2010年7月31日

へびのおや

どっどっドウロの みちばたで
てくてくあるいてた へびのおや
とおりにおどりでて へびのおや
ジテンシャきたら へびのおや
びっくりギョウテン のたうった
くさむらさがして のたうった

2010年7月30日

シャンハイ便はあんまりこのましくない

きたいばのカモメごときが口を出すのはおこがましいが、参考になるならということで進言すると、イバクーはイングランドかホンコンかタイワンの三箇所としかLCC空港つながりする意味がないと思う。というのは、いくら外貨獲得ったってひどく文化が低い相手からかねをもうけようったって、そういう低俗商売に反映されるだけで県民生活は壊滅する。ヤマダ電機の青田買いみたいなものだ。もう伏字にする必要すらない。
かねほしさに文化段階の低い相手とつきあう=堕落する、というわけで、かねとひきかえに魂を売るとはこのことなのだ。ま、ボクとしては県政の賢明さには信用をおいてるのでいずれ悟るでしょうけど。

「人はつきあうものに似る」というわけで、よくない相手とは縁を切ったほうがいいほどだ。

いわきの穢多さ

いわきエタ市は中高生もがんがん通るみちばたにキタナイのみやの看板を掲げはじめている。気が狂っているのでなければエタ人種としかみえない。どうして市政でそういう産業を撲滅させていこうとしないのだろう? エタには話が通じないのだろうか。

いわきエタ市はどういうつもりで汚い飲み屋の店を大量出店させ、平気なのだろう? 隣で醜悪な習性をみせつけられても嫌悪をこえて差別感しか感じない。いわきエタ市では理性ある人間として最低限度の風紀のとりしまりができないのだろうか。

国法がかえられないから仕方がないというのなら市民運動で撲滅するしかないのだ。東京土民などにしたがってもなにもいい結果にはならない。いわきエタ市はどう責任をとるのだろう。あいつらエタどもは金をもうければ勝手にふえていく。その公共の福祉への流毒が「人畜公害」として我々の市へも悪影響を及ぼすということが想定できないのだろうか?

2010年7月29日

かもめの警告

なぜ公然とうらで景品と現金を交換させている犯罪人格の溜まり場であるパチンコ店の社長が市政に入り込んでいるのだろう?

この市には腐敗以外の名称がないのだろうか?

なぜだれがみてもおかしい公然猥褻物をしかも子どもにすら購買できるかたちで陳列しまくれるのだろう? 刑法を知らない犯罪者ぐるみの市なのだろうか?

 これらは市警のないことに起因する部分も大きいきがする。なぜきたいばには市警がないのだろう。高萩などはぎまろレベルの公家やろうなので少しも相手にできない。公家は信用できない。太平洋戦も戊辰戦もすべて公家の悪業であり、さいごにはいいのがれしきれず自殺するようなクズどもなのだ。

もしこの注意がきこえない程度の阿呆加減なら市政などにすこしもかかわれるはずがない。猶予は置く。この公益に類する警告が理解できないようなら、つまり犯罪者パチンコ屋社長が市政から引退せず猥褻物販売を放置しつづけるようなら…そのときはかもめテロ(人のではない)でもなんでもやるしかない。

話し合いにならない犯罪者集団の支配は「革命権」の行使必然さに該当している(日本国憲法第12条「~自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない~」)。その革命による市政の覆しと乗っ取りは民主法の原則のみならず世界人権宣言で永久に擁護される。
��世界人権宣言第29条「すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当たっては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。」=つまり世界人権宣言の受諾国民は法秩序に服さねばならない。)
抵抗権は三権分立以前の権利の主張だというやわっちい批判があるが、これは違う。三権分立そのものが現状の様に機能しなくなった時点でそのしくみ自体を『公共の福祉』の為に抵抗によってくつがえす必要がある。まともな議員が議会前に暗室の全員協議会とやらで意見発表の自由を事実上牛耳られている以上これは外部から革命を行うしかありえないのだ。

でかもめの特攻(飽くまで人ではない。しかも何者かが教唆したわけでもない。かもめのカモメ意思による)で市庁舎がボコボコに糞だらけになってもそれはキタイバ人の悪業の因果応報であろう。勿論かもめには人相当の権利はないのでこれはどこからどうみても犯罪ではない、上空をとびまくってなにがわるい?(かもめが。カモメの権利はないのか?) これはまじめな話だ。

サブカル市場は去れ

この市の一番の問題は、サブカルチャー市場しかないということだろう。本屋がつぶれ、かわりにできたのは巨大なサブカルの城みたいな量販店。これでは市場としては文化面で終っているに等しい。当然子どもの時代から豊富な高文化にふれてくらせる層に比べればそこから出てくる品種も、育ちのわるさ、商売道徳、低俗さをまぬがれない。

��0代前半の親が幼児虐待で逮捕=10年ほど前の市の教育がすでに崩壊していた、ということを冷静に反省してみるがいい。つまりボクがみている「悲惨な文化状況」はあと十年後ほどになって結果になるのだ。そのとき我々が感心することはまずないだろう。低俗人が市から出ました、これは恥と罪でしかない。
だからボクが言うとおり、底辺高校の最も下の層は他の市に追いやる為に徹底迫害を得る。教育の場での積極的おちこぼしもそうだが、市政そのものが制裁措置をたくわえるべきだ。勉強しないならカネをはらって馬鹿の子どもを高校にやる必要などなく、そんな親は淘汰されて消えていけばいい。
サブカル品ばかり売りまくり買いまくる下賎な親子などすこしもほらむべきでないばかりか迫害すればするほどよい。アメリカへ行って日本村みたいな場所であつまって住めば州の支配率に応じては放置されるだろうが、国内でそれをやられると将来世代が絶望的となるので禁忌するしかない。

 美術館だけがいまのところ救いだが、もしキュレーターが下手な交代とかしてサブカル市場におもねりだしたらおしまいだ。そうなったら亡ぼすのにどんな留保もいらない。
 いまのところ市民の教養度が愚劣なのはあの本屋の構成をみれば一目瞭然。まずアダルトコーナー(これはとみに女性向けのものも含む。)をまっさきに潰し、次にくだらなすぎるマンガコーナーを潰すこと。しあげにゲームコーナーを壊滅させる。これが必要だ。マンガにもいいものはある、という意見などはふみつぶしていい。なら図書館がよく内容を考慮した末に購買してみればいい。それならブラックジャックとか作品として完成された古典に限定されるはずだろう。

たよれるのはまだ高貴さも残っていた旧世代の蓄積した資料の幾分かはある図書館だけで、図書館資料を電子化してひろく利用しやすいかたちにまとめることが必要だ。市場にまかせていてもこれは、ほぼ永久におこなわれない。なぜなら版権をもっている過半は、体面だけつくろった下層社会である忌むべき東京にある企業なのだから。
これをしなければ、馬鹿高生とその馬鹿親が買いあさりまくるサブカル品だけで市が埋め尽くされ、教養層がいきのこる余地がどんどんせばまり、市の風紀は下落しつづけるだろう。
中産資本主義経済の限度もこういう場所に見えてくるのではないか。それは衆愚政化にちかづくにしたがって(たとえばなにまろのお隣の市みたいな)全体趣味も商売道徳に染まって高貴さが欠けてくるというところだ。けっきょく『選良議決政治・選良投機経済』はこの面で必須なのだ。つまり最大数の量的幸福だけを目指している限り文化面で決定的に敗退してしまう。

