2016年5月31日

茨城県北ベーシックインカム策

 県北少子化の原因はただ一つ、若年層が殖えるための餌、つまり金が足りないからだ。よって、茨城県北ベーシックインカム(Ibaraki kenPoku Basic Income: IPBI)制度を作り、県北部の対象市(北茨城、高萩、日立、大子、常陸太田、常陸大宮、ひたちなか、那珂、東海村)に持ち家または住民票のある、土地家屋税・固定資産税を支払っている全ての人々に一律、月額10万円を支給するようにするべきだ。年齢間格差を避け年齢制限は設けず、高齢者にも同様に与えることが必要だ。
 県北部で芸術祭など何の意味もない。ただでさえ金余りの東京都に再び貴重な県内総資産をぶんとられる以外なんの意味も意義もない。東京には暴利の悪意しかないと考えて100%まちがいない。その金を県北部の若年層に餌として与えるほどわが県に益するのだ。

2016年5月18日

水戸の大津選手獲得準備

 ホーリーホックは大津祐樹選手が出場機会に恵まれなくなった頃を見越し、早期に獲得する手はずを整えておくべきだ。そして体力の続く限り最も目立つ場所で全戦出場してもらい、水戸のスタープレイヤーとして観客増大をはかるべきだ。
 またJ1規格の新スタジアム用の募金をはかり、茨城県の公共建築同様に、妹島和世氏に専属設計してもらうべきだ。
 いばキラTV(茨城テレビ)では水戸ホーリーホック自体と専属契約し、全試合をネットで無料配信するべきである。勿論、スマホ等のモバイル環境でもみれるように。


2016年5月17日

茨城知的戦略本部

 茨城県庁に必要なのは宣伝部ではまったくなく、他県と他国を茨城と徹底して比較分析する知的戦略部だ。宣伝あるいは扇動という手法は、適切な県政戦略の元の部分集合にすぎない。
 我々民間の知識人も勿論、外部的シンクタンクとしてこの目的に奉仕する。


茨城農業最適化論

 茨城農業は、海外向けの販路を県政が農協と組んで主導し、特に高級食料需要が最大化している東アジア圏を中心に海外向け日本産高級食材として売り出していく事が肝要だ。且つ、県内消費を最大化するべく、県外向けの風評被害を逆張りして利用するがいい。即ち悪意の東京・関西マスコミにだまされ茨城産は危険だと言ってくる県外愚民へ「食べたくなければたべるな」と、茨城産農漁業作物の県外消費を減少させるべく逆宣伝していればいいのだ。これでエンゲル係数をますます下げ県民の富を増大できよう。
 結局、無知とねたみ(西日本組の「東京マスコミ幻想の正当化」や田舎上がり組の「東京症候群合理化」)から茨城を誹謗していた県外日本国民はじり貧で、海外輸入の遺伝子操作された危険な安物食料で命を握られ暮らすだけだろうし、それは彼ら自身が暗愚な東京マスコミに洗脳され、対米追従の長州閥自民支持、TPP参加という自らの愚行で選び取ったことなのだ。

