2011年4月29日

地域の改良

もうやりだしたので今度の機会だけど、茨城県が放映するPRとはすこし関係ないかもしれないが放送枠として有益なのは、15分くらいで解説込みの科学知識を撒く番組ではないか。

��5分もとれねば、5分でもいい。毎朝が不可なら週に1回でいい。朝型の、たとえば以前でおはよう茨城やってた時間にでもみじかく簡潔にまとめた一個の科学法則を、わかりやすいかたちで簡潔かつ大衆的にまとめた枠が有用。

一度に勉学する時間がとれないひとでも、朝の5分だけ受動態でテレビみてれば賢くなる、といった習慣づけがよい結果をもたらす。

 ずっと以前、フジかどこかで『お厚いのがお好き?』という一般知識人向けの深夜番組があった。おそらく視聴率がとれないか面倒か、局内反発かで結構すぐ終ったが、あれに似た最先端の学識(これは筑波あたりに超過博士とかでかなり余っているのだから)の解説を、いまはやりの池上さん系のやつみたく最大限かみくだいておこなうのがよい。簡単な実験とかで。
民放は収益を的にしているのでこういう視聴率の最大化がみこめない番組は放映しづらい。スポンサーが県なら、いわゆる収益ではなく、公益に類する番組を流す方がいい。団塊とそのjr.世代の育ちであり好みなのか、とかく経済中心の市場教義を流す傾向がある。しかし國風にとっては必ずしもよい影響はない。
 常陸のくに辺の人々をより高等な人種にする、そういう番組を希望する。まだみてないからもしかするといまのもすばらしい枠なのかもしれないが、某タレント氏が東京あたりの人へ集客力めあてにこびるみたいな(風におもえなくもない)番組がどれだけ我々の役に立つのか。東京人に地域の風儀を荒らされるだけではないのか。

蓄財の為に國の品格を犠牲にするな、という品格イデオロギーをはやらせたのは某ベストセラー数学教授(っつか藤原正彦氏)だが、これにも一理ある。関東圏ではどう転んでも東京都あたりの人口飽和環境からえられる総量としての税収または総経済量(但し県民それぞれの個別または県の総所得はのぞく)をこえるのは難しい。これは巨視すれば中国と日本の、米国と英国の構図と同じこと。(一人当たりの生産性や所得、福祉具合にかぎってのみ文明度に先後の別がある。)
藤原氏がいいたいのは、「大事なのは國家の名誉」であり、「國家の繁栄では(必ずしも)ない」という武士道倫理の尊重ではないか。なぜなら永遠に繁栄した國家は今のところないから。ところが名誉は大抵いつまでも残る。
勿論これもイデオロギーってか理説なので別に真かどうかも分からない。考え方としては。

 結局、国際舞台、あるいは県際舞台でも、「とある特徴」ある形質を有用な方向へ維持している人物が、最大の経済大国の普通な人物よりも貴ばれるだろう、といったいわば個性主義政略な推測が、そこには介在しているとおもわれる。
よく藤原氏がたとえにだすオーケストラもそうだが、サッカーなどのスポーツでも、汎用性のある選手よりも特徴ある選手の方が高い値がつきやすいし、実際、重要なポジションを維持しやすい。汎用性がなくていいとはだれもいわない。しかし、それだけで一流選手だとはいいきれない。
単純にサッカーでいうと、ブラジル代表は個人プレーのレベルが異様に高い(超個性派ぞろいだ)が、基本能力も並ではない。基本能力、これは普通の人間でいうと経済力というはなしなのかもしれないが、この基礎体力の程度が並ではないのに加えた素晴らしい個性が一流の条件。

よって、経済主義の放送は必ずしも善ならず。それは県民の汎用性を高めるかもしれないが、個性の強化には多くのばあい至らない。
 地域限定の放送権がもし別にあれば、うえにかいた科学啓発の番組がいいとおもう。それが不足している能力の穴を埋め、また才能あるひとを他の地域出身者よりも高度な人材へのばしゆくとおもう。

2011年4月25日

基盤施設の絶対高さ

市役所が率先すべきこととして、全ての危急用な基盤施設をすくなくとも市役所レベルの高さへ至急移動させること。これは時間がかかるものもあるだろうからすぐに。鴎は放っておいていいかもね。

2011年4月20日

復興論

復興構想というものを政府主導でやろうとしているが、この地域ら辺の為に事前な忠告をねっておくと、ほんとうに賢い復興は『完全に民間主導』でなければ。

 社会主義国系の首都をみればわかるが、政府がおもにたって行った都市計画はわるい意味で冷たく、人間味がなく、暮らしづらい居場所となりいわゆるスラム化が進む。
例えば家をたてるときを考える。完全に家族構成やら細かな好みの違いを無視というか度外視して政府高官が自己満足度のために与えた計画どおりに家がたったとしよう。ところがこれには風呂便所も一緒だわパーティーのための洋風テラスがきわめて広いが洗濯する場所もないわだとする。社会主義系都市計画の使いづらさはこの‘使用者目線の欠如’にある。

