ。

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こういうわけで、これが事実なら結構やばい。今までの市民性をみていると、或いは明治期以来の国民性といってもいいが、非常に「金目の誘惑に弱い」人らなので、目先の損得に踊らされて簡単に先祖伝来の土地をてばなしたり、最低でも貸し出したりしそうだ。つまりは、いま目にしている「ああ多賀の山並みよ(市民歌参照)」もあっというまに買収されて、まったく景観も無視の巨大な取水場になってすぐ放置されぼっこぼこに破壊されかねない。

国有林の法律みたいのは情報が伝わればつくられるとおもうが、県有林や市有林みたいな『公共自然』については、行政の長が交代しても簡単に売却できない条例で縛るといいと思う。私有地については口出ししがたいが、倫理感に期待すると同時に、啓蒙というか、山川海、原っぱの綺麗さを盛んに小中学校の義務教育段階から叩き込むべきではないだろうか。
これは教育委員会が自然賛美の方法を講じるところからはじまる。俳句もいい方法だと思う。俳句は季語が重要だから、かならず周囲の自然に敏感になる。俳句の制作を、国語の授業のあいまに取り入れるとか、こういうことでもかなりちがってくるというか、この北茨圏のすさまじく繊細な自然を尊ぶ心情が織り込まれてくると思う。大体、雨情にせよそういう自然風土にはぐくまれた人であり、実際にそれほど自然環境がすばらしいのが間違いない。

2010年12月6日

北茨の人生論

シュムペーターや高橋和夫氏の説に、戦争階級原因論があり、わかりやすくいえば戦争をなりわいにした階級ができあがってしまうと自動的に戦いつづけてしまうという話。

 これをおしひろげて社会活動の全般が「習性」からできあがっていくとすると、それ専用の階級ができあがると、自動的にその業をくりかえす、と定義できるはず。
いわば『社会的成果階級原因論』がとなえられる。わかりやすくいえば習い性となる、ってことなのだが。

だから、この市におなじ社会法則をもしあてはめると、結局この市がもっとも重視すべきは科学研究の習性ではないだろうか。科学の祭典もあったが、やはりあの方向性が最もすぐれている。

雨情の説に、科学知識のこまかなあれこれは純粋な童心とは相容れないってな話がある。全集の書簡集・講演集の巻にのってる説話だけど。が、自分の意見をいえば、それは相容れないのではなく「調和させれる別の能力」なのだ。科学知識の詩をよめ、という者はいない。
詩は表現のおもしろさを問うのであり、科学知識そのものは自然認識のくわしさを問う。この二つは別々の発生をもつのであり、両立させることもできるし分けることもできる。

かもめ泣く空ににじむは秋の夕焼け
かもめ鳴く空ににじむは秋の夕焼け

この二つの句をくらべて、かもめは泣きませんよ、ってのが科学知識の立場であり、泣くから眼がにじむんですねってのが詩の立場。この二つは別の立場だが、かといって必ずしも専門科学者が「泣く」の句に感動しないのではない。そういうわけ。

 もし専用の階級をつくる利点がもっとも高いなりわいをいえば、こういう道理で科学の研究家だろう。哲学あたりはむしろ水戸辺にたくわえられやすいのでわざわざ北茨がする必要性は薄い。また、息抜き程度ならわかるが、スポーツ設備を強度につくりすぎるのもまずい。
運動競技ってのはそれ自体が目的化すると勝手に阿呆というか、あんまりあたまがよくない体だけ過剰に健康なタイプをひきつけて市の教養の平均値をその運動バカのせいで引き下げる傾向がたしかにある。これは私立の学校でスポーツクラスと特別進学クラスの生徒が全然中身ちがうみたいなもんだ。

詩心は大切にした方がいい。しかし、自分の北茨人としての経験上、実はその心のこまやかさ、繊細な心情という特徴をもっとも強化しやすい習慣が「科学知識の研究」なのだ。これによって今までよりさらにこまやかな詩心ができあがる。

