2019年8月9日

文化的主導権

茨城で0歳の頃から育ってるからかもしれないが、食べ物を粗末にするな、という躾が無意識に刷り込まれているらしく、発酵食品にせよ何にせよ揶揄の文脈で食べ物を侮辱する人みると、自分は寛容なので何にせよ流しているのだが、時間がたち相手の発言をおもいだすと度し難い義憤の様なのが湧いてくる。
 義烈両公からの農本主義や愛民思想が文化ミームになってわが県のおそらくほぼ全域、少なくとも旧水戸藩の地域を覆っており、自分の育った最北端でさえ、農家の労苦を思いやるのが当然で食べ物をありがたがるのは当然としても馬鹿にするなどありえないのに、東京神奈川だのの連中は金に執着するだけだ。今で言えば商人どもということになるが、やつらの精神構造はまさに下劣極まりないもので、東京神奈川にたかって朝から晩まで下賎極まりない蛮行をしている。具体的には金を貪る為に薄汚い俗受けの生業をし、私の専門の絵でいえば明らかな猥褻物をばらまき驕り散らしている。これも我慢しているのだが。
 東京中華思想が馬鹿の証拠なのはみな知っていることだから、都内の下衆商人があれこれと差別をまきちらしているのも、茨城の人士は眺めていて本心で見下しているだろうが、一々連中に説教した所で何一つ反省するだけの知能はない。根が悪い者はよい実を結ばない。この世では差別する側のみが悪いのだ。

 私は自分の武士道が真に徳といえるか確かめるため徹底的に反証することにし、経営学、経済学、商売の類をこの数年で猛勉強し、少なくとも世人に優るとも劣らないところまでもってきた。元々軽蔑していた分野だが或る程度以上に覚えると一理あるのもわかった。が、やはり武士道の正しさに本心がある。より正確にいうと、ひたすら批判的に武士道の徳目を反証し続けていても、自分の根が高潔すぎて全然、商人道におちぶれられないのである。一度高貴な側に入ってしまうと、もう幾ら努力しても下賎の側に混じれない。まるで庭付き一戸建てで緑に囲まれゆとりある田舎で暮らしたら都内を地獄に感じる様に。
 私にいえるのは、茨城県は嘗て水戸学という立派な道徳体系をもっていて、その中には儒学、神道含む国学、仏教、その他の武士道的要素が全て含まれていたわけで、簡単にいえば高貴なる士族が支配していた歴史がある。即ち水戸の徳川家のもっていた徳目を、基本的に我々は失うべきではないのだと思う。私はこれも十分に反証した。水戸学を全て洗いざらい批判しなおす為、この十年くらい北茨城学なるブログを書いてその思想的問題点をのりこえ、改良した。例えば尊王論は意味をなしていない。天皇は侵略者だ。真の伝統は共和政にある。だが個別の徳には、農本主義とか愛民思想のよう残すべき点が多い。
 東京都内に暮らし南関東圏の文化を内奥まで探り、本質を概観した限りそこにあるのは中華思想の驕りと町人道だけだった。要は下劣な側面が非常に多いし、その虚栄の本体は権力俗物性だけだった。私は汚泥になずむ前に都内を去った。随分東京文化の改良にも努力したのだが民度が下劣すぎ無理だと悟った。
『常陸帯』か定かでないが、今自分が書いたのとほぼ同じ内容の文言を、京都から公卿だかが江戸時代の常陸国へ訪ね来て言っていた記録を読んだことがある。曰く義公以来の立派な風教があるのだからそれをありがたく思い、大切に守る様にすべきと。同様のことは慶喜公個人へ勝海舟も言っていたと思う。もっと遡ると『常陸国風土記』に辿り着くが、既に古代奈良の教養貴族からも常世の国と呼ばれていたのだから、今自分が生きている平成・令和期でも本質は何も変わっていない。風説でわが県を貶めている都内下人は、往々にして確証バイアスで脳内妄想の卑しい差別をばらまいているだけと思う。

 既に書いたよう私の場合も、0歳から食べ物を粗末にしてはいけないと当然のよう躾けられているのでそれが当たり前と思って生きていたのだが、東京で大量に注文し食べもせず出て行った大人を見たときは本当に驚いた。悪い文化衝撃が殆どだったので、江戸期に烈公が教育面を慮ったのから何も変化はない。つまりは義烈両公を代表的な思想家として、わが県に無意識レベルで伝承している徳目は、農人形で象徴化されている類の農本思想とか、偕楽園の愛民思想とかなのだが、今の県知事はどうだろう。彼はアメリカかぶれ、東京かぶれと私は思って最初から支持していない。水戸学など何も学んでいないだろう。
 なにがいいたいかといえば、確かに新しい考え方、よりよいミームを外部から学ぶのはとても重要なのだが、東京圏の下衆がやっている類の中華思想みたいなただの馬鹿でしかない差別とか、オタク文化やサブカル俗物界、拝金主義みたいなただ下劣なだけの要素などは純粋に反面教師にした方がいいのである。

