2013年3月29日

バイオマス発電所からの振動公害発生の可能性

 かるい振動公害(みみにきこえるほど家具などが振動している)というものが、パワーステーション茨城というバイオマス発電所周辺の民家から指摘されている。その発電機が原因かは不明だが、この発電所が建設されるまえにはそういった事例がなかったことから、かなりこの会社から発生している確率がたかいといえる。
 茨城県民は首都圏に大量の電気を供給してきた実績があるが、公害を受ける場合は容赦なくその発電所をつくっている東京都民をせめ、ばあいによっては住民運動でおいかえすべきだ。
 以下、資料。

震災後の東京電力の供給能力:3500万kW程
茨城県内の一般家庭の電力総需要:50万kW
茨城県内の発電施設の主な発電供給出力:757万kw
��内訳
 鹿島火力発電所:440万kW
 茨城県・東海村にある東海第二原子力発電所:110万kw
 常陸那珂火力発電所:100万kW
 鹿島共同発電所:105万kW
 パワーステーション茨城:1.5万kW)

山梨県   86万人
群馬県  201万人
栃木県  201万人
茨城県(東海第二原発ほかで首都圏へ電力供給)297万人→需要50万kW
静岡県  377万人
��以上5県の人口1200万人→電力需要200万kW)

千葉県  622万人
埼玉県  720万人
神奈川県 905万人
東京都(電力浪費で茨城の電力をむさぼる驕れる首都)1316万人
��以上4都県の人口3600万人→電力需要600万kW)

 一般家庭の電力総需要は800万kW(23%)にすぎません。これを5グループにわけて停電を強制した場合、23区も含めても節電効果は160万kW に留まります。一方、大企業に使用制限をかけた場合、オイルショックのときの実績で15%の節電効果が確認されていますから、この時期の需要量を4000万kW とした場合、それだけで600万kWの節電効果が期待されるのです。

 本当に節電を目的にしているならば、600万kW の節電が期待できる「需給調整契約の発動」の方がはるかに有効な方策だったといえます。

東海第二発電所は、日本初の大型原子力発電所として1973年4月に着工(第1回工事計画認可)、同年6月に建設工事を開始し、1978年に営業運転を開始しました。

運転・定期検査時の作業性向上やコンピュータを用いた放射線管理システムの導入など安全性や信頼性の向上が図られています。 沸とう水型原子力発電所1基としては日本最高の総発電電力量の記録を更新中です。

運転開始時からの運転実績
発電電力量合計: 2,269.7億kWh
平均設備利用率: 70.6%
平均時間稼働率: 71.4%
(2012年3月末現在)

発電所概要
電気出力 110万kW
原子炉型式 原子炉型式 沸とう水型軽水炉(BWR)
燃料 低濃縮ウラン(約131トン)
営業運転開始 1978年11月28日
送電先 東京電力(株) 東北電力(株)


引用元:世界の環境ホットニュース[GEN] 791号 11年3月28日
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
日本原子力発電株式会社、東海第二原子力発電所、発電所概要
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html

2013年3月28日

保護すべき貴重建造物

 磯原中学校よこにある石造のくらは、様式からみて、明治・大正時代以来のものかもしれないので、所有者が保護するのが困難なばあい、市がかいとって歴史的建造物として、郷土博物館などの用途として保護すべきだ。以前はとなりに市役所があったため、その関連物の可能性もある。

体力日本一の茨城

全国小中学生体力テスト(平成24年度、2012年4月~7月)
茨城県
中学生男子1位
中学生女子1位
小学生男子2位
小学生女子2位

実施された種目
握力
上体起こし
長座体前屈
反復横とび
20mシャトルラン
50m走
立ち幅とび
ソフトボール投げ(小学生のみ)
ハンドボール投げ(中学生のみ)
��※ 中学生は持久走か20mシャトルランのどちらかを選択)
http://networksansaku.seesaa.net/article/353138580.html

http://sankei.jp.msn.com/region/news/130323/ibr13032302230003-n1.htm
小中学生全国体力テスト 中2男女とも1位 小5も2位 茨城
2013.3.23 02:23
 ■各校取り組み成果

 文部科学省が22日に公表した平成24年度の小中学生の「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」(全国体力テスト)で、茨城県は中2男女がともに1位、小5男女も2位と好成績となった。小学生、中学生ともに前回調査よりも順位を上げており、県教育委員会は「各校の体力向上に向けた取り組みが上位に入った要因の一つ」としている。

出身都道府県別、夏季オリンピック金メダル獲得者ランキング
http://matome.naver.jp/odai/2134340137697855501

■集計条件
団体・チームでの金メダル獲得は計上しない。
個人での金メダル獲得のみ集計しています。
全ランキング

��位:8人   北海道
��位:7人   茨城県
��位:5人   愛知県、福岡県
��位:4人   秋田県、東京都、熊本県
��位:3人   群馬県、静岡県、大阪府、和歌山県、広島県、山口県、奈良県(1)
��5位:2人  青森県(2)、千葉県、新潟県、三重県(1)、兵庫県、愛媛県、宮崎県、鹿児島県
��3位:1人  宮城県、山形県、栃木県、神奈川県、山梨県(1)、岐阜県、石川県(1)、岡山県、徳島県、高知県、長崎県(1)、佐賀県、大分県、朝鮮

 これをもとにかんがえて、将来は茨城県を首都圏の五輪選手要請地区として指定していくのが賢明ではないかとおもう。東京五輪が誘致に成功するにせよしないにせよ、それと協調するにせよしないにせよ、茨城県で五輪をくりかえしおこなうことを前提に五輪競技のおもな競技場・練習場、特に体操の様、種目数がおおいものを優先的に県内へつくり、じもとのすでに体力が全国一のこどものうち才能と努力の能力があるひとをえらび運動選手へ精鋭教育すべきだ。
 五輪選手のかずもあと1人が金メダルをとれれば、茨城が北海道以上となり、全国一の金メダル選手出身者数となったのだから、単なる知恵によって競合的にのびられる余地なのがたしかだ。

 この茨城人が全国一の体力をもっている、という試験成績の結果・あかしは、今後も維持し、かつその長所をこれからものばしていくべきだ。体力がたかいということは健康性とも比例するはずなので、これからも決して欠点にはならないだろう。

追記
 ただし、茨城県の教育委員会からのプログラムというものは、運動がにがてか、病弱なこにとっては全体主義的統制のわるい影響を感じられることにもなりかねない。いいかえればこの「教育組織」からの強制というのは可能なかぎりやめねばならないだろう。この分を、十分なのびはばのある生徒の長所をのばす分へあてても、総合結果はおなじだからだ。つまり、総合結果は
底上げの成績向上度=英才教育の成績向上度
なので、教員はばあいに応じて適宜どちらがより総合結果をのばすことになるのか、最良さを選択すべきだ。
 大事なのは、個人個人の健康状態や個性の能力はばに応じて、それぞれの限度での運動習慣づけという教育性にとどめることか。運動がどうもにがてなこどもへは、単にやすみ時間や放課後での、先生らとの散歩の習慣づけをあたえる程度でも十分、どうしても運動したくないこへは「個人的自由」の範囲内でたのしんでsportsをおこなうのが最善とおもえる。そもそも、このsportというのはたわむれ、つまり古代ギリシアで自由人たちがあそびでおこなった競技が語源でもある。

磯原中央公園の事故防止フェンス

 磯原中央公園のまわりに、できるだけたかいフェンスをもうけるべきだ。路上と平面的につながっているから、ボールが歩行者にあたりやすく、事故を未然にふせぐ必要がある。

2013年3月25日

新憲法論

 まつりごとは、先祖をまつることだとすれば、この政治の語の意味のうち、特に政にあてられているおこないは、いわゆる祖先崇拝をうちにふくんでしまっている。しかし、互恵的利他性がこの血縁をおなじくする度合いに比例してしかうまれないとすれば、すくなくともおおくの生物でそうなわけだが、このおこないこそが「政治」の原型でもあるのだろう。
 ところで、このまつりごと概念をもっともはなれているのは、実はキリスト・救世主であるジーザスの思想。ジーザスは単に祖先ばかりか血のつながった家族よりも万民・みなを優先させようとした。この結果、『旧約聖書』のアダムとイブが神から楽園をおいだされたという原罪のおはなしの解釈のうえでも、キリスト教では祖先崇拝を悪徳とみなしてきた。

 いいかえれば、まつりごとはキリスト教とはちがっている。

 ここで、信仰心や道徳心があつい者は一体どうすればよいのか。おおくの西洋諸国のうち、一番宗教心が政治権力と分離した思想としてprotestantism・抗議派思想は、その妥協水準を「政治は宗教ではない」とさだめた。政治は現世的権力で調整をつかさどるものであり、宗教は前世や来世つまり過去や未来もふくめてそうするものであり、この2つはわけておくのがたてまえになった。こうしてキリスト教の貴族である教皇はもともといたわけだが、ヨーロッパで王族と共存しながらもこのひとたちはわかれていった。そして抗議派は、さらにこの王族による支配も否定しようとした。もっと純粋にかみさまだけから統治されるために、アメリカへそのひとたちはイギリスから移住してきた。