2016年5月16日

ステルス方略論

 茨城に必要なのは、決して、いや絶対に、わが県について西日本へ説明したり、宣伝広報活動する事ではない。まったくその逆だ。邪悪な西日本人達へわが県についてわざと誤解させたり、少なくとも他県へひたすらステルス活動に努めたりする事が必要不可欠である。
 敵を知り我を知れば百戦危うからず。これは孫子の金言だ。
 県政が、県内の公立や私立の学生、或いは県民へ県に関する歴史や地理の風土学的知見を啓蒙する事は、非常に有益だ。特に生徒にそうする事は、遠からず郷土心をはぐくむ。寧ろ天然でこの地元愛を持つ層より、一旦県外に出てから改めて、地元のよさを見直した者が更に有益な役割を果たすだろう。しかも、この多様の一体感が強烈であるほど、茨城県域の発展につながるのだ。魅力度調査で東京乃至日本衆愚が煽られ、西日本組の「東京マスコミ幻想の正当化」や田舎上がり組の「東京症候群合理化」の反作用で不当にわが県を冤罪にかけ侮辱すればするほど、しかも茨城の美質について事前に啓蒙されていればいるほど、費用をかけずわが県民にとっての潜在的一体感への期待効果が高まる。簡単にいえば、魅力度調査への反発効果を愛県心の安価な啓発装置として、侮辱への超越的無視という手法でそのまま利用してしまえばいい。
 結局今後のわが県にとって重要なのは、他県なり他国なりの徹底分析の方だ。既にわが県にステルス的な好条件がある以上、容赦なく敵を知れば自然的に茨城の大勝利をもたらす。魅力度最低、と衆愚県外人にいわれている間はまんまとステルスに成功しているわが県の勝利が続いていく、と県民はほくそ笑むべきなのだ。


