2011年7月22日

現代文明の流れ

それがどういう結果や理論に結ぶかわからないが、なにか我々の21世紀世代ですでに貨幣経済というしくみはおわっている感じがしてならない。金が回らないのは単に景気問題ではないのでは。
 いろいろ文献というか本をあさってきたけど、精神価値というものが貨幣経済とはかならずしも相性よくない、と哲学面ではいわれたりもしている。価値哲学や価値倫理学というラベルで調べてみればいい。

 物質へのみ貨幣経済があたる。この観点は、自分のしる最も古い思想で、新渡戸稲造の『武士道』に出る。次に和辻哲郎の『倫理学』に。それらの中で、経済は物質への用語で、精神面での価値は貨幣経済をこえており計測されないと説かれている。

貨幣経済の歴史は有史以来なので割と短い。それまでは貝や石や金銀やで代わりにしていた。信用貨幣のしくみは、政府同士の均衡によっており永続するとはかぎらない。

 つまり貨幣経済は永遠のものではないか、少なくとも近代のものでしかない。そこへ他の時代からひきつぐすべてを詰め入れるのは結局ムリらしい。それらの価値をもカネの眼だけで捉えようとするのは近代人の病:やまいではないか。
 おなじく、魂のこと、要は思想をともなう営みへは貨幣経済が入り込みづらいなんらかの条件がありそう。貨幣経済は物へのしくみとしては成功したが、心や魂や精神や自然といった物ではないなにごとかへはうまく適合しない。「賠償」とか「済まない」という言葉をよく観察すれば、カネはただの代償にしかならないのがわかる。

 物すら精神、あるいは究極では頭脳に仕えるもの。脳死の概念がでてきてからはなおさら。だからよき頭脳へ貨幣価値をあてるのは、おそらく諦めた方がいい。貨幣経済は頭脳のあいだの取引へはあまり有効なしくみではないので、よくショートする。やってみればわかるが、これらの文章を書き上げるのも楽な仕事ではない。しかし、多くの物に関わる仕事よりその対価は貨幣として明確ではない。
 例をあげれば、古代の文物、たとえば枕草子や方丈記が貨幣価値として流通していたわけでは全然ない。すべての文物へそういうわけ。だから頭脳の産物、精神性の高い営みは決して物質経済とおなじ取引レートでは量れない。

なにかしら文明の状態が、情報文明とか知識文明とかいわれたりもしてたがそういう段階にさしかかってるのが確か。団塊の金権趣味層がきえたらその面が極大化されてくると思う。だからあと20年から30年の間で劇的に世界は変わるはず。いま60代後半から70代の人が亡くなれば社会のしくみ自体も、そういう精神取引がメインへかわる。
 基礎収入の理論も荒唐無稽にみえるが、共産主義とはちがう目でみていくべきか。しかし、自分は「第一次産業へのみ基礎収入はあってしかるべきでその他は無関係」におもうが。
なくてもいいなりわいにカネをもたせたい意味がわからない。悪用される確率の方がずっと高い。ただでさえ都会には極悪な俗:ならわし があるのに。そういった社会へはもっとはるかに強い負担がおぶせられていいのがまちがいない。つまり、完全一律のベーシックインカム論は100%間違いだ。搾取さ分の生産さ(生産/搾取、つまり逆付加価値割合)の比率が高い産業の種類別に、いわば所得不均衡の調整としてある程度傾斜配分すべき、というのが基礎収入論の本質だとおもう。

 藤原正彦の『国家の品格』とか他のかれの著作にあるが、インドで数学してたバラモンのラマヌジャンはこういう精神取引のレベルというか知識層の典型ではないだろうか。要するに、昔のさむらいじゃないが、精神的な質の高いなりわいは階級的に保護されるのが人間というものらしい。だから貨幣経済へわざわざ仕組まなくともおそらく、ある程度以上にそういう仕事の者は特別視され、他の物質階級よりも高められる。代償として、かれらはいわゆる清貧に近づくかもしれないが。
 その藤原氏いわく日本の特権階級だった侍は、イギリスのジェントリー層なんかとちがってカネに淡泊なのがめずらしいという言い分らしいが、ジェントリーだっていわゆる郷士と変わらないと思う。旗本なんか贅沢だったわけで、新渡戸の理想化された武士は岩手あたりのいなか郷士の姿だったにすぎないはずだ。

要は特権階級的な精神奉仕者は、どの時代でも富そのものとは一線を画すがゆえに魂の貴族とみなされる。はっきりいうと、この構図がやぶられたのは歴史的には二三度の偶然の場合によるのではないか。古代ギリシアの自由市民、中世スコラ学者系のカトリック教皇、で近代のプロテスタントかユダヤ資本家。これが西洋版だが他の地史でも似た姿がいくらかある。日本でいえば古代大和王朝の土地豪族、中世の荘園領主か国司系の公家または武士、で近代の華族系資本家。つまり「封建層」とかいわれる連中が精神貴族、魂の仕事の地位をとってかえそうとすると正道が歪むか水準が落ちるということ。

 以上の文章をまとめれば、魂の貴族こそ真の貴種なのでその仕事はどの時代でも特権にあたいし、しかも貨幣価値や富の程度をこえているので特別あつかいされていいというわけ。そして擬態したりまねたりしてにせ貴族のふりをする封建層には気をつけろ、そいつらは本来の貴種ではないが、時代時代の搾取体制のしくみだけを利用して自らが私腹を肥やすために貴種をよそおうのだ、と。
上述の和辻『倫理学』にあるが、ある時代をつくりだした力はその創始者にこそ宿り、ほかのまねしていった勢力は二次的な層なので必ずしも最初の族ほど重要ではないと。つまり時代の創始者が本来の貴種であり貴族の資格があるわけだ。平氏が第一の武士として大化の改新でそれまでの公家の怠け癖へ別れを告げさせた如く。

で、現在はそういう時なら、やはり知識階級の中から新しい時代が動きはじめてきていると思う。一時はいわゆるベンチャービジネスみたいなものがそうかとおもわれてたが違うらしい。日本では、知識階級がその発端になり時代をかえていくはずだ。人々は、というか団塊はNEETという新時代の自由人の状況にある世代をさげすんでいるが、労働せずとも衣食住をみたされているのは古代ギリシア以来のことなので理解が及ばないにすぎず、また彼らの中から高等遊民をこえて真実の知識人が出現するだろう。そしてその人種が全体として時代を精神活動の面だけで率いていくはず。
 いわゆる経済成長という現象はおこらないだろう。イギリス病はイギリス病ではなく、単に物質文明のある程度の需給限度だったといえるだろう。それから先へは知識の進展と、いくらかの技術展開が続けざまにおこるだけだろう。コンピューターがオートマトン理論から生まれたのはその最も典型な例だが、そういう「小さな知識の革新から次第に大きな技術変革が続けざまに起こる」という過程が、たえず先進国のどこかでくりかえされるだけだろう。日本もその流れの中にあり、既存の日本の特徴らしく芸術に傾く様ではあるが、凄まじい手描きアニメが授業中のパラパラ漫画絵の展開から育ったみたいなのもそういう一つの例なのだろう。技術的にはアメリカとそんなに変わらないというかほぼ同時刻変化、一歩遅れくらいのペースで来てるみたいだが。

 そういうわけで、自分は水戸という都市にはどうかロンドンを模倣又は参照してくださいとおもう。東京はニューヨーク的な過密摩天楼都市になったが、理論面でいえばロンドン的な河川沿いの田園の中の中低層都市としてかなり都市分類学的同位種だし、近世水戸学時代から「理論面で他を導く責務」があるきがするから。ロンドンよりも水戸は気候が明るいので、そこは違う姿になるとは思うけども。というわけで水戸市はロンドンと姉妹都市になればいいのだが。

ノーベル賞と出身の関係

2011年までの日本のノーベル賞受賞者18人の出自
  人物名  国内最終学歴  出身生育地
鈴木章 ─── 北海道大 ─ 北海道生まれ北海道育ち
田中耕一 ── 東北大 ── 富山県生まれ富山県育ち
南部陽一郎 ─ 東京大 ── 東京都生まれ福井県育ち
小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県生まれ神奈川県・東京都育ち
小林誠 ─── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
益川敏英 ── 名古屋大 ─ 愛知県生まれ愛知県育ち
利根川進 ── 京都大 ── 愛知県生まれ富山県・東京都育ち
白川英樹 ── 筑波大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち
朝永振一郎 ─ 筑波大 ── 東京都生まれ京都府育ち
湯川秀樹 ── 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち
下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府生まれ長崎県育ち
福井謙一 ── 京都大 ── 奈良県生まれ大阪府育ち
江崎玲於奈 ─ 東京大 ── 大阪府生まれ京都府育ち
川端康成 ── 東京大 ── 大阪府生まれ大阪府育ち
野依良治 ── 京都大 ── 兵庫県生まれ兵庫府育ち
佐藤栄作 ── 東京大 ── 山口県生まれ山口県育ち
大江健三郎 ─ 東京大 ── 愛媛県生まれ愛媛県育ち
根岸英一 ── 東京大 ── 満州国生まれ神奈川県育ち

��参考) インターネット上の情報のコピー
1949年 湯川 秀樹(東京都出身)※両親は和歌山県出身
1965年 朝永 振一郎(東京都出身)※親は長崎県、埼玉県出身
1973年 江崎 玲於奈(大阪府出身)
1981年 福井 謙一(奈良県出身)
1987年 利根川 進(愛知県出身)※親は広島、鳥取、青森
2000年 白川 英樹(東京都出身)※両親は岐阜県出身
2001年 野依 良治(兵庫県出身)※親は長野県、福岡県出身
2002年 田中 耕一(富山県出身)
2002年 小柴 昌俊(愛知県出身)※両親は千葉県出身
2008年 南部陽一郎(東京都出身)※親は福井県、福島県出身
2008年 下村脩(京都府出身)  ※親は長崎県出身
2008年 益川敏英 (愛知県出身)
2008年 小林誠 (愛知県出身)
2010年 根岸英一(満洲出身) ※親は東京都出身
2010年 鈴木章 (北海道出身)※両親は山形県出身
2012年 山中伸弥(大阪府出身)

国内最終学歴
東京大7
京都大4
筑波大・名古屋大2
北大・東北大・長崎大1

生まれ
東京都・愛知県4
大阪府2
北海道・富山県・奈良県・京都府・兵庫県・愛媛県・山口県・満州国1

育ち
京都府3
東京都・神奈川県・富山県・愛知県・大阪府2
北海道・福井県・岐阜県・長崎県・兵庫県・愛媛県・山口県1


―――
これらをみると、ノーベル賞そのものが学会誌掲載された論文の評価又は出版された英語訳著作物の評価というかぎりで(つまり平和賞については平和主義政治の力のみ大きいが)、「人口比率」へほぼ忠実といえそう。人口の多い都市圏に生まれ育った著作者が多くその賞をえた。文化のかたよりは、特に東京圏と京都圏へ分割されてきているのが日本の現状らしい。
その賞の特性から言って、必ずしも著名ではない発見には付されない。或いは独創的な業績にも付されない傾向はある。しかし、英語訳へほぼ依存するとはいえ地球人類そのものが対象なので、科学と少なくとも特殊な文芸圏のかたよりをみるにはかなり使える指標ではないか。これらは特定の科学以外には付されないので飽くまでその文化圏での自然学習の習性程度の目安になるにすぎないが。
 震災後は無傷だった大阪が副首都を狙うなど活発な動きをしているが、自分は長い目でみるとおそらく東北圏の方が、比率として学問の権威は殖えると思う。人類全体をみても、はじめ温帯圏で発祥した学問は北国へ流れ着くとすばらしく発達しがちだ。寒冷な気候は外界での活動を抑え込む。その為もあってか、寒冷圏では著名な学者が多数出現する傾向がある。日本では京都へ長く古都が置かれていてその余波もあっていくらか京都大がその権限を発揮してきたらしいが、これからは、そうなることがおよそこれまでより一層少ない筈だ。なぜなら関の様なものもなく、文化も人もかなり自由に日本を移動しているので、より好ましい環境にたどりついたとき発火する。
 ただし、結果がはっきりするのは数百年から数千年の期間でみると、ということだが、それも学問の領分では一瞬だ。地中海やアラビアがリードしていた科学はその後のルネサンスでイタリアに追い越され、中世にはイギリスから鼻をあけられ、現在では多人種のまざったり移民で優遇のあるアメリカに集積していっている。日本は中国の停滞と共に極東で孤立していたが、その流れにまきこまれつつある。

2011年7月16日

災害用のラジオのこと

ひたちなかの災害ラジオ、は震災時にこう機能するという動画。
http://www.youtube.com/watch?v=WGrPGM7cTXc&feature=related

至急の原発対策

東海第二原発と常陽は、至急、防潮堤を十数メートル以上(最低でも福島の例にとって20mあたりか)へ拡張し、非常電源を敷地内の高台か高い建物(できれば免震棟)へ置き警備員もそこへ常駐させるべき。かつ、それらが失われても非常用電源の投入がすばやく進むべく複数個、別の箇所へそれを用意しヘリコプターでも敷地へもっていける準備をしておくべき。
ここまでは県政か東海村の内政で企業へ監視のうえ行わせる義務あり。

また今のところシェルターは間に合わないがいずれ考えるとして、まず経口ヨード剤を沢山用意し汚染が懸念される住民(乳幼児など若年者優先)へ避難前に服用させる。そして緊急避難の冊子をつくりどうどこの避難所へ行動すればよいかを啓蒙する。普段から条約として、事前に放射能汚染から安全な長期滞在もばあいによってはできる避難先の手配をしておくのも必要であり合理。
ここまでは県政か国政が義務づけられるだろう。

 地震が活発で南茨城沖付近で大地震の確率がいわれる様になった限りおよそ一刻をあらそう。

2011年7月11日

No title




この上の二つの資料をみくらべれば分るが、常磐一帯が高放射能汚染地帯に現状でなっているのは明らか。今後、ベラルーシ南部やウクライナ北部であった程度の「甲状腺癌患者」が多数出てくる、というのは予想できる。
北茨城私設研究所のページによれば3月14日(月)の午前0時から4月16日(土)の午前0時まで(33日間)で、596.790μSv、なので、北茨城市全域はチェルノブイリ事故の第一区分とされている40キュリー=540マイクロシーベルト、をこの地域も余裕で超える。要するに今の菅首相のもとの狂った政府は、金勘定しかあたまになく、我々を遠まわしにチェルノブイリ事故よりひどい条件下で虐殺か最低でも虐待しようとしていると思われる。

このベラルーシのこどもの映像からも分るが、1ミリシーベルト以下の汚染でも現実に、過去において健康異常と障害がふえたのだから。菅首相らは山口県出身と自称しているが、歴史をしっていれば彼らが戊辰戦争に於いてすさまじい残虐さを示したことから、この事実をしっていても公表させないようにしている確率が高い。あるいははじめからうまくやって東日本を殲滅しようとさせていたふしがある。その後の行動を追って行ってもこれは後世の歴史家がはっきりと実証してくれるはずだ。彼は震災直後からあまり適切とはいえない対応をしておきながら、その後は被災地対策よりも先にさまざまな詐欺やごまかしの策で時間稼ぎを4か月していたし、あげくには暴食したり孫正義氏と利権談合をしたりふざけた行政をやっていた。
また、3/12の最初の水素爆発時にはすでに炉心融解は起こっていたことから、その時点でスピーディの情報を隠したままにしておいた菅首相の判断はまちがいだった。隠しておいたままにしておいて彼らが東電の現場に行きかえりしてから、爆発が起きたので、きづかれなかったが3/12のその時点で「大量被曝者」らは東日本一円にいた、という事実が確証できる。我々も当然それに含まれる。
この質問先にある
��レベル7の放射性物質は、一度に大量に15日の雨で俺らに降り注いだんだ!!
��事実は空間線量の累計なんかじゃないんだよ!!!
��15日の、ピークだった放射性物質を雨で俺らは受けたんだよ
という原発北西・福島市あたりの被害は甚大になるだろう。過去から演繹すればそれは間違いなく、暫定基準値をだしてある食物の摂取で内部被曝が拡大しようとも、しなくともやはり。

 要するに、東電国有化が私は現実的と思うが菅首相の交代劇後はそうせざるをえないだろう。東電が大公害会社としても存続するのは考え難い。チッソさえも潰れたのだから、こんな大事故を起こして社会が存続させたらそれこそきちがい沙汰である。

