2021年2月21日

秋田を見習って茨城も県名を古来の国名・常陸(ひたち)にもどすべきで、北茨城も北常陸にもどすべき

茨城はもとが郡名で、今の茨城町辺のことを指すにすぎないわけで、しかも『常陸国風土記』にみえる故事の由来からいったら天皇家の派遣した古代奈良人・黒坂命が侵略時の現地人惨殺を誇っているという逸話が出典。今の価値観でいったら、黒坂は明らかに一般民衆へ拷問や残虐行為の類をやっており、罪刑法定主義を鑑みれば、無法な重罪人なのはむしろ当の奈良人侵略犯ら一味の方にすぎないだろうし、先住権侵害の被害報告みたいな名義である。

 それをわざわざ県名に選ばせようとした明治政府の薩長藩閥連中が、いかに無学・無教養で、他国・他県の歴史や文化の重みを軽視しまくる、というかまったく彼らの利己性にしか目的のない、わがまま三昧をしていたことか。かれらとくればいまだにそうだが、暴力至上の権術主義や傲慢な無政府侵略主義の松蔭イデオロギーの正当化にしか意識が向いておらず、いかにかれら自身が思い上がった自文化・自民族中心主義者、野蛮で滅茶苦茶な適当加減だったかを示してきたに過ぎないことか。

 彼ら明治以後の天皇政府はアイヌ文化、アイヌ民族だの琉球の歴史だの、周辺諸国だのをおよそ完璧に弾圧しただけではない。戊辰戦争やその後の士族反乱のこともだけども、国内へも、適当に県名を勝手につけてくるという、いまからするととんでもない蛮行もしたわけである。
 しかし旧国名・常陸(ひたち)はちゃんと上記風土記に由来が書いてあり、多珂・久自・那賀・新治・筑波・茨城の6郡がまとまってできている国の名義なのである。
 飽くまで文官が書いたんだろうし天皇に媚びて書かれてる節があるけども、そのうち1つは、ヤマトタケルが泉で水飲んで「筑波岳に黒雲かかりころもで浸しの国」説。もう1つは文字通り、日本最大の関東平野大部分を構成しており広くて地続きだからひたすら道の国ことひたみちの国(実際、道路の実延長が日本一)。
 我々はこれで千年以上やってきた。それ以前の名前は今の我々には知られていない。
 じゃあたった154年前、明治政府とやらはなにゆえわざわざ特定の郡名を国名にしようとしてきたかって、要は歴史の理解もなにもあったもんではない無学者の集まりだったからだ。県庁のある町名を適当に上から目線で、勝手につけてきた、薩長藩閥を構成した連中の実に軽率な判断だったのだ。はっきりいわせてもらうけども。国づくりに無素養な連中が、最後の将軍慶喜公による天皇への禅譲をいいことに調子乗って、罷り間違って大事な国政なんて司るべきじゃなかったのだ。連中のせいで、いまだになぜか郡名が県名になっている。
 たとえていえば、北茨城市が磯原市になるみたいなもんだ。磯原町に役場があるから。

 秋田県も明治政府から一村名の「久保田」県にされかかっていたが、佐竹家ら現地人が政府へ古来の国名は秋田だと嘆願してもどしたらしい。よって茨城も「常陸」 にもどすべきだと思う。このブログでは何度もそう書いているが。

 常陸県なり常陸都なり常陸京なりを作るのを期に、北茨城市も名義を変えるべきだと思う。ここは風土記の時点で、もともと多珂郡(たかグン、たかのこおり)といわれていた。(国立文学資料館より

常陸多賀とか多賀山脈という名義にそれが残っている。 そこの北端である。ということは素直に行けば昔の多可郡の最北端という意味で「北多珂市」または、常陸国の最北端という意味で「北常陸市」とかが元来穏当である。
 なんで茨城郡の最北端でもないのに北茨城市にしてしまったのか、それは当時の市議会の人達が、ちゃんと地名について学んでおらずやはり軽率だったからでしょう。茨城県ってのは仮名みたいなものなのだから。