2016年5月14日

東京批判

 西日本人たちは、首都圏のメディアからの距離が遠すぎる為、東京都の流している嘘をそれと見抜けない。そして西日本人の意識はこの東京都内のキー局、記者クラブ、政府と天皇家の思うがままに操作されている。全国学力テストで東高西低の傾向が現れる通り、東京資本に西日本人は欺かれ、その搾取・支配的な偏見を鵜呑みにする。
 茨城県民がもっている類の東京批判的な意識、即ち東京の持つ本質的な欠陥、欠点、汚点、犯罪率、衆愚性、スラム性等の経験則からくる批評観は、未来永劫、西日本人の多数派が得る事のできないものなのだ。東京圏に通勤している人々は、神奈川、埼玉、千葉にみられるようその退廃的衆愚制度に一体化してしまう。逆にこの蟻地獄へ一定より遠すぎ、都心を出入りするのに一苦労するほど遠い地域の人々も、偏見メディアを経てしか情報をいれなくなる為、批判意識を持ちづらい。
 結局、茨城は東京批判的な真の都市を構想してきたし、今後もしていく。他の関東地方において、栃木や群馬が似た条件にあるとはいえ、水戸という副将軍的意識の残存する地域をもつわが県が東京への批評的な意識では世界で最も強いといえるだろう。この東京の欠点をのりこえている、のりこえようと常に考える条件にあるという面において、茨城の際立った特徴があるのだ。そしてこの個性は、我々の今の意識と比べれば、千年以上遅れている西日本人側には、理解しがたいものなのである。西日本人の脳内では、東京は憧れの首都であり、そのすべては理想であり、ねたみでない意味での批判や否定など想像もつかないものなのだ。なぜなら、彼らの見ているものは現実の都市ではなく、彼らの脳内にある、各種の都内商業メディアによって作られた妄念だからだ。この為、東京の欠点、しかもあらかたの地方都市が似かよいがちな点を、意図的に最大限なくそうと努力している茨城を、先進的なものと認めるどころか、想像外の意図不明な存在、即ち彼らの憧れである妄想の脳内東京なるものから遠く、魅力がないもの、という烙印、スティグマにあてはめることしかできないのである。そしてこの反応は、西日本人にとっては彼らの理想としている、彼らの貧困や惨めさからの解放であるはず妄想の東京を否定して不安に陥らせるものであるから、防衛機制的で、酸っぱいぶどうの論理、即ち都内の商業マスコミに偏見づけられた西日本スティグマの合理化でしかないのだ。海外から客観視してみれば、或いは都市計画学からみて、東京が誇大化したスプロール都市モデルとして失敗なのは一目瞭然にもかかわらず、である。
 また逆に、首都圏民においては、特に地方人の掃きだめ、余剰人口の捨て場としての下層階級スラム地区ともいえる東京圏へ自主的に集まっている人々にとって、妄想の理想生活を現実の汚い不条理大都市に裏切られた腹いせに、彼らが捨て去ってきた田舎、地方らしさをもつ対象を犠牲、いけにえ、スケープゴートにする需要がある。この悪辣な目的にとって、田園性を維持する、という西洋的な幸福ないし生活福祉主義的価値観は邪魔でしかない。東京人は勿論、殆どが貧困で最悪の生活環境において常に絶望し、或いは不幸を甘受しているが、そこから抜け出す事など到底できない。金がないのである。彼らのしたがる特殊な仕事は、その中には犯罪的なものも、あまりにガラパゴスなものも含まれるが、第一次や第二次産業内にはないのである。こうして、そもそも彼ら地方からはきだされた人々が文明とはみなしていないがゆえに優越感を安心してもてる「自然」を除き、或いは東京の心理中心である天皇という暴力団長が住んでいたという名義をもつ「京都」を除き、都市的ではないばかりか自然そのものでもない、という田園都市性をもつ中間地帯とみなした地域を、あらゆる確証偏見で嫌がらせ、いわば地方蔑視ハラスメントという皇室系中華思想お得意の門地差別犯罪で公的・メディア偏見的犠牲にしたてようとする。しかもここで重要なのは、その田園都市の最終目標物が地域全体のGDP比の最も高い東京である、という誤った前提に基づいて、「遅れた田舎」「やがて東京においつこうとしている、劣った地域」とその偽東京人、田舎あがりの人々はみなそうとする。勿論背後には、奈良出身の教祖天皇一門を尊師とした神道による洗脳がある。いうまでもないが、GDPが1位である事など、大抵の人々にはなんの目的でもない。政治に関心のない人間もいる。さらに、商業文化に対して嫌悪感しかない者がわが県民の殆どではないか。結局、皇室や旧公家、薩長等の旧大名や西東京人をはじめ、田舎上がり組はこの誤った前提すなわち経済・政治・学術の一極集中独裁という奈良時代以来の天皇中華思想へ周縁として一定の距離を置き(ここでは旧水戸学の尊王論をメタ認知している事をつけくわえておく。その宗教ないし倫理体系は旧水戸藩士系にとっては自明でも、他国ふくむ全人類的にはそうではない)、反東京、東京批判的という、どうやら地方から騙されて上京した彼らをばかしている茨城、栃木、群馬等の首都圏内における賢者集団を標的にしようとしていくのだ。
 なるほど、この試みはむなしい。上述の2つの類型、即ち西日本人であるか、または地方あがりの東京人であるか。この2つにあてはまり、しかも妄想の場所とあまりに現実の過酷なみにくさが違い過ぎた為に鬱状態になる東京症候群に陥り、東京圏に暮らしながら適応障害を起こした人々が、魅力度調査という名目で「東京批判的な茨城」を必死に陥れようとしていたのである。これは、二重の無知、二重の犯罪、二重の蛮行である。第一に、西日本人が東京マスコミに欺かれたのは自業自得である。東京都民は善人どころか単なる狡猾で悪質な商売人なので、宣伝活動は全て強欲、貪婪に基づいた傲慢な営利にすぎない。第二に、現実の東京を知った後で、先に現実を知りながら賢明な態度で世を処している茨城から素直に学ぼうとするのではなく、かえって自らの愚かさを正当化するためわが県や関東北部を無理に犠牲に仕立てようとするのは、まさに愚行である。この南蛮性は彼ら東京不適応症候群集団自身の救済どころか、自滅や自死を決定づけるばかりではない。真実を知らせない故郷の人々を欺き続ける結果、ますます世界人類を誤解させ、彼らの遠い田舎人達も東京模倣や東京スラムへの上京という愚劣極まるふるまいを継続してしまうのだから。
 我々はいうことができる。だからといって、西日本人や地方上がりの東京人達がその惨めなふるまいを反省などしないだろうと。恵まれた茨城を陥れ、退廃した東京を正当化し続ける結果、彼らの西日本も東京も最悪の結果になっても、破滅してさえ、この確証偏見を続けるだろうと。それほど、彼ら衆愚の悪と闇は深い。救済などしようがない。天皇家という縄文文明からみれば新参者である奈良のとある宗教権力者の、この島国への独裁一族としての野望は根深く、茨城県民にできる唯一の事は、衆愚を反面教育にする事、彼らのねたみや偏見や冤罪等のメディア、現実を通した愚行を完全無視し、或いは彼らの過ちの逆に進む、という当たり前の事でしかありえない。