 最低でも外部被曝について、100ミリシーベルト以下では死亡率が下がるといった統計もあったことから、今後我々を含めて生体実験台となった東日本人は、福島県民とおなじく追跡調査が重要な必要事項となる。内部被曝と外部被曝への分析も必要になるだろう。もし「閾値」がはっきりみられるなら、その生き残りにとってプラスになった条件が後生の参考データとしてとても貴重になるからだ。
 よって茨城県でも県民登記をもとに追跡健康調査をはじめるべきだ。単に賠償の為だけではない、それは科学そのものと言える。(今後、集団訴訟の準備をし、もし東京電力株式会社と当時の日本政府の責任者へ、避難指示についての情報の非対称性を悪用した精確な過去の事故事例との参照が行われていなかったがゆえに、我々を含む地域住民への健康被害が少しでもあれば、確実に賠償をえられなければならないだろう。どのごまかしも最後まで追求しきらねばならない。事故から4か月経過して積算被曝量がふえつづける2011年7月半ばの現時点でも、チェルノブイリ事故の第一区分以上の被曝地にいる我々は彼ら、東電にも政府の原子力安全保安院にも、また菅内閣にも避難勧告が出されていないのを知り記憶すべし。)
 北茨城だけではなく、ひたちなか辺という最大の放射線積算量のある地域含め、柏市や東京都、栃木県、場合によっては東北圏一帯、或いは神奈川と静岡まで含めおそらく南茨城県でも同様の健康被害がみられる可能性がとても高い。チェルノブイリの前例があるのだから政府が当面ごまかしても全く偽と言える。自称山口県(西日本の果て)出身の菅直人 首相の墓の底までの徹底責任追及はいうまでもない。どうせ死ぬと分れば誰だってそれを諦める事はないだろう。自分は以上の真実がもし隠蔽され続けるなら、菅直人を極刑にすべきだと思う。

 追記・高橋氏のツイッターでこのブログか分らないが、1キュリーは単純換算で1Ci(キュリー)=37GBq(ギガベクレル=十億ベクレル)という指摘あり。しかし、以下の計算をみれば毎平方メートルと毎平方キロメートルをみのがしておられると思われ、私の計算そのものには不備がないと思う。図もより精確に単位を付加しておいた。
チェルノブイリ事故後の避難区域設定の参考値。
Confiscated/Closed Zone(閉鎖地域):
��40Ci/? (148万Bq/㎡)
Permanent Control Zone(永久管理地域):
15~40Ci/? (55.5万~148万Bq/㎡)
Periodic Control Zone(一時管理地域):
5~15Ci/? (18.5万~55.5万Bq/㎡)
Unnamed Zone(名称無地域):
1~5Ci/? (3.7万~18.5万Bq/㎡)

 また、ベクレルとシーベルトの間の換算は、放射能の値と被曝量の値が物質間でさまざまにことなることから、できるだけ単純でめやすになる値を以下のサイトから借用した。このばあい放射性ヨウ素で計算しているらしい。
http://okwave.jp/qa/q6635125.html

 あるいはまた、このリンク先を参照にヨウ素131ばあいのベクレルとシーベルト換算をすると、
2000 Bq/kg × 2.2×10-8 Sv/Bq = 0.000044 Sv/kg

2000Bp/kg =0.044μSv/kg
2000000Bp=44μSv/kg
200万Bq/kg =44μSv/kg
となり、
��000万ベクレル=1.4シーベルト
          =1400マイクロシーベルト
とした前述の値とは10倍違う。だから、物質間の誤差をみて
2000万Bq/kg ≒1400~440μSv/kg と、みておけばより精確かもしれない。そうすると、この記事最初の図はマイクロシーベルト換算でより少ない値で言え、結局、我々の北茨城含む常磐圏のいまの汚染状況よりもチェルノブイリ事故の汚染状況は軽いと再びいうことができる。

おそらく、日本政府の方針は閾値ありモデル、によって200~100ミリシーベルト以下の臨床例がない、という点を重視しすぎており、チェルノブイリ事故のときにとられた方針よりも実験台としてのそれを優先している。閾値なしの考えに基づくと(尤もこれも臨床例が少ないので確証できないわけだが)、たとえ20ミリシーベルト以下の被曝でも確率的に危ない、といわざるをえないわけだ。内部であれ外部であれ被曝そのものが。私は、菅首相のほかのすべての行政権についての一連の判断が鈍く劣ったものであるのに鑑み、この記事にある御用学者を降りた小佐古敏荘・東京大教授(放射線安全学)の判断の方がまだ正しさをみてとれると思う。危険な可能性が一部でもあるかぎりそちらをとるのが親心というものではないか。
 要するに、実験台として扱いたい菅首相とその側近の判断、にくらべて我々は「危険が少しでもあるなら許可なく国民をその実験に晒すな」という情報非対称性の批判的上流に立っていると思われ、そのどちらが正しかったかは歴史が証明するだろう。一人でもその安全なはずの範囲で癌患者あるいは奇形が出れば、菅直人氏とその側近は監獄ですごす時間が長くなり又は最高刑に処されるまでの期間が短くなるはずだ。

――――
以下は計算と、参照URLや資料
1480,000bq(Bq/㎡)=40Ci(Ci/? )
148万ベクレル(Bq/㎡)=40キュリー(Ci/?)
37,000bq(Bq/㎡)=1Ci(Ci/?)
��万7千ベクレル(Bq/㎡)=1キュリー(Ci/?)

��000万ベクレル=1.4シーベルト
          =1400マイクロシーベルト

��000÷148≒13.51
∴40キュリー×13.51=540.4マイクロシーベルト
→15キュリー×13.51=202.65マイクロシーベルト
→5キュリー×13.51=67.55マイクロシーベルト
→1キュリー×13.51=13.51マイクロシーベルト


��チェルノブイリ事故時の避難エリア指示>
      (強制避難エリア):148万Bq/m2(MBq/km2)
第一区分(強制移住エリア):55万5千-148万Bq/m2(MBq/km2)
第二区分(補償つき任意移住エリア):18万5千-55万5千ベクレル/m2(MBq/km2)
第三区分(放射線管理エリア):3万7千 - 18万5千Bq/m2(MBq/km2)

※Ci(キュリー)=37000MBq(MBqは百万ベクレル)へ換算すると、
強制避難エリア 40Ci/km以上
第一区分(強制移住エリア):15Ci以上/km2
第二区分(補償つき任意移住エリア):5-15Ci/km2
第三区分(放射線管理エリア):1-5Ci/km2

http://onodekita.sakura.ne.jp/sblo_files/onodekita/image/2011052501.jpg
http://onodekita.sblo.jp/article/45459241.html
http://www.youtube.com/watch?v=zZOWyZukFCQ&feature=related
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1265946502
http://okwave.jp/qa/q6635125.html
http://c3plamo.slyip.com/blog/images/NISA110418.jpg
http://megalodon.jp/2011-0615-1151-33/4.bp.blogspot.com/-HVTUls4vGYc/Ta-bT_UxyOI/AAAAAAAAALk/E7Uu044fDoM/s1600/MapOverlay2011-04-18NNSA%252BGoogle.png
http://megalodon.jp/2011-0615-1150-59/1.bp.blogspot.com/-oguNZJ8Dzdw/TazIGVTvKRI/AAAAAAAAALI/hkvGVgIU5wg/s1600/NNSA-AMS-2011-04-18a.png

2011年6月21日

常磐の海と採掘制限法

領海圏は国有の公共財だから、という観点でいくとまだ確証できないが、メタンハイドレートや石油への減圧採掘での人工地震が、これから、或いはこれからも常磐沖で起こされかねない。

要は制海権を、海に面した県は主張して、独自の排他か使用制限法をもつべきではないか。

 東京電力が国有化されるのは時間の問題だが、その際でも彼ら、又は東北電力が確率からいえば高いけど(大手ウェブニュースの情報によると中国が勝手に宮城県沖の領海に入って調査していたらしいが)、常磐沖でやたらと減圧法やメタンハイドレートの採掘実験をしまくると人工地震が再び襲ってくる原因になりえそう。
これから後世の検証でわかるだろうが、今回の東日本大震災も、2011年3月11日から1年以内の間に常磐沖で行われた石油採掘が直接の原因であった可能性がいくらかある。

 資源が眠っているのも、それを利用したいのもわかっているが、採掘の仕方へ注意が十分にいるというのがどうやら確からしい。
人類の工学は、確率的に地震災害へ至らない方法をみつけだすだろうがまだその段階に技術やプレートテクトニクス周辺の理解は及んでいない。

この段階では「慎重を期する」のが最善。そこで大事故を起こせば損害の方が大きくなるのだし、制海権を通して電力会社が常磐沖で採掘行為を行う際は、はじめから「人工地震賠償責任条項」の様な縛りでその活動を補わせるべき。

2011年6月19日

市内の遊び場の表土撹拌調査

こどもが平気で、撹拌された様子もない砂場でねころがりまくって遊んでたが、市政はあそんでばっかで調査もしなかったのだろうか。それともすでに公表か撹拌というか表土を埋没かとりのぞき済みなんだろうか? もしあの内部被曝でこどもが甲状腺癌やら口頭癌になったら責任はもたない、ってつもりだろうか? 安い仕事だ。税金を払っても、一体、お頭は賠償賠償で金しか頭にないのではないか? それなら商売をはじめなさい。先憂後楽の防衛者の身分にふさわしくない。市井の私ですら心配をかけられるなんて、ありえない足の引張られ具合。もう公共問題について書かざるを得ないのは、科学したい側にとっては本気で面倒だ。ある種かもめになった方がマシである。
 市報も頻繁に、ウェブを使うべきだし、他にも日立市を手本にラジオやテレビ等広域網を活用すればいい。緊急時にも使えるラジオ、次に費用からいえばウェブ、で最後の広域に大衆伝達できるテレビだろうけど。アメリカでは大統領直々に政府からの監視がおよばない独立ネット技術を開発してるらしいが、日本政府は愚民が匿名で誹謗しすぎるのでその人権擁護用に監視法案を通すかどうかという遅れ具合。途轍もない国。まあどっちにせよ公共分野が先に腐敗しているらしい。「とりしまり」が正常に行われないのだから。さっさとワンダーグーやコンビニ、本屋の猥褻物もとりしまってほしいが全然されない。パチンコも同じ。狂った倭国は理性が第一に腐っている気がする。その意味ではむしろ哲学・宗教・道徳がいまの日本全体へは足りないのかもしれない。これも面倒な話だ。

 人口は多い程面倒も増え、多すぎると文明度が落ちる。少なすぎると弱いが、適度に少ない方が先鋭化し易い。これがクニの規模へは真理か。

2011年6月17日

No title

御県知事の賢明なること誠この上なし。
東海第2原発:防潮堤は「コ」の字形 原電が効果高める計画 知事は慎重姿勢 /茨城

この記事からみても、この御方は信頼しておけば間違いないと理解できる。正しい判断力というのはこの世で最も得難いものでもある。
 脱原発イデオロギーによる神経症は、それ自体おろかしい。廃炉まで時間もかかるので、防衛上も同じ。単に漸次逓減させるのが次善。
なお一部の記事によれば、少量の放射線はかえって健康によいという仮説もあるらしい。以下引用。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/page:4

http://megalodon.jp/2011-0617-1734-31/www.snsi.jp/bbs/page/1/page:4 (魚拓)より

��~~
■■■■ T.ラッキー教授の論文(2008)のまとめ ■■■■

��.胎児への影響

先天性欠陥、死産、白血病、癌、死亡率、男女割合、幼少期の成長・発達度、遺伝子異常、突然変異から血清タンパク中のDNAを50年にわたり調査した結果
��1)広島・長崎298,868名の子供達からは何の影響も見いだされなかった。
��2)1Sv以下で10-90mSvを浴びた胎児の方が死産・先天性異常・新生児死亡率が低かった。
��3)3Sv以上浴びた胎児に小頭症や知的障害が発生している。

��.癌(白血病)発生率
��1)長崎で310-690mSvの被曝をした人々(2,527名)に白血病での死者は0
��2)長崎で390mSvの被爆者(25,643名)に白血病での死者は0
��3)広島・長崎で260mSv以下の被爆者は白血病死亡率は平均値(1万人に18名)以下
��4)1950-78年でガン死亡率は1.2Sv以下の被爆者は年平均(2.3人/1000人)以下の年2.1人/1000であった。
��5)1950-78年で広島・長崎の250mSv以下の被爆者のガン死亡率は一般平均を1とすると0.9となる。
��6)長崎では3Sv以下の被爆者のガン死亡率は一般平均を上回ることはなかった。
��7)広島・長崎でのガン死亡率は60mSvを被曝したグループ23,000名は一般平均より低く、かつ平均寿命が長い。
��8)広島・長崎でのガン死亡率は20mSvを被曝したグループ7,400名ではさらに著しい低下があった。

��.寿命について
��1)100mSv~1Svの被爆者の子供50,689名の死亡率は一般平均より低い。
��2)同年齢のグループとの比較では癌を除く死亡率では1.8Sv以下の被爆者は65%であった。
��3)広島・長崎で2Sv未満の被爆者20,000人の平均寿命の短縮は認められなかった。
��4)1950-85年の死亡率は700mSv以下の被爆者で相対的な低下が認められた。最小値は140mSvの被爆者。
��5)45歳から75歳の年齢では、5mSvよりも10mSvの被爆者の方が死亡率が1~3割少ない。(より強い放射線の方が長寿であったという意味)

��.水爆とチェルノブイリ
1954年(昭和29年)のビキニ環礁で被曝した第五福竜丸の乗組員23名中、6.7Sv被曝した一人は206日後に死亡した。
しかし他の2~5.75Svの被爆者は(論文作成時1993年までの)40年間癌の発生はない。
第五福竜丸はチェルノブイリの場合と酷似している。つまり2Sv未満の作業員209名は誰も死亡していない。

��.考察
引用した論文によると、急性の低線量放射線は日本の原爆生存者へ生涯にわたり健康に寄与したことを示唆している。広島と長崎の人々が浴びた放射線は、いわば「放射線ワクチン」と言える。

一時的に浴びるにせよ、慢性的に受けるにせよ、動物を使った1991年の実験によれば、たとえば以下のような長期的効果があることが判明した。

 1)大量の電離放射線への抵抗力
 2)傷の治癒が早いこと
 3)ミクロではDNAや細胞の修復力の改善
 4)免疫力の強化
 5)罹病率の低下(特に感染症からの)
 6)健全な子孫
 7)死亡率の低下
 8)平均寿命の伸び
など

原爆による放射線の影響を総括すると、結果的には「電離放射線は生命体には不可欠なもので、我々はその不可欠な物質が不足しているかもしれないという仮説」を裏付けるものである。原爆生存者に関する諸研究により、放射線には有益と有害の境界があることが明らかになった。この結論によりフランスの権威ある委員会も全ての放射線は有害であるという考えは間違っているというという確証を発表した。

以上

※全訳文の入手先は 茂木弘道氏 http://hassin.org/まで
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2011年6月12日

市政の素朴な道徳論

自分は、松本氏が掲げた公約は一つのまっとうな、よかれあしかれ素朴な、当たり前の倫理感覚ではなかったかと思う。つまり病院のたてものも、使えるものは大切に使いなさい、無闇に新しいものを追い求めるより古くてもいいから物を大切に使いなさい、という勿体ない道徳。

 そして、今回の核事故をみると交付金やら立地金やら目先の損得に騙されて悪事に呑まれるともうとりかえしがきかない、というのも真実。
 自分は、一市民としていうが何も豪勢な施設や豪華な暮らしを皆に求めたいとは思わない。だから、高度成長期の狂った泡感覚をひきずっている団塊はまさに老害に見えるし、実際にそうだろう。
彼らは自民党の派閥領袖へ最も典型にみられる如く、談合によりすさまじい大金を中央から貢がれ、あるいは大企業や天下り先を誘致し、融資された税金を地元の土建票田ねらいに大量投下する、といういわば‘税収麻薬漬け’を何とも感じずかえって正しいと感じている。

民衆の無知と検察の甘さにつけこみ、こういった談合による大量の金使いと連続当選の構図を無際限にくりかえす。それが団塊の特徴で、現市長豊田氏の殆どの選挙手法と行政手法のそのままを示している。

 しかし、やはり悪は悪だ。そもそも土建票ねらいに中央から大量下賜金をもらいにいく、といった意図そのものが不正で、一つの名前なき犯罪ではないかとさえ思う。なぜならこの過程の暗箱さにより一般の民衆はすべてを知る事はできないのだし、もし知っていたとしても同じ道を辿る者は卑劣あるいはさもしさのそしりを免れるものではない。歴史はその地域にもあるわけで、実際、大企業依存病はその地史へ民俗の病理として示される様だ。
どうか豊田氏よ、税収麻薬への依存から自力で抜け出されんことを。私は有権者としてできるかぎりの更正へ力を貸した。しかし、民衆はそれよりもずっと低い級の公徳観念しかないのだ。便利になればいい、今までと変わるのは不安だ、昔から根回しされている、その位のおろかしい意図で投票行為をする民衆も、無論 罪を免れるものではない。

自分は昨日、NHKの特集でこの市の大津の漁師がとりあげられるのをみた。どれくらい彼らが自覚していたか又買い被っていたかはわからないが、コウナゴ漁でこの時期に800万円の収入があったと報道された。そして借金してまで船を買ったと。
その態度と構図は、まさに豊田氏の生き方そのものではないかと自分には見えた。焼きそばを食べつつ刺身も食いたいという。しかし、焼きそばが食べられればそれで十分ではないか。それすら食べられない者もいる。勿論、精神論は矛盾に満ちている。だが今日の御飯を食べられるだけで自然と人間の英知へ感謝しようではないか。