 タカがタガになるのはいわゆる連濁なので、北多珂(きたたか)、北多賀(きたたが)のどちらでも実質は同じ。たがの方がいいやすいから多賀郡になってるのだろう。
 ではなぜ地名が多珂なのか? 風土記によれば、「建御狭日命(たけみさひのみこと)がはじめてこの地を訪れて、海からみる山が高く見えるので名づけた」という。(アーカイブ

 ここでも中古奈良人が勝手に地名を決めているわけで、我々自身が名付けたものではない。この意味で、多珂だろうと、常陸の「浸し説」だろうとその点は同じなわけである。古老の話のまた聞きとして、常陸の「ひた道説」が最も古い名義ということになる。つまり最も古名に近い、伝統的で格式高い名義を選ぶなら「北常陸市(きたひたちシ)」になる。これが最も正統的といえるだろう。常陸の最北端ということになるんだから、地域の客観的特性もよく示していると思う。

2021年2月13日

『水戸維新』に於ける徳川慶喜の扱いは、著者の主観または孫引き(他人の妄想の引用)が入っていて、歴史的事実に基づいていない箇所があるのでそこは訂正してほしい

目次
一 山川菊栄は彼女個人の主観を述べた語り部であって、実証史家ではない
二 徳川慶喜と天狗党の史実
三 烈公の出交易論は彼が江戸時代末の日本で最も開明的な人だったと示す

四 第二次長州征伐は徳川皇軍の敗北で終わったのではない

五 三木家と松下幸之助の出会いは、桜田烈士を慰霊に行った三木啓次郎が資
金難時代の松下へ出資した、大阪・四天王寺の境内(『常磐神社社史』伝)

六 『水戸維新』の感想と、まとめ

   一 山川菊栄は彼女個人の主観と偏見を述べた語り部であって、実証史家ではない

『水戸維新』の中で、マイケル・ソントン氏は徳川慶喜をマキャベリアンかの如く書いている部分がある。だがこれは証拠不十分で、参考文献に出ている山川菊栄(特に『覚書 幕末の水戸藩』)の説をそのまま引用してあるだけに過ぎないと思う。

 自分は『幕末の水戸藩』も読んだが、これははっきりいって極めて主観的で、信用に足らない記述だと感じて殆ど真実とは思えないくらい小説的内容である。山川個人の意見でしょ、で、その証拠は? という、一種の諸生党・保守派側に立った記述ばかりであり、西に司馬遼太郎いれば東に山川菊栄ありといえなくもないくらい、特に僕の中で歴史学史料としての信用性が薄い。
 関東にいた山川個人がなぜ中部から北陸・京都・東北と歴戦した天狗党とか、幼児から水戸にいて、大政奉還後に一時期里帰りしたのぞけば、10代以後はおもに東京・京都・静岡にいた慶喜がどんな状況にまきこまれていたか、詳細まで山川にわかるはずあるまい。 

   二 徳川慶喜と天狗党の史実

 ソントン氏は一体、なにを根拠に天狗党の処置に関して慶喜が『昔夢会筆記』で自弁している部分を、簡単に無視してしまうのか? 自分がほかの周辺状況や文献から確かめてきた限りで、慶喜自身の「天狗党処置は田沼家に一任してその時点で手が切れた」なる言質について、現実と矛盾した部分は出てこなかった。
 いいかえれば山川は、この時の将軍後見・禁裏御守衛総督であった慶喜にとって天狗党への善処なり取次なりが必ずしも本業ではない以上、あるいはまた慶喜自身はおもに武力差をみてとった開国論者側(後期水戸学でいう会沢安・豊田天功ら、のちの諸生党側の近代化・富国強兵路線)で、即時攘夷を専ら否定していた(ゆえ石清水八幡宮への孝明天皇行幸の際、家茂ともども、仮病もどきとも思えるやり方で即時攘夷の祈願をやり過ごしていた)事を考えても、水長同盟を背景に攘夷決行を嘆願にきた天狗党を、必要以上に丁重に扱うことは難しかったに違いない。そうでなくとも背後では山口の尊攘派らが京都を荒らしていた事実がある(それがこの後、二度の長州征伐につながる)。つまり忙しかったので処置を相良藩主の若年寄・田沼意尊へ一任してしまった事について、『昔夢会筆記』の慶喜の弁はそこで手がきれた云々といっていて、決して天狗党を手段を択ばず潰そうとしたとかそういうものではない。それはマキャベリズムとは別のことだ。単純に当時の幕藩官僚体制や関西界隈での情勢からいって、飽くまで徳川軍と戦って成破盟約の文脈もあって、急進派として示威行動をしていた天狗党の処置に、立場上、宗家の近侍として、そこまで深入りできなかったといえるだろうう。

