2017年8月31日

地域ナショナリズムと移民社会

 もし大井川氏の公約にみられる理論を政治的に実践すると、この県で最善なのは、移民促進県として人口流動性を極大化し、かつ個人主義に基づいて行動する習慣を身に着ける事となりそうだ。
 これまで橋本氏が行ってきた行政は、現北茨城市長の豊田氏と同様に地域ナショナリズムに由来し、水戸の徳川氏の愛民思想の延長にある、健全な愛国・愛県・愛市民による功利主義的な行政の類だったといえるだろう。大井川氏はこれに対し、刷新を唱えつつ米国型のIT産業を誘引しながら、人と財をあつめるという考え方をもちこんでいる。そして大井川氏の方法論では、地元人を優遇するより、無能な地元人を切り捨てていきながら、有能者を選好する(或いは逆に無能移民を切り捨てつつ有能地元人を採用でもそうだが)という米国資本主義の実力優遇的な展開が必要不可欠となるはずだ。当然これまでも県は実力本位で人物を評価してきただろうが、橋本氏の根底には最大多数の最高幸福を目指す様な功利的・福祉的な考え方も存在していた。大井川氏側に弱者救済という主張はあまり強調されていない。なぜならこの人は、ご自身が成功者の属する組織の渡り歩きをしてきた経歴からも、生まれながらに恵まれない人だとか、無能であるから出世の見込みが初めからあり得ない人、挫折の末に再起不能になっている人といった本来の弱者に、殆ど認知がないのである。
 橋本氏は「強く優しい県」をsloganにしていた。これは強い経済と優しい福祉を意味するといってもいいだろう。大井川氏に、優しさの面は見逃されているが、実際はこちらの側面、調整的正義の方が、商売ではない行政の必要条件なのだとこのブログで述べてきた通りだ。別にIT業が悪なのでは全くない。虐めをなくすことも重要だ。問題は大井川氏の理想の社会としてこの動画(【Pivote TV】Pivote Meeting”新しい茨城”の話を聞いてみよう!ゲスト:大井川かずひこ氏 from YouTube)内であげられている米シアトルやフランスはliberalな移民社会の典型といえる。勿論、強烈な人口流動性、つまり早いメンバー入れ替えのある移民社会にすればそこで虐めが発生する確率は相当に下がるはずだ。その代償に、田舎らしい田舎としての既存の茨城のある面は、恐らくかなりの可能性で消滅していくはずだ。外来種の方が強壮な場合が殆どなのだから、わけても人においてウィンブルドン現象(外人の方が活躍し母国人を駆逐する)が起きないはずがない。はじめから移民の主要な都市部で大井川氏の支持率が比較的高かったのも、この様なリベラル・寛容政策による犠牲をこうむる可能性が都市部ほど低いからなのだ。農村部の平和や低い犯罪率は、村社会性からくる相互監視にもよっているのであり、移民による人口流動性が高くなればなるほどこの秩序は破壊される。橋本県政にあっては、彼の田舎に対する理解や尊重の念から、商業地や、移民地区となってきたつくば市等との間に多様の統一が図られていたといえるだろう。大井川氏はおろかではないのだろうし、今後この種の当県の地域多様性やそれらの利害や目的としての幸福間の違いの調和を図らざるを得ないだろう。茨城は単なる商人気質である東京都の様に単純ではない。金儲けさえできれば皆が一様に幸せになるという訳ではないのだ。しかもこの県は、全日本のみならず全地球の縮図といえるほど自然、田園、都市の全面にわたっての最大級の多様性とそれらに固有の生態系がある。東京都民の様な浅はかな目先の利害だけを追いかける衆愚からみれば、金が儲かっている場所が繁栄、そう見えないところが衰退にすぎないと偏見しているのだろうが、実際は、都市化してしまった田舎町は自然破壊を憂い、工業発展をも環境の悪化として迷惑がっている場合も大いにあるし、つくば市にさえ天狗党どころか?歌以前から住む在来の住民が新住民のお高く留まった地元民に交わらない態度をいけ好かないと考え、国策による施設の押し付けに対し平和な農村の伝統破壊だと感じている層は確かにいるのだ。
 更に厳しくいうと、大井川氏は余りに単純に茨城を思い、全県土についてつくば市をベンチャー起業特区にする類の、ITなりICTの応用で金儲けをさせられれば、それが即ち繁栄にして羨望なり尊敬される新生の県になりうるのだと空想しているのだろう。これは東京都民という商人或いは小人集団が持っている類の、目先の利害損得でしか行動しない浅薄な知能における、生活多様性の否定でしかない。田舎暮らしの幸せは、経済最優先では決して得られない。商売人の幸福は農民の幸福ではないのだ。移民や外来者に荒らされる地域を繁栄していると考えているのは、愛すべき故郷のない哀れな都民だけだろう。いつまでも変わらない、少なくとも変化がゆっくりしているという事、自然がそのまま残っているという事、これらはどれほど大金を積んでも永遠に得られない、かけがえのない価値なのだ。金儲けなどどうでもいい。静かにゆったりと自然に包まれて暮らしていたい。この様な考え方を持つ人の生活感を、東京かぶれやシリコンバレーかぶれには理解も想像もできない。幾らでも変化したいのは、元から故郷を捨ててきた浮浪集団としての都市民だけである。その様な人々が国際資本や金融経済の波に乗って世界一の成金富豪になったところで、一体なんだというのか。虚栄に他ならない。自分の力で全世界を支配したところでなんだろう。その人には自然一つ生み出すことはできない。小川一つ形作ることはできない。小磯一つ守れない。大井川氏の人生観はまだまだ洗練されていないというべきだ。民俗学や自然学、文学だけでは十分ではない。老荘や仏教哲学ですら、茨城県の中にある無数の生の深みを知りはしないのだ。
 私に言う事ができるのは、経済弱者の救済とか、無為自然だとか、士農工商だとか、農本思想だとか、旧水戸学を一つの大きな流れとして現代の茨城まで伝わってきている深い哲学の束をつかみ、茨城県史の学習を、まず一度大井川氏は真剣にやるべきだ。常陸国史、茨城県史を知っていれば、移民政策に殆ど等しい大規模な改造を、この県土全体に適用する事が全く文化的ではないと悟るかもしれない。この県のことをより深く知っていたのは、恐らくだが、橋本氏の方だった。無論、大井川氏はそこから比べたら若すぎる。いかにも無鉄砲にすぎない。公明党の山口代表はおそらく大井川氏と国内学歴が等しいがゆえ長期関係を見込めると考えたろうし、都議選で裏切った自民党への再度のすり寄りもあって、彼が大井川氏側にこびたという事は、単なる政略行動だろう。安倍氏は長州閥を種にした権力亡者であるから、東京に続き茨城でも惨敗にするわけにはいかないと、保守王国を票田として少なくとも死守するべく自民推薦候補に肩入れしたのも明らかであった。橋本氏の地方自治法に基づく地方の知事選挙に、中央政界が介入するなという正論は、安倍氏の様な公徳の足りない、世襲の因縁や自尊心と思い込む虚栄心だけで持っている類の独裁主義者には馬耳東風である。大井川氏はこの様な幸運が重なって、県民のうち約半数を敵対させた状態で県政に入るのだから、今後、移民を中心にした県内社会を、つくばや日立の様な一部の都市部に集中させるか、全体に適用する事でこの県そのものを移民社会にするかについて慎重に選択してもらいたい。橋本氏の愛県的施政と、大井川氏のいう営利的な施政は、要求される生活態度に大幅な違いがある。前者は地縁や地元を優先する方が有利になりやすい条件をつけるが、後者は県だとか市だとか町だとかの地権者を無視し機会費用を節約しつつ、個人単位で金儲けする方が有利になりやすい国際適応を意味する。なるほどこれは大幅な転換だ。これから4年間で、移民だらけとなるのならその様な県を、私個人はなにも否定しない。むしろ歓迎さえするが、水戸徳川氏の主義していた尊攘理論は、そこでは時代遅れの産物として完全に無視か否定されていくのだろう。では、尊攘志士らは一体何の為に忠義で大量死していったのか。回天神社や弘道館に記録されている精神があるなら、地域ナショナリズムとは一体なんだったのかを問い直すべきだろう。