福島第一第二原発は、前佐藤福島県知事が国政へ物申していた如く、上述の団塊風自民党の談合でいわば地方へ地方へとおしつけられていった東京資本の悪業だった。交付金をやる、と脅しつけられ又知能の弱い議会の党閥にのまれ、それに少しでも手をつけた途端すべては暗転したのだ。プルサーマル計画への現佐藤知事による反対も、民衆の無知へつけこんだ議員らの利権趣意により潰された。結果、企業体質の大変悪質な東京電力株式会社の備えの怠り、及びそれへのっかっていく自民党や民主党の予防軽視で世界最悪の大公害がひきおこされた。*1
 我々が同じ構図に、間接や直接にまきこまれているのを認めねばならない。だから、市井の有権者はできうるかぎり松本氏の公約も少なくとも間違いとはいいきれなかったと考えねばならない。
その素朴な勿体ない道徳は、自体が真理なのが間違いないだろう。豊田氏の様、山や谷を切り拓き森を壊し川を潰しつつ汚し、100年先のことも考えない大施設を次々立地させようと企む者は必ずしっぺ返しをうける。だから「緊急避難先」としての高台と兼ねるという豊田氏の新病院構想は間違いばかりとはいわないが少なくともまだ使えるのに壊して建てるといった勿体ない悪徳も含まれている。

豊田氏は地元へのコネクションによって連続的に当選してきた典型な談合首長だ。その姿勢の横暴は、市役所を一個の市民として訪れた者にはすぐに分かる。その直属の役人らは腐敗しており、居丈高で、市民奉仕に自覚なく、高慢で自らの給与の安定が万事へ先立ち、生活の安定と服従による保身を目当てにその首長から飼われている。
市内百人もいる様な民生員なる立場の公共奉仕への志願者はただ働きしているが、彼らよりはるかに大量の金、具体的には年収3000万円以上を税収からうけとっている首長とそれにたぐいした副市長、あるいは殆ど期待ほど活発な議論をかわさず自ら全員評議会などの首長独裁の悪風を変える能力もなく高級をはむ市議会議員が、一体どうして罪の意識をおぼえないか、税収をはむ分限で十二分なしごとをしないか、私は理解に苦しむ。

その壮大な腐敗と権力の堕落とは、自分の眼には戦後、団塊がつくりあげた邪悪な社会の末期症状に映る。私は鴎にもそれが変えられるとは思わない。一つのあきらかな対策としていいきれるのは、当然として、まつりごとの分野で生き残る者は最も道徳の高く正義感の強い者達だろう。
一体どうしてこの後期資本経済の滞留しきった団塊老害社会がこれ以上、彼らへ恵むというのか。そうなったとしたら若者は絶滅するか、結果、服従する黄犬となった不良品しかのこらないだろう。

民衆へかたよらない精確な報道で正しい啓蒙を行うべき大量報道、いわゆる茨城新聞でもいわば利権の温存へ汚い手をつかっていないとは思わない。私、単に市井の日誌者の目にすらきわめて不正や不正義、おろかしさに満ちてすくなからぬ悪徳者である豊田氏へ好意ある特定報道を行うなどは、市民のみならず人類の尊厳にとって害毒だ。迷惑をとおりこして我々は詐欺されているとすらいえるかもしれぬ。
ばら新某記事によれば豊田氏の震災当日のアリバイはあれで一応供述とするにせよ、震災一週間は直接なにも市民へしなかったことをこそとりあげねばならないし、避難所を見舞いもせず、今度は選挙期間中に別の立候補をなにものかが殴るといった(これは確証ではないが、事件として広く報道されなかったので犯人がどれほど現市長周辺と関連するかは容疑にすぎないが)郷原ヤクザぶりなのだ。その肩を持つとは以ての他。
県内最悪の被曝地としてさっさと東海第二の停止を求めて運動を起こす。これが普通の水準の首長だろう。漁協の損害賠償につきあうなど、大津と関本地区の談合に時間を費やすなどろくでもない地元利権への種蒔きにしかみえない。事実その通りで、予測だが、公表されれば地区別投票率は大津関本地区が彼への支持が最大、他の地区は遠ざかるほど減ると思われる。

―――
��1 このweblogでも以前少し指摘したが陽子加速器とは凄まじく危険な設備で、ブラックホールができれば人類はそこを中心に絶滅し地球は消滅する可能性もある。だから理論の確証がとれない実験へは最大限に慎重たるべし、というあたりまえの倫理観なく安易に事業者をまねいている東海村は厳しく糾弾されねばならない。
 また、地方原発政策の黒幕へは敢えて言及しない。私は一人の日本国民として日本の官僚はおそらく世界で最も優秀な人種に入ると思う。だから彼ら「真面目に試験を受けて真面目に働いてきた」組織が自壊の方法論をとってしまったのは、歴史の必然ではあるが、免責したい心情だ。優秀な馬から落馬して責められる馬の方が可哀相ではないだろうか。それを使う者、使い方を間違えてきた者こそ本当には責められるべきだと考える。

2011年6月7日

震災後の市行政へ

 防災無線というのがどれだけ使えるか、又どういうしくみで配られるか分からないがそれがあった方がないよりいいのは確か。
自分の経験上も、被災時で各地区から直接市役所まで行かないと孤立した各地域から連絡がとれなくなる。実質はその行路も塞がれていたりして容易ではない。

もう今の石頭市長では反省する力も期待はできそうにないが、1億超を光ケーブルの市中へ敷設などしている事業費用はあのかしらでは取りやめることもないだろう。
もしそれだけの費用をかけるなら日立市の如く各家庭へさえ災害用の防災無線として特注の品を配れるろうに。この時点で我々市民へ大変な心労をかける悪徳市長なのだが自ら立候補し当選さえするのだから末恐ろしい地獄の位に就いている。
 世界で最も恐ろしいのは身分違いの地位に就くことだ。何もできないのにありとあらゆる責任だけが背負わされる。自殺する職業人はこの身の程しらずだったという訳だろう。それでも降りる階段が現れる機会が幾度かあるものだ。
今回はその絶好の機会だったのだが、命しらずにも登ってきた。そうなら地獄の光景に遭うがいい。その苦難と恐怖は民間人の比ではあるまい。

 少なくとも、新病院建設および経営維持等へどこから借金する(それとも蓄積があるのか? 年次税収内で賄う気か、これを議員は徹底追求し市民へ全面開示せよ)気か分からないが、合法の域とすればその失敗はゆるされまい。
残念ながらこの市内には三権分立の機能に於ける「裁判所」の機関がいまだない。だからこれもできるだけはやく建設されねばならない。『北茨城市営裁判所』が要る。
この機関へ本来の不正の監視はまかされるべきだ。実質は内部告発ならびに外部指摘を待つほかないが、汚職をふせぐにはこれしか手段がもっぱらないのでやり過ぎはない。

 さて緊急の課題。
大津地区はあの行きづらい新病院とやらへ避難所をどうやら位置からいって彼ら専用に設置しようとしているからそれはまあよしとしよう。
 最も危険が高いのは中郷下桜井と駅の東側にある住居。この住民が逃げ込める高台代わりの4?5階はある高層ビルをたてるしかない。
非常時をかんがえると消防署はこれへ付属か一体化させる手もある。
なおかつ、可能なかぎり放射能遮蔽の効果ある施設をかねて数十メートル単位で地下掘り抜き型の巨大空間、を設ける必要性もある。これがないと原発被災や水素爆撃他にはすこしも耐えられない。生物化学兵器に備えて最低でもHEPA以上のフィルターで空気ごと遮断されねばならない。
そして十分に厚い鉛扉で閉じられコンクリート遮蔽された地下の空濠へは食糧、水、簡易衣服、並びに非常用間仕切り、電池や蓄電池設備、可能ならば外気と配管でつながった発電設備が設けられねばならない。

 市行政は緊急時に電気停止で連絡手段がなくなるのを考慮して各地域の代表かその組織系統、または各家庭か個人と、そして避難所、近隣自治体や政府と直接無線電波で通信できる道具を備えおき、消防と救急、警察、市内の医者や専門家、学校教員、全民生員と緊急連絡がいつでもとれる状態におかねばならない。
考えられる技術として直通無線電波装置、衛生経由の通信網の二つが想定できる。この二つはより合理な方が選択されれば、もう一つを備えとして置く方がよい。もし置かねばこの場や市議で市長へくりかえし叱責のうえ制裁する必然性がある。
仮にこのどちらもの選択をしてもしなくとも、高萩市が運営しだしたFMラジオを市内でも受信できるとありとあらゆる手段で啓蒙し、周知率を市民の9割以上にしておく必要がある。
また可能ならば北茨城市でも独自にFMなりAMなりの局をもつ方がよい。これから電波域の解放がすすめばテレビ電波の利用も想定できる。実際に村や町単位で議会や演説のためにこれを運用している地域は国内へも複数ある。

 そして避難所は、現時点の最高の科学的想像による最悪時の災害地図ごと目印して小中高学校時代から啓発し避難訓練をしておくのは前提だが、地震以外の被災や戦乱へもおなじく最大の最寄り場所となる様これを保全や建設管理せねばならない。
現時点ではどれも使い物にならないほどで、完全に現市長の手抜きだった。それは先憂後楽の人徳ならびに判断と反省する力の欠陥である。この種の悪人ですら市長の座にいすわろうというのだから次々おそいかかる災厄の前ではいい度胸だ。それとも単に愚鈍なのかもしれぬが!
 さても新病院なぞへどれだけ金を借りるのか前借りか自身の給与全額返上は前提でどこから恐喝未遂でこれらの対策費をひねりだす気かしらんが、映画娯楽費用すらどこかから捻出できると言う。汚職なしにしなければならないし、当然恐喝であれそれは犯罪だ! 公正公平に正義と法律のもとでこれらの費用を豊田稔市長はどこかからもってくるべきだ。

当然だが極端な商業地域化などゆるされない。都市化されて住み心地がわるくなっては田園市民としてはたまらないのだから山の掘削にも森の破壊にも海岸線や砂浜のうめたてにも、遊び場である雑草のしげった空き地の売却へすら反対させてもらう。

これらのうえに、各家庭一人一人へ自宅用シェルター建設費用を可能ならば公益に類する義務づけから捻出できねばならない。大抵数百万円以上一千万円以内くらいの助成となろう。
どこからもってくるきだろうか? 豊田稔氏はその演説で「私以外に一体だれが復興できるのか」と言ったということ。そこまで自信があるならば、これらの「復興用安全対策」を必ず実現できなければならない。
さもなくば、5人が糞半鐘の使い物にならなさで犠牲にもなりはしなかったろうし、震災や原発情報の遅れで心労ならびに被曝はこれほどせずに済んだろうから! まだ我々はその謝罪の声すら一度も聴いていない様に思うが、当然豊田稔市長ご当人が全責任を負われるのであろうことは想像に難くない。

さらには、今回の被災で理解したこととして市役所付近への複数のルートを崖崩れや数十メートル高さの津波浸水から守らねばならない。ガソリンの備蓄も、緊急発電施設もいる。
当然避難所も改修がいる。あれは避難所などではなくただの剣道場で柔道場だった。ありえない手抜きと無能加減で心底憤る。安全を守る防衛者たる義務をほぼ何もはたさずに使えないやくざを何十人ものさばらせようとも、市民の命やその安寧を守れねばすべては台なしだ! 市役所の役人の市民奉仕への意識も根本から一切革命せねばならず、無能な職員と市民奉仕を怠るあれら緊急対策本部にたわむれていたやくざ連中は即刻首にするをえる。
我々の血税でくらう身分で市民様じきじきの要求を無視だと? たとえ地の底までおいつめても奴らが地上に顔向けすることは絶対あってはならぬ。あるならば人道に背くことその下なき。

さて、これらの初段に加え、避難所へはブラケットやエアコンなど空調設備、非常食糧や電池系統ならびに放射能や生物化学兵器による空気汚染から遮断できる十分な地下防空濠の設備が必需。それらの自家発電による機能も調整済みでなければならない。
 又、東海原発の動向にもよるが、花園をこえた西方向への脱出経路と、海の上を通った脱出経路へも十分な設備との事前確保ならびに予行演習の義務がいる。後者は、市有のフェリーか潜水艇、客船級の収容力ある複数の脱出ボート、それらへそなえつけた海上脱出の装備と練習用の説明員と書面の公布と周知、またそれらの維持費が是非必要だ。
西方向への脱出が路面で複数確保できる時期は遅くとも一年以内といえるだろう。原発事故がそれまでに東海村でも起こらない保障などない。なおかつ、ヘリコプターの完備と複数個のヘリポート、しかもそれは都市施設則にしたがって1/√平均化を施し市内のあちこちへ某目立つマークで立地されねばならない。
当然給水車もその空中経路もこのヘリコプターからの飛び立ちにタンク付随で可能でなければ。ガイガーカウンターの購入数はつねに市民の過半数以上であるべきだ。さらには生物化学兵器系の汚染にそなえガスマスクなど機密性の最大な空気遮断措置は市民全体数以上の多さである必需がある。こっちは遊びでやっているのではない。
しりあいや利益を横流した有権者の囲い込みで出来レースをした結果これらの全災害補償ができねばそもそも被災後に立候補などすべきでは到底寸毫もあるまい。犠牲者の為にも、徳義の為にも死亡者と一週間放っておかれた被災者の心痛へ酬いるの義理の為にもだ。これも「社会濃縮」とよべる一連の業が市長の一身に祟るということの真実の意味内容であろう。
当然、言うまでもないが高架による地域間の縦横断はなしえる状況が望ましいので高速レベルの避難路が全面から最短距離で建設されねばならない。各ハブの中央部として市役所付近がこの集積点として計画されるをえる。場合によれば国営高速道路へ接続せねばならない。
 そしてこれが最も先になるだろうが、海辺の全住民宅へ避難指示を出す無線警報機と、直接に各戸を回る勧告経路、ならびに専用ロボットがたくわえらねばならない。蝶々型の遠隔ロボットは放射能や生物化学兵器で汚染された地区の撮影観察用に無数に開発購買され民生員各位以上へじかに配られその技術透明化がはかられていい。
時間的にもっとも先に支出するをえるのは、すでに土砂災害などの危険性が高い緊急避難区域への各戸訪問による避難対策の通告とその具体的な崖崩れの土留め工事並びに液状化の人工地盤やコンクリート注射や負圧化と砂質土の改良や杭うちによる未然防止の手。これは直ぐさまするしかない。
 また、避難所で使う簡易トイレや実際に機能する現役のトイレの非常用の電源と水路の、それらの避難所自家発電か蓄電池による即時復旧の確保、そして衛生面での改善のため風呂シャワー室をどこの避難所へも完備し、可能ならば避難所にも簡易個室をもうけて仮眠できる状態以上にはしおくべき。食事室も同様。
当たり前だが医療室へ(石岡市民を反例に)防災法の条例での改良で最悪の緊急時には医師の処方前にも救急救命士には特定の救命活動が実行できる状態と備品を完備せねばならない。それ以前に、「とやまのくすり」を参考かじか導入で市民全員が薬餌上は問題ない常態をつくる必要がある。
そして磯原駅は瓦が単なるじかおきで地震で容易に崩落する状況ゆえそれらを屋根にいかなる大震災でもくずれおちぬ様、きつく縛りうちつける技術を実行にうつすべき。
給水所へはダムのみならず蓄えおいてたえず更新した買い置きの安全な倉庫の水源を確保しておき、それらの配給も即座でなければならない。また給水ふくめ専用の訓練を職員にほどこし、市民奉仕に背いた職員役人は即座に首か監獄に入れて反省させる又は罰金刑にするしかない。
市民の提案を上告ならびに自らの判断で実践できぬ税食いやくざも同罪。市民より自らの命や我をはった役人は全員監獄。校内暴力や虐め隠蔽や未発見教員も同様か可能なら最高刑罰で処す。これらは全額市長が全責を負って私で費用負担せねば道理が通らぬ。
まだ改修すればつかえる病院をつぶして豪勢に新築しても心配ないらしいから金は。それが嘘なら、市民の善意と信託をあざむくまこと大変な罪業であり最大限の恥辱を加えられねばなるまい。尤も、嘘なら人間としてさっさと謝れば済む話だ。それでも風説の流布であり虚偽の布告で過当宣伝行為で道徳は無論、既存法に抵触しないとは限らぬが!
また、炉心融解が3.12にはすでに起きていたのをみれば被曝量はこれまで発表されたより甚大なので東京電力株式会社と現政府とへ、市民全員の健康被害の追跡調査とともにその全額ならびに賠償金を裁判であれなんであれもらわねばすこしも道理が立たぬ。