 ソントン氏個人の意見として、慶喜をマキャベリアン視する根拠が、山川個人の意見引用のゆえに、というのなら、それは史書とは到底いえない文章である。小説と変わらない。山川個人がどう思っていたかと、現実の歴史がどうなっていたかは全く別なのだから。
 もしそれでも同様の記述をするつもりなら、「私の意見では~」とか「山川菊栄の『覚書 幕末の水戸藩』によると~」明記すべきであろう。

 そして付け加えておくと、慶喜の元に侍っていた本圀寺党と、彼を頼ってきた天狗党残党は合流し、諸生党の残留していた水戸に再進軍してきたのである。つまり慶喜と天狗党の関係は対立関係ではなく、主従関係である。諸生党ともそうだが、慶喜は不偏不党が是の『弘道館記』通り、党派争いを避けて静岡に去った。

    三 烈公の出交易論は彼が江戸時代末の日本で最も開明的な人だったと示す

 これらとは別に、烈公の「出貿易」(出交易論のこと。『明治維新と水戸学』平成4年度水戸学講座講録、常磐神社社務所アーカイブ。『水戸藩史料』より)についてきちんと一般書の公的文章に明記した事は大きな功績かとおもう。 それまで烈公は『徳川慶喜公伝』で渋沢栄一にも記述されている「表向きの政治的攘夷論(士風維持目的のもの)」とは別に、会沢派の開国貿易論を前提に、欧米に直接留学し、まさに近代化の先駆けを行おうとしていた事は、水戸学者の間では当然のごとく知られていたにせよ、世間一般的な理解ではなかったと思う。それで烈公は頑迷で固陋な閉鎖的保守主義者みたいなラベルを(特に、井伊直弼が開国の主導者という、単に状況に迫られてそうしたほか、直弼は基本的に、将軍(宗)家の忠臣かつ祖法順守の保守派だったのが真実なので、これまた曲解による誤ったラベルづけとの対比から)、特に薩長中心史観に立つ大河ドラマなどで張られてきているが、これは全くの誤解である。むしろ烈公は幕末全体を通じて日本で最も進んだ思想の持主だったのが確かだ。故に保守的な中央幕府側に弾圧にあったのだ。何せ黒船へ松陰がのりこもうとしたり、薩長が攘夷論にはまって直接戦争するかなり以前から、幕府に嘆願して欧米留学を試みようとしていたばかりか、自由貿易の時代を半ば予見していたのが史実なのだから。
 福沢諭吉が『福翁自伝』にいうとおり、水戸に老公あり、だったのである。

   四 第二次長州征伐は徳川皇軍の敗北で終わったのではない

 特に慶喜公が天皇へ将軍職と江戸城(現皇居)を禅譲後、薩長藩閥勢力とその追随者らは徳川家を近代化に出遅れた負け組みたいに偏見づける傾向がいまだにある。だがこれは現代までの歴史学の水準からいえば明らかに誤っているばかりか、多くの場合、悪意ある謬説にすぎないだろう。何しろ水戸の方が先に近代化(烈公の改革下での追い鳥狩りでの軍事調練からはじまって、反射炉での大砲・拳銃、日本初の洋式軍艦・バッテラこと改造快風丸づくり)や開国論(即時攘夷が現実的ではない為、植民地化防止には専ら近代化が必要とした、会沢や豊田らの流派・いわば諸生派をおもとするもの)も先駆けていて、諸外国の情報収集も怠っていなかった(吉田武弘『幕末期水戸藩における海外情報』)ばかりか、

