2011年3月30日

工学

 大容量据置蓄電池を開発販売し、利用者の少ない為より安くてにはいる地方(つまり可逆な設置方式にし定期的に輸送し交換させる)やそれを置く現地などから深夜に充電させ、これをひるま使えば節約になるというシステムにすれば夜間との電力ギャップに適応できるとおもう。*1
 先ずは大企業用が有効だろうが、家庭用もはじめから視野にいれると裾野は広い。

 いまでいうガスボンベの様いずれ全ての家庭にもこの蓄電池が外に据え置かれる時がくる。メンテナンスもはじめから一連の事業にすればきわめて将来性の高い発明。
 水素発電は送電ロスをへらすべく初めから蓄電池へじかに充電させる確率も高いので、この事業計画は滑らかなほどよい。


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��1 ちなみにソーラーパネルへの助成で自家発電が普及してから、この蓄電池はひるまにも充電するばあいがありえる。よってアルカリやニカドなどより、くりかえし充放電にたえる系でより安全な、現状でいうニッケル水素充電池状の方がいいか。タンク状は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E5%85%85%E9%9B%BB%E6%B1%A0
を参考にすると、すでに宇宙建造物系(人工衛星や宇宙探査機などらしい)で実用化されている。但し、水素爆鳴気そのものの危うさは解消されない。
 とかく他の技革にも応用できる、夜間のほかのアクセスにも対応できる汎用型がとりあえずは家庭用にはよい。

2011年3月29日

自民党閥と本当の市政の姿

電車や交通基盤がたたれ、家にいざるをえないひとが多い今こそまとまった読書や勉学のいい機会なのだが、又これも現市長悪政の記録になってしまうけど、残念ながら図書館が電子化されてないうえひらいていない。

すぐにでも整理をはじめねば開館は遅れつづけるだけだ。

 もし私企業ならすぐにでも営業再開せねば顧客にそっぽむかれていくのであやういが、図書館はあのわるい市長のもとについているのでずるずるといつまでも休むつもりらしい。一刻もはやく復活したら市民の知性のそこあげにもなり、まさにいまこそ急ぐべきときとおもうのだけど。
偶像じみた進次郎氏への、市長室前での泊まりがけ避難客の誇示なんかしてる場合か*1。自分はみていたが、震災直後の一週間ははっきりいってそんなひといなかった。あの空間辺りはだれもおらずがら空きだったし、むしろ商観光会かなんかのひとに一市民である自分は、あのあたりの間から遠ざけられた。

この二三週間目のどこかで、ある種の「負担」や「自己犠牲」のわざとらしいディスプレイのため市長室前まで、被災したひとの一部をまねきいれたのだとは推測される。しかも市庁舎以外にも無数に避難所はあるのだからわざわざ実務すべき庁舎に、一見さんの報道客むけに、観光ぶった被災の演技派ぶりをみせられても飽きれる。完全な劇場。しかもバレバレの低俗ぶり。
さっさと仮設住宅や、あのがら空きだった体育館へ間仕切りを用意するなりすこしなりとも『市民奉仕』の実例があれば、いまの市長の系統をただのそらとぶ鴎がここまでみなくとも済んだはずだが。飽くまであのそとづら飾りの姿勢らしい。鴎には鴎の見方あり、自民党には保守の偏見あり。


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��1 進次郎氏のウェブログより
以下引用
��市役所では市長室の前に避難生活を送っている方々がいらっしゃいました(市長さんも市長室で布団を敷いて寝泊まりしてるそうです)。

2011年3月28日

工学

 電力不足の解決には、できるだけ巨大な施設へいっぱいにした蓄電池をハブにして緩やかな供給力をもたせればいいだけではないか。
 ヘルツ数のちがいも、いったん他の地域で充電したものを接続しなおせる施設のタイプにすればなにも関東圏だけで電力をあがなう必要はない。要はやすい地域(海外ふくむ)で充電してきて、関東一帯にもうけたこの蓄電池施設あるいはpluged power plantを介せば致命的な電力不足にはいたらないとおもう。

市長批判

『(こういうときに)必要なのは物じゃねえんだ、ハートなんだ』とほざきいつつ、年に1283万円2500円を市民税からふところに仕舞い、しかも再三の注意にもかかわらずどうでもいい映画などという演劇系サブカルへ大金や役人労力を注ごうとし*1、最悪なのは被災一週間はなにも音沙汰をみせず市民を事実放置し、災害に備えろ無駄な票田囲いに娯楽ばらまきをするなかれといつもいつも注意されていたのにまったく機能しなかった江戸レベルの手動半鐘と周知すらされていないし電気がとまりうごかない災害メールしか行政の義務な事前対策をしなかった極悪市長。

さらに無能すぎる証拠。なんと避難拠点である体育館や学校など、耐震補強を市民からの再三の注意にもかかわらず怠りつづけた。だから驚くべき悪徳の程がしれるが、いざとなって我々は避難所に入れなかった。おのれのふところがねとかねもうけ娯楽出費用(シネマクラブ? そんなものに血税をつかうな極悪人が)に税金浪費、さらにそれをつづけようとしている矢先、でいまさら進次郎氏みたいな劇場型の芸能人まがいのチャラ中央おエド政治家にこびだと?

これが一市民の眼からみた「真の現市長の姿」。しかも、市役所へ対応をおねがいしてもわからねーんだよねと門前払いや普段そのままの怠慢低奉仕。いつもだしいざとなっても。いかに無能な部下をそだてている不良行政かわからない。わたくし企業なら即首なのは前提で。
これは本当に本当のことです。市民は決していまの市長を肯定的評価すべきではない。これは長年、この市政や市の展開、そしていまさっきあったまさに行政人の防衛者たる本能や才覚が試される危機に及んでの最終的結論である。あの血統はまったく試験にとおらなかった。完全失格。そういうことだ。

本当なら世襲独裁をふせぐ目的でかれの先祖の銅像もみずから壊すのが道理というもの。それが失政の最終責任感というものではないか。にげおくれた死人や家をなくした人達のまえでおのれだけは中央政治に媚び売りだと?

自分はたまたま助かったが、すでに亡くなっていった犠牲者たる市民のたましいの上で『必要なのはハートなんだ』ですか? 災害ラジオひとつくばれず、ふんぞりかえっていた正真正銘ヤクザの親玉などなにひとつ擁護すべきではない。

だから、このすべてにおいてあやまった判断で、われら市民へ迷惑どころかあしき因縁をかけた小泉jr.もたいした政治家にならない(なれない)だろう。いや、なってはいけない。本当に困るやからだ。親もイラク進攻を事実上間接的にてつだった長いものには巻かれろ式のジャイアニズムな悪玉だったからそれもしかるべきかもしれぬ。だが業はのこる。たとえどんな辺境の地方でも。

参考URL
http://ameblo.jp/koizumi-shinjiro/entry-10842132284.html

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��1 計さらに2億4千万ちかくを市税から娯楽系出費。全面光ケーブルなぞという贅沢品敷設プラス、地震でぼっこわれたという噂らしい(たしかめてはないから真偽不明)あの豪華な映画座席。ありえない。耐震さえされてないおんぼろ避難所群と、字の消えた注意書きの江戸時代レベルの手動半鐘の前で。消防署がすぐ海の傍に置いてある時点で土台おかしい。そういうこと平気でしてくるひとを行政府の長に就ける市民の知力とは鴎なのですか? あ、鴎ではないんですか。






公園事業のおはなし

いそはら中央公園なるもの出現。まだ未完成だが。ひろくみえるのはいい。しかしもとの広場状態でもかえって希少価値な「なにもなさ」がよかったのだけど。
団塊とそのjr.は空き地というものへ不思議と手を加えたり、囲いあげ閉めたがるがるふしがある。けど、ちいさな子供は空き地を最大の遊び場にする。不思議だが、高度成長期以後はこういうなにもない空き地がきえてしまった。かわりに地代あげのためのサブカルチャー店舗やら大規模郊外型量販店やら巨大駐車場やらフェンスで囲って市民を締め出した悪徳行政の独占独裁地がいくつもいくつもできた。しかも放課後、学校は入れない。勇気と寛容さ、そして智恵のないおとなの自業自得のみならずこどもへも環境は悪化したようだ。

ところで、広い道路がわへは高さのある程度あるフェンスがいるのではないか? 幼児や子供がボールあそびをしていて事故にあったり、歩道の通行者へ予期せぬダメージをあたえそうなのがめにみえる。そこはしごとの手落ちではないだろうか。

あといつもそうだけど、トイレとかのデザインが適当に古臭い。駅のむこうのも。
だれが設計してるかわからないけど、いつもの票田手法のごとく土建票つながりで、競争発注や設計競技みたいのはしてないのだろうか。よかれあしかれ保守的か退歩的な性格があちこちにでてくる。
 けど技術革新へ退行して伝統工芸みたいなものをずっと飽きずにつくっていると、必ずや地帯の産業地位は低下してしまう。生産性の機械的向上がないから。
できるだけ伝統や風土、地域らしさと調和する、最先端の技術をつねに採用していったほうがいい。磯原駅は一つの模範。いままでとかわりないただの屋根がわら(しかも崩落対策なし)はああいう感じで地震によわい伝統なのでもしかすると外観装飾の質としてかならずしも最善でなかったのかもしれないが、ホログラムをつかったり音響装置をいれたり技術への感心の高さがみられるのがよい。

2011年3月27日

北茨城政治学

人口扶養力=人口密度\人口支持力
人口支持力:総生産に比例し生活水準に逆比例する値
なので、あえて人口密度を下げるのは市民の幸福感を上げる徳。人口扶養力が真の社会的幸福感の素ゆえ。