2011年6月6日

老衰しゆく国からの展望

老大国となった少しまえのイギリス人のきもちが大変によくわかる時勢となった。日本も、こんな地方でさえ進歩主義は保守保安より力をもてない。こんなに小さくてすら判断を誤り致命的に衰亡へ向かっているわけだ。
これから一世紀はこういう雰囲気が、国内ではつづくとみられる。理由は、国内で権力も金ももっているのが多数派を占める老人だからだ。この世代は団塊とよばれていい。

 結局現代日本の抱える問題の9割は、この団塊支配による老衰化にあるといえそうだ。
 単に老いただけで判断が鈍るのは言うまでもないが、日本人が歴史上残念だったのは、イギリスともちがってこの衰退が急速急激に、しかも悪いかたちでくると予想できること。ベビーブームをつくりだした某政治家のわざわいとも捉ええる。
この団塊は、網記内でもくりかえし指摘し分析してきたがあまり道徳に長けた世代ではない。むしろ大いに他世代より劣る。かつ単に、貪欲である。金を儲けるしか目当てはない。いわゆるeconomic animalとヤユられてきている集団。

その集団に加え、子世代がまた団塊jr.として目の上のたんこぶ。この世代もまるきり似た性質をしていて、文化教養には感心が薄く、利己主義でしかも品性が決して高くない。貪欲で労働者階級的偏見をもち弱者をそしり品行も、能力もすぐれない。勿論一般論だが。

 日本社会を考えるひと、その改良対策をねるひとは上記の意味を精確にとるべき。この二段になっている膨張した不良債権式世代をなんとかしなければ、いわゆる進歩の國、模範に足る成長頭というものへは永遠に至れない。

生物学でいうと、偶然の要因でこの二段のたんこぶが強制除去された時だけ、ほかの世代がその生態すきまへ進出でき、本来の社会秩序や道徳水準を期待できるだろう。今回の選挙もまったくこの構図のとおりで、多数派は「団塊」なので悪徳であれ自己正当化させてしまうわけ。
 我々は科学を武器にするしかないと思われ、この様に緻密な対策をねって効率よくこの二段のたんこぶの横暴を押さえ込むしかない。知識人の卵らよ目覚めなさい。社会淘汰とはよくいったもの、結局自然の偶然によらぬならその種の人為な手段でしかありうべき秩序を回復することはできない。

少なくとも、以上が理解できる相には前提だが、いわゆる「資本経済」のしくみはまったく日本国やその地域に益するところはもうあまり高くないだろう。当然その種の横暴を独占や寡占率により強化するばかり、ありとあらゆる社会内流動性は低まる。既に経済量で追い抜いてきたイギリス後期近代社会の史実は、疑い様もなくこの前例だった。
風紀すら低落し、何をしても不正や社会矛盾を変えられないといった絶望感や悲壮感の中で多くの若者はひどい反社会性へ溺れる。この事態はもうはじまっているとみていい。アングロサクソンが薬物汚染にまみれた如く、東京辺ですすんでいる性的退廃は倭独特の無信教層にはびこったその堕落の端緒だろう。
国政のみならず、最も若者の比率が高いはず都の衰えの顕著ないわば老害構造に及ぶ趨勢は我々へ、他山の石たる他国が経過している歴史の教訓からいかに自身が適切な社会体制への適応進化をはたせるか、その上に於いてしかおよそいきのこれないとしらせている。

2011年6月2日

北茨城市と教養産業

放射性ストロンチウムや同じたちのプルトニウムなどをかえりみれば、ほとんど半永久にこれらは生物濃縮が進み、実質はもうこの付近で漁業を続けることは現実的でない。

 一つの小さなモデルケースだが、いまの磯原地区を模範にして少なくとも北茨城市域では商工業ナイシは教育や医療業態の地区へ方針転換する時期にある。常磐炭鉱時代からわりとなめらかにこの経過が進んだのがいまの磯原だった。

おそらくだが、水俣市と同じく福島県周辺では風評もあり又事実上、半減期のほぼ永久にこないプルトニウム他の放射性物質が生物濃縮されて海洋生物、特に遠洋へ移動しない深海生物にはたまっていくので、この領域で取った魚類をたべる習慣そのものが廃れざるをえないと考えられる。
 我々がしらない、特に放射線にくわしい物理科や化学科の権威でもまだしらない未知の放射能がいままでしられていない放射線物質としてこれから検出されるかもしれず、多くの安全策をとりたい人間は、浜通り付近でとれた農漁業品を直接たべたくはない、のが人情である。
これは、現在でも水俣市や四日市市という公害の実在したブランドを消費者があえてえり好みしないのとおなじ理の当然。すなわち、冷静にみれば北常磐圏はもう第一次産業でやっていくことはほぼ不可能だろう。
他の地域、北海道から沖縄まで又海外にもこの農漁業品目の競争相手がほとんど無数にいるうえ、この領域でのブランドイメージはきわめて悪いし実際に商品に傷があるのは確実というのはなりわいとして終わっている。

農家は勤労の習慣のためか意外と転身がはやいからどうかわからないが、特に漁協の解散やその成員の後の所存というのが難しい。その地区、つまりこの市内では平潟と大津地区へはなんらかの人工的な産業転換の政策が有効か。
 磯原地区でいえば、工場用地の確保というのが一つの念頭にあったわけだ。その被雇用者を含む自営業者らの市街地がひとりでにいまの駅のあたりへ広まった。大体15年前の時点で磯原とはほとんどなにもない野原だったのだから発展したといえばしたもの。
商店街の衰退と郊外型店舗の流入という日本の地方都市にありがちな風景は中郷にかけてはひろがっているが、磯原地区へ残ったのはおもに自営業者であり周辺の工場やそれに類する企業、或いは教育施設に雇用された近隣住居地区だったといえる。

そして大津平潟区では、もし人工的な手を加えずともこれに類した方法へ進むしかないと思われる。いままでやっていた鮟鱇料理などは、生物濃縮を心配すれば眉をひそめる様な恐ろしいものに変わってしまった。
 一つ、自分が危惧するのは小名浜の影響だ。あそこには遠洋漁業の反作用なのか、絶滅寸前ではあるがろくでなし接客業が存在したという聞こえがある。(実際、雨情の全集の教訓などの資料によると今現在の童謡館がある辺りの温泉街つまり湯本も必ずしも立派な風紀の地区ではなかったらしい。子供がすぐれないおとなのまねごとで遊んでいたとある。おそらく雨情自身がそれをみて心を痛めた経験があるのだろう)。
それらの産業構図をまかりまちがって移植などは最もこの市の品位なり文明文化の程度なりをひきさげる最悪の手だ。というかそれ以前に実質違法(法律とは最低限度基準で当然それ以上に社会はなければならない)なのに、福島県警がどういう道理でか見逃しにしてきたにすぎない。
 ところでそれと異なりすでに実現しているが、天心焼(これもこれから放射能の土壌への影響を調べる必要がある)とか磯原のギャラリーミュゼあるいはガラス工房シリカや天心記念美術館等、芸術品や工芸品への製造販売業という立派な仕事の転回という方がはるかにいい。
要するに、第三次産業そのものを強調しすぎると金回りとは別に致命傷を負うので勧められないばかりか市政や県政、国政の側が積極的に禁止しなければならない。
 この点でも、どの程度の職業上の確立がみられたにせよ一詩人を輩出している磯原地区の方が模範に足るといえる。現時点に於いて日本国民の多数は団塊とそのjr.という‘金銭を好む’生活態度の持ち主(エコノミックアニマルとからかわれるわけ)だから仕事になる確率は低いが、精神を好む国民がなんらかの偶然や機会のために国内の資本をもつ者の中に出現すれば、単に詩集の印税なり売上ですらも生活することができる日がくるだろう。
 この程度への上昇には、教育というものが前提になければならない。だから最も妥当でまた功利なのは、教育産業というものをその高等教育に付随した医療の発達と共におもに奨励することになるだろう。

例えば出版等メディアや講演会、コンサート等を含めた総体でみれば、教育産業とは必ずしも学校の立地とかその中での活動だけではなく、教養を高めるのを目的とした仕事の全般といえる。博物館とか図書館、メディアテーク、美術展や画廊、ライヴハウスやピアノ教室、画房の貸し出しとか画材販売、楽器や書籍や手芸品の店舗経営等も大学のみならずこういう教養産業に入る。

2011年6月1日

法をこえた判断

けさのばら新によれば。
石岡市の消防署が業務外で救命措置をした職員をなぜか処罰の意で停職処分したとか。気が狂っているとしか思えない。一体、救命と法律とどっちが大事なのかこの陸でなし署長は。
この世には超法規的措置というものがなければならない。なぜなら法律の予見は万能ではないのだから不足の事態はつねに起こってしまうものなので。単に事前予想によるのみでなく事後的にも法の徳律は漸進していく。
特に防災法は人命を守る最低限度の規律を定める為にある筈で、防災法の為に人命がある本末転倒な思考停止機械社会はタブン石岡市だけ。

 何にせよこの北ばら市も某石頭長が気がおかしいか何なのか分からないが、普段から運動場という憩いの空間から子供や青少年含むみんなを放課後しめあげる*1。つまりこの関東極北も独裁者風の異常人格が当選してしまうへんてこな世界なのであまりいえた義理ではないとは考えられなくもない。
が、
県南の世界はああいうあまり賢くもない連中がどうも経験上多い。人口比の問題だけではない気がする。何度も書いてるが私が以前、JRひたち野うしく駅で途中下車しようとしたら駅員が「規則なんですよね」とか面前と言ってきて下知って返金しなかった。愛想がないというだけの話ではない。
あれも頭がおかしいというか、話が通じず変なゆがんだ自己正当化論理だけが彼らを動かしていた。
そんなぶらり旅殺しの三流切符マシーン都合な規則があるなら変えるか、すぐに変えられないなら礼儀を払う方がいい。少しも乗客を客だと思っていなかった様に見えた。JRは寡占企業化しており、特に地方では態度がしばしおかしいというか腐敗に近い時がたまーにある。時刻表置かないとか。
これも利用者への奉仕の為に駅員がいるのであり、駅員へ貢ぐ為に客が乗るのではない。これは主客転倒。

で偶然かどうだか県北圏ではそれほどこういう経験が多くない。どっちかといえば、少ない。なんかしらんが話せばわかることが間々多い気がする。*2

 なぜ県南部でそういう異常人格といおうか、大変賢くない判断を示す人物が、はては一般にすらたまに見かけられるのかはまだ不明。東京都へひっぱられ茨城県にひっぱられ、で論理や社会組織が混乱しているか? その界隈では民間人もお役所しごと風の見下した性質をもっているらしくみえる。
放送大学も地上波で入ってるはずだから勉強しやすい環境はあると思うのに、かえって当たり前に感じて希少感が低下しあまり進んでは学習しないのか。
 いずれにしても黄犬契約の原義に最も近い恥ずべき判断であり全く過誤だとあれはおもう。むしろそんな署長こそ石岡市民は懲戒免職にし、その超法規的にして英明この上ない判断から市井のたみの命を救った消防職員を、特別栄誉章で憲章すべきだと傍目にも思うけど。
ニューヨークのセンタービルのとき活躍した民間人ヒーローだか決死の救急隊員だかへ直接大統領が憲章してたけど、ああいうよい話の一つだと事件の詳細が勘違いでなければ思う。備品と目の前の命を秤にかければ通常の人格なら命の救済をえらびとるし、それは正しい。
石岡市民もなにも声をあげないということはないでしょうが。

―――
��1 市民奉仕の為の運動場を整備しておきながら普段公開せず鍵つきで管理する。荒らされたくないわりに汚くもないし、大規模利用者同士の交差よけというわりに普段から使用者は殆どみあたらない。

��2 但し、いまの市役所やその関連事業に関わりあいになるときだけ異様な不条理が生じる。寧ろ同じくらいかそれにまさって酷い。悪邪のごとく。
市内の公立学校の教師の暴力傾向も結局市の教育委員会の質の問題ではないのか。あのレベルの高校は勉強に集中させるためさっさと男女別学にしろ。
 経験則みたいにして、こうして自分一人は今現状の市役所に最大級関わりあわない。同じ様な人や鴎もおるでしょう。不良市役所。乃ちあの市長が悪質なのだと自分はみているが、その縁故採用等の悪風もあって市役所はきわめて奉仕程度が低い。震災時の対応はがっかりをとおりこして軽蔑に足る無気力無能力無関心へ限りなく近かった。
いわゆるお役所しごとの最も悪い面、形式主義、慣行主義、事勿れ主義などすべてを集成するとああなる。やはり人材も組織も滞りやすいところほど新陳代謝がいるのだろう。

2011年5月31日

経済のわかり

金銭めあての商業化は、必ずしも國風によい影響がない。多くは反する。例えばオランダとイギリスを比べれば判る。同様に郷風、近しい身近な暮らしにとってもそういえる。

 生産性を上げる事で結果的に十分に高質な品物をできるだけ安価に消費者へ提供できる様なしくみが、本来の経済原則(但し奢侈品目は掛け値についてこの限りではない)。
産業革命が重要だったのは、このしくみがいち早く確立されたから。19世紀から20世紀はみなその影響下に近代化が進んだ。

宗教心が無視されたり、商業のために道徳が軽視されてはならない。それは経済の本質へ逆行する。経世済民という漢語をeconomy*1の語にあてたケイザイは、もとは民を済う;すくうという是政者の徳だった。いわば財政の徳度をこそ経済という。
だから元々は道徳上の高い価値を実現する社会づくりと、経済行為は一致していなければならない。あしき商業は成立してはいけない。それは福祉、つまり大多数の道徳上の行状に反するから。

 日本では福沢の思想がはやってこの経済観念がかなり低落したものになっている。もとは清教徒思想と一致した功利主義の傾向こそ英米の自己正当化や政治経済上の地位を担保するものだった。福沢は、そのうち覇権を握られない為の先手の部分だけを強調しすぎた。
日本人は厳密な無宗教者が多く、経済観念をただの金回りと勘違いした結果、こういう事情、つまり「道徳の補完としての商行為」という意味を見逃している。

オランダをこえて覇権をにぎったイギリスの原動力には、清教徒革命から一貫した『神への奉仕』としての陰徳(隠れて為す徳行)の経済活動が存在していたと思われる。
カルウ゛ァンという思想家が発明した考え方だが、中世イギリス人の信仰上の救いは、世の中の現世価値の為ではなく、来世の救いへの確信としての天職とその陰徳としての経済活動を全うすることだった。「仕事」の内容には、彼らの勤勉さの中にこの意義が含まれる。

日本人や常陸國の人々はこれらの意味をいつか理解しなければならない。そうしてこそ本来の経済活動はこの國に宿るだろう。それはまた、単なる皇祖への祖先崇拝の念ではなく、GODの訳語としての神、つまり一神教の神を日常に認める宗教革命でもあるだろう。
 最近筑波で発明された田植えロボットは、おそらく日本人の文化史では最も大きな衝撃の一つだろう。生活の最も基礎に関わる技術革新ほど経済の効果は大きい。県政や国政は、その発明者の氏名をきちんと歴史上に記録し、栄誉を称える必要がある。
そうしてより生産性を高めた品物を交易することが、金銭主義な国体とは違う國柄をつくる。このくにがらこそ経済行為が本来求めているもの、つまり他者や隣人からの救済であり好意であり、信仰を通した協調や和平といえる。陰徳としての経済行為は、その地風を周囲より恵まれて善良なものにするからだ。

��1
「周辺支配」の意味。元は家政のギリシア語oikonomosからでてきた。ラテン語oeconomia→古代フランス語economieを経由してイングランド語economyに至る。語の出自をみると、「家守(いえもり、やもり)」というのがもっとも原義に近い日本語だとおもう。

2011年5月30日

市政と災害責任

ばら新によれば72だかの中郷町男性が震災対応ははやかったとか言っていたらしいが。この人物は頭がおかしいのだろうか。
 一週間なんの音沙汰もない。市民は無視されていた。一週間をこえてようやくしょぼい給水車がきた。整理券をくばれと忠告しにいったら、市役所の3階に集めたヤクザが無視した。避難所はすこしも衛生面で改めてもらえず、天皇がきたときだけ市長も現場にきた。
これが豊田稔市長とやらの行政だったのである。だれが疑う?
我々は無視されていたし、同情票など与えるべきではない。もしこの市でも八百長のため、いや高齢者の数が多すぎるためによりすぐれた判断のできる人物が市長につけないとすれば、その市そのものがにぶった判断を含めて老衰化したのだ。そこに発展はなく衰退のみある。

既に失策をあきらかにしながら、まだ人前にでてこられる現市長、豊田氏は一体どういう神経なのか。引責によってほとぼりが冷めるまで待てばこうまで反感を買うまい。
私はなんの政治上の利害もないただの一市民だが、それですら憤りをおぼえる。5人が亡くなったのも事実上は豊田市長の無策と怠惰と驕りのためだった。

