2010年9月18日

市債問題の啓蒙

いまの市はがめつい。これは企業誘致へかける情熱、市内の様々な場所でみかける「万引き問答無用」の文句でわかる。だがジーザスが言う様、金持ちが慈善者より救われる保証はない。もしいますぐ死にそうな貧者がパンを一つとっても、この市ではまちがいなく警察へ突き出すに違いない。なんという無宗教の悪人市!

市長自身がそういう性格なら仕方ないが(何しろそれを多数決選挙したのだ。仕方なさすら合理的でないという理屈が通る)、大体政治家が金儲けを考え始めたら終りで、その民は全員が損得勘定だけで動き一切の慈悲心を失い、あらゆる弱者を虐げながら山ほどカネを儲けまくる。
 結局国政に於ける財政破綻うんぬんってのは「建設国債越えの程度」が尋常じゃなくなりかねないデフレ下での浪費(つまり某マンガ首相の公家的浪費の誇示)へ頭にきた知識層があおって、マスコミの馬鹿に攻撃させたのだ。建設国債ってのは国内消化の借り物ならいずれは国民にもどってくるって話で、複式簿記でいう投資=消費の関係を利用してるわけで問題は特にない。やばいのは日銀総裁が呆け老人すぎてこの金融学の初歩すら理解できず、ばしばし一度に貨幣を刷っちゃうときだろう。
つまり薄めた水を生理食塩水と言って熱中症に与えても逆に渇きまくって死ぬかもしれない。国内でデフレを緩和するのに急ぎすぎた結果、貨幣価値が限度をこえて暴落したら海外からの投資は冷え、ハイパーインフレとかにつながって企業はどれだけ製品つくっても国内では叩き売られるので元がとれずに国内を無視する暴挙に出るだろう。
でまじめにこうなったら国内問題ではなくなって本気で破綻するかもしれないから賢い国民は逃亡せねばならない。東ドイツになる。湯に黒あたりがすでに海外逃亡はかってるのは企業いきのこりとしてはどうかしらんが、デフレ逃避ということだ。つまり、企業が利己的なとき必ず国民家計の逆の動きをする。

なぜこれらの専門的話題を書いたかいえば、市ががめついのは下らないという意見だ。

 総論だけど「国内産業の空洞化」自体は何をしてもとまらない。それは高等教育の普及と同時に国際貿易をつづければ100パーどの工業化先進側の国でも起こる現象で、国内の単純労働が安価に雇える層から機械へ移っていく歴史の必然。で、この流れへ乗るしかない以上、がめつくしてる市は「市民奉仕」をなおざりに企業誘致その他の商業擁護を優先して市民は足蹴にしているのは矛盾。どういうことかといえば、空洞化が起こる地域ではこの市民自身が知識上の高等さによって機械操作の手になるしか道はない。それ以外のすべての道はすべて国外流出で食う産業としては終る。だから市民への教養教育を無視し、どれほど企業やら商業やらを起こしたところで「稼ぎ手」の取り分が少なくなるだけなのだ。
 素人には遠回りに見えるだろうが、上述の金融学的見識をひけば、これらの稼ぎ手の取り分を高度な教養教育の程度を利用させてできるかぎり高めること、つまり『教育的財政投資』が最終的にはその市へ入ってくる財産を向上させるのであって、途上国へ立地させ量産させればはるかに安価な手工業や以前の第一次二次系の産業を誘致することではまったくない。端的にいえばそういう層をよびこむほど市は貧しく、暮らしづらくなる。たとえだが全員が工場での細切れ派遣労働者の町と全員が医学博士兼医師の町があったとしよう。さてどちらの市の財政が比べて見て豊かだろう? 
だからがめつい市政は過ちなのだ。むしろ市民奉仕が甚だしければ甚だしいほどその市は将来がある。この限度はおそらくないだろう。もし市へ国の問題をおろしてくると、「建設市債(つまり日銀発行外の公的に限度づけられた、民間から借り入れた市債発行の範囲。もし問題を県内に敷衍すると「水戸信発行外」となるかもしれない*1)」がごく豊かに使われても問題はない。赤字財政というのをしろうとが見るとこれもきりたがる節がある。特にレンポー氏とかああいう。だがそうではないのだ。
政治家は日銀を持っているので破産する企業とは違う原則で動かねばならず、それは公共分野への投資によって私的企業では不足する部分を補わねばならないからだ。前の記事に書いたが、運動場(何しろ市民の払った金でつくらせたのに自分らを締め出すとかなにを勘違いしてるバカ市役所員なのだ? おまえすら市民が養ってること、お前の子孫すら俺たちが血税で養ってやってることを自覚しろ。勉強しろ)を開かず、えせ儒教ぶって官で独占管理するとかは頭がおかしい。そんな町にまともな人間が着くだろうか。発狂運動不足のサブカルエドなら住みつくかもしらんが、消えろ以外の感想が出ない。