魅力度に関する最適戦略について

 もし、これといって不足のない、恵まれた立場にあったといえる茨城県民が、大井川県政によって何らかの方途をとって西日本人のうち数百人のブランド総合研究所会員の偏見を正したとしよう。それによって、石破茂氏や小泉進次郎氏らが音頭をとってもちあげようとしていた類の当該調査の変化があったとしよう。そして大井川氏はご満悦で挑戦すれば変化を起こせるのだと、新政は成功したと考えたとしよう。これは本末転倒だ。
 田中章雄という極悪人による魅力度調査の根源問題は、それが差別や偏見による非科学的、もしくは疑似科学的な悪意ある報道スクラムによって、弱い立場にある者、不利な人間を殺意を込めて徹底的に虐め殺そうとする、日本国と日本人、村社会と島国根性の一番悪質な面をまざまざと示しているということにある。だからたとえ茨城が別の評価のされ方をしようが別の県、別の誰かが再びストレス解消或いは集団の便宜的結束の為のいけにえ、scapegoatとして虐殺対象になるばかりで、日本人も日本国も、東京やら各地のマスコミも、西日本も、田中章雄容疑者も一切なにも変わらない。日本人一般が虐め大好きの極悪国民なのだということを、田中章雄は金儲けに利用しているにすぎず、たまたまその標的に、過不足のない調和のとれた我が県がなっている、というだけなのだ。
 いわば自分だけ被害を受けなければ他の誰かの被害なら構わないと、大井川氏はいいそうなものだ。日本国民がなぜ虐めを好むかといえば、この国が閉鎖的な村社会、島国であり、固定された成員がわかりやすい地位を保ちその押し付けられた役割、階級、性格のなかで極力型にはまった、天皇家はじめ支配者に都合がいい奴隷の様に、機械の様にふるまってほしいからである。これは天皇やその家来にとって管理しやすい従順な奴隷民が搾取するのに好都合だからというだけではない。当の国民自身が固定メンバー間での差別を含む順位制を、思考の節約の為に選り好みしているということなのだ。だから一度はりつけたレッテルや汚名を、その日本人の知能指数が低ければ低いほど徹底して信じようとするのである。凡そ日本国民自身からなる集団では、どこでも凄まじく陰湿な差別や贔屓といった硬直的な階級化の現象が現れるのは、それが彼らの脳内では正義や公正とすりかえられて理解されているからだ。
 これほど魅力度調査問題に現れた日本国民のもつ病根は深く、単に数百人単位の西日本人の一部脳内を変えられても、日本人一般の狂信的階級志向、つまり虐めや偶像崇拝の精神構造は変わらないだろう。報道で水戸市の恥知らずで愚かな一市民が小泉氏を様づけでよんでいたが、この種の人物が他方ではなんの罪も落ち度もない人を徹底した悪意ある偏見で虐待するのだ。偶像崇拝と虐めは、自己懐疑という思考習慣を持つには余りに単純で低知能な脳にあって表裏一体の関係にある。弱い立場にたたされた人を集団で押し殺そうとする悪意。強い立場にたまたま立っている人に落ち度も欠点も無視してひたすら隷属する卑屈さ。大井川氏は、一体この種の愚民の何をどう変えようというのか。バカは変えられない。日本人一般は単なる愚民である。西日本人一般についてはいうまでもない。愚民をまともに相手にするな。差別や偏見をもつことは、それを持っている人自身に最大の不利さがあるのだ。つまり茨城県民自身は、橋本氏が行っていた通り、郷土検定の様な啓蒙教育によって自分自身を正確に捉えることができればそれで十分すぎる。あとは、通常通り他県や他国について学べばいい。知的障害という場合を除き、愚かな人間にまともに対応しても、何一つとして得はない。悲惨と悪意しかない人間の現実と救いようのなさだけを得るだろう。
 ニコ動は衆愚から会員登録によって金をまきあげる商売型があった為に愚民にサービスしていたかもしれない。だがそれは視聴者数の一定割合が有料会員になるという計算下に大衆に訴求した結果、そうなのだ。茨城県の宣伝がこの種の営利構造をもっているだろうか。通俗的な大衆社会ならすでに東横、関西、名古屋があるではないか。わが県まで大衆向けの営利構造をもって自己宣伝する意味はなにもない。
 まとめると、
・魅力度調査は不正確な似非統計による単なる衆愚扇動の例にすぎず、その問題の核心は日本人のもつ階級化という思考節約の癖にある。
・愚かな人ほど差別、偏見、偶像崇拝という認識の誤謬をもち自損しやすいので、知能指数も大部分遺伝する以上、単に自分自身もしくは茨城県民がそれら非科学的な誤りを免れていれば十分すぎる。
・天皇家は愚民化でより楽に統治するべく宗教による洗脳を図り、今日では東京都民がマスコミによりこの役割を踏襲しているのだから、ドワンゴの様な大衆販促や西日本のブランド総合研究所会員である特定数百人への集中宣伝による営利構造を、茨城県庁単位で行う意義は凡そ見いだせない。百歩譲ってこの種のPRが茨城の金儲けか観光集客か移民増大につながったとして、それが虚栄以外のなにかになるとは到底いえない。なぜなら、日本人一般の階級志向自体を国民成員の過剰流動性によって破壊できないかぎり、別のどこかの都道府県か個人が標的になりかわって延々虐めや崇拝がつづくから。
 ここまでくると、大井川氏のやろうとしている茨城県に関する評判を西日本の特定数百人を標的にするなり県外の衆愚を標的にするなりして差別的偏見を変えさせて向上させるという方法が、対症療法をこえた根本的な問題解決を果たすには、日本国そのものへ英語公用語化をはじめとした移民国家になる施策をとらせることで人口構成に激しい流動性をもたせるしかないといえることになるだろう。しかも階級化をもたらす特定の価値付けにも猛反対してこれを個性の多様性とか価値の多角性を旗印に次々破壊するという、ほぼ完全に米国的な政策を実践するしかなくなる。それならはじめから米国に移民してしまえばいいのではないか、と反論がありそうなものだ。もしこの種の移民政策が可能ならつくば市の様な英語公用可能な国際特区に茨城県単位をする程度しかありえないだろう。だがそれは茨城県民が向上はしようと県外愚民の脳をとりかえることにはならないのだから、堂々巡りにしかならない。結局、バカを相手にするだけ損害なので、魅力度ネタで侮辱している愚民をみたら低知能フラグだと見なし原則無視し、程度が酷ければ関わらない方が得策の相手と理解できようからかえって激しく誤解させたままにさえし煙に巻き、一方では自分を含む茨城県民自身のみに県内の有益かつ県民の幸福に正に相関する情報を敷衍させることが戦略的かつ利口なのである。

