2011年2月23日

蛮民観光ツアーの提案

またヤンキーが暴走ごっこをしていたが、普通に道路交通法違反なのだから派出所から巡査が逮捕しにいかないのはおかしい。こっちはそのために税金払ってるのだし、消費税すらかれらの給与の一部分ゆえどのちいさな子供さえ環境のため払っている。

 ああいう無謀な人は世界旅行に出すとか(勿論いい結果になる確率は低いかもだが)、又はストリートライブ辺りでつまらんくだらん歌でもうたわせるとか(勿論こっちはこっちで迷惑だが)、何かしら世の中の為になる文化へと才能を活かせればいいのだが。

最もいいのは市の「観光ツアー」であの珍獣目撃(防弾ガラスつきのバンから観る)のコースを入れることではないか? 珍走団鑑賞ツアー。たぶん人気出ると思う。都心の人には本当に珍しい光景だ。
��000円くらいにすれば相当くるのがまちがいない。
磯原駅前から出発、豊田町辺の奴ら野蛮民の住居蹟(たまに出現する可能性がある)をまわって帰ってくる。一時間くらいのツアーだけど。鎌倉でいう流鏑馬とおなじ効き目がある。冗談だが。まあ朝日新聞記者のいわき女ツアーよりはよっぽどいい。朝日新聞記者は社会へ土下座しろ。

2011年2月21日

県内大学の改組論

県内の大学進学以降の過程での発明発見を誘発するに、国立大系の文理別の体制をつくりなおし共通試験での総得点のみをとえばどの分野課程へも自在に進学できる様にし、しかも年に数回以上試験を行い、その内のいちどでも必要得点以上をとれれば合格あつかいにするといい。

いまの国立大ってか旧帝大中心の受験システムは、戦後の型にはまったあまり使えない官僚をつくりあげるには向いている‘完全な科挙最適’だが、これは官僚主義の推進にしかつかえないといい加減さとるといい。そしてここにかかってる機会費用こそ次世代産業への資本転換が停滞する最悪の元凶。
米英での、特に米での発明、英での発見の多さはより柔軟で多岐な進路がとおる社会の教育組織に因果がある。
英のケンブリッジとオックスフォードさえ自由に生徒がえらべる(つまり得意な)二三教科の試験しかないらしく、しかも多くの学生が入学前に一年間の休みをとる。これはいわゆる受験疲れからくる学生放蕩の発生をさけさせていて、大陸旅行が慣習だった時代からつづいているらしく、広く社会奉仕や観察をさせる見聞旅の過程で一般世間を眺めさせ、リフレッシュした頭で勉学にふたたび励むためのもの。*1
新卒至上主義な新品人材はこづめ生産過程への盲信では永遠にでてこれない習慣で、ノーベル賞級で大騒ぎする大馬鹿民族どもは猛省すべきである。鴎いわくね。というか鴎はしゃべりませんが。

なぜ東大から決定的発明発見がでないかをみれば、そこが官僚主義システムへの最適化組織だからで、実際につかえない石頭も非常に輩出してるのでこれは明らか。といっても東大さまさまだからばれてはないみたいだが、
天下りをしてなんとも感じないのは馬鹿のほか形容がない。まあそれがいいすぎなら、科挙野郎といえる。フランスか中国か。

東大生が受験馬鹿か受験天才のあつまりゆえ広い視野や包括的総合判断力をみにつける機会が少ないとの指摘はかなり昔からあるが、これは科挙にならった官僚育成システムがそうさせている。茨城県がまねする理由は特にない。
まねしたいひとをとめる権利もないが、官僚育成が至上命題なら専用の科挙大学でも県政自身でつくれば如何が?
それとももうあるのでしょうか? まこと旧帝大様様でござります。ふざけているのではない。

平和主義のもとでは科学技術面での進展が決定打となる。よって文理の別を即刻撤廃し、進路の多岐と試験制度への古風な固定観念、つまり年末一括で行う科挙な方式を改めるべき。学制や教育委員会とかがやらねば自分で。その流れを率先つくるべし。

で、学生であれ外部生、飛び級趣味者、社会人、無職や主婦であれ試験の機会を簡単な費用さえ払えば何度でもうけられる私営的な体制へかえる。
��もし体制が先にうごかねばわれこそは、って先鋭が別個にテスト機関とか生徒や先生、塾講師協会からのクラブをつくってでも流れをつければ次第におおむね組織がわもそうせざるをせなくなるはず。どちらにせよ営利団体らにすぎないので。)
 今のところはセンター試験しか特にないみたいだから仕方ないが、いずれは私立で多様な傾向をもつ試験機関を県内進学可能な公認試験機関へ一定条件で格上げさせ、それらの型にはまらない学資から、より多彩な知的才能をいかせる県の世界へつくりこまねばならない。

順位制度に似た特定の学識階層の固定化はなによりさけるべきで、なぜならそうなるといわゆる儒教階級の罠にはまってかれらの自己神格化がはじまり、学歴社会の暗面はびこり東大中心なアカデミズム政争に、茨城県内の大学ら教育組織さえまきこまれ、で関東一円の停滞にいたるだろう。すでにその序曲はあるのだろうけど。
この真逆に進めば大いなる栄えの発展が導かれるわけ。