 このアメリカから間接統治された結果、日本は「まつりごとと、抗議派思想を同時にもつ」というとてもまれな憲法をもつことになった。この複雑性が、わたしたちのこころや、その生活をさいなんでいる。たてまえはもっともふるい系図をもつ天皇に政治的にへりくだらねばならないが、抗議派思想のため同時に自分たちが純粋にかみさまを信じる主権者でなければならない。この異常な状態、いたばさみ心理が、太平洋戦争後、68年間つづいてきた。現代日本はねじれているのだ。
 実は、いま自民党が憲法をかえようとしているのは、おもにつぎの2つのわけによるとわたしはおもう。
 1つめは、山口県からでてきた安倍氏が自衛隊は軍隊ではなく自警団であるという憲法のたてまえをなくして、それを公式に軍隊とみとめてしまおうとしていること。これは安倍氏が海外にいって外国人から、「おまえのくにの軍隊はどうしてる」とかいわれたとき、「いや軍隊なんてないたてまえで、いやでも本音でそれはあるけど、戦争はしなくて」とか、複雑な返答をせざるをえなくてすっきりせず、面倒だからだ。単に自警団というなまえにかえればいいだけだとはおもう一方で、安倍氏ふくめ首相になればその本人は自衛隊という名だろうと日本軍という名だろうと、あるいは国防警察という名だろうとその自警団を指揮できる。だからこれをアメリカなど外国からこいといわれてどこかに派遣して、現地での戦争の後方活動支援にはいるのにも、わたし個人はこれが不義理やよわいものいじめの一端であるとしっているため無論反対だが、すでに小泉政権でイラク戦争後方支援の実例があったよう「現憲法で支障はない」のが現実なわけだ。日本では侵略可能な軍隊あつかいしないが海外ではときにそれを軍事目的にふくむと定義されている一般的軍隊あつかいしてくれ、たとえば復興支援活動にいった現地でも戦地補償してくれというのは二重基準とおもうかもしれないが、実は安倍氏は「他国の戦争に加担すること」がきわめてつみぶかいとはさっぱり理解していない。これはこのひとが吉田松陰ら植民地侵略思想や倒幕思想をもった過去の山口のひととおなじで、暴力をふるっても別にいいものだと信じきっているため。山口のほとんどのひとにとって、暴力equal権力なのだろう。勝てば官軍とはそういう意味内容のことばだ。おそらく、この安倍氏の暴力への勘ちがいは、いずれはだれかなにかによって制裁され、安倍氏はこころから反省することになるだろう。わたしのしるかぎり、慶喜公の出身地である茨城のひとや、あるいは隠居地である静岡のひとはこころのどこかで、「負けるが勝ち」であるとこの真逆のかんがえかたをもっている。これは系統樹のちがいだ。本当に大事なのは他国の戦争を、最大限に暴力なしにやめさせることだ。慶喜公にはそれがわかっていた。それがどうしてもできないときでも、暴力以外の手段をすべてつかわねばならない。それでも無理なときは、いろんなくにの会議からつくられた政治機関である国連へ相談しなければいけない。これは国内でいえば家族会議や市町村役所、都道府県庁、日本国政府なわけだが、暴力をつかった途端それは悪事に加担したことになってしまうからだ。
 2つめは、実は安倍氏もそうなのだが、特に麻生氏が皇室の近縁だからだ。このひとは皇室、つまり天皇の家族と血のつながった親戚だから、できるだけ親戚をよりよいたちばにしたい。この点でかれのかんがえかたは寡頭主義的マキャベリアン・もっと端的に財閥政商の典型といってもいいほどなのだが、とかく「まつりごと」は祖先崇拝だからどうしようもない。だから麻生氏は憲法を天皇主権とし、たみは天皇という主人から支配させるという最高法規にかえてしまおうとしている。勿論政治好きな麻生氏もあるいは皇族のなかで世襲寡頭政治がうまくいくとおもいこんでいるひとも、それなら自分たちが統治者の役につけるから大満足なわけだが、麻生氏はこうして民主主義を否定して憲法を単純化しようとしている。一応つけくわえておけば、この麻生氏は薩摩藩・鹿児島県の大久保利通というひとの子孫で、安倍氏は長州藩・山口県にすんでいたひとの子孫だ。この鹿児島と山口は明治のとき、イギリスやほかの外国あいてに戦争をしかけて降参し、イギリスから武器をもらって逆に日本へ戦争をしかけた。こうしてかれらはよわい武器しかもたない日本人を問答無用でおいはらい、したがわなければころし、明治以降、ほとんどの政治家をかれらだけでしめてしまった卑劣な覇道の歴史がともにある。

 こういうことをかえりみて、わたしはこうおもう。天皇は宗教家あるいは古代から連綿とした神聖宗長の末裔として水戸において、まつりごと、つまり先祖をまつる儀式のなかで永遠に保護する。政治は皇室典範や天皇の条項をなくしてその儀礼的皇帝制度の本質をめにはみえない暗黙の不文律とし、いまある政治機構は国民による国民のための「現世」の権力調整機能に限定、祖先崇拝から形式的にきりはなす。そして他国の戦争に加担可能にしないために平和憲法・いわゆる憲法9条の「国際紛争を解決する手段としては武力を永遠に放棄する」をのこす。自衛隊は自衛軍なり自警軍なり、あるいは国防警察軍なり名称変更にとどめる。こういうことがいい。
 水戸ではなくて京都にしたら、という意見があるかもしれない。けど自分がしるかぎり、京都のひとびとは天皇へ日本で一番好感をもっていない、共産党の投票率すら日本一たかい。しかも天皇家の本当のふるさとは奈良だから、かえらせたまうというのがもし国民世論なら、かれらはそこにかえるのがもっともすじがとおっている可能性すらある。さらには大阪や神戸も、東京とおなじく一時的に御所だったことがある。いいかえればいまの京都というのはかりのやどりだったし、ひとびとがおもいこむほど特に必然性があるわけでもない。双都構想というのもあるが、これは自分はやめた方がいいと感じている。二兎を追うものは一兎も得ないからだ。あらためていえば、二都を負う者は一都も負えない。明治のときすでにこれが前提で天皇は東京にきた、となっているが、この時点でまだ16歳だった明治天皇近辺、具体的には岩倉具視だろうけどそのときこうかんがえたはずなのだ。関東地方、特に大商圏の江戸をあのままにしておけばかならずまた関西地方が実力でくつがえされてしまうだろう、よってそこへ優先して天皇を移動させてしまえ、と。徹頭徹尾、明治天皇は利己的暴力性で地位にともなう税収を独占する目的で、やってきたのだ。もしそうして日本全域を独裁するつもりがなければ、慶喜公はあれほど徹底して朝廷へ忠だったわけだから、関東では徳川家の伝統的武家統治をまかせておけばよかったのだから。
 自分がモデルにしようとしているのはイギリス王室で、かれらは大都ロンドンのすこし北にある田園バッキンガムシャーに宮殿をかまえているので、これが自然を愛するこのましい趣味の模範を、世界の国民にあたえてきているとわかっているからだ。そしてこの点は、実は水戸の徳川家もおなじだった。このため茨城県ではすばらしい自然と田園風景がのこされ、偕楽園という天下一となるだろう大公園もつくられのこされた。

2013年3月24日

保護が義務の資料

 日本国民、人類はできるだけはやく、以下の資料を重要な歴史資料として、国家単位で保護しなければいけない。

「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見

幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)
の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。

故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。

 記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、
「変」に関する伝聞や風説などを集めた『骨董録』(こっとうろく)(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。
茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。

中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。

 <殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>
��殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)

 〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、
御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのうち駕籠の内か外か分からないが、
大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)

中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。

 10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は
「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。

◇桜田門外の変=1860年3月3日朝、江戸城桜田門外で、大老で彦根藩主の井伊直弼を水戸浪士らが殺害した。
尊王攘夷(じょうい)派への弾圧「安政の大獄」を実行した井伊への反感などが背景にあったとされる。
警護した彦根藩士の一部は討ち死にし、生き残った者も切腹、斬首(ざんしゅ)などとなった。 

以下ソース:2010年7月11日01時37分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm
http://web.archive.org/web/20100713071522/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm


2013年3月19日

これからの日本像

 政治は「暴力性」をひとのあいだに調整する機能として要請された。
 ここからみて、天皇という名字の強大な独占権力をもつひとと、それ以外のよわいたちばのひととの利害調整というのは当然はかられるべき政治の職能となる。

