2011年9月28日

茨城マキャベリズム論

魅力度を‘愛される’という女性的形質からの評価と解釈するに、マキャベリズムの通り、我々の県政はどちらかといえば政治的優位にあると結論できる。
だからその福井出身の一研究所となのる市井人が調査して毎年発表する確証偏見な調査は、第一に無視してよく、第二にどうしても対処しなければならないなら消極策として「愛されないまでも憎まれることを絶対に避ける」というたちばでいなすべきである。

 県政が何だか対策室までつくってるってはなし。これはよくない。無視した方がいいのだから。根本として嫌われすぎるのは賢明ではない、って判断なんだろうけど、マキャベリズムが現実のあらゆる政治場面で活きている以上それを追求する費用も考慮すべきです。*1
 だから自分がおもうにはあの愛想注力は侍の末裔には無理ってか逆の職能なので(某blogによれば書いてる茨城系男子も自覚してるらしいが)、同じ労力つかうならそれらを完全にコピーライターやらコンサルタントへ外注して、公費を任せられてる防衛者はさっさと防衛力の強化につとめていただきたい。シェルター建設や複数以上の避難路と、国際化された多重な協力関係の構築、そして米軍含め自衛隊などに頼りきらない十二分な武具(戦闘機も情報機器と捜索機関の現代化も含む)や戦時医療の研究開発と輸入。等など。
実際その方が既存の水戸藩的雄藩気質の貫徹でも行革の王道でもあり、‘サブカルでの俗受けあれど比弱で萎えきった、悪い意味で女じみたエコアニとからかわれてきた情けない’日本国全体、乃至有能な中央官僚からみてさえもありがたいに違いない。とか安易に公然いうとヒステリックな江戸っ子マスコミから都知事以外袋にされるからこそっとなのだが。

 最低でも疎まれない品位を保つ程度に芸術家を褒章しておけばよい。その意味ではもともと冷たく皮肉で紳士ぶった尊大な國もしくは著しく残忍か野卑またはフランスやイタリアなど大陸から趣味の格下だとすらながらく思われていた、ショック賞や英国ゴールドメダルをつくりだしたイギリスの近い衰退対策に習うべき点が、水戸っぽは多い。鴎は。

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��1 政治の眼でみれば地味さで葉隠れ佐賀と最下位争いしてくのも面白いはなしだ。実際、その方が暮らし心地がよい、というのが定着している人間には間違いないのだから。人口密度も低くとどまるし、どちらかといえば非観光地の地元客への奉仕地域は客層の質を確保できるためいつも綺麗に保たれる。
 もし不利な点だけ改良したくば、「経済特区」構想によって、たとえだけど水戸市・土浦市・つくば市・日立市、これらのどこか又はすべての一部区画だけは仙台や上海、横浜や西新宿、をこえる都市計画の建築規制のレートをかえた超高層ビル群として解放するとかのはなしではないでしょうか。自分の想定だけど、一応は水戸市に行政区の面で含めるとかの場合も含め、大洗町の付近が適切ではないだろうか。自分が知るかぎり水戸っぽは商都向きの気質ではないにも関わらず県都を今はになっているので、この役割分業から政治都市である水戸と、商業都市系のそれを分離するのが合理だから。こうすればいまの県庁あたりが中間地帯となってどちらの利点も得られる可能性が高い。漁業圏とのすみわけさえできれば。元が商業性の高い都市なので霞ケ浦にほど近い土浦もいいけど、どちらかといえば海運があるとあらゆる利点が高いのも確かではないだろうか。だから土浦辺りはむしろ空港との関連づけによって別の展開をとる方がいい気がする。それに、蓮根畑や一面に広がる田ん圃から眺められる筑波山の首都圏人にとってのリクリエーション効果も入る。たとえばIT関連のじか出荷工場やハイテク産業流通拠点の集積策とか、彼らの職住近接化した田園つきのゆとりある居住区、要は空港(もしイバクー以外でも)にすぐいける利点を最大限にいかす都市計画が必要ではないか。
 横浜や神戸や仙台が、神奈川や兵庫や宮城の公的イメージにあたえる力、これはきわめて大きい。だからシンボライズできる超最先端の超高層群と新規開発のみに特化した一大新都市をどこかへ一箇所集中してつくりあげる、ってのは他から全体を違った眼でみさせ得させると思う。上海がない中国は本当に違う國になる様に。