2017年8月30日

国政論、県政論

 経済成長。それどころか金融緩和による格差拡大を最優先するという安倍政権、麻生副総理の商売第一行政は、弱者に犠牲を強いるという致命的欠陥をもっている。それは安倍、麻生両氏が衰退していく国の行政において、国民から支持を得る為に朝三暮四で目先の利己の金で釣り何とか保身しているという人気取りのやり口で、日本の先進国では低劣な民度に丁度適合しているのだ。この国民と天皇家は、特に東京以西の民衆は米軍に原爆投下されて敗北した事については負け戦として反省していると述べるが、それは負けた事を後悔しているというべきで、将軍にぬれぎぬを着せて放伐した(西軍が徳川にやった事)とか、悪意で徳川家に親族争いを生じさせてそれをかばった人たちを一方的に侵略虐殺したとか(鹿児島県が東日本にやった事)、独裁政権を牛耳って大規模な植民地侵略を行い搾取の為に平和に暮らしていた民を事実上奴隷化して苦しめたとか(天皇家が日本国各地及びアジアの周辺諸国に対してやった事)、こういった己の悪事についてはひとかけらも反省心がないのが、主に西日本の日本国民一般なのである。侵略の意図にその目的で加担したことがないという意味で、茨城以北・常陸以北の自治体はこの様な罪は着せられないだろう。それどころか徳川の正当さをかばって大いなる被害を受けた福島県や、更にその正義に殉じた奥羽越列藩同盟の様な殊勝な自治体もある。だが我々もまた、旧水戸学をのりこえて天皇家が独裁した国家体制に於いて最後まで徹底してその悪意もしくは偽善に抵抗し続けなければならなかった。西日本一般では「勝てば官軍負ければ賊」、つまり覇道政治、Winner takes allに類した海賊の論理、やくざの理屈がいまだに信じられており、吉田松陰の侵略思想や植民地主義が現役で正当化されている。先進国では最低級の民度としか言いようがない野蛮な国民が約半数を占めているのが日本なのだから、そこで選出される野蛮の極みにある山口県選出議員が弱者を蹂躙して恥もしないのは疑問もない。それほど公徳の低い、単なる覇者、暴政による独裁を図る極悪人が日本政府の象徴とか首相を名乗れるだけ、卑しい国家がこの島国なのだ。
 勿論理想はその逆にあって、ロールズの第二原理にあるよう社会で最も恵まれない立場にある者の利益が最大化する場合にのみ、正義がある。
ジョン・ロールズの正義
第一原理
・政治的自由や言論の自由、身体の自由などを含む基本的諸自由を全員に平等に配分する
第二原理
・社会的または経済的な不平等を機会の均等を図りながら、最も不遇な人々の利益を最大化する(機会均等原理)
・結果的に発生した社会的・経済的不平等に対しては、最悪の状況は可能な限り改善する(格差原理)
大井川氏にはこの種の正義に関する認知など今のところ全くないだろう。無学なのである。彼の演説を聴く限りそこで語られているのは、配分的正義だけである。それは民間企業でやるべきことだ。行政は弱者救済が第一でなければならないのだ。全体の奉仕者である行政が有能者へ集中配分をしてはならないのだ。いうまでもないが、安倍晋三氏も麻生太郎氏も不勉強すぎる為に国民全体を不幸にする悪政をしている訳だが、それを批判し正道に戻すだけの知恵や公徳がある国民一般ではない。だから筆者が自分自身の犠牲によって、一円にも名誉にもならないこの文章で公共の奉仕者達を叱咤しているのだ。そうせざるを得ないからである。これは行政人が愚劣であるという意味で、政治家候補者の不勉強が原因だ。
 大井川氏は、もし自由主義を推進するなら市場介入の類であるベンチャー起業を促進するといった発言は矛盾しているし、民社的な福祉政策をとるつもりでもない様に見える。大井川氏の行政理論は自治体社会主義もしくは都道府県社会主義なのだ。それは国政にあっては安倍・麻生両氏が国家社会主義者であるという事にあたる。安倍氏に至っては企業に賃上げの圧力すら加えているのだ。勿論これらは市場放任を意味する自由主義から、新自由主義や自由至上主義(libertarianism)からさえ大幅に逸脱している。
 辛うじて大井川氏の自治体社会主義政策、よくいえば修正資本的な新自由主義もどき政策が功を奏し、わが県が経済発展したとしよう。こういった可能性は皆無ではない。ケインズ政策、公共投資の矛先が福利耐久性のあるインフラ事業からICT関連を主とした情報関連の産業に移行していくことだろう。それは建設分野ほど耐久性がないから、お祭り騒ぎ、ITバブルの類へ火に油を注ぐ結果になるのではないか。勿論これ自体に、停滞している経済の促進効果がないわけではない。アベノミクス、安倍財政による一時的な株価バブルによって格差拡大と一部富裕層の資産増大が見られた事、また偶然ながら団塊世代の大量退職が重なり若者が非正規に置き換えられつつ雇用に吸収されたこと、これらの様な例があるから、大井川ミクスにも地域社会主義的ながら一定の有効需要の喚起があるかもしれない。しかもこの場合、新産業を促進すると明言している以上、IoT(Internet of Things、物のインターネット、つまネット日常化)やIT教育が進むという副作用があるだろう。それは農工業に対しても何らかの複合をもたらし、産業転換が進むかもしれない。だがこれらは政治と経済の役割の混同に基づく結果なのであって、経済弱者への福祉という県民全体の幸福にとって最も有用な点が完全に見逃されている。
 税収が減るから金を儲けねばならないのだと大井川氏は言う。仮にそうだとしても、地方税と国税を混同している面もあるかもしれない。企業か個人の儲けの一部が国と県に徴収される。もし富裕層の集積を促進したければ、シンガポールの様な減税措置が必要だろう。ベンチャーを促したければ、スタンフォード大学の軍需産業の様に有効需要がなければならない。これらは格差拡大をも意味するのだ。停滞する国家での経済成長と、県民の幸福としての多少あれ結果平等な高福祉社会は、両輪でなければならない。そしてこの国家の殆どの自治体、三大都市圏を除くほぼすべての自治体は、地方交付税のおこぼれにただ乗りして楽して福祉政策をしようとするに違いない。東京が稼ぎその他の自治体が乞食する。この構図から、茨城まで稼ぎ頭になった場合、更に東京を追い抜いた場合、果たしてそれが茨城県民にとって幸福な未来だったろうか? 大井川氏はこのことについてもっと真剣に考えるべきではないだろうか。はっきりいえば、東京都民一般は首都を称する虚勢とひきかえに不幸な生活をしている。だがそれは彼らが野蛮だからで、営利の欲、性欲や物欲や名誉欲にあてられて金儲けに追い立てられているからだ。動物精神、アニマルスピリッツがそうさせているのだと解釈もできるが、大量のホームレスや生活保護を受けている経済弱者も量産している。大井川氏はマイクロソフトやドワンゴの起業精神に熱を入れられて、その精神の功罪について本気で問い直したことがないと、私には思われるのだ。なぜならそれらの企業がもたらしたのは決して、国民や県民の幸福ではない。単に、株主、経営者、労働者の金儲けであり、事業に付随したサービスや製品はそこにくっついてこの様な機械をもたらした。茨城県民の所得はまだ4位~11位ほどを行き来している。所得格差の拡大は、いわゆる幸福度を下げる事が北欧の実例でわかっている。配分、調整、それらの調和のうち、大井川氏が安倍政権の国政のもとで推進しようとしているのは配分的な正義でしかないが、日本の殆どの自治体が選択しようとしているのは地方交付税にぶら下がる事によるただ乗りでの得である。上述の侵略に対して無反省に違いない西日本の自治体のほぼすべてがそうしてきているし、今後もしていくつもりなのだろう。この様に集団埋没による怠惰と妬み、足の引っ張り合いの合理化でできているのが、日本国政や日本国民一般の現実のあり様なのに、大井川氏はあまりにお人よしな、あまりに世間知のない、努力が報われる人にのみ負担が行くような政策を執ろうとしている。
 世界一の所得を持っているのはノルウェーという国だ。そして、私の意見では、世界中で最も模範になる政策を執っているのも、この国だ。この国はその所得の殆ど半分を福祉に回しているからだ。もし大井川氏が行政の最も重要な役割である調整について学べば、そしてマイクロソフトやドワンゴの呪縛から離れ心の余裕を取り戻し、光が強くなるほど濃くなる影の中に目を凝らせば、アメリカ、シンガポール、フランスの様な闇の深い国々とは異なって、真実に知恵ある政治をしている国、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマークといった幸福な国々、真実の成功をしている国、経済成長という正の面のみではなくそこで必然に生じる敗北者達の救済義務という負の面に真摯に希求されている正義を高い公民度によって悟っている人々との差について知る事ができるだろう。私は大井川氏が県知事職の期間に、行政がいかに企業経営と違うか、金儲けをすればいいだけではないのだと、単に税収をあげて成功者により多く配分していればいいだけではないのだと、成功の影には表裏一体の悲惨があるのだと、より人間社会の深みについて学ぶ事ができるだろうと考えるが、それは期待しすぎだろうか。勿論、差別化という意味で、茨城に最も希望されているのは北欧の模倣でも米国の模倣でもなく、配分も調整もまこと公正に行われる調和的正義を極めるような第三のより理想的な社会なわけだが。


