2010年7月3日

国際語のはなし

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↑この楽天批判は役立つ。そう考えると急速な英語公用化にも一定の留保がいるのかも。つまり、「損が最小」になるとき採用すべきで、それは現地とのつながりが過大なときに限る。

というわけでもないのは、たとえばサム○ンがどれだけ以前から海外市場を視野にいれてたかってはなしと似ている。つまりこの批判も擬似批判というか、結果論で、サム○ンを考えれば「国際語としての英語圏との親和」は相互作用みたいにして進んでくわけ。
公用化と実用化のどっちが先でもない。保守チシキジンからは英語による自己殖民まがいなどとんでもない、と反論されるはずだが(某数学教授など)ぼくの見る目がまちがってなければ、それはいやおうない趨勢なだけ。

つまり日本語が地球の公用語になる未来は確率からしても過少でほぼ無限の時間がいるので(どう考えても人口分の経済力が足りない。漢語圏との親和にしか古語の生き残り策がなかったように)、そうならそうでどう国際語に親しむかの方が優先。
公教育のたちばを思えば、ボクは公用化はすぐれた考えだとやはり言う。しかし現実には厳しいという意見がやはりあるべ。そこで『イギリス人教師』が有用。これさえ数人以上入れれば漸次に文化そのものがひとりでにおきかわるはず。

水戸学が朱子学派の最先鋒になりえたのは、朱舜水の功績がいかに大きいか分らない。ぼくとしては、ツクバがケンブリッジつながりあるところからやはりそこから招くのが最良だと思うけど、本物が難しいなら周縁圏から注意深く選良を招くのが賢い。