2010年7月17日

地区のすみわけ

この報道でおもうに、やはり市民性・県民性もあるとおもうけど批判的というか欠点をなくそうとする論調が多い。どうしてもそうなってしまう。水戸藩の影響がおおきいのかもしれない。副将軍を自称してただけあってそのへん自分らに厳しい。

褒めるのが才能を伸ばす骨なので、褒めれば褒めるほどよいわけだが、自分の住んできた感想をいえばこのあたりのすぐれた点は自然環境だとおもう。これは衆目一致するのでは? 穏やかともなんともいいようがない。関東にありながら涼しい。
こないだ吉田松陰の東北遊記よんだが、かれもこのあたりを通過したときはながくつづくキレイな白い砂浜にそうおもったらしく海の漢詩をつくっていた。

 原則として、なにかこのあたりに市民らしさの余地があるとおもう。いくら褒めようとおもっても、文化発表みたいな機会のすくない土地ではそういうものが仮にあるにせよなかなか表にでてこないし、でたがらない達すらある。帯刀と竜馬をくらべてみればそういう性格差は一目瞭然。
がこの利点もあるというか、気づかれないほうが勝手にやれるしへたな観光名所にもなりにくいので自由でいれる。こういう身軽さをのばしていくべきかも。

日立ときたいばのすみわけの余地もなにかそのあたりにあると見る。立地のちがい、自然環境の微差ものちには大幅なちがいになるとおもわれ、市の方向性もこれにならえば北関東圏でもかなりおもむきのちがう世界ができあがるかも。

かんたんにいうと「文化の造りや性格は消極的だが自然環境は抜群に良い」という考え方がもっぱら基本か。自然環境面でいって、これはすみごこちのよい世界の骨なのだが、単に放置するのではなく単に手を加えるのでもなく自然の特性を強調するのがいい。海辺は海辺らしくし、山間は山間らしくする。この工夫がないと未開地と変わらない。
で、地区制の導入もその一案だけれども、建築条例とかで海山川の三箇所にちがう規則を設けるとかもいいとおもう。山で目立ちすぎる高層は原則として抑制、海辺では帆の様な軽快な構造をガイドラインで推奨とか、川べりでは親水空間を設けると助成あり、とかこんなものではないか。それで市や県がもってる生の自然との対照がかなりそろってくる気がする。
 なにも私に口を出さない範囲でも、ぎちぎちの堅い規則にならない程度になにか共通の符号というかデザインコードを公共物に導入するだけでちがうと思う。いわゆる古都とかで自販機を茶色で塗らせるとかいうレベルのものだ。
いまの段階でも町の通りには雨情系の図柄や雰囲気がつらぬかれてるけど、ああいうことを地区毎にあるていど考えと趣をかえていくとさらに多彩になる。自然環境のよさをほこるにはそういう工夫がいると思う。

僕が子供のころ遊んだ華川の清流は道路拡張でコンクリ護岸でつぶれてしまった。それも地区ごとにこまやかな配慮をしないから実質の自然破壊になってしまったということだと思う。おなじことは、中央政治の一本やりで貫こうとすると海でも山でも川でも起こるはずだ。