 天皇が日本国民をいじめている。勿論、「天皇は日本国の象徴」かつ「国民が主権者」と明記された憲法も前提にある。このばあい、第三者である日本国民はそのいじめられているみずからをふくむ日本国民のだれかを、天皇と一緒になっていじめるべきだろうか。これに加担していじめるのはchauvinisticなファシズムだとおもうが、わたしはそうすべきではないとおもう。
 天皇は皇帝兼教祖としていきてきた。これを「政教癒着(政治と教育の癒着)」や「政宗癒着(政治と宗教の癒着)」というのだが、天皇はすくなくとも政治家とみれば「いじめ」をなくすがわでなければならない。これはとても素朴なたとえにきこえるかもしれないが。

 はっきりいう。西日本はいじめ文化であり、東日本は正義文化なのだ。総合的にみなすと、そういうほかない。そしていじめ文化の代表格が天皇政治であり、正義文化の代表格が幕府政治だった。天皇政治は公家、幕府政治は武家をもたらした。なぜなら公家は天皇という絶対権力者のまえでいかにしても出世可能性がかぎられていることからライバルへ害をあたえるのが自然有利となり、結果相互害他的すなわち競争的になるが、武家は相互利他的な協調性をとることで強者をたおしていけばその最高位である将軍につけたからだ。
 この起源は、おそらく縄文=東日本文化と弥生=西日本文化というおおきな過去の系統樹のちがいに由来している。縄文人は古来から日本にすんできたひとびと、弥生人はその後に朝鮮半島から渡来した人とそれに混血した人をふくむ。このふたつの文化傾向はおおきくみると、自分のみるところたしかにちがいがある。つまり地政学的な差、地理と政治に由来した伝統的文化傾向の差なのだ。

 生物学的に、同系集団は互恵的利他行動をとりやすい。それは血縁でもあり、個人を長期的に識別しやすくなる環境収容力戦略的なある程度とじられたばでもある。この両面からみて、日本が極東のはずれにあって、しかもしまぐにであることがおもくはたらいてきた。日本では侵入者がほとんどなかったから、ふるくすんできたひとびとへはこの利他性からの淘汰圧がかなりかかっていたはずだ。そしておそらく、うまれつきの知能のよしあしをしめすとおもわれる学力テストの「知識分の活用比率」というものは、この習性的な利他性へ積極的に比例している。
 ひとつの明白な例は、秋田県と大阪府のいちじるしい非対称性だ。秋田県では学力テストの知識分の活用比率が抜群で犯罪率は圧倒的にひくい。大阪府では真逆で、学力テストの知識分の活用比率は圧倒的にひくく犯罪発生率は抜群である。この例だけで確証とするには不十分かもしれないが、これほどいちじるしい統計的偏差がみられることは特筆にあたいし、その原因はおそらく秋田が古来・縄文・閉鎖型の文化にあり、大阪が渡来・弥生・開放型の文化にあることとかんがえられる。
 こうして犯罪発生率にも比例関係がみられるとおり、人口集中度(人口のうち、何%が人口集中地区に住んでいるかの割合)や人口密度のひくいふるきよき田園、都市化されていない地方にたすけあいの文化がそだちえるのがわかる。逆に、都心化された新規流入者だらけのばは、かならず利己的で害他的なおこないがはびこりがちになるはずであり、しかもそのばかぎりのおこないをしてもむれにまぎれて罰されにくいため利己的なひとびとがいきのびやすいかぎりそこで淘汰されたひとびとには傾向としてぢあたまのよくなさが特徴化されやすい。おそらく、『旧約聖書』におけるソドムの説話も、古代におけるこういった都心化の退廃をしめしていたのだろうと推測される。

 こういった自然の理論的背景で、天皇のいえのまわりの人口集中度・人口密度がたかいということは、朱にまじわれば赤くなるため文化面からそこでそだつひとを利己的にしてしまう。つまりこの天皇家のまわりにあつまってすむという都市モデル自体が、西日本的な風土だったのだ。

 今日わたしたちをさいなんでいるのは、まさにこの西日本的ないじめ文化の残滓であるといえる。そしてわれらにまたれることといえば、このあしき文化を排撃し、ふたたび武家やその古代のすがたである縄文人にみられた互恵的社交性をとりもどすことだ。また、ここからどうして薩長土肥というにしのはてにあった外様大名とその部下らが、京都にいた公家の一部とともにあれほど、当時の外来人であったイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ポルトガルのひとたちを利用して、母国の日本人やアジアのよわいたちばのひとびとをひどく「いじめた」のかも、こうしてはっきりとわかる。かれらの末裔とその文化傾向は日本そのものの古代人ではないため、利己的かつ害他的なおこないをすることがかれらおよその習性なのだ。そして、もし日本という単位あるいは地球やそれが属した銀河系というなかば閉鎖的な単位がこれからも半開放系としてにとどめられるだろうがときのなかで存続していくならば、そこにくらすひとびとは時代をへてこういったいじめやその文化になれたひとびとをやがては淘汰していくことに成功するだろう。無論、外来者の侵入というかぎられた期間のあいだは、よりもどしの期間や時代はある。日本の歴史にてらせば、おもな国風化時代とその他の外来文化摂取時代との大別ということになる。だがこの開放期間は、系のことわりから決してながくはない。生命をモデルにした半開放系はつねに存続するのだ。たとえば食事をつねにしなければいけない系は、そうしないかたより相対的に個体性をもっていないので移動の自由がかぎられ、単独増殖可能性がかぎられる。それはくにというものでもおなじである。
 閉鎖的半開放系が、自然の理由によってよりながい期間をしめていく結果、このよはいまよりも互恵的な利他性、つまりよいおこないとそういう習性をもつひとにみちあふれていくだろう。
 わたしのめには、天皇という西日本文化の末裔が将来どうなるか、いきのこるかほろびるかはわからない。しかし、過去をみなおすかぎり、このひとはたしかに利己的で害他的な業にいとまがなかった様だ。いまなお、これほどの負担をせおっている茨城県から労働力搾取をするために原発をふくむ環境負荷のある発電所やその廃棄物を、かれのすみかである最高の人口密度をもつ悪所東京都からおくりだし、われら主権者である国民から金銭と権力を独占濫用しつづけている。この利己的で害他的な象徴の日本国という構図も、それほどなくついえて、やがて天皇以前の真の日本の、単に害自的でないばかりかたがいに利他的なよりすぐれた政治が回復されるだろう。

 天皇が国民をいじめている。このばあい、はっきりと天皇というわるものを批判するべきなのだ。たとえ何代分の家系図があろうとまったく関係ない。なぜならわるさはわるさだ。水戸学における義公のおしえ、それもわたし個人にとっては関係がない。『論語』にいう、「仁に当たりては、師にも譲らず」。そしてこの人種差別主義者である天皇をまつりあげる日本国憲法を、その皇室典範そのものをかえることが、日本国民を真にすくいたすける方法だ。これが正義の文化である。
 現実的に、まずこの天皇というひとは国政からきりはなして、尊皇のつみかさねがある水戸にひとつの「宗教のいえ」としておき、政治権力者としてのたちば、つまり国家の財産から支出してやしなうことをやめねばならない。これはすでに徳川家がそうなった様に。そうしないかぎり、天皇家というのは政治・宗教・教育の三面にわたる三重権力者なので当然癒着をおこしてどれに対しても腐敗し、あしき世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師たらざるをえないだろう。現に、利己的で害他的な傾向をもつ外来者の都心となった東京がさらに経済の中心までしめてしまっているため、政治・宗教・教育・経済という四重権力者となって、福島原発事故にみられたとおりはなはだしく悪魔のすという構造をもっている様に。こういう悪徳東京に寄生した天皇に関してはやはり東京人なのだから、歴史原理として「絶対権力者は絶対に腐敗」し、世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師かつ悪徳商売人というすさまじくわるい存在とみなされざるをえなくなるはず。