2011年5月29日

首長と防災準備

公約についてだが、
まず現市長の新病院災害拠点化構想は、やはり間違いだと自分は思う。あそこまで行けるか? 大津波がくればあの道路は浸水する。だから行くのも容易ではないし、中郷辺や豊田木皿辺の市民はとてもではないがいけない。
それって、やはり現市長の一連の業だと思う。
もし新病院を以前の計画のまま二ツ島付近の高台にしてれば問題はなかったはずだ。それを無理に自分の家のより近くのキタコウ跡へひっぱりこもうとした以前の手が、まわりまわって今かれの痛手になった。ブーメランということだろう。
自らも市民の一人な以上、悪手は必ず市民へ返ってくる。

 で、松本氏の公約のうち、現市立病院の改修。これはまあ成立するのだと思う。その方が安上がりなのも間違いないはず。地震対策できれば、新型機械とか導入して機能がかえられればよい。
��もし豊田氏の方針で新しい病院をたてても、現市長の以前からの計画性をみてるとそれも50年で使い物にならなくなるはずだ。豊田氏の箱物系列はあまり長期間に実力を発揮するタイプではない。青少年の家が典型だが、大分がっかりさせる代物を建てる傾向がある。)
しかし、それとは別に、これは公約ではないからなんともいえないが災害拠点的なものを充実させるというのは必要ではあるだろう。それは公約されてないからどうともいえない。
一方いまの時点で映画やら芸術施設やらへ大金をつかおうってのが現市長なので、現市長がまじめに災害拠点づくりしようと高がしれてるというのも事前にわかる。あの江戸式半鐘で安心しきって、また実際の避難所へも間仕切りすら用意せず、そもそもどこでも避難先になるはず体育館を改修せずに放っておいて地震はありませんとか非科学なことほざいておき、市内blogなどでの監視者からの忠告を無視、いざ大地震起こってからは市民を受け入れられなかったのだから。
 これらをみると、再選によって豊田氏はかなり安心しきって手抜きをしていたか、そもそも能力が防衛者の水準に達していないかどちらかなのではなかったか。
だから松本氏の公約の方が、どっちかといえば実行力を備えているとみえる。市民は冷静に候補者をえらび、より市民の実益になる政策実行力をもつ側を首長に立たせるべきだと思われる。

 なにしろ、これから常磐沖で大地震の確率があると米サイエンス電子版でもはっきり予想されている。それは「ある」ことは多分間違いない。しかしいつくるかはわからない。だから余念なき準備をできる首長をたてねばならない、いますぐ。

2011年5月20日

No title

米研究グループ「大地震の恐れ」 茨城沖、ひずみ蓄積か

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東日本大震災後、震源域の南側にひずみが残っている可能性があり、大地震が起きる恐れがあることを米カリフォルニア工科大などの研究グループが20日付の米科学誌サイエンス電子版に発表する。

 今回の地震で、地下の断層のすべり量は一様ではなく、数メートルから約50メートルまでばらつきがあった。最も大きくすべった場所は、宮城県沖の日本海溝付近で、長期間、地震が起きていない場所だった。陸のプレートに沈み込む太平洋プレートに古い海山などがあって沈み込みにくく、500~千年間、ひずみをため続けたと推定した。

 研究チームの解析では大震災で震源域とはならなかった茨城沖は、長期間、マグニチュード8以上の地震が起こっておらず、ひずみがたまっている可能性がある。過去の地震活動には不明点もあり、ひずみの蓄積量は不明だ。

 ひずみは地震ではなく、プレートのゆっくりとした滑りで解消されることもあり、全地球測位システム(GPS)での地殻変動の監視が重要だと指摘した。(瀬川茂子)
��~~

こういうわけで、東海村の原発は浜松より緊急性の高い暫定停止措置が必要。何しろ海辺だし、上述の災害にあえばひとたまりもない。県政につたえ、これを実行する必要がある。
おそらく、いままでの地震学の見解はこの記事・東京に近い茨城・福島沖で大地震も、想定外の震災が示唆-米研究者によればまちがっていて、実際には東南海トラフ以外でも大地震が十分に起こるかも、といえるというわけ。だから政府がなぜか東海道だけに着目しているが、実際にはより首都圏に近いこともある東海村原発の方がずっと危険度が高い場合もある。
 同様の記事をたどると、いつ起きるか分からないが起きれば今回の宮城沖くらい(か不明)の「大地震」がくるといった予想がある。
大地震災の震源域南側は要注意 監視必要と米研究チーム
福島南部から茨城沖なお岩盤にひずみか…米研究
とすれば、当然大津波もくるかも。あの時の様子をみれば、海岸から数キロまで到達するとみたてられう。
 いまでいえば磯原中学校、あるいは中郷第一・第二小学校の奥の山あいまでは確実に2・3階以上の高さで浸水するだろう。これをかんがみれば、中郷~磯原間に4、5階だて以上の緊急避難所(を兼ねた)ビルが必要であり、またいまの消防署などはまったくつかいものにならなくなるので、くりかえすがさっそく市役所付近の高台におきなおすしかない。派出所もやはりメインは。
 大津や平潟の市民は、近くの最大の高台への避難訓練を日常化し、港では高いビルをたて仕事中はそこへすぐに避難する準備をし、奥地でいえばいまの病院までは確実に2・3階まで浸水するだろうからそれ以上への避難を前提にできるだけ高いビルを一つ以上たてておくしかない。

避難時のために、間仕切りになるテントを数百個市で購入しておく。また電源や食料も用意して倉庫にしまっておく。最高の対策として、市債か市の条例で避難用の家庭用・地下シェルターの義務をつけ、放射能から身を守る。

すでに科学的な予想は出ているわけで、防災対策は徹底して打つしか道はない。打ってもそれがくれば被災するが、被災の程度がちがうのはまちがいない。コンビニも非常時には品物を解放しなければいけない。いざというときお代はあとで、というのが本当のよき商売の姿。

2011年5月17日

No title

http://ocw.ouj.ac.jp/

↑こういうサイトをみつけたので役立てて下さい。ネット上で無料視聴可。
もともと衛星放送で流れているもの。南関東では地上波テレビでも受信できるが、交渉不足のためか北関東には届かせてくれない。

北茨城市民は教養という面で不足がある。だから「いち立大学」が最優先でほしい。
 特に芸術関係にかたむきがちな市民なので、科学という面、知性という面を強化するとそのもともともっている特性がもっとすぐれたものに進化していくと思う。

おそらく衣食住において、気候において安楽すぎ都市化の必要もゆるいので、競争心がゆるむことがあまり必死で勉強しまくらない原因になっていると思う。だからできるかぎり人工的に高い教養社会を築く習いが、次世代を改良していくはず。

2011年5月16日

北茨城財政学

 近来の財政知では小さな政府化が(新自由主義の逸りから)なにもかもに推し進められる傾向があるが、事実上、基盤産業は国有化や公有化されるべき。

 郵政民営化論争やJALの経営破綻、東京電力の失策や救済なども皆この基盤産業公有化原則から外れているところから生じる過ちだろう。より基幹に近く、生活必需な産業種ほど公有で営まれる必要がある。共有地の悲劇や、逆の公共施設浪費(これはこの市が典型といえるが、いわゆる運動場などを市民へ解放しない)は産業種の公私混同から起きている。
 より贅沢でより日用に類しない産業は、そのための施設と同じく公共化されない方が効率がよい。費用もそれに準ずる。

放射能汚染土の再生

土の撹拌(上層の地中埋め込み)も重要だが、ひまわりが種へ高い放射能吸収の力をもつとしられていて、ここからガイガーカウンターで規定値以上が出るすべての市内の田畑はひまわり畠にとりあえずするを得る。たねをくばればよいのだから撹拌費用より経済的。

2011年5月14日

2011年5月10日

避難勧告の義務

毎時0.2マイクロシーベルトを1年あびつづけると、
��.2×24×365=1752
∵
��2
��4
 8
��
  365
   48
 2920
��460
��7520

��.8ミリシーベルトは通常浴びていい1ミリシーベルトの値をこえている。非常時の値な100ミリシーベルトとの間のグレーゾーンとなる。
 ちなみに屋内退避で有効な減衰率は、ガンマ線については木造家屋では0.9%にとどまる。つまり
��752×0.9≒1636.8
∵
 1752
   09
��6368
で、1.6ミリシーベルトの被爆は、大半の市民が確実にする。

 これまでの経過からいうと、2ヶ月しかたっていないのでこの累積値になった訳では必ずしもない。しかし、3月15日時点で既に15マイクロシーベルト程度の観測値があり、徐々に減衰してきて現在に至る。これを足すと、一年よりはやく累積値に到達する。

 アメリカ政府が自国民に80km圏外へ退避を要請したのは、こうして科学的知見だったと考えられる。
 日本政府の姿勢はお役所仕事な事勿れ主義なので、なにかしら面倒な問題が起きてから必要最小に対処させようとする部分がありそうだが、そのせいもあって厳密にいえばまちがった解をみちびいている。
南は北茨城市民まで北は1ミリシーベルト累積被爆地までをできるかぎりはやく要退避地域とし(そうしさえすれば累積被爆値がグレーにならないのだから)、充実した避難先を安全な地点へしっかり確保し実際避難させた上で他の作業にあたるべき。その逆に進み、100ミリシーベルトまで被爆していいことにするというのは非科学的なばかりか、国民の安全を守るという全体の奉仕者としての義務に背いている。

もし本当に100ミリシーベルトまで累積で被爆した場合その人の身の安全は、臨床例からいえば保証されないわけだ。少なくとも認められる癌発生率の微小な上昇があるわけで健康被害があるし、人によっては原発事故の被災で死ぬといえる。それは極論すればあやまった判断をした日本政府と、事故を起こした東京電力株式会社に殺されるという意味だ。しかも気づかれにくい後発性の毒で。
 反論の中にはタバコの害より危険ではないといったものもみられるがこれは問題にしえない論旨のすりかえといえる。喫煙者は自己責任でそのニコチンによる軽い合法の麻薬ないし嗜好品を摂取しているのだから全体に害をおしひろげるのは誤り。

2011年5月8日

物分かりのよいことば

最近マスメディアでよく見聞きする「批判」という言葉、誤用というか曲解された文脈で使われてる節がある。

原語に遡ると、ギリシア語由来でcriticus(うろ覚えだが)というラテン語があり、英語ではcriticと単純な表記に至る。で日本語にはドイツ語のその語の意味とまざって流通しているっぽい。
��riticusは「分かる」という日本語が最も近い。しかし、おそらくイマニュエルカントの書物をはじめに翻訳するとき批判という訳語を当時の日本の人の誰かがあてて、すこしことなるニュアンスを加味させたのだろう。明治あたりのはなしなのでおおよそ武士階級だった確率が高い。だれかは不明で、後学に待つ。当時の辞書と、翻訳書の流布の経過をたどっていけば原因はつかめるとおもう。
 英語のばあい、criticは批評という意味合いで通っている。文字でいえば手比べて平に言うと書いてあるが、そんなニュアンスだ。
だから日本語で批判の語にあるっぽい否定的分かり方という内容は必ずしも入り込んでないとおもう。Criticというのはよく喋る物分かりのいいやつ、弁士といった響きだと多分おもう。
��白川字学でいえば、批の文字はもとビンタするといった内容らしいが、事実上その形相は抜け落ちておりほぼ誰も意識できない。だから素直に、文字通り「手比べる」という解釈をするのが日常用語とみて自然だろう。判は半分にわける、なる「分かる」の分と同ニュアンスの文字。分かつことが理解するの初義にあったらしい。)

現在、新聞雑誌テレビネットなどで盛んに流通しまくっている流行語、批判の意味はおそらくカント哲学やその後のヘーゲル哲学らしきものが入り込んで、複雑観念お化け用語になってるのではないか。人々はこの比較的あたらしい「批判」の語に、畏怖と積極的野心を両方みているのではなかとか。これは九州弁まがいだが。
 ヘーゲル哲学でいうと弁証法という考え方があり、正反合なる三段階で物事は論理的に上昇していくという話。で、批判の語にはこの反の側面、つまり物事を否定する側面だけがとりあげられている節がある。(京都学でいう和辻哲郎は「空」なる禅語で否定の権威づけをしたから、もしかすると関西語圏では特にこの意味合いがつよいかもしれない。)
カント哲学では書物名に使われてるので明らかだが、学問の論理的基礎づけ、つまり礎といったニュアンスで批判、つまりラテン語criticusのゲルマン派生語を使っていたのではなかったか。

 とかく日本語の中に、こうして、ゲルマン思想がいくらか流れ込んでいるということが「分かる」。
この分かるという意味合いでだけcriticは正しくつかわれていい。(ヘーゲル哲学の反の働きだけに、あるいは和辻哲学の空のそれだけに「分かる」ことがあるのではないからだ。なにもかも分かろうと否定しなければならない、ってはなしではない。否定的論理だけが強調されるのはうまくないわけだ。)
ところで、批評すること、つまり手比べて評することは何かしらおかしな話でもないわけで、特に手比べるっていう批の語にあるビンタニュアンスがなくなれば、これはより明らかな話。
どちらにしろ、物分かりがよい人間は、より比べてわかる力がつよいはず。もし飴玉がある。これがrain dropと違うのは比べねばわからない。

結局、現代人の認識の基礎になってる実証科学(つまり実験を根拠にした論理体系)も、根本的にはさまざまなデータを逐一比べていって最も妥当な近似値をえらびとる、といった作業のくりかえしといえる。科学の言語づくりとしての数学でいっても、円周率みたいに近似計算は平気で使われるし漸近や極限、微積の概念(つまりちかいあたいをつかうこと)もある。
だから「くらべてわかる」のは何かしらおかしな、わるいはなしでもなんでもない。批判するという怪しげ難解用語をつかいまくることなく、「分かる」へその意味の素をまとめてればいいはなし。

そして分かるそのもののことばの中に、分かったすでに二つのものをくらべる、といった曖昧模糊さとの決別の意味が入り込んでいる。

2011年5月3日

ある地震知識からの震災因仮説

くわしく後述するが、石油採掘や放射能物質廃棄のために海底へ穴を掘り、そこへ圧力を高めて水を注入すると大地震が続けて誘発されたという史実らしきものがある。

 で、捜してはみたがすでにみつからないっぽいが、かば氏が北茨城市の沖合にとまっていた石油ほりだし船の基地みたいのを写真に以前とってた気がする。自分は見た記憶があった。
あれは東京電力株式会社がやったのではなかったか? 推測でしかない段階だから断定もなにもできないが、一二年内のできごとだったとおもう。
もしかしてだけどあれがいまの東日本大震災の引き金だったという可能性もあるし、いまだにそこで水圧かけてるとしたらだが、今後も余震をこえて大地震につながるかもしれない。

もしこれらの仮説が正しければ、あの石油採掘海上基地での活動はやめてもらうか、賠償してもらいたいほどだ。法律に海上での作業が入ってれば領域をこえた民事上又は県有地への刑事上の侵犯行為と認められないではないが、とかく地震科学上の根拠が先になくては。
自分は地震学の本を原典に三つの過去の記録をもっている。これがもっと豊富なら、かば氏の写真記録とあわせて仮説は真実と論証できるかもしれない。


追記。
事例1。1962年、アメリカ、コロラド州、デンバー近く、深さ3.7kmの井戸をほり液体の放射性廃棄物を廃棄したとき。
事例2。日時不明、アメリカ、コロラド州、デンバー近く、油田、石油をほりだす井戸に水をいれたとき。
事例3。2004年、新潟中越地震、震央から20kmはなれた場所にある南長岡ガス田という天然ガス田、地下4.5kmの地点で岩を粉砕するために緑色凝灰岩層へ高圧の水を注入したとき。

これらの事例からみなすと、‘水圧破砕法’なる21世紀になって新開発された油田採掘の方式に問題があるっぽい。もしあのとき海上でやってたなにものかの作業がこれだったら、各アカデミズム(学園主義)からの裏付けをとって賠償へ進めるかもしれない。

2011年4月29日

地域の改良

もうやりだしたので今度の機会だけど、茨城県が放映するPRとはすこし関係ないかもしれないが放送枠として有益なのは、15分くらいで解説込みの科学知識を撒く番組ではないか。

��5分もとれねば、5分でもいい。毎朝が不可なら週に1回でいい。朝型の、たとえば以前でおはよう茨城やってた時間にでもみじかく簡潔にまとめた一個の科学法則を、わかりやすいかたちで簡潔かつ大衆的にまとめた枠が有用。

一度に勉学する時間がとれないひとでも、朝の5分だけ受動態でテレビみてれば賢くなる、といった習慣づけがよい結果をもたらす。

 ずっと以前、フジかどこかで『お厚いのがお好き?』という一般知識人向けの深夜番組があった。おそらく視聴率がとれないか面倒か、局内反発かで結構すぐ終ったが、あれに似た最先端の学識(これは筑波あたりに超過博士とかでかなり余っているのだから)の解説を、いまはやりの池上さん系のやつみたく最大限かみくだいておこなうのがよい。簡単な実験とかで。
民放は収益を的にしているのでこういう視聴率の最大化がみこめない番組は放映しづらい。スポンサーが県なら、いわゆる収益ではなく、公益に類する番組を流す方がいい。団塊とそのjr.世代の育ちであり好みなのか、とかく経済中心の市場教義を流す傾向がある。しかし國風にとっては必ずしもよい影響はない。
 常陸のくに辺の人々をより高等な人種にする、そういう番組を希望する。まだみてないからもしかするといまのもすばらしい枠なのかもしれないが、某タレント氏が東京あたりの人へ集客力めあてにこびるみたいな(風におもえなくもない)番組がどれだけ我々の役に立つのか。東京人に地域の風儀を荒らされるだけではないのか。