 今回のあいちトリエンナーレ2019大炎上事件はどうだろう。私は津田氏に事前に懇切丁寧かつ真摯に、純粋美術の世界観を忠告していたが彼は「(この程度の企画が)過激な筈ないでしょう?」とぶち切れブロックしてきて、この有様だ。驕れる者は久しからずとしかいいようがないではないか。
 正直な所、天皇陛下を侮辱するのは、茨城文化、常陸文化の伝統からいうとよくないが、もっと複合的な捉え方ができる。大和からの黒坂命の侵略、新皇宣言で独立国を作った将門、そして水戸徳川家の歴史。総じて天皇を侮辱したらダメ、なる短絡的な見方は愛知県の歴史的系譜の底の浅さと思う面もある。将門も慶喜公も朝敵扱いされたが、将門にしてみると当時の渡来人集団とでもいうべき奈良の暴力団に支配されるいわれもないのだから最初の武士として民族独立を回復するのは当然となるし、慶喜公は尊皇を叩き込まれていたのに冤罪をかけられ、徹底した自己犠牲までして明治天皇自身から汚名を雪がれた。彼らの生き様からいうと、高々芸術祭で天皇批判の表現をしたら脅迫されびびって撤退というのは、桜田義士をなめてるのかなという感じで、本気で死ぬつもりなら撤退しなければいい。愛知県知事も。それだけの覚悟なのだ、天皇批判って。歴史的にそういう事例を愛知県民は多分、知らないのだと思う。
 欧米知識人ぶって「表現の自由」とかいう底の浅い、日本の伝統にない言辞でどんなに言い繕っても、飛鳥時代からずっと続いている皇室の伝統の前では無力でしかない。神道信者も奈良時代からずっといるわけで彼らからすると、天皇崇拝は存在意義のほぼ一部になってるのだから。
 私が今回の騒ぎで一番感じたのは、義公との対比だ。彼はライフワーク『大日本史』で、当時知りえた全世界史へ自国の存在意義を批判的にぶつけるという壮大な知的射程で、間接的に彼の出世が頭打ちになっていた幕藩体制の崩壊後を計画したといってもいい。つまり象徴天皇制を彼が構想していたわけだ。しかし津田氏のブレーンだった東氏の炎上後の言い訳というのは大変見苦しいもので、朝敵の覚悟どこか狼狽し謝罪してしまう。普通に考えて、天皇批判とは朝敵になることなのである。私は当然それを踏まえて共和政論者なのであり、全神道政治論者を止揚しのりこえているから、政教分離で一歩も引かない。
 私は朝敵の対立概念として「民敵」という言葉を造語した。あんまり使ってないけど。天皇って民敵なのです。なにせ古代奈良から渡来人王朝を率いた祈祷と殺人徴税が仕事の世襲邪教祖なのだから。自然崇拝の方が本来の宗教だし、12万年続く共和政の方が本来の伝統だし、天皇制や王政は海外の猿真似だ。

 朝敵として許さんとかいわれ、尊皇志士だか皇道派に命を付け狙われるなんてこれまでの日本史知ってたら当然視できる話で、その程度でびびって謝罪するのは意味が全く分からないし、妥協して天皇制支持者の気持ちも慮るべきだったとか筋が何一つ通っていない。聖像破壊がヘイトなのは当然なので。愛知県知事が天皇ヘイトしながら「表現の自由」とかいって尊皇派に脅迫され、自分で検閲してるのに責任転嫁も全くお粗末としか言い様がない。それをまともとか褒めてる自称文化人も、一体全体、天皇の歴史を何だと思っているのだろう。皇国史観を欧米思潮で馬鹿にするつもりなら論理的裏づけが必要だ。
 私は徳川家の方が政治的才能は遥かにあったと思う。この点で天皇家はまさに象徴でしかない存在で、実権与えたら原爆見送って仕方なかったとかほざくわけで、燃やされるべきどころの話ではない。地獄を永遠に輪廻しかねない無能である。だからこそ水戸学の意義が光っているのだ。尊皇派がいるのだ。
 ついでに書くが、私は冷静かつ客観的に歴史をみて、薩長土肥と呼ばれている幕末から明治の人達は往々にしてイギリス帝国主義の表面だけ猿真似して暴力振るってただけの野蛮人と思っている。それが厳正なる真実です。今の日本史は全く正反対のことを主張する三文小説史観みたいなので埋まっているが。明治の元勲とかいってあの国家テロやってた西日本の果ての下級武士を神扱いしている誠に愚かな連中は、彼らのイデオローグだった松陰さえ、アジア一帯を侵略しろとかいってた(『幽囚録』)本物の極道だったのをどう説明するつもりなのだろう。何一つとして善と呼べる点がない神とは邪神というのだ。
 はっきりいって今回も同じだ。東浩紀というイデオローグが事の原因を作っているのは皆も見ているであろう。津田某は彼の手先みたいなもんだ、実質は。アヅマは動画中で美術だか哲学を知ったかぶってるが、彼が美術についてまともに批評できてた場面など一度もみたことがないし哲学についても同じだ。カントが言っていた、真の批判とは世の中について控えめに意見を述べるくらいのもので、そもそも声高に自分の正当性を主張できる代物ではないとね。多分『判断力批判』のどこかに書いてある筈です(『判断力批判』40章160節の注意書きだった。そこでカントがいってるのは「啓蒙」の定義で、今の言い方なら、客観的事実を論じる科学に比べて倫理・道徳は人の信念にすぎないのでそう簡単に語れない。なので哲学を知ったかぶる知識人は嘘つきで、本来の啓蒙は控えめに誤り易さを指摘する程度との説)。これは即ち今はやりの知的謙虚をいってるのだが、ダニクル効果からいってもそんなもんだ、知性って。もう少し正確にいうと、世の中が何かしら誤りを犯してる時に、批評家なり哲学者は、その誤りの理由を指摘するのが全能力の限界だと言い切ってたと思う。アヅマ某、津田某はこれの真逆で批判してくる奴はコロスリスト入りとかいっていたわけで、いってみれば絶対唯一神でもなければそんなの無理なのだ。
 私は全てのイデオロギーは批判する為にあるという強度の懐疑論の立場に近い。かといって道徳観念を無意味とみなすほどではないので、最近の科学専門家に多い理系至上主義みたいなのは嫌いだ。原発の何が悪いみたいなのはサイコパスでしかない。そして科学専門家、理系学者なんて大体は倫理が弱いのだ。