2013年3月16日

茨城県知事の善

 自民党県連が茨城新聞上で県知事へむけて「多選の弊害」というが、それなら125代以上世襲皇帝の地位にのさばってきた天皇陛下こそまこと最大の弊害者となり最初に批判されてしかるべきな理屈になる。勿論、歴代徳川家など偉大な君主のすべてもそうなるわけだ。まず税金を第一に搾取している象徴がみをきらねば、その部下が君主的であるという面だけのために、みをきるおもいをするのは土台おかしなはなしだ。一体あれほど優秀な橋本県知事のどこに多選の弊害があるというつもりなのか、はっきりその弊害部分なるものを自民党県連はいわなければいけない。いわゆる総合ブランド研究所による風説流布の犯罪活動によって恣意的ネット調査で300万人の日本国民が不当にひびおとしめられていることへの対策、以外になにかもっぱら改善すべき点があるとすればだが。ないとすれば自民党は冤罪しているのだ。
 震災時にもそれ以前にも、まこと尊敬すべき偉大な功績がかずある現知事への、公徳心や判断において腐敗した自民党からの単なる名誉毀損におもえてならない。茨城県にくらす300万人のひとびとは、まさに急場に真の勇気を発揮し、不道徳な政策へ直接抗議した橋本茨城県知事のおかげで深刻な被災地での計画停電という悲劇からまぬがれ、いのちをすくわれた。そして茨城空港というあらゆる面で有用な自衛隊基地の兼用化という方策も、この賢慮にまさる知事の一貫した英断の歴史によって、東京の悪質なマスコミからのすさまじく不当で陰湿な悪徳商人根性の誹謗中傷にもかかわらず維持されていたおかげで、そこが首都圏で震災当日も唯一いきつづけた貴重な海外からのアクセスポイントとして日本国民ならびに世界人類のいのちをたしかにすくったのだ。正直なところ、これは英雄にのみなせるレベルというほかない。
 はっきりいう。あの悲惨な大災害状況の当時、政権与党だった民主党との挙国一致体制を単に政局目的で拒否した悪性きわまる自民党ごときが真の英雄である茨城県知事に侮辱をする。これは、「最悪」というのだ。これほどのあからさまな悪業に、日本国の人民としてすこしもいきどおりがわかない方がおかしい。
 Critic、つまり「わかる」ことが批判や批評ということばの原義であり、単にあしざまにいう意味ではない。業績を理解し、そのなかで改善点やのぞましくない点を指摘し、諫言ということだが、そうして公共に処するのが政治家としてのつとめではないか。なぜ具体的内容がともなわない単なる非難や攻撃が、県民ならびに国民の公徳へ資するというのだろう。そのわけもない誹謗、そしり、わるくちはまったく逆の効果、いわば「有徳な君主を悪意をもった小人がひきずりおろす」という革命とは正反対の堕落、最悪の衆愚行為、いわゆる孔子がにくんだ「下にいて上をそしる」不徳なる暴政をもたらすにすぎない。
 どんなばあいでも、君主であれ民主であれ、世襲であれ一代であれ政治の中心にあるものは、徳の程度なのである。

 それとも一党独裁化した自民党からのいいなりにならないひとは、だれであれ政治活動ができない、とでもだれかいうつもりなのだろうか。おごれるものはひさしからず。

 特に、生物学的必然として常陸国人ではない出身ゆえに茨城県民のためにいのちをすててはたらくとはかぎらない現副知事をなぜか擁立して、国会議員にすぎないかぎり地方自治とは無関係な自民党県連が有利に県政へ圧力をかけ、県民の意を牛耳ろうというのなら、それは単に行政的に不正な弾圧、さらにいえば地方選出国会議員や県政への国政からのlobbyistによる不正な談合というほかないはずだ。おそらく邪推でなければだが、自民党県連が現副知事をいきなり擁立しだしたのは、このひとが現職官僚からの出向者だった関係で、族議員とのあいだでの、国政とのこのひとなりの癒着関係がなせるわざとおおよそ予想できるとしても。
 県民により直接公選されたのだ、現知事は。どうかんがえても、単なる国会議員にすぎない自民党県連がえらんだということではない。つまり、自民党県連は国政から県政への内政干渉をおこなおうとしている。これはまさに民主主義からみれば不義である。実に単なる弊害なのはばらまき公共政策からの票田による癒着関係を大量にもっている自民党県連の方ではないだろうか。
 このどうみてもあからさまに不正な政治的事実、つまり自民党が国家政府の政権与党のたちばから地方政府へ圧力をかける一党独裁制をしめしている。この事実がまちがいではないかぎり、ちかい将来ふたたび悪徳自民党の座がくつがえり、民主党に政権がもどることも十分予想できるといえよう。実際、現首相は地方の自民党議員がえらんだ人物ではない。その自民党内の議員票間の自己目的化されたくだらない派閥抗争の方がよほど多選にわたってきているのだから、国民ならびに県民にとってもおおきな公害があるといえる。いいかえれば、自民党自身が国民から信任をたくされたみでありながら民意にそむく悪業への反省の度をふかめ、地方にすんでいる国民の真の意見へ真摯に真剣にみみをかたむけることこそ、真の地方選出国会議員の「全体の奉仕者」たる役目なのである。この国家政務の王道をわすれ、覇権をとったにすぎない自民党閥を濫用し国政につながりのふかい族議員官僚族にこびをうるとは、なんといっても茨城県民としての公徳にあたいしないと、わたしにはみえる。

 茨城県がただの地方自治体だろうか。延喜式に最上区分の大国だった。親王任国であるから現常陸宮家が御皇室により創設された。坂東のかなめとして徳川幕府からその重要な背後をかためる地位である定府制御三家に指名された。ところで、めだとうとしないから魅力がないかの様にみえるただの田園地方でありいなかだから、茨城県民などというものはたかだか一代官僚や世襲皇帝の親族へのなりあがりとやらが、それどころか成金が、はじめからうえから目線で悪徳支配してやるのはちょろいものなのだろうか。いいえ。そうではない。この地方を本当にしっているひとはそうはかんがえられないだろう。ここは長年、いや日本でもっともふるく『古事記』『日本書紀』という他者からの記録のみならず『常陸国風土記』という古老の代に記録された、卑怯な一方的侵略者へのきわめてはげしい対抗戦をしいた当時から、『大日本史』や水戸学における尊攘論にみられる非常につよいpatriotismの啓蒙に至るまで日本人にとって郷土、ふるさとに対する報国心とそれにともなう偉大な公徳というものをうみだしてきた伝統がある地域なのだ。否定しようもない水戸っぽなるものの性格を、ここでうまれそだち、本当にみをもってしっているひとは、この地方におけるひとびとがおどろくほどつよい武士道精神から延長された極端なまでの道義心をあちこちにひめているのをしっているだろう。
 茨城という故事にみられる侵略犯へのはげしいresistance。佐竹公が上杉方への不義理を自重したこと。四十七士。桜田門義士、坂下門義士、天狗党義士。大政奉還。これらの共通項はなんだろうか。茨城県うまれのひとびとがもっていたはっきりした正義感の証拠だ。

 要するに、自民党県連は「国政」と「地方政」を混同している。この2つはことなる選出システムでおこなわれているのだから、そのふたつが最適化しないことはむしろ、地方自治の独自性や個性をよい意味での民主的な多様性としてのこす、本来の地方自治の理念にとってまこと維持すべき点なのである。このすきま、自由の介在しえる双方の権限と役割分担があるからこそ、国政の濫用も、地方政の濫用も相互監視によってふせがれる。小と大のあいだでの公益へむけての権力均衡の状態にこそ日本あるいは世界にとって最大の公共性が期待できる。このしくみの事情は、世界からみれば地方にすぎない「日本国」と、世界の国政といえる「国際連合」とのあいだでもひとしい。

 結局のところ、現茨城県知事の偉大な功績、長年この地球における世界と日本国家および首都圏に対する勤倹実直で慈善と勇気にみちた労務の功徳をたたえられないばかりか、だれのめにもあきらかなはっきりした有能さと善を否定し、冤罪にかけ、むれつどった劣等さや悪に加担する妨害をおこなうとするならば、それは現自民党閥の心底からのたちのわるさあるいは悪意でないとすれば単なる理解力不足以外なにひとつしめしていないとおもえる。まず、地方と中央をとわない国民のためにも、国政のためにも、そして世界のためにもあまりに長期政権をしいてきすぎた自民党の内部自浄作用がはじめられねばならないだろう。こういった意見をさきんじて発表しているほど徳がたかく、地方票をもっともあつめた石破氏がなぜあれほどおとなしくさせられているのか。あきらかにこれは中央政界をおかしくている明治簒奪以来の、薩長藩閥なるものの弊害なのだ。皇族の近縁? どこかの財閥? 戦後の首相? 小御所会議での慶喜公への岩倉や薩摩藩はじめ西日本諸地方主からのぬれぎぬとそこからきた西日本の人による覇道政権独占という悲惨な歴史? 関係がない。このうみをとりのぞかねば、自民党そして日本の国政に未来はないだろう。重要なのはちすじでも財産でも出身でも経歴でもない。徳、しかもできるだけおおきな公徳なのだ。