サブカル市場は駆逐されるべきだ。東京文化は否定すべしとはこういうことでもある。善なる影響よりそれをつくる下層の比較多さから悪影響が、総合してみると大きいからだ。私的趣味をいえばイングランド、最低でも水戸に習うべき。知識人層との接点を最大限もつことがいきのこりの鍵となる。このための市政の枠をよく注意深く開け放つのは早すぎることはない。
いまの時点では市場そのものの動向はほとんど終っている。サブカルものだけながれてきてもなにもいい影響はなく、以前よりわるくなるばかりなのを冷静にみわたせねばならない。教養書のみの本屋に子どもをつれてこれる親と、くだらなすぎるワン○ー×ーの下劣サブカル市場づけの親子では結果は育つ以前に決まっている。
は○まろ稼業というおとなりの醜態をみているとこれは一刻もはやくないとこの市はあやうい。世界には「立派なひとたちの市場」もある、ということを文化全域のサブカル化まえに理解したらいい。地上最高品質の科学書が並ぶ本屋に誇りをもつケンブリッジ人も、政治研究書や哲学書がメインの棚につねに据えられているベルリン人もいる。そしてそういう層しかいきのこりの意義はない。きたいば人はエヴァンゲリオン新入荷しました(しかもタイミング遅れて)ではどこへ行こうと笑いものである。最低レベルのサブカル本屋を田園つぶして建たせたことを愧じろ。

2010年7月28日

競争社会は良いことです

いまさっきばつのテレビ番組でおーさかの底辺高校特集みたいのやってた。しかしこれはおもうところあった。

はっきりいってさとったのは、もう底辺高校生ってのは生まれてきた時点で終ってるし負け=淘汰決定だと言っていいだろう。これはいわゆるオトナは言わないだろうけど、ぼくは真実だと思う。「生きているのが考えられない」ようなレベルだし、なにかどっかの山奥の野蛮人を見ている感じで、生後の教育でどうなるってもんでもないはずだ。教室でケショウとか。どこの蛮族だろう。
はっきりいって親同士の遺伝した知能の程度がすでに終ってるというかとても低いので(しかも病気でなく健常状態で)、やはり子どもも知能が低いまま生まれてくるのだ。
 冷酷な様だが2千年後には完全にかれらの生きていた痕跡すらないだろう。人類は知能に特徴のある生態で地上に生存圏をのばしてきたのであり、この流れが変わらない限りは彼らの生存そのものが無駄なのだ。かれらより能率のいい機械がでてきた時点でかれらの命の意味はおわったのだ。
当然人類の中にも遺伝偏差があり、あたまのよしあしは生まれつきでてくるものだろうけど、ぼくが見た限り、これは教育でカバーできる差ともいえないみたいだ。教育にできるのは「いい方の人種をさらにのばす」加速であり、わるい方のヒトたちはもう終ってるというか、選良人種としてはなにをしてもムダ。おーさかのあの底辺高校のフウケイはこれをまざまざと示していた。

 イギリスではあからさまな階級社会が温存されてるので、情報によれば下層の労働者階級の荒れ方がひどいということだ。けど当然そこにはすみわけがある。だから日本ほどひどい混沌が生じることはなく、上層の知識人階級はわりと円滑にくらせる条件がある。
パブリックスクールの王道に入ってしまえばよほどでないと下層労働者のまちへ近寄らねばほとんど見ることすらないだろう。けどそれが賢明というわけで、ゴキブリは見ないですむならそれが最もいい。
 日本がひどいのは、キョウエイ高の話題でも書いたがまったく性格のちがうひとたちがごっちゃになってしまうことだ。この問題は先に手を打っていくほうがいい。おーさか状態になったら地域としても運命のおわりだと考えてまちがいない。あの生徒は親の種ごと絶やさないともうなにを教えても救えない。

だから、ぼくの意見では「宗教」の力を下層の民へはおよぼすのが最も合理的。具体的には現状では世界中でもっともましな宗教だろうプロテスタント系のキリスト教会を設けて、そこへおちこぼれ生徒を通わせるのが最もよい。いばきりにこういうお願いができないものか? 飽くまで法人だから需要がなければ誘致もできないかもしれないけど、宗教者はさすがに慈悲のおしえに尊いのでおちこぼれに冷たくあたることなどありえないし、もしあるなら宗教者ですらない。
そしてそこへ放っても更生できねば即刻逮捕し、牢獄で余生を送らせるのが完全に妥当だ。迷惑をかけられると優秀で未来のある市民の逞しい育成が害される。その被害対策の方が終っている親子よりは優先なのがまちがいない。人種は生まれつき違う、特に知能で違うということをあの光景は教えてくれた。
すぐれた機械のある社会でそういう親子は知能が劣っているほど生まれてくること自体が誤りであり(但し病気でという場合は良心の問題があるのでなんともいいがたいが、健康体の場合)、しかも他者と共存するための宗教心すらないときその現存そのものが害だ。

基本は「競争社会」を維持することにある。もしそれが維持できれば、つまり共産主義とか社会主義とか原理主義とかの保守思想にかぶれずにやっていける限り、ああいう救えない人種がいきのこることはありえない。もしそういういきものが生き残るとしたら人類など存在意義がなかったにひとしい。知能の特段高くない獣などいくらでもいるのだから、ほかの動物類を害してくらしている限りその生態は地球の多様化運動にとって邪魔だから。

もしキョウエイ高の生徒にこの原則をあてはめれば、もうおちこぼれていく生徒を救い上げる努力はやめたらいい。進学型=自由型日程と就職型=スパルタ型日程を分けよとはもう書いたが、それに加えてスパルタ型日程のなかでもっとも低いクラスは余分に定員をとっておいて、つねにわざとおちこぼす優勝劣敗ルールを導入すればどうだろう。これは飛び級があるのだから自然なことだとおもう。
そういう不良は放置したらもっと悪さするだろう、ってはなしは先に書いたようにできるだけ立派な宗教施設が最低限度の安全網でそこで救えねば監獄で暮らさせるべきだ。そうでなけりゃ例によって暴力であたりに迷惑をまきちらす。
おーさか底辺高校をみたらそれが妥当だとわかるだろう。ぼくには衝撃的な映像で光景だった。あれは教育などしても意味がないとまともな人間になら理解できる状態だった。話を聴こうともしてなかった。奴隷の子どもというならわかるが。

じもとの商品交換券

じもと商店街の活性化には「北茨城紙幣」というか商品券を発行すればだろう? すればだろうってこともないが。どうときくまでもなく、現金よりは利回りがよくなるとおもう。

現金をつかうのが不安なのなら、それをとりのぞく工夫をすればよく、これは5~15%くらいの利幅(つまりそれだけじもとで使う得)のある商品券と景品やキャッシュバックサービスで交換して、そっちで消費してもらうのがかしこい。かもめデザインを施してくれれば一石二鳥だがそれはいうまい。

2010年7月25日

涼しげな計画

きのうのいばしんの最後のページにものってましたけど、きたいばはやはり涼しい。朝晩とか特に夏とはおもえない。といってもこのあたりにうまれてからしぬまで住んでる分にはきづかない涼しさだ。やはり気化熱での冷涼効果が大きいとみえ、山側ではさほど涼しくないという話です。

で、ぼくがまちのために今もっとも有用だと感じるのは「都市公園」の計画。ひとつのモデルは偕楽園だが、あれもきたいばの自然にかかれば雑だ。

きたいばの特徴として涼しいというのを前面におしだせば、浜辺の延長か川岸の拡幅や開放がいいのかも。水辺ばっかじゃ冬は寒いじゃんという意見へは山があるでしょうといえる。しかし全体とみればイギリスなんかにくらべて日本は暑い国なので、涼しくしようとするのは正解と思う。なにしろ冬は冬で、あおもりあたりみたいな豪雪でもないのでこま雪がふればふったで綺麗なのだから。
とにかく温暖化の時点ではできるだけ水辺を広めてまちを冷涼にするのがかしこい。昔はその点でもコンクリのビルやアスファルトの熱をためやすい路面もなかったうえ川はいまより綺麗だったのであちこちで子どもが泳ぎ涼をとっていた。エアコンがんがんつけて周りにも地球にも迷惑まきちらすのではないこういう世界にも利点はあったのだ。