とかくあの受験緊張感はのどもとすぎれば系だが、若い精神には無駄な緊張であり、まだ先がある学習過程でのストレスはまったく無益すぎる。そのつかれる分の神経を、より多元な教養と異分野学習へつかえれば皆どれだけ賢いかわからぬ。
自己目的な受験勉強というのは無益か最低でも愚劣な科挙風習であり*2、本質なのは「より高度な発明発見への基礎をつける」ことだ。官僚は受験した段階又は修学の証拠を自らの箔づけに利用してるにすぎず、本末転倒なのである。
ゆえに試験される範囲の学資がこの基礎と合致か調和するばあいにかぎって、受験会社も市民はつかえばいい。
 もし官僚世界に一生で一度もかかわらない人間なら、まったく受験など行わない方がいい。そしてビルゲイツをこえる起業家に先陣きってなればいい。ならなくてもいいけども。しかしそれには決定的な技術革新をみちびくたしかな知慮がいる。だから勉学はいつも重要。単に自主自由な意欲からの勉学が。

ーーー
*1 尤も、アダムスミスの様な否定論者もいる。たしか国富論の中にあった。曰く大陸で遊んできて悪い習俗をみにつけるだけだと。まあアダムスミスは東北人みたいなものなのでそれも一理ある。石川啄木とか太宰治みたいのみてれば、超田舎者はいきなり大都会へ出してはいけないのだろう。故に「信頼できる家庭教師同伴」かなんかを勧めてたかないか。実際、浪漫主義時代の理想論な教育書として有名な『エミール』でもそうしてた。だから一律に勧められるものではなく、ある程度しっかりした子供へしかその大陸見聞みたいな息抜きの旅行はおこなわせてはいけなく、道徳心がよわそうな子は自宅住まいの近場に置いて、少し旅行にいく位にしておいた方がいい。
しかし学習意欲の維持にリフレッシュ効果が詰め込み効果より大きいのは、北欧の学校、小学校から中学校の間かに補修年度をもうけていることでもわかる。今の日本の学校システムはストレートを尊びすぎているのはまちがいない。

*2 最高にみつもっても共通知識をたしかめる手段にすぎず、才能とみても暗記を主としている間は学術進展の為に害しかない。もし教科書やネットを道具として試験問題を解かせるとしても、一回にかぎって時間制限をもうける意味がないし、あるとすれば暗記家畜つまり悪い意味で官僚をつくることだけだ。
それなら官僚専用の課程をつくればよく、柔軟で独創な洞察をまえおきとする科学や技術への基礎づけには害しかない。「官僚育成課程と学者育成課程は分けられねばならない」。

県内学校での道徳指導の過ち

単一理説の吹込みが政治行動の偏りと極端化につながるという一般政治史の真相をかんがみれば、哲学部はつくるべきではない。それは各人の思想に留め、実証で確認しきれない個々の立法権利者たる倫理判断の問題、つまり立法会議へのわたくし民からの批評の能力とされねばならない。

たとえばミルが助言した売春禁止法への意見(⇒売春の自由は存在しない。なぜなら男性の不品行が原因ならそれ自体が公共の福祉と矛盾している、という忠告)みたいに。それこそ哲学ということ、個人の思想の自由の正当な行使となる。

哲学は批判的、つまり実証される知識同士をくらべて判るためのものだから一律に教えこむことはできない。西周による‘学’つきの訳語はあたかも勘違いさせやすいがphilo?sophyは極論すれば自由な習慣、あるいは単に「智恵」の意味しかない。智恵はゆたかな判断をできる物わかりよいひとへの称号なので、教え込みえない。
理性はいつも自由でなければならない、と鴎が言ったとかいわないとか。勿論ジョナサンではない。

市場干渉をできるだけは否む寛容経済のもとで行政の実行問題は、選出した行政人とその部下にまかせておかねばならない。職業的な専用の哲学者はどうしても特定イデオロギーをもつ政党により御用化しやすく、大学の中では権威づけられやすいので危険なのである。
 同じく、いまの県政が県知事号令?で道徳の授業とか一斉に平気でやってるのはやばい。

再びミルがいう様、「過去の思想の事実」にかぎって、誰がなにを考えていたか、いまはそれへどう考えてられいるかという「文献上の事実」のみを教えるのが賢明だ。それなら特定の理説への狂信、つまり単一宗教を県政偏見からうえつけられる可能性、偏見を伴う理説の解釈学化を回避できる。
というかこの回避のさがをどれも実証できない虚偽を含む暫定理説間の比較検討の習慣でみにつけられる。

過去の思想からより優先しておしえられるものの選択権利は、むしろ政府に関わりある教育委員会の外部に置かれたほうがいい。でないとかたよってしまいかねないのだし、ハイデガーとナチズムの正当化講義だけされても内からは文句いえないっぽく、まことにいまの体制化はやばい。
やはり学校では実証科学しか教えないほうがいい。地球内の人類へは自然知識は域内で似た法則性をともなってほぼ共通の智恵となるから。

2011年2月20日

理説と政治

これまでの人類史を省みると、特定の理説かイデオロギーをもたずにやってきた政治集団が戦争に勝つ確率が高かった。理説なしでは国がなりたたないのかもだが、理説が一つへ結晶してきた時は複数の理説が錯綜している時よりも結果が悪くなっている。

殆ど歴史学のはなしだが、この「単一理説悪因説」は知恵としてもっててもいい。その罠におちいった場合、集団が多様な意見や衆議の中からよりよい選択をとるという臨機さad hucさがきえているはず。
慶喜公の例をひくと、臨機さがあれば最悪の事態を避けることができる。それが熱い人の間で全然評価されてないどころか小ばかにすらされてるのが冷笑もの。ウィキペディアよめばわかる。で、もし攻勢にあたってはより合理的な選択をとれるだろう。