 ソントン氏もこの点では第二次長州征伐を「幕府軍の敗退」と位置づけているが、当時の武器の比較(幕府側も近代化していたので、現実には武器に大きな差がない)、軍の勢力図(幕府軍の方が軍勢が多い)、そして薩長(と土佐国)側がしていた借金踏み倒しの状況などを冷静に見返せばわかるが、それを手早く切り上げたのは第二次長州征伐のさなかに将軍になった慶喜側の判断であって、第二次長州征伐の開始時点では家茂の判断でそれが行われていたのを方針転換したという方が史実に近い。
 それを薩長藩閥が戊辰戦争で東日本へせめこんできてから態度や評価を180度極論に変えて、元来、慶喜が終戦工作をしたおかげで長州側が徳川皇軍に早期に降参できた形なのである。この部分についても小説史観が巷には行われていて、ソントン氏が恐らくウィキペディアなどの通説によって、史実に反する記述を参考にしている可能性がある。薩長土肥にあたる地域の人々は、自分達を勝者と位置づける目的で、第二次長州征伐が長州の敗戦の形で終わったと認めたくないので、あるいは戊辰戦争とひとまとめにして、徳川皇軍に勝利した事にしてしまいたいので、小説を作っているということになる。そしてそれをうのみにしているのが某著でのソントン氏というべきだろう。

 当時、慶喜の実家・水戸徳川家と毛利家は、ともに有栖川宮を母方にもつ親族である。背後には水長同盟もあった。慶喜は水長同盟の存在を知っていたかは不明だが、少なくとも有栖川宮を奉るという意味では、毛利家と実家の間に無用な争いを拡大しない方が賢明とみたかもしれない。
 第一次長州征伐と第二の間で、武器の程度・軍制の差で徳川皇軍が不利になったので、慶応の改革を通じ軍を再編成した、という風に歴史学では語られる傾向にある。そもそも内乱で体力を消耗している場合ではないことを中央政府で外務相を兼ねていた慶喜(リーズデイル男爵『英国外交官の見た幕末維新 リーズデイル卿回想録』1998年、に詳しい)は痛いほど知っているわけだから、なにゆえ家持の死去を受け第二次長州征伐を手早く切り上げることにしたのかを、戦線の不利さだけに帰するのは適切ではない。この後の戊辰戦争時もそうだが、兵力(軍勢)だけで比較すれば、徳川皇軍が圧倒的に有利な状況にあったのだからだ。

 なるほど各戦線だけ当時の記録から見て取れば、全ての面で有利だったとは言えないだろうが、単に負けたから終戦工作をしたというより、家茂の後見役としては家茂主導の覇道的な主戦論に従っているしかなかったのだろうが、慶喜は諸侯会議派で、諸大名の貴族院の形で国会を開き、天皇の元に新たな近代国政体制へ移行しようとしていた。また弱い者(当時の外様大名勢力)虐めをするのは一般武士道に反する。つまりこの為には、諸大名を武力で押さえつけているいわゆる幕藩体制ではなく、会議・話し合いによって合理的な結論を導く、近代的国家へと状況を改革する必要があったのだ。それで慶喜は家茂の死を受けて終戦をはかり、母方を同じくする長州毛利へ仁義を切ったという風に見るのが自然だろう。
(有栖川宮織仁親王の2女・栄宮幸子女王が9代毛利斉房の、8女・楽宮喬子女王が12代将軍・徳川家慶の、11女登美宮吉子女王が水戸家9代徳川斉昭のそれぞれ正室で、15代将軍・徳川慶喜生母の吉子女王を通じ、慶喜とそれぞれ血縁親族)

