2010年10月25日

いばらきの道

県が周りから気に入られるのを無意識にめあてにしてる、っぽいのがいいことかわるいことかとわれるべきだ。無条件に好かれた方が、このこすいよのなかで賢いことなのか?

もし本気でいばらき域を好かれさせたいなら、いわきじゃないけど、できたら県名ごとしたしみやすいものへかえてしまうことだ。いかにも武権の威容をほこるっぽい名称をじぶんから掲げつつ、戦後日本人から無条件に好かれようとするほうがおかしい。

 まえもかいたが、「控えおろう効果」をじぶんから追い求めてくのがより賢いのではないか? たとえば、茨城らしさと対をなす一つの地域に京都がある。京都は一見するとまわりから好かれてるかもしれない。けど実質は、彼らがそこからどの都道府県も睥睨しているところもないのではない。東京なんか伝統からいえば当然みくだしてるといえよう。それは控えおろう効果ともまた別の類型だが、「おいでやす効果」となづけてもいい。
つまり一見すれば感じのいい場所で、まわりからもブランド効果の正の側面もおぼえられるが、内容をさぐればどの地域も心から馬鹿にしている。ってのがいいすぎなら、裏ではてのひらを返している。これも真偽はとわず一つの大げさな事例だけど、はたしていばらき域のめざすべき地域さだろうか?

 やはり徳川の総元締めをひきうけた運命から言っても、この地域は控えおろう効果の方を原則としておいもとめていくべきだと思う。それは内心はどうであれ、表面上は権威の高みを誇示する所にある。へたに好かれようとしない方がいい。そうでなく、『地味な実力』をただ冷徹に追い求めて行ってればいい。それは昔から都心のある江戸東京の文脈と、御三家の核心が置かれた水戸茨城の文脈にたくされた使命の違いでもある。
筑波の科学力にせよ、日立の技術力にせよ、きたいばの芸術度にせよ、みずからの地政や県内のたちばが到れる現実面での最高度の実績を着々とあげていくことだ。県では広報が人気取りブログとかやってるっぽいが、むしろ逆だ。きらいたけりゃきらえ、って感じでおのれの道をひたすら追い求めていればいいだけである。当面の人気などきにしてはいけない。なんでもないうわさ一つでいつなんどきいくらでも変動するものなのだから。
お愛想はおいでやすの地域の方が得意分野なのだから、さいきんいばしんからきこえるあんなどうでもいいお座敷稼業など滅びるなら滅びよ、ってことで山陰と京阪にまかせきっときゃいいのだ。どうせそこらには腐るほどある。わざわざ武権のほまれたかき名門がそんなのに気を払うな。まじで。

 評判をきにするな。これが真理だと思う。実力をきにせよ。実力が劣っていなければ、そればかりかもし大幅に勝っているなら、なにもきにすることはない。必ず最後には評価が着いてくる。

2010年10月22日

北茨城文化人奨学金制度

 市内経済を巧くたちゆかせるに、『文化人奨学金』制度を設けるといい。これは市内在住で、市民の名誉と文化の発展へ寄与した人物かそれが十分期待できる人材をえりぬき、その年齢をとわずに一定額以上の奨学金を与える。

なぜこれが有効かいえば、ろくでもない使い方よりもろくでもある(他の模範になる)市民の共有していける文化財産への投資が、そういう層には期待できるからだ。いわゆるごみ捨て型の再分配とはそこが逆だ。

 普通、奨学金はまだ業績のない人物へ与える。けどそれはむしろ大学がある地域で有効だろう。この市にはまだ大学がない。奨学金を与える層は、青年期には大部分が外の市やら都市やらへ流れでていく。だから消費性向が回復するのは、彼らが地元へもどってきてからだ。