蓄財の為に國の品格を犠牲にするな、という品格イデオロギーをはやらせたのは某ベストセラー数学教授(っつか藤原正彦氏)だが、これにも一理ある。関東圏ではどう転んでも東京都あたりの人口飽和環境からえられる総量としての税収または総経済量(但し県民それぞれの個別または県の総所得はのぞく)をこえるのは難しい。これは巨視すれば中国と日本の、米国と英国の構図と同じこと。(一人当たりの生産性や所得、福祉具合にかぎってのみ文明度に先後の別がある。)
藤原氏がいいたいのは、「大事なのは國家の名誉」であり、「國家の繁栄では(必ずしも)ない」という武士道倫理の尊重ではないか。なぜなら永遠に繁栄した國家は今のところないから。ところが名誉は大抵いつまでも残る。
勿論これもイデオロギーってか理説なので別に真かどうかも分からない。考え方としては。

 結局、国際舞台、あるいは県際舞台でも、「とある特徴」ある形質を有用な方向へ維持している人物が、最大の経済大国の普通な人物よりも貴ばれるだろう、といったいわば個性主義政略な推測が、そこには介在しているとおもわれる。
よく藤原氏がたとえにだすオーケストラもそうだが、サッカーなどのスポーツでも、汎用性のある選手よりも特徴ある選手の方が高い値がつきやすいし、実際、重要なポジションを維持しやすい。汎用性がなくていいとはだれもいわない。しかし、それだけで一流選手だとはいいきれない。
単純にサッカーでいうと、ブラジル代表は個人プレーのレベルが異様に高い(超個性派ぞろいだ)が、基本能力も並ではない。基本能力、これは普通の人間でいうと経済力というはなしなのかもしれないが、この基礎体力の程度が並ではないのに加えた素晴らしい個性が一流の条件。

よって、経済主義の放送は必ずしも善ならず。それは県民の汎用性を高めるかもしれないが、個性の強化には多くのばあい至らない。
 地域限定の放送権がもし別にあれば、うえにかいた科学啓発の番組がいいとおもう。それが不足している能力の穴を埋め、また才能あるひとを他の地域出身者よりも高度な人材へのばしゆくとおもう。

2011年4月25日

基盤施設の絶対高さ

市役所が率先すべきこととして、全ての危急用な基盤施設をすくなくとも市役所レベルの高さへ至急移動させること。これは時間がかかるものもあるだろうからすぐに。鴎は放っておいていいかもね。

2011年4月20日

復興論

復興構想というものを政府主導でやろうとしているが、この地域ら辺の為に事前な忠告をねっておくと、ほんとうに賢い復興は『完全に民間主導』でなければ。

 社会主義国系の首都をみればわかるが、政府がおもにたって行った都市計画はわるい意味で冷たく、人間味がなく、暮らしづらい居場所となりいわゆるスラム化が進む。
例えば家をたてるときを考える。完全に家族構成やら細かな好みの違いを無視というか度外視して政府高官が自己満足度のために与えた計画どおりに家がたったとしよう。ところがこれには風呂便所も一緒だわパーティーのための洋風テラスがきわめて広いが洗濯する場所もないわだとする。社会主義系都市計画の使いづらさはこの‘使用者目線の欠如’にある。

この地域は今のところ復興税とやらが投資されそうな雰囲気はないが、それがもしきたとしても、政府、つまり市政の独断で使い道を決めさせない方がいい。そうではなく、できるかぎり民意を吸い上げる形、または直接各家庭か個人へ配分する形でこの復興財源を用いた方がいい。
普段から近くに買い物を足す場所がなくて困っていた人も、今にも崩れそうな崖の補修をしてもらいたい人も、のりあいのタクシー券を発行してほしい人もいる。数かぞえきれない需め;もとめがあるが、すべてを市政がじかに満たすのは至難。
だから、「社会基盤」とされる法的整備の域、つまり道路や河川や防波堤あるいは図書館や大学など公共施設やその法治の条例施行にかぎっては政府がじかに発注を行うのは構わないだろうが、それをこえてはいけない。こえれば都市の私生活はうまく働かなくなる。かもめを繋ぐな。砂浜は保全しても、かもめ自身を放っておけ。そういうこと。

もちろんこういった公営事業へも競争発注や、市民へすべての情報を最大限公開したうえでのはなしあいで詰めていく経過をとったほうが、政治というかいまの市長の独断で進めるよりうまく市民の幸福へ期する確率が高い。そうみれば民意の代理人としての市長には無私のみが徳なのだろう。

追記。
一例をひけば、磯原中央公園なるものが6月までにいちおうできあがるらしい。けど、あれも社会主義系の施策ってかいきなり上から目線でつくりはじめていきなりできたものだから、市民にとってすばらしく幸福な代物かって言うとかなりちがう。市長の自己満足かもしれないが、かえって周辺住民の一部は迷惑がっていることもある。あの空き地は、たとえばすぐ目の前に昔からある教員住宅にとって、また昔からの住民にとって目の保養というか唯一、「なにもない雑草の空き地」としてこの地域の原型をとどめていた希少な場所だった。駐車場にならなかったのは救いだったかもしれないが、今度はすぐ窓の目の前に公衆トイレが出現した。資産価値がおちるのみならず、すみごこちも以前よりはわるくなった。さらに、以前は雑草がしげってたので転んでもすりむかなかった遊び場だったが、今度はなぜかケチったか遊び場は土の広場になってしまった(雇用体系とみても芝生管理はいい高齢者向けの仕事とおもうのに)。ここで遊んでも土煙で学校の校庭とかわりないばかりか、行くにも道路をわたらねばならず、しかも道路に面してるのでまちがって飛び出したら死亡事故が起きるかもしれない(飛び出しに対応する計画ではないし、フェンスも気づかなかったかで設けられていない)。
 ‘トップダウン政策’型の公共施設は大抵失敗する(いわゆるコンクリート系箱物批判)というわけで、ここでも市民からの公募とか話し合いで詰めていく設計や発注競技をおこなわなかった業が明るみに出る。景気循環をはかろうと土建業にみつぎまくる結果、市内ではその末裔による暴走族ごっことか、学校の荒れ加減とか、或いは違法パチンコ店のもうけがあがり市政へ傘下(ママ)してくる。
 今度こわれた堤防あたりでも、或いは市の設備でも最大限の透明性のもと、審査過程も審査員の経歴もはなしあいの経過も結果もすべて公開していった方が「公共設備への投資」は巧くいくことが多い。なにしろ最も腐敗というか、土建票との癒着がおきやすい一点なので、自民党閥がよわまっているいまのうちにこういう慣習を身につけた方がいい。もちろん、この公募は公募で民意をすいあげた結果、中庸案にまとまりがちな傾向があってきわめてすぐれた君主による先見の明ある施策には及ばない場合もなくはないが、それは時と場合による。こういうワンマンな断固トップダウンが成功するのは絶超名君が出現し在籍できていたという一定期間に限るだろうが、割合とみればきわめて期間が短くその機会も少ない。すくなくとも、文化の働きとしてはボトムアップ(底上げ)型の施策も試みておく方がいい。それが通常の時点での良策につながっていく。

2011年4月18日

日本人の性格

日本人の社会のつくりかたに因みがあるはずだけど、いざとなって日本人は‘集団にもたれる’‘一丸になりたがる’‘公共に依存する’傾向がとてもとてもつよい。或いは東日本の人のみの傾向ではない。日本人全般が、おそらく儒教と国学(要は国家神道。天皇教ともいえる)の影響でその達をひきずっている。

最も根では建国神話が皇祖をもとにしてきたことが大きいのだろう。そのよりかかる心を普段からいまの国歌(君が代)等ではぐくんでいるのだから、危機にいたれば非常につよくでてくる性格らしい。

 そこで理念とみても、独立や自由などの個人主義傾向への啓蒙を普段から最大限行う必要がある。極論すれば依存心がつよすぎる民族なので、個人主義のみが啓発されればいい。それで行いの傾きがちょうど普通の水準になる。
漱石や福沢がのべてきた理念はすべてこの日本人の性格の改善にかかわるらしい。根本では、皇祖崇拝への離反に至る心のありさまといってもいい。神道批判ともとれる。とかく、依存しすぎ機会費用が高くつきすぎる(つまり期待水準がたかすぎるのに比べ、さして公共人は役に立たない)のが日本人の同質系社会なのでできる限り独立型の人格をそだてあげる文化努力がいる。

2011年4月17日

実証科学の習性づけ

市内の主婦層の間では非科学な迷信がとびかっている。具体的に何日へ余震があるというなんの根拠もない俗説、因果関係のあきらかではない鯨などの海洋生物の浜辺打ち上げとの確証偏見こみの関連説など。それがかれらの不安感をひどく煽っている様だが。

 こういう風に普段から強烈なほど科学で教育されていない市民というのは、危急時には簡単に俗説や風評へ流されてしまう愚民といえる。そしてこういう社会へあしき宗教説などがはびこってくる。

やはり今すぐ、科学の啓蒙を徹底せねばならない。自分にできる域のことは最大限おこなうが、最も合理なのは大学を建設することだ。共同体が運営する市立でも構わない。とかく市民が科学的に合理な行動をとれる様に普段の学習が要といえる。それがない場合、危急に陥れば一層状況はひどい。

教育されていない老人というのは、儒教圏では一層たちがわるい。頑固とも固陋ともいいがたくなかみのない、あるいは害でしかない権威をおぶせかけて少しも恥じることがない傾向がある。儒教はすでに日本国内、少なくとも北茨城市では害毒の方が大きい思想だと自分はみる。
社会の趨勢についてこれなくなった引退すべき老人が、迷惑をまきちらす言い分につかわれる思想な傾向が大変たかいが、現実にはそれがあるだけ社会へあたえる悪影響も大きい。その分停滞してしまうからだ。儒教は宗教とみれば信じる者がいてもかまわないが、すこしも学校教育や社会構築で‘必要な’思想ではない。

年上の悪徳もちがいた場合、この人物を批判してさっさと先に行くことが有用だ。儒教圏ではズルズルとこの人物の後を追うみたいだが、それも悪徳にすぎない。年寄りにかまってはいけない。経験則のたねとしても利用できなくなったらパスすべきだ。

想定と業

http://mainichi.jp/photo/news/20110417k0000m040109000c.html

��~~以下引用
 ◇チリ津波が基準 想定外、高さ15.8メートル
 市によると、51年前に市を襲ったチリ地震津波の高さは5.5メートルで、これを基準に防潮堤を築いた。しかし、震災後に現地調査した東京海洋大の岡安章夫教授(海岸工学)によると、体育館を襲った津波の高さは壁の痕跡などから推定15.8メートルだった。4月11日、戸羽太市長が言った。「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる」

東日本大震災で壊滅した岩手県陸前高田市民体育館。避難所に指定されていたため住民約100人が逃げ込んだが、生存者は3人だった。その1人で市職員の佐々木英治さん(38)や住民たちの話から「あの時」を再現すると、想定外の大津波に、なすすべもなく流されていった高齢者たちの姿が浮かぶ。

 ◇午後2時46分 
 強い揺れが襲った時、体育館内では県立高田高(同市)女子テニス部員15人が練習中だった。主将の金(きん)優里香(ゆりか)さん(17)は「ステージ側の壁がボロボロ砕けて落ち、天井の大きな照明がゆらゆら揺れて落ちそうだった。扉付近の部員がドアを開け、みんなで外へ飛び出した」と振り返る。

 直後に体育館に着いた顧問の川口倫(ひとし)教諭(37)は「体育館の中は停電して真っ暗で、フロアは砂ぼこりが舞い『安全じゃないな』と感じた」といい、生徒たちに高台のグラウンドへ向かうよう指示。部員の菅原美鈴さん(16)は「歩くというより2列になって走った感じ。余震のたびに立ち止まった。泣いている子が多かった」と語る。部員たちは午後3時すぎにグラウンドに到着し、津波の難を逃れた。

 ◇海抜3メートルに立地
 テニス部員と入れ違えるように、体育館には人が集まり始めた。目撃者によると、60代後半以上の高齢者が多く、車椅子の人もいた。市は体育館を避難所に指定しており、防災担当者は「体育館に避難し、津波の恐れがあれば高台に逃げる流れだった。ただ高齢者の場合、高台まで遠くて行けないのが実情だった」と言う。

 隣接の中央公民館に勤務していた佐々木さんがラジオをつけると「予想される津波の高さは6メートル」と伝えていた。「6メートルなら体育館に来るころはもっと低くなると思った。チリ地震津波(1960年)の高さなら、市の想定では浸水は1階だけで済むはずだった」。体育館は海抜約3メートルの土地に建ち、地上から2階通路まで約6.4メートルあった。

 別の市職員の女性(51)は義母(79)を体育館に避難させた。「チリ地震の時も津波は線路(JR大船渡線)までしか来なかったと聞いていたから『体育館2階に逃げれば大丈夫』というのが近隣住民の認識だった」

 一方、体育館近くで食堂を営んでいた鈴木邦夫さん(66)は車で高台へ逃げた。「避難所は体育館になっていたが、自宅と海抜が変わらないので逃げても仕方ないと普段から思っていた」

 徒歩で高台に向かっていた加藤りん子さん(60)は体育館前で、60代ぐらいの女性が「避難所はこちらですよ!」と叫ぶ姿を見た。集まっていたのは50~60人。加藤さんも声をかけられたが「高台に行きます」と断った。体育館を通り過ぎて振り向くと、さっきまで後ろを歩いていたお年寄りたちがいなくなっていた。「みんな体育館に行ったと思う。年配の人たちは、津波警報が出たら体育館に行くよう訓練(毎年5月実施)していた。私は昨年11月末まで福島にいて、訓練したことがなかった」

 ◇行きどまり殺到
 佐々木さんは体育館2階に続く外階段へ避難者を誘導。高齢者に手を貸し、車椅子の人は2人がかりで担いだ。「最終的に100人ぐらいだったのではないか」

 市によると、津波の第1波が堤防を越えたのが午後3時22分。海岸の松林が水に埋まり始めたのが同24分。階段の下で誘導中だった佐々木さんからも大きな津波が見えた。2階に上がると、みんなが「ここも危ないんじゃない?」と騒ぎ始めた。「ドン」と音がして体育館1階に海水が浸入してくると「わー」と叫び声がした。

 奥にある男子トイレへ人が殺到した。その先は行きどまりで、ぎゅうぎゅう詰めだった。佐々木さんは両足が「ぬれた」と感じた瞬間、津波にのみこまれていた。海水を飲み「ああ、これで終わりだ」と思った。「よく言われますが、本当に自分の子供たちの顔が思い浮かびました」

 水中で、同じようにもがく人たちの手足にぶつかった。もがくうちに鉄骨のようなものをつかみ、思い切り頭を突き上げて水面に出た。水かさは天井から約30センチの所まで上昇したが、水は少しずつ引いた。暗くて何も見えない中で「おとうさん、おとうさん」と女性の声がした。離れた所にもう1人、男性が生き残っていた。津波にのまれてから10分ほどの出来事だった。

 天井から長い髪の毛が垂れ下がっていた。どこかでうめき声がして捜したが、間もなく途絶えた。1階は水没したままで、何度も津波が押し寄せた。生き残った3人はずぶぬれのまま身を寄せ、一夜を明かした。

��~~


この例をひけば、市政が当初から主張している「想定外だったので」「なにせはじめてのことで」という言い分は全然正当性がない。防衛者の責務は市税をあずかる市場の胴元としてその市民の生命と財産をいかなる事由の前でも守りきることではないか。
 もし全滅したとしよう。そのあとで「想定外だったので」「なにせはじめてのことで」なら、一体なんの市政だったのか。今後きちんとおのれどもの業のわるさを反省し、想定はつねに最悪の事態を先取りしてもらう。それでも想定外のことがあるだろうが、少なくとも何もしないよりはましになることをみとめねばならない。

また、倭人はよく「一丸になって」と言う。鰯じゃないのだからそれは危ない。一網打尽ということばをうらがえせばそうなるわけだ。「一人でもいいから」というのが真理だと思う。たった一人でも助かる方が、全体最適化で全滅よりはまし。

2011年4月11日

この例をはやく市政はとるべき

以前紹介した体育館内テント設置をはかるべき。

ニュースで北茨城市内の避難所の様子をうつしてたが、まだやってなかったのかということだ。なんと雑魚寝でしかも磐城からの避難者も多数あり。仮設住宅入居までのつなぎとして100個くらい市内のみせや通販でかえばいい。かえないことはまったくないのだから、単純に怠けだ。現に避難所暮らしの人らの前で雇用ディスプレイなんかやってるばあいか? 本当に無能ともしごとが遅すぎるともいいようがない。市政は動きが普段からかなりにぶいが、こうなってもにぶい。

いまの地震でも市内への避難の警報もないし、ホームページでも確認できない。1ヶ月たってもすこしも改善されていなかったというわけで、結局これは行政の才能がない首長としかいいようがない。

心理学

 うみべへ万端の警報機を設置しなかった(がゆえに逃げ遅れたひとがでた)のはどっちかといえば市長の私的な業であり、我々、普段から災害対策や備えを指摘してきた市のたみの責任とはいいきれない。これをまちがってほしくない。正直いえば私は豊田稔市長の娯楽出費で迷惑をかけられていた方なのだ、まじめに。普段から。
 この仮定に一理あるなら、社会心理学識として逆授かり効果となづけられる。つまり備えを怠ったつけをなぜか全体責任のもとで償いたがる後付け自己弁護の心理。個人的失政費用の全体責任化では、以前の一度目の失政時に重ねた二重費用が生じる。以前からないものより自分の責任で失ったものをより有り難く勘違いしてしまう、といいかえてもいい。

2011年4月8日

不良行政のはびこり

被災地の中心区ではまだ家がなくなり避難所での侘しさを余儀なくされておられる方々がいる街へふたたび、いつもの気違いヤンキーの暴走発生。道交法違反なので現行犯逮捕できるはずだが、派出所は出動しないのか?

