2019年2月25日

国策公害というべき東京都内の会社・日本原電の寿命が尽きた老朽東海第二原発で働いていた少数県民の為に、当然の廃炉と同時に、より好条件な職を斡旋する義務が原電・日本政府・東京都庁・自民党員側にはある

もし老朽化して40年の寿命を過ぎた老朽東海第二原発を日本原電がカネほしさに公害をもたらしても再稼動したいとほざくのに、周辺自治体が同意するつもりなら、そこに唯一ある懸念というのは東海第二原発での仕事をしている少数の東海村近隣県民(たぶん数百人以内だろう)の失業だけなのだから、これまで他県に原発公害をおしつけ暴利を貪ってきた日本原電と日本政府、東京都庁、そして自民党員に、彼ら失業する者の為に以前より好条件な仕事を斡旋するよう命じるのが正しい解決であろう。これは公害をこうむってきた県民側の当然の権利というべきだ。

大井川知事は再稼動是非の県民投票を行わず反日やくざであるところの日本原電・自民党・東京都庁・天皇政府らとつるんで300万人の日本国民の命を犠牲に保身を図るのか?

茨城県民投票で、東京都の会社である日本原電が要請している、老朽化した(福島原発と同様の)東海第二原発の再稼動是非を問うべきだ。
 大井川知事は自民党の支持を受けて前知事を破っているので、自民党に媚を売って保身をはかり、県民・国民の命を犠牲にしようというのだろうか? 東京都民の金儲けの犠牲になって何百万人も大量虐殺される、しかも自分の統治する県民が殺されていくのを後押しし、手助けする知事が大井川氏だとしたら、これはもはや反国民的存在という他ないであろう。すぐに全県民に、また都民による原発公害で被害を受ける周辺県民にも再稼動の是非を問うべきだ。
 はっきりいって、利己的なダークトライアド風の悪意で、原発公害を他県民におしつけ、犠牲にし、自分だけ金を儲けようとしている国民殺しの死の商人が東京都民であって、要は都民全般が極悪人なだけなのだから、この権力乱用の構図は本土政府と沖縄県の間にある不正な関係とおよそまったく類似である。東京都民全般は自分の金儲けの為には茨城県だろうと沖縄県だろうと、福島・青森・新潟だろうとどこであれ大量虐殺を平気でやろうとしている。それは完全に悪意でしかない。殆どが東京都民であるところの日本政府がその種の権力乱用の悪癖に耽って恥じないのは彼ら公務員が皇族含め腐敗しきったからだ。
 われわれ日本国民は全精力と全才能を尽くし、東京都にある日本政府と東京都庁を完全に覆し、原発公害だの基地おしつけだのありとあらゆる悪意で日本国民大量虐殺をはかって金儲けしている東京都を征伐しなければならない。この為には手段を選んではいけない。相手はそれ以上の悪事をしてくるのだから。

2019年2月23日

東海第二原発再稼動の是非を問う県民投票を行うべし

茨城県庁も東京都の会社である日本原電による東海第二原発再稼動の是非を問う県民投票を行うべきだ。当該原発事故で悪影響を受ける周辺県民にも投票権を与えるべきだろう。
 東京の一企業による暴利の犠牲で茨城県民含む日本人が大量虐殺される大公害、外部不経済を是認するのは、反県民的国政・県政というしかない。当然どんな手を使ってもこの非国民的な日本原電の悪業を防止する必要がある。自民党政府が腐敗しているならその完全解体も視野に入れるべきだ。