2011年9月25日

資本主義ぶったくだらない看板

中郷の郊外型店舗ができたあたりの側溝というか、暗渠みたいな扱いをうけつつある水路はなにかしら美化ほどこすべきなんじゃないかとおもう。東京なんか本当にドブあつかいされた暗渠は悲惨だ。花植えるなり。
あれは子供の心象に悪い。人工物の美が自然のそれにまさることはほとんどない、というのがカント哲学の崇高論の本質だとして。
大体、中郷第一小学校のすぐとなりが近隣商業地区系の突如出現した建物でうめつくされえるという現状も狂ってるはなしで、都市計画課の手抜きではないかと思うってか確信系。どっちもくだらんはなしで、団塊加減は手に負えないとしか結論できない。レベルが。

自分の記憶にあるあのあたりの水田は、いまから10年前には綺麗な、小学生の指に乗るくらいのちいさな緑のひきがえるが住んでいる側溝があった。もしくは緑の草葉だった。
いまはたえまなく車のゆきかう誰からも見向きされない暗渠になりつつある。それをなんとも感じない粗野にして乱雑な連中がふえていくのは文化の退化ではないのか?

 地方への郊外型店舗の侵略はとある国法の規制撤廃が原因らしい。そこにはどこかしらの政商的意図が裏で絡んでいるのはまちがいないが、いくらなんでもひどい、という事例が大分多いのも。
例。よかれとおもってるのが一層たちわるいのだが、平和な田ん圃にいきなりマクドナルドの馬鹿目立つ看板をぶち起てる。天心記念美術館へいく道にも起てやがった。わざわざ遠出してくる観光客をがっかりさせてまで世俗へひきもどしたい?
繰り返すが(おもに肥満の原因となったと訴訟したアメリカ人以外には繰り返すまでもないが)、マクドナルドの食い物は全般としてよくない。何かほめられることがあるのだろうか、って次元。すぐ目の前には前からコンビニあったわけで、板東太郎も出現したからにはいまやはやさですらないが?
そもそも高萩駅前にはいまから15年前にあったわけで、わざわざ15年遅れですぐ隣町へもってきて誰にせよもはや飽き飽きして見る必要もない景観破壊看板あたりかまわず出しまくるという人を完全に馬鹿にしているとしかおもえないことを平気でやってくる連中。まことに下劣なる資本主義文化の権化。とはいえかれらはそれをアイデンティティにしてるのが最悪なのだが。

��00%景観破壊と伝統軽視と文化破壊しか意図していないマクドナルドやらそれらの郊外型店舗の無際限侵略は、本当に見るも無残にして残念な、軽薄なる大衆化サブカル時代をつくりだしている。

 地方の条例で、無理にでも看板や立地に相当の規制をかけるしか有効な対策はないだろう。この時代はあと30年から15年以内にひとかげのない廃墟と更地だけをのこしていくはず。そうなってから再び農地へ回復することが難しそうなかぎり、広大な土地をもつ者の節操はその地域史を長期でみて左右する。
あれらの店舗跡地はいまの海側の国道沿いの荒廃地とおなじ宿命をたどるだろうし、避けようもない。少なくともその(解体されない店舗含む)転用もはじめから視野に入れていなければ、あれらの虫食いじみた乱開発は文化としては決してほめられた将来性のもとにはないはず。

2011年9月19日

おおきな都市公園による復興計画

大津や平潟、磯原の雨情記念館あたりはもし居住放棄者がでれば市が買い取って海の見える砂浜公園みたいにすればいいと思う。*1
ただし、また住みたいという人は、建築条例でピロティを義務づける。
こうすればここにもう一度住む人は広い公園にかこまれて住み心地はずっとよくなるだろうし、市から補填される買い上げ資金での移住よりあやうさをとってでも再び自分の土地所有権を守る魅力もでてくる。
 そもそもこの方式が有効なのは、海岸線の後退(つまり陸地の浸食)がおそらく、これから数百年つづくからどうせ居住放棄はしなければならないか、またはインドネシアやヴェネチアみたいにどうしても住みつづけたいなら海上住宅化するしかなくなる確率がこれからさき高いから。温暖化でかもめも大迷惑。というほどではない。