医学生へ限定した奨学金、はつねに市内から支出してもまったく損はないだろう。市内での医療従事を条件とするとしても。しかし、それだけでは消費性向をのぞましい景気感まで回復する効果は多分ない。千人単位ならわからないが数人ではそういう流れにはならない。
 だから毎年なり毎月なり十名とかそういう単位で北茨城文化人奨学金なる名目で、市税から一定額、たとえばひとりあたま数万から百万程度(可能なら消費期限つきじもと商品券のように市内での有効需要喚起を前提として)を市内の有用な人材へ再分配する。彼らがもし市内在住なら、ほかの地域でよりも市内での消費が基本になることから、或いは周辺地域であっても彼らの高い趣味に応じた消費材が売れていくことになるだろう。
そしてこういう大きな流れは「北茨城市の人は太っ腹で趣味がいい」といった評判になり、いずれはこの市内に品格のある、しかもみずから名誉を得るほど必要な財産と才能に恵まれた教養人材をひきつけてその持つ発展に貢献するだろう。

ここで文化人というのにはおもには芸術家かもしれないが、ほかにも学問上の業績(たとえば大津にある民俗学会で方言辞典を自費出版した人達など)、農林水産業上の発展や伝統の保存にあきらかに尽力した者、青少年でも賞や優勝にあたいする市の栄誉をます業績を挙げた者をさしている。

個人的におもうのは茨城県か水戸には、おなじく伝統ある「学問人奨学金」を、日立には「技術者奨学金」…筑波にはもっと限定して研究者奨学金を、鹿島なら競技人奨学金を、笠間なら宗教人奨学金…といった風に地域の特徴を強化する方向へ積極的に債権を行使するのが、現状のつまった経済状態のもとでは行政の徳だ。

2010年10月19日

再分配のほこさき

市内で下水道工事や路面舗装が進んでるみたいだが、思うに、もっと文化的な方面にも大胆に公共投資をはかってしまって全然いいと思う。ああいうのも一利あって不況時にはやらないよりはやった方がいいのだが、問題はその市債なり市税なりの再分配先が、土木作業員へ入って行くということだ。で、当然だがパチンコ屋だけが繁栄して終わる。

 自分のかんがえるのはできるだけ知識人・文化人といった層へ富の再分配が進む市財政の築き上げだ。要はむかしでいう雨情みたいのが貧窮するどころか、市内では多いに繁栄できる場所づくりが有用。

 で、それには文化方面への公共投資がいる。それは俳句あたりでも十分できる。俳句集をつくるのに市内から撰者を募りかれらの中へ再分配するなり、最近ははじまってるみたいだが講演するいば大なりいばキリなりの先生へもこの再分配をはかる。
あるいは身近で言って、市内の公共学校で市内の塾の講師をまねいて親子公開講演なり意見交換会なりをさせる。さらにいえば発明なり美術なりの展覧会でそういうすぐれた技をもつ人へ奨励金を与えるのでもいい。農林水産で最高の模範を一定額の助成で報奨するのでもいい。
 こうしていけば、市内では土木作業員の他の文化階層でも栄えていける土壌ができるだろう。かもめなり何なりと。で、飲み屋の店員からは深夜営業税の累進化が有効だ。

あとおもうのだが、パチンコへはもっと重い課税があってしかるべきだ。乱立と言ってもいい。駅前に一個あるとかならまだゆるせるが、いまの状態はひどい。特別な「パチンコ規制税」の導入が徳。

2010年10月17日

落書き募集

落書き文化、というものがある。バンクシーというグラフィティアーティストがその代表格なのだけど。

で、市内にもときどき、落書きがあって、それを上塗りで消してる。あれはあれでみっともない。
現状でいうと常磐線のマルト横の高架下、にある。ああいうのはむしろ、市で指定して、そこへ案をつのって代表者に描かせればどうか? つまり落書き募集。

 画題は自由でもいいし、主題だけ指定するのでもいい。選ばれた者へはそこへ描く許可を与える。こうすれば一々けすこともないし、いたちごっこはおさまるだろう。指定した部分を、すこしずつひろげていけばいずれは町そのものが綺麗に装飾されるだろう。