月の出るそらに輝く星屑よ

この程度の俳句が、科学知識の装飾によって

満月の裏に広がる宇宙のネオン

このくらい詠めるほど細かくなる。(どちらの句がすぐれているかは不明だが、童謡に感じ入るほどの心のこまやかさという長所をばあいによって強調しやすいのはたしか。単なる無知無学のままでは、どんなうまれついての天才も天然ボケとみわけがつかない危うさがある。)
だから北茨の市がもっとも大切にすべきは、長所をさらにのばす科学知識の研究の習慣をさまざな条件づけで与えて行くことだろう。茨城圏全域にいえる欠点とも言える「教養なさ」もそれでかなり補完されるはず。

2010年12月3日

県州制度の構想

いばらき域での経済的優勢を失わないのに、有効なのは州の制度を県と市のあいだに挟むことではないか? これは「県州制度」と仮になづける。

 で、具体的には先ずは水戸州として県央地域を一括する。東海村あたりから石岡以北迄で。他に、県北は日立州としてまとめ、県南はむかしの藩名から新治州とする。もしかしてこの州だけ経済力がつよくなりすぎるなら、鹿島州と新治州に分けてもいい。それは県内総生産か総所得の値、およびそれらの将来予測から割り出せばいい。
 で、おおまかにこの水戸州・日立州・新治州って分け方で、各行政の財政権益を一括りにしてしまう。なぜこれが有益かというと、たとえば図書館にかけられる金額をみればわかる。
いわきがどうして財政に恵まれているかいえば、その大きさからだ。比べていばらきの全域は、細分化されすぎていて大きな施設などはどうしても分散投資になり個々への分配量が弱まってそれぞれの施設が貧弱になってしまう。

こういうわけだから、今でいう市町村の単位は飽くまでも州の中から代表をえらびだす自治範囲という扱いにし、普通の財政はすべて州単位での決定にまかせてしまえばいい。と同時に、これらの州単位での交通路(LRTなりリニアモーターカーなり路面電車なりセグウェイやレンタルサイクルの優遇なり交通バスのフリーパスなり車線拡幅なりバイパスなり)を建設県債などで充実させること、でそれぞれの行き来を頻繁にさせる。

具体的に日立州の話にすると、大津からだいたい大甕辺までが一つの単位になり、その中で基本的な行政機能の立地をみな日立の中心市街辺に集めることで、とりまく個々の市町村はそれぞれのちいさな単位で必死に経済効果を追求する必要性が弱まるので行政の考える負担が軽くなり、もともと別の才能を伸ばすべき文化なり学術なり信教なり教育なり農林なり漁業なりに集中投資できる土壌にかわるだろう。要は市町村ごとの分業が今より進む。
学校というか大学専門学校等の高等教育機関も、茨工を中心として日立に集めることで若者が日常的に入ってき、今までより中心市街が活性化されるだろう。図書館もまずは日立へ通う生徒学生社会人が殖え、結果としてバイト雇用やら、ついでの買い物での消費やらも促進される。
常陸太田市あたりは以前の経緯からむしろ日立よりは水戸州にくりいれた方が心情的に親しいかもだから、その辺の判断はまかせる。日立州のたちばはどっちかといえば工学的な進歩主義なので、超保守派のおわす太田あたりは必ずしも意見があわない可能性もあるし。

水戸州は心配ないが、新治州では土浦と筑波のすみわけがいるかもしれない。で、経済は土浦、研究は筑波、工業は鹿島だって感じになり、結局は土浦に基本的な機能は集まるかもだが、場合によっては一部の図書館等の公共施設は筑波側に委託しても問題はないだろう。鹿島が孤立しない様、臨海鉄道あとの交通路みたいのは工夫すべきかもだが。

 とかく、こういう風に、さっきあげた水戸州・日立州・新治州の単位ごとで『産業別の集積』を利用して各市町村の中心圏へ、いわゆる経済的中枢をまかせきってしまう。これで県内の広域にわたって、今までよりも財政の改良がもちいられる筈。使える単位が大きくなるからだ。