 この計画(読んで字のとおり磯原公園化計画となづける)は、さらに「有料公園化」すると一層、都市公園として効用が高い。
 一般に有料公園は中がごく綺麗に保たれる。当然、毎日清掃と美化作業をひとを専用に雇って行えるからだが、それに加え施設や花壇などの増強もでき、なかにちょっとした休憩所(喫茶程度か、自販機と展望できるデッキスペース)などをもうければ市に定常収入まであるのだからやった方がいい。入場料は子ども一人100円学生300円大人500円とかで一帯は海水浴場と隣接させ、夏はそっちと行き来のゲートも開くとか。日用できる地元民のためには年間1500円のやどかりパスポート、基本的飲み物と駐車券自由で3000円のかもめパスポート発行とかだ。これは運動場や憩いの場が少ない狭い市にとっては救いだし高校生もサボってつまらんサブカル買い物映画いかなくなるわおおうなばらをながめ心が広くなり多少荒れなくもなれば、災い転じてこういう機会にしか、GHQ農地改革以来のきわめて広い公有地はもてない。

一部には(可能ならばデザインを公募して、また審査は公開か投票させ、この市の不透明指名発注な土建票型公共物ではそうありがちだからできるかぎり野暮ったくならない)津波慰霊碑をたてればいいだろう。これは観光客にも「なぜ公園ができたか」「どうして天皇が震災直後お参りにきたか」を教えておとずれたひとへ過去におもいをはせさせ、次世代が津波と原発事故を伴う大地震による被災の悲惨を安易に忘れその貴重な場を悪用させないためでもある。

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��1 現物の砂浜じゃなくても(砂丘みたいになるだろうから)それに似た素材でもいいが、東京のお台場埠頭や大川端リバーシティ21の公園などでの実例があるけどにせの砂浜というものはあまり気分のいいものではない。
波の浸食での砂浜のかたちの変形、その洗い流しの効果によるまっさらな海岸線のたえまない復活という現象が、いまの段階では再現できていないから、もある。だから人工の砂浜まがい素材での偽物海岸線というのはきたなくなる、とかんがえていい。中郷の足洗や大津の風船爆弾跡あたりの「無垢な」海岸が最も参考になる。
現磯原海岸はテトラポッドで波をよわめ海水浴場化したのであの程度の砂浜の状態だが、完全に放置するとこのあたりの砂浜は理想的に綺麗になっていく。
この「砂浜を放置することによる美化」というのが磯原公園化の最も重要な骨。だからそういう工事のためには、防波堤を国道がわまで後退させ、むしろ砂浜のがわを広げるといいとおもわれる。海浜工学として。
 さらに、テトラポッドは座れるくらいの椅子がわりに使える。これは一つの「なにもない綺麗な砂浜」をつくりなおすわざとして。なにかしら海岸線に段差とか降りていける階段とかそういうのを、土木のみの業者はコンクリートでつくりたがるけど、どちらかといえばなにもない海岸の方が人々の心をまっさらに洗う。そういう場所は、人が入れる場所では全国をめぐると意外や少ないというか、無意識的ケインジアンだらけの土建国家ジャパンにはほとんどないものだ。