この市政のいまの問題は、いわゆる集団浅慮かgroup thinkの罠に平気でおちいってる愚民さにある。注意はくりかえしたにも関わらず自浄努力で、あの全員協議会なる実質な市長独裁のうら手順は回避できていない。この全員というところがいつもいつもくせものなのだ。一丸とは鰯の癖であり最弱ということ。
一部が崩されたらおわりな全体最適化をしているから、合理的選択をたえざる議会での質疑応答から柔軟にえらびなおすことができず、別にえらばれてるのでトップダウン式にいつきやすい市長のまちがった独断であれ、そのまま実行されてしまうのである。言うまでもないが迷惑をこうむるのは市民自身。
誰であれ、一市長の面子など市民らの合理性よりはまったくどうでもいい瑣事細事にすぎない。それは公事ではなく私事に属するのだから。日記に悔しいとかあっぱれとか書けばいい。もし市長がかわれば何もなかったことになる一時の感情、苟も自己反省なき子供じみた正当化にすぎない。ときに埋没費用こみの。
大人の市長なら、まちがった時には素直にその道筋を修正し、まちがいを説明すれば済む。それだけで全てがよくなる。全能人などいない。大体、市税をもらい市の為に働く義務があるわけで、まちがったら修正しないのは単なる迷惑行為である。勿論、市がまだ致命的な誤りをしていない前提でいうが。

最近みてたところでは割と無益くさいふれあいセンターの豪華観覧席への4000万だかの出費と、光ファイバー回線を総務省の一進一退の動向を十分まてずに2億近くつかって急いで全体配置させてしまったという二カ所の、財政不合理があった。説明責任か言い分をきいてもない。なぜ使うかの理由が、情報隔離の脱却程度や映画文化の振興とかいう有り体のたてまえしかない。これを修正させなかったのは市議会の機能が十分でないからだ。事細かにといつめ、矛盾があれば罷免権を手にやめさせるべきなのだ。

 極論すると議員以外が市議会で質疑できる、「外部質疑制度」がもうけられるといい。勿論十二分に時間を割いて、市議会の場で。
さもなくば牛耳られた市議会本番で面前と市長の理説を批判なり脱構築できるのは相当の度胸で党派ぎらいの狷介人だけだろう。勿論そういう人が必要なのだが。

 最初の学説にもどるが、「理説はあとづけ」でいい。これが人類史の奇妙な真実だ。だから勝って勝って勝ちまくることが全ての前置きにある。それさえも行えない人種は滅ぶのだ。その後に、生き残りの正当化のためにこそ理説が唱えられるのだし、そういうときしか政治は本質で成功しない。

2011年2月19日

行政エラーの省略方法

それ自体を狂信すべきではないだろうが、山口県萩市の動向を注視しておくのは有効だ。飛耳長目という松蔭スローガンにも表れてるが必ずスパイ行為を働いているかれらは、中央を出し抜くことにかけては特化されている。
この出し抜く習癖は必ずしも尊敬されるものではないし、実際に文化素の突然変異としては遅かれ早かれ国内除去される可能性が高いが、なお利用するという観点からみれば大変使える。

かれらはワイファイスポットの時もそうだったが、今度も長州ファイブとかつってイギリスへの密偵か諜報留学をもう一度子供にまねさせようとしている。中央政権への裏切りについて反省の色などまったくない。逆にほぼ全員とかが誇っているわけで、おもな我々とは心情は真逆である。
要するに全然協調性がない人達で、その使えなさは勝手者の代名詞な伊達仙台を上回る。しかし逆に「水先案内」とするには恰好の題材となるだろう。

植民地開拓時代にスペインとポルトガルがどんな働きをしたかをしっていれば、薩長という日本の奇種がどういう使用に類するかも明らかで、それを利用しない手はない。つねに中央を裏切る(すこしも従う気がない)のでみていればなにが失敗でなにが成功したかわかる。
 どうも山口県付近の人一帯がそういう猪突猛進性格をもっているらしく、ユニクロも同じ用途につかえる。慎重さも思慮も欠けるのでよく失敗もする人達だから、何らかの面で成功しているみたいだったらそれはトライ&エラーをパスしたという証拠だ。

勿論かれらより先進国な米英をみるのも重要だろうが、かれらが国内ではつねに慌てふためいて率先と試行錯誤してくれるのは日本版のラテン派として扱う方がいい。情熱で進むかれらは社会的極論をよろこんで、あるいは誇りつつ行う。

一つの市民性改善策

それが最善かは不明だが、もしかすると、この市民性を改良するには「全員分の大学院博士号以上学費負担」を市債で補うべきなのかもしれなく、その取得をむしろ義務づけるべきとさえ思う。

若い世代はある一部を除いてそうでもなさそうでもあるが、いまの50歳以上の不勉強加減、向学心の欠落はひどすぎる。あれらは反面教育以外のなにものでもない。自分から学習するということが全くないのだから。そしていわき女みたいにマッサージとかほざいている。猿か。

 福祉主義の本質だけを脱構築する案だが、いちど真剣にかんがえてみてほしい。
全員分の博士号用費をたとえば月に一人あたま1万円以下5000円程度負担するかわりに、どれだけ市内の世間がすごしやすく、市内のあの最悪の学校環境が改善されるかはかりしれない。
市場ばかりか市政も刷新される。どうかんがえても個々家庭のネット費用の負担費よりも合理な選択だと感じられるにちがいない。