 なお福沢諭吉は『文明論之概略』で私智、公智、私徳、公徳の4つに理知を分類しそのなかで公智を称揚しているが、わたしはこのかんがえかたはすくなくとも政治論に関しては偽であるとおもう。
私智:知識、ものしり:knowledge
公智:判断、理解、ものわかり:understanding
私徳:倫理、習慣、独慎、なれ:moral
公徳:道徳、大義、浩然の気、のり、みち:virtue
おおよそこういう風に分解すると、結局政治とは徳側の分野なのだ。智つまりintelligenceがもとめられるのはおもに、理論的傾向のある学術分野の方だ。アリストテレスの定義にかさねれば、徳つまりethicsとしての能力こそ思慮という実践的なよさにかかわる。さらにいえば、西洋ではソクラテスにより東洋では王陽明により智徳の一体性がとなえられてきたが、そこに福沢の有名な命題「物ありてのちに倫あり」をかさねると、このあらたな知識から道徳への応用というのは学問が一系性としてもっている既存の性質だということ。もっと端的にいえばphysicsからmetaphysicsへ、自然学から社会学へという学問的認識の発展方向をしめしている。そして自然学の始原にあるのがその記号言語をきめる数学とすれば、社会学の最終形として哲学がそのばにあってあらためてわれらがどうすべきかという「のり」をきめる。こののりという発音の制度的側面を法つまりlawといい、規律的側面を則つまりruleという。この混沌からひきはなされ秩序化された一体感にあるのは、結局そのひとたちが学問の、といまなぶ共同体としてすでにある知見からみずからの社会的行動をつくりあげていく経過である。そして老子は究極のところ、これを道となづけたのだろう。

2013年3月14日

県内政府による文化助成のありたい方針

 ご当地ヒーローとしてのイバライガーを武家が配置され雄性形質がとうとばれた伝統のながい茨城県では、いわゆるゆるキャラなるものよりも宣伝材料へマスコットとしてつねづね起用すべきだ。勧善懲悪の象徴として水戸黄門同様、政治社会が採用するにふさわしいものでもある。実際すでに茨城県警は契約しキャラクターにつかっているが、もっと県政のあちこちで宣伝役の前面におしだしてどれほど強調してもいいだろう。

 最小のとき夜警国家としての防衛組織、最大のとき福祉国家としての公共組織が政府の役割だから、客寄せパンダの様なゆるキャラにみられる商業主義という宣伝役のつかいみちはいずれにしても、百歩ゆずろうと決して政治的職分ではないことに注意しなければいけない。単に集客用宣伝というものは利害をともなうため厳格な競合がおこなわれる民間の商業者がおこなってはじめて、最良の結果をともなう。この面でもこどもじみた行政版ゆるキャラなるものの流行は、政府の役割からすれば効率性や実用性、徳の面でも反面教師たるにすぎない。
 北茨城市でもひとの決してすぐれてはいない面をまねて同様のゆるキャラを公募していた様だが、そんな精神年齢のひくい幼稚なことに税金をついやす現市政はおろかというほかない。一体、政策のneoteny化が日本というガラパゴス社会の大方針とでもいうつもりなのだろうか。このくにの行政人は、競合性のひくさのために退行が極度にあらわれた生態現象としての幼形成熟、neotenyという現象が僻地における奇形化の前兆なことをしらないのだろう。各地で絶滅してきた保護されるべきよわさのサイクルにはいって奇形化された少数派生物と同様、それは成熟的形質に関する強壮化にくらべ、包括適応度の減退としてかなり危険な兆候なのだ。こういう生態学的理解からも、わたしはイバライガーふくむご当地ヒーローという形式を宣伝役へ、ゆるキャラなるものよりもおしたい。いいかえれば英雄的形質の強調は、擬人化されたネオテニータイプの強調よりも適応度的にずっとすぐれている。勿論助さん格さんといった人物像もそうだが、スーパーマンやスパイダーマンの様な成熟類型があることをかえりみてほしい。

 こういういいかたが偏見でなければもし幼形への愛護を性差の誇示という面でこのむおもに女性や、みずからのすがたかたちににたものをこのむこども向けだとしても、すでにシェアのひろいミッキーとかピカチュウとか世界的なひろがりをもつ擬人化されたanima characterに類したものが市場で失敗しても倒産するおそれのほとんどない行政という組織から実現できるのか。奇跡でもなければ事実上不可能にほぼひとしいだろう。一部の美人投票的偶然でとりたてられたごくまれなキャラクターにくらべ、投資あたり無駄づかいになった公共の税は一体どれほどだったろう。これは結果面からいっても行政組織による賭博にすぎない。そして未来からみなおせば、かりに成功したとしてもそういう退行的な行政のふるまいは単にけせないおさなさの記録として、成熟した人類からあざわらわれ、恥をかきたてられるだけにすぎなくなる。すでに公募してしまったからにはできるだけよいもの、すなわち愛想よくかわいげのあるものをマスコットにするのしかないのかもしれないが、あるいは内容にもよるかもしれないが将来的にはずかしいので消極的に予算を配分せず適当にみのがして、できたらはやめに自然消滅というかたちでやめてほしいと個人的におもっている。県央から県南でいくらか行政がおこなっているらしいご当地アイドルなる、全体の利益とはあまり関係のない商業者用集客か県内外へこびをうるだけのための女歌劇団まがいのものもおそらく政治が助成する対象として同様にくだらないといえよう。その分の税を災害対策か競合性がひくくめぐまれないたちばのひとびとへの公的福祉あるいはなにもつかいみちがなければ市警や自警団の強化にでもつかうべきなのだ。宣伝役というものは才能やしごと柄が基本的にちがっている利益優先の民間業者にすべてまかせておくか、あるいは贅沢にすぎないのだが万一いくらかなり投資するとしてもみつもりをふくむ公的に透明な競技方式などで厳格に選別のうえ、あきらかに優秀な専門の民間業者へまるなげしてしまえばいい。
 また、おそらくこの原則は「コンテンツ産業」とか「文化関連予算」にもほぼあてはまる。全体主義的な文化助成はかえって、その全体最適化の集約的投資によって既存の学術性へなんらかの覇権をもたらし、bottleneck的淘汰によってある文化環境内のありえる多様性を低減させてしまうかもしれない(覇道効果)。イギリスや韓国がすでにそういった投資をしてきて部分的に効果がみられるが、投資額によって文化の傾向が極度に一様化、産業内容が任意にかたよってしまっているとおもえる。たとえば政府がハイアートに投資した結果サブカルチャーでイギリスのシェアはよわまった様だし、政府が先端産業とコンテンツ分野に集中投資した結果韓国はハイテクと歌劇へと市場が一様化しがちになっている。これは総合的に文化の普遍適応力がさがったということだ。よってできたら最小にとどめた方がいいが、もし政府が公的におおはばな助成をすべき範囲といえば、いわゆるそのままではほろびてしまうだろう伝統芸能や伝統工芸、歴史遺産、人間国宝といった市場での競合力のうしなわれたかうしなわれやすい希少だねにかぎるのだろう。貴重性の保護が、市場内でのもちこされた過去との融合によって将来的に貴種を再生させえるという点での未来の多彩さと、先哲から維持された品位をそこあげる。この点からも六角堂や弘道館という市場があまり競合力を付与していないが歴史的な意義のきわめてたかい建築物への行政が積極的にかかわった修繕はただしかったといえる。

 くりかえすが、いきた人間ではない擬人マスコットに税をつかって、社会的弱者であるなまみの人間は不遇をかこつ。これは行政権の濫用であり、政治の堕落だ。偶像崇拝の末路のひとつの奇形的な社会のすがたというほかない。偶像崇拝の念の有無は、美術や芸術あるいは学問という偶物へ政治がどの程度肉薄するかにもかかわる重要な信念上の判断基準だ。三種の神器を心配し、原爆投下時に日本国民のうしなわれゆくいのちへの同情よりも、まずそのことをてがみにかいた昭和天皇をふくむ天皇という行政権力者兼宗教長の偶像性はいまさらいうまでもないが、普段のなにげない理解の習慣がおおきくみなすといかに国家のありさまをちがえてしまうか、ここにはっきりしめされているといえる。かつてキリスト教、儒教、イスラム教で偶像が禁じられていた理由はこういう巨視的な結果に厳密にでているとおもえる。たとえば孔子は殉死をあおる埋葬用の偶像の風習のみならず、うまやがやけたときはじめに人間を心配した様、動物を単に擬人化してあつかうこともきらうはずだ。それはキリスト教での、神の似姿としての人類への高等生物視とおなじhumanismという古代からの智恵をてらしだしている。

2013年3月12日

No title

2013年03月06日
Y染色体の起源を探る
背景:
ヒトは遺伝情報を保存するDNAの構造の1つとして染色体を利用している。ヒトは22組の染色体と性別を決定する1組の性染色体を持っている。性染色体がXXの組み合わせだと女性、XYの組み合わせだと男性として成長していく。

要約:
現在生息している全てのヒトは1組の夫婦から広がっていったという考えがあり、ミトコンドリアは母親のみから、Y染色体は父親のみから受け継がれるため、その場合の母親をミトコンドリアイヴ、父親をY染色体アダムと呼ぶ。では現生人類の持つY染色体の元となったアダムはどれほど昔のヒトであったのだろうか。

この度アリゾナ大学のMichael Hammer博士らによって、Y染色体の共通祖先はこれまで考えられていたよりも70%さかのぼり、その起源は現生人類が歴史上に生まれるより以前、さらに現生人類の祖先がネアンデルタール人と分岐する以前である、338000年前となることが、最新のデータから導き出された。