2011年9月18日

教育と分業の社会生物学

人類の社会でいとなまれる文化は、ひとことでいうと「好み」の問いにかえる。いわば趣味のよしあししか社会の本質はない、ともいえる。
 これは生物学・社会生物学的にはこう説明できるか。まずいまの生物学の用語でいうランナウェイ仮説ってのがある。これは性選択(つまり結婚相手のえらびかた)に、特定の好みが加速度的にあつまっていく、という有性生物の傾向を仮にいいあらわしたもの。孔雀のとべない羽も鹿のつよそうな角も、このrunaway、つまり特定の特徴的行動に至った形質の暴走と性選択をとおして繰り返し強調されてきた結果、という説明。
 だから人間界を(宗教の目をわきにおいて)もし単に大脳のかなり発達した哺乳類の社会とみなすと、人種といわれる特徴やある人達にみられる強められた性質は、このランナウェイの過程によりえり抜かれてきた、とも仮説できるだろう。
 これらの実証には十分な議論がなされたとはいえない。ダーウィンが『種の起源』の素朴な進化論を発展させ『人類の起源』で展開させた論理(人の特徴も性選択の結果である)は、もしそのまま結論をおしつめると人種差別や民族偏見にもつながりかねないため、少なくとも道徳面では否定されたり逆のことをいわざるをえない場面がきわめて多い。しかし、次の観点をかんがえればよい。
 国際分業や社会分業の過程に、すべてのいまいきている人類がまきこまれているか少なくとも参加を欲していると仮定すると(さもなければ無人島で孤立してくらすほかないので)、かれらのなかにある現時点で社会的職業とか個性とよばれている特徴へのさまざまな変異は、この特定の社会について分業の進み具合とよりそっている。
 我々が走れない速さではしる人種がいるかもしれず、我々が解けない問いを易々と解く明晰な民族がいるかもしれない。これらは差別のためではなく、単純に国際的分業をすすめようとしている自然からの意思なのだ、とかんがえてみると都合がいい。勇気のあるたみも繊細なたみもいるだろう。力もちも秀才もいよう。逆にほとんどいいところのない特徴の薄いひともいるだろうし、わざわざ他人に害をあたえる悪さを習慣的にまでして人々の反面教育に寄与する変異もときたまみられるかもしれない。これらのすべては‘人種間の絶滅戦争’のためではなく、‘実力主義的な所得格差による競争的淘汰’のためでもなく、単純に仲間の能力のちがいを有効に活かしてできるだけちがう持ち場をしっかりと守り抜くためにあるのだともいえよう。*1
 この発想を、自分はいまここで「特徴の分業」となづけておく。これは社会学や人類学の面へ任意にあてはめたり、ここで印そうとした道徳的慈悲的・普遍愛的意味さえ失われなければなんらかの(できるかぎり実証できる肯定した文脈でのみ)形而上学にも将来的には応用できる可能性がある。

 人類は社会でしか生きていないし、完璧に孤立すればほとんど何もできないし熊や狼にすら無力なほど弱い。例えばいじめが発生する理由も、強すぎる社会淘汰の圧力がかかりその分業集団内でいわゆるつかえないやつに過剰なちゃんとやれコール(励ましか強制)がかかってきた結果なのではないか。いいかえれば「ゆとり幅」としてのつかえないやつのための仕事場や居場所が、どの社会でもいじめの様な残酷で非人道的なわるさがはびこらないためには必要不可欠なのだろう。はっきりいって、自分も経験してきたこの市の域は、こういうゆとり幅がかなり少ないといおうかほとんどない傾向がある。*2
 問題はすべて報道機関や警察庁や文科省や先進国の報道機関や国連とその関連機関や教育福祉系のNGOへ上告しつづけ、といっても最も単純には、どういう腐敗したことがあるかそれを解決するにはどうしたらいいか不満を手紙をかいておくればいいわけだが、不良教師もふくめ不品行とおぼわしきものをすべて文や言葉にして上告や外部通告しつづけるべきだ。
 教員の悪質はできるだけはやく別の地域、特に教育県とか教育性のたかい先進国の相談先(できたら英語圏、またはフランス語圏。国連での地位と実力のため)へどんどん暴露してしまうしかない。すこしでも疑問におもったらすべて細大もらさずそうやって上告しつづけるとよい。世界には「よい教師」や「すばらしい教育者」や「高い志をもつ理想的公務員」が無数にいる。このために、その不良教員は、みずからが適材適所でない‘まちがった特徴の分業’の地位へはいりこんでしまっただけの社会的エラーなのである。別のすばらしい、心から尊敬できる、そして我々の知識と社会の善を増進するための決してめずらしくない本来そこにあるはずあたりまえの教員は、この特徴の分業のことわりさえ生徒にわかれば、人材をとりかえるだけで、そしてそういう教師をこころから待ち望み行動するだけでかならずや数かぎりなく実在している(そのための教育学部が本来あるし、でもしか教員を丸除きなければならない)のでかならずや来るのである。どうしてもこなければ自分がはらった税金を教育詐欺による不当廉売として返してもらい、いるところへ行ってしまえばいい。まちがった地位についている不良教師は、市民の義務でもあるが、首にしなければ税収が誤用どころか悪用されているだけのはなしとなる。
 社会的分業の経過は、いずれ社会はよりよくされ、合理性とそこですごすことの幸福の程度が上向くとしらせている。なぜなら適材適所で努力すること、立派に(それぞれの能力と才能のかぎり、公共福祉に、人々の善としあわせのために)つとめを果たすことはほかのすべての社会にとっても、最も効率よく、さらにかれらの活動でうみだされる楽しみと喜び、立派な職業人への一層の敬いをますはずだからだ。*3