いまでも町の路面にはいい図柄がタイルうめこみとかで描かれているけど、壁もそういう風にすればいいわけで、それには若者のアイデアを活かすべきだ。

謎の整体看板

 最近、まちというか市内のあちこちに「整体」という看板がぽつぽつと見える。エステも同じ。

で、結論からいうとあれは届け出制にしたほうがいい。

 多分無許可営業できるからいくつも散発してきたんだとおもうが、あのまま放置しとくと将来は不潔な方面へ流れないとはいえない。保健所がいつでも立ち入り検査できる状態へ市内を治めておくには、必ず営業許可届けを義務づけること。

「整体」という名詞? 句、自体がいみわからん。かもめは飛んで死んで行く。人間は生きていると体が歪むのか? どこからでてきた発想というか、文化なのか? おもうに中国医学級に怪しい。科学的でなさすぎる感じがするし、近代化したまちの世界とはおもえない。

2010年10月12日

学校持論

自分の個人的な意見にきこえるかもだが、実は学生時代で最も大事なのは友情を育て上げることではないだろうか。

自分の知るかぎり、学校でしか真の友情というものは育まれない。
学校の原義はschoolで、この英語はスコレーなるギリシア語からきており、いま有る学問の祖だろうアリストテレスがいうことに、ひまのある階級でしか智恵を好む、つまり何事かを研究するという態度は出てこない。
学校はこのギリシアの学問の場をまねた制度だ。特に近代化してからは西洋風がつよくなったのでなおさら。

朋遠方より来たるありまた喜ばしからずや云々の本当の友情も、同じまなびやでまなんだ友達との間では、自分の知るかぎりでは最もつよい。それはご近所つながりより強いほど。もしかすると最も強い友情は戦友なのかもしれないが。
その意味では擬似戦争としてのスポーツ、特に部活動で親しんでいた友達はいつまでも互いを信頼しあえる様なところがある。文化部であれないことはないが。

 最近、なぜかはわからないけど、若者、しかもまだ未成年の子供へ恋愛をあおる様なテレビドラマやらマンガやら小説やら、とかくそういうサブカルが多い。あふれかえっていると言ってもいい。
けど、いま書いたみたいなほとんど一生つづく様な真実の友情の物語は知られていないというか、別に推奨もされてないみたいな感じがする。水戸黄門の助さん格さんくらいしか生き残ってないというかほぼ表面上は絶滅したんじゃないか。
時代的に少子化ゆえ早熟になれ、ということも、外敵や戦がなく平和すぎる世代も入ってそうなのかもしれないが、自分の時代をこえて見る目が正しいなら学生時代の恋愛なんてまったく価値のないものだ。
子供の判断力だからあてにならず、結局長続きもしなければ熱にあてられた様に意味がないのだ。それははっきりいえば失敗行動だ。

高校とかの時代の同級生と結婚しましたという場合とかも時にはあるのかもしれない。ヤンキーなんかはそういう世界に生きてるのだろうか。だが自分としては、そうならどこで友情を育む気だろうと思ってしまう。一般論ではないかもだが、大卒でも同様。
いちど社会へ入ってしまうと打算にまみれざるをえない。要は損得。はっきりいえば、男女関係含む一般社会(少なくとも資本経済の環境)は打算でできていると言っていいだろう。大学生活が利害打算ならそれは学問する場所として機能してない、悲惨で荒廃した大学だったということにすぎない。

『走れメロス』や『こころ』みたいな世界は、打算が入り込む余地がないからこそ意味をもっている。友情は打算を超越したものだ。
実際、学会に所属すれば尚更だが、教育機関での勉強はこの種の同じ志をもつ仲間と出会うことよりもはるかに重要なわけではない。もしそうなら通信教育の方が、わざわざ仲間と通う手間をとるより全ての面で合理的なはずだ。
無理強いして教えられたことより自分から興味をもってまなんだことの方がおぼえている場合も多い。最高の学府というのは、だから「同志を提供してくれる場所」となるだろう。