スーパー堤防(超堤防と訳せ)というアイデアがあり、段々をゆるくするかわりに親水ひろばみたいのを広く設けるということなのだが、あれもいい考えと思う。特に下流の方ではいまでもやろうとおもえばできる。草ボウボウになってる場所をゆるい勾配で川まで降りてけるように少々土をもればいいだけだ。
もと、みとの千羽湖は人工池というか非常飲料をかねて那珂川の迂回でつくったらしいから、こういう考えをひけば磯原のまちなかにも涼みのための流水路やそっから個人宅までひいた池をつくったりできそうなものだ。

もしかすると市の計画で国道バイパス化しようとしてる議論があったのは、海辺ってか浜辺をまちまでつなげようっていう大胆な長期構想があったのかもしれないが、それなら歓迎する。浜辺は涼しいものだ。単に津波だけ景観と矛盾しない堤防の計画で避けれればいい。

 あと地味なはなしですが、路面の熱容量をへらすには白塗りにすると効果があるとどっかできいた。簡単なはなしだが、今後道路を市内、特に中心市街でつくったりなおしたりするときには都市計画課で検討してほしい。
国道交通省の法的規則とかで路面は生アスファルトの黒ときまってるわけではないとおもわれ、たとえば高速でもたまに生コンクリの白がでてくるが、ああいう白色をアスファルトの上に塗るだけでまちは涼しくなる。これがまちがいないことは陽射しのはげしいので有名な地中海の街並みみればいっぱつでわかる。かもめ風にまっしろですから!
なにも磯原・大津あたりの市街部だけ都市計画で白塗りしたからって怒られるなんてありえない。びびってやらないよりはやってみる方がいい。昔はアスファルト舗装道路そのものがなかったのだからあのむしむしと蜃気楼のたかる黒色が伝統というわけでもないので固執する意味はなにもない。

2010年7月23日

川のキレイさ

ポピュリズム(人気政治)にあらがうには、現実にある堅実な話題でできるだけ行政の長に余計な人気とり稼業をさせないこと、つまり「つねに仕事をあてがっておく」必要がある気がする。放っておくとテレビ出演で一人勝ちしたがるのが民主政末期の症状=衆愚政。

で、きたいばでいうと下水道の整備率とかだ。これはひくすぎるのではないか? 要はなかば未処理のコレラ菌とかがへたすると川に流されてないともいえない。

実際花園川についていえば中流にたくさんできてきた新興住宅付近での洗剤のにおいとかひどくなってきた。陥没しているところでは泡が浮いている。浄化槽は単独で浄化能力が十分ではないと思われ、それ以前に川に流す場合もあるのかもわからない。
こういう喫緊かつ長期の課題をなおざりに、豪華すぎる娯楽設備完備とか問題があると思う。あと応援団にもかかれてましたが、耐震改修の遅れはひどすぎる。大地震があれば子どもは死ねと言っているに等しい。こういう堅実な課題はクリアしても自己犠牲しかないとおもうからだろうか、美術館とかなんちゃら施設とかカラクリなんちゃらそういう目立つのにお金つかって人気取りはよくない。

 けっきょく、行政人のモラルとは「自己犠牲」にあると思う。そうしたくなければ行政府に入るべきでもないのだ。まちの基礎ができてないのに上っ面飾ってもなんにもならない。この面では○まろとかまじで切れる。どこに住んでるのかしらないが、なにせまろだ。公家じゃねーんだぞと。ま、どうせ違う市だから放っとくが、人気取りは長期でみればろくなことにならん。川がドロドロでアユ死滅ボウフラ大量繁殖、ヒトはコレラ感染、大地震で子孫ども生き埋め、こういう末路に至りたくなければなんのかのと削減した予算は地味に基礎建設にまずまわすのが道理でないか。

ふつうに暑けりゃ川で遊んでる子どもとかあるていど昔はそこら中にいたわけだが、いまはあまりヒトが近づく様子がないのは行政の怠慢と新規住民の低モラルがあるとおもいます。

2010年7月22日

東京文化は否定すべし

石岡のまつりポスターがひどい。オタクにおもねる意味がわからない。ひたちの国まで江戸カルチャーの余波に侵されたら関東もおわりだ。石岡はつぶすべきだろう。

偶像崇拝を煽るという意味では、お隣の市のポピュリズムもひどい。キャラクター稼業みたいの、ほんとやめてほしい。キリスト教であれイスラム教であれ、偶像崇拝を認めてない宗教の意義がわからないとみえる。わかすぎる市長をえらんだ市民の末路だから外部からはどうしようもない。

 しかし、石岡のオタクポスターにせよお隣の市のポピュリズムにせよ、ひたちの国も卑しい東京文化に毒されつつありまこと心配事が多くなってきた。だから天皇に関わりあうなというのだ。天皇に関わりあうと必ずおかしいことになる。鬼神を語らず、これが原則なのだ。

へたするとこの市もへんな偶像キャラでこどもだまししつつカネでもむさぼろうとしだしたり、あるいはおもっき大衆政治にかじをきっていわゆる石井政権とかを樹立しかねないからこわい。ぜひとも堅実に歩んでほしい。そしてお下劣オタクカルチャーには少しも妥協しないでほしい。さすがに天心ありきの市ならその心配は県南よりはしないですむとはおもうけど、一応。

石岡あたりはもうおわりなのかもしれぬ。水戸でもアホすぎる商店街が自分からアキバ化みたいな漫画売り込みしだしてるみたいで、ひたちの国も半分は江戸・東京の大衆文化に毒されてほとんど急病人みたいな状態になりつつある。黄門ちゃまとか。
ほんとにつぶすしかなくなったら県ごとつぶすしかない。キャラクター稼業とかはじめたら市にでもなんでも批判をこえて攻撃を仕掛けるべきだ。もしそうしなければ末路はもっと悲惨なのだ。偶像崇拝が子どもや民衆のこころに及ぼす影響は大きく、いわゆる宗教心をどんどん失わせる結果になる。つまり道徳観念が実在しない仮想キャラクターへの感情移入で歪みまくる。政権に携わる大人すらこういうことをはじめているので、日本の大衆民主主義はもうおわりに近い。水戸黄門は実在した人物だからまだしも、なにまろだかしらんがカモメの硬派ぶりを見習わせたいものだ。カモメは鳥である、海へ行けば飛んでいる。

2010年7月21日

きたいばカルチャーの知的鼓吹

ひとにより趣味がことなるとしても、ボクはいわき人が夜のまちでけばけばしい女にかこまれて嬉しがっている意味がわからない。単純に、そんな女不愉快でしかないだろうし、むしろ死ねとしか思わない。これは本当に感覚がちがうんだと思っていわきをみていた。

文化としてのいわきはあまり高級でもなければ尊敬すべきにも思えない。はっきり言って中途半端に劣っている。福島広域にもこれは言ってしまえる気がする。野口英世はわかるが、生家を補修でもちこたえさせるよりあの金属製の覆いはどうなんだとか思う。白虎隊についてはノーコメントだ。われわれの土地の流れからするとそうするしかない。もともと公家と組んだ薩長は戦うべきでない相手だったのだ。

で、たとえばだがいわきがどうしてああなのかいうと、雨情ジダイからそうなのだが女が多過ぎるのではないか? なにか文化面で、女を褒めるところがどっかにあるのかも。印象としてもそうだし、じっさい女子大発祥率が高いわけでそれは確からしい。もう一つは福島は伊達・徳川の中間地になってしまったので都市部へ成人男性が流出してしまうことが一因だろう。
どうも人口構成面でも福島のひょうたん型はこの面で特殊だ。生産人口に比べて幼年者が極端に多い。どうもきたいばもこの傾向に多少近い。これは本屋の構成内容をみてるとわかる。後期高等教育以後の人口が老年まで抜け落ちるから教養書を置かないわけだ。で、知的人口の少なさはパチンコが繁栄してることで理解できる。