 アヅマ某は動画中で政治と芸術を意図的に混同させつつ、スキャンダルを起こして炎上させないのが芸術性とはっきりいっている。美術史のどこをどう解釈したらそうなるのかさっぱりわからないが、寧ろ炎上自体が記録されることがあるもそれはスキャンダリズムに過ぎない。無論アートは大人しいのもある。
 今回の大炎上は、まず祭政一致という水戸学がいう日本の伝統を、単なるスキャンダルを狙い小ばかにしたので尊皇派がぶちぎれた。ここまでは彼らも事前に計算していたようで早々に適当な逃げ口上で検閲、撤退し「表現の不自由事件作り」に集中し始めたが、火の手がやまず小中学生まで巻き込みだしたと。
 無関係な子供へガソリン放火などでの大量殺人の脅迫が回ると流石に似非アートスキャンダリズムで済まなくなり、アヅマ某が先に「天皇制を尊重する人にも考慮すべきだった」と心にもない言説を弄した。なら最初から令和ムードの時に? とか知ってて悪ふざけする筈もない。つまり脅迫の逃げ口上である。唱道者の腰折れをみた津田某も謝罪し始めた。曰く批判者をコロスリストに入れているなる過去の発言で傷ついた人に謝る、トップとしてふさわしくなかったと。これもよく分からない言い訳で、なぜブロックし続けているかの理由になっていない。天皇を公然侮辱し右翼に大規模脅迫され困ってるだけと思う。
 スキャンダルを起こして炎上させないどころか異様な大炎上が全然おわらないので、アヅマ某の定義ではこれは芸術ではない。ただの行政ぐるみでの国家テロリズムになっている。天皇を愛知県が侮辱してしまったのに気づいた愛知県知事大村は安全確保の建前で検閲したが時は既に遅しである。
 大村が為すべきなのは、「国と国民統合の象徴を侮辱する表現を自由と判断したのは、一行政長としてふさわしくなかった。謝罪する」といい右翼の歓心を買うことなのだが、彼は表現の自由は天皇ヘイトに超越すると教条的憲法論で通そうとするので、ますます尊皇派から怨恨を買う。随分小知恵が回らない。

 私がなにをいいたいか。先ずアヅマ某、津田某らは身の程知らずの一言でいいきれるであろう。美術素人に等しいのに知ったかぶってスキャンダリズムへ安易に手を出し、しかも哲学面でも洋学かぶれのサブカル俗物程度なので、国学の長い伝統に抵触しまくって内国的に居場所をなくしたに等しい。大村某は実に浅はかな官僚出身の知事で、お仕着せの勉強はやったとしても理解が教条的すぎ自分が朝敵行為をしているのに自覚がなかった。いや自覚していたのに軽んじていた。なぜなら彼は天皇機関説式に皇室解釈している近代主義者なのだろう。それでコスプレで俗流にのりつつ片手では表現自由という。

 これがいいたかったのだが、なぜ愛知県がこの種の致命的失点をしたかといえば、彼らは東京文化圏の流行においつこうとしていた東京中華思想の信奉者だったのだ。差別に自ら媚を売っても何一つとして良い結果がこない。よくわかったではないか。中華思想は愚者の驕りだ。悪い面は絶対学んではいけない。
 わが県は東京の某会社から全国報道で毎年、一方的差別を受けている。もう10年近くになるが、この間、わが県は隠忍自重してきた。愛知県をみよ。東京下種の為すがままにされた結果だ。差別など無視するに限る。自ら正義を行っていれば全世界に恥じることはない。文化的主導権は自ら握らねばならない。