現状の恋愛煽り中心の高校生らの風紀をみてると、理性の十分そだたない若年層へ東京の出版社が戦後のゆるい未成年検閲から抜け出して売りまくる煽情的サブカルをばんばん吸収してる悪影響は、やはり明白にあると思う。どうせあの年齢でくっつこうと大半別れるのに。青春の浪費だ。韓流含め。
有性生物は放っておけばくっつこうとするものをわざわざ学校へ通わせてまでくっつかせる意味はない。少子化の原因は別にあり、要は新たな商品の発明がとどこおってるので経済状態が上向かないから新しい家庭が家計上で築けないだけの話。
素朴な話だけどよい教育、つまりたくみな進路を与えた方がその子孫は繁栄するのだ。もし少子化が起こるほど発明がでてこない固定化した社会で早熟にさせても、子供は以前の家庭状況より貧乏に暮らすしかなくなるから比べれば不幸だろう。

2010年10月11日

市の褒章、勲章制度

ある特定の目当てに叶う形質をいきのこらせる条件づけには、賞罰原理が最も有効だろう。要はすぐれた業績をあげれば誉めることだ。

だから先日かいた罰則規定の厳格さも下生えの最低限度をひきあげるには有効だが、上限へはできれば、市で「名誉勲章」みたいなものを積極的にあげて、周りの模範になる人物を目立たせるといい。

 市で俳句を募集するまではいいが、いまいちその褒章がめだたない。特に中学生なんか出そうと当選しないからひねくれて応募しないことにすらなっている。

だから市報にいいのを載せるとか、簡易な俳句集なりに選者をえりぬいてまとめさせるとか、最高の場合は報奨金や市内で優遇される各種条件を与えるといい。市内循環バス乗り放題パス贈呈とか、美術館のそういうのとか、山海館なりなんなりの宿泊付きお食事券とか。
で、俳句にかぎらず、基本はどうしても市の立場としては芸術関係にかたよりがちかもしれないが、とかく市の誉れとなる学術作品なり功績高い仕事なりを成し遂げた人物を注意深く鑑査させ*1、でその人物へちゃんとした通達なり役員の派遣なりで周知される様、表彰する。

この過程(つまり賞罰の原理)をくりかえせば、欠点とおぼわしき特徴を克服し、長所をのばしていくことも今より容易にできることだろう。放置しておくと雑草しか生えない庭の様に。


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この役目には特別な「目利き」が必要だ。並の学芸員ではいけない。下手に三流へ頼めば逆効果すらありえる。無理かもしれないが最善の手でいえば水戸徳川家へ是非とお願いするという裏技はどうだろう。

2010年10月9日

かもめのひとりごと

地元人の自己評価にみられる類型として、「根はいいやつだ」というのがある。これは危険な指標だ。どんな極悪人でも根はいいやつとみなそうとすればみなせるわけだ。

 要は、‘市民に教養がない’ってのが決定的弱点と思う。そもそも教養にむかう才能がないわけではないと自分は信じてきたが、これは半分本当っぽい。特に、あのじもとの中学に入ってきた体育教師とかみてると、ああいう底抜けの頭では教育しても伸び幅が限られるのも理解できないことではない。ただ勉強しなければ生き残れない環境だけが重要なのだ。

学歴社会には矛盾がはなはだしいが、利点ゼロではないのはこの批評でわかるだろう。それは表面上は受験勉強などによって、そもそも勉強のできない血筋を淘汰していく様な体系なのだ。

 教養さえあれば、善悪の水準が上がる。啓発された人にとってはタバコのなげすてすら重大犯罪ということだ。だから根がよかろうがわるかろうが、教養こそが市民の評判をおしあげるのを理解せねばならない。
どうやって教養をつけるかいえば、強制的に市民へ試験を科すという方法もある。それは「市の条令」によって最低限度の善悪の水準を強制的に上げてしまうことでできそうだ。たとえば暴力を振るう人物は市法によって、たとえ家族の間でも学校内のものでも罰金と懲役に科す。ごみのぽいすてをしたら懲役2年とかを市の特別裁判所で科す、よく高校生女がきもーいとか叫んでるがそれも名誉毀損あつかいで懲役刑、保護監察つきで毎朝挨拶させるとかだ。