この地域は今のところ復興税とやらが投資されそうな雰囲気はないが、それがもしきたとしても、政府、つまり市政の独断で使い道を決めさせない方がいい。そうではなく、できるかぎり民意を吸い上げる形、または直接各家庭か個人へ配分する形でこの復興財源を用いた方がいい。
普段から近くに買い物を足す場所がなくて困っていた人も、今にも崩れそうな崖の補修をしてもらいたい人も、のりあいのタクシー券を発行してほしい人もいる。数かぞえきれない需め;もとめがあるが、すべてを市政がじかに満たすのは至難。
だから、「社会基盤」とされる法的整備の域、つまり道路や河川や防波堤あるいは図書館や大学など公共施設やその法治の条例施行にかぎっては政府がじかに発注を行うのは構わないだろうが、それをこえてはいけない。こえれば都市の私生活はうまく働かなくなる。かもめを繋ぐな。砂浜は保全しても、かもめ自身を放っておけ。そういうこと。

もちろんこういった公営事業へも競争発注や、市民へすべての情報を最大限公開したうえでのはなしあいで詰めていく経過をとったほうが、政治というかいまの市長の独断で進めるよりうまく市民の幸福へ期する確率が高い。そうみれば民意の代理人としての市長には無私のみが徳なのだろう。

追記。
一例をひけば、磯原中央公園なるものが6月までにいちおうできあがるらしい。けど、あれも社会主義系の施策ってかいきなり上から目線でつくりはじめていきなりできたものだから、市民にとってすばらしく幸福な代物かって言うとかなりちがう。市長の自己満足かもしれないが、かえって周辺住民の一部は迷惑がっていることもある。あの空き地は、たとえばすぐ目の前に昔からある教員住宅にとって、また昔からの住民にとって目の保養というか唯一、「なにもない雑草の空き地」としてこの地域の原型をとどめていた希少な場所だった。駐車場にならなかったのは救いだったかもしれないが、今度はすぐ窓の目の前に公衆トイレが出現した。資産価値がおちるのみならず、すみごこちも以前よりはわるくなった。さらに、以前は雑草がしげってたので転んでもすりむかなかった遊び場だったが、今度はなぜかケチったか遊び場は土の広場になってしまった(雇用体系とみても芝生管理はいい高齢者向けの仕事とおもうのに)。ここで遊んでも土煙で学校の校庭とかわりないばかりか、行くにも道路をわたらねばならず、しかも道路に面してるのでまちがって飛び出したら死亡事故が起きるかもしれない(飛び出しに対応する計画ではないし、フェンスも気づかなかったかで設けられていない)。
 ‘トップダウン政策’型の公共施設は大抵失敗する(いわゆるコンクリート系箱物批判)というわけで、ここでも市民からの公募とか話し合いで詰めていく設計や発注競技をおこなわなかった業が明るみに出る。景気循環をはかろうと土建業にみつぎまくる結果、市内ではその末裔による暴走族ごっことか、学校の荒れ加減とか、或いは違法パチンコ店のもうけがあがり市政へ傘下(ママ)してくる。
 今度こわれた堤防あたりでも、或いは市の設備でも最大限の透明性のもと、審査過程も審査員の経歴もはなしあいの経過も結果もすべて公開していった方が「公共設備への投資」は巧くいくことが多い。なにしろ最も腐敗というか、土建票との癒着がおきやすい一点なので、自民党閥がよわまっているいまのうちにこういう慣習を身につけた方がいい。もちろん、この公募は公募で民意をすいあげた結果、中庸案にまとまりがちな傾向があってきわめてすぐれた君主による先見の明ある施策には及ばない場合もなくはないが、それは時と場合による。こういうワンマンな断固トップダウンが成功するのは絶超名君が出現し在籍できていたという一定期間に限るだろうが、割合とみればきわめて期間が短くその機会も少ない。すくなくとも、文化の働きとしてはボトムアップ(底上げ)型の施策も試みておく方がいい。それが通常の時点での良策につながっていく。

2011年4月18日

日本人の性格

日本人の社会のつくりかたに因みがあるはずだけど、いざとなって日本人は‘集団にもたれる’‘一丸になりたがる’‘公共に依存する’傾向がとてもとてもつよい。或いは東日本の人のみの傾向ではない。日本人全般が、おそらく儒教と国学(要は国家神道。天皇教ともいえる)の影響でその達をひきずっている。

最も根では建国神話が皇祖をもとにしてきたことが大きいのだろう。そのよりかかる心を普段からいまの国歌(君が代)等ではぐくんでいるのだから、危機にいたれば非常につよくでてくる性格らしい。

 そこで理念とみても、独立や自由などの個人主義傾向への啓蒙を普段から最大限行う必要がある。極論すれば依存心がつよすぎる民族なので、個人主義のみが啓発されればいい。それで行いの傾きがちょうど普通の水準になる。
漱石や福沢がのべてきた理念はすべてこの日本人の性格の改善にかかわるらしい。根本では、皇祖崇拝への離反に至る心のありさまといってもいい。神道批判ともとれる。とかく、依存しすぎ機会費用が高くつきすぎる(つまり期待水準がたかすぎるのに比べ、さして公共人は役に立たない)のが日本人の同質系社会なのでできる限り独立型の人格をそだてあげる文化努力がいる。