 要はいわきに従うべきではない。人類史の一般則だが、女権がつよくなると滅亡に漸近する。だからいわきとは距離を保つほうがいい。ああいう女飲み屋の意味がわからないのも妥当なのだ。彼らの知能がボクとは全然違うからあれらのイミフメイな営業がなりたつので、まったく協調できない。
ということは、のこる選択肢は高萩と広域提携に進むことくらいだ。日立の勢力を考えると、遠い将来には日立州みたいな単位の一部としてきたいばは県北端で独自の地位を占めるだろう。地理の条件をいえば、日立・高萩・北茨城はじっさい一体といっていい。海と山が急激に隣接した地域独特の感覚は、どうもほかの地域にはなく、この三つの市にしか存在しないらしい。海と山に同時に近いというのはあまり例がなく、そのどの地域も海からの日の出のみられる土地であるのは共通感覚をもっている証拠な気がする。ここら出身のひと以外にとって初日の出を水平線からみたことのない人も多いものなのだ。

で、これを考えるとこの三者に共通の公立大学は茨大工学部だけなので、われわれ県北三市の意向としてこの大学町としての発展をのぞむのが妥当ではないか。どうもいわきは女には甘くていいかもしれないが、将来性を考えてあまり上等でもない。
よって、各市立図書館同士で連携をつよめて、茨大工学部の書籍や講座と互換的経営をしたらどうだろう。なにか知的風土がとても減退しつつあるのがこの市の雰囲気にはあるていどみてとれるからそこが補強点かなと前から感じている。がいわき明星は上述の理由で、茨大工学部にくらべれば優先優遇すべきでもないだろう。結論をいうといわきは商圏としての利用しかのぞめない。文化面ではつねに日立側に着くのが賢いはずだ。

具体案だが、茨大工学部の準教授とかに講演してもらい、いわゆるカルチャーセンターみたいな生涯教育のムードを市政にとりいれたらどうか? ぼくが見てると、へたに若者だけでああいうイミフメイないわきの猿くさい享楽にふけるより(雨情もその辺でずいぶん暗に批判されてきたので来る勿れ問題のありかがわかろうというものだが)、知的たしなみの中でおのずと交流を深めるという方がよほど高級であり教養高いと思われる。
市のサークル活動みたいのもそのあたりの趣味から生まれてくるだろうし、こういうのがひきこもり年寄りの孤独死にも事前の予防線になるのがまちがいないと思う。わかいころから温泉街のろくでもない店に逗留してるようでは先がおもいやられるのだが、逆にわかいうちに最前衛の発明への意欲とか最先端の技術への研究をいろいろ説き伏せられてれば、大多数はそっちへ興味をもつだろう。
ほかにもこのカルチャーセンターでは華道、茶道、碁、将棋、大体このあたりが定石で、そういうのの交流の中でわざわざはずかしい結婚紹介所を介さなくともしりあいの機会は創出できるはずだ。なによりよくないのはいわきみたいな、放埓な男女関係の増長とかをゆるしておくことだ。スナックもこの観点に弱みがあるので、従業員の精査でいわゆる居酒屋(イギリスでいうパブ、つまり立食か座卓形式の個人個人の酒飲み場、程度。まあこれすら前から言うが国際規制の流れの中にあり最終的には流行らなくなり消えるので規制実行を視野に入れつつ)をこえた営業の一切は消滅させるのが賢明だ。のんだくれに何一ついいことなし。
だれとはいわず先人の汚点にまなんではいけない。いわき市政というものもそういう点では徳川直系より道徳観念ではるか格下なので注意してできるだけ距離を置いていなくてはならない。かれらにしてみればきたいばブランドなるものが過去の逸話からいくらかあるので、中華思想よろしく抱き込みにかかり誘惑してくる傾向があるがこれは罠だ。われわれの立場は関東圏の諸々の条件を利用できるという意味でかれらより優位、または悪影響を避ける対策という面でより複雑なのだからほぼ同じ条件では語り得ない。

2010年7月19日

図書館の考え

かなり前衛な考えだから理解されるかわからないが、市立図書館がてぜまという意見にどう拡張するかという議論は、この方針はどうだろう。
可能ならだけれど、いま上桜井のとこにあるヤマダ電機くらいの規模のとても簡潔な倉庫っぽいだだっぴろいたてものをつくってそれをぜんぶ倉庫型の開架書庫にする。出入り口で管理すればいい。

敷地として、むかし、今の図書館のうらには自動車整備工場があったのだけれどそこがいい。ただし本は水浸しになったらおしまいなのでこの倉庫システムは床高を相当高くする必要はある。だからスロープ(迂路)かエスカレーターでそこまで足腰のつよくないヒトも誘導することだけは必要だが、ほかはとくに工夫もいらない。イメージとしてせんだいメディアテークの図書館を平屋でだだっぴろくひろげたみたいなもの。

倉庫というのはいくらでも転用がきくし、平屋なら安価にたてられ、しかも改築や建て壊しも自由にできる。わざわざあたらしい図書館を(どうせ電子図書化していけばそんなふるいものは利用されなくなって高級すぎるたてものそのものが無用になる)ゼロから建てるよりは、この方針のほうが実があるとおもう。で、いまの図書館のたてものは閉架か貴重書か管理者用にすれば持つと思う。
最近の再開発ではいままであった思い出深いタテモノをすぐぶっつぶしてなにもなかったことにしようとするが、あれだけは避けてほしい。なにか過去がすべて消えた気分でまことさびしくなる。市民が寄付すらしてでもできればあの今は図書館としてつかわれてる建物は保護・補修して遺したほうがいいかもめ。
サイアクでも、表参道ヒルズの場合みたいに一部はのこすべし(調べによると、あれは原型で建て替えたということだ。そういうアイデアもある)。あと屋上は開放して市民の憩いにすればいいと思う。屋上というのは行ってみればわかるがとてもいい場所だ。空しか見えないし、空気がいい。それを昼休みでも何でも利用しないのは市民として損失とおもう。

2010年7月18日

あたらしいトショカンの注意報(かもめ)

 図書館拡張は現時点では慎重かつ巧妙にやるべき。なぜかって、電子図書がいま国立国会図書館なんかでも対応はじまってて、出版界の再編もあるだろうから、いままでのルールがそのままでは通用しなくなる。いわば電子化した図書館のほうがジョウシキになる。

具体的には図書館というかたちそのものが不要になる確率が高い。現時点でもあおぞら文庫とかつかえば普通に昔の文学系の本をわざわざ借りてくるのはものずきとしかいえない。

で、いわき市立ソーゴー図書館のあの膨大な書庫は反面教師。しかもイミフメイなことにとりだす高価過ぎそうな機械を導入している。これだからいわきは中途半端なのだ。
由来をいうと、いわきは情報化のスピードを予見できなかったので、数十年前からあの駅前再開発計画をつくってたのだが、そのなかで図書機能がどれほどはやく進化してくるかを見通せなかったのでああいう膨大な機械庫まで建築計画にはじめからいれこんでしまった。
アイパッドや英米の動向をみてると、あきらかに電子図書がジョウシキになる日はそこまできている。で、グーグルが実践しているみたく出版界もかならず電子ベースにすべての書籍をのせるのを基本にしないといきのこらないし、実際これに遅れてしまえばまちがいなく淘汰される。電子ベースにのせればいままでかかってきた経費がすべて削減できるので、当然安価になかみを提供できるから。

で、国会図書館ではむかしの書籍はすでに電子古書庫している。この流れをよめば、「北茨城シリツトショカンの電子書籍化」はとうぜん今後の設計にくみこむしかない。だから開架図書というかたちそのものをかえてしまうべき。
すべて電子アーカイブによみとりして、市民のカード番号をネットで入力すれば全世界のどこにいてもその市民はきたいばシリツトショカンのなかにある図書はみなよめますよ、というのが基本だろう。で、いままでやってきた窓口での貸し出しや開架書庫での閲覧のかわり数台から数十台の液晶端末を常置しておいて、ここから自分で検索させる。
で、開架書庫や貴重書の閉書庫(いまのところそれがあるようにはみえないが、いずれできるかも)は貸し出し用というよりは「自由閲覧」のために設けるべきだろう。そこでぱらぱらとみて、その図書名をメモるなりで端末で閲覧する世界にしていくのが合理的だし、じっさい使い方おぼえるのがはやい若者とかはすぐそういうかたちになれるだろう。