こういう連鎖が入ってくると多少なり教養がないと、つまり市法を理解できないと自動的に罰則を受けるので、全く勉強できないそういうどうしようもない人物がいきのこりづらくなると思う。根はいいやつだからとかほざくどうしようもないやくざなら相当みつかる市なのだから。くおーく

2010年10月7日

市役所員の怠慢の断罪

 なぜ運動場をこの下知きわまる老廃人の市では市民へ解放しない? あのつがい高校生が帰宅部でなにをするかといって、非行以外のなんでもありえないのに。なぜ鬱屈をスポーツで発散させたがらないのか? 単純に、生涯学習科だか生涯拷問科だかの役人が底抜けに馬鹿かつ愚劣なのは分かるが、それより深刻なのは注意してもわからないことだ。

市税でめしをくいつつ、市民奉仕をしないゴキブリ役人など赤穂浪士に殺されてもなにひとつ文句はいえない。

 運動場を解放せよ。いますぐ。あの非行高校生が放課後でも昼間の帰宅部活中でもなんでも好きにあそこで戯れられる様にするのだ。具体的には市民運動場の野球場、可能ならテニスコート、でサッカーラグビー場だ。
もし荒らされるとか馬鹿すぎる観点でほざくどうしようも救いようもない老廃物役人なら、お前ひとりの存在が市を荒らす元凶だと断言できる。
合わない道理に居直る老廃物のお前ひとりさえいなければあれだけの数の先のある若者が好きにリクリエーションで気晴らしできるのだ。市税で搾取する最低最悪南蛮虫のお前さえいなければ。

お前が受付しろ。そして休日返上でいままでの行政の公務員としての奉仕の怠慢を血でつぐなえ。これは市民としての最終警告だ。

定時制度の部分的復活

教育の任にある者の意図とはちがって、現実には高校単位制度はうまくいってない。早引けするのはみているとほぼ出来の悪いグループだからだ。

つまり、教育機関としては逆効果というか、出来の悪いグループをますます出来を悪くさせ出来る方は出来るだけ伸ばすしくみとなって機能してる。出来る方には最高だが、出来ない方にはたまったものではない。教育される機会がそれだけ減るから。

 この悪循環の側を改良するには、やはり学校のおちこぼしがちな部分に「定時制度」を再興させるべきじゃないだろうか。
真昼間からつがいで帰るみたいのを町中にほうりだす意図がわからない。それで校長なり教頭なり、まともな教育効果がえられると思ってるわけじゃあるまい。職務の怠慢だ。

中郷で子供をぶん殴った親は、定かじゃないがあの昼間っから派手なTシャツにみちばたで着替えてつがいで帰ってくグループの、以前の型の分派なのだろう。それは仕方ない末路にも見える。
 成績がかんばしくないことなど何でもない。つねに上には上がいる世界だ。全人類よりずっと賢い宇宙人もいるに違いない。重要なのは、すくなくとも「常識以上の知識」は学校の教科から得ることだ。そうすれば犯罪に手を染めるほどの悪さに陥る危険性をへらせる。将来、もう一度勉強したくなったときも再スタートでとる手間がなくなる。
法律は高等学校ではあまり教えないから現代社会科を除いてほぼ自学自習するしかないが、それでも独学で弁護士もいる訳だから道がないのではない。

 出来のいい方はあまり心配はいらない。これはおよそ間違いないだろう。グループになっても、かなり仲間内の風紀は高い方に保たれてる様にみえる。
道端へごみをすてるとかの初歩の悪徳もそっちのグループにはほとんどみられえないと思われ、部活へ熱心ぽいし気質も比較的いい。というか運動部に所属してる様なのは朝練してるかはしらんが、夜遅くまで鍛えられてるから悪習にそまってるひまもないか基本ありえないのかもわからない。運動部へは激務の練習を与えるほどいい。
文化部のひとらはめだたないからいるのかいないのかもわからない。もっと盛んにやれ。