―――
��1 現実には真逆の、生存闘争としての暗い場面がいかに多いかわからないとしても、理想的にもしくは微視的には。なぜなら家族や会社といった全人類というほどのあたま数の多さをもたないかなり小規模の集まりでは、この職業分化というものはかなり普通にみられるのだから。「職人」とか「職業」、「役割」とか「仕事」、「委員」とか「ポジション」また最も卑近な俗語でも「キャラ(characterの略で仲間内の性格に合う役割分業につかわれたりしている)」という言葉はこの特徴の分業にかかわっている。それが固定化したり、流動性が低下したため適材適所ではなくなり一昔の言葉で意味している身分や門閥、門地とまでなると社会の合理性が阻害されてくる側面がある。だから特徴の分業はある程度の流動性と交代可塑性がつねになければならず、さらには試験や実地によってたえず適性のすぐれた人物をのぞみつづけねばならない。

��2 特に自分が磯原中学校時代、八重樫という社会の男の教師は竹刀で問答無用に子供を密室へとじこめ殴る蹴るを平気でしていた。この男は上述の「ゆとり幅」としての社会学的な特徴の分業が、ちっともわからないかしらなかったので、ちょっとくらい教育テレビでみたアメリカの学生のまねして授業中にガム噛んでみただけの少年たちを、死ぬか生きるかのすさまじい暴力、内部出血するほどの力で殴るける脅す、最後にはこれはどう考えても卑劣きわまる反則技だが膝であたまをけり、これは中野とかいった新任の体育教師だったが「クズだな!」と大声で威嚇し怒鳴りつけ、履いていたスリッパを生徒へ叩きつけ永遠に癒えない傷を心にも、この僕をふくめ言い分をゆるされなかったゆえ拷問にもかかわらず精神的なプレッシャーのため、おやへも黙っていた繊細にして純朴なる少年たちに負わせたのだった。要するに、磯原中学校という場所では数十年前に体罰がはっきりおこなわれていた。結局かれら八重樫・坊主あたまのジャージ姿の中野・女の教師だが高野というこれらの不良教師は、なるほど人類史のなかでみれば単に反面教育としての役目しかになっていない風にだれもに思えるかもわからない。実際のはなし、黙秘権を蹂躙して虚偽をふくむ自白を密室で暴力により強要した罪は永遠にぬぐいされないし、さらには威圧によって冤罪を被疑者の罪意識へ転嫁させようとし事実上は脅迫罪を未成年の子供へ侵してその口止めをしたにひとしい悪辣非道ぶりは当人らが永遠に償えない罪科を暗に背負うという人類史のかたすみで起きた因果応報のことわりしか示していなさそうだ。