��ANスポットがいくつかあるかわりに、光回線使用費とプロバイダー接続料の値下がりを予測していまは情報費用を飽くまで節減し、その程度の知識社会への投資しても市がすごしやすくなるなら万々歳ではないか。
世代間ギャップではすまされない無知の程はそれくらいの真逆の刺激をあたえねば改良されないのではないか。博士号を取るまでは市民としての成人権利を認めなければいいだけではないか。パチンコとかマッサージとかサブカル市場とかスナックをつくって平気でいる無恥なる土民など、少しも将来世代の模範に足りないのではないか。死ねとはいわない。少なくともこの市から、あるいは先進国内から退避してくれればいいのだ。中国とかへ。
野蛮教師すら善良でおだやかな何もしらない生徒へ閉じられた場所でならいくらでも暴力をふるう最低の倭人学校環境は、博士の成員だけで占められていれば、すくなくともすこしだけ浄化されるのではないか。社会淘汰の条件をすこしは知的改良へ向けられるのではないか。


追記。こう書くと今度は大学や院という学園装置への神格化がはじまりかねないので釘をさすが、いまの時点でもある学内嫌がらせへの対策を事前にとると、より不条理は回避しやすくなる。つまりは学校組織での内部告発と外部批判をつねに賞罰制度化してしまうべき。(いわば市への報告又は外部からの指摘で褒賞、で罰のほうは教育委員会への通知と教育委員専用弁護士を置き簡易化したてつづきを通した民法刑罰それと県警で行う刑事告訴と罰金・懲役。)
かつ、福祉税の出費は海外留学(長期は優遇、短期は当然)を前提におく。大抵、日本に並ぶか勝る最先進国の英米への留学が最も効果あるだろうが、それ以外でも可(但し推薦はなし)とする。

2011年2月18日

域内のゆとり

域内所得をあげることは、人口密度の漸次な低下とすこしも矛盾しない。磯原所得となづけた値にしても同じく、所得水準の決定的な高さということが前提となってのみ働く。

 教養水準を高めるのは所得水準の決定的な高さよりも、相関するが或いは優先度に於いてすこしばかり低いかもしれない。やばくなりそうな趣の家の姿も全然皆無というわけではないので。言うまでもないが、市政自体の瞬間消費的な娯楽への過剰出費はお話にならないとして。

しかしながら雇用の面、また仕事の面で知的啓発の度合いと多く所得は比例すると考えられ、要するに「よい教育をうけた者はよい所得にいたる」連鎖反応が底流としてある。しかし、よい所得があればよい教育をうけるとは限らない。

だから、域内所得の向上へ決定的な必要条件なのはその地域での教養環境の高さなのだ。これが全ての前提にある。その後、よい所得が多くの場合 連鎖してくるものなのだ。
仮に域内所得の高い、しかし教養環境の低い場所に一人二人まれに金持ちがいたとしよう。かれらが二三世代のちにそうでありつづけられる可能性は非常に低いのが十分予想できる。逆もしかり。
要するに
教養環境は高い域内所得の必要条件
かつ
高い域内所得は教養環境の十分条件
ゆえに
教養環境と高い域内所得は教養と所得との善循環の必要十分条件

 こう考えれば、図書館の設備投資をケチるのは最低最悪のやりくちだと分かる。それは貧困の連鎖につながりこそすれ、すこしも徳がないどう仕様もない劣等生を時が経つほどふやすばかりである。
人口密度をあげようとする市長の判断は、これらをよめば100%誤りだと断言できよう。きわめて単純に人口密度増大は総税収増、という目論みがあるのだろうが、不幸や貧困の連鎖とひきかえであるのを自覚しておられるのであろうか。いやはや独裁者風な暴利の悪意としかおもわれませんね。市が繁栄するのは人口数によってではなく、文明度によってなのである。
鴎にすら悟られている。それより図書館設備と奉仕の充実や、息抜き用に運動場や校庭の全面解放と無償の整備(勿論、民生員などへの税の再分配とかで)を率先行うがいい。なにより市の為に。

あと、ここ最近保健センターの裏手というかあの市民運動場へ抜ける道路の汚れかたがまことにひどい。上述の居場所以外で育てられたトラック運ちゃん共がおバカすぎ、ぽいぽいつぎつぎごみをすててなんとも感じていない。罰金制にし、かれらの毎朝毎晩の現行犯で一人あたま数万円ずつ徴税したらそれらの用費もすぐまかなえるに違いない。通学路なのに。こういうわけで人口密度イコール幸福でもないのがわかろうというもの。かれらが大金持ちならなおさら。

2011年2月14日

とどけられる無線のあみ

~~~~~
観光拠点に無料LANを=空港、自治体に整備要請―観光庁

時事通信 2月14日(月)15時38分配信
 観光庁は14日までに、成田や羽田といった主要空港をはじめ港湾、観光案内所を持つ地方自治体などに対し、無料で利用できる無線LAN(構内情報通信網)を整備するよう要請を始めた。主に訪日外国人観光客の利便性を高めることで、外国人観光客の増加につなげるのが狙い。また、要請を通じ国内の観光拠点へ無料の無線LAN整備を進める。
 スマートフォン(多機能携帯電話)に代表される携帯型端末の普及が進む中、世界各国の空港などでは無線LANによるインターネット接続サービスの無料化が進んでいる。しかし、日本では未整備か、整備されていても有料のケースが多く、外国人観光客からの不満が強いという。そこで、観光庁は無線LANの整備が不可欠と判断した。
 対象は羽田、成田、関西国際など主要空港の国際線ターミナルをはじめ博多、下関、大阪の各港湾の旅客ターミナルや外国人の利用が多い観光案内所の合計約 110カ所。既に整備している施設に対しても、利用エリアの拡大や外国人に分かりやすい表示に改善するといった対策を講じるよう要請。特に他の空港に比べて取り組みが遅れている成田には、早期の改善を求めている。 