2011年4月17日

実証科学の習性づけ

市内の主婦層の間では非科学な迷信がとびかっている。具体的に何日へ余震があるというなんの根拠もない俗説、因果関係のあきらかではない鯨などの海洋生物の浜辺打ち上げとの確証偏見こみの関連説など。それがかれらの不安感をひどく煽っている様だが。

 こういう風に普段から強烈なほど科学で教育されていない市民というのは、危急時には簡単に俗説や風評へ流されてしまう愚民といえる。そしてこういう社会へあしき宗教説などがはびこってくる。

やはり今すぐ、科学の啓蒙を徹底せねばならない。自分にできる域のことは最大限おこなうが、最も合理なのは大学を建設することだ。共同体が運営する市立でも構わない。とかく市民が科学的に合理な行動をとれる様に普段の学習が要といえる。それがない場合、危急に陥れば一層状況はひどい。

教育されていない老人というのは、儒教圏では一層たちがわるい。頑固とも固陋ともいいがたくなかみのない、あるいは害でしかない権威をおぶせかけて少しも恥じることがない傾向がある。儒教はすでに日本国内、少なくとも北茨城市では害毒の方が大きい思想だと自分はみる。
社会の趨勢についてこれなくなった引退すべき老人が、迷惑をまきちらす言い分につかわれる思想な傾向が大変たかいが、現実にはそれがあるだけ社会へあたえる悪影響も大きい。その分停滞してしまうからだ。儒教は宗教とみれば信じる者がいてもかまわないが、すこしも学校教育や社会構築で‘必要な’思想ではない。

年上の悪徳もちがいた場合、この人物を批判してさっさと先に行くことが有用だ。儒教圏ではズルズルとこの人物の後を追うみたいだが、それも悪徳にすぎない。年寄りにかまってはいけない。経験則のたねとしても利用できなくなったらパスすべきだ。

想定と業

http://mainichi.jp/photo/news/20110417k0000m040109000c.html

��~~以下引用
 ◇チリ津波が基準 想定外、高さ15.8メートル
 市によると、51年前に市を襲ったチリ地震津波の高さは5.5メートルで、これを基準に防潮堤を築いた。しかし、震災後に現地調査した東京海洋大の岡安章夫教授(海岸工学)によると、体育館を襲った津波の高さは壁の痕跡などから推定15.8メートルだった。4月11日、戸羽太市長が言った。「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる」

東日本大震災で壊滅した岩手県陸前高田市民体育館。避難所に指定されていたため住民約100人が逃げ込んだが、生存者は3人だった。その1人で市職員の佐々木英治さん(38)や住民たちの話から「あの時」を再現すると、想定外の大津波に、なすすべもなく流されていった高齢者たちの姿が浮かぶ。

 ◇午後2時46分 
 強い揺れが襲った時、体育館内では県立高田高(同市)女子テニス部員15人が練習中だった。主将の金(きん)優里香(ゆりか)さん(17)は「ステージ側の壁がボロボロ砕けて落ち、天井の大きな照明がゆらゆら揺れて落ちそうだった。扉付近の部員がドアを開け、みんなで外へ飛び出した」と振り返る。

 直後に体育館に着いた顧問の川口倫(ひとし)教諭(37)は「体育館の中は停電して真っ暗で、フロアは砂ぼこりが舞い『安全じゃないな』と感じた」といい、生徒たちに高台のグラウンドへ向かうよう指示。部員の菅原美鈴さん(16)は「歩くというより2列になって走った感じ。余震のたびに立ち止まった。泣いている子が多かった」と語る。部員たちは午後3時すぎにグラウンドに到着し、津波の難を逃れた。

 ◇海抜3メートルに立地
 テニス部員と入れ違えるように、体育館には人が集まり始めた。目撃者によると、60代後半以上の高齢者が多く、車椅子の人もいた。市は体育館を避難所に指定しており、防災担当者は「体育館に避難し、津波の恐れがあれば高台に逃げる流れだった。ただ高齢者の場合、高台まで遠くて行けないのが実情だった」と言う。

 隣接の中央公民館に勤務していた佐々木さんがラジオをつけると「予想される津波の高さは6メートル」と伝えていた。「6メートルなら体育館に来るころはもっと低くなると思った。チリ地震津波(1960年)の高さなら、市の想定では浸水は1階だけで済むはずだった」。体育館は海抜約3メートルの土地に建ち、地上から2階通路まで約6.4メートルあった。

 別の市職員の女性(51)は義母(79)を体育館に避難させた。「チリ地震の時も津波は線路(JR大船渡線)までしか来なかったと聞いていたから『体育館2階に逃げれば大丈夫』というのが近隣住民の認識だった」

 一方、体育館近くで食堂を営んでいた鈴木邦夫さん(66)は車で高台へ逃げた。「避難所は体育館になっていたが、自宅と海抜が変わらないので逃げても仕方ないと普段から思っていた」

 徒歩で高台に向かっていた加藤りん子さん(60)は体育館前で、60代ぐらいの女性が「避難所はこちらですよ!」と叫ぶ姿を見た。集まっていたのは50~60人。加藤さんも声をかけられたが「高台に行きます」と断った。体育館を通り過ぎて振り向くと、さっきまで後ろを歩いていたお年寄りたちがいなくなっていた。「みんな体育館に行ったと思う。年配の人たちは、津波警報が出たら体育館に行くよう訓練(毎年5月実施)していた。私は昨年11月末まで福島にいて、訓練したことがなかった」