��3 知的能力をかれらが自覚するならば、もし力仕事であれ、より高尚にして難度の高い課題へ挑戦していく知性をもつかれらの手助けであれ、そのみずからの故郷からそだった同胞の輪またはいくらかの協調性の本能を互いの善をそだて悪を責め合いより尊重されるべき人類の仲へ向上していこうとするちいさな努力と形質であると認識できるだろう。はっきり確認されたとはいいきれない、猿としてのむかしの経験からつながっている、もはや個人主義の時代にはほとんどほめられもしない群れつどう社会的いきもののありきたりなさがだとしても。

2011年9月17日

ごくすぐれた発明と実証例

http://www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html
http://megalodon.jp/2011-0823-0854-26/www.amnh.org/nationalcenter/youngnaturalistawards/2011/aidan.html (ウェブ魚拓、ミラー)

この記事は本当にすぐれた人物と発明・研究をのせている。
 フィボナッチ数列(1、2、3、5、8、13、、と一個前の数を足し合わせて行く数列)が自然界のあちこちにみられるのはよくしられているが、それを樹木の観察から応用してソーラーパネルの傾きにしてしまった。というのは本当に感心するすぐれた発想だし、この参照先にのっている実証したデータもシンプルだが説得力のあるものでこの生徒はきわめてすぐれた学習知能をもっているとわかる。
 13歳というのは日本では中一だから、心から感嘆する才能というほかない。これからもこの子には期待がもてる。順調に才能がのびていくのを願うばかりだ。

 昔、セザンヌという画家がこの樹木の葉が光を乱反射させる効果をうけとって初期のキュビズム絵画(印象派とよばれている流儀の発端)に応用したことはあったが、まさか実用主義的な思想がこういう方面に応用をみつけるとはおもいもよらなかった。こういう才能がいる、ということはアメリカは発明にすぐれた天性を蓄えたりそれをきちんと表明させ社会的賞賛や公的発表に結びつける土壌があり、なおかつ一部の個人には数学であれごく高い理解力を仕込んでいるのがわかる。
現状の日本、かつ常陸の國の間ではいまだ及ばないところだ。こういう才能も爆発的に無数にうまれたとき、我々はアメリカからも日本本体からも仰がれるはず。

 この発明が実際に大規模商品化されるかは不明だが、特に日照条件のわるい北国ではかならずや実用の余地があるだろう。特に日照時間の少ない冬をみこし屋上庭園の一部や庭に設置させたり、いま日本ではひろくみられる照明器具の上部にデザインさせて十分な電力を確保する、といったことはある程度の資本が興味をもてばすぐ実現できる。特許権や商標をも長らくとったりするためには「広く公共の工学雑誌」に名前入りで掲載するのも手だろう(勿論この程度のかなり権威ある公募雑誌をもつ学問・学術の風土があるのが前提で)。それで仮登録状態となり名誉は確保されるだろうし、類似の商品は模倣とみなされる公式見解があらわれる。そうでない学術文化の未発達な風土では猜疑心の為に発表をためらうかもしれず、あらゆる面に社会損失が膨らんでしまう。
 理論そのものには独自の価値があり、すぐれた理論そのものも(あるいはそれこそ、最も)ごく価値の高いものだが、アメリカのもってきた実用主義的傾向には技術方面の革新をなしとげる別の利点があるとおもわれ、実際にそういう風土から出て来たろうこの一つの実例はシンプルさといい独創性といいこころから感嘆する発明だった。このAidan少年がなにかの機会に茨城県や日本国を訪れたら是非まねいて(茨大工学部か日立市内の学校など、どちらかというと学群構成で研究主体っぽい筑波大も)、何か経験則としてそこに至った原因や勉強方法をききとった方がいい。この少年は現時点でまちがいなく、人類史の偉人に匹敵する超秀才の部類に入る。