2017年度県知事選挙の分析と情報戦略

 今回の県知事選挙で、橋本氏の県民党を称した公徳と善意に対して、大井川氏は新政に於ける利益で釣ったというべきだろう。この意味で茨城県民の一部は忠義より利益をとったのであり、禅譲でなく放伐を選んだのである。
 わが県民は総合ブランド研究所の田中章雄と一部ネット民や東京マスコミの悪ふざけや無知無学と完全な地域差別感情の偏見、そして日本国民の中華思想や天皇制における皇居崇拝に基づく田舎差別の悪意を真に受けて、橋本氏と大井川氏の本質を見誤っているか、軽薄な選択をしたのだ。世代交代や新陳代謝、新しい状況への変化適応、これらは当然理解できる事だが、選挙期間中にみられたあらゆる動きの中に働いていたのは、善意や公徳ではなく、東京都の報道関係商人や日本政府の自公政権に媚びを売る人々の悪意と、日本国民の無知と無邪気な(それ故に一層罪深い)偏見と差別感情である。そしてこの種の悪意が支配力を働かせてきた理由は、東京都に置いた政府が利益と公徳を混同している事にあり、しかもこの悪意もしくは無知は資本主義経済と民主主義政治の結合という衆愚政が原因なのである。衆愚政とは自らの利益を公の徳目より優先する、堕落した多数派が牛耳った体制である。
 たとえば私立高校の学費無償化は、富裕層の負担を減らす上に、そもそも教育内容の差別化やすみ分けが果たされなくなるため誠に有害だ。なぜこの種の教育の独立を侵す市場介入を行政人がおこないたがるかといえば、当然の様に一部民衆の利己心に訴える為でしかない。全体に有害で一部の既得権にのみ利益がある。私学助成は単なる悪政でしかない。
 勿論これが単なる深読みすぎで、県民は流石に民主主義とされている現状で長期政権すぎる事を危惧しているか、IT・ICT(Information and Communication Technology、情報通信工学)系の新人物で産業振興し、魅力度云々でうるさい対県外状況を打破してほしいという面もあるだろう。
 他方もし上述の衆愚化論にも一理あるとすれば、ではなぜ衆愚化が進んでいるかといえば、政治に関する教育や知識の不足としか言いようがない。扇動政治がはびこる理由は民の無学に他ならない。また、総合ブランド研究所の様なサイバーカスケード状のいかもの或いは完全な差別を含む疑似統計を、平然と既成事実として流し恥もしない悪質な東京マスコミの報道を無批判にうのみにする県外人達の民度は、低落しきっているというべきだろう。本質的に問われているのは公徳を問う政治民度なのであって、有権者のうち投票した人が完全にどちらかに偏らなかった点で、茨城県民の選挙権の精度は決して劣っているとは言えないどころか、やはり総じて高いのだといえるのだろう。
 緻密に再分析した結果としても、今後4年間、大井川県政が橋本県政時代を超えた実績を残せない限り、単に自公を中心とした扇動政治屋によるテレビ政治の影響で県民が堕落していた結果であると判断しなければならない。そして徳に関する古道という意味においては、県民の約2割は忠義より放伐による裏切りを選んだのであって、武士道に反するというべきだ。勿論、武士道イデオロギーなど既に時代遅れであるという批判は理解できるが、更に根本的には、県政の風紀や伝統を作っているという解釈もできる。橋本氏は決して悪政をしていた訳ではないどころか、凡そ善政をしていた。原発という過ちも改めると明言した。それにも関わらず県政を変えようといって放伐を行った大井川氏は、一体何を期待されて当選したかといえば、東京都民の1人である田中章雄による偏見的な統計による地方差別という公的犯罪への対策が第一なのだとしか言いようがない。その他の点について、ICT推進という面は第二に期待されていると考えられる。橋本氏が対外発信メディアの主役なのでは基本的にない。対外発信メディアは、テレビ局の様に民間企業が行う。行政の長がメディアの長なのではない。寧ろ表現の自由を鑑みれば、県庁がメディア的に扇動力を持つ方がよほど悪質だというべきだろう。政府が媒体発信力を持ったらそれは単なる公的情報の公知のみならず何らかの政治イデオロギーに関する喧伝に使われる事だろうし、その種のpropagandaで現に失政を隠蔽する事ばかりしてきたのが日本政府、大本営なのである。田中章雄と東京都のマスコミ関係者そしてその他の日本国民が地域差別を平気で行い、しかも無知を恥じる事のないだけ悪質な衆愚なのだ、という事を、行政人がどう変えろというのだろうか。実質、不可能な解決課題だとしかいいようがない。もし行政としてなしうるとすれば、強権政治によって田中章雄を訴え勝訴する、或いは国会か内閣に訴えて、その種の地域差別的偏見報道を法的に制限させる事だけである。前者については類似の判例があるが、勝訴する可能性と量りにかけて行うというきわどい綱渡りになる。後者については首相または与党議員が報道管制に直接言及せざるを得ないという意味で茨の道である。どちらにしても、県庁単位で地域の宣伝をするについては、多かれ少なかれ政治的喧伝行為とならざるをえない面で、禁じ手に触れ易い。
 かつてイギリスがクールブリタニアのキャンペーンを打ち、YBA(Young British Artists、若手英国人芸術家)と共にハイアート業界との協働を行った。韓国政府も民間のKPOP業者と組んで同様のPRを行った。日本政府は遅れて、サブカルチャーを利用してクールジャパンの活動を行おうとした。これらは経済的に沈没していく途中の斜陽国とか、政治的原因や競合との関係で汚名を着せられているか人気に欠ける国が、何らかの芸術界の人気にあやかって自らの後光効果に利用しようとしたものだった。また京都府と京都市は日常的にこの種の目的での古都・文化遺産PRを常態として行う慣習があり、当人達の中では観光業及び自尊心を高める表裏を使い分けた自己宣伝の方法論として用いられている。つまり政治界または行政組織が人気取りのため、何らかのPR活動を行う時は、それぞれ目的が異なるにせよ、個人や民間の事業または過去の遺産を政治目的に流用してきたのだ。対してわが県はどうかといえば、確かに華風月や和楽器バンドの鈴華ゆう子氏、或いは喜劇役者のピース綾部氏、グラビアアイドル出身の磯山さやか氏など主に県出身者のうち何らかの大衆人気がある気鋭の若い人々を使ってネット上でPRを行ってきた。橋本氏は十分PRしてきたのだ。それでも魅力度調査の結果は変わらない。なぜなら総合ブランド研究所の登録者である数千人の調査対象者が、毎年行われているウェブアンケートでわが県に高い評価を入れる誘引がないからだ。ここまで短絡的な事なのである。その数千人の調査対象者が標本として一般大衆に対して不正確であるから、所詮結果に偏りがある。当然そうだろう。東京のマスコミや一般大衆にその種の統計学的理解など到底ない。だから日本国民という人々は汚名やスティグマを与え、平気で差別し、偏見や色眼鏡で或る地域を攻撃し、ひたすら虐待して面白がっているのである。
 大井川氏は自サイトで、はじめから海外に向けてPRをする事を主張している。