Y染色体は、他の染色体と違って変異を起こしにくい性質を持つため、その先祖を容易にさかのぼることができる。例えば、ある2人のY染色体が同じ変異を持っていた場合、その2人は過去のどこかで共通の父方の祖先を持つことになる。そのため、Y染色体上の変異に措いてより多くの違いが見つけられると、父方の共通祖先はよりさかのぼられることになる。

今回見つかったY染色体は、サウスカロライナ州に住むアフリカ系アメリカ人のものであり、とても珍しい変異を有していた。このY染色体はカメルーン西部の狭い地域に住むムボと呼ばれる人々と似たものであり、このゲノムを50万人以上の個人から成るY染色体系統樹やデータベースと共に解析することで、上記のような結果が得られた。

これまでY染色体で最も分岐していたのは、ピグミーやコイサンのように狩猟・採集生活を送る、多くの現代人から最も遠縁となっている人々であった。そのためHammer博士によると、今回カメルーン西部のごく小さな地域でこのような事実が見つかったことは、驚くべきことであったという。

今後、アフリカ系アメリカ人やアフリカ人の中に更に広く分岐したY染色体系統が見つかる可能性はあるだろうという。すると、Y染色体系統樹の年代は更にさかのぼっていくことになる。

http://blog.livedoor.jp/xcrex/archives/65736432.html

元記事:
Human Y Chromosome Much Older Than Previously Thought
http://www.sciencedaily.com/releases/2013/03/130305145821.htm

参照:
Fernando L. Mendez, Thomas Krahn, Bonnie Schrack, Astrid-Maria Krahn, Krishna R. Veeramah, August E. Woerner, Forka Leypey Mathew Fomine, Neil Bradman, Mark G. Thomas, Tatiana M. Karafet, Michael F. Hammer. An African American Paternal Lineage Adds an Extremely Ancient Root to the Human Y Chromosome Phylogenetic Tree. The American Journal of Human Genetics, 2013; DOI: 10.1016/j.ajhg.2013.02.002

 以上の論文から、Y染色体アダムがカメルーン西部のムボ族付近にある33万8000年前の父系遺伝なことがわかるので、日本起源の神話である『古事記』『日本書紀』の天孫降臨や国生みの科学性は否定されることになる。また万世一系という父系遺伝による世襲人種差別的な天皇一族の排他的神格化も無意味になる。その遺伝はさらに共通の祖先であるY染色体アダムからつながっているものにすぎず、共通祖先は日本国外、しかも原生人類ではないヒトかそれ以前の哺乳類にいるから。
 またここから、天皇家がよつぎで尊属するばあいかならずしも父系遺伝でなければならない理由はないことになる。奈良で天皇家によりつくられた神話のなかで天皇直系の父祖とされる天孫あるいは天照大神なるものの創造性が日本に限定されているかぎり、その存在はY染色体アダムの傍系であることになるだろうし、神武天皇以降の歴代天皇もそうだ。そして女性天皇を天皇をかえりみれば、父系遺伝の一系保守性あるいはひとつづきのY染色体崇拝論というのは単に日本の皇統のなかでさえ事実的でなく、祖先崇拝という神道思想の一傾向のなかにつくられたごく最近の慣習であるとわかる。
 もし血縁差別をするなら、これ自体が日本国憲法十四条の法の下の平等の理念とは矛盾もしているため「天皇は国民ではない」ゆえに国民や世界の人類がなにをされても日本の法律によってはさばけない、という完全に異常な悪魔を国内に存在させているどう仕様もない定義がなりたってしまう。また特にY染色体血縁差別、父系遺伝の一系保守性をとおすばあい、幕府からおわれた後醍醐天皇をたてた楠木公を表彰してきた水戸学や天皇家・徳川家のいわゆる南朝正統論とは決定的に矛盾し、かりに今後も同様の定義にもとづけば、たとえある天皇を当時の政治権力者がおいたてて別の天皇をたててもなんら問題ないことになる。おそらく尊皇主義者であった義公が心配したのはこの部分なのだろう。また明治天皇や孝明天皇の様、ちちはおなじでもははの家へ養子にはいったこのばあいはキリスト教やユダヤ教のおしえをふくむ近代法の男女平等制を否定してしまう。

喫煙している10代女子はほねをよわめる

 高校生は骨の弱化や骨粗しょう症について考えるには早すぎるように思えるかもしれないが、シンシナティ小児病院医学センターのLorah Dorn博士らによって、喫煙をしている10代の女の子は骨ミネラル量が低下してしまうことが分かった。

 骨粗しょう症は高齢の女性に頻発し、骨密度が低くなることで日常生活で簡単に骨折してしまうようになる。骨は生きている間は絶え間なく再生・再構築されるが、その強さや密度の増加に措いて10代はとても重要な時期となっている。

Dorn博士によると、青年期に強い骨の構築に失敗してしまうことで、閉経後骨密度が低下していく時に必要となる、「骨の貯蓄」が正しく行われなくなってしまう。この貯蓄の約50%は青年期に獲得されるため、その時期は将来の骨の健康にとても大きな意味を持つという。

彼らは11歳から17歳の健康な262人の女の子を対象に3年間調査を行った。すると喫煙をしていない女の子の腰椎や股関節部の骨密度は安定して上昇していたのに比べて、喫煙をしている女の子では、腰椎の骨密度がほとんど成長せず股関節部では低下してしまっていた。彼女らが19歳に達したときには、喫煙者は非喫煙者に比べて骨ミネラルの蓄積が丸1年遅れていた。

メンフィス大学のKenneth Ward博士によると、喫煙の影響は徐々に蓄積していくものであるため、青年期では明確な害が現れることは珍しい。そのためこの研究によって、青年期での喫煙の明確なリスクが明らかにさらたことは素晴らしいことだという。

またこれまでにも、喫煙者の女性は脊椎の骨折が13%、股関節部の骨折が31%増加するという研究結果があった。今回の研究結果はこの以前の研究結果とも合致し、より若い女性にも同様の害が現れることが示され、喫煙をしている子供たちにより危機感を示すことができるようになるだろうという。


http://blog.livedoor.jp/xcrex/archives/65723289.html

元記事:
Smoking hurts teen girls' bones - Lower density likely in adolescents who smoke cigarettes
http://www.sciencenews.org/view/generic/id/346875/description/Smoking_hurts_teen_girls_bones

参照:
L.D. Dorn et al. Longitudinal impact of substance use and depressive symptoms on bone accrual among girls aged 11-19 years. Journal of Adolescent Health. doi: 10.1016/j.jadohealth.2012.10.005.

 未成年者喫煙禁止法で20歳未満のこどもへ喫煙させた親権者・監督者には科料、たばこと喫煙用具を保持した未成年者には行政処分で没収、未成年者へたばこそのものと喫煙用具を販売した者は50万円以下の罰金が科せられている。
 これらはもともと、理性的判断がそだっていないこどもが、かれら自身の最晩年にまでおよびみずからの健康を害するおそれがない様につくられた法であることがますますあきらかになった。この善意のおや世代、おとなの善慮からの世話をしりぞけてしまうのは、そのこにとってはみずからを長期的にも短期的にも害するという点でどうみても悪徳である。そればかりか、母体とみれば出産およびのちのこそだての過程で、ははであるかれら自身の不健康さによって、その子女にすら不健康さとしての不幸がひろがりかねない。つまりはっきりしたほねをよわめる証拠がある10代女子の喫煙は特に、かれら自身とばあいによってはその子女へ不幸と悪影響をあたえる結果になるはずなので、やめるべきである。

2013年3月11日

避難者の大津波対策

 大津波警報がでたばあい、精華小学校は磯原高校へと避難先をかえること。またおなじ警報下で中郷第一小学校は屋上階への避難か、高台状の松井までのルートをできればばらばらにたどるか、さもなくば津波避難ビルを整備しそこににげこむ準備のどれかひとつ以上が必要。
 磯原中学校、磯原幼稚園は、北茨城インターチェンジまでの避難が必要。杉の子幼稚園はちかくの高台まで、関南小学校は屋上階、または津波避難ビルが必要。

 最悪なのは、全員をまとめようとして全滅する、というばあい。これは宮城県石巻市立大川小学校の例。
 ちかくの友達とであれ単独であれ、勝手に、事前に想定しておいた安全地帯である高台へにげることを親が事前に啓発しておく方がいい。ルールはいのちあってのものであり、全体主義的な公立学校で柔軟な対応など期待しづらいから。また、公立学校がわとしては、総点呼を学校がわと避難先の現地、二回おこなうつもりでできるだけはやく具体的避難行動をさせるつもりでいるべきだ。