   五 三木家と松下幸之助の出会いは、桜田烈士を慰霊に行った三木啓次郎が資金難時代の松下へ出資した、大阪・四天王寺の境内

 それと、三木啓次郎が松下幸之助の若いころにあたる1918年(大正7年)、桜田烈士の高橋多一郎・庄左衛門親子を慰霊に行った大阪・四天王寺で、三股ソケットを売っていた資金難時代の松下をみて(恐らく水戸人のことだから、当時の松下の貧しい身なりなどを健気に感じて)出資したのだろう点*1をなぜか省略してあるので、なにゆえ松下と三木の間につながりができたのかをソントン氏は書いていないのだけれども、それでいいのか。読者にはなぜ三木家へ恩返しの形で、経済的成功後の松下がドラマシアター『水戸黄門』を放映していたのかわからないんではないか?

*1 照沼好文『常磐神社社史』1998年アーカイブ
朝日新聞「ニッポン人脈記 黄門はゆく4 世直し幸之助のドラマ」2009年11月13日付け夕刊、1面。
「松下幸之助と三木神社!――水戸市常磐神社・境内」茨城いすゞ自動車株式会社。2021年12月23日掲載原稿(大子町)アーカイブ

   六 『水戸維新』の感想と、まとめ

 ソントン氏の記述は、数年とごく短期で学んだ割には、本としてよくまとまっているとは思ったが(だからといって何十年も水戸学を研究してきた学者や、郷土史家の深みには達しておらず、素人が表面をなぞった水戸藩史の大雑把な概略、特に上記点ではそれなりの欠点のある通俗史といった部類の本なのに違いないが)、上記の部分をもう少し研究してから、史実と小説をわけて考え、増刷か英語版の際は直してほしいと思う。
 なぜこういえるかなら、水戸学の考証の態度っていわゆる厳密な実証主義で、わずかでも曖昧な部分は厳格に排する、又は、俗書のこの本にこうあると書くべきだと義公の代から『大日本史』形成過程で指導されてるからでもある。
『水戸維新』に大幅な脚色こそないだろうが、飽くまでソントン氏が読み取れた本をまとめてあるもの。正史や史書を称しているわけではないから、まだどこかに非現実的な偏りや、著者の主観的騙りもあるんだろうと読者に想像させる余地があるだけは、一見何々史を標榜しつつ、どこもかしこも小説、ウィキペディア引用の類の本よりはましだろうけど。

 まとめると、なかば歴史書の体裁をとっているので、特に、慶喜公がわざわざ天狗党を処刑したみたいによみとれる「マキャベリズム」という記述は、一般人がますます慶喜公を誤解する様に思う。尊皇将軍というのが事実なのだが、特に薩長土肥・京都・広島の大名・侍から、小御所会議以来、朝敵の濡れ衣を着せられ今に至る。天皇家(小御所会議・戊辰戦当時は15歳くらいだったので、岩倉具視や、天皇・皇族をからかって操り人形のまねをしたと『ベルツの日記』に記述されている伊藤博文らに操られていた明治天皇が成人後)は逆に慶喜に最高位・公爵を叙爵させたり、逆の態度なんだが。
 第二次長州征伐は徳川皇軍が全体的に負けたから撤退した、という風に捉えてしまうのも、家茂がそのさなかに薨去したのもあわせて、歴史の見方として決して正しくはないと思う。なぜなら内乱による国力消耗、有栖川宮親戚関係、水長同盟など完全に無視して、なんとしてでも長州を滅ぼそうと考えていれば、圧倒的兵力差、背後にある武器購入余力・財力の差などを背景に、わざわざ慶喜が終戦工作をはかるだけの理由にはならないのだから。
 それと、人の良識、特に恩返しという古来からあるだろう観念に訴える点では、松下の記述も省略しない方が人類にとってなぜパナソニックがああいう社風だったのか分かるし(松下の人柄が、文字通り「丁稚上がり」でありながら三木家・義公らを奉る、経営の神様と仰がれるに足る立派な類のものだったのである)、また、義公誕生の際から発揮されていた三木家および水戸人なるものの真情も伝わると思う。