~~~~~


ということで、もうすこし「待つ」方が合理的かも。たぶん、ネットのときと同じ。おそらく図書館へのみ、自力で整備するくらいが財政からもかしこい。

2011年2月11日

中卒ベンチャーの勧め

そういう心理があるのかはしらないが、あの暴走の絶滅危惧種は徹底して早熟で生きたいってことなのだろうか。話したこともないし話せるでもないっぽいので会話する機会は当然ありえないが。

で、もしそうなら、むしろ文化な昇華系よりも具体的に高校中退でベンチャー起業とかを初めればどうか? 1円で会社は造れるので、単に資金繰りだけが命題ということ。
「資金繰りのしくみ」さえ身につければ実際に何歳でも企業は経営できるものだろう。仕入れと営業回りを、自社開発品であれ卸問屋輸入品であれ行うだけなのだから。こないだガレージセールみたいのを‘超然’がやってたが自宅ガレージとかを店頭にすればいい。

勿論、法にふれる商売はとりしまられねばならない上で、かれらが失敗をくりかえす中で法の知識も必要なこと、心理をよむために文学が有効なこと、伸びる会社は新製品の開発速度が早く設備投資比率が高いこと、景気の動向をさとるには経済学のコアな知力もいること、株価は政治界の意向にも上下動することなどを段々とわかっていくはず。

ベンチャー企業を興す方がまだ珍走団の意味不明で勘違いした中途半端ダサぶり恥ずかしい未成年犯罪の誇示より五倍くらいましだ。むろん大科学者に一発でなれればそれよりも知的に優秀なことはないのだが。
高校卒業を待たずに、中卒ででもやってみればいいのでは。世間は本気でやれば認めざるをえないだろうし。
で実際に社会人として動いてみてはじめて「学識が必要」なことが分かる程度だろう。彼らの知的段階は、この試行錯誤の基礎な経験値からさえあまりに遠すぎるのだろう。故郷の甘さに甘えきっていて全然、きびしい生存闘争の行われまくっている世間というものがわからない。自警団もいらないレベルに極度な平和主義国だからあんな大馬鹿すぎる暇つぶしが起こっても、誰もいい加減にしとけと非難しまくろうともしない。
ゆえに、いちど大いなる荒波世間にいち社会人として着の身の侭ほうり込んでやり、実際に自力で金を稼ぐ難易度をいやというだけ思い知らせた方がいい。改造車用の金を自分で稼いだというわけでもなさそうなかぎり。
なにせそうすれば自分らやその仲間がいかに無駄きわまる若年期を送ったか後悔しまくるに違いない。商売は生き馬の目を射抜こうとするためにあの級のくだらなすぎる失敗行動などしている手間はありえない。
見世物として見物客から見物料まきあげるシステムでもないかぎり時とガソリンと音波と熱量の浪費以外なんでもない。商いの天才については例外だろうが、時は金なりとフランクリンがいうとおり、彼ら爆走狂人が金持ちになるには二倍以上の時間と労務がいる。
工場見学というものがある筈だが、あれを生身で社会人船出させてみることで痛いほど実体験させるべき。もちろんピース又吉の相方にはならなくていいけど、低俗きわまる江戸とつきあうとろくなことがない。
暴走族哀史を実現させよ。なんでかっていうと、このちいさなまちにとってはてしなくうるさい。
あれに発情する無脳きわまる土女がいる(ゆえ生き残っている)というのが驚異的な土田舎の証拠。パッパラパとか鳴らしてる音が手動ラッパ、この電脳社会で。退化しきった奇形不良としか言い様がない。

学習院やオックスフォードに連れて行ったら彼らは愕然とするのだろうか、反省するのか、厚かましくも居直ってあのへなへなぴーひゃらラッパ吹くのか? 大変憐れきわまる。同情の余地はゼロだ。儀式としてすら乱雑すぎる。右翼カーよりさらにくだらん。ナショナリズムへの熱狂が衆愚レベルの代名詞ともなった冷めきってるポストモダンのいまでは少しも煽情的でもなければ、時間ムダ。二度と書きません。

2011年2月10日

ねずみと人のちがい

人口扶養力=人口密度\人口支持力
人口支持力:総生産に比例し生活水準に逆比例する値
なので、あえて人口密度を下げるのは市民の幸福感を上げる徳。人口扶養力が真の社会的幸福感の素ゆえ。

市内人口の増大が繁栄と勘違いしているのは無知による。

それとラットレース(鼠競走)ではないのだから、ある程度の成果主義の導入(つまり振り落としか進級制度の採用)と共に、入庁段階から学歴差別をするのはやめたらいい。天性への疎外。科挙種しかのこらず、階層の固定と同系配偶による組織の弱体化につながるだけ。

舞台の達

暴走族(松本人志用語では珍走団)は、いわゆる幼児性人格障害の一種で、少年期のギャンググループがそのまま延長したものだ。

いなかでは他にレックの方式がないみたいにみえるという条件から、公道を大袈裟に暴れ走ってあたかも自分らが強壮であるかのごとくみせかけるという誇示行動が起きる。しかし、結論をいえばそれは失敗作であり、すでに多くの芸能がある以上、単なる迷惑行為でしかない。
たとえば同等の能力をロックミュージックに昇華させた音楽家は多くの人々に趣味の問題とされる。だが公道の暴走はかれらの知的水準の驚くべき低さ以外なにも示すことはない。すでに宇宙船のモデルや人工衛星さえ自作できる時代にあれをみせられても煩いしか感想がない。

磯原域でいえば、彼らがあらわれるのは豊田の方向からだとおもわれ、つまりはいなか奥地は僻地ゆえに古代の習癖が残存しており、バイクというしろものが珍しく奇視された明治期の文明開化時代のレックがまだ健在ということだ。
ネット界でさぐればわかるが、あれ自体は絶滅危惧種であり、実際に都心にはまったく存在しない部類に入るしいない。別な不良はいるから均衡状態ではあるが。
とりあえずきたいば中心都市圏としての磯原域にさえいない。だから珍走団というチンドン屋みたいな滑稽な気狂いぶりにみえる。