2019年2月22日

東京都の会社たるところの日本原電の再稼動公害による国民大量虐殺を阻止する為には革命権行使での日本政府転覆も躊躇すべきではない

東京都内の会社である日本原電の村松衛社長も恐らく東京都民なのだろうけど、簡単にいえば茨城県民を大量虐殺しながら、命と財産を奪う大公害施設で東京都民である己の金儲けをさせてくれ、と、意味不明な再稼動目指したいとかいう伝達を、今回2019年2月22日に茨城県庁で大井川知事にしたわけだ。
 で、この人が単に極悪人なのはもうすぐ隣の福島原発をみれば明らかなことで、前知事の橋本まさる氏が堤防かさ上げしてなかったら、日本原電単独だったら茨城県も福島県と同じ状況にあったことはほぼ確定的である。確か、津波をぎりぎりで防げたのはほんの数十センチとかの差だったし、電源喪失自体は日本原電の方でもしていたのだから。
 これを全て鑑みる限り、この村松衛という人物は、裁判で処刑されても仕方ない国民へ公害をばら撒いている人物なのが間違いないことであろうと思う。勿論それを容認している自民党政府の側にも致命的な悪意がある。東京都内につくればいいではないか。皇居原発だのお台場原発だのを作ればいい。その上で安全だといってこっちにおしつけてくるなら分かる。どちらにしても馬鹿はバカだと思うが。どうしてここまで、日本原電社長は、自民党員は、そして日本政府や天皇や、彼らを支持する日本国民一般は人間的に最悪になれるのか。まあ先ず間違いなくこの村松氏はサイコパスであろう。だから他県民が死のうが恐怖でご飯も喉を通らなかろうが、自分さえ金が儲かれば何でもいいと思っているに違いない。
 外部不経済を内部化する能力がない日本政府や自民党安倍政権は、勿論既に国益どころか国害以外なにものでもないのだし、その上に胡坐をかく天皇皇族閥も一斉に永遠に国政から除去されることが先ず大前提として、次にこの日本原電社長もやはり国民に対する公害のおしつけをする極悪人として、裁判なりそれを超えて倫理的責任を問うことが未来永劫必要であろう。当然それは怨嗟の念にもなるだろうし、どれほど謝罪しようが、一族郎党、永遠に憎悪され、日本人全体を超え未来の全人類から恨まれ、場合によってはあらゆる手立てで、合法的な方法をとってさえ心理的には復讐されることになると思う。そしてそれは当然の報いだろう。なぜこの村松という人の金儲けのためにわれわれが殺され、命を常に脅かされ、精神的不安やら心的外傷やらストレスやら、土地財産を奪われねばならないのか。再稼動前になんらかの革命が起きて、日本原電も東電も、日本政府も天皇家ごと除去されることになると私は予想する。そうなる以外、国民自身が命を守る手段がないのだから、革命権が行使されるはずだ。そしてこの村松氏は、日本原電という公害会社の全利害関係者もろとも、未来の全人類から怨まれる結果、なんらかの因果応報で不幸な生涯を終えることになるだろう。それが業というものなのだから仕方がないと思う。
 単なる共通善としての法が極悪公害を裁けないなら、心理的・社会的制裁として復讐が遂げられるはずだ。日本全国民の金儲けしたさの強欲、貪欲、他人の命を殺してまでも己の金を儲けたいという悪意が、原発再稼動という都会からの公害おしつけの体たらくに現れているのだが、もはや人道の面からいえばこの種の極悪日本国民自体が滅亡してもおかしくはないのではないだろうか? 実際そうなりつつあるが、少なくともどれほど怨まれても足りないだけのことは日本人全般はしているのだから、地獄におとされることだろう。
 結論をいうと、この村松氏がなんといおうが再稼動は絶対に禁じるべきだし、それは命と金では比べ物にならないもので、命の手段なのが金だからだ。高々電気料金をけちりたいがために同国民を殺そうとするなど、幼稚園児でも悪事だと気づくであろう。それに気づけないとしたらこの村松氏だの日本政府の構成員だの、自民党支持者全般だのがサイコパス度が高すぎ脳の良心を感じるはずの部位が機能不全だからに過ぎないし、さもなくば群集心理で国民虐殺という大悪業をしているのに自己修正が効かなくなっているだけだ。したがって大井川氏がどんな判断をしようが、一日本国民として、いやただの人類として、人の命を奪う原発再稼動は絶対に防止しなければならない。大公害で殺されるか原発を止めるかであれば、どんな手立てを使ってでも原発を止めるしかないであろう。そのためには公害をばらまいている日本原電だのその背後にいる邪悪な日本政府だろうと打破し、完全に新政府を樹立し、自民党を解体し、皇族閥を永久日常から除去し、神道を消滅させてでも、日本人自身の命を守るほかないであろう。それは人類に恒久普遍の権利であるところの革命権があるからだ。