あのおちこぼし帰宅部に軽音楽部みたいのへでも入らせて流行楽器でも弾かせれば少しはましになるかもわからぬ。しかし音楽の層は厚いから上達するかは不明だが、うるさいだけのバイクのマフラーに金かけてるよりはずっと文化的だ。
デコトラ運転手の親の指導なのかもわからないから、遺伝子へはなんともいえないが、親もラジオとかでそういう音楽なんかは聞いてるだろう。車やバイクの装飾は金だけかかるが見返りはほとんどない。狭い日本というのを真剣に考慮したらいい。中途半端な反抗ぶりは滑稽だ。
アメリカ西海岸の果てしない海岸線をグランジかけてハーレーダビットソン乗り回すサングラスのヤンキーと、この極東の東日本の小規模のこぢんまりした田舎町を公道二人乗りでブブブブブブとか音させて地元人に冷笑されるちっさい黄猿とではどちらがマヌケか。モチロンどちらもなのがかなしいところだが。

 あんま関係ないが、運動場にミクルとか落書きしてあっからやっぱりエドみたいなマンガオタクの層が隠れてかなりいるのかもしれない。そういうのは表面化してないが、こいつらも新手の不良債権なので注意がいる。いつの間にかコスプレなんちゃらほざきかねないし、ろくでもない漫画やアニメやゲームを成人後も買いあさって風紀を乱すからだ。
だからさっさと漫画を焼けと言ったのに。

きたいば新撰組

市警に「特別公募員」として新撰組的組織を設け、市内で暴走族を徹底してやっつけることにしたらどうだろう? 自分もそれに志願する気負いならある。

誠に平和な市なのに、あいつらがときたま、いつもそこら辺にいるヤンキー番いみたいに、むかでの様に二人乗りぶって汚い格好でやってくるとうるさくてうるさくて仕方ない。
中学生や高校生の段階からあいつらの予備軍みたいのは多くいるから、ある程度の報酬があればこういう仕事による持続的雇用の創出も十分ありえると思う。
自分の経験上、この地域では暴走族予備軍が絶えることはまずありえない。ヤンキー階層なら腐るほどいるし、仕事にあぶれる筈はないのだ。

 警備車で追跡し、マーキングし、現行犯で抑留し、警官にひきわたす役目。これくらいなら並以上の勇気があればいくらでもできるだろうし、実際自分もやりたい。
市政側で責任とりたくないなら、一種の協同組合というか市警協会の分派として配置すればいいと思う。商工会の中に青年隊みたいのがあるが、あれも使えるかも。

2010年10月6日

下水道敷設にともなう行政の義務

関東極北まであの南蛮虫(通称御器被り)が出る様になったとは、関東全域に出没してしまう様になったということ。

しかしあれらが害虫なのは疑いない。平気で人の食事へまでたかってくるのだ。共生できよう筈がない。どれほど激減させても足りぬ。

 で、下水道というのを整備中らしいが、これは実は各戸の処理槽をいらなくしてしまうというイミでは、あいつらの汚水にみちた亜熱帯環境を絶好の繁殖場として地下に埋設するので逆効果だろう。海や川は綺麗っぽくなるかもしれないが、南蛮虫のバッコをゆるしてしまうのでくらしごこちが劇的によくなるのではないし、多少わるくなるくらいだろう。

今後の土木の命題は、「合併処理槽(汚水も排水も各戸で処理する)」を義務づけた上で、さらにそれだけを公共下水道に流す許可をとることだ。これをしないと少しも居住環境はよくならない。むしろどんどんと南蛮風習に染まらせ、野蛮になる。戦後の技術もそれだけしか進んでこなかったし、都市計画への配慮も足りなかったのだ。この為の費用は、いわゆる建設投資なので市債で補ってもできるだけ全戸に合併処理槽設置の義務に応じて全額補助しなければならない。これが下水道普及に伴う行政の義務だ。

2010年10月5日

芸術指導のコツ

らしいどころかたしかに逆説だけど、「うまさを見なかったことにする」のが良い芸術作品や作家をつねにつくりだすコツと思う。かんたんにいうと、うまいかへたかではなく、筋がいいかどうか一般論で語ることが重要だ。