「魅力度ワースト1からNo.1へ」プロジェクト推進

  • 茨城魅力度発信戦略【ネットメディアをフル活用した海外市場開拓を強化し、日本より先に海外で話題作りをするなど、新しい手法による発信力強化】
http://k-oigawa.jp/policy/dream.html より
これをみると、日本国民という硬直化した村社会的集団、いやいわばテレビ厨やニコ厨の様な日本人ネット衆愚を無視し、海外における評判を勝ち取ろうという公約の様に見える。彼はワシントン大学ロースクールを卒業していると、またマイクロソフトアジアを経験しているという事から、恐らくインターネット上で行政主導の宣伝サイトを作ろう程度の考えなのかもしれない。そして日本人は外圧に弱い、或いは海外崇拝の気質があり、特にアメリカに劣等感を持っている上に福沢『脱亜論』以来の西洋崇拝の影響で米国はじめ西洋圏での評判を直接あげれば日本側が手のひらを返して追従してくるのではないか、とみているのではないだろうか。なるほどその種の傾向は、確かに日本人には存在するだろう。そして主に茨城県域に行政力を最適化してきた橋本氏に比べ、多少なりとも海外経験のある大井川氏の方がまだ宣伝できるのだ、と大井川氏は踏んでいるのだろう。果たしてそんなにうまくいく戦略だろうか? 私の意見をここで述べれば、問題はそんな所には全然ないのである。
 この問題の核心は、茨城県が保守的な自治体である、少なくともそう見なす方が好都合なレッテル張りが日本国民側に潜在しているというところにあるのだ。それは行政がそうだからなのではない。県民が保守的だ、と見なしたいのである。その保守性は他の日本国内の自治体と比べて、相対的に保守である、という意味であり、絶対的な保守ではない。宣伝しようにも(特に西日本を主とした、茨城県に全く無知な類の)日本人一般にとって茨城県の長所も短所も、この決定的な保守性にかなりの部分含まれてあるのだから、どれほど外国人に同様の面を我々は保守的なのだと説明したところでへえそうなんですね、としかならない。無論、イギリスも大いに保守の面がある国だ。日本全体も保守の傾向がある国だ。自民党が強権政治を長期的に行ってきて天皇制が敷かれた国民性は極めて保守的としかいえない。だが魅力度云々で日本国民達が侮辱しているのは、この保守性の事なのである。彼ら日本人一般の脳内では、保守性は田舎と結び付けて認知されていて、保守的であることは「田舎い(これをダサいと東京人が俗語で呼んでいる)」のであり、軽蔑すべき反面教師であって、それとは逆に進歩的であるか革新的であることが格好いいことにされている、というわけなのだ。価値観の根底にある評価基準が違う。或いは茨城県には先進的な面も大いにあるのだ、と述べる事は全く正しい。勿論、各種工学面でも思想面でも天下の魁である。だから保守性という茨城の本質的特徴のある部分が、強調されて捉えられていること自体は完全に偏見なのだというしかない。なぜこの偏見が流布されているかといえば、東京との対比効果である。大衆は複雑で緻密な思考より安易な単純化やレッテル張りによる偏見での情報処理を、脳の経済の為に好むといいかえてもいい。だから平均IQが低い人達にとって、それはテスト成績からいえば西日本に余計その傾向があるが、関東地方を南部で分断し、南部は進歩的で模範に足り、北部は保守的すなわち後進的だから反面教師なのだと偏見でレッテル張りし差別で済ます事が、最も楽だったのである。これが、橋本県政下で茨城の張ってきたステルス性の本質にあった情報の一部であり、この種の偏見の煙は、実はわが県にとって大いに好都合だったのだ。橋本氏が意図して県外人を誤解させたままにしておいたか、偏見の強化を図ったかは差し置いて、実際に煙幕的に茨城県側の何らかの先進的な情報を県外に容易に認識させないという情報の非対称性が実現してきた。戦略的にこれが正しい、という事はこれまでもこのブログで説明してきた。大井川氏と、県内の商業都市部住民は、まだこの種の情報非対称性、ステルス性による利益を認知していないというべきなのだろう。
 東京都はテレビ局をはじめとした大規模な情報発信機関を民間に無数に立地させ、しかもそれらが商業と緊密に結びついた組織になっているため、その情報を発信する東京人の利益になる偏見、多くは自慢とか自画自賛とか、対照的な個性を持つ都外の自治体や対象物を差別したり蔑視したりする事による自己宣伝を図る慣習が蔓延している。この傾向はパリ症候群の類である東京症候群を生み出す原因ともなり、遠勝りの効用追求を実質的なスラム街での輝かしい自己イメージの喧伝で行い続ける、という自己偶像化をもたらす。元々この空威張り、虚栄という文化気質は、徳川宗家や天皇家が地方人の次男以降の掃きだめである町人・商人社会に深く植え付けたものかもしれない。西日本の様に東京に一度も訪れた事のないか深く知るまで住んだこともなく、テレビを通じて眺めた機会しかなく、このメディア上の嘘や自慢偏見を信じる衆愚状態にある人々が多数派の場所では、現実と幻想がいれかわっている。東京都民はこの種の仮想を詐欺に応用してきたし、今後もしていくつもりだろう。だが、大井川氏の目指す筈このメディアバイアス・媒体偏見による地域の外の人をだましたり欺いたりする慣習は、本当に賢明だろうか。はっきりいえばレモン市場問題にあるよう、情報の非対称性を明らかに悪用しているという意味で、期待値を過度にあげて実質が劣っている自己を売りつける、商業的にも詐欺に類した業者たらざるをえず、もし取引相手、ここでいえば評価する主体が愚劣であればあるほどこの種の偏見の植え付けが効果を持つのだというほかない。フランスのパリは、京都はどうなったろう。観光客だらけとなった末に、経済的に凋落した、もしくは落ちぶれつつある。これが近い将来の東京である。情報戦略上、間違った方向性をとってきた為、必然的に没落する。実のない宣伝は害毒である。いや、実があっても宣伝は害毒なのだ。堅実な商業者は堅実な取引相手を選好するべきであり、それはいわゆる地元客や固定客が殆どだろう。嘗て京都にも、祇園という高級遊郭でに過ぎなかったかもしれないが、一見さんお断りという慣習があった様に言われてきたが、現在の商業主義化した国際通俗的な山城国にその面影はない。その種の戦略は、目先の観光収入に蹂躙されて消し飛んでしまった。