2013年3月10日

旧茨城県庁の記念碑的な屋上開放

 昭和天皇が、終戦直後の戦災状況を視察するため、昭和21年11月18・19両日水戸に行幸された時に、茨城県庁屋上から市街をみわたされて

 「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちおとも たかくきこえて」

と復興ぶりのお歌をお詠みになられた。翌22年の新年御歌会において、「あけぼの」と題されて、水戸で詠まれたお歌をご披露になられた。

-- いろはに踊る;水戸の町!
http://blog.goo.ne.jp/sqq123/e/3322d8b74a75acbe10e0c7f4dae25630

 この真とおもわれる史実をしのぶ意味から、このたび再建された旧茨城県庁の屋上階はこの歌碑とともにひとびとへ、復興記念に屋上公園として開放化すべきだ。

2013年3月9日

工学

 液晶保護シートの様、眼鏡の表面に自分ではりかえ可能な眼鏡保護シート。

2013年3月7日

自動車盗難の一因

トラクター窃盗など容疑、ベトナム人4人逮捕 茨城
産経新聞 3月7日(木)7時55分配信

 県警捜査3課などは6日までに、県内で発生したトラクターの窃盗事件に関与したとして、窃盗などの容疑で、坂東市小山の無職、ドアン・ディーン・ヒュー容疑者(25)らベトナム国籍の男4人を逮捕した。容疑を否認している。

 ドアン容疑者の逮捕容疑は、2月12日夕から13日朝までの間に、筑西市飯島の倉庫からトラクター5台(被害額1600万円)を盗んだとしている。

 県警は今月6日、ドアン容疑者が出入りしていた坂東市内の一時保管場所を捜索し、盗難車両を押収。現場にいた自称ベトナム国籍の男3人を、盗品等保管の容疑で現行犯逮捕した。

 捜査3課によると、昨年1年間の県内のトラクターの盗難被害は74件、93台に上り、9割が県西・県南地区に集中。余罪や盗難車両の流通ルートなどについて解明を進める。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130307-00000074-san-l08

 自動車窃盗は、おそらく国際的な転売をめざし外国人犯罪グループがおこなうばあいもある、という事件。県警の捜査能力がここに発揮されてしかるべきといえる。

2013年3月5日

工学

 防水タブレット端末、耐衝撃タブレット端末。

2013年3月4日

映画費用と内容のチェック

 松村克弥という人物はかつて犯罪の内容や残虐な映画をとってきた者である。また、公金を着服する可能性はみのがせない。なぜ映画はとりおわっているのに追加資金などが必要になるのか。市政はどうしてその過去のわるい作品の経歴がある映画監督にわざわざ依頼したのかを説明する義務があるし、つかいみちをすべてすきのない様にチェックする必然がある。競技方式でえらんだわけではないなら、余計に癒着着服の危険度がたかくなる。
 以前の映画評では「あとあじのわるさ」、というのが指摘されている。もしそういった内容になったならばだが、なぜその様なかえって市の印象をさげる可能性がたかい映画をかつてつくってきた経歴の人物にわざわざ、公共のものである市税をついやす意図があったのか豊田市長こと映画の実行委員長は市民へ説明可能なのだろうか。
 完成後も、事前チェックしてすでにしはらった額のわくないで、悪徳表現はすべて修正させるべきだ。公金をつかうのだから、当の市民ふくむ全世界の人類が、たとえこどもをふくむ家族と一緒にみても安心して感動できる良識的な内容でなければならない。ホームドラマ、教育的内容。それが全体の奉仕者としての義務だ。水戸市のつくらせた某映画はこの点で注意があまく、ある意味で大失敗だった。前轍をふんで、もし詩劇のえがきかたが悪徳の強調でしかないなら、それは悪政となり逆に汚名を市にもってくるだけになるだろう。
 後援者としての最終結果までの責任が、公金をついやす市政にはあるといえる。そして期待どおりかそれ以上の「良識的な」できばえでなかったばあいは、市税の濫用あるいはばあいによっては猥褻物頒布罪として映画監督や実行委員長を市民は直接うったえる準備がなければならない。

2013年3月2日

埼玉のある中学生らの功徳

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130302-00000306-saitama-l11
http://megalodon.jp/2013-0302-2301-10/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130302-00000306-saitama-l11

埼玉新聞 3月2日(土)12時12分配信
「ごみひとつなく感激」新幹線の清掃担当からお礼の手紙 生徒「最高の思い出」/毛呂山・川角中学校

清掃会社の女性社員から毛呂山町立川角中学校に送付された封書と便箋
  「通路にごみがひとつもなく大変驚きました」「大変きれいにご利用いただき感激した」―。こんな文面の一通の封書が1月下旬、毛呂山町立川角中学校(毛呂山町川角、生徒数369人)に届いた。差出人は、東京駅で新幹線車両の清掃業務を担当する会社の女性社員。同校の2年生が修学旅行で東海道新幹線を利用した際、生徒らの行き届いた清掃に感激した女性からのお礼だった。大里冶泰校長(54)は「30年間の教師生活で初めて。当たり前のことをやって、それを認めてくれる人がいることに感謝の気持ちでいっぱいです」と話している。

 送付された手紙は便箋2枚。「貴校に利用いただいた車両の清掃を担当した者です」と始まり、車両にごみがなかったことに触れ「貴校の普段の教育ならびに引率教員の方の行き届いた指導を、生徒の皆さまがよく理解され、大変きれいにご利用いただき、感激した」とつづられている。

 さらに「おそらく生徒の皆さまが素晴らしい学園生活を送っておられるだろうこと。そして校長先生をはじめ諸先生方の行き届いた学生の皆さんに対する思いを深く感じながら楽しく清掃をさせていただきました。ひと言お礼を申し上げたく、筆を取りました」と、送付理由を記している。

 封書には、「見ると幸せになれる」という都市伝説のある東海道新幹線の軌道を検査する車両「新幹線電気軌道総合試験車(愛称・ドクターイエロー)」の写真も同封されていた。

 同校によると、2年生123人は1月20日から22日まで2泊3日の日程で、京都・奈良に修学旅行した。最終日の22日は清水寺などを見学した後、京都駅から午後1時6分発の「のぞみ」に乗車。同3時23分に東京駅に到着した。

 生徒らは東京駅で降車する際、用意したごみ袋にごみを入れ、椅子は元に戻すとともに、ヘッドカバーを張り直し、床に落ちたお菓子などのごみを拾った。ごみ袋はまとめて車両の出入り口脇に集めた。

 同校ではあいさつなど5項目の達成目標を設定し、指導している。ただ、大里校長は「車両のごみを持ち帰る指導はしていない」と話す。

 女性からの手紙が届いたのは1月25日。校長らは学年集会で手紙の内容を生徒に報告するとともに、学年主任の教諭が女性宛てにお礼の手紙を送付した。手紙のコピーと同封された「ドクターイエロー」の写真は2年生の教室前の廊下に貼り出されている。

 修学旅行の実行委員長を務めた斉藤望さん(14)は「思い出に残るイベントにするため、マナーを守ることを目標にした。車両のごみは実行委が率先して片付け、周囲の生徒らも協力してくれた。自分たちで実行したことに感謝され、最高の思い出になった」と喜んでいる。

 大里校長は「使命感を持って行ったことが評価され、生徒らは自信がついたように見える。生徒の良さと取りえを伸ばすためにプラスのスパイラルになってくれれば」と目を細めている。


極悪東京の国賊政治屋を日本国外へ追放すべし

 極悪天皇一族はもともと、かつても常陸国内へ勝手にやってきて極悪殺害行為をしていばっていたすくい様がなく邪悪で野蛮な過去がある極悪犯罪人のちすじだ。これをたてているのは水戸学のてまえにすぎず、はっきりいえばそんな他人をころす様なおおばかものの末裔、そんな極悪人の血へなどゼロ未満、マイナス以下の悪魔という評価しかくだせないのが良識たかき日本を愛する真の日本人の憂国の情として、いうまでもなく当然である。
 要するに業をみるかぎり極悪独裁者天皇家は千年ちかく独裁の地位を世襲してきたというだけ、その極悪さは人類最悪のレベルの種ということにすぎず、単に邪教祖としてなんとか善意ある日本人の権力に寄生してきた。これが真実だ。業をみれば、極悪天皇一族とはこのしまぐにでもねっから最低のたみなのだ。わたしも一度も天皇から益をうけたことなどない。害ならうけた。善良な茨城県のひとびとは平和なくらしをいとなんでいたし、とおくのどこのうまのほねかしらぬ自称天皇のきちがいになどなんの害もくわえるはずもなく、ふるきよき自然と四季のめぐりをたのしみながらおだやかで優雅にくらしていた。ところが、奈良県のやまおくから調子にのって一方的に国民をころしにきたのが極悪天皇家だった。すでに日本国内だけではなく海外でもひろくその残虐無慈悲にして悪魔の本性がしられる様にはなったが、極悪天皇一族とはもともとあたまのおかしな祖先崇拝の邪教祖のいえであって一番、武器や権力をもたせてはいけない不徳の狂人にして史上最悪のヤクザなのである。手段をえらばぬ領土拡大を妄信した最悪の侵略犯罪人兼世界帝国覇権主義者racistの血というものは、それだけでも永遠につぐないきれないふかいうらみをいだかれるには十分すぎるほどの極悪加減、完全な極悪徳にして最悪賊であり、この極悪天皇一族のあしき性状について古来の文献や地名にのこるうごかぬ証拠がある。茨城がそれだ。常陸国へいきなりきて、いばらでさくをつくってなんとひとごろしをしたのだ。絶対極悪犯罪人天皇は当時もいまも世襲であるかぎり、単なる極悪世襲独裁者かつ極悪殺人鬼であり、しかも邪教のおさをかねる最悪のちすじなのである。なんと、やることはすべて無力な民間人を犠牲にした暴力と極悪犯罪行為。これで国民を支配したとほざきまわってなんとみんなの財産をうばいとって独占し乱費濫用、浪費無駄づかいしようという。極悪虐めっ子極悪天皇の一族とは、こういった極悪ヤクザの最悪の業実現が目的で、自分で京都から東京までひっこしてきたというすさまじい悪質さなのだ。すくわれ様がない。すくい様もない。地獄以外のどこに適応しようがあるというひとたちなのだろうか。