 ◇行きどまり殺到
 佐々木さんは体育館2階に続く外階段へ避難者を誘導。高齢者に手を貸し、車椅子の人は2人がかりで担いだ。「最終的に100人ぐらいだったのではないか」

 市によると、津波の第1波が堤防を越えたのが午後3時22分。海岸の松林が水に埋まり始めたのが同24分。階段の下で誘導中だった佐々木さんからも大きな津波が見えた。2階に上がると、みんなが「ここも危ないんじゃない?」と騒ぎ始めた。「ドン」と音がして体育館1階に海水が浸入してくると「わー」と叫び声がした。

 奥にある男子トイレへ人が殺到した。その先は行きどまりで、ぎゅうぎゅう詰めだった。佐々木さんは両足が「ぬれた」と感じた瞬間、津波にのみこまれていた。海水を飲み「ああ、これで終わりだ」と思った。「よく言われますが、本当に自分の子供たちの顔が思い浮かびました」

 水中で、同じようにもがく人たちの手足にぶつかった。もがくうちに鉄骨のようなものをつかみ、思い切り頭を突き上げて水面に出た。水かさは天井から約30センチの所まで上昇したが、水は少しずつ引いた。暗くて何も見えない中で「おとうさん、おとうさん」と女性の声がした。離れた所にもう1人、男性が生き残っていた。津波にのまれてから10分ほどの出来事だった。

 天井から長い髪の毛が垂れ下がっていた。どこかでうめき声がして捜したが、間もなく途絶えた。1階は水没したままで、何度も津波が押し寄せた。生き残った3人はずぶぬれのまま身を寄せ、一夜を明かした。

��~~


この例をひけば、市政が当初から主張している「想定外だったので」「なにせはじめてのことで」という言い分は全然正当性がない。防衛者の責務は市税をあずかる市場の胴元としてその市民の生命と財産をいかなる事由の前でも守りきることではないか。
 もし全滅したとしよう。そのあとで「想定外だったので」「なにせはじめてのことで」なら、一体なんの市政だったのか。今後きちんとおのれどもの業のわるさを反省し、想定はつねに最悪の事態を先取りしてもらう。それでも想定外のことがあるだろうが、少なくとも何もしないよりはましになることをみとめねばならない。

また、倭人はよく「一丸になって」と言う。鰯じゃないのだからそれは危ない。一網打尽ということばをうらがえせばそうなるわけだ。「一人でもいいから」というのが真理だと思う。たった一人でも助かる方が、全体最適化で全滅よりはまし。

2011年4月11日

この例をはやく市政はとるべき

以前紹介した体育館内テント設置をはかるべき。

ニュースで北茨城市内の避難所の様子をうつしてたが、まだやってなかったのかということだ。なんと雑魚寝でしかも磐城からの避難者も多数あり。仮設住宅入居までのつなぎとして100個くらい市内のみせや通販でかえばいい。かえないことはまったくないのだから、単純に怠けだ。現に避難所暮らしの人らの前で雇用ディスプレイなんかやってるばあいか? 本当に無能ともしごとが遅すぎるともいいようがない。市政は動きが普段からかなりにぶいが、こうなってもにぶい。

いまの地震でも市内への避難の警報もないし、ホームページでも確認できない。1ヶ月たってもすこしも改善されていなかったというわけで、結局これは行政の才能がない首長としかいいようがない。

心理学

 うみべへ万端の警報機を設置しなかった(がゆえに逃げ遅れたひとがでた)のはどっちかといえば市長の私的な業であり、我々、普段から災害対策や備えを指摘してきた市のたみの責任とはいいきれない。これをまちがってほしくない。正直いえば私は豊田稔市長の娯楽出費で迷惑をかけられていた方なのだ、まじめに。普段から。
 この仮定に一理あるなら、社会心理学識として逆授かり効果となづけられる。つまり備えを怠ったつけをなぜか全体責任のもとで償いたがる後付け自己弁護の心理。個人的失政費用の全体責任化では、以前の一度目の失政時に重ねた二重費用が生じる。以前からないものより自分の責任で失ったものをより有り難く勘違いしてしまう、といいかえてもいい。

2011年4月8日

不良行政のはびこり

被災地の中心区ではまだ家がなくなり避難所での侘しさを余儀なくされておられる方々がいる街へふたたび、いつもの気違いヤンキーの暴走発生。道交法違反なので現行犯逮捕できるはずだが、派出所は出動しないのか?