 橋本氏の執っていた情報戦略は、彼自身の意図と一致していたかどうかとは別に、全く正しかった。それは行政面でも情報非対称性を生み出し、常に県民優位になる様な受信優先体制を構築してきた。大井川氏は何を宣伝するというのだろう? 東京都民が愚かにも行っている類の、とるに足らない自慢だろうか? 勿論、ひろいあげれば県内にも、他国や他県と違いのある有用な物品やら情報の束やらはごろごろ転がっている。そしてそれを何らかの意味で商業と結ぶことも、意図してやれば多少あれ可能かもしれない。だがこの種の宣伝はわが県に不利な結果をもたらすと断言できる。一般的な県や地域は、中程度の情報非対称性があるに過ぎないだろう。またマスメディアを持つ主要都市は、発信優位の情報非対称性をもっているだろう。比べてわが県の優位性は受信優位の県環境にあったのだ。県外人がどれほどわが県を誤解や偏見で侮辱して差別してきていたとしても、それらが県内の情報のうち何らかの面が、最も他県民の為になる場合ですら、わが県の或る個性に有利でない場合、情報非対称性が存在する方が有徳なのだ、と判断できる。現実の経験で、県外人がわが県の何らかの面に否定的な態度をとっていたとして、その人が何らかの意味で有利になるだろうか。もしそういう態度をとっていたとしたら、その人はわが県について殆ど何も知らないか、保守性または一般的な失敗を示している何らかの点を、新しさへの狂信や反対例から比較して侮辱しているにすぎないのだ。
 詐欺の反対概念が堅実だとすれば、地域への肯定的偏見が初めからない方が、明らかに実力を証明し易い。この意味で受信優位の情報環境を今後も構築していくべきでしかありえない。日本国民一般が今後も、茨城や北関東への差別や偏見を強化していき、京都や北海道・沖縄への逆差別や贔屓感情を更に極端に持ち続けていく方が、実際にはわが県と県民の利益や幸福にとってプラスなのだというべきだろう。この結論は、確かに常識的な見解とは矛盾していると思えるかもしれないが、この課題の本体に見いだせるのは日本の情報環境における政治戦略の差異なのだ。
 更に次の時代を見据えた分析をここから述べれば、今後、日本国の各地は経済衰退期に当たって少ない利益を奪い合う構図に入っていく。その中では他県への敵意が顕在化し、これまでとは比にならないほど他県からの搾取が横行するだろう。当然この市場闘争を前提とした時代にあって、他県民にその地域の情報が知られている事は不利でしかなく、そのばあい共有地の悲劇が起きる。そして国際経済環境も変容の為、国内取引の機会費用が増大していく。つまり自国民への差別偏見による機会費用の節約という悪しき慣習はますます役立たなくなっていくのだ。偶然、北関東は情報障壁によって県外国民による機会費用的な取引状況から多かれ少なかれ守られた構図にある。いわばブランドがないことが有利な条件をもたらしてきている。市場における競争が激しくなるとは、ますます詐欺と堅実の間で費用対効果が試される過程なのであり、ブランド依存の企業は淘汰され易くなる。既存のブランドイメージを利用して利益を占めようとする傾向の自治体は、確かに一定の有利な条件から出発しているかもしれないが、それは過剰評価されるという前提にあるのだから、徐々に凋落する可能性が高くなるのは否めない。経営学でいうhalo、gain、loss効果(halo・ハロー、後光:何らかの特徴が全体の印象に影響。gain・ゲイン、得:最初の印象が悪いほど相手のプラスが目立つ。loss・ロス、損:最初の印象が良いほど相手のマイナスが目立つ)について言及すれば、茨城の実が優れていればいるほどそれを卑下や謙遜し、相手側に低評価のhaloという幻惑を持たせておいた方が得し易い。だから最も高徳なのは、gainを究極する様な、無意味で害のない悪印象のhaloで自己隠蔽しておくことなのだ。既にこの点については完成段階にあり、あとは実質を強化していくだけでいい。行政については全く発信力を抑制し、飛耳長目のあらゆる情報収集とその適切な管理に特化しつつ、宣伝は県民自身の利益になる範囲のみで民間人による市場原理に任せておくのが最も賢明なのである。沈黙は金、雄弁は銀こそ行政人についても当てはまる最善策なのだった。そして橋本氏はこの黄金律を知ってか知らずか踏襲していた。だから今回の選挙で県民のうち大井川支持者である2割は、単なる多数政治狂信者であるか、自己利益を公的忠義より優先する悪意の裏切り者であるか、自公の喧伝活動に扇動された愚民だといってもそれほど外れてはいないだろう。


2017年8月28日

茨城県内の職場

 職住近接が自主出生率の向上に繋がる以上、茨城県内にできるだけ多数の職場を作り出す事が、わが県の経済成長率を高める事になるだろう。対して東京圏との交通はできるだけ遮断するべきだろう。こちらはストロー効果によって県内経済を沈滞化させてしまう上に、犯罪率の上昇や低俗化、また郊外からの通勤というロスタイムによって出生率まで減少させ、他の東京圏自治体と同様の失策となるのだからだ。