なぜ他人へ迷惑をかけてうれしがっているのかがわからない。オナラしながら街を走り回る。これは発狂以外なんでもないだろう。知能が僻地奇形化してしまった可哀相な国栖。しかし、違法行為は違法行為だ。

こうしてみてくると、普段の業にみた市政というのは本来あるべき奉仕水準からはるかに低い高給をはむ手抜きかつ腐敗仕事なのがわかる。だれがどうみても違法をスルー。これはどういうわけでしょうか? 市内パチンコ店で普通に換金させる。
これも狂っているとしかいい様がない。刑法犯罪をみのがしにしているのだからきわめて悪質だ。立法能力はるか以前の理性しかないらしい。
かなしむべきは、その違法賭博店の社長らしき人物が市議へ普通に入りこんでいるっぽい。当選しているのである。

 これらをみても、北茨城市の大人というか年齢のたかい老人層は、あまり尊敬にたらない、どっちかといえば軽蔑すべきなのが周知できる。かれらの権勢誇示ぶりと威容はすべて自信のなさの裏返しでしかないわけだ。実質は無能でしかない。だから威張りくさる。

例えば、派出所はいうまでもなく(これは指摘によりようやく移動されつつある様だがそれもまた後手だった)、消防署、このどちらの危急基盤もなぜか津波直撃があきらかな海岸沿いに、低層で置く。ありえない施策。
具体策にすれば中心街から全市内へすぐ出動できる場所として、大体いまの市役所あたりの高台のどこかへ立地すべき。派出所は一二個破壊されても本部が別ならさほど問題はないので駅前あたりのはないよりあったほうがいいだろうけど。
 少なくとも市民からのこういう忠告が行く前に次々最善の手をうてるのが名君であり名行政。とはいえそれは天才の領域なので、そうでない凡人らへ次善の策としては「目安箱」式なよりよい意見の吸い上げがあればあるほどいい。民主政の利点としては修整がききやすい。

市民から、おしえられてもおしえられてもちっとも聴き入れる余地がなく、何度忠告しても全然音沙汰がないのは能力が低すぎるわけで、反省し、できれば自分から総辞職せねばならない。これで行政の老廃は一新されるわけだから。
主権は在民なので別の「より優秀な人物」が政権をとるしか、群れがよりよく生き残る道はない。くりかえし失政をしてしまうというのは、市民からの借り物の税収を仮にあずかる政治屋の御身分なのだから故意ではありえないかぎり、能力不足だった証拠でしかない。判断力が低いというのは教養が足りなかったということ。

2011年4月7日

旧水戸藩域の財力補佐案

儒教型道徳の欠点として、商業的繁栄とはことなる発展をしがちなことがある。巧言令色鮮し仁とか言って伯夷と叔斉式な清貧を崇めつつ。
ところが現実の行動は、社会心理学をひけば「現金さ」をもとに動いていく。富裕な程、人々はその権限に否応なく従うもの。
いかなる理想論者も現実の前ではほとんど無力だろう。大多数の人々が動くのは現金、そして権力の前でであり、理想の前でではない。だから理想は、単に思想や宗教の域にしまっておくがいいのだ。その域にしまってあるかぎり、人々はそれを憚りなく崇めてくれるだろう。

 水戸学以来の常陸國が属した地位の欠点を補うに、いまの茨城県なるいっときのやしろを廃止し、ほとんど一県に匹敵する規模のいわき市をあらたに編入して『常磐県』をつくりだすこと。そして徹底した被災地にくらべ少しは余裕がある復興資金を県政としても市民としても全面提供して、共存共栄体となること。
いわきは経済力に於いても面積でもかなり大きな地域なので、味方に入れるとなんにせよ大きな単位となって旧水戸藩域の特徴な道徳の程、つまり気位の高さ(多くは日本国内では高すぎるそれ)を現実面から補ってくれる原因となる。

或いは、仙台圏へのとりこまれを望む域をのぞいて、いま話題になってる福島の「浜通り一帯」を常磐県の部分へひきいれるのも有効だと思う。おそらく常磐線の特急延伸などを口実にしてもいい。
一方 宮城県へは常磐県への編入をもっていっても、おそらくはじめは容易には協調しなさがある。もともと伊達藩域は協調性をあまり望まないし、かなり頭堅いから相当の説明説得がいるはず。
 しかし、もし上述の常磐県での経済力が他県を現実で圧倒に至れば、おそらくある時点ではそれを合理とみなして編入されるのをおのずと望むかもしれない。EUが同様に広がっていったのと同じで、いつも現世の人々は「目の前の利益」にきわめて弱い。

東電批判者の情報隠蔽癖

なぜか「情報開示」を東電へもとめつつ、この北茨城市長氏はちいとも自分自身の行政行為の情報開示はしない。単純に笑ってしまう振る舞いであるけれど。*1

どさくさに紛れて数十人も新しい職員を、しかも試験面接の有無があったかも明かさずあらたにとった。言うまでもないがその税金は「市民からの借り物」なのだ。借り物を勝手に(用途や目的不明なことに)つかっといて己がそとづらだけよくする。これはどんな悪習なのだろう?
 震災を期に、一気にいまの市長の心の内面が暴露されてきている。
それは自分自身が震災後一週間なにをしていたかも明かさない‘情報隠蔽’による自己都合のおしすすめという独裁者じみた業である。

震災後一週間、市長は市民の前に姿をあらわさなかった。本気で。
市庁舎内は指揮系統がないので混沌としており(じかに命令するトップの姿はないのだから当然だろうが)、本命の目的である市民奉仕など後手後手どころか逆に市井の市民は追い払う極悪辣加減が噴出していたのだ。悪政ここに窮まれり。普段の市民排斥の姿がかわるかとおもいきやそれが強調されまくっただけだった。普段の悪政はそのまま、危急時の最悪政にいたる、という実例だった。

この市政へもとめるのは、『最大級の行政情報透明化』だ。これは、現市長の性質にかぎってはやりすぎはない。あまりに開示しすぎて不安になるほど開示してようやく通常の水準となるだろう。たしかに。

 す で に な き 者 を 逆 な で 潮 風 よ

 ちなみにこのウェブログの情報は完全に開示してあり、隠し立てしようもない。情報しか書いてないので当たり前かもめだが。裏にはなにもない。すでに書いた文章以外なにもなさすぎて笑えるほどだが、笑い話ではない。いち市民のかもめぶった手記にすぎない。


ーーー
��1
汚染水関係の県関係者連盟の意見書参照。
ちなみに、こんな東電発表が4日づけであるが、真偽はこれへくりかえしの実験によるたしかめをくわえて判定するしかないはずだ。一般に、わたくし企業は公益より私益を優先するので、公害へは最小限の発表しかしていない可能性が高い。歴史をみかえせば国家すらそうな場合があるので当然だけど。
 ちなみに、政府はこんな感じの発表で1mSv以下だから大丈夫って大甘判定らしいけど、排出されてるのはたしかなのだから海の人や生き物には無意味ではない。継続して摂取さえすれば実質の健康被害がある点から追求しなくては。

2011年4月4日

東京的ニュースのおどろくべき悪慣習

��HK水戸で、華川のどっかへ女性死体あったって恐ろしいニュースをやってたけど、確率からいうと市内のひとな場合は低い。どっかからきた人がそこに放った可能性がかなりある。しかし確率論だからなんともいえないけど。

自分がずっと市をみてても殺人事件なんか一度もみたことがなかった。もしかしてどこかではいままでもすこしばかりはあったのかもしれないが、少なくとも耳に入ったこともないし、はじめてきいた。
千年とか二千年とかの極大単位、あるいは少なくとも五百年くらいで統計しろといわれるかもしれない。だが人家がぽつぽつできはじめた常磐炭鉱の開発付近の時代からみてた限りでは、自分はただの一度も殺人事件というものがあったらしいことさえ見聞きしたことがない。というか人が死ぬのすらめずらしい。規模の小さな市だ。どこかで誰かが亡くなればすぐ話題にあがる。
なるほど、達のわるい虐めやら暴走族やらならみたことがある。それらは訴訟されたり告訴されたりの割合から明白な犯罪として認められづらいが法のめあてを破ってるので悪さではある。しかし、殺人事件(らしいもの?)なんかうまれてはじめて市内できいたしみた。これは本当の本当。常磐炭鉱時代からみててもそんなもん万一にもありえることさえしらないくらい、ごく平穏系社会だったし、人口統計上の予知からいえば今後もますますそうなる。

 この網記の影響がどれほどかまだ分からないが、それがNHK水戸や茨城新聞系の取材をある程度ひきよせる蜜になったかなってないかだろうけど、「わるい事件」だけを取材してわるい情報量だけを極大化する増すゴミ的な方法論はやめてほしい。まじで迷惑。なるほど死体遺棄事件があったというのは事実だ。
しかし、自分がきたいばらき人たる経験則からいうが、市内でおきた殺人事件などではおそらくない可能性がたかい。いままで一度もみたこともきいたこともないのだから、突然変異としても異常すぎる。わけわからん殺人なぞする人間など市内には従来はいなかったということになるだろう。みたことのない話なんだから。

こういうわけで自分はそのニュース報道がまるで東京あたりで起きた事件みたいに北茨城市内のはた迷惑な悪事(自分の推測では遺棄先にされた訳だと思う)を、あたかも一般的事件みたいに流すのはぜひやめてほしいわけ。どういうかたちで流れたかというと、夜のニュースみてたら突如、華川(これは市民にはとなりの小川みたいな印象のことばだ)で女性遺体が発見され殺人事件として警察が捜査をすすめてるとか。まるで市内で犯罪があったかのごとき平気の平左なしらふ無表情報道だったが、ただのいち田園市民の自分はまじでびびりまくった。鴎じゃないから鴎とかまではどうかしらんが。
非常に非常に不安な感じになった。いままで一度もなかった話すぎ、情報量がわるい方面に多すぎる。北茨城市民性を解説するが、我々は正直いってほとんどの層が「放っておいてほしい(泰然自若の心地で)」ので、少しでもテレビ取材とかに絡まれるとここまでなにか東京化されるのかと絶望感に包まれる。これはあれをたまたまみてた市民にとってすれば、市内で自分だけの感じ方では決してないだろう。なんの花が咲きましたとか、海行って泳いできな級の郷土共生田園市民というのが本当の北茨城市民の9割以上とかであり、わけわからんどっかからふっかけられた系っぽい最悪事(多分あれだけ被災系ニュースで関東一円向けに天気予報なんかやってたから丁度いいみたいにして来ちゃった人がいたんではとおもう)に、あたかも昔からけっこうある話みたいな東京系の賤しい偏見つけないでほしい。まじめに。この市内でわるさの下限といえば、かねをつかって映画つくるな市長とかそういうレベルでござる。

そういう大衆社会化の疑心暗鬼状態につながる不穏なはなし、をこの小規模な田園市で、被疑段階不確定なのに普通のニュースとして(あたかも殺人犯が市内にいるのが当確みたいな雰囲気で)流すべからず。動揺度からいっても悪影響しかない。
 もし本物の北茨城市民があのニュースを書くとすれば、『遺体がすてられていたらしいが、どこからきた誰がやったかもわからない』というものになるはずだ。自分もそういう見方しかできない。こんな小さな市で万に一つでも殺人事件なぞ起こそうものなら永遠に住めなくなる。これが真理だ。

かなり以前、某眼科へ泥棒が入ったのも、市内の土着した人な確率はあまり高くない。よく茨城の北部のひとらへの評としてある「根が善良」というのはかなり信頼できる。
かれらはわるさに近いおこないをしようとおもわないまますることはままあるが、大それた悪事をはたらく達の人格では、従来ない。きわめて平和で気候のよい、しかも競争のゆるやかな居場所なので科学や高技術など手間がかかる難事へつよい感心がなくなり、したがってあふれるばかりの見識と教養というものを決して多くの人がもってるわけでなく(だから欠点克服のため純粋に科学知識をおしえる大学、リベラルアーツを与える場をつくれと前々から唱道してるのだが)、よってそういうあまり洗練されないたちの行いというのは多くの場合かれらが「無知」「無学」の傾向がつよいところからきている。基本は決して悪意や悪業にひどく染まるひとらのタイプではない。それとしらずして勘違いをなす、という典型みたいな純粋田舎者が多いが(これは9割が郷土のひとからできあがっている市政が代表だけれど)、首都圏にほどちかいゆえ客観的情報はわりとゆたかで最低限度以上の判断力は(義務教育以上、高等学校も9割超が出ているから)もちあわせている。その意味ではくさるほど人のいる東京都あたりの俗悪きわまる諸人格とはある種、対称的といえそうだ。これは自分として多く市内のひとらと会ってきた結果として法則的にいえる。

学校教育ひとつとっても極端なまでに道徳意識を叩き込まれる地柄であり、それはおそらく旧水戸藩内の風儀なのだろう。

勿論これも内集団バイアスの一種が入り込んでいる見解だろうけど、経験則からはたしかにそういえる。かれらが行うわるさは本物のわるさではない。なにもしらないことからくる不合理でしかない。
 むしろ外からはいってきた、ほかの異なる文化をひきつれている外来者の中に、従来とちがう慣習の多くはある(たとえば転校生などがこういう違和感のある人柄だった。くらべて、土着した人達、つまり北茨城あたりの血統がつくる社会行動には一定の文化型みたいなものがあるのだ。雨情の性格や、石井氏、あとはみぢかでも かば こと高橋氏なども、北茨城市民的な何かがある、様にみえる。ある根っからの生真面目さというか)。
大勢がみれるので、文化面でいって東京系テレビなどの影響が皆無ではないだろうが、それもどっちかといえば遠い場所のできごとな距離感なので実際にはかぎられている。他人事としてみている感じが大いにある。それは水戸あたりとも全然ちがうのだろう。だから北茨城市圏でああいうタイプの都会っぽな取材をああいうタイプの無表情無関心報道へあたかも普通にありましたみたいに仕立てられるととても困る。まるで江戸湾と函館くらい文化圏がちがうといえるだろう。ここは関東の極北で、市民性は一種の相互監視の絆へ強固につながっている。つまり昔ながらの村社会性をきわめてつよく秘めたかなり狭い場所なので、ちょっとしたニュースも激震になってしまう。
事実をつたえるのは必ずしも間違いではないかもだが、恰もあんなはためいわく超確率小な突然変異遺棄事件だけが登場機会すらほとんどないこの極北市の代表的事件みたいにいわれると、全然ちがうとしか言いようがない。今後おなじことがある様なら、うわさをひきよせてしまうああいう‘ムイミに有名にさせよう’とする芸能界じかつづき報道体制のせいもあるわけで、NHK水戸へじかに注意するつもり。できるだけ我々を放っておいてくれと。そしてあえて部分を極大化してみせるニュースとかにするなら、できるだけよい話題にしてくれと。これは田園都市に住む市井の鴎としての本音である。


追記
もちろん、これらの推測が全て誤りで単に殺人犯が市内に定着した何者かかもしれない。その確率はゼロではない。しかし、今までの歴史経験からいえば市内ではきわめてその確率が低いということは、こうして言っておいていい。しらずしらずのうちにというのはまずありえない系事件なのだから。鴎ごろしなら渚なのだが。
 たぶん犯行の確率でいえば「全国の平均」より市内のそれは遥かに低い。全国でこの種の事件が起こる確率は全国向け放送が日ごろあるからかなりの割合だけど。よって事件の情報量が、こうしてわざわざ長々しく市史からの事情を驚きのあまり解説してしまうくらい一市民には極大だったのだ。