 結論をいえば、恥ずかしいのでやめろということであり、もっと洗練された学術上の昇華へ人生の貴重な時間をつかえということだ。そして警察や市警的な自警側がどの程度の取り締まりを行おうと、彼らの絶滅は起こる。
つまり「学術的な先後とは致命的」というわけだ。
 天性への淘汰が舞台の本質なら、数世代後にかれらの先祖がおこなっていた誇示形質の痕跡が役立つのはタクシー運転手またはレーサー、トラックアンちゃん、で軍隊の戦闘機パイロットくらいだが、それでも穏やかか冷静な方が有利であり、しかもそれらの自動化やバーチャルゲーム化は免れないのであの種の失敗行動はいずれ彼ら自身の逮捕歴や敗退にしかつながらない。海岸線ドライブが趣味とかなら納得できるが。

で、日立のバイパスを延長させるらしいが、海がみえる様にしてほしい。いまのは車高が低いとみえない。
��「角島大橋」ってのがもっとも参考になる。検索すると画像が沢山でてくる。つまり、手すりをできるだけ低く、できるかぎり線材、又は透明な素材でつくればいい。)

市民としていえるのは、ひたちなか海浜公園でやってるロックフェスはあまり立派な内容ばかりではないので推奨まではできないが、現代音楽やクラシックを昇華させた最先端系の「上品」「上質」な製作音楽のコンサートなら比較的繊細な市民性をより学術的にするのに有効なので、繰り返し開催すべきということだ。久石譲氏や坂本龍一氏、或いは青森出身である元スーパーカーらの音楽など。そういう実例が目の当たりにできたのとできないのとでは、その後の発達も相応にちがってくる。豊田や木皿の方まで届くかはしらんが。
水戸ホーリーホックやそのジュニアユースの練習試合を誘致するとかも策だが、サッカーそのものは本場イングランドでは比較的蔑視か軽視されがちな競技なので大袈裟にやるのはまずい。それは紳士というか郷紳の行う第一等のスポーツとはみなされていないのを認識した方がいい。日本でいうボクシング的ニュアンスなのだから。
ゆえに自主性にまかせ、むしろ雨情の里テニスコートとかで周辺に住むプロ選手の模範試合をやってもらうとかのがディスプレイの達がいい。

知的生産性と時間帯のとい

深夜営業規制の観点から、子らが答弁させてた図書館の開館時間延長は賢くない。両方のバッティングもあり、また夜に頭が冴えるといった自然の傾向はないかぎり、現いわきとおなじ轍にはまるだけだ。つまりくだらん深夜営業系のはびこりで風紀わるいまちへ徐々になりさがる。

だから、開館時間は「早朝がわ」へ延長させるのを自由にしたらいいのだ。
それなら朝の3時か4時か早起きの人々の学習が進みまくる習慣づけ必須。どれだけ功利的かわからん。どこへいっても勤勉なひとたちとして感心される場所習性となるにちがいない。
「深夜営業はなんにせよよい結果をもちいらない。」質問した子も、親がどの時間帯に勉強してるかしらんがこれを理解するといい。もし半面教育をみつけたければ、真夜中にぎらぎらとネオンサインをぎらつかせる、底無しに亜細亜くさい東洋の大都会をみてくればいい。電気代浪費どころか何一つ知的生産性の向上はない。深夜料金の利用なら機械にさせるがいい。だらしない、なさけない、すくえない駄目大人しかネオン街にはまるでいないだろう。そして正しい面の教師にはおだやかで綺麗な北欧のまちがある。そこには知的で所得の高い、単位生産性のたかい人々が住んでいる。
真夜中にあえて勉学したくば菜種でも庭に蒔きおのれでやれということ。実際そうしていた人物の像が精華小にもあり、かれが夜更かしより早起きを優先していたら朝方にそれをつかっていたろう。その方がくらべて賢いとおもわれ、起きたあたりが脳活動ピークという人が相対的に多いのはどうも実験的にたしかめうるらしいから。
夜行性でない生き物は夜中に休むゆえに、そのなごりだろうが。突然変異体や習性の変形で「例外の余地」はあるかもだが、総合としてみて人類にとってちがうなら反証してみてもらいたい。

市政のあやまった優先判断への苦言

市からの答弁で「書籍電子化はあとまわしだ」みたいな発言があったが、これはまちがいと言っていい。

小さく、縮小するのがまちがいない市だからこそ教養度が最優先課題なのだ。他のなにより。4000万かけてふれあいセンターの映画観覧席に授かり効果満点の娯楽出費した上、これからも1、2億を映画製作(どうかんがえても私事である)にポケットマネーで投資するおつもりなのをお忘れになられたわけではあるまいが。

 くりかえすが、あと50年後の北茨城は5000人規模のまちになるしかなく、それはほぼ必然で、いかに出産祝いとかで早熟ヤンキー層をふやそうとかわりない。かれらは所得階層の関係で上位に位置する可能性も低く、結局は余り要員として各種の3K的労務につかわれるが、国内からさえも敗退していく確率のもっとも高い層である。希少価値もない。ふやそうとすれば10代なかばで勝手にふえてしまう。社民主義的市政方針はだれが出しているのだ? 止めた方がいい。なにも立派なことにならないのだから。