大井川県政について

 橋本氏の功績はどれほど強調してもしすぎはないだろう。明らかにこの県がここまで発展してきたのは彼の有能さがあってこそだったのだし、現に東海第二原発による致命的被災から免れているのも彼の功績に他ならない。特に農工両全の潮流が果たした質実剛健な県政は、彼の茨城県に対する深い愛と思い入れを示しており、今回の選挙結果をみても総じて商業者に偏った都市部しか刷新を求めていない傾向にあったという意味で、中央政界に及ぶ経済強者の横行に対して水戸徳川家の思想を受け継ぎ農本的に全県民あたりの不公平を正し、堅実な県政によって地固めをした素晴らしい公選王政の期間だったというべきだろう。
 対して現状の大井川氏の政策理論は、水戸、日立、筑波の各商業中心都市が主に求めているだろう新産業、つまりは彼らの脳内ではIT業なのだろうが、そこへの政治的助成や何らかの補助政策を喚起するものだったといえる。経営学によれば、後発者にとって模倣は創造より費用が安い。この意味で、大井川氏は自民党と経産省をはじめとした官公庁に何らかの口利きをし、茨城を東洋のシリコンバレー化するつもりだろうし、実際にそれは筑波界隈等で可能かもしれない。現実にそれを推進するよう早速、大井川氏に県民は圧力をかけるべきだろう。この意味で農工両全の潮流を脱構築する可能性が大井川県政にはあると捉えられ、それは日本政府が日本経済全体の沈没中に望むところでもある為、自公政権は茨城県民に恩義があるうちに、茨城県域へのIT特区の設計に全力を費やすべきだろう。
 今後の先進国経済は金融とITを中心に成長していくことは明らかなのだから、農工業に関してはGDPに占める割合が更に減っていくことを前提に、省力化を図る方針に進むべきだろう。最少人数で最大の利益を図る事が農工業の今後の方向性であるべきで、効率を求め機械化や自動化を更に推進するべきなのだろう。第六次産業といわれる高付加価値的な農業、また農家を脱農協により会社化するといった方向については理論上可能としても、英仏米、或いはブランドに依存していた夕張市の様な先例を見る限りは、こちらは各種の県内農業政策上の規制緩和や民営促進策による自由競争市場に任せるしかないのだろう。グリーンツーリズム、或いは田舎住まい、週末の農村体験等の需要については、県民側の幸福に寄与し利益になる範囲でのみ実践するべきだろう。
 問題は、これらの新政策のうち、IT業をシリコンバレーの模倣によって仮に成功させたとして、それは模倣都市、つまりkitschな第二カリフォルニアにしかならないということだ。勿論それでも満足だという人もいるだろうが、私にいうことができるのは、シリコンバレーのIT技術者達はITを目的にああなったのではなく、アメリカのpragmatismに基づいて資本経済に適応しようとした結果、最も利益のえられる分野に集積した、ということなのである。しかもはじめはスタンフォード大学辺でショックレー研究所にいて軍需の下請けにあずかっていた人々が、のちのインテルなどを興して。だから茨城県政が産業育成面で今後なすべきなのは、実は模倣そのものではなく、またITの追従でもない。士農工商のどれであれ、単に利益の最大に上がる分野の市場を最大限に伸ばすこと、つまり国政県政が何らかの規制によって民間人の利益追求を阻害しない様にするばかりか、その種の高利益分野を減税によって集積することができるにすぎないのである。勿論これは調整、或いは福祉に対して格差拡大として働くものでもあるから、県民の幸福度からいえば累進課税と医療介護・教育・生活保護によって世帯所得の平準化を図った方がよいのであって、矛盾を孕んだ考え方だ。シリコンバレーの闇まで模倣する事なしに、即ち格差拡大を避けながら更に高利益率の産業構造に県の経済界全体を推移させていくのが、大井川県政に求められている課題なのだということができる。この格差は少なくとも県内の地域間、世代間を問わない。主に所得格差についていえることだろう。
 一言でいうと、茨城県は経産省と協調しながら県単位でBI(Basic income)を実験し(つまり社会保障の一本化によって再分配時にも徴税時にも節税し)、所得格差が開きすぎない様にしながら、シンガポールやシリコンバレーそのものより進んだ形で企業と個人に大幅に減税を行ったIT特区、金融特区を県内の特定地域に集積させる事で、高付加価値な新産業の誘致を進める事が有益なのだろう。結果、世界から安定した生活を求めてやってくる人口増大の効果も得られるはずだ。この政策が成功したとき、北欧型の高福祉な幸福な国家と、米国型の強い産業がわが県にあって調和しうるかもしれない。専らこれらの新産業と既存の十分強い農工業の両立を図りつつも、日本又は世界全体で最も所得の高い地域になる事をわが県は目標にするべきだろう。
 また懸案の魅力度問題については、今までの分析から県外人の無知が原因であり、その県外の無知はわが県に対外発信のマスメディア、特に地上波テレビ局がないため、ステルス的効果を持っている。そしてこの点は、皇居や政府があり人口最多な首都として、国内に対して傲慢な差別感を持ち、特にメディア依存度の高い東京都を含む南関東や、全体として所得が低く国内旅行に使う余裕もない上、そもそも東京以外の東日本に対して無関心な西日本に、茨城県そのもの(と北関東)への更なる誤解を招いているということだ。日本のネットの衆愚民度は真実を探求するより、自分達に都合がいいサイバーカスケード現象による炎上を広告収益を目的としたマスマーケティングとして好む為、このステルス性は東京以西の衆愚による、誤解に基づく偏見や地方差別的報道とその鵜呑みという状態をもたらしている。これがこれまで分析できたことであった。そして橋本県政にあってこの現象に対して県庁によるネットテレビ(いばキラTV)の開局や、おはよう茨城の打ち切りと磯山さやか氏による「旬刊!いばらき」による発信、銀座のアンテナショップ・茨城マルシェ等での情報展開を試みているが、これらはマスマーケティングとずれがある為、西日本の大衆一般に訴える内容ではなかった、ということになる。魅力度調査(ネット上の偏見を集めた類のもの)をしている東京の小さくて底意地の悪い犯罪的会社・ブランド総合研究所の田中章雄によれば、わが県(とおそらく同様の傾向を持つ関東北部)に関する情報をほぼ全く持っていないし関心もないのは西日本だということがわかっている。また東京圏は「都会」に憧れてでてきた地方人の塊であることもあって、農地面積が日本一の茨城を(彼らの故郷であった、何らかの事情で捨ててきた)「田舎」としてカテゴライズし、主に合理化(酸っぱいブドウの論理)による捻くれた物の見方で蔑視なり差別的言辞を吐くという悪質なもしくは低俗な傾向も持っている。これらすべての事情を顧みると、大井川県政が魅力度問題に対してどんな解決策をとろうとするのか注視する必要があるといえるだろう。ニコ動(ニコニコ動画。動画投稿のウェブサイト)に関係を持っていたことを利用して、ネット衆愚やニコ厨(ニコニコ動画のマニア)に何らかのアプローチをするのかもしれないし、その種のネットテレビ関連の発信局を強化するのかもしれない。ただ、私としていえることは、茨城のもってきたステルス性は孔子や孫子の哲学を水戸学を経由して延伸させてきた根強い徳目によるのであって、それは単に今の時点においてのみならず長い目でみても、わが県の得であると考えられる。情報の非対称性が茨城側に有利になるよう県全体の情報条件を維持促進するべきなのだから、発信力を強化せず、むしろますます受信力を再強化するべきであって、あらゆる情報収集機関をわが県に集めていく方向にさらに進んでいくべきだと思う。マスメディアは衆愚に効果があるが、賢者へはそうでない。欧米側でマスメディアをうのみにする傾向は非常に低く、単にG8先進国では日本だけが扇動に弱い衆愚社会なのである。日本の県であるからこの傾向に合わせるべきだと思うかもしれないが、独自性とはその種の横並びを拒否する事なのである。少なくとも、西洋でも東洋でもマスメディアの扇動に弱いというのは欠点なのであり、県民自身が批判的思考力、懐疑的な物の見方を身に着けている上に、発信より受信を選好する傾向の徳目を有しているという事が望ましい文化性向に繋がると自分には思える。この最後の発信力の抑制については諸意見あるだろうが、「沈黙は金、雄弁は銀」という諺がある。何らかの無知に基づく偏見によって、非科学的なり不道徳に誤解する県外人が侮辱的態度や差別をしてくるとしたら、彼らが損害するだけである。我々茨城県民側が科学的に正しい情報を受信し取捨選択でき、県内外で自分達の功利性(即ち県民及びその他の人類の最大幸福)に合致する様に道徳適応できることが合目的なのである。
 大井川氏は日立出身なこともあり、これを機に茨城県を元来のひたち県に戻す事を主張したい。漢字は常陸(ひたみちに由来したもの)と日立(義公によるもの)があり、風土記によれば浸しにも由来があるが、単にひらがなでいいのではないだろうか。それは全国で唯一のひらがな県名にもなるし、日立製作所によって国際的にも有名だからだ。