うまいかどうかは、勿論芸術であればそれが主題ともいえるが、実はこのたくみさはそれへ注目しない様にすることで最も伸ばされ易い。

 市報にのってたが、中郷中だかの女の美術教師があまり素晴らしいうまさでもない漫画の絵をかいた生徒をうまいじゃないの、と言ってほめたらしいが、これはよくない指導である。うまいかへたかは実はそれを見ない様にすることで最も伸びる。だから「いい絵ですね」とか「面白い絵ね」とかいう褒め方は正しく、巧拙を直接褒章してはいけない。
芸術作品には悪の要素があらわれることもよくある。また真偽をぼかす表現もある。こういう要素は、芸術にとっては少しも重要ではない。迷惑きわまる技とか、嘘っぱちの天才とかは現れてもむしろ無視されるべきだ。
だからたくみかどうかは事実上どうでもいいのだ。もっといえば、ろくでもない大作家よりはすばらしい日曜大工のほうがよっぽどいい芸術家であり市民の誉れなのだ。

 間接的にいえば、教養をつけさせることこそいい作品をつくりあげる必要条件で、このなかで最も器用な者がたまたま評価されると偉い芸術家に見える。だれでも俳句は詠めるかもしれないが、その素晴らしさには偏りがある。どこにも駅はあるだろうが、実に趣のある駅舎もだれでも忘れられる様な駅舎もある。つまりこれが表現をおしあげている教養というものだ。市民憲章を参照せよ。
重要なのは『よく勉強すること』、これでしかない。

2010年10月1日

副文化の取り除き

市の為に最もなることをもし今すぐ実行できるなら、ワンダーグーと本屋に行ってすべての漫画本を焼き払うことだ。
自分には断言できるが、あれらに何一つ、まことに何一つとしていい影響はない。完全に害毒しかない。しかもこの毒素は年々つよくなっていて、何れはそれに毒された世代が将来、あのエドの狂っている親と同じ生き物になってしまう。コミックマーケットという所があり、とても近づけないが、大の大人が気が狂った恰好であたまのおかしい演技だか発狂だかをして平気でいる。
 そう考えると一種の麻薬なのだ。

『副文化を子供に与えてはいけない』。子供はきわめて環境に影響されやすい生き物なのであっという間にその状況へ誤って適応してしまうからだ。副文化はつねに淘汰されていくつかの間の流行なので、それに関わろうと見返りはほとんどない上、前時代の流行は次の時代ではまったく有効でなくなるからそこへ最適化してしまうと逆に次の時代では「時代遅れ」になり不適応になりおちぶれる。

いまではヒッピーの恰好でざんばら髪をふりまわしながらギター片手に浮浪しても少しも貴ばれないが、昔はその種の副文化があちこちで摂取されていた時代があったのと同じだ。漫画には文学ほど長い歴史がないし、古典としても完成されていないので次の時代ではそんな流行があったことさえ忘れ去られる。その昔、紙芝居や百人一首があった。だが今の子供がポケモンのアニメとビーバー人形にかまけるのとそれは同じだったのだ。

 重要な層の子供は、既におさない頃から主文化に馴らされて育つ。だからその環境にありうべき大人の義務は、環境から副文化をとりのぞき、可能なだけ格式にかなった古典的主文化の教養の海をまわりにとりそろえておくことだ。勿論すべての過去が貴いのではないが、少しも信用のおけない副文化に染めさせるよりはその主文化内での選別の方がまだいい。

この間、というかおととい、水戸版のnhkで短歌高校生女がでてた。ああいう層は確実にいるし、そういう層こそ重要なのだ。この辺の、特にあの中郷上桜井の郊外型店舗で毒された地帯で生まれ育ったサブカル漬けの高校生女はこれとは品格がまったく違うのを環境の必然とみなさねばならない。市政の責任は絶大であり、都市計画や産業誘致の道を誤る市長が何人命で償ってもとりかえしのつかないほど重いのだ。