重要なのは、所得階層の上位数を市の単位でさえふやす工夫だ。市政としては市場介入や社会淘汰への干渉をやめ(だから当然、子供手当てやら出産祝いやらへのあとおしも市税の使い道とみればかしこくないのだが)、「教養度を高める」あらゆる方法を率先とるしかない。

そして書籍の電子化など、単に二名くらいITリテラシーがゼロではない標準的職員が一ヶ月ほど勤務時間をさけば十分できる程度の仕事量でしかないのであり、市の側など館員へ命令しておくだけで済むわけだから、優先度からいえば最高に高い。他になにが彼らの中で優先なのか問い詰めたらよかった。遅れるほど我々全員に不利な政策と態度である。

 教養度、というとき符号化理論の側面はいれてない。しかし、大企業や政府が学歴選好の差別を合理化している間は、市場全体としては符号化を無視しきっても有利とはならない。個人の自由とは別に、うまく「学歴符号化の利用」をほどこす方が政策そのものとみれば適応度があがるのは仕方ない趨勢だろう。もちろん、それを目的とみなすのは能力擬態をふくむがゆえに社会淘汰の方式としては浅はかと知った上で。
つまりは、市をみわたして後天的学歴獲得ができるかぎり試行錯誤なしに容易となる様に、『教育投資への底上げ』としてもっとも経済的な各種の学力向上への環境条件をあたえつけるのが、これからの市政の最大の課題なのである。擬態された能力と本物の才能はその高度な環境の中でこそ問うがいい。さもなければ、縮小均衡どころか貧乏かつ低文明度のドウシヨウモナイ市にどんどん漸近してしまう。実際、さらなる僻地ではそうならざるをえない場所がかぞえきれないほどあるし実際そうなるだろう。一刻の猶予もない。書籍の絶対量が少ないからこそ、また図書館の規模が空間的に小さいからこそ、電子図書館化はきたいばらきでは最優先課題なのである。まちがいない。

書籍をスキャンしてPDFファイルをホームページ上にアップロードすればよく、ダウンロード・キーに図書館でいまもつかってるカードの番号を入力させればいいだけだ。すこしのITリテラシーがあれば一日でできる。著作権の問題については、「著作権表記」を出版社名と著者名でコピーライトふればいい。別に法的問題はない。なぜならいまの段階でも人々はそれを借りて読んでいるわけで、実態に変化はないのだから文句のつけようがないのだ。無限に公開さえしなければ著作者の権利は守られている。
もし著作者や出版社が文句をつけてきたら、ダウンロード・キーを登録制度にし(つまり何冊借りている状態かを把握できるタイプにし)、「1週に10冊まで」といまの貸借権とおなじレベルまで譲歩すればいいが、すでに実現した電子図書館もあるのだから、まずそういう事態にはなりえない。
なにより図書館側はすでに一度書籍を購入しているのだから、かれらとしても文句はいいがたいわけである。もしそうしてくれば、より電子化に進んだ態度をもつ出版社を我々が選好すればいい。で案の定 出版社協会みたいのが全体として圧力をかけてくれれば、さらに一般な書籍ばなれが進むだけのことにすぎないのでかえって庶民としてはうれしい。電子版のほうが安上がりに届くのが、アマゾン・キンドルやグーグル・ブックス、アイパッドの普及ですでに明らかなのだ。資本を偏って持てる出版社におもねる必要は寸分もない。

2011年2月6日

和み蛍計略

市内発の発明品として「和み蛍」はけっこういい。ただ一つおもうのは、あまりに本物に似過ぎてて偶像崇拝っぽいのが問題だ。もうすこしメカニックで、昔のアイボみたいなロボほたるってのがあきらかにわかるまで改良したら完成度があがる。
特に都心の子みたいないちども蛍みたことない層が機械のほうを蛍だとおもいこまないとはいいきれないので、ある程度ニセモノっぽさを出したほうが好ましい。人工養殖や品種改良した生きた蛍の輸出ならそういう問題もないかもしれないが。

で、日本人の特色として『逆輸入に弱い』のを利用し、まずは外国展開が重要だ。いちど先進国内や広く途上国で認められると、どんなものでも驚くほど崇拝しだすのが日本人といういきもの。
自分が最初に協力せよとおもうのは、あのChozen English Schoolや市内の姉妹都市からいらした英語圏話者にうまい紹介文を書いてもらうこと。かれらが書いてくれてるからだとおもうが、驚くほど北茨城市の英語版ウィキは出来がいい。やはりもつべきものはかしこい友なのだ。

で、以前テレビでみたがWiiスポーツ(擬似的に室内運動できるテレビゲーム)をイギリスの老養院へもってったら大人気と。真偽は不明だが王室もWiiもってるということなのでまったく事実無根ではなさそう。

こういう道理で、和み蛍をおみやげにノースアンバーランドあたりとの姉妹都市提携を結びに行き、老養院や児童養護院や幼稚園やへ贈り物をし、いちどイギリスで認められたとなったら今度は日本人がてのひらを返して誉め立てるのがまちがいない。皇族ふくめ最近のイギリス崇拝論調は利用できねばならない。
まずほかの国へはこのあとでもちこめばいい。なぜかといえばまえ宗主国だった場所がいくらでもあるから下賜品みたく受け入れられやすいし、アメリカや香港、オーストラリアやニュージーランドほか英連邦所属国はいうまでもない。そこらの成果があがれば、もう星中で敬わないひとは殆どいない品物へ格上げされるだろう。
 だがまちがってこの逆の手順で、どこでもいいから計算抜きで国内へ売り込みその後外国へもっていっても、あまり人気がでないばかりか特に日本人自身から馬鹿にされる確率の方が高い。日本人は国産品をありがたがらない習性がある。それが独創的なほど。