 市内人口密度の増大が繁栄と勘違いしているのは無知による。

 またラットレース(鼠競走)ではないのだから、ある程度の成果主義の導入(つまり振り落としか進級制度の採用)をすべきであり、かつ入庁段階から学歴符号差別をするのはかならずしも最善ではない。天性への疎外か、階層の固定と同系配偶による組織の弱体化につながるだけか。
 この固定化へ最もあり得る解決は、厳しい成果主義(つまり、解雇の多用)だろう。それによって期間雇用層がふえるかわり、窓際族も過剰学位による不適任もなくなる。但し、不安定雇用状態が生じるので他の福祉の受け皿、つまり失業保険制度などが完備されてしまえば採用できる。階層固定化の最大の害は腐敗の温床となって行政効率を下げていく事、各種の制度疲労から社会の公益機能が麻痺する事。但し、安定した収入の貴族性に伴った社会構造の安定は逆に学歴符号差別や年功序列など固定的制度を維持する事による。この階級化要因は、極端な成果主義社会の欠点が自覚されれば再び見直され制度に復帰させればいいとかんがえられる。

2011年3月26日

都市計画学

 都市計画学でいうと施設は人口一様分布のばあい 1/(√人口) のわりあいで設けないと効果がない。なぜなら面積当たり移動距離は二乗でふえるのに施設へはその間の主観点からしか到達できないから。
たとえば下の図で あ から他のふたつの丸まで行こうとすると、距離は二倍かかる。なぜなら往復するから。


もし人口が二倍になり い の人があらわれたとすると、また移動距離は二倍ふえるのに人口は一人しかふえてない。


こういうわけで、人口あたり二乗の割合で施設をもうけないと満足な都市にはならない。だから二乗のわりあいで人口は、自然にはあつまってくる傾向がある。なぜ市ができあがるかといえばこういうわけ。
 で、いま図書館のあるあたりへ施設集積させたほうが、ばらばらに分館をつくるより二乗だけ効果が高い。うらをかえせば、もし中心地域より遠くへ施設をいくらつくっても、たとえばその距離を半分にしたければ四倍の施設がいる。こんな風に。

よって、じつは公共施設というのはこういう風に作るのが合理的。

そうすれば人口が二乗比でふえても、施設はその√分の1のわりあいですむわけだ。つまりは、磯原のあの図書館あたりへ学習設備はあつめるべきなのだ。そうすれば市内のひとがより便利に幸せに勉強できる。

磯原経済学

 産業の質か達は、必ずしも総生産値などの既存経済指標に反映されない。
 需給の振り子はそのいちばで生きる民がなにを需め;もとめ、なにを給る;たまわる かによっている。だから総量にみた経済圏が必ずしも幸福感の比べみた理想の姿ではない場合も多く、逆も然り。
 もし総生産が総取引とは別の値だと分かれば、現代経済学の上で純生産と純取引とは分けて考えられゆくだろう。いちばの取引量を目あてとする税収運営の組織、つまり政府も、もし中間搾取の悪意がよりすくない純生産費のみへのえり好みがいちばでつづけば、相対的にちぢみきえゆくはず。

だから市場での磯原指標の高さは実質の富が必ずしも交換価値の追い求めとならない証として一つの現代経済の進み方を示すだろう。
 なるほど需給の達がより高貴なもとめに応えゆくのは「高い教養教育」が成功したときに限りそうだ。このいちばではつまらない、とるにたらない需要が起きようはずもなく、より高級で上等な品が次々に取引される適所となる。
もし総取引の額がどれほど少なくとも、この様な市場こそが本来の経済の目あてであり、旧総生産指標の高みにより外威を張るおもいは決してよい適所の目安ではない。極論すればそれは人口密度比にしか捉ええない。

2011年3月24日

したたかな浜辺計画

一気にこわされた都市の再建にあたり、ここいらではそうでもないかもだが、もっとも有用なのは「大規模な都市公園」をはじめに中心領域へもうけてしまうこと。

倭系の都市はどうしても江戸化・東京化・京都化というか、過密化へむかってしまいがちだけど、一掃される度々の機会にのみ都市へ共有地としての憩いの広い場をもうけうる。そしてそういう機会をのがすと、ほとんど際限なく過密になっていく一方で最終的には奇形な風儀がはびこる。これは歴史的にいえる。つまり放っておいてもよくはならない。かといって全体統制すると(社会主義国の堅苦しい都みたいに)うまくいかない。
 特に岩手県・宮城県・福島県あとは茨城県大洗町にはおすすめしたい。災い転じて福となす、ということも都市計画にかぎっては大きくある。冥福を祈ると同時にしたたかな長期展望を実行に移す事が今ならできる。

 大洗町の例をとれば町立または県立の海浜公園として、津波のきた限度までは県有地として買い上げ、そこ一帯を砂浜もふくめ超大規模の都市公有地につくり解放しておく。こうすればレクリエーション施設も費用省略でき、一石二鳥。かもめにはあてなくていいけど。

ちなみに大津か平潟、磯原の雨情記念館付近でも、津波記念碑とあわせたひらいた海浜公園をもうけると海からの既存私有地の後退とかねていいとおもう。すくなくともいままでより強烈な堤防で天然記念物的なきれいな砂浜をつぶしていくよりはすぐれた環境になるとおもう。

2011年3月20日

この原発かこまれ市政の法的義務

最低でも、地下へ放射能からの遮蔽効果に十分な避難室を、市内の建築として義務づけねばならない。
今の進歩と賢慮に欠けた不良市長(全て己の身が安全になってから漸く言い訳をはじめた普段税収のかねもうけ団塊虫)とその部下一切を首切りしてからではないと実行されないのが誤りないが、少なくともかれらの首切りが要るのはまったく間違いない。つまりは即刻、罷免。よほど危機に強い人物をおかねば今度こそ、まずい。
世襲政治家ほどまずいものはこの世にない。
 もしあの絶望きわまる無力な市政とそのトップ*1でありながら市民血税で私腹を肥やしてきた悪業の償いをとらせるなら、そこから得た財産全額を市民のシェルター費用へ寄付捻出できねばならない。それでこそ、はじめて市民の魂をまつる意味へ至る。

おそるべき災厄のさなか、まったく音沙汰もないばかりか市役所の対応が市民をまともに相手にしない官僚主義な不良きわまるあしらいとは。
 これで市民の安全よりも、さらに我欲をのばしたいがための東京電力系施設を誘致となったらこれはもう駄目人間どころか極道としかいえない。まこと極道鴎なんか海辺にしても嫌われもの。しっしっ。

 淋 し け り 五 浦 に な き ぞ 鴎 の 宿 り

―――
��1 具体的に市役所員と市議会議員、そして現市長とは、何度となく市民から無駄金を使うな震災対策をしろと注意されていたのに、税金から取った大量の私腹を肥やしつ(なにしろボランティアである民生員らの如くただ働きでは何等ない)、まったく使い物にならない500年前レベルのアナログきわまる半鐘、そもそも周知の努力すらなされていない使えない電子メールしか危機管理がなかった。全国放送のNHKで暴露されたのでもうしらんぷりを決め込むのはむずかしい。
市井の賢人からの忠告や自然を舐めきっていて耐震対策をしなかったいくつもの学校の体育館は、自分ふくめ、震災にあったいざというとき中へ入れなかった。これは常識以下だとおもうけど、ハザードマップを各家庭へ配りもしなかった。さらには、日立市の様な立派な緊急用ラジオも、ここのくさった鈍くさ無能市政はケチすぎ出費を惜しんでつくらせなかった。しかもまねろまねろとただのかもめに注意されていたにも関わらず。
おそるべき物分かりの悪さは、これよりさらに下があり、なんといつもお世話になっているはず「いわき市からの避難民」をほかより優先してうけいれる協定を積極に結びへ行きさえしない。茨城新聞によれば、御市長じきじきに手一杯だなどと恩着せがましい虚偽を放つ。かもめが見た市民体育館は99.5%の空きっぷりだったのに。行政情報に透明性のかけらもないではないか!
どれほどまでの腐敗だったのだろう。しかし、もう先はない。あとは世論に任せればよい。自業自得という前世来世を貫く世界の法に、なにもかもを処分してもらおう。鴎の死骸を運び、海風と舞う潮騒の響きと共に失政の責任者は去るべきだ。

2011年3月17日

県政への御要望

県政がどのくらい動けるかは不明だが、できるだけガソリンがこの市にもたらされればそれは救世主となる。
��自衛隊車両による給水はもし自前でも、ほかのすでに水道が出た地域へまわれば行けるが、その足が絶たれている世帯多数なので都市計画でいう(√人口)\1法則に従って自乗倍の給水所を設けねばならなくなる。)

結論をいえば『磯原駅前・大津駅前・中郷駅前・などの中心圏へ最小限の給水所』をもうけ、そこまでの各世帯や助け合いの足は『ガソリン供給車の最大数の優先派遣』で自家用車で補ってもらうほうが回復と避難民らの退避がはやい。

現状のガソリンスタンドはどこも長蛇の列で路駐の混乱をまねいており、いわき市圏からの避難者がバンバン入ってくる条件上も、今後もさらに需要がますことはあれ決してへらない。(ちなみに一部ガソリンスタンドでは整理券をくばっているので、市政の事勿れとは能力が段違いとわかる。民営化に次ぐ民営化。これがいまの国政全域をふくむいつもの財政健全へ最善の原則と判る。)
 県政が放射線被爆者への調査をしてくれるのは県広域にとっては望ましいので程度あれすべきだが、残念ながら北茨城市圏に退避した人々は、このままいけば下手すると全滅する。そういう危機感をおぼえる「よく状況が分かる」市民も多くいる。平和ボケたオジイサマオバアサマは鴎以外にも無数にいるがそれは全国区でなのでなにもいえない。

2011年3月16日

市の状況

 この市の一市民(自分)が市として現在要求していると考えられるもの。『ガソリン』。これは移動の足がなくなることから緊急度が最も高い。ほかの物資に致命傷はいまのところない。ガソリンがいる、できるかぎり多く。