参考:常盤神社内、三木神社の立て看板(ブログ よっちゃんの独り言、記事『なぜTBS水戸黄門のCMは松下電器なの?』より。画像アーカイブ

2021年2月9日

磯原の常磐道に架かる展望スロープ計画と、市内回遊の遊歩道整備計画

この遊歩道が国道をよこぎる部分、こんな形でスロープ(傾斜路)を作れば自転車や車椅子でも通れる様になると思う。 




磯原の常磐道に架かる展望スロープ計画
2021年

 今の段階だとこの遊歩道で、常磐線や道路の高架下をくぐる部分にもスロープがないところがあると思うけど、それもこんな感じでついでに作るべきだと思う。

 北茨城観光協会のこの動画でも紹介されてるけど、

この遊歩道をいまのところは磯原町から五浦まで、将来は華川、中郷や平潟までつなげることで、確かに風光明媚な市内をめぐるのにとてもいいコースになるのではないか。
 この動画ではサイクリングロードといわれているがもしそのために整備するなら徒歩の人とかぶらない様、道の真ん中に自転車道とすくなくとも線でぬりわけが必要ではないか? 
 あと部分的に家がある側との側溝に高さがあるので、そこに転落防止の手すりか柵も整備する必要があるのではないか。
 はたまた、堤防の高さに対して歩行路が低すぎて海を一望できない箇所も、歩行路をかさあげして海が見える高さにしておく必要があるのではないか。

 自分が以前住んでいた東京都調布市多摩川あたりにはこういうスロープがついていて、河川敷までおりれるようになっていた。東京の川はよごれているので入れなかったが、磯原に関しては今のところ川がきれいだろうから、鮎などの遡上を邪魔しない様にした上で、川遊びできる箇所を設けるべきではないか。 



2021年2月2日

全学術で最初と最後に置かれねばならない目的

人生ではじめに学ばねばならないのは倫理だ。人生では時が過ぎるほどそれを持つ者と、そうでない者の差は開いていく。
 人生で最後まで学ばねばならないのも倫理だ。人は死の直前まで人として生きるものだからだ。
 これ以外は全て後回しでよい分野である。

 私は嘗て数学が全科学の基礎だとした。しかしこれは科学言語に関しての話であった。
 自然科学、社会科学は、自然言語(数式でない日常風の言葉)を使う場合、基本的にその数学の分野である論理学の文法で記述される。論理的に矛盾する記述は誤りとみなされる体系でだ。

 文芸などで矛盾を含んだ記述があっても、その言葉は飽くまで論理的矛盾とみなされ、やはり数学的認識が全く無用になるわけではない。
 しかし数学は道具的な知識であり、人が作った論理的な思考の方法であり、 それ自体で完結する分野ではありえない。
 こうして数学をその言語の基礎に記述された全ての科学(こと知識 scienceの訳語)は、どこまでも倫理の道具である。

 芸術を「科学を基礎にした全ての技術(工学)」と定義し、学術を「全ての科学と全ての芸術」と定義すると、全ての学術の目的は倫理の完成である。

 倫理(道徳ともいう)は、ここでは人としていかに生きるべきかを、言語などの伝達を使って表した体系を指す。
「哲学」という言葉は、「知恵 sophosの友愛 philos」の訳語だが、倫理に関する思索や倫理思想史の習得を含むので、 全学術にとって「倫理哲学(道徳哲学) moral philosophy」が最初で最後の目的で、真に必修の学問といえる。
 学校教育等で「倫理学 ethics」と定義されているのは倫理思想史の習得の事だが、倫理哲学の真の目的はこれらを前提にした倫理的な思索の完成の方であり、人として、倫理思想史の習得に留まるだけでは不十分である。既存の日本の大学等では、倫理思想史家を作る過程しかおよそ存在せず(哲学科と名がついているが、実態は思想史科)、倫理的思索は私的に行い続けるしかない。