2010年10月25日

いばらきの道

県が周りから気に入られるのを無意識にめあてにしてる、っぽいのがいいことかわるいことかとわれるべきだ。無条件に好かれた方が、このこすいよのなかで賢いことなのか?

もし本気でいばらき域を好かれさせたいなら、いわきじゃないけど、できたら県名ごとしたしみやすいものへかえてしまうことだ。いかにも武権の威容をほこるっぽい名称をじぶんから掲げつつ、戦後日本人から無条件に好かれようとするほうがおかしい。

 まえもかいたが、「控えおろう効果」をじぶんから追い求めてくのがより賢いのではないか? たとえば、茨城らしさと対をなす一つの地域に京都がある。京都は一見するとまわりから好かれてるかもしれない。けど実質は、彼らがそこからどの都道府県も睥睨しているところもないのではない。東京なんか伝統からいえば当然みくだしてるといえよう。それは控えおろう効果ともまた別の類型だが、「おいでやす効果」となづけてもいい。
つまり一見すれば感じのいい場所で、まわりからもブランド効果の正の側面もおぼえられるが、内容をさぐればどの地域も心から馬鹿にしている。ってのがいいすぎなら、裏ではてのひらを返している。これも真偽はとわず一つの大げさな事例だけど、はたしていばらき域のめざすべき地域さだろうか?

 やはり徳川の総元締めをひきうけた運命から言っても、この地域は控えおろう効果の方を原則としておいもとめていくべきだと思う。それは内心はどうであれ、表面上は権威の高みを誇示する所にある。へたに好かれようとしない方がいい。そうでなく、『地味な実力』をただ冷徹に追い求めて行ってればいい。それは昔から都心のある江戸東京の文脈と、御三家の核心が置かれた水戸茨城の文脈にたくされた使命の違いでもある。
筑波の科学力にせよ、日立の技術力にせよ、きたいばの芸術度にせよ、みずからの地政や県内のたちばが到れる現実面での最高度の実績を着々とあげていくことだ。県では広報が人気取りブログとかやってるっぽいが、むしろ逆だ。きらいたけりゃきらえ、って感じでおのれの道をひたすら追い求めていればいいだけである。当面の人気などきにしてはいけない。なんでもないうわさ一つでいつなんどきいくらでも変動するものなのだから。
お愛想はおいでやすの地域の方が得意分野なのだから、さいきんいばしんからきこえるあんなどうでもいいお座敷稼業など滅びるなら滅びよ、ってことで山陰と京阪にまかせきっときゃいいのだ。どうせそこらには腐るほどある。わざわざ武権のほまれたかき名門がそんなのに気を払うな。まじで。

 評判をきにするな。これが真理だと思う。実力をきにせよ。実力が劣っていなければ、そればかりかもし大幅に勝っているなら、なにもきにすることはない。必ず最後には評価が着いてくる。