 あと確実な需要がみこめるのは、都市部で蛍が絶滅して、子供のころならみた記憶がある老人ホームとかのお年寄り、あとは本物をしらない幼稚園や学童保育園へだ。勿論市内や周辺地域へも例外ではないというかそっちが先かもだが。
こういう地区へ、可能ならばダイレクトメールで一件ずつ、くわしい広告を直接送付するべし。すくなくともなぐさみものにおもしろそうだから二、三個買ってみるかというひとが過半数を超えるはず。最も下手な販売は、適当に電気屋や玩具屋へもっていくこと。まず機構が単純でショボイという理由で陳列方法ふくめ排除されるか初期ロットを除き返品されるくさい。

市民への販売ふくめ特産物としてお土産化するには、商標登録か特許取得が前提だが、磯原駅のキオスクに置いてもらうこと。そうすればたいていの利用者(市内在住者や通過者)は珍しいものとして子供に一、二個買うきになりそう。要するに、広告チラシによる注文生産と市内のキオスクでの直接販売しかしないほうがよい。そうすれば特産物として希少価値が出るし、濫造されず高値でも売れる。

2011年2月4日

市立大学の新図書館空間代替案

非常に単純な案なので余りうけいれがたいかもしれないが、前からおもってた市内やここ付近のひとらの教養の底上げという課題へ、最もいいのはあの市立図書館をそのまま簡易大学設備へと流用してしまうことだ。

市立系の大学案は投資と返済にギャップがあるのでこの規模の小さな市では今のところ大都市より不利で、かつ難しいのが施設費用の工面だ。周辺の市へ共同運営を条件に資金協力をお願いする方法もあったのだが、そうしなくてもできる案をおもいついた。
 よそおいより「実をとる」という大方針へかえれば、あの図書館をそろそろ増設か補修か増築か改築かするっていういまの時に、ついでにけっこういい講師室、或いはもちはこべる椅子程度を並べたみたいな簡易な講堂をもうけてそこで定期講義をはかってもらえばいいということにきづいた。
ふれあいセンターを無理矢理つかうという手もあるが、その種の文化講演会や演劇みたいなのとは別に「本格的定期講義」をしてもらう機会があればいい。
実際、市内の学校を退いた先生が研究会として図書館の一室を利用していたことはあったのだからそれを国際化し、聴講できる権利を交通できる周辺地域へ大幅に公開すればいいというわけだ。
この市民圏の特性としてはじめは様子見でぽつぽつとしか集まらない可能性があるが、繰り返し講演してもらえばその知識が市内に到来した分だけ市内ふくむ周辺の國はかしこくなるに違いない。

自学自習スペースはどうせもうけるはずだろうから、一番いいとおもうのは開架書庫をふくむ巨大な一室空間みたいにしてその一角で公開講義をしてもらう日常習慣をつける。これで、ひとりでにひらかれた教養の土壌ができあがるとみた。重要なのは同じ講義をうけた人々の輪、友人関係、哲学的友情ができるということだ。
で、日頃の勉強は無料でみれる放送大学を受信できる視聴覚ブースが複数あればいい。はっきりいって普段の学習というものは選良が一人でさっさとする方が効率がいいもの。どうせ競争社会なのだから意欲ある人だけやればいい。同級生から足をひっぱられるという公立系の学校の欠点もこれで解消できる。
��学業の補完は福祉国家式に甘えさせるのではなく、個々人の意欲にまかせた自学自習によって賄うべき。)

定期試験や学位授与という機能は各自がその求めに応じていろんな機関をつかえばいい。そういう掲示をしておけば済む。学位認定の機関もあり、放送大学へ実際に入るとか、TOEFLやTOEICなりセンター試験ほか各種資格試験なり、論文投稿先としての学術誌なりある。独創の為にいわゆるゼミ形式が万能とはいいきれない。同時代に共通な学問の基礎は真似るしかないだろうが、それは他の講義を聴きに行くなり教授への質問時間に行うといい。

 以上の様にすれば大学の施設がになっている本質な機能はえながら、ほぼ費用は節減できる。なにより図書館増設の機会を一工夫するだけで大幅に市の勢いを改善できる。一室空間という意味では妹島氏らがつくったラーニングセンターが参考になる。
あの種の開放的なたてもので、国内の人にかぎらず超一流な教授(彼らは意欲や依頼目的に感じ入るのであって必ずしも金銭の額めあてで講演するわけではない)に公開講義をいつも依頼するだけでいいのだった。その意味では館長か秘書へ最低でも学芸員資格以上の、できたら学識者として一級の素養がいるだろうけど。
研究会とかサークル活動とかは外部で勝手にいとなまれるものだろうし、この自習中心方針なら、いまの試験難卒業易な日本内の各大学にはびこってる変な新入生勧誘やら遊びほうけみたいな堕落世界も興りえないだろう。

市長が映画製作費の一、二億をぽんとポケットマネーで出してくれる太っ腹な市だからこそうまれた案。なにしろ共用パソコンや無線LANホットスポット概念さえない。光ケーブル敷設のサンクコスト(埋没費用)による後付けの正当化はみなかったことにし、『初期投資分の回収費用は諦める』ことにした方が合理的。
副市長の握った財布の紐が、一連の無謀な選択みたく外部監査機能をもってないのがこわい。かもめや私民の指摘にそれを依存しないでできるだけはやく支出チェック機能を導入してもらいたいところ。癒着をめあてとしない質のいい引退した社長(投資家ではない)や有能な経済学者が行政組織外部のご意見番にいればいいのだが。

2011年2月1日

磯原に

工学をする少女あり北の国

昔のことおもいだすセイブ蹟

町の香はなおのこりけり磯原に