これを考えると、いわき市立総合でやってる方針はいくぶん時代遅れてしまったというか計画の柔軟性を欠いてたのでちょっとせきすぎたとおもう。あんな機械は電子化さえしてしまえばいらんし、維持費もかかるのであまり賢明じゃないと思う。単に閉書庫にして機密に管理するだけでよかったのだ。


きたいばシリツトショカンの拡張計画は、こういう時代の基本をよくおもんばかってもらいたい。カモメの分際でとおもうかもだが、カモメこそ屋上でよく眺めているのです。そして屋上も気晴らしにいいから開放したらいいのにといつも思っている。
要は広くする意味はない。今後、トショカンは狭くてもよくなる。単にもしこれ以上電子版でない図書(それも近く絶滅に向かう)を購入しつづけたいなら書庫をいままでよりわずかに広く設けるくらいで全然行ける。だから再開発ビル内に「トショカン別館」みたいにして閲覧機、アイパッドでもパソでもいいだろうけどそれをいくつも置いとくだけでなにもおおげさな無駄がねをつかう意味もない。

 出版社との関係だけれど、著作権の切れてないものは購入した途端その閲覧権はトショカンにある、というのは当然なので、まずそこで電子化しておいても作者ふくめ訴訟されることはない。たにしゅんみたいな巌のごときお年寄りがたは例外だ。大多数の作家・著述家には出版過程が省力化され取り分も多くなるから望ましい流れなのだから。
問題はこの閲覧権を、どのていどにしておくか。はっきりいうと「市民サービス」の範囲でトショカンカードある市民にはネットから入力するだけで入荷しだい閲覧できます、というのはセーフゾーンだと思う。いまですら人気作品ですら数冊とか買うか買わないかのキボの図書館なので、なにもすることは変わらないし予約の手間がはぶける(何人も同時閲覧させられるから)だけ良い。
 で、版権問題とかは国と県とにまかせてこの基本システムだけはさっさとやっても大丈夫だろう。もしなんか言われたらそこで変えればいいし、グーグルへ訴訟してるのはたにしゅんらの協会でしかない。むらかみりゅーとかも電子書籍にのりだしているし、あの流れのが普通になるのがまちがいない。直接電子版で買うかそれとも書籍版で買って図書館でスキャンするかは安い方にすればいい。

あと音楽や映像の視聴覚資料は、こないだ土浦のどっかの図書館でネット配信もできるようにしたからそれに追随してるほうがかしこい。いわゆる管理システムを導入すると高くつくので無駄くさいから、それなら図書館内で持ち出し禁止のみききだけさせて貸し出すかわりに私的利用の範囲でダウンロードしてね、という方が利口だ。
��いばしんでさっき調べたら契約上ストリーム形式ではあるらしいが年に15万とか26万とかでいいらしいから市民の規模分の費用を考えるとひとりあたま5万人分の15万円=3円/年で済むわけでこれは使わない手はない。但し、貯まらないとフローのが多くなってくだけな気もするので、いわきや県立でもやってる購買方式も一方ではやった方がいいし、そのあたりは歴史民俗資料館と協調すべきだろう。つまり市に関わりある貴重品だけは必ず買う、と。)

こっからさきは情報化専門性の高いはなしだが、
ぼくが個人的におもうのは、ファイルのタイプをわざわざPDFというマックでも読めるというふれがきに誘われた重たいファイルにするのがはやってるけど、実はJPG(ジェイペグ)の方がずっと軽い。
だから永久保存版はPDFでおそらくいいとおもうが(大多数の作品がそのファイルのタイプをえらぶから、おそらくOSとかに大幅な進化があっても移行や救済がしやすいはずだから)、ふだんの閲覧にはふつーにJPGのがいい。
 これはきたいばらきシリツトショカンが軽快なホムペもってることからも、百ページ以上の書物でも単によめる密度のJPGでまとめてスキャン後アップロードする、だけでいい気がする。永久保存版は市が勝手に鍵つきのハードディスクなりDVD‐Rなりにdpiを高くした高級画質版でしまっとけばいい。この両方版をつくるのがめんどうなら、中間の画像でPDFでつくっといてすべてまとめてJPGにするのが簡易だ。
でブラウザ上でよませるにはわざわざ専用のページを国立図書館とかではつくってるのだが、重くてはなしにならんのでいわゆるファイル&ファックスビューワーとかふつーのウィンドウズ上の画像閲覧のソフトでみせればいいに過ぎない気がする。その操作法のがお年寄りでもできそうな気がするし。
このあたりは市や図書館のホムペ自体もシンプルイズザベストでかなり優秀なつくりしてるのでまかせとけばうまくいくだろうけど、一応。

2010年7月17日

地区のすみわけ

この報道でおもうに、やはり市民性・県民性もあるとおもうけど批判的というか欠点をなくそうとする論調が多い。どうしてもそうなってしまう。水戸藩の影響がおおきいのかもしれない。副将軍を自称してただけあってそのへん自分らに厳しい。

褒めるのが才能を伸ばす骨なので、褒めれば褒めるほどよいわけだが、自分の住んできた感想をいえばこのあたりのすぐれた点は自然環境だとおもう。これは衆目一致するのでは? 穏やかともなんともいいようがない。関東にありながら涼しい。
こないだ吉田松陰の東北遊記よんだが、かれもこのあたりを通過したときはながくつづくキレイな白い砂浜にそうおもったらしく海の漢詩をつくっていた。

 原則として、なにかこのあたりに市民らしさの余地があるとおもう。いくら褒めようとおもっても、文化発表みたいな機会のすくない土地ではそういうものが仮にあるにせよなかなか表にでてこないし、でたがらない達すらある。帯刀と竜馬をくらべてみればそういう性格差は一目瞭然。
がこの利点もあるというか、気づかれないほうが勝手にやれるしへたな観光名所にもなりにくいので自由でいれる。こういう身軽さをのばしていくべきかも。

日立ときたいばのすみわけの余地もなにかそのあたりにあると見る。立地のちがい、自然環境の微差ものちには大幅なちがいになるとおもわれ、市の方向性もこれにならえば北関東圏でもかなりおもむきのちがう世界ができあがるかも。

かんたんにいうと「文化の造りや性格は消極的だが自然環境は抜群に良い」という考え方がもっぱら基本か。自然環境面でいって、これはすみごこちのよい世界の骨なのだが、単に放置するのではなく単に手を加えるのでもなく自然の特性を強調するのがいい。海辺は海辺らしくし、山間は山間らしくする。この工夫がないと未開地と変わらない。
で、地区制の導入もその一案だけれども、建築条例とかで海山川の三箇所にちがう規則を設けるとかもいいとおもう。山で目立ちすぎる高層は原則として抑制、海辺では帆の様な軽快な構造をガイドラインで推奨とか、川べりでは親水空間を設けると助成あり、とかこんなものではないか。それで市や県がもってる生の自然との対照がかなりそろってくる気がする。
 なにも私に口を出さない範囲でも、ぎちぎちの堅い規則にならない程度になにか共通の符号というかデザインコードを公共物に導入するだけでちがうと思う。いわゆる古都とかで自販機を茶色で塗らせるとかいうレベルのものだ。
いまの段階でも町の通りには雨情系の図柄や雰囲気がつらぬかれてるけど、ああいうことを地区毎にあるていど考えと趣をかえていくとさらに多彩になる。自然環境のよさをほこるにはそういう工夫がいると思う。