すでに連絡したひとは別だが、そうでない人向けに自分のしりえたかぎりでこの地域の状況。震災日から今まで。

��.最初の地震で建物や塀、道路が崩落瓦解(瓦解だけに瓦がほどけた棟多数)。路面も移動困難な場所や、そもそも崖崩れで侵入不可能な場所あり。
��.津波がきて、雨情生家あたりは一階浸水。その高さにあった道路も戦時中みたいにボコボコ。避難した人は市民体育館などに(おそらく)その日から移る。当然、避難勧告らしきものはなし。万一あったとしてもどこであったかもわからない。自主判断で各市民は好きなところへ避難した。
��.線路上へも建物や流されたもの散乱。水道・電気は停止。ガスは機械的に停止(ガスボンべがある人はその後、手動で復活可能だった)。
��.近くの高台や避難所(おもには学校?)へ移動した人あり。ただしあまり多くない。磯高生は徒歩避難の者もいたみたいだったが、おそらく学校で待機していた生徒もいくらかいた(アニマルだからだが、はしゃいでいたチャラ高生あり)。
��.大体、磯原あたりの高台は津波からは無事。町も駅より山側は津波の影響はあまりみられない。
��.携帯電話は震災直後、その後も使えず。混み合っているという反応しか返ってこないのでつながらない。災害情報も数時間後、とっくに揺れがおさまってから突如出現して避難した人らを驚かせる。災害情報掲示板へも同様にしばらくアクセス不可能なのであまりつかえない。

以上震災当日。

��.その後、(避難所でも)おそるべき余震多くあり。寝付くことはほとんど無理。少なくとも二三日はそういう状態で、安心していられないゆえ時のたつのがはやく感じる。きのう地震があった気がしつつ四、五日経過。
��.電話は緊急回線みたいな音がして電気が通らない段階でも、固定電話は使える。携帯電話は震災二日目に回線がようやく回復。ただし電源がないので慎重におそるおそるしか使えない。被災二日目のおわりころには電源が切れた人多し。
��.助け合いをする古くからの市民、勝手に遠方へ逃避した新しい市民など統率のとれた一定の行動はしていない。信号機はとまり、注意深く市民らはそこを通行する。
��.給水車がきたと、ひとづてにどこからともなく噂がひろがり、学校へ行くと皆ががっかりする規模の軽トラックの荷台半分目くらいの小さな給水タンクをつんだ、ふつうの軽トラックみたいなものが二時間くらい余計に予定時間の場で待つときた。整理券を配れという市民がいたが、市の担当職員は「わからねーんだよね」と言って対応せず。市へ電話しても同様のわからないという曖昧対応。市へ直接行って頼んでも同様あるいはそれより悪い門前払いの対応(これでも十分やっている、なにせはじめてのことでと言い訳する職員・緊急対策部の職員あり)。混乱をまねくという私民らの現場予測に従って、4~500人の市民が寒空のした、すぐに空っぽになる給水タンクをくりかえしとりにいくトラックを手持無沙汰で待つ(もっとも先に並んだひとから総合すれば3~8時間程度か)。これは本日まで同様。震災6日後の本日に至っては、まだ水道が出ていない世帯が多くあるが、「出てるところからもらってください」と言い残し、市のトラックは来なくなった。

 まえに書いたが、この最初の被災当日(大抵の人は自宅で待機か?)は一切の市政から勧告も音沙汰もなし。電話しても対応はわかりませんで一点張りだったらしく、自分のばあいもそうあしらわれた(そこまで高圧的ではなかったが責任回避風)。
 震災直後にセブンイレブンとサンユーストアーへ品物をとりにいったら(その為の協定を結んだ直後だったから)、その閉めた入口で「売れないんですよー」という対応だった。「(こういう時なんだから)売ってよー」という土木作業員ぽいおじさんらへもこの対応だった。あれは商店のやとわれびとだから、解雇がおそろしくて自主判断できないことから黄犬風の卑屈な態度しかだせなかったらしい。
ただし、サンユーストアーは一人の勇敢な店員(30代か)が店内へ入っていって、しなもの(一口パン)を格安で売ってくれた。すこしのしなものだったが年寄がいたのでありがたいこと。この店員のほか店内で食品加工をしていたみたいな二人(かれらは「もう売っちゃったんですよー」と言っていたがかなり震災直後だったので本当かはわからない)以外、店員は本部へ連絡をとりに行ったとかでいない。
 市民体育館の中はがら空きで、避難した市民は奥の剣道場と柔道場へつめこまれていた。そこも満杯ではない。市役所のロビーには避難した人用のブルーシートが敷かれており、夜を明かし、炊き出しもあったらしい噂ありだが真偽はわからない。
三日後の時点では市民体育館奥の二か所の避難所へはどこからもってきたものか、おにぎり(具なし。塩漬け。手のひらに入る大きさ)が夜中に一人一個~二個くばられていた。毛布の提供もあったが、中は夜中にはどちらかといえば寒い。一階浸水の家族連れなどがそこで震災日からだろう、1週間程度の生活を送っている。お年寄りも多くいる。雰囲気は険悪ではないが、かならずしも和気藹々ではない。耳の遠いだろう女性のお年寄りが精神的に逼迫したか、さわぐ子供などへ夜中に少々怒鳴ったりした。
 自衛隊は何台かがサッカーラグビー場へ被災三日目に来ていた様だが、給水車を利用している市民はかぎられていたみたいだった。これはいつくるかもわからないし、あの市役所周辺の市民しかわからなかったからだろうし、くるにしても遠すぎて多くの足のない(ガソリンが足りていないので遠出はしにくい)市民には利用できない。以上かもめかもめ。


追記。自販機は震災時につかえない。電気がとまると取り出せない。水道なども電気インフラに依存しない形にしないと電気停止ですべてつかえなくなる。もちろん、オール電化なるものは被災最弱だろう。ガソリンが切れると移動もままならなくなるので、逃げる方法もなくなる。自動車も多源化しておかないとオール電化はやばいか。

北茨城市の災害時のこまかな情報と判断

 いきのこり鴎の総意だが、北茨城市と高萩市にとってのぞましい将来性は、『日立市に合併をもうしでる』ことだ。北茨城市は、自分の目でみた真実を書くが、単独ではさまざまな災害対策やこまかな臨機応変な事務対応をできるほどすぐれた自治体ではない。むしろ、大いに劣る。
普段からあらゆる対応において劣るということが市民の目にもはっきりする事勿れ地域なので、高萩市民や高萩市長の明白な反対がないかぎり、できるかぎり早期に(県北部ではもっとも優れた実績のある)日立市への編入をのぞむ。そして想定できる最大限の行政や普段からの政務のしごとを、日立市役所へ集約してもらうことだ。

北茨城市民たる独断だが、もしこれができないとすれば、県へ一切の罷免を覚悟のうえで市の全面的返上をするしかない。

一市民として確信するのは、市役所やその所員の災害時対応はむしろ北茨城市にかぎっては悪い方だった。よくないをこえて悪い。自分以外にもそう感じた人は無数にいたと思う。これは情報が忘却や風化されないうちに、できるかぎりこまかく一市民の観察のかぎり、具体的にどうだったか書いておく。
市は全然臨機応変な対応がとれず、いつものごとく市民へは門前払いや盥回しであしらい、市役所員や民生員はできるだけ責任回避、役人は根拠なく威張りくさっており公僕というたちばを自覚しておらず、要望は否定しながら事勿れで必死に保身し、‘お上の命令には犬のごとく従順’である卑劣あるいは協調的な本性をやはり関東圏人の典型として示すが、結果としてほぼ丸でなにもできなかった。つまり本質で無能政治だったのだ。
いつもの不手際の多さは普段だから緩めにやっているのではなく、本当に無能だからあの程度が能力限界だということにすぎなかったのだ。

あのままの市役所で今後も生活していけるかといえば、いち市民としてはとても不安すぎてできない。
はっきりいって機能していないに近しい状態がずっと、被災の不安感のなか飽くまで長く続いた。※1
特にひどいのは震災直後、一日中なにも連絡や指示がなく、簡易トイレ程度の設置やその通達もなし(これはしろうとでもおもいつく最低限度の)、災害対策らしきなにひとつの救済措置もない。
市民が大地震でどうしたかといえばそれぞれの独自の判断で退避や待機していたのだ。二三日後までいかにもとってつけた小規模な給水車がきたという人づてのうわさ他なにひとつも市民勧告もなく、現在、一週間たってもまだなにもない。
その後の経過で最悪だったのは避難所をおいだすバカ教師がいたらしい。普段から公共広場や市民の共有地を鍵つきで追い出すなとあれだけ注意していたのに、市役所員全員は知能が奇形化しすぎて公徳の観念がまったくなく、市民から税金を貪り取りながらいざとなったら適切な公共の奉仕者たる対処もなんらとれず、それどころか責任逃れと市民睥睨の態度ばかりとは! 
むしろ、この日誌をよんでくれる水戸以南圏の県政にかかわりある県民へはたしかな知慮をつたえたいのだが、北茨城市の公民は本当にろくでもないので、できるかぎりはやく併合なり合併なりで実質権力はなくしてしまうほうがずっといい。すこしでも平穏が回復すると、いままでの経験上、かならず市税をつかった映画なり芸術娯楽施設なり「公徳に欠ける」土田舎者の出来損ない投資へかねを浪費してしまう。※2
恐ろしいのはこれを止める手段がない。なぜなら市議会が、再三の報道でもわかっていただけるはずだが、腐敗しているからだ。あるいは市民性が、知力にせよ勇気にせよ弱すぎる、うつわが小さすぎるのだろう。