2011年9月5日

ということで壊さないでください

このままだと数年以内になくなってしまうかもだけど、いまの市立病院のたてものはあれでかなりすごいものだから、もし持つ耐震改修をほどこすならなにも壊すことはない、って真理にきづいた。あたらしい病院を「公共事業投資」としてつくるのは、何もしないよりは不景気の中でいい(勿論、もっと福利耐久性の高いなりわいへのそれ、なら猶更いいのだが。教育水準もそれに入る)。
 だがまだつかえるたてものを壊してしまう、というのは、あかねひらのときもそうだったが、まことに勿体ないしいきなり思い出が消えるので全然よくない。何だったんだあれは、くらいのかなしいできごとになってしまう。Scrap&build、はよくない考え方、又はあまりになりあがりでbubblyな姿勢だ。特に、それが持ちのいい種類の投機だと、ますます不経済となっていく。欧米、特に戦乱からはなれていたイギリスの古い城郭や地震の心配のない建物は、くりかえし使われる中で風格が高まる、という「経年優化」(要は「趣」)が見込まれていくので、観光資源にもなれば人々の精神的安定にも寄与している。他方では旧態墨守が欠点ともなりえるが、これはすくなくとも経済的にはあたらないということができる。使えるもの、特に構造のしっかりして手の込んだ建物は維持された方がよい。

たとえばあの病院をそのまま市立大学の建物にしてしまえばいい話ではないか? 病室はかなりまじきりをとってあたらしく塗りなおしたり、時のたつ風格のでやすい赤煉瓦などを表面に張って広い教室にすればよく、庭というか、テニスコートあたりを駐車場の場所につくりなおせばそれだけですむわけで、このテニスコート用の設備はすでにいまの北茨城高校あとにあるものをもってきてとりつけるだけでいい。あるいは教壇とか机とか体育館の中身とかプールの設備、これらも新病院建設のまえにすべて一時的に別のところへ保管し、この市立大学の備品として転用すればほとんど経費がかからない。というか、新病院建設の費用の一部をちょっと補填するくらいで寄付すらいらないくらいで済むのではないか?
 あとは講師を、募集した生徒から集める学費で雇うしくみをつくればおわりだ。まことにいいアイデアを思い付いた、とテトラポットの乱立で砂浜がへりおちこみの激しいかもめ界ではもっぱらの大騒ぎというかおまつりさわぎである。磯原だけに砂浜ってか磯の原がないと元気がない。
教育委員会とか市議会、あるいは公聴会や市民アンケートで教育内容を精査し、特に一流の学者をできたら英米系の一流の大学または筑波大・茨大・東大から”adviser・supervisor”として雇い入れ、かれらの忠告を入れるべきだ。自分がおもうに、これは大それたのぞみとおもうかもしれないが、スティーブン・ホーキング氏かリチャード・ドーキンス氏に意見をききたい。彼らは超一流すぎてやばいとアカデミズムからはいわれるかもしれないがしろうとの強みで何でも体当たりでやるべきだ。そのくらいこの地域は知識に遅れている。
日本でいうと、岡ノ谷一夫氏や筑波大つながりのあるノーベル賞受賞者の方々か。どういった学部構成にしたら世界の学術界についていけるかをききとって、その方針をとったらいい。ただ京都大系のひとは土着化されているほど、自分の推察や経験則では京都が一番と思ってるから東国へはあまり素直なアドバイスはくれない可能性が高い。そして懸案の美術関係施設、って構想があったわけだが、この市立大学と関連させて講座なりアトリエなりを大津駅前からあのできる道路で天心記念までひっぱってけばいい。

 一般に、成功する大学は「市街地から離す」必要がある。これは学生を学際環境へ閉鎖あるいは幽閉し、若者特有の血気から遊べなくするため、学業へ集中させるためだ。この点、あの市立病院あたりはほとんど遊び場所がない。ただ一つの懸案は、国道に面してゲーセンやらショッピングセンターやらパチンコやらが建つ余地があることだけだが、これらもパチンコだけを未成年入店禁止の条令でもつくればそれほど強い求心力をもつわけではない規模なら、彼らを堕落させる可能性は低い。
 この市立大学の学生の対象は、おもに地元の高校を出た生徒ではないか。それが今の段階では妥当だ。彼らを事実上収容する高等教育機関が有徳なのだ。ここらでテキトーにあそんですごすだけでは本当に人類にとってよい影響を与えることはできない。そのくらいの人というのは、日本を含め無数にいるからだ。
特に日立圏の技術力をおしあげるタイプの学生、つまりは理系のつよさを鍛えてから社会に出すなら、風評や放射能で第一次産業の全盛にはあまり将来性のとざされてきている、このあたりの工業力はより強化されていくとおもう。さらには美術や芸術の土壌はもとからあるのだから、純粋に地元から従来の日立マン的なキャリアが順調に育てばそういう郷土人たちはたとえば日本にとって才能が欠けていると言われる(つまり需要が高まりつつある)工業デザインの職能のよさ、へひとりでに結びつく可能性が高い。