 もしこのわたしの、ひとりの日本国の主権者としての見解がまちがいだというなら、どうしてその極悪天皇家が搾取してきた原発で放射能大公害というろくでもない被害を極悪東京から一方的にくわえられたこの善美なる北茨城、なんの罪もないばかりか永遠に聖なる場所が、極悪世襲独裁者天皇家のひびたえまなくいつも世界侵略の悪業用にぜにもうけ搾取する極悪東京都のつくってもうける罪悪きわまりない極悪東京ぜにもうけ原発から極悪ヤクザ天皇家がすきこのんでうみだした最低の廃棄物をおしつけられかねないのか。理由をこのほしにすむ全人類のだれかただひとりでもいいから、はっきり説明してほしいものだ。天皇一族が極悪人の血だから。これ以外になにかこどもにでもわかる正当な理由でもありえるのだろうか。われらは被害者だ。加害などなにひとつたりともしていない。そればかりか、われらはしはらってきた税金としてひごろの勤労としてそして人類の学術へのたえざる貢献として、公共に、国民に、世界に、どれほどちいさなものだろうがひとりのこらず、必死の努力でたしかな益をあたえつづけてきた。
 天皇家からは害ばかりうけた。益などなにもなかった。搾取してくるその極悪東京都内に他人のいえをうばってすんでいる極悪侵略・極悪強盗・慶喜公への極悪冤罪・江戸城極悪不法侵入罪ヤクザの極悪天皇家は、たべるものもきるものもひびの生活費もなんとその悪性をあわれんだ天の様にそこしれずいつくしみぶかくとうといこのわたしがやしなってあげているのだ。そんななにからなにまで国民であるわたしからあたえられてきている日本はじまって以来奴隷かすぐとなりのアジアの善良なひとびとからうらみをもたれる極悪犯罪囚人レベルのたちばである最悪の人種差別主義者のちすじ侵略犯罪天皇ごときが、一体、主人である国民さまに害をあたえるとはなにごとなのか。これはもう神のいかりをかってしかたない最悪の業であり、その極悪東京ヤクザにまもられてひび贅沢におごりかえる極悪天皇ヤクザ一族のすさまじいつみには最大限の天罰があたえられてしかるべきとさえいえるであろう。

 極悪人天皇が薩長土肥京のいつもの悪徳外道ヤクザ連中をひきつれて強盗にきた江戸城内に、さもなければ有害無益なうえ東京ヤクザしかだれもいらない不経済原発でぜにもうけをするいやしい無恥な資本主義あきんどこと悪徳政商の極悪ヤクザ石原慎太郎、または極悪政商の極悪息子原発搾取チンピラ石原伸晃の実家がある極悪東京都の犯罪商売奨励でかせいだあさましいにわか国税浪費のなければいいきたないへやにでも、おのれども愚劣きわまる極悪東京土民がうみだした放射能廃棄物の最終処分場をつくる。これがおとなの責任のとりかたというものだ。天皇明仁や皇太子徳仁、石原慎太郎や石原伸晃はこの程度の責任すらとれない。それならその越権や象徴というみのうえにまったくふさわしくない単なる悪徳のヤクザ連中、すなわち主権者たる日本国民への逆賊、いや真の民敵である極悪天皇家や極悪石原家は、土台が政治などにはむいていないこしぬけ外道の悪徳雑魚商人としかいえないではないか。もしきちんと責任をとって、極悪天皇家と極悪石原家の搾取の悪業でおのれでうみだした放射能廃棄物の最終処分場を極悪東京都の極悪皇居か極悪石原家、最低でもその現居住地である極悪東京都内に直接つくれなければ、善良なわが国民に寄生しつづける極悪天皇家と極悪石原家、こんなわれわれがひびその血と肉とをやしなってあげているのにわれらに害しかあたえてこない奇形俗悪害虫俗物どもはおもてもうらも単なるすくえない国賊であって、わがくにの領土をよごす我利亡者の極悪政商、先進国最大量の森林をもつ日本列島大自然を破壊する最悪ごみ投棄ヤクザなのはすでに最初の環境省決定があったとおりまちがいないので、わが領土をまもるため、わが主権をもつ日本国からこのふたつの極悪権力濫用犯罪人家族は、公正なる日本国民とその政治の名において永久追放することが必然の命令である。

追記:この記事を書いてから再考してみるに、天皇家は「実権をもって施政していない」以上、いくらまともな正論による批判を直接受けてもいまの時点ではどう仕様もないかもしれない。たとえば不徳な俗衆の土地東京から、徳のたかい水戸に皇居がうつれば、こういった公徳と象徴の一致に関する問題そのものも矛盾なくまとまるだろう。つまり徳の象徴としての天皇が純粋無雑な尊皇の聖地水戸へ御成り、現世的権力機構としての俗悪東京政治界からきりはなしてみることもできる様になる。国民を害する天皇家の反省がもしあってもなくとも、天皇による直接の施政という建前を期待できないかぎりではだが、そのつみは現政権に帰されるべきだろう。常陸国水戸藩の格式たかい伝統として、尊皇のむねそのものを安易にすてさるべきではないかもしれない。それは北茨城市民が間接に東京都民としての天皇家から放射能や名誉に関する害をうけてきたとしても、まだ天皇家がこれまでわれら国民へあたえてきたつみを反省し豹変する余地があり、現に直接、皇室から害をうけたのではないかぎりにおいてそうすべきだろう。

追記2:この前者の追記と本文からさらにかんがえるに、天皇の尊厳は実質的効用として国民という主権者に役立つかぎり、公益に該当しているかぎりでのものであると理解できる。天皇の効用は絶対無限定のものではないのだ。害をあたえてくる人間をあがめたてまつるおろかものはこのよにいないからだ。よって、本文にいう悪徳天皇家の国外追放令は、現に日本国民の一員としての北茨城市民が、極悪東京都や極悪東京都民というわれらから原発搾取をおこなってきたばかりか、一方的に放射能汚染をしてきた極悪自治体からわれら国民がとてもおおきな害をあたえられてきたかぎりでたみの正義であり、かつわれら国民へますますおおきな害を放射能廃棄物のおしつけでおこなおうとする極悪東京都や極悪東京都民として天皇がいるかぎりでこの天皇家一族そのものが、日本国民の税金と象徴という憲法上の職責を濫用する極悪人であるのはうたがい様がない。つまり前追記の水戸学上の意味でいう「宗教的尊皇説」と「政治的尊皇説」は実際にはきりはなすことができ、わたしは前者に水戸藩の伝統の一端をになうものとして一定の理解はあるが、後者の現実におこなわれている害がわれら国民にとってはなはだしいかぎり、全体としてこの天皇宗派というものは国民を害する公害団体であり政治権力と癒着した邪悪な宗教組織とみなすほかない。それがみずからの良心にそむかない、また日本国の現実にある民主主義的な道徳律と、政治機構からのありえるかぎり最大限の天皇家のきりはなしと、今回の様、象徴権力の濫用におよぶ独裁程度がはなはだしくわが日本国民へ与える公害がすさまじいばあいによっては極悪天皇一族の国外永久追放という将来のみちすじをみとおした誠実さだ。現に、悪徳の世襲独裁者を国外へ追放したうえで、別の高徳な王家を国民議会の議決によって再度むかえるすがたで名誉革命をへたイギリスの現王家もあるわけで、東洋でいう天子交代説あるいは易姓革命論と一致するかぎりなにも非常識なことではない。全世界のどこであれ、公共人はその徳においてのみ要請され、徳がないばあいは罷免、最悪のばあいは追放されるものなのだ。もし天皇が尊皇の聖地水戸をつぎの定着地にえらぼうとえらぶまいと、これらの主権の正義に関する政治論上のむねには事実としてかわりがないはずだ。