僕が子供のころ遊んだ華川の清流は道路拡張でコンクリ護岸でつぶれてしまった。それも地区ごとにこまやかな配慮をしないから実質の自然破壊になってしまったということだと思う。おなじことは、中央政治の一本やりで貫こうとすると海でも山でも川でも起こるはずだ。

2010年7月16日

深夜営業規制のこと

 きがくるった人物が通りがけに爆竹を爆破させていくまじでおかしいきたいば社会。ヤンキーのレベルが。

 それはそうと、東北圏の低い倫理観の悪影響を受ける前に市の深夜営業規制はできるだけはやく制定した法がいい。法がいいとしかいえない。誤字ではない、東京に、国法にまかせておくと永久に規制できない。つまり市の条例で規制してしまうべきだ。

夜8時以降は、飲み屋をふくめて従業員が客を相手に商売してはいけないことにするといい。要するに夜8時からはどれだけ出歩こうが無人店舗の自販機とATMしかない、という状態が環境浄化の目標だ。これは制定が早ければ早いほどいい。そうすれば早起き営業がはじまるだろうが、これは都市風紀の健全面からどっちかといえば望ましい。カモメライフをみよ。
これから先のあるこどもが安心していられない町にしてはいけない。ねしずまった町に爆竹放つどうでもいいヤンキーの溜まり場しかない町などだれも望んでいないし、望むなら嘴太(はしぶと)ガラスのように大都会へ帰って欲しい。ここは童心の町なのだ。
カーカーとさみしく鳴くみやまがらすしか呼んでないし、それは童心があるからそう鳴くということになっている。そういうわけで、あのグリーンマンション看板も外してほしい。だれも注意しないらしく放置されてるが、住む場所をまちがえてるのでさっさといわきへ帰ればいい。

それとどうでもいいが、いわき市で深夜営業規制をなぜやらないのかわからない。福島そのものがろくでもないからだ、という理屈もあるが、問題はわれわれはいわきと隣接してるというわけだ。よっていわき市については深夜営業やめてほしい。へんなのがこっちまできたら困る。もしやるなら郡山あたり奥地でにしてほしい。それなら磐越東線とかローカル線でしかつながりなくなる。
常磐線界隈ではそういうのを浄化して行こうと思うし、実際浄化し易いだろう。なんでかって一つの場所でそういう条例が通れば、その沿線でも同じくしないと意味ないので、さっさとおじさんがおうちに帰って連鎖すると見た。カモメの遊ぶ海岸線をよごさないでほしい。人間どもの勝手きままな深夜営業でながれてくるごみくずで。

 あとこれに加えておもったが、市内には二つある本屋、あとコンビニとワン○ー×ーでつねに売られてる成人向け漫画雑誌DVDゲーム他を、市政の議員はいちどどんなのか行政の監視のもとで閲覧するといい。東京都ではそれをやってみた結果、あまりのひどさにおどろいて規制しますと言った。無知は罪。さいきんのひどい漫画は底なしにひどい。当然これも販売禁止かさもなくば身分証提示を義務づけねばならない。
だいたいああいうものを売って儲けるということが悪業だ。それに、日教組とかの過激派が教育だとか偽って未成年に無益な放埓をおしえこもうとする。その結果は未成年から成人以後までの時間を無駄にするだけだ。結論から言えば、ヒトは動物としてどうせどっかから生殖知識などひっぱりだしてくるものだから、刺激しないでおけばいいだけだ。ゆえわざわざ販売してまで教えようとする意味はまったくない。
 市議会議員の親御が知ってるかどうか、男性向けではなく女子向け、むかしでいう少女漫画がひどいのだ。これでは先々がおもいやられる。どの国へ出て行っても日本人といえばみたいなまなざしで偏見づけられるのも時間の問題といえよう。自業自得。行政閲覧での販売規制に限度はないわけだ。端的にいって、イギリスでそういうゲームがさっさと規制されて日本製成人向けゲームequalろくでもないみたいな図式ができかかってるが、それが賢明だ。本当なのだから。

2010年7月13日

かなり以前

九州大の教授がちょうちょ型のロボを開発した、とべますというのを日テレ系のあさのニュースで映してた。ずっとまえですが。

結論からいうと、あの教授とじかで契約して、日立あたりが量産または関東近郊のベンチャー企業との別注にすすむといいと思う。なんであんな朝から全国放送してたかったらつくったはいいがどこにも受け入れ手が、特に九州圏にはなかったんだろう。
はっきり言って軍事用途しかいまんとこないとおもうが、そう純粋に考えればとてもつかいみちがある。県警、すくなくとも筑波警にはあのくらいの先進設備は導入してもいいと思う。被爆地での迅速な救済とか、そういう事前の準備にもなる。そのくらいすぐれた発明だとおもったが、風流ねぇみたいな見方をしてたのでそれも一理あるが二理はない。

2010年7月11日

市内の教育クラスわけ

公教育のはなしなのですが、全国キボのはなしされてもここはきたいばだぞ、という庶民はのみなさん(読者がいない)のご意見はうけいれないことはないですけれども、まじでおかしいというのは自覚してもらわないといけません。

塾で学校の予習復習させる、というシステムは公教育が機能してないにひとしいのではないでしょうか。これは正論すぎておもしろくないはなしでしょうけれどね。「教員はくにの方針でまじめにやってる。なにもおかしいことはない」というはなしは、くにがおかしければあなたもおかしいのだ、で終る。税収で生活しているのだあなたは。土台おかしいだろう。

 単純に、「塾だけで卒業できるシステム」ならおかしさは少ないのですが、おちこぼれうけいれ装置としての義務教育の学校はそういうよく勉強ができる層のあしをひっぱることしかできてない。文科省の意向は権力闘争でころころ変わるし、けっきょく塾の方がもともと大学受験まで視野に入れるクラスで分けるので信頼できる。これはたしかなはなしです。

日本人が習慣として公教育とかそういう公共分野での機敏さに欠けるのは重々承知ですが、市内に高校がひとつしかない時点でもこれを継続されると、ほぼ絶望的となる。
どうせ日本人ごときにはムリだろうが、『市内の塾と単位互換』を画策したらどうだろう? もしこれが実現すれば、いわばあの足を引っ張るだけの底辺タバ高校で希少な人材が駄目にされる確率は減るので有効だと思うが。要は文科省と徹底して折半して、私立の高校互換装置として市内の塾を格上げしてしまうのだ。
もし市の特例的条例だけでこれが可能なら一番いいが。こういうことを実行してしまえるのは若手だけだから、老後はさっさと席を譲るか、または反省して意欲と理由ある新人を抜擢していくべき。世代交代なくしてあのタバ高が生徒指導の自己評価をBやCにするなどという大甘の醜態がきえさることはない。未成年の犯罪許してるのか? この市の教育は。

2010年7月10日

また土建票ネタ。戦後(笑)すぎる

http://www.pref.ibaraki.jp/download/02summer/002.html

↑このような県のホムペ発見。要は自然破壊しますよ宣言を堂々とされても少しも共感できない。いい加減土建談合選挙票バラマキ国家の体制が終ってるのを認識したらどうだろう。うらみと禍根しかのこさないわけだから。それとも市でやってやってとせがんだのか? そうなら余計救えない。

こういうことをしているから人が入らない自然までごみ捨てられ、「いたちごっこだ」とか堂々と市政でほざく。循環とは自業自得ということ。いずれそいつの住んでる家まで不法投棄(悪意の)で終るのだが、かもめにしかきづかれない。かもめライフは飛んで崖に舞うほか、砂のもくずに帰るだけだし自然破壊されればべつの土地へ移住するだけだからまこと気楽。

長浜破壊やろうの身元をつきとめてフンおっことしてやる。

2010年7月7日

地区制の考え

これからトウキョウあたりでもやりだすかもさはもっちゃ高いが(どこ語だ)、「自治圏の移譲」は流行というか、中央集権一本槍でやってきた近代日本の行政区画が経済発展面ではおわりに近づいてるというかもうその限界効用はすぎたみたいなので、水戸かきたいばかどっちか先にやるといい。