 市役所へ行って対応をお願いした人も多数いたと思うが、人である自分ふくめ、門前払いに近い扱いをうけた。
市民を見下しており、上司へはいぬのごとく従順で(解雇さえされなければ己は安全ゆえ)、市民奉仕が仕事であるという道理が全然通っていない。
 残念ながら、自分は対応を所員へお願いしたのだが、つめたくあしらわれ市庁舎内を何度もたらいまわしにされた挙げ句、結局、市民へのぞましい対応をしてくれなかった。
緊急対策チームという立派そうな名前のつけられた柄のいかにもわるい10名程度の壮年オジサンらが市庁舎の三階の、市広域をみわたせる場所に陣取り、手持無沙汰であきらかになにもしていなかったが、市民からの緊急要望を優先度順にききいれる気はなさそうだった。そしてかれらはただ踏ん反り返り‘お上からの命令’をなにもせずに待っていた。(そして市民へはどちらかといえば喧嘩売っていた。これは普段からそうなのでいつも通りということだが! 不良市役所であり市民性。)
 これでも十分やっているんですよ、といった責任御免の言い分は随分きかれたが、市民を守るといった使命感や税収でくらしをたてている者としての自責の念はあまりないっぽかった。

 それと、総合してみて、現県知事は県知事としての職責をかなり果たしておられたと思う(もちろんまだ先はある)。電力供給への正論もそうだし、福島県からの避難について混乱なき様、治める方法への啓蒙や周知なども手抜かりがない。だから現知事はそのかぎりで、茨城人として優秀だと分かる。
 今後の県政の大命題としては、東京都政が電力供給や都知事の対応からみても基本的には頼りにならないしジャイアニズムを緊急時には暴走させる、といった性癖がますますはっきりしたことから、現知事がご尽力になっている様、普段に於いて最大限の権限委譲を国との間でとりもつことだ。
 もし東京に利があったとすれば、マスコミだ。哀しいことにテレビ局は東京資本なので、ほとんどマスメディア経由の公的情報が災害時に情報孤立をふせぐといった「公的情報の最大共有地」とならざるをえない環境がある。民放もある程度までは災害への特集を組んでいた。
だから、日立圏が(それ以北をのぞいて)災害用のラジオをくばっていたのは大変にかしこかった。あれがデマを掻き消す効果、東京偏見ではないより地域の事実や実情にのっとった即時の情報をあたえる効果は大きかったとおもう。確認しないとたしかなことはわからないが。哀しすぎることに、このできのわるいほうの市ではなにひとつ対策もなければ、そもそも避難所が安全ではない場所すらあり、ハザードマップもまったくなく、普段は‘安全神話’とかいう亜教を信じこんでいてなにもすべきことをしない。
この網記のログをみればわかるが、説得してもなにもしなかったのだから今後もまずするまい。
市を潰し、周りへ編入させてしまったほうがまだ安心である。そして県放か県内の独自民放も、そもそも対立すべきではないネットメディアとの融合をふくめ、茨城県発で全国や全世界向けに検討し実施していくほうがいい。(ちなみに、当然ながらラジオの方が緊急時には使えた。ラジオ局は費用はすくないが以外に隙間な効果がとても高い。だからラジオ局は少しでも資本があればもった方が徳がある。テレビは「宣伝」効果に由来しているだろう。)
東京偏見のうえで、被災地はまだ回復しないうちから都内には全面的電力回復・くだらない商業CMやお笑い番組復活・計画停電回避ではぜんぜん話にならない首都圏といわれざるをえまい。茨城県にも、普段の時点で放送局を自前で確保しつけるべきだった。そしてそこからより正確な、客観的報道を送るほうがよりよかった。県内資本の首都圏からの奪還をふくめの課題。
 さらに、御知事の先見の明のとおり、国から「公約・盟約」のかたちで原発地域には保険をもらうしかない。いつもから下支えしてきたのに、いざ震災になればああいう後手後手の被災地あとまわしのろくでもない極悪対応をされてはたまらない。

―――
※1 つけくわえれば、市民一人ひとりは役人にくらべれば幾分かまし或いは平淡であり、もちろん普段からそうな様に科学知識や技術へのひどい無知のほどを露呈していてたとえば老人が‘津波がきている辺りを試しにみてこい’や‘放射線がきても遠いから大丈夫だよ’‘(震災当日か次の日に、)きょうの午後には水道出るんだって(⇔デマ)’など誤った判断を示した者がかなりいたが、わりと個々人がパニックで慌てふためく様子はなく、どっちかといえば冷静で、適宜に協力しあっていた。
ただし、これは国民性が奴隷心を古代から涵養されてきた育ちだから仕方ないといえばそうだが、大勢で列をつくっている給水のときも誰かが発想した整理券をくばるといったアイデアへ協賛してくるひとはおらず、びびって誰もそれを実行にうつさず、市長・市役所員・民生員・市民も臨機応変で果断な対応をとれず、おとしよりやこどもふくめ寒空のしたで何時間も何時間も縦列をなしたちぼうけしていた。あれはまことにエネルギーの浪費であり、倭人の集団主義体質の悪面を示していた。まわりが無条件に信頼できないので整理券ごとに相手を信頼して並ぶといった共通ルールが、緊急時にしけなかった。あれは社会心理学で分析し、次回にはちがったルールで対応せざるをえない。不合理な光景だった。というか、いまだにそうしているのだが。

※2 けさのいばしんでもすでに誤った印象をあたえるわるい記事が載っていた。あの市長はあんな英雄的な人間性ではない。直後はいうまでもなく、市民へは1週間、事実上なにも対策しなかったのだ。1週間後、市民がほぼ自分勝手に自力で回復してから、市庁舎で安心しきって大声をはりあげても‘無能か、震災直後の市民へはなんの緊急対策もしなかった’市長と不良チームだったのはこの私がはっきりとみていた。天知る地知る我知る君知る市民知る鴎知る。
マスコミはマスゴミと称されるが、やはり真実より建前を報道しすぎる。真実は無能行政であり、最悪の対応と、しかも責任のがれの事勿れに終始し、緊急事態に公共機関から避難してきた市民を閉め出していった教員をもった市だったのだ。むしろ、茨城新聞記者はこの真実を精確に報道してもらいたい。誤解をまねくことはなはだしい。はっきり書くと、震災時の市の公務員らは悪中の悪だった。かれらは即刻解雇しなければならない。一刻もはやく。
縁故採用をし、イエスマンのやくざで周囲をかため、茨城新聞記者の前でだけいい恰好としようとしても『市民の眼』の前ではそうはいかない。そして現市長豊田稔は、現実の市民体育館はがら空きだったのに、こちらは手一杯だと虚偽をのべていわき市や福島県に恩を売ろうとした権力主義の悪人だったということを我々市民は確実に次世代へ伝えつづけねばならぬ。当然罷免しなければならない。さもなければ、おなじことが再び起きてもおなじことしか起きないのがまちがいない。‘なにせ今回がはじめてのことで’と養っている市役所の税収役人どもへほざかせて。今後、かれの子孫が市政にちかづいても、その血統があるので大変危険であるということをあまねく理解させねばならない。

2011年3月11日

海のねの所信

もしも出馬表明の機会に映画制作会員のサクラをよびこみもりあげムードで市政独裁を正統化してもなにせ普段の議会が閑散すぎるので一夜漬けにしかみえない、という哀しい(多くは哀しすぎる)極北のいちばだが、なにしろ極北なのでそれもしかるべき淋しさである。もしものはなしですよ。
で一句。
 天 心 の 侭 に た ゆ た う 崖 っ ぷ ち

なにが心配かって、下手に宣伝しすぎるといわゆるgentrification(高貴化)が起こって地元住民がスラムへ追い込まれ且つ追い出される可能性が高いということ。
これはご自分がブレインかねてるっぽい市長、あと水戸市、県政もまだ自覚してないみたいだが、少なくともこの市にかぎって都落ち芸術村助成みたいなあくどいか下世話な構想は諦めたっぽいのでまだいい。
すでにニューヨークのSOHOといわれる地区などで、この一連の社会悪化事例はあかしされている。つまり‘村興し’がうまく行き過ぎると(しかも芸術でそれを行うと)、かなり短い期間に大量のどこかの馬の骨の若者らが入ってきて一気に場が盛り上がるかわりに、続いて、醸成された高級感にたかる宅地業者や各種の芸術商、最高級ブティックなどがその場をいやおうなき大量の資本投下で占領しだし、結果、周辺住民は極貧生活とともに居場所を追い出され、最終的には既存の文化ごと消滅する。

いまの侭で市長がなぜかしら市長のたちばでやりたがってる意味不明な映画制作(観光誘致の為に在住者らの税金があるのか? ただの全体主義な見栄費用ではないのか?)を行ってしまってくと、確率は低いがもし評判として成功しすぎたらだが、急激な高貴化によりあの辺やこの辺やの決してお金もちではない多数の住民は、絶滅か市外退避させられるだろう。
最も被害が大きいのは、近隣漁港の周辺の人ら。かれらは観光誘致程度のかるい意識で土地を売ったら二度と取り返せず、なにかの偶然で還ってきたころにはもうボロボロに自然破壊が及んだあとで。しかもそうなった土地は高すぎる上、あたりの物価も上昇しすぎてまともな暮らしもなりたたないので五浦圏からはのこらずいなくなるだろう。

 もし下手な劇場市議など演出したらこうなるのである。勿論、市税がだれかひとりの支援団体のための農民から奪い取ったばらまき銭っこなど、ではなく公益の為の市民全員の共有財産ならそうではないだろうが! 鴎の目はあざむけない。なにしろ神も天も、鴎らも、普段からなにもかもみているのだからいまさら、わざとらしい人気とりして俺に指揮させろと言ってもまったく冬の海のごとく冷めてしまう。
ベストなのは「大袈裟な映画にはしない」ことだ。岡倉語をひけば互譲の精神くらいならまだ罪は少ない。岡倉がきたころの魂の記録映画程度のもので納めておくがいい。
それなら高貴化もゆっくりとした速度でしか起きず、例えばフラダンスで湯本辺りがそうしたみたく、少しはよい印象をもたれ少しの観光回遊が増した程度に留められるだろうから。まあそれにしても観光政策には反対だ、観光地は必ず自然破壊が進むから。