なぜ他人へ迷惑をかけてうれしがっているのかがわからない。オナラしながら街を走り回る。これは発狂以外なんでもないだろう。知能が僻地奇形化してしまった可哀相な国栖。しかし、違法行為は違法行為だ。

こうしてみてくると、普段の業にみた市政というのは本来あるべき奉仕水準からはるかに低い高給をはむ手抜きかつ腐敗仕事なのがわかる。だれがどうみても違法をスルー。これはどういうわけでしょうか? 市内パチンコ店で普通に換金させる。
これも狂っているとしかいい様がない。刑法犯罪をみのがしにしているのだからきわめて悪質だ。立法能力はるか以前の理性しかないらしい。
かなしむべきは、その違法賭博店の社長らしき人物が市議へ普通に入りこんでいるっぽい。当選しているのである。

 これらをみても、北茨城市の大人というか年齢のたかい老人層は、あまり尊敬にたらない、どっちかといえば軽蔑すべきなのが周知できる。かれらの権勢誇示ぶりと威容はすべて自信のなさの裏返しでしかないわけだ。実質は無能でしかない。だから威張りくさる。

例えば、派出所はいうまでもなく(これは指摘によりようやく移動されつつある様だがそれもまた後手だった)、消防署、このどちらの危急基盤もなぜか津波直撃があきらかな海岸沿いに、低層で置く。ありえない施策。
具体策にすれば中心街から全市内へすぐ出動できる場所として、大体いまの市役所あたりの高台のどこかへ立地すべき。派出所は一二個破壊されても本部が別ならさほど問題はないので駅前あたりのはないよりあったほうがいいだろうけど。
 少なくとも市民からのこういう忠告が行く前に次々最善の手をうてるのが名君であり名行政。とはいえそれは天才の領域なので、そうでない凡人らへ次善の策としては「目安箱」式なよりよい意見の吸い上げがあればあるほどいい。民主政の利点としては修整がききやすい。

市民から、おしえられてもおしえられてもちっとも聴き入れる余地がなく、何度忠告しても全然音沙汰がないのは能力が低すぎるわけで、反省し、できれば自分から総辞職せねばならない。これで行政の老廃は一新されるわけだから。
主権は在民なので別の「より優秀な人物」が政権をとるしか、群れがよりよく生き残る道はない。くりかえし失政をしてしまうというのは、市民からの借り物の税収を仮にあずかる政治屋の御身分なのだから故意ではありえないかぎり、能力不足だった証拠でしかない。判断力が低いというのは教養が足りなかったということ。

2011年4月7日

旧水戸藩域の財力補佐案

儒教型道徳の欠点として、商業的繁栄とはことなる発展をしがちなことがある。巧言令色鮮し仁とか言って伯夷と叔斉式な清貧を崇めつつ。
ところが現実の行動は、社会心理学をひけば「現金さ」をもとに動いていく。富裕な程、人々はその権限に否応なく従うもの。
いかなる理想論者も現実の前ではほとんど無力だろう。大多数の人々が動くのは現金、そして権力の前でであり、理想の前でではない。だから理想は、単に思想や宗教の域にしまっておくがいいのだ。その域にしまってあるかぎり、人々はそれを憚りなく崇めてくれるだろう。

 水戸学以来の常陸國が属した地位の欠点を補うに、いまの茨城県なるいっときのやしろを廃止し、ほとんど一県に匹敵する規模のいわき市をあらたに編入して『常磐県』をつくりだすこと。そして徹底した被災地にくらべ少しは余裕がある復興資金を県政としても市民としても全面提供して、共存共栄体となること。
いわきは経済力に於いても面積でもかなり大きな地域なので、味方に入れるとなんにせよ大きな単位となって旧水戸藩域の特徴な道徳の程、つまり気位の高さ(多くは日本国内では高すぎるそれ)を現実面から補ってくれる原因となる。

或いは、仙台圏へのとりこまれを望む域をのぞいて、いま話題になってる福島の「浜通り一帯」を常磐県の部分へひきいれるのも有効だと思う。おそらく常磐線の特急延伸などを口実にしてもいい。
一方 宮城県へは常磐県への編入をもっていっても、おそらくはじめは容易には協調しなさがある。もともと伊達藩域は協調性をあまり望まないし、かなり頭堅いから相当の説明説得がいるはず。
 しかし、もし上述の常磐県での経済力が他県を現実で圧倒に至れば、おそらくある時点ではそれを合理とみなして編入されるのをおのずと望むかもしれない。EUが同様に広がっていったのと同じで、いつも現世の人々は「目の前の利益」にきわめて弱い。

東電批判者の情報隠蔽癖

なぜか「情報開示」を東電へもとめつつ、この北茨城市長氏はちいとも自分自身の行政行為の情報開示はしない。単純に笑ってしまう振る舞いであるけれど。*1

どさくさに紛れて数十人も新しい職員を、しかも試験面接の有無があったかも明かさずあらたにとった。言うまでもないがその税金は「市民からの借り物」なのだ。借り物を勝手に(用途や目的不明なことに)つかっといて己がそとづらだけよくする。これはどんな悪習なのだろう?
 震災を期に、一気にいまの市長の心の内面が暴露されてきている。
それは自分自身が震災後一週間なにをしていたかも明かさない‘情報隠蔽’による自己都合のおしすすめという独裁者じみた業である。

震災後一週間、市長は市民の前に姿をあらわさなかった。本気で。
市庁舎内は指揮系統がないので混沌としており(じかに命令するトップの姿はないのだから当然だろうが)、本命の目的である市民奉仕など後手後手どころか逆に市井の市民は追い払う極悪辣加減が噴出していたのだ。悪政ここに窮まれり。普段の市民排斥の姿がかわるかとおもいきやそれが強調されまくっただけだった。普段の悪政はそのまま、危急時の最悪政にいたる、という実例だった。