きたいばでやれる策としては、つぎの広域圏ごとに「地区長」をえらび、かれらに自治権限として現行法で可能なすべての権限を委譲し、ほかへ干渉させないことがあるのではないか。
つまり中郷地区・大津地区・磯原地区・華川地区。(あるいは華川と磯原は中学校見たく統合してもいいのだが、どうも山びとと海びととでは考え方に昔から差があるみたいで、そもそも意向が違うのだから協調させなくてもいいとボクは思う。山は山でのんびりやりゃいいし、海は海でばんばん進めばいい。この両者を同列にあつかうのはムズイ。特に経済の方針的にそうなる。どっちかがいやおうなく歩み寄るまではそうしてればいい。)
でこの地区に限っては租税率・土地区画・自警団とか要は行政の基本機能を勝手につくってもいいですよとしておく。代表は、市議会に出席させる。超薄給で。というのは微妙だが。最終的には市議会の権限と市長のたてまえに従うべきだけど、その内部でのはなしあいを地区ごとの意向をもちださせてより詳細にしようというわけだ。

で、それらの間に一定の競争関係みたいのをみちびけば、今ある矛盾みたいのは減るかもしれん。つまり大津野郎がこっちのまちなかでチャラチャラタバ高生してんじゃねーよ、とか商業化した中郷地区住まいのくせに華川の平和な山里へ口出すんかいとか、磯原住まいなのになんで童謡ムードじゃないのよとかそういうものだ。そんなのあるのかもしらないけど。ビミョウにしかないからいわれないのかもだが。

けっきょく、各地区の問題点とか希望は本人らがいちばん知ってるわけで、相互干渉させないほうがいい。まちの人はつぎつぎ発展したいかもしれないし、山や海やの人はほっといて欲しいだろうし、中郷の人は温泉やるなり畑やるなり放っといてほしいと思う。
で、こういうプラン詳細を市長に一任しちゃうと、ようそろーvs国道バイパス化みたいないらん地区間バトルが頻発し、全体として長い目でみたとき調和が乱れる。先代と意向が違いすぎると各地区がばらばらに動いてしまう。炭鉱跡の活用なしとか、工場でなにやってんですか、え、温泉つぶれんですかとかはここから出てきた。地元の内情しか知らないのだからそれは仕方ない。

それらの中で福祉のレベルもびみょうに変えたらいい。華川ではおとしより一軒家見回りとか必需だし、まちなかではうざいから町内会をのぞいてそれはいらないかもしれない。こういう行政奉仕のこまかな分配は中央集権ではたぶんムリか、陳情聞ききれないのでむずい。
大津地区では絶景鄙び旅館やら美術館やらようそろーの文化施設と港多いので泊りがけアンコウ観光にも特化したまちづくりにできるだろうし、その場合わざわざ市の許可とか市や県ののろい計画道路敷きとかにかまってなくても地区権限でプランを提出し、部分認可された途端にやってしまえばいい。中郷は農家とああいう商業施設に土地売った人らの間で所得ギャップを是正してほしいと思われ、それには固定資産やら法人税を累進化すべきかも。かもめ。

2010年7月5日

議会で知識人枠の専決

おもうに、というかJ.Sミルが言ってたのだが、市議会員のなかに意見評議委員として「知識人枠」を設けるのはどうだろう。これだけ規模の小さな議会だからこそできるはず施策で、水戸あたりでもできないことはないだろうけど規模が大きいから導入は遅れる。

へんなはなしなのですが、この市で傍聴人が一人しかいないのが通常とは、最大多数は「公益」について真剣に考えたり討論する習慣も動機もない。要はいわゆる愚民だ。が、それにも利点はあり、御しやすいというか操作するにはいいわけで、実際儒教はこの点で是政者にゃ有利な思想であったわけ。

 こういう特殊さをかえって長所にかえるには、本来は市民全体の同意がいる過程を、かなり選良主義的に省略できるということで、好機ともいえる。
はたしてこの市に知識人なぞがいるかって、そりゃ高校教師くらいが関の山だろう。だから『外注で知識人枠』を設けるといいのではないだろうか。もちろん、この議会は公開を要する。ホムペにのせるとかもいいが、それだけ戦略漏れでもあるわけで、単にいままでどおり市議会の場だけで意見交換してればいい気がする。

かんたんにいうと、教養を底上げするにはそれ専業者にまかせるのがいちばんだが、市内にはその人材が不足してるので、外部から先生を招くのが最良。でこの頭脳層をいつも定常的に確保してくのが市のいきのこりには唯一の施策らしいので、つねに厚遇する意味でおもいきって市議会委員と同等のあつかいにしちゃえばいい。
そもそも、議会サボり議員もどうも一名ほどいつもいるようで、ふつうに体面飾ったコネ談合にすぎず無駄すぎるわけだ。これはお話にならんわけで、市の中でも市政への正確な批評ができる程度の市民の監視は機能していると考えれば、そういう層(文化人層とよぶ)とのつながりこそ教養の土壌たりえる。
なんもしないコネ談合員へ年額1200万、つまり公費を月に100万つぎこむのはなんと言っても大馬鹿である。決して浪費したカネはかえってこないのだ。公費は民の脂であり、その味は苦い。なぜならそれが良薬というものなのだから。

ところが、この分を(この程度なら意見表明のために議会のたびに市外から足を運んでもらうのは申し訳ないほどだが、市議会の頻度を考えれば好意から受け入れてくれる教授や研究家の方もいるはず)まったくもって市の発展エンジンそのものである知識人枠へ投資すれば、のちにどれだけ豊かな地域財産となるかわからん。
具体的には、ポピュリズムに陥らず、冷静に筑波大教授か、東北大教授、または水戸あたりの名門家(地味に徳川界隈の血統は遺伝しているのだから)、しかも直近の市政の課題にもっとも関連の高い分野の先生をまねくのが賢い。あるいは今回みぢかな土浦でああいう一流のスポーツマン(ウーマンだが)を育てられた石津家のお父さんも、環境作りのため的確なアドバイスを受けるにはいいはず。
特に、市にとってはるかに不足している科学者系の方。これを重視すべき。
現職にかぎらず市長の独断だと偏見から問題が起きるはずだから、この対象もよく公開された市議会の場で討論したらいい。
最低でもいわき明星大か茨キリから。こういう工夫で、市の文化環境が底上げ的に向上する未来が期待できる。政治というしんがりのたちばで上限が上がるというのは、いやおうなく最低レベルの市民も感化されてしまうということだ。
 それとこれに関連しておもったに、反面教師の意味だが(結果はどうあれ。また必ずしも批判ではなく、参考事例として)むかしの水戸市長が実質一任で選良抜擢型のまちづくりを進めてる感じなのはビミョウな気がする。
具体的には時代の有名な一流建築家とかを安易にまねいてしまいやすい。大工町再開発にせよ、水戸芸術館にせよ。けどそれの結果としてみえてくるのは、地元っぽさが歪んで都市計画の全体があまり連携してないということだ。つまり上意下達だと、特にまちづくりは全然巧く行かない。しかも計画どおりにいかず衰退すらする。社会主義とはそういうことだ。
おなじことはきたいばにも言え、いわゆる石井さんにたのんでしまったり勝手にやっちゃう感じは、将来をみこすとあまり賢くないはずだ。やはりプロポーザルとか公開でやった方が、総合してみるとおもしろいものができたりする。たとえば金沢21世紀美術館とか、ああいうのは公開でやってたら意外なのがひっかかったみたいに偶然さが入り込んでいるから魅力なのだ。俳句もそうでしょう。
要は市長の趣味のおしつけは、本人の意思如何に関わらずけっきょくみんなに迷惑がられる結果が多い。きびしい商売だ。