尤も、貧乏性市民は絶滅させたいなら最大限の財政を投入し最大限の労力を費やしていい。そのほうがいいかもしれない。もしこければ市長もろとも市も潰れるだろう。あっはっは。

 か も め の 城 は 白 い 雲 か な 冬 の 海

なんにせよ、賢明なのはコツコツとまじめに生きていくことだ。勉学にせよ仕事にせよ、或いは娯楽にせよ。鴎だってそうしている。そうしない鴎は田園地帯から基本的にいなくなってしまうものなのだ。
一発逆転の冒険王みたいな漁師気質をもってんのかなんなのか(といってもろくでなし小名浜級の遠洋漁港系でもなかろうに)、大袈裟なしわざは半面で危険選好的でもあるかぎり中道の士からは尊重されない。

2011年3月10日

道徳と政治の正道

「道徳の高さ」を誇示することは、断言するが、かねもうけ行政の千倍以上の政治効果がある。

もし目の前に二人の人物がいる。
片方は山ほど金を余した韓国芸能人級の俗物、片方は正義感にあふれた質実剛健そのものの武士。さて、世を治めようと志した人はどちらと行動を共にしたがるだろう? 
自分が言いたいのはこういうことだ。腐敗した県政なら即刻退去願う。そして天命に遵うのだ。より有徳な者こそ行政の長にふさわしく、ろくでなしの金もうけ行政など即刻廃止、滅亡しか道はない。

 韓国人? なら先に隣の隣にいる東京都の穢多人種どもを潰せ。やつらのまきちらす劣った風俗がここまで水戸を経由してやってきてるのに気づかないのか? 
どうしてあらゆる手段をつかってそれを即刻征伐しようとせず、韓流だか最悪のちゃらちゃらした軽薄ドラマの役者だかを平気で厚遇してる? そんなやつら入ってきた瞬間に討ち取ればいい話ではないか。世界によい影響力でもあるの?

と、鴎が言っていた。事実、これができねば何匹が死のうと県政と国を乗っ取るしかない。堕落した世界へ文明が進む事はないのだ。たとえ鴎界であれ。

2011年3月9日

品性を落す相手とは縁を切れ県政

自分がもし県知事なら韓国便は就航させず、文化上の影響をかねもうけより優先させる為にイギリスとアメリカのLCCとしか結ばない。そのほうが総合してみてよい結果に至るだろう。国内便についてはそのかぎりではないが。

ヨーロッパや中国もいずれは考えるが、そこからの影響は既存の文明より多くは劣っているだろう。

 なぜ団塊の世代はかねもうけしか頭がないのだ? それよりはるかに重要な価値が文化にはある、と理解が及ばない。だから韓国人の観光含む侵入で既存の茨城圏の文化が崩壊しても、金がもうかったから万歳なのだろうか?

自分はいわきというすでにアジア人(中韓、および倭系)のニオイがする汚い街を知っているからそういいきれる。かねがもうかろうと品性を落とせばなにひとつ得はしない。これが人生の真相だ。あんな女飲み屋のあふれる街でまともな人格が育つ可能性はゼロだ。

県の公社が経営してるとすればその責任は知事にある。今の知事が最終的には亜アジア化した茨城県にどんな落し前をつけてくれるかはわからないが、新大久保級の街の様相が出現した瞬間、少なくとも自分は罷免へ最大級の行動をとるつもりだ。人間には金より重要な価値がある。
 極論すれば民間共用部の空港設備を潰してもまだ韓国系の文化を侵入させるよりはいいと自分は思うが。実際、自分がみてきた韓国文化の汚さを知っていていうのだ。勿論、江戸文化よりは多少ましだが、かといって自分からつきあう意味はないばかりか害の方が大きい。

混雑税による緩やかな朝夕

朝夕のラッシュアワーに、大部分が定期券で通勤通学してるんだろうからflex timeさを県都圏へ導入するに、「混雑税」を道路や列車乗車率へかければいい。

 具体的には朝6時から8時まで、夕6時から終電時までは割増料金を条例できめてとる。大体、水戸ー磯原間でいえば200円くらい(約20%)からだろうか(これが効かねば少しずつ増す)。
定期券はその時間帯に利用する分を、+αして売る。つまり通勤通学でつかう為に人々はそれを買うので、最初から20%以上を割り増してしか県内で売らない。
 高速でもその時間帯に利用すると料金の20%くらいの税率をETCで換算する。料金所でもそうする。
一般道、特に国道では混雑が起こるだろうから、公共交通機関をのぞいて一般車両からはやはり徴収する。具体的には水戸市内へ入るおもな国道関門ということになるだろうか。
そこへ定期関所をもうけて、混雑する時間帯に忌避させ、全体としてはいつも一定の通行量を計る様にみちびく。

こうすれば朝夕の混み具合でムダに抑圧溜まりもしないだろうし、夜までに仕事テキパキとかたづける必要から業務の合理性もあがり、健康的でゆるやかに暮らしていける。
��R水戸と県政が合理性をわかればいますぐでも実行できる税収増をかねた工夫だけど。

この策で県外への事業所の流出が起こる可能性はないことはないが、少なくとも一極集中による弊害は減るのでより分散することになるだろう。つまり総合してみれば職住近接へ導くので生活大県の号令にとっては良策となる。

2011年3月7日

商いと政のちがい

団塊は高度成長といういまの中国みたいな人生経験とその人生観しかないので、あとの世代のしあわせや住み心地を考慮できる能力はない。そこまで栄養がまわった育ちですらないらしい。
だから、強欲で金満家なのはやつらの最悪の性格以外なにも示さないが、それだけ。

かれらはうまれて以来の癖でかねもうけのことしか頭にないだけであり、それゆえ、くらべてみれば品性が低くして実行力が愚鈍なのだ。最もよいのはこの世から即刻退去してもらうことなのだが、残念ながら団塊は貧しい出自なのでしぶとい。この史的真実がある。

 北茨城市長、高萩市長、そして県知事にお尋ねもうしたいのだが(もちろん鴎語で)、そんなに金をむさぼって一体なにがしたいのですか? 
そんなにかねがほしくてほしくて仕方ないならさっさと商売でもおこせばいいのではありますまいか。行政とは「警察組織の執行機関」以外には意味をもたない概念。警察の頭がかねがほしくて仕方ないなど、腐敗以外のなんでもない。警察は商人ではないのだから。

税は、竹中平蔵って経済学者もいってるがいわゆる‘みかじめ料’であり、市場へ累進調整さをもたせてその極端な所得不均衡を均す働きがある。
しかし、市場がほろびれば税収でくってきた行政組織も同時にほろびねばならない。なぜなら上述の様、みかじめ料が必要なのは市場に極端な不均衡や不正取引の余地がある時だけであり、もし経世済民が進んで一切の限界消費性向が満たされれば、すでに行政もふくめ政治界は永久に用済みなのである。*1

だから行政人が意味不明なかねもうけ嗜好をもっているのは、まさに悪代官以外なんでもない。政商はびこりし市場、法の腐敗あり。悪代官は民の俗へ害をあたえること甚だしく即刻駆逐されねばならない。
もし‘もうからない市’になったなら、行政を廃止し、政治家は家を取り潰し、いきのこりは生業をかえればいいだけだ。それはみかじめ料の胴元たる役目を終えたからで、無理に延命してもだれひとり得しない。警察組織という元合法の暴力団をひきつれているかぎり損害は飽くまでも多いらしいが。

 ケインズの主著(1935年著『雇用利子及び貨幣の一般理論』)へ、すでに上に書いてることは抽象的な形でだが予見されている。曰く資本の限界効用は漸次低減すると。
で自分がおもうに特に、限界効用は消費性向の高い品物や奉仕から次第に逓減する。
景気循環がなくなったら行政府はおのずと潰れればいいのみ。福沢諭吉の『文明論之概略』で見通されている政府の撤廃も、社会主義や共産主義とは別の文脈で、こうして限界消費性向の逓減則と共に、ひとりでに必然性を伴って起こる事態。

結論をいうと、かねもうけ行政をするのなら政治まがいの人生をやめよ。そのかわり、上に書いた消費性向をあらたに開発する様な製品なり仕事なりの発明へ時間と労力をつかえ。さもなければ行政府という「平衡装置」へかかわりあいになるな、ってわけ。これは道理が通っていると思う。
本当にみながこうすることができれば社会が停滞することはないはずだが、残念ながら癖というものがあり、侍階層どもは特に上位なほど、ろくでもない切腹覚悟で経済の足をひっぱりつづける傾向があったし、現にその風習がかなりのこっている。
実質では財政面での赤字を記そうが市民が罷免と周辺国の援助に頼るしかない現代なので、悪徳行政人どもを成敗するにも説教しか有効打撃はないのが哀しいところだが(といっても公益に類する批評は名誉毀損や侮辱、誹謗中傷など刑事罰また私事に類しないかぎり処罰の除外になるのが既存の法解釈だからそれは合理的な哀しみだろう。いわゆる『批判の自由』)、なおも税収からふところに金をしまっている全体奉仕者(憲法による)の立場でかねもうけ行政を主義しようものなら、どれだけ言論という凶器で打ち叩こうと足りはしないだろう。繊細きわまる鴎語が通じるかはしらんが。
 悪徳行政人がいるからあれだけ江戸以南ではすさまじい人品の堕落がみられるに違いない。
かねもうけ政商は市場の法治よりも懐手をみているのだし、そうであるかぎりいかなる徳目にもとづく法規範もむくろとなり、実行されなくなる。