この市政へもとめるのは、『最大級の行政情報透明化』だ。これは、現市長の性質にかぎってはやりすぎはない。あまりに開示しすぎて不安になるほど開示してようやく通常の水準となるだろう。たしかに。

 す で に な き 者 を 逆 な で 潮 風 よ

 ちなみにこのウェブログの情報は完全に開示してあり、隠し立てしようもない。情報しか書いてないので当たり前かもめだが。裏にはなにもない。すでに書いた文章以外なにもなさすぎて笑えるほどだが、笑い話ではない。いち市民のかもめぶった手記にすぎない。


ーーー
��1
汚染水関係の県関係者連盟の意見書参照。
ちなみに、こんな東電発表が4日づけであるが、真偽はこれへくりかえしの実験によるたしかめをくわえて判定するしかないはずだ。一般に、わたくし企業は公益より私益を優先するので、公害へは最小限の発表しかしていない可能性が高い。歴史をみかえせば国家すらそうな場合があるので当然だけど。
 ちなみに、政府はこんな感じの発表で1mSv以下だから大丈夫って大甘判定らしいけど、排出されてるのはたしかなのだから海の人や生き物には無意味ではない。継続して摂取さえすれば実質の健康被害がある点から追求しなくては。

2011年4月4日

東京的ニュースのおどろくべき悪慣習

��HK水戸で、華川のどっかへ女性死体あったって恐ろしいニュースをやってたけど、確率からいうと市内のひとな場合は低い。どっかからきた人がそこに放った可能性がかなりある。しかし確率論だからなんともいえないけど。

自分がずっと市をみてても殺人事件なんか一度もみたことがなかった。もしかしてどこかではいままでもすこしばかりはあったのかもしれないが、少なくとも耳に入ったこともないし、はじめてきいた。
千年とか二千年とかの極大単位、あるいは少なくとも五百年くらいで統計しろといわれるかもしれない。だが人家がぽつぽつできはじめた常磐炭鉱の開発付近の時代からみてた限りでは、自分はただの一度も殺人事件というものがあったらしいことさえ見聞きしたことがない。というか人が死ぬのすらめずらしい。規模の小さな市だ。どこかで誰かが亡くなればすぐ話題にあがる。
なるほど、達のわるい虐めやら暴走族やらならみたことがある。それらは訴訟されたり告訴されたりの割合から明白な犯罪として認められづらいが法のめあてを破ってるので悪さではある。しかし、殺人事件(らしいもの?)なんかうまれてはじめて市内できいたしみた。これは本当の本当。常磐炭鉱時代からみててもそんなもん万一にもありえることさえしらないくらい、ごく平穏系社会だったし、人口統計上の予知からいえば今後もますますそうなる。

 この網記の影響がどれほどかまだ分からないが、それがNHK水戸や茨城新聞系の取材をある程度ひきよせる蜜になったかなってないかだろうけど、「わるい事件」だけを取材してわるい情報量だけを極大化する増すゴミ的な方法論はやめてほしい。まじで迷惑。なるほど死体遺棄事件があったというのは事実だ。
しかし、自分がきたいばらき人たる経験則からいうが、市内でおきた殺人事件などではおそらくない可能性がたかい。いままで一度もみたこともきいたこともないのだから、突然変異としても異常すぎる。わけわからん殺人なぞする人間など市内には従来はいなかったということになるだろう。みたことのない話なんだから。

こういうわけで自分はそのニュース報道がまるで東京あたりで起きた事件みたいに北茨城市内のはた迷惑な悪事(自分の推測では遺棄先にされた訳だと思う)を、あたかも一般的事件みたいに流すのはぜひやめてほしいわけ。どういうかたちで流れたかというと、夜のニュースみてたら突如、華川(これは市民にはとなりの小川みたいな印象のことばだ)で女性遺体が発見され殺人事件として警察が捜査をすすめてるとか。まるで市内で犯罪があったかのごとき平気の平左なしらふ無表情報道だったが、ただのいち田園市民の自分はまじでびびりまくった。鴎じゃないから鴎とかまではどうかしらんが。
非常に非常に不安な感じになった。いままで一度もなかった話すぎ、情報量がわるい方面に多すぎる。北茨城市民性を解説するが、我々は正直いってほとんどの層が「放っておいてほしい(泰然自若の心地で)」ので、少しでもテレビ取材とかに絡まれるとここまでなにか東京化されるのかと絶望感に包まれる。これはあれをたまたまみてた市民にとってすれば、市内で自分だけの感じ方では決してないだろう。なんの花が咲きましたとか、海行って泳いできな級の郷土共生田園市民というのが本当の北茨城市民の9割以上とかであり、わけわからんどっかからふっかけられた系っぽい最悪事(多分あれだけ被災系ニュースで関東一円向けに天気予報なんかやってたから丁度いいみたいにして来ちゃった人がいたんではとおもう)に、あたかも昔からけっこうある話みたいな東京系の賤しい偏見つけないでほしい。まじめに。この市内でわるさの下限といえば、かねをつかって映画つくるな市長とかそういうレベルでござる。