文科省から大学評価というのの中に透明性の確保という意味で分割だけじゃなく「競争発注」の有無というのがあって、イバ大と張ってる奈良研究なんちゃら大学院があり、そういう点での競争(正確には協議だろうけど)の確保はやはり有効だと思われる。
つまり上述の知識人枠でも、できるだけ市議会員みんなの意見をとりいれる形で、投票、最低でもくじで決めたらいい。そうしないなら私的にブレインとして雇うべきだ。公費を使うわけだし、そうでないと人気を遠ざけるほどお堅くなりすぎてしまうわけだ。所詮つーかよかれあしかれお役所人事であるから。クオーク

��あと付け加えみたいだが、ぼくが前からみてるところでは、「市民からの多数決型の公募」は無用か、すくなくともあまりよくない。かんたんにいえば衆愚な意見になる。これはいわき市の動向をみてると「なあなあさ」がいっちゃわるいことだがほんと反面教育になる。何億かけて駅名かえてんだとか、ラトブってぷぷぷとか、なんでたにしゅんやねんとか、共学にすりゃいいってもんじゃないでしょとか山ほどでてくる。史的にもなんでそこで降嫁やねんにいたる。
つまり『選良の意思』を全体に優先させるのは賢いのだ。全体の衆議つまり世論を無視しろとはいえないが、重視する必要条件はない。もしそうなら何のための選挙かもわからん。)

2010年7月4日

子供手当てのアホさ加減

戦後型集団教育というシステムが、この一世紀内には崩壊し尽くすと思う。ボクのこどもの時点ではもう完全に終わっていたのだから。まったく機能不全だし、悪影響しかなかったと言っていい。

格差論というのはそれがどこまでも広がること、それが進化という思想なことを理解していない社会主義系の人が言うとすべて間違える。子供の時点で生後の努力の有無に関わらず、100m走で世界記録を出せる遺伝は決まっているし、後天な学習でも到達できる範囲は、かなり時代の中で決まってしまっている。
だから集団教育は粗雑な「急いで高度成長させたがった上意下達」のぼろい方法で、これを信じているアホなジャップがどんどん自称公教育の悪意に呑まれてってもなんの疑問も感じないほどだ。もちろん、この話は知識人以上にしか通じないわけで、義務教育のシステムは労働者以下には有効でありつづけるだろうけど。

要するに選抜型の集団教育システム自体はこの一世紀のあいだは機能したがるだろうし、現に学歴社会の残滓があるかぎりそれは残り続けるだろう。この地域の特性から言って、井の中の蛙みたいに東京文化圏の影響にある程度遅れて追随したがる傾向が、特に知的下層の部類にあると分析や仮定すると、これはここでは一世紀後にも残る可能性がある。
「学校に行け。」と命ずる親は、この地域ではあと一世紀(つまり百年)後もある数はのこるかもしれないが、その子らが5000人規模のまちで生き残る可能性はほとんどないだろう。進化の先端から遅れすぎているし、独立自営農民の身分(武士階級などには農奴視されてきたわけだが)がどれだけ安定した第一次生産者でありつづけられるかも疑問だ。

 ボクの私的予想では、21世紀で公教育の現実的機能は終ると思う。で、それは関東が最も先に進むだろうから、この地域もその余波か先鋒で学校組織自体が意義として終る。
けっきょく、この推論にもとづくと「地域の子供を教育しましょうビジョン」はほとんど古い考えなのだろう。その子供は出て行くしか生き残る道がないのだし、出て行った者のなかでもほとんどが淘汰される社会環境ではそんなことに時間を割いていられない。変なはなしだが集団教育の終焉みたいなのは子供手当てとか言い出したころからもう見えてきた。
そんなのなぜ負担させられるのかがわからないし、日本が滅びようと生き残ればいいのである。なにを考えているのだ? やはり女脳に救いはない。他人の子供にかまっていられる次元の頭なのだろうか、誰とは言わないがあの南蛮奴は。完全に無駄なうえ害なことをやっている。

タバ高生など死んだところで誰が困る? そんなのしてしまう成育環境と遺伝の時点で終っているのだから、親が悲しむのかもしれないが自業自得ではないか。誰も同情などしてられない。45000人の市民はあと25年後にこの真理に気づいて呆気にとられるか、諦めるに違いないが。

 ボクがこの入力でいいたかったのは、『選良以外は亡びていい以上、馬鹿への全員負担原則の投資はムイミ』という厳正な真実。機械の方がタバ高生よりよく働くしミスも少ない。なぜそれなのに、暴走や発情しかしない劣悪な人口などをふやしたがるのだろう? まったく戦後育ちの思考能力は蟻より低い。やはり栄養面での問題があったのだろうか。
選良層への迷惑さえ排除できればそいつらがどこまで堕ちようとまったく同情もいらないし、同情のひまさえ無駄なのだ。これが本当のことだと、今後永遠に回復してこない経済状況のなかで多数の市民も自覚していくだろうが、カモメなんかには現時点でわかる。空からみれば一目瞭然ではないか。なぜ地を這う?

2010年7月3日

国際語のはなし

http://wofwof.blog60.fc2.com/blog-entry-374.html

↑この楽天批判は役立つ。そう考えると急速な英語公用化にも一定の留保がいるのかも。つまり、「損が最小」になるとき採用すべきで、それは現地とのつながりが過大なときに限る。

というわけでもないのは、たとえばサム○ンがどれだけ以前から海外市場を視野にいれてたかってはなしと似ている。つまりこの批判も擬似批判というか、結果論で、サム○ンを考えれば「国際語としての英語圏との親和」は相互作用みたいにして進んでくわけ。
公用化と実用化のどっちが先でもない。保守チシキジンからは英語による自己殖民まがいなどとんでもない、と反論されるはずだが(某数学教授など)ぼくの見る目がまちがってなければ、それはいやおうない趨勢なだけ。

つまり日本語が地球の公用語になる未来は確率からしても過少でほぼ無限の時間がいるので(どう考えても人口分の経済力が足りない。漢語圏との親和にしか古語の生き残り策がなかったように)、そうならそうでどう国際語に親しむかの方が優先。
公教育のたちばを思えば、ボクは公用化はすぐれた考えだとやはり言う。しかし現実には厳しいという意見がやはりあるべ。そこで『イギリス人教師』が有用。これさえ数人以上入れれば漸次に文化そのものがひとりでにおきかわるはず。

水戸学が朱子学派の最先鋒になりえたのは、朱舜水の功績がいかに大きいか分らない。ぼくとしては、ツクバがケンブリッジつながりあるところからやはりそこから招くのが最良だと思うけど、本物が難しいなら周縁圏から注意深く選良を招くのが賢い。

ecologicalなバッグの清潔問題

ほのぼのでもない話ですが、ecology bag(そうはいわない)のはなしで、きたいば圏でくばったのは何製かしりませんが汚いらしい。というか洗えないと普通にやばいらしいです。こういう盲点があるわけです。食中毒の季節、これはやばい。市でどう責任とるんだとかいわれるとおもいます、化け物親(そうはいわない)に。

しかしエコバッグというと日本人っぽくあほくさいのだが、生態学かばんというのはいい。それとも生態学的鞄なのだろうか。そういえばいいのに。庶民はエコがなんなのか(「囲う」という意味の英語の接頭語でせう)理解していないはずで、やはりその辺が日本人ですね。大腸菌ひろめるバッグをエコというのか? とか思い出すやからすらいるだろうに。

 市報とかに載せたらいいですし、載せないなら店頭から条例で洗えるバッグだけを残したほうがいい。使い捨ては清潔のため、という考えは新しいものでもない。問題は素材であり、再生資源ならむしろその方が単価が安ければいいのかもという場合もある。薄い麻とか。
むかしの風呂敷素材ならサイショから洗うの前提だから問題なかったのだが、ナイロン製とか洗濯いるの? って雰囲気で問題ありそうだ。