これは苦言ですが、高萩市長がやばい。政経塾とか大阪商人の私塾でなんの金権思想をふきこまれたかはわからないが、いうことなすこと団塊まんまだ。まことおそるべき貪欲さ。

繰り返すが、もしそんなにかねがほしくてほしくて仕方ないなら商売を自分でやればいい話。これは経済学上はっきりしている真理。
行政人はみかじめ料を締める市場の、わるくいえば胴元ヤクザの親分ではあるが、役目そのものが所得不均衡の極端になりやすい消費性向間の条件あるかぎり単なる害とばかりされるわけではない。とあるからかい言葉にある‘合法ヤクザ’という名義のとおりそれは法に合うかぎりで否応なく許容されている。そしてかれらがいないと、つまり彼ら警察組織からの武威による強制と制裁のおそれがないと必ずしも法が守られないのが結果の十分に予見できない猿に近い時代の人類だったから少ないほうがいいにせよ仕方ない成員なのだ。
究極の市場たる国(又それらの総体たる国際社会)は、その累進税制度による所得平均化をのぞけば、機能をもたないべき。別の市場規律をもつ他国への侵略行為は、こうして決して正当化されえるものではない。もしそれがあるなら製品商材の優劣にもとづいて自然に起きている所得の総体に由来した合併や協議での併合の道理による。
 いいかえれば『市場の集約』が和平協約により漸進的に起こる場合だけすべての民族間統合は正当化できる。

だから倭王朝が西海や関東や東北、その他の日本の地域へ武力侵略を行った過去は決して正当化できない。根本的には、それらは野蛮の行いであった。極論だが、王族は本来いないほうがよい。地域のヤクザ加減を強化してしまうからだ。*2
この歴史の真相を人々が判るころ、倭の天皇制度は象徴ではなくなり、広域での野蛮時代の地名のなごりにすぎなくなる可能性が高い。尤も、それは「国連社会」で上に書いた市場統治の道理が共認されたあとでだろう。いまのところはこの市内でさえ行政人へ理解が及んでいないので、それはかなり遠い未来ではありそうだが。華族や皇族と血縁結んでるのでまことヤバイ某自民党員もいきのこっているし。


ーーー
��1 マルクス主義だ!と叫んだ知識人の方(いない。京都人か)。
しかし革命思想へはなにも言ってないし革命はないほうが平穏で、資本主義の本質への分析がほんとうのもとのマルクスの考え方なのだったし、実際、自由主義系の経済学者もそこへはいいおよんできた。要は、「低次から高次への限界消費性向の逓減に伴う行政機能の漸次な削減」はいまのところ経済学のみとおす資本の共通原理。どの社会体制下でも。

��2 もちろん、これも理説にすぎない。後付けでない理説は疑う方がよい。ではなぜ王族不用論がおこるかいえば、その所得不均衡への誘因がすくない社会ではそもそも劇的な行政行為をのぞまないからだろう。逆に、王族有用論はそれが極端に大きい場所でおこる。「商業界」が飽くまではやる、人口過剰で新規流入の大きい適所では一見さん向けの取引が多数なことから所得のかたよりが起きやすい。こういう適所でのみ、王族がみかじめを占める体制はいちばのとりしまりについて手順省略の有効さが高いといえそうだ。自分は北茨城圏にすこしもそういう世界へのみちびきをのぞんでいないから、王族無用論を好むというわけだ。なんども書くが、鴎は空を飛んで海の藻屑と砂にかえる。鴎ならその方がよい。わざわざ労多く功少ない世襲した市場支配の悪業をはたすのは、帝国主義をもつ一種の蛮族だけがやればいいこと。人類史の一般則として、帝国はみな最後には亡ぶ。永久の王権はなかった(尤も「長さ」へはこれはあたらないが。つまり、長い王権の証拠を尊ぶ人らも一部にはいつくだろう。自分ではない! やくざ稼業の証拠などなんの名誉だとも感じられないから)。なぜそうなるかいえば、人類の明るい本性は進歩を停滞より望むからだ。明るい自由か暗い支配か、茨城のひとはどちらを望むのだろうか。

2011年3月6日

団塊のゴミすて風習と無教育度

北茨城にかぎった現象ではないだろうが、団塊と団塊jr.世代は不良品世代だと言っていい。この町で限定していえば、道端へゴミを捨てるわ店舗で買い物へ来た客へ店員がガンとばすわ自分から学問する気はないわ本当にろくでもない。あげくには無駄遣いしまくる。しかも最悪なのは、税金を。哀しいくらいに出来のわるい世代だ。

学校内でも暴力を振るうわ法律の知識もないわ、行政府にありながら逮捕されるわケチだわ低俗だわ下品だわ評判がいいということはない。勘違いした外人が経済成長でハンガンの奇跡だか韓国人と類似だと感じるのも無理はない。

さらに我々が迷惑なのはかれら不良品世代とおなじ時代に生きていくしかないというところ。やつらが死ぬのは先が長い道程で、しかもjr.世代は社会を牛耳る気満々で団塊へすりよっていく。

 これらの悪条件にもかかわらず、やはり文明は進んでいく。川へ道へゴミすてまくってマルトで客へ喧嘩うっているやつらもその子世代も、「不良債権」としては厳密に処理されていく。ただならぬ国債を発行し赤字行政をつづけ町をコンクリートづめで荒廃させ無益きわまる土建道路で自然破壊しまくり金と権勢を独り占めし若者を道理なく虐めつづけていたやつら出来損ないも、巨視すれば「大衆化時代の俗物」という以外に評価されようがないだろう。
経験上もたしかだと思うが、団塊と団塊jr.世代は救い様がない。
 仮説だが歴史の一般則として内的増加率に従って生きてきた世代はできがわるい、といえそうだ。それはとるにたらぬ亜種も生存できる条件だったからなんだろう。

団塊と団塊jr.世代は口をひらけば金金で少しも尊敬できないし、社会の進化に着いてこれず、そればかりか足をひっぱりこむ迷惑行為しかできない。本当の話、芸術施設などわざわざ行政が支出する意味はない。おフランスか。
芸術など所詮お遊びでしかなく、装飾の効果しかもたないのだから勝手に好きなやつらへやらせておけばいいだけの話。そんなもんに金金とかいいつつも大金を投じる。まこと馬鹿げている。

 自分がおもうのは、もっと若い世代へかれらのまねだけはさせたくないということだ。かれらをまねればすべてはより悪くなった。
こないだ議会の場へわざわざ少年少女をよびこんでろくでもない討議をさせていたが、あれもやはり悪影響だけだろう。そもそも議会は公益に関心のある市民がやればいいのであり、「監視」の意味をこえて市場の足をひっぱる生業へ生徒をよびいれるなどヤクザとしても最低の部類にはいる。
 そうではなく、少年少女はかれらヤクザを反面教師に、勉学と発明発見の重要性、そしてそれらを社会へ展開させる一連の手際だけみていたほうがよほどいい。全員協議会とかで自由な討論を不可能にしているヤクザの集会によびこむとは。まこと団塊世代の思考能力は蚤ほどのレベルだ。
あれだけ川や道端へゴミをぽいすてしてなにも感じない。ヤクザにも下限がある。なぜゴミをゴミ箱に入れられないのか? 人間ですらない。それはしつけされてない猿の行いだ。大事なお客様をガンつけてきたあのマルトの店員というか裏手にいた作業員のオッサンは、いま僕の書いたことを理解するだろうか? きっとしないだろう。客がみせに利益をもたらすのもわからないからお客様へああいう態度をとれるのだ。無法しかるべし。

教育がなにより優先。まちがっても芸術施設など遊びの場所をつくってはいけない。やつらの増長をゆるすだけで市民がますます後退していく。市民の税でつくらせた運動場すら締め切るヤクザが支配した極悪の市政なのだからなにをしてもおかしくはないが、それにしても川や道端へのゴミすて加減はひどい。知能がないにしてもゴミを道端にすててなにが楽しいんだろう、野蛮民は。

2011年3月5日

シンプルな意見

中郷になんかつくりたいという今の市長の先がよめない血統はわかるが、一市民というか市鳥としておもうのはさっさと大学つくってほしい。

この市民の弱点は知的水準が低いということだ。今更アイパッドはつかえないとか言っている。そういう問題ならパピルスや石版をつかってるかとおもいきや普通に紙の本をおさめた図書館なんかもある。なにがしたいのだろうか。
こういうこと書くと反論が「お前の知的水準が低いんだろ」とか小学生の成績わるい方の同級生みたいな市民性なのである。だから、さっさと大学つくってほしい。
それもどうでもいい娯楽にすぎない芸術関係の遊びのやつじゃなく、本気で全世界の科学をリードするたぐいの。芸術なんかすきなやつがやればいいだけだ。奨励してもちゃらちゃらしたやつがふえるばかり、なにもいいことはない。

 残念ながら古くから住んできた人にはさとられている様に、自分の記録がまちがいでなければ、今の市長のお父上かご先祖はあのさっさとぶっこわしちゃった青少年の家を計画なさったまったくもって先のよめなかった人だった。その血統があることは否めない。一代でぶっこわして平気でつぎの箱物計画もないもんだ。何百年もつかいこんだ風格ある伝統的建造物だらけイギリスのケンブリッジやオックスフォードの大学街でも見学してきたらあまりの恥ずかしさに関南へひっこむかもしれない。

いまの市長でいくとしても、最大の長期計画力のある人物を行政外部にご意見番として常駐させたほうがいい。いまの副市長は強い意見を言うほうではないっぽいので秘書がわりにつかわれてるだけで、実質のある働きしてるとは見えない。
 箱物と土建思想であたまの固まった団塊まっさかりの行政人はまこと放置すると社会環境を悪化させてくるだけでなにもいいことはしない。極論みたいだが、いまの社会状況をみればこれは真実です。末路はあのコンクリ詰めの東京だ。磯原にかぎって言っても、この2、30年は違法パチンコ屋が豪華になり遊んでた空き地が駐車場になっただけでなにも文化の進歩はなかった。
コンクリ埋めの金儲け都市などだれも住みたいとはおもわない。鴎はいうまでもない。それならぜんぶ磯の原っぱにしろ。そのほうがよほど綺麗だし。