そういう大衆社会化の疑心暗鬼状態につながる不穏なはなし、をこの小規模な田園市で、被疑段階不確定なのに普通のニュースとして(あたかも殺人犯が市内にいるのが当確みたいな雰囲気で)流すべからず。動揺度からいっても悪影響しかない。
 もし本物の北茨城市民があのニュースを書くとすれば、『遺体がすてられていたらしいが、どこからきた誰がやったかもわからない』というものになるはずだ。自分もそういう見方しかできない。こんな小さな市で万に一つでも殺人事件なぞ起こそうものなら永遠に住めなくなる。これが真理だ。

かなり以前、某眼科へ泥棒が入ったのも、市内の土着した人な確率はあまり高くない。よく茨城の北部のひとらへの評としてある「根が善良」というのはかなり信頼できる。
かれらはわるさに近いおこないをしようとおもわないまますることはままあるが、大それた悪事をはたらく達の人格では、従来ない。きわめて平和で気候のよい、しかも競争のゆるやかな居場所なので科学や高技術など手間がかかる難事へつよい感心がなくなり、したがってあふれるばかりの見識と教養というものを決して多くの人がもってるわけでなく(だから欠点克服のため純粋に科学知識をおしえる大学、リベラルアーツを与える場をつくれと前々から唱道してるのだが)、よってそういうあまり洗練されないたちの行いというのは多くの場合かれらが「無知」「無学」の傾向がつよいところからきている。基本は決して悪意や悪業にひどく染まるひとらのタイプではない。それとしらずして勘違いをなす、という典型みたいな純粋田舎者が多いが(これは9割が郷土のひとからできあがっている市政が代表だけれど)、首都圏にほどちかいゆえ客観的情報はわりとゆたかで最低限度以上の判断力は(義務教育以上、高等学校も9割超が出ているから)もちあわせている。その意味ではくさるほど人のいる東京都あたりの俗悪きわまる諸人格とはある種、対称的といえそうだ。これは自分として多く市内のひとらと会ってきた結果として法則的にいえる。

学校教育ひとつとっても極端なまでに道徳意識を叩き込まれる地柄であり、それはおそらく旧水戸藩内の風儀なのだろう。

勿論これも内集団バイアスの一種が入り込んでいる見解だろうけど、経験則からはたしかにそういえる。かれらが行うわるさは本物のわるさではない。なにもしらないことからくる不合理でしかない。
 むしろ外からはいってきた、ほかの異なる文化をひきつれている外来者の中に、従来とちがう慣習の多くはある(たとえば転校生などがこういう違和感のある人柄だった。くらべて、土着した人達、つまり北茨城あたりの血統がつくる社会行動には一定の文化型みたいなものがあるのだ。雨情の性格や、石井氏、あとはみぢかでも かば こと高橋氏なども、北茨城市民的な何かがある、様にみえる。ある根っからの生真面目さというか)。
大勢がみれるので、文化面でいって東京系テレビなどの影響が皆無ではないだろうが、それもどっちかといえば遠い場所のできごとな距離感なので実際にはかぎられている。他人事としてみている感じが大いにある。それは水戸あたりとも全然ちがうのだろう。だから北茨城市圏でああいうタイプの都会っぽな取材をああいうタイプの無表情無関心報道へあたかも普通にありましたみたいに仕立てられるととても困る。まるで江戸湾と函館くらい文化圏がちがうといえるだろう。ここは関東の極北で、市民性は一種の相互監視の絆へ強固につながっている。つまり昔ながらの村社会性をきわめてつよく秘めたかなり狭い場所なので、ちょっとしたニュースも激震になってしまう。
事実をつたえるのは必ずしも間違いではないかもだが、恰もあんなはためいわく超確率小な突然変異遺棄事件だけが登場機会すらほとんどないこの極北市の代表的事件みたいにいわれると、全然ちがうとしか言いようがない。今後おなじことがある様なら、うわさをひきよせてしまうああいう‘ムイミに有名にさせよう’とする芸能界じかつづき報道体制のせいもあるわけで、NHK水戸へじかに注意するつもり。できるだけ我々を放っておいてくれと。そしてあえて部分を極大化してみせるニュースとかにするなら、できるだけよい話題にしてくれと。これは田園都市に住む市井の鴎としての本音である。


追記
もちろん、これらの推測が全て誤りで単に殺人犯が市内に定着した何者かかもしれない。その確率はゼロではない。しかし、今までの歴史経験からいえば市内ではきわめてその確率が低いということは、こうして言っておいていい。しらずしらずのうちにというのはまずありえない系事件なのだから。鴎ごろしなら渚なのだが。
 たぶん犯行の確率でいえば「全国の平均」より市内のそれは遥かに低い。全国でこの種の事件が起こる確率は全国向け放送が日ごろあるからかなりの割合だけど。よって事件の情報量が、こうしてわざわざ長々しく市史からの事情を驚きのあまり解説してしまうくらい一市民には極大だったのだ。