2016年5月13日

我ら

我らは神と徳とを信じよう

悪徳の主はその子も亡ぶと
悪魔の強欲は自滅に至ると信じよう
利己主義者達は滅び去ると
真の有徳者のみが生き延びると
我らは徳の元にある事が最善であると
神の命じた世界は永遠であると
衆愚は悪例であると
目的は一つであると
正義は必ず最後に勝利すると
悪人は悲惨な末路になると
群れた犯罪集団の日本人は滅び去れると
我ら水戸の侍の誇りはまっとうされると
我ら常陸の威厳は回復されると信じよう



ひたち独立論

 茨城県は日本ではなく、海外でひたすら、高評価、名誉を追求していけばいい。日本村とやらは破滅にむかっており、二度と復活できない屑の集まりだからだ。その種の衆愚は勿論、できのいい人間をねたみ、お得意の和とやらをいいわけに足を引っ張る。なるほどこの衆愚日本は滅亡するであろう。無視だけでいい。無視していれば自滅する集団、救済すらできない悪魔の群れにかかわるべきではないのだ。
 我々は茨城もしくは新生ひたち単独で国連入りをめざし、日本という終わった社会から独立し世界一等国でありつづける事を志すべきだ。


2016年5月11日

茨城大消費地創生論

 茨城県内に人口密度を極大化した「大消費地」をつくり、その茨城商業特区のみにおいて超高層を可能として、既存生産物を県内のみで圧倒的に大量消費できる様にする事がわが県の次の目標といえる。専ら、3大都市圏日水筑をその集積地にするべきだ。


2016年5月2日

茨城の中庸

 極悪東京都民は、ひたすらわが県を冤罪にかけながら、ありとあらゆる犯罪をしにくるだけである。東京五輪の不法投棄が世界最悪の状態なのも、純粋に利己的な屑である奴らはなんとも感じていない。極悪東京人というものは、原発を勝手に強制的に近所におしつけてきて世界最悪の大公害をおこしながら、心底利己の悪魔なので、金さえもうけられれば、他県民を殺戮でもやる。そして反省なしに再稼動しろとほざく独裁屑っぷりである。それどころか犯罪率も犯罪人口も首都圏最悪の犯罪集団東京都民は衆愚政に媚びてひたすら他県を冤罪にかけることしか能がない。なぜなら東京都は過当競争の地獄的商業社会であり、そこでは悪意に基づいて行動するしかないからだ。東京都民の思考原理とは、基本的に悪意なのだ。
 そしてこの傾向を必死に模倣しているのが、東京以西なのだ、と結論できる。わが県の高貴な性質、田園都市的中庸の最善さは、これら東京以西のどいなか衆愚にも、或いは単なる都心のスラム民や贅に驕る悪徳守銭奴にも理解できない。したがってひたすら誤解や偏見をかさねてくる、という構図なのである。くりかえしてきたよう、これらの下衆は自滅していくので、「無視」のみが唯一の対策である。
 中道は最善性であり、最高徳である限り、衆愚には決して理解されないものなのだ。他方で、わが県の幸福のみを追求していれば、それで十分なのだ。他国や他人、他県をおもいどおりに操作できない限り、わが県ひとり至善に止まる事が正しい。それは資本主義的大都市の退廃(例えば東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡等といった都市モデル)や共産主義(京都や中国)といった両極におちず、民社的福祉主義モデルを県の単位でバランスよくたどっていけばよいのである。自然と都市のほどよい調和についても同様だ。わが県の国力は現時点でハンガリー、ニュージーランドといった一国に匹敵しており、悪徳に満ちた他県は他国と考えてもまずまちがいがないほどだ。