あと上に第一次第二次と書いたから農家や工場を終りと言ってるかというとそれは違う。第六次産業とかいう造語でも分かるが、単に情報化・知識化によって以前のかたちがより機械によって能率的に行われるだけだ。ガソリンスタンド店員がいらなくなって手動充電スタンドになるかもしれない。コンビニ店員がいらなくなって自動コンビニになるかもしれない。同じ様にスイッチ一つで田圃を耕す耕地ロボが鴨を追い駆けるかもしれない。販売は生協のネット経由で自動配達されるかもしれない。工場はオートメーションが進んで立ち入る機械すら遠隔操作かもしれない。それでも食料製造や工業そのものがなくなるのではないのだ。この流れに逆らう意味は特にない。下手に急進すると誤って失うもの、たとえば詩心や童心だとか、素朴な工芸品だとか細やかな心づかいだとかは大事だ。しかしそれは「文化」によって維持されるのであり、産業構造の後退趣味によってではない。

こないだ高萩でおりたアホ中学生がどっかのトウキョウのアイドルだかなんだかわからん肩出しルックで電車で下劣きわまるバカ騒ぎしてたが、お前終ってるなってわけだ。そんなのが稼ぎ出すみじめったらしい金よりはるかに、上述の産業構造の進展で得られる利潤も、市民生活への改良効果も大きいのを理解せねばならない。それは蛆虫と巨人ほど違う。


*1 水戸信は貨幣を刷れないのでこのあてはめは厳密にはまちがいじゃないか、って観点もある。県内で流通する全財産の借り入れ・貸し出しに限定したらそうかもしれない。つまり水戸信→市債→財政投資→市民の労働賃金→水戸信、って循環が永遠に回るとしたら、貨幣を刷れる日銀と同列に扱うのはおかしいのであり、この循環そのものには経済上の問題はないことになる。だが、この論旨で言っている観点を県際の問題に広げると上述のあてはめには理が通る。つまり県内で循環する貨幣量(この概念を『県の貨幣価値』と呼ぼう)も考えに入れると、原則として県内で最大の金融機関からの借り入れは望ましくない。
なぜなら、もし外部銀行→市債→財政投資→市民の労働賃金→水戸信、って流れに入れば、それは県の貨幣価値は比べてあがってきて、いってみれば経済大県になる。水戸信の貸し出しできる分量が常態として上がるからだ。で、輸入がつねに有利というのは実質的には「安く買える」こと、また輸出品が「高く売れる」ことだからもし国内に限ってはこの常態が続けられるのが今のところ良い。もし事情が逆転するとしたら、県債市債の踏み倒しがフツウになった戦時だけだ。万一そうなったらこれらの原則はうちすてて、水戸信からごっそり借りて県内消化にかえりざくのがいい。それで県の貨幣価値の低さのためにバブルその他を演出できる。勿論これらも金融財政に限る話題であり、政治のばあいによってはどうでもいいことだ。まつりごとは商売ではない。
 で但し、償却不可に市債だしすぎて陥った時は、県が救済するか、さもなくば水戸信にのりこんできてもらうことになるのでまずい。「発行限度額」を市民全体の財産以上にならない様にせねばならない。これは市の財政がどれほど苦しくてもそうだろう。もしものときは食堂禁止、全員弁当持参、給与カットの上ボーナスなし、公用車はすべて最も安い大衆車、冷暖房の節減で庁舎内では半ズボンとマフラー可、挙句にはサービス残業、とこういうところではないか。サービス残業は民間企業のまねだ。あきらかに奴隷である。というか、「公僕」という概念を高萩市長から引けば、まさにそれが理想だろう。