2017年8月24日

公共施設の屋上のテラス化について

 災害公営住宅や市立図書館、市民病院の屋上は、市民の憩いの公共空間として簡単な植栽をし、椅子とテーブルを設置しテラスにして誰でも気晴らしができるよう開放するべきだ。

国道を渡る架橋

 磯原町から図書館の前を通る遊歩道は、国道を跨ぐ箇所をも橋の下を潜らせるか、別個に歩道橋を設けるかして、天妃山、雨情記念館、磯原海水浴場、二つ島、大津漁港、六角堂、五浦美術館と回遊できる様にするべきである。国道を渡るのは現時点では危険だからだ。

回天神社の世界遺産登録

 水戸市と茨城県は回天神社を、偕楽園、弘道館と共に世界遺産登録するべきだ。回天神社は、欧米列強の植民地化の脅威の前で、近代化に際して自発的な政治革命行為により、日本はもとよりアジアで最大の犠牲を払ったのが貴族の義務を果たした水戸藩であると人類の歴史遺産として証明しているのだからだ。

2017年8月12日

TXにまつわる東京圏との切断論

TX、茨城空港延伸で期成同盟会設立へ 小美玉と周辺5市

この手の東京圏との接続は、茨城県にとって不利で有害である事を認識するべきだろう。ストロー効果を避け都内との交通を遮断する事、勿論、新幹線や幹線道路なども水戸との接続を最優先し、東京圏との交通はむしろますます不便にしなければ県内経済の発展はありえない。県南自治体は目先の利益に飲まれ結果的には、他の衰退地方、或いは東京圏の自治体と同じ失敗を犯しているのに自覚していないということだ。

 茨城に望ましい交通網は県内の中心都市とその衛星都市に対する利便性が最大で、接続性を高める自治体はこの中心都市、今日でいえば水戸市より規模が小さな都市でなければならない。国家にとってもこれは然りで、首都圏において実際には交通可能でありながら関東平野の大部分を占める上に都市計画の分散がうまくいき人口密度が低い状態の茨城が東京のスプロール、虫食いに毒される事は、首都圏内における政府機関の分散(これが集積の利益からいっても最も望ましい未来である)に対しても無意義だというべきだ。つまり茨城空港と幹線による接続性を高めるべきなのは水戸市、いわき市、宇都宮市、前橋市、そして日立市の方なのだ。勿論つくばと茨城空港の接続に需要があるのは明らかだが、これに伴う県内にできる幹線沿いの衰退は免れない。便宜的にこの不利を解消するには、TXではなく茨城空港と筑波の直通シャトルバスを運用する方が合理的だといえるだろう。退廃した東京都との縁を切る事、これが必要だ。



偕楽園を世界遺産へ

 千波湖と弘道館、好文亭を含む偕楽園を世界遺産に登録するべきだ。これらは私邸の一部を公に開放したものとして世界一の広さを持つ都市庭園であり、東洋文明における天下の先駆けとしての近代化への自主的な先駆意志、好文木としての学問の志、愛民思想に基づく戦時への備えなど梅にまつわる故事からも世界遺産になるのに全くふさわしい普遍性を持つ精神的価値を有している。「尊王攘夷」の思想、つまり『大日本史』に由来した(易姓革命のない)万代一系による独自性の自覚や、攘夷論にみられる欧米植民地主義への世界史的な意図に基づく抵抗の意思は、思想史における重要な独創性と根本的な転換点を示しており、近代化した日本の独立を保つ原因となった文化遺産であると、偕楽園(弘道館を含む水戸市街の、水戸徳川家による歴史遺産)は評価される。この考えは欧米列強による世界大戦や国連での人種差別を終焉させる最初の起点となっている事が、偕楽園(弘道館を含む)のもっている真の意義である。有色人種への差別や搾取、奴隷化、迫害に対する勇猛果敢な抵抗、そして水戸武士道の根本にある世界平和主義。この様な精神的意義を英語や中国語を含む世界の言語で、或いは実体験によって世界人類すべてに知らせる事が、ユネスコや日本政府が茨城県及び水戸市と共に偕楽園を世界遺産に登録する重大な地球的文化行政上の義務である。


2017年8月7日

東電と田中章雄への行政訴訟論

 東電による外部不経済である「電柱の景観に対する害」「電柱の災害時の危険に対する無策の害」「災害時の電柱による害」を、諸外国では電力会社による公害として無電中化を進めてきた事例から、東電の費用負担による市内の無電柱化を求める行政訴訟団として、北茨城市が原告となって東電に賠償させるべきである。更に、水沼ダムの底や北茨城沖での放射性物質の堆積、及び市内の海水浴場や市内小中学校等における放射線データとを証拠データとして、市内で起きた観光客の減少、観光収入の減に関しても、同様に市内原告団を形成し、東電に賠償させるべきである。
 前者の賠償費用は当然徴収されねばならず、即ち東電の費用負担で市内の無電柱化を果たすべきなのであって行政すなわち被害者である住民の費用負担によって行うことは明らかに不正なのである。更に市内で増大してきた観光客減に関しても責任は、風評及び市内の放射能増大による実害をもたらした、東京電力にあるのだ。これらを行政努力によって解決しようとするなら、先ずその費用負担は、税収からなる国民政府の側でなく、東電側にあるのだと認識しなければならない。
 これらに加え、ブランド総合研究所(〒105-0001東京都港区虎ノ門1-8-5)の田中章雄を被告人として、北茨城市が茨城県代表として魅力度調査による10年以上にわたる経済被害に対し、行政団体(即ち法人格としての県民)への名誉棄損として行政訴訟を起こし、賠償をとる必要がある。北茨城市をはじめ茨城県において魅力あるとみなせるあらゆる証拠を集めて、田中章雄が偏見による少数者のネット風説をさも、国民総意かの如くにマスコミ各社に売りつけ流し、300万県民へ与えた心理的・精神的・経済的・政治的名誉とブランド棄損に関してはっきりと、裁判において責任を取らせ、少なくとも数十億円以上の賠償を確保するべきだろう。