「推定無罪の原則」を守れ、茨城新聞社員

ただの団塊かそのjr.オッサンが書いてるから仕方ないんだろうけど、茨城新聞も大手全国紙とおなじで頭が堅すぎる。答えがすでにある問題をわざわざ暗記させ解かせる意味はない。科挙なのだ。

官僚になるために時の無駄遣いの仕方を学ぶためにはあれらの受験奴隷界は意味あるだろうけど、それを除けばない。

 時々、日本人でノーベル賞とった途端受験勉強肯定論いいだす馬鹿がいるけど、もしその時間をより生産的かつ独創的な学習につかえれば10倍高い成果をあげられたのだから矛盾している。これだから一流な知的発見の総量がオランダ級なのだ。できのわるすぎる倭人連中。

とかく、江戸メディア系の一丸は衆愚化にしか至らないので100%危険だ。やつらが一斉におなじことを言っていたら100%まちがってると思ったほうがいい。本当。ホリエモンも灰色なことやったが、あのヤクザ連中に潰された。だがヤクザに関われば自分もヤクザにおちぶれるだけだ。
飽くまで報道は自律した視点から最大限に客観性のある真実を記述していればいい。カンニングという行為は万が一あのまま、阿呆な大学のあたまかたまった使えない老人どもせいで軽犯罪あつかいされるにしても非常に軽度すぎる笑える程度のものであり、明治でいえば漱石もカンニングで東大入ってたわけなので、いまの既得権オッサン偽善者どもは最悪の性格なのがまちがいない。

繰り返すが、辞書や計算機、ウィキペディアや文献上に答えのある問題をわざわざ暗記させ解かせる意味はまったくない。科挙の悪風なのだ。
無駄な労力で若い民衆を精魂使い果たさせ、野に遺賢なしとかほざきたいばっかりの、知慮の独裁をめざす悪意しかその根拠はない。そして実際に悪業をつづけた伝統の中華政権はみな滅亡している。*1

先のある若者へ総打っ叩きは何一つ徳はなく、みずからの希少な人材を涸らすだけだ。普通に道交法違反な暴走ヤンキーや各種の猥褻物犯罪(制作及び販売)、そして風営法に抵触する悪業を先に潰せ(というか、あんなもの何一つ認めるな。民衆に得はゼロ、救えない賎民が殖えるばかりでなにも意味はない、亜細亜の悪風なのだ)。この市でいえば普通に換金してる違法パチンコ店、および風営法の抜け道にすぎない整体屋、そして平気で漫画やDVDで猥褻物販売して利益を占めているコンビニと本屋とワンダーグーだ。どれも違法犯罪を日常に行っているのだから貴様等ろくでなしの団塊と団塊jr.うまれついての不良さがつくりだしてきた悪業でしかない。まだあった。あの駅前の風営法で届け出してるわけがない(田舎には法律上たてられない)さびれスナックだ。
おのれは違法を堂々と見逃しにしつつ、疑いを被った状態にすぎないあたまのいい貴重な一青年をメディアスクラムで虐めるな、糞茨城新聞の悪人めが。

ーーー
*1  つけくわえれば、科学というかscience(「知る」という意味)の本質は、自然界の比例を数式や法則などカンタンなかたちにまとめ、ほかの人にもつかいやすくしおくことだけだ。「論拠」は暗記すべきものではなく、それを検証しなおしてより精確なものへかきかえるためにある。
既存の文献にあることを信じ込むのは科学者の態度ではない。それは二流以下の、おおくのばあいは素人をとおりこして丸で無学な者の態度でしかない。学校でやっているすべての課程は、これをおしえるためだけにある。この働きさえわかればいちいち誰かに教えられなくても自分から進んでいけるはずだ。そして研究生活はそういう孤独な独創の連続なのだ。もちろん、既存の文献との対話とか、おなじ目的や興味、似た分野やらさまざまな研究の人たちとの社交や会話の機会があるばあいもあるが、多くの「天才」の部類になるとほとんどこんな手間に時間をとっていない。彼らはただ静かに自然現象と数式とを往復してすごしていたのだ。
 そしてそういう人らの判ったことを、いま我々は追認している。その先に進むのが文明の進展ということだ。科学をするに、受験勉強は「特定の学際環境」への希望入学者を仕方なしにふりおとす便宜として興ってきた風習だが、本質ではない。そして上述の様おおくのばあいは手段としても必要条件ではなく、中華官僚をつくりあげる科挙の風習とまざった不純なものだ。『学問のすすめ』でつけられた実学イデオロギーを信じ込んでいる者らの風の俗:ならわし というはなしにおさまる。それがアメリカなど実用主義な諸国ではいまだに通っているが、中世のスコラ哲学の衰退をみても、科学の本質をうがってるわけではないから永遠につづく風習ではないだろう。

2011年3月4日

New tastement for North Rose Castle

It's the my meaning of English, all people on Japan does thier belonging. & I disagree it.
I can't say Queens English, but I may use Syoguns it. If you know that all my 'Engrishes' are nonverbal, you'll see cultivation for globalism.

Why people don't use it on their usual famility days, on their zone of globalism phenomenon? Is it some customs, for China born.
In far East, everyone haven't necessity using Kanji. But you should learn our chances of Kanji. Both of learning or ignoring are an imperfect.

To do, is the words changes. New using customs for learn more their nobility.

On North Rose Castle, people must use & make Kitaibarakish. Isn't it? Or something.
For example, 's' may not be their nowly mode. If you want to say 'He' or 'She', you must not fix 's' after your native verbal words. Because it is a NRC words using mobile, or some Kitaibarakishes.

Always Japanese want to make perfect answer. But perfection aren't thiers, there are going on God words.
Really you know, this world is full of the mimicries, falses, truthes, or imperfection.
Kakuzoo Okakura said that is 'imperfection is to the eternal beauty.' I saw his few works to understand. So in NRC, you ought to do new words for our beautiful imperfection.
It will be good recreations. Or something.

教育予算の工夫論

教育関係予算へつぎこむ工夫だが、おそらく基本的に最善なのは「放送大学」を、さらには国内放送のそれだけでなく現状で先進国系のそれをできるだけ安く受信できる契約を結ぶこと、で水戸から県内へ無償配信することだろう。
いまの国内のにかぎっては無料放送だから水戸の電波塔が中継ぎするだけでよく5分でできる。5分か5時間かそのあたり。

 あと、どうしても官僚趣味に傾く御県知事の御経歴から申して、教育の改良はもう海外委託したらいい。日本人など教育大国だったのは遥か昔というか20年前くらいでしかもあれはただの受験大国でしかなかった。つまり駄目教育なのだ。まじで。
結論からいえばイギリスの名門校(いわゆるラグビー校、オックスブリッジ)、あとアメリカの技術校(MITやIITをはじめ、ハーバードとかコロンビアとか)へ選抜教育委員を派遣し、かれらのまねを徹底し、うけた貴重なるアドバイスへ全面的に倣うべき。今のところ出来のいい優等生達からなにもかもをまなびとるしかない。
途上国群の必死さをみれば、中堅学力に平気で安住とかしてるとあっという間に不良グループへおちこみかねない。つまりは先進国内では学業の劣等生である日本人に学ぶことは殆どない。もしあるとすれば秋田の小中学生が置かれた物静かな環境と先生へ提出する作文ノートくらい。

御横浜育ちの矢野新一さんが天からふったあぶく銭金と豪華超高層ビルの群れを余しながら、この素朴なる梅の香に足るを知る質実藩へ「見栄っ張り」とか「成金趣味で自己主張」とほざく世知がらすぎるどころか最悪凡俗現世では、かねを使うより工夫する、もっぱら工夫しまくるという点が重大。しかも非常に。
単につかうだけではやつら本物の成金(明治以前は原野だったさがみの馬の骨)となんらかわりないし、江戸マスゴミのメディアスクラムにイバクーのときみたくまんま遭いかねない。西日本からやってきたなにもしらん御国税収で喰らわせられておられる前原大臣どのが御全国放送で軽く冷笑しながらね。
 ま、山形県とかわらん予算規模しかないというのを十分認識したほうがいい。外からどうみえてようと、合理的効率を追求するのみ。
あと旧県庁舎は、リノベーションすれば全然つかえるし、むしろ質実剛健の気概が感じられる明治っぽく佳い建物なので耐震補強で使いつづけるべし。あのヤバイ風格は質実藩でしかでない。薄暗く狭い地下通路ではパイプが普通にじか露出してたり中庭での寛ぎは完全無視とか。

こないだあのど阿呆都知事が一瞬で見栄を張るためだけに無駄遣いした400億の、3分の1程度しか全財産のない大々財政市民としては、水戸辺りにすら浪費されたら救われようがない。その危険度は薄々感じられるとして。
でそうなったらきっとわずかにこの市より財政規模のすくない高萩市長が県知事へ必ずしも伊達に辞表を帯刀せず、にこやかに嘆願してくれるはず。頼むから優等生からまなんでくださいと。浪費万歳の上級官僚趣味はどうか勘弁してくださいと。ま、後者は言わん(言えない)だろうけど。もちろん、これらはカモメ語でこそ書けるはなしだ。

2011年3月3日

ホーリーホック財源案

ホーリーホックが財源面で不安というのは、「葵宝くじ」を毎年か毎シーズンごと発売してそれを元手に殖やしていけばいい。
応援へのいざないとして、totoとは別に、毎回試合でも籤を販売し、勝利を収めたチームへかけていたらグッズをあげるとか選手と握手できるとかそういうものを加えるとわりと人気出るのでは。