2011年4月2日

磯原物理

 液状化路面の盛りあがりはつぎの数式でとける。

F>f ∧ F=ρVg>f=ρvg ∴F-f:粒体浮力

F:Forth:浮力(大)
f:forth:浮力(小)
ρ:粒体密度
V:Volume:物の体積(大)
v:volume:物の体積(小)
g:gravitational acceleration:重力加速度
なお、下図で

V=S×L ∧ v=s×ℓ
S:Space:物の底面積(大)
s:space:物の底面積(小)
L:Length:物の丈(大)
ℓ:length:物の丈(小)

 ちなみに、一般の物理教科書などでとかれてる(液体)浮力というのは引力に比例し物の下面にかかる水圧がより強いから生じる。だから粒体浮力のばあい、土中圧力があり、下面にかかる力はより強い筈。

市役所の都市計画課への再三の説教

北茨城市役所は能力がひくすぎる。期待水準よりずっと下で、当人らが自己満足してるから手に負えない。
 夏になったら暑いだけだからやめろ、白塗りにしろと繰り返してもぜんぜんするきがなく、あたりじゅう真っ黒いアスファルトでうめつくす。痴呆ということなのでしょうか? 日本語も通じていないみたいだ。かもめ語などいわないが、なおいうまでもない。

とかく半北國なのに夏を暑くされるのはたまりかねる。腹に据えかねる。やる気というか十分な能力がないなら市役所などすぐやめて白塗り会社でも興してほしい。だれに言ってるかはわかるだろうけど。いくらをふところにおさめている? どんな額だとおもってる?*1 税だぞ? それを我々からとって、まともな市民奉仕の仕事ひとつこなせないだと?
 たとえば公園をつくる。というか空き地を壊す。ところがまたも黒塗りのアスファルト路面だらけ。これで涼しくなる確率はゼロなわけだ。むしろ悪化しかしない。なにせ建設事業の熱量排出はすべての産業内で最大なので、ただでさえ熱くしている上に。まったくつかいものにならない級の市役所の能力。なぜそれなのに首というか破綻しないのかがわからない。民間企業ならとっくに…みなまでいうまい。破綻も徳ということが、低能については十二分にある証左。

 あと、前からおもってたが水道をじか埋めにするのは土木技術がひくすぎる。マンホール状にして、地下に通しておいたチューブ内に電線をひく要領で、水道管もとおせばすむ。いちいちなにかあるたびに掘り返してるが、あたまがどうかしているのではないでしょうか。それともほりかえしの税源をせっつくためでしょうか膨らむ赤字財政のシロアリどもは。もち建設市債内でも。

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http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/13/kouhou/11-02/2011_02_06.pdf
を参考に計算。
 現市長の平成22年度の報酬総額は、
�10,440,000+¥2,392,500=¥12,832,500
つまり1283万2千5百円也。
 ちなみに議員ひとり
�4,692,000+¥1,071,340=¥5,763,340
つまり576万3千3百4十円也。

さらにいえば副市長は
�8,568,000+¥1,963,500=¥10,531,500
つまり1053万1千5百円也。

おどろくなかれ、かれら、これよりもらっている。各種の役職手当てがあるから。毎年まいとしこれだけの金をふところにしまっている。現実に。市内で。
かなしむなかれ。じつはこれらに加えて、退職手当てなるものあり。市長へは1期で1914万円。副市長へは885万円。なんだこれ。まじめなはなし。そんなに金をもらってあのトオリイッペンカタチダケ市議会、の前の全員協議会とやらで独裁ムードづくり。達が悪いにもほどがある。

こういう額を堂々ともらっていてあれ級のはたらきしか、いざというときも普段もできなかった無能市政。これが真実の北茨城市の政治界の出来だ。この額をもらっておいてあれ。とは。一週間、まったく市民ほうったらかし。電話でも窓口でもわからねーんだよねの一点張りで市民軽視と対応無視。しかもがらあきの体育館の横の市役所でいわき市へこっちは手一杯と嘘をいう(茨城新聞記事より)。その後。わざとらしい英雄ぶりや小泉jr.向けの必死劇場とは。はてさて。これはどうなることやら。まさか、総辞職以外にリストラクチュアリングの方法論がありうるとでも。この期に及んで? あなたら俗物に、このもし市井の鴎ですら書くのも作るのも大変なブログへは今の今までただの1円1銭も入ってないのはどうでもいいことかもしれませんがね(広告はエキサイトがいれている)。

いきなり

網記タイトルをかえたけど、ちゃんとした大学が建設されるまでの暫定措置としてはこっちの方がまだいいとおもう。報道は報道でしてくけど、このあたりに最も欠けているものを優先して流す方がみなうまくいく。はず。かもめ科学では必ずしもない。

避難所の工夫



http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2011/03/31/4tent/
より引用
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テントで守るプライバシー

 避難所になっている大船渡中学校体育館にはテントがずらり。20個並ぶテントは外国人から贈られた。テントで暮らす小野寺香織さんは「暖かいしプライバシーが守られて落ち着く」と話していた=31日午後、岩手県大船渡市(矢島康弘撮影)
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これはもっともわけあるとおもう。ながい避難所ぐらしは抑圧だし、こうすれば仮設住宅風でしばらくいてもそこまで不便はない。テントなら一件ごとにかかる費用もすくなくすぐ導入できる。