これらの改修工事をおもに緊急雇用制度として手に力をあましてる漁師たちを使って安価な報酬ででもおこなってもらえば、難局ものりきれるし、松本氏の道徳感も立派に結果になるだろうし恨みっこなしで調度いい。

英語公用化の先取り

流れから突飛にきこえるのでこの市では鴎一匹しか納得しないだろうがというかもっぱらききながすだろうが、この市はもう英語を公用語にいますぐするしかない。しかも第一公用語に。
 日本語圏ではまずすぎる。その僻地言語っぷりはかなり抜き差しならないところまで追い詰められている。こんな経験則や勘にたよった非体系的なわけわからん言葉は、日本でそだった人たちをのぞけば余程のものずきな、しかも何かしらかたよった研究者(要は変人)へしか通じえないのだ。『日本語とは勘違いされつづけるにすぎない』。
できるかぎり、地球の事実上の標準語である英語を公に、大々的に、生活圏で最も先に採用するべきだ。無理にでもやってれば慣れる。それを強制せざるをえなくするには英語圏の人物を様々なポストへ多数導入するとかも有効だろう。
我々の方言のたちばからいっても、東京語を習得するよりはむしろ英語をとる方が我々へ有利だとしるべき。
この様な「通じない言葉」をわざわざ習いとる意味はほとんどない。
ただでさえ内向きで冷たく風変わりな民族に、ますますおもいやかんがえやしったことやこころやあたまのなかみの表現力が欠如しても何一ついいことはない。万に一つ得したとしても、「へえ変わってるね」級の反応で永久に世界から忘れ去られる。どちらにしろ我々旧来のだっぺ方言は文面上は覇権をもってはいないうえその見込みはまずないのだから、進むことはできても退けない以上、できるかぎり先に進むしか道はない。

今、藤原正彦氏ら保守論客が日本語イコール国語 復興論みたいのをはじめている。しかし、はっきりいってこれは間違いである。国語など、厳密にいえばどの時点でも固定されたものではありえない。この「国語」なることばそのものが大日本侵略主義にともなう悪である。漢字廃除運動すらしていないのだからほぼ100%、倭民族中心主義の狂信洗脳でしかないのだ。
くわしくいえばどの社会にも国語などない。あるのは「事実上の公用語」だけだし、そのどれも常に進化や展開のさなかにある。
 さらに、現時点の日本語は弱小勢力のとるにたらない方言でしかないし、同類の決して地球中で最高に強壮や文明的科学的ではないたちばからいって今後ともそうなる。
第一言語が英語である人達に比べれば、日本語という方言の土壌は事実上、ハンディキャップであり負担なのだ。完全に無文の社会よりはましかもだが、それでも決して最上等とはいえないたちの。
なぜなら、はっきり言ってしまうと和文なるものはろくでもない文献(いわゆる倭歌物語小説の卑猥な、もしくは感情表現とフィクションにかたよった文芸のたぐい)が相対的に多い言語なので、総合してみると自分よりずっとすぐれた言葉、特に科学的な原文の多い英語からまなびとることの方が、それらの方言体系(ならびに古文の再習得)を旧態墨守るより利益率はずっと大きい。

仮に日本語もしくは茨城語という方言が完璧にはなせなくなる人が過半数より出たら、このときはじめて方言のよさを部分的にルネサンスるくらいで調度いい。しかもこのばあい、孫世代とコミュニケーションをとるために祖父祖母世代は英語圏の言葉といくらかの文化を習得せざるをえないだろうから、ぼけ防止とかをこえ中高年への定常的教育効果がある。