宝くじは個々人の負担は少ないが、胴元には非常に効率の高い事業なのでやった方がいい。フーリガン発生への煽りとかにつながりかねないけど、いわゆるカジノ構想やら江戸系の他の娯楽よりも多分、文明度にとっては上等なのでは。選手育成や体力維持へ還元されるから。倭人系統に生来のなよなよしさから言っても、民の俗:ならわし としてスポーツくじはむしろ奨励されたほうがいい。

ある偏見の話

矢野新一という株式会社ナンバーワン戦略研究所所長なる肩書をもつ人物が監修した、プレジデントという雑誌別冊の県民性うんぬんという本に書いてあるが(この雑誌はいつもほぼろくでもない江戸偏見をうえつけまくってるのでいずれは廃刊するのがまちがいない)、茨城の項目に「見栄っ張り」という揶揄が入ったのはこの本が最初だろう。

ほかの統計で厳密に実証されない偏見調査では茨城は無名NO.1とかいうのもあったので、この二つは東京偏見のそのままをうつしているといえる。東京には芸能人が腐るほどいるが、彼らより目立ちたがる者は国内では許しておけない。

前のご当地ブランド魅力度調査でもいえるが、民間の研究所は政府よりも客観性のある意見をいう傾向があると仮定して、この雑誌でもわかる様、出版する社や監修者の主観や利己心をうつしこむのがどうやら殆どだ。
確証バイアスもあって、いちど何らかの偏見がうけつけられると逆メディア計略で批判されないかぎり半永久にその情報だけが意図的に収集されていく傾向が、衆愚にはある。それは理性が薄いという民衆政のあしき点で、扇動によわいということ。

この点で東京偏見はおおくのばあい、悪い。というか極悪。9割のマスメディアを資本ごと握っているので独裁の意図があきらかに入っている。

 少し反省すればわかるが、水戸藩など大昔から涙が出るほど質実剛健の気質そのものなのだ。自分がその地域にくらしてきたのだから疑いようもない。たとえば『武家の女性』という幕末の本を参考資料にあげてもいい。他にも浮華とは縁遠い文化だった証拠は、たとえば特産がほしいもと吉原殿中と磯原饅頭なのからもはっきりしている。くえばわからー。

この点で、横浜旧市街地育ちの江戸産まれ某土民は相応に報いがあるとおもう。世間を誤解させること、まこと甚だしい。
アマゾンのレヴューにも冷静な意見はないことはないが、自分の経験上も歴史の事実上もいうが、水戸の風を誤解させるのは末恐ろしい話である。むしろこの矢野新一さんを同情しないではない。水戸は、残念ながら「本物」なのだ。僕がよくみくらべてきたのだから間違いない真実でござる。

横浜ランドマークタワーからさがみにボンボン建った成金世間を睥睨し、ゴキブリハウスだらけの東京スカイツリーから天下は我が物とみくだし、小春日和に梅の花さく水戸弘道館を「見栄っ張り」「成金趣味で自己主張」とほざく。いやはや、末おそろしい。
だが人生の真実というのは記録されるものだから、必ずかれらには悲惨な末路が訪れるに違いない。とりあえずこの人物の行いについてはおしえておく。ナンバーワン戦略どころか東京偏見戦略または勘違い戦略の研究所でござる。

2011年3月2日

常磐線のながめ

常磐線はとても長い車両編成のときがあり、しかし車内へは車掌室への連絡の装置(たとえばエレベーター内とかについてる緊急電話みたいなやつ)がない。
 それは設計でかえられる点なので、できるだけ近い将来に改良すべきではないだろうか。

最近は県南圏での乗車率があがってきたからか、昔のボックス席つき車両があまりない。水戸以北ではそのほうが景色もみられて、落ち着けるからいい(とある人は少なからずおもってるはずな)のだけど。

 それと、こないだ夜9時にたまたま日立駅にいたら、三人の軽薄な服装をした若い女がぎゃーぎゃーダッシュして土浦行きの電車へ向かってたみたいだったが、ひとは見かけによらないとして、あいつらはどこへ行ったのだろう? 帰って寝ろ。

より高い道徳状態からは社会での法的とりしまりの必要性が削減できる(いわゆる徳治政が訪れる)ので、科学が決定的に進むのはそういう場合だけ。
『文明の進歩には徳治場が前提』。
法違反者らとかいう最低の連中に構わねばならないときおちついて勉強などしてられるはずがない。学校内をおもいかえしてみればわかることだろうけど、社会の時空間としても同じだ。
 乱れた風紀は亜熱帯に住んでいた人種が死亡率の高さからうみだした苦肉の策(つまり免疫力のたかい雄への傾斜配分の理)だったのだろうが、現代文明では公害でしかない。より文明化の進んだ世界では、いかなる過剰接客業も極悪犯罪でしかないに違いない。

東京にのまれてはいけない。統計をとってみればわかるが、東京都のエイズ罹患率などは異常な値であり、風紀が日本で最も乱れた場所だからそっちに染まると社会そのものが救いようがなく荒廃してしまうだろう。とかく現況でいっても水戸へ着くべきだ。話はそれから始まる。

県史の教育

東京偏見は殆ど最悪のいざないを伴うから「みなかったことにする」上で(そのほうがよい結果になるのがまちがいない)、最近はやりだしていた県民性の話題からいって、茨城県では県史を全ての義務教育課程で必修教科にしたらどうだろう? そんで高齢者や成人向けへはNHK水戸か県放で毎週定例の県史をたどる番組を流す。

そのほうが全ての面で、道徳教育とやら(そもそも道徳は教育できず、既存の理説を批判すなわち手比べてみて判るだけだろう)よりもいい結果がでると思う。敵を知り我をしれば云々ってやつだ。

 というのは、なぜ他県の文化からみると茨城が怒りっぽくみえるかいえば、その高い学資(つまり水戸学の高見)にくらべて説明するための方式が欠けているので「なぜ相手(茨城の人)がそう考えているのかわからない」という状態が、たえずやり取りのなかに入り込むからだろう。
要するに、誤解を招きまくってしまうという傾向がある。これは藩士以外へは弘道館での直接的教育がおよばなかった儒学の弊へ因果がある。民に由らしむべしというやつだ。

こういってはなんだが、天狗党の存在も根本的にはこの行政情報の非対称さがつくりだした可能性がある。他の学者の分析を待つ。

 ある面でこの『茨城らしさ』は理解の非対称さとして有利な点ではあるが、少なくとも県でそだった民については充分な真意を理解させたほうが徳があるのではないか。様々な民間のはなしをみてると、そもそも茨城を尊重しておらず、東京偏見にまんま毒され県の民やその達を不必要に卑下している層も少なからずいるっぽい。
マスコミは完全につかえない。江戸ニュースのキャスターとかほぼ100%最低なので、やつらに洗脳された他県や他国のひとというのは救いがたいし、いずれは報いがある。自分は東京やその人々の性質を知って、なおいうのだ。ただネットはもうかれらの支配から相当外れているので、東京ジャイアニズムという概念みたく内情はばれているらしいけど。

東京には江戸時代からいわば世間のはきだめさがあるので、東京偏見にしたがうかぎり俗化はまぬがれない。また非都心にとり最も不利な条件は、マスメディアを東京の企業が寡占していることだ。しかしネットの媒体については先がある。だからこの媒体進化の機会に、県民へは真意を教えておいた方がいい。

世界史か日本史は高校で必修なので、県史を独自におしえておく方が総合してみて茨城県出身者を「高度な人材」へとみちびくのが確かだと思う。特に県南部ではそうだ。
かれらへは水戸藩のもっている格式が充分に浸透していない。土浦の位置づけもその点で微妙なのだから。

 僕が見通すところでいえば、東京偏見に従わせるより水戸格式に従わせるほうが土浦周辺の人間をより上等な人達にする。

僕が以前、ひたちのうしくという駅でおりたときその駅員の態度はいわゆる黄犬(卑屈なまでに上下関係へ隷従する達)のものだったが、現実の水戸以北はどちらかといえば正義感や道理の方、要は「理屈」をその種の場当たりな政治世界より優先させる土壌をもっている。全ての上下関係はそのなかではじめて成り立っている傾向がある。
そして自分の判定が正しければ、政治世界へ下手にまきこまれるより、道理に遵っているほうがより幸福なのだ。というのも、高尚なる道理というものはまず政治的安寧が確立された上ではじめて育つ心象だからだ。その先にある単なる知性へ進むには政治闘争ともういい加減係わり合いにならないほうが得策だ。
勿論、支配趣味的な個性やその自由は認めた上でいうのだが。

茨城県の名称に顕れる様、倭の政治界と係わり合いになりたくないのがこの地域の本音だと思う。そして佐竹氏の心理もおそらくここにあったし、同じく義公の先見の明も多分にそこにあった。
関東最古来の重鎮として権現様のおわす栃木と連携し、東洋文明の基礎固めをまだ着実にしている方がいい。その為にはそもそも先史時代から倭民族の侵略があった頃、そして慶喜公の恭順までなぜ我々が現代こうあるかを教えておくほうがいい。
 実際の東京都をしっている人間ならこの意見にみるべき理由があると思うだろうけど。つねなる江戸の俗にそまらず、東京と決定的にすみわけるべきだ。そうすることでむしろネットの浸透からちかぢか多数派へなってくる、東京偏見を脱却した人々から尊敬され、信用される。実際、そのほうが日本であれ世界であれよくなると自分はみる。
こないだアドマチックとかいうあの趣ない毎度つまらん番組で水戸徳川家の殿下がご高説なさっていたが、やはり東京にならうより水戸の風にならうほうがよい結果に至る。それはいくら東京のマスメディアが洗脳してもいずれは誰もわかるものだから、我々としては地道に、冷静に漸進していればいい。県民showより県史教育をしたほうが、他県民や他国民と対峙しても堂々と適切につきあえる。