2019年2月13日

偕楽園の有料化は避け、バリアフリー化の費用等について寄付を募る方がよい

偕楽園に象徴された烈公の愛民思想を、恐らく新県知事の大井川氏は十分理解しておらず、単に経営合理性という面で県外人の有料化をはかろうとしているのだと私は予想する。もしそうなら、これは茨城県民にとっての屋台骨というべき水戸学の無理解によっているので、遠からず失政となるのではないだろうか? 私自身、水戸学を批判的に考証しのりこえようと努力してきたので、このブログも北茨城学というその後継者としての名前にしてみているわけだが、少なくとも理解した上で欠点を改良するとか止揚することが必要で、水戸学の理解を前提にしないところに議論のしようもないのではないか。
 実際、茨城新聞で同記事に対して水戸の市井の人が「烈公の精神と違うのではないか」と述べているのをみた。恐らくはその通りだと思う。県外人は旧常陸国から見たら外国人だから攘夷とまでは行かずとも料金を頂戴せよという算段か。県に払われている国税から整備費を支出することにして、全国民のみならず全世界の人へ無料のまま、偕楽園の整備費を特別予算として国に計上すればいいのではないか? 差異化という意味でも、他の庭園が優良だからと民と偕に楽しむ意味を失う改悪をするというのはどうなのか? 単に整備費が足りない、もっとあれば県外人にもアピールする整備に使えるということなら、全ての出入り口で寄付を募るという形にすればいいと思う。そうすれば貧しい県外の人にとって梅の観賞ができないといった当初の精神と矛盾する事態など起きようもないし、為政者として狭量なけちさを、愛民とは言いがたいと思う。
 大井川県政が烈公に学ぶとしたら、県政が今日あるのも全ての民が国税や県税を通じ彼らを養ってくれているからなのであって、その民の間に差別をするなど以ての外となるであろう。このことは道徳的にほぼ正しいと思うので、整備費が足りずに質素なものに留まっても、また国税から十分な維持費がもらえないので県税のわずかな額でこれまでより立派な施設などつくれないとしても、それが水戸徳川家の質実剛健な気風を受け継いだ正しい公共施設の精神的態度だとさえ思う。
 英語等で流暢に愛民の精神を正しく伝えられれば、植民地主義の嵐が吹きすさぶ只中で先駆的に全日本の統一と近代化を実現した弘道館共々、偕楽園が世界遺産になることは先ずまちがいがない。弘道館も偕楽園も、寧ろ施設の豪華さではなく全ての民に飾らず素朴な梅の姿をみてもらうためにバリアフリー化を進める方が先決だと思う。これについても費用が足りなければ、広く出入り口やホームページ、政府広報等で寄付を募った方がいいと思う。

2019年2月9日

茨城県民はさらに都市の中に自然を増やすべきかもしれない

イギリス政府の国民健康調査のデータを使ったカーディフ大学の研究によると、コミュニティの安定に必要な要素のうち自然との接触回数が占める割合は8%、地域の犯罪発生率を左右する要素のうち自然との接触回数が占める割合は4%だった。他方で、収入、性差、年齢、教育はそれぞれ3%の影響しかもっていなかったとされる。
 いいかえると、もしこれが普遍的な事象なら、なぜ都会で犯罪率が高くなり田舎で下がるか、或いはなぜ都会で暴動や無秩序、コミュニティの崩壊が見られ易く田舎でそれらが見られづらいのかの大きな原因は、「自然との接触(地域の自然との主観的経験)」が都会には欠如しており、田舎には溢れているからだといえるのかもしれない。
 そしてもしこの仮説が正しければ、茨城県民は既に存在している自然に溢れた環境を維持し、或いは都市化している場所も更に自然を増やす様につとめるべきだ、ということになる。
Regression models suggested that about 8% of the variance in community cohesion could be explained by subjective experiences of local nature alone (table 5), a striking finding given that individual predictors such as income, gender, age, and education together accounted for only 3% of independent variance; it appears that the role of natural spaces was robust in comparison with other constructs we would expect would influence people's experiences in society.
該当論文:
Seeing Community for the Trees: The Links among Contact with Natural Environments, Community Cohesion, and Crime.
Netta Weinstein Andrew Balmford Cody R. DeHaan Valerie Gladwell Richard B. Bradbury Tatsuya Amano.
BioScience, Volume 65, Issue 12, 1 December 2015, Pages 1141–1153.
参考ブログ:パレオな男「 自然のなかで過ごすと性格が良い人になれるらしいよ 12/02/2015」