2010年11月5日

高等教育の再参加制度

なぜ暴走がクールとか勘違いしちゃうかっていうと、無知なだけなのは明らかだ。かれらは本当にあわれむべき無知なのである。家庭カンキョウもそうだろうし、社会カンキョウも。かわいそうといえばその通り。

たとえばきたいば人は、放送大学が地上波で受信できない。北関東まで届けてくれてないからだ。もし水戸あたりが中継してくれればみんな大学レベルの基礎教養は実質無料でつけられるのに、無知なあまりそれがない。かわいそうだ。南関東までは届いているのだが。

 で、思うにかれらがなぜ暴走なんていう犯罪でしかない行為にのがれるかっていうと、「再教育」に参加できる体制がこの社会には欠けてるのも大きい。いちどおちこぼすと、二度と参加できにくいみたいな村八分的慣習が教育システムにのこってるっぽい。

けどかれらもいつまでも子供じゃないので、いつかはじぶんが無知なことを恥じる日がくる。そのとき、地域主体で温かくかれらが自己を再教育できるカンキョウをつくっておくべき。放送大学の受信設備を図書館に入れるのもその一つだと思う。いったい。あほ市長がじぶんちまで光ケーブルとおしたいばっかりに市民をだまくらかして一人ずつ110万円ぶんどって、こんな当然の義務すら果たさない市政がまつりなどやっているばあいだろうか? 笑えるどころか憐れむべきである。まこと救えない。勉強しろ。勉強に勉強を重ねれば道が開ける。というか、もはや人類は勉強するしか道がないのである。

で、高校もやっぱりいろんな年限の人がはいれるようにしとくべきなきがする。この意味で、市の教育長は高校を社会人入学もできるようにととのえとくほうがいい。ヤンキーはかわいそうなのであり、それはオタクよりもっとかわいそうなくらいだ。なにもわからず社会に子連れででていっても派遣あつかいでみじめな気分でパチンコばかり。これで娘を虐待とか。なかごうのあの新興郊外店のあたりにはそういう生活形態をかなりかんたんにさせてしまう誘因があるのだ。なにもかもあるわりに高文化のきっかけが欠けてるのだから。小学いちにち図書館員とかみてても、磯原あたりの小学生とはとても民度がちがう。これは大津地区(そっから山奥の関本系ふくむ)もだいたいは似てる。
 だからこの市の中心地区はどうしても磯原(華川ふくむ)圏になるだろうから、そこでできるだけ高い文化のきっかけをあたえるのが必要。磯原郷英もやっぱり市民といっしょに学ぶ、という姿勢でとしょかんの自習設備とかで連携して発展すべきだとおもう。ちなみにカモメ的にいえば屋上だけは行きたい。自殺する者などどこでも自殺するのだから、息抜きのが重要だと思う。これは水戸学の風土が「一張一弛」だったことからもあきらかに。つまりは、勉強する場所と併設して、息抜きできる場所が重要。

なぜわかい市民がスポーツ設備をつかわず公道で暴走するかもあきらか。バカ市はいますぐそこを解放しろ。なにがなんでも。

↑これかいてからおもったが、私立はどうしても選良向けになってしまう。塾にいくのは成績のいいの、となりがちなのはそれがかなり学費かかるから。悪循環って意味で低所得→低学力→パチンコ→暴走族→低所得→…のループになってしまう。だからこのループにいやけがさせば自分からぬけだせるしくみを社会カンキョウがあたえておくことが重要。低所得→中くらいの学力→スポーツ→民生員→中所得→中の上くらいの学力→…ってくらいのめぐりなら許せる。だからこそこの「中くらいの学力」をあたえなおせる場所が、できるかぎり安価にひろく市の中心圏であたえられるをえる。これはやっぱり放送大学とかの設備がいちばんいいと思う。としょかんそのものはあれでもなおざりにはできない蔵書だ。
 また、都市計画学でいうと施設ってのは人口一様分布のばあい 1/(√人口) のわりあいで設けないと効果がない。なんでかって面積当たり移動距離は二乗でふえるのに施設へはその間の主観点からしか到達できないから。
たとえば下の図で あ から他のふたつの丸まで行こうとすると、距離は二倍かかる。なぜなら往復するから。



で、人口が二倍になり い の人があらわれたとすると、また移動距離は二倍ふえるのに人口は一人しかふえてない。


こういうわけで、人口あたり二乗の割合で施設をもうけないと満足な都市にはならない。だから二乗のわりあいで人口は、自然にはあつまってくる傾向がある。なぜ市ができあがるかといえばこういうわけ。
 で、いま図書館のあるあたりへ施設集積させたほうが、ばらばらに分館をつくるより二乗だけ効果が高い。ぎゃくにいうと、もし中心地域より遠くへ施設をいくらつくっても、たとえばその距離を半分にしたければ四倍の施設がいる。こんな風に。


よって、じつは公共施設というのはこういう風に作るのが合理的。


そうすれば人口が二乗比でふえても、施設はその√分の1のわりあいですむわけだ。つまりは、磯原のあの図書館あたりへ学習設備はあつめるべきなのだ。そうすれば市内のひとがより便利に幸せに勉強できる。