2011年4月2日

磯原物理

 液状化路面の盛りあがりはつぎの数式でとける。

F>f ∧ F=ρVg>f=ρvg ∴F-f:粒体浮力

F:Forth:浮力(大)
f:forth:浮力(小)
ρ:粒体密度
V:Volume:物の体積(大)
v:volume:物の体積(小)
g:gravitational acceleration:重力加速度
なお、下図で

V=S×L ∧ v=s×ℓ
S:Space:物の底面積(大)
s:space:物の底面積(小)
L:Length:物の丈(大)
ℓ:length:物の丈(小)

 ちなみに、一般の物理教科書などでとかれてる(液体)浮力というのは引力に比例し物の下面にかかる水圧がより強いから生じる。だから粒体浮力のばあい、土中圧力があり、下面にかかる力はより強い筈。

市役所の都市計画課への再三の説教

北茨城市役所は能力がひくすぎる。期待水準よりずっと下で、当人らが自己満足してるから手に負えない。
 夏になったら暑いだけだからやめろ、白塗りにしろと繰り返してもぜんぜんするきがなく、あたりじゅう真っ黒いアスファルトでうめつくす。痴呆ということなのでしょうか? 日本語も通じていないみたいだ。かもめ語などいわないが、なおいうまでもない。

とかく半北國なのに夏を暑くされるのはたまりかねる。腹に据えかねる。やる気というか十分な能力がないなら市役所などすぐやめて白塗り会社でも興してほしい。だれに言ってるかはわかるだろうけど。いくらをふところにおさめている? どんな額だとおもってる?*1 税だぞ? それを我々からとって、まともな市民奉仕の仕事ひとつこなせないだと?
 たとえば公園をつくる。というか空き地を壊す。ところがまたも黒塗りのアスファルト路面だらけ。これで涼しくなる確率はゼロなわけだ。むしろ悪化しかしない。なにせ建設事業の熱量排出はすべての産業内で最大なので、ただでさえ熱くしている上に。まったくつかいものにならない級の市役所の能力。なぜそれなのに首というか破綻しないのかがわからない。民間企業ならとっくに…みなまでいうまい。破綻も徳ということが、低能については十二分にある証左。

 あと、前からおもってたが水道をじか埋めにするのは土木技術がひくすぎる。マンホール状にして、地下に通しておいたチューブ内に電線をひく要領で、水道管もとおせばすむ。いちいちなにかあるたびに掘り返してるが、あたまがどうかしているのではないでしょうか。それともほりかえしの税源をせっつくためでしょうか膨らむ赤字財政のシロアリどもは。もち建設市債内でも。

ーーー
��1
http://www.city-kitaibaraki.jp/uploads/fckeditor/13/kouhou/11-02/2011_02_06.pdf
を参考に計算。
 現市長の平成22年度の報酬総額は、
�10,440,000+¥2,392,500=¥12,832,500
つまり1283万2千5百円也。
 ちなみに議員ひとり
�4,692,000+¥1,071,340=¥5,763,340
つまり576万3千3百4十円也。

さらにいえば副市長は
�8,568,000+¥1,963,500=¥10,531,500
つまり1053万1千5百円也。

おどろくなかれ、かれら、これよりもらっている。各種の役職手当てがあるから。毎年まいとしこれだけの金をふところにしまっている。現実に。市内で。
かなしむなかれ。じつはこれらに加えて、退職手当てなるものあり。市長へは1期で1914万円。副市長へは885万円。なんだこれ。まじめなはなし。そんなに金をもらってあのトオリイッペンカタチダケ市議会、の前の全員協議会とやらで独裁ムードづくり。達が悪いにもほどがある。

こういう額を堂々ともらっていてあれ級のはたらきしか、いざというときも普段もできなかった無能市政。これが真実の北茨城市の政治界の出来だ。この額をもらっておいてあれ。とは。一週間、まったく市民ほうったらかし。電話でも窓口でもわからねーんだよねの一点張りで市民軽視と対応無視。しかもがらあきの体育館の横の市役所でいわき市へこっちは手一杯と嘘をいう(茨城新聞記事より)。その後。わざとらしい英雄ぶりや小泉jr.向けの必死劇場とは。はてさて。これはどうなることやら。まさか、総辞職以外にリストラクチュアリングの方法論がありうるとでも。この期に及んで? あなたら俗物に、このもし市井の鴎ですら書くのも作るのも大変なブログへは今の今までただの1円1銭も入ってないのはどうでもいいことかもしれませんがね(広告はエキサイトがいれている)。

いきなり

網記タイトルをかえたけど、ちゃんとした大学が建設されるまでの暫定措置としてはこっちの方がまだいいとおもう。報道は報道でしてくけど、このあたりに最も欠けているものを優先して流す方がみなうまくいく。はず。かもめ科学では必ずしもない。

避難所の工夫



http://photo.sankei.jp.msn.com/highlight/data/2011/03/31/4tent/
より引用
��~~
テントで守るプライバシー

 避難所になっている大船渡中学校体育館にはテントがずらり。20個並ぶテントは外国人から贈られた。テントで暮らす小野寺香織さんは「暖かいしプライバシーが守られて落ち着く」と話していた=31日午後、岩手県大船渡市(矢島康弘撮影)
��~~

これはもっともわけあるとおもう。ながい避難所ぐらしは抑圧だし、こうすれば仮設住宅風でしばらくいてもそこまで不便はない。テントなら一件ごとにかかる費用もすくなくすぐ導入できる。

2011年3月30日

工学

 大容量据置蓄電池を開発販売し、利用者の少ない為より安くてにはいる地方(つまり可逆な設置方式にし定期的に輸送し交換させる)やそれを置く現地などから深夜に充電させ、これをひるま使えば節約になるというシステムにすれば夜間との電力ギャップに適応できるとおもう。*1
 先ずは大企業用が有効だろうが、家庭用もはじめから視野にいれると裾野は広い。

 いまでいうガスボンベの様いずれ全ての家庭にもこの蓄電池が外に据え置かれる時がくる。メンテナンスもはじめから一連の事業にすればきわめて将来性の高い発明。
 水素発電は送電ロスをへらすべく初めから蓄電池へじかに充電させる確率も高いので、この事業計画は滑らかなほどよい。


ーーー
��1 ちなみにソーラーパネルへの助成で自家発電が普及してから、この蓄電池はひるまにも充電するばあいがありえる。よってアルカリやニカドなどより、くりかえし充放電にたえる系でより安全な、現状でいうニッケル水素充電池状の方がいいか。タンク状は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E5%85%85%E9%9B%BB%E6%B1%A0
を参考にすると、すでに宇宙建造物系(人工衛星や宇宙探査機などらしい)で実用化されている。但し、水素爆鳴気そのものの危うさは解消されない。
 とかく他の技革にも応用できる、夜間のほかのアクセスにも対応できる汎用型がとりあえずは家庭用にはよい。

2011年3月29日

自民党閥と本当の市政の姿

電車や交通基盤がたたれ、家にいざるをえないひとが多い今こそまとまった読書や勉学のいい機会なのだが、又これも現市長悪政の記録になってしまうけど、残念ながら図書館が電子化されてないうえひらいていない。

すぐにでも整理をはじめねば開館は遅れつづけるだけだ。

 もし私企業ならすぐにでも営業再開せねば顧客にそっぽむかれていくのであやういが、図書館はあのわるい市長のもとについているのでずるずるといつまでも休むつもりらしい。一刻もはやく復活したら市民の知性のそこあげにもなり、まさにいまこそ急ぐべきときとおもうのだけど。
偶像じみた進次郎氏への、市長室前での泊まりがけ避難客の誇示なんかしてる場合か*1。自分はみていたが、震災直後の一週間ははっきりいってそんなひといなかった。あの空間辺りはだれもおらずがら空きだったし、むしろ商観光会かなんかのひとに一市民である自分は、あのあたりの間から遠ざけられた。

この二三週間目のどこかで、ある種の「負担」や「自己犠牲」のわざとらしいディスプレイのため市長室前まで、被災したひとの一部をまねきいれたのだとは推測される。しかも市庁舎以外にも無数に避難所はあるのだからわざわざ実務すべき庁舎に、一見さんの報道客むけに、観光ぶった被災の演技派ぶりをみせられても飽きれる。完全な劇場。しかもバレバレの低俗ぶり。
さっさと仮設住宅や、あのがら空きだった体育館へ間仕切りを用意するなりすこしなりとも『市民奉仕』の実例があれば、いまの市長の系統をただのそらとぶ鴎がここまでみなくとも済んだはずだが。飽くまであのそとづら飾りの姿勢らしい。鴎には鴎の見方あり、自民党には保守の偏見あり。


ーーー
��1 進次郎氏のウェブログより
以下引用
��市役所では市長室の前に避難生活を送っている方々がいらっしゃいました(市長さんも市長室で布団を敷いて寝泊まりしてるそうです)。

2011年3月28日

工学

 電力不足の解決には、できるだけ巨大な施設へいっぱいにした蓄電池をハブにして緩やかな供給力をもたせればいいだけではないか。
 ヘルツ数のちがいも、いったん他の地域で充電したものを接続しなおせる施設のタイプにすればなにも関東圏だけで電力をあがなう必要はない。要はやすい地域(海外ふくむ)で充電してきて、関東一帯にもうけたこの蓄電池施設あるいはpluged power plantを介せば致命的な電力不足にはいたらないとおもう。

市長批判

『(こういうときに)必要なのは物じゃねえんだ、ハートなんだ』とほざきいつつ、年に1283万円2500円を市民税からふところに仕舞い、しかも再三の注意にもかかわらずどうでもいい映画などという演劇系サブカルへ大金や役人労力を注ごうとし*1、最悪なのは被災一週間はなにも音沙汰をみせず市民を事実放置し、災害に備えろ無駄な票田囲いに娯楽ばらまきをするなかれといつもいつも注意されていたのにまったく機能しなかった江戸レベルの手動半鐘と周知すらされていないし電気がとまりうごかない災害メールしか行政の義務な事前対策をしなかった極悪市長。

さらに無能すぎる証拠。なんと避難拠点である体育館や学校など、耐震補強を市民からの再三の注意にもかかわらず怠りつづけた。だから驚くべき悪徳の程がしれるが、いざとなって我々は避難所に入れなかった。おのれのふところがねとかねもうけ娯楽出費用(シネマクラブ? そんなものに血税をつかうな極悪人が)に税金浪費、さらにそれをつづけようとしている矢先、でいまさら進次郎氏みたいな劇場型の芸能人まがいのチャラ中央おエド政治家にこびだと?

これが一市民の眼からみた「真の現市長の姿」。しかも、市役所へ対応をおねがいしてもわからねーんだよねと門前払いや普段そのままの怠慢低奉仕。いつもだしいざとなっても。いかに無能な部下をそだてている不良行政かわからない。わたくし企業なら即首なのは前提で。
これは本当に本当のことです。市民は決していまの市長を肯定的評価すべきではない。これは長年、この市政や市の展開、そしていまさっきあったまさに行政人の防衛者たる本能や才覚が試される危機に及んでの最終的結論である。あの血統はまったく試験にとおらなかった。完全失格。そういうことだ。

本当なら世襲独裁をふせぐ目的でかれの先祖の銅像もみずから壊すのが道理というもの。それが失政の最終責任感というものではないか。にげおくれた死人や家をなくした人達のまえでおのれだけは中央政治に媚び売りだと?

自分はたまたま助かったが、すでに亡くなっていった犠牲者たる市民のたましいの上で『必要なのはハートなんだ』ですか? 災害ラジオひとつくばれず、ふんぞりかえっていた正真正銘ヤクザの親玉などなにひとつ擁護すべきではない。

だから、このすべてにおいてあやまった判断で、われら市民へ迷惑どころかあしき因縁をかけた小泉jr.もたいした政治家にならない(なれない)だろう。いや、なってはいけない。本当に困るやからだ。親もイラク進攻を事実上間接的にてつだった長いものには巻かれろ式のジャイアニズムな悪玉だったからそれもしかるべきかもしれぬ。だが業はのこる。たとえどんな辺境の地方でも。

参考URL
http://ameblo.jp/koizumi-shinjiro/entry-10842132284.html

ーーー
��1 計さらに2億4千万ちかくを市税から娯楽系出費。全面光ケーブルなぞという贅沢品敷設プラス、地震でぼっこわれたという噂らしい(たしかめてはないから真偽不明)あの豪華な映画座席。ありえない。耐震さえされてないおんぼろ避難所群と、字の消えた注意書きの江戸時代レベルの手動半鐘の前で。消防署がすぐ海の傍に置いてある時点で土台おかしい。そういうこと平気でしてくるひとを行政府の長に就ける市民の知力とは鴎なのですか? あ、鴎ではないんですか。






公園事業のおはなし

いそはら中央公園なるもの出現。まだ未完成だが。ひろくみえるのはいい。しかしもとの広場状態でもかえって希少価値な「なにもなさ」がよかったのだけど。
団塊とそのjr.は空き地というものへ不思議と手を加えたり、囲いあげ閉めたがるがるふしがある。けど、ちいさな子供は空き地を最大の遊び場にする。不思議だが、高度成長期以後はこういうなにもない空き地がきえてしまった。かわりに地代あげのためのサブカルチャー店舗やら大規模郊外型量販店やら巨大駐車場やらフェンスで囲って市民を締め出した悪徳行政の独占独裁地がいくつもいくつもできた。しかも放課後、学校は入れない。勇気と寛容さ、そして智恵のないおとなの自業自得のみならずこどもへも環境は悪化したようだ。

ところで、広い道路がわへは高さのある程度あるフェンスがいるのではないか? 幼児や子供がボールあそびをしていて事故にあったり、歩道の通行者へ予期せぬダメージをあたえそうなのがめにみえる。そこはしごとの手落ちではないだろうか。

あといつもそうだけど、トイレとかのデザインが適当に古臭い。駅のむこうのも。
だれが設計してるかわからないけど、いつもの票田手法のごとく土建票つながりで、競争発注や設計競技みたいのはしてないのだろうか。よかれあしかれ保守的か退歩的な性格があちこちにでてくる。
 けど技術革新へ退行して伝統工芸みたいなものをずっと飽きずにつくっていると、必ずや地帯の産業地位は低下してしまう。生産性の機械的向上がないから。
できるだけ伝統や風土、地域らしさと調和する、最先端の技術をつねに採用していったほうがいい。磯原駅は一つの模範。いままでとかわりないただの屋根がわら(しかも崩落対策なし)はああいう感じで地震によわい伝統なのでもしかすると外観装飾の質としてかならずしも最善でなかったのかもしれないが、ホログラムをつかったり音響装置をいれたり技術への感心の高さがみられるのがよい。

2011年3月27日

北茨城政治学

人口扶養力=人口密度\人口支持力
人口支持力:総生産に比例し生活水準に逆比例する値
なので、あえて人口密度を下げるのは市民の幸福感を上げる徳。人口扶養力が真の社会的幸福感の素ゆえ。

 市内人口密度の増大が繁栄と勘違いしているのは無知による。

 またラットレース(鼠競走)ではないのだから、ある程度の成果主義の導入(つまり振り落としか進級制度の採用)をすべきであり、かつ入庁段階から学歴符号差別をするのはかならずしも最善ではない。天性への疎外か、階層の固定と同系配偶による組織の弱体化につながるだけか。
 この固定化へ最もあり得る解決は、厳しい成果主義(つまり、解雇の多用)だろう。それによって期間雇用層がふえるかわり、窓際族も過剰学位による不適任もなくなる。但し、不安定雇用状態が生じるので他の福祉の受け皿、つまり失業保険制度などが完備されてしまえば採用できる。階層固定化の最大の害は腐敗の温床となって行政効率を下げていく事、各種の制度疲労から社会の公益機能が麻痺する事。但し、安定した収入の貴族性に伴った社会構造の安定は逆に学歴符号差別や年功序列など固定的制度を維持する事による。この階級化要因は、極端な成果主義社会の欠点が自覚されれば再び見直され制度に復帰させればいいとかんがえられる。

2011年3月26日

都市計画学

 都市計画学でいうと施設は人口一様分布のばあい 1/(√人口) のわりあいで設けないと効果がない。なぜなら面積当たり移動距離は二乗でふえるのに施設へはその間の主観点からしか到達できないから。
たとえば下の図で あ から他のふたつの丸まで行こうとすると、距離は二倍かかる。なぜなら往復するから。


もし人口が二倍になり い の人があらわれたとすると、また移動距離は二倍ふえるのに人口は一人しかふえてない。


こういうわけで、人口あたり二乗の割合で施設をもうけないと満足な都市にはならない。だから二乗のわりあいで人口は、自然にはあつまってくる傾向がある。なぜ市ができあがるかといえばこういうわけ。
 で、いま図書館のあるあたりへ施設集積させたほうが、ばらばらに分館をつくるより二乗だけ効果が高い。うらをかえせば、もし中心地域より遠くへ施設をいくらつくっても、たとえばその距離を半分にしたければ四倍の施設がいる。こんな風に。

よって、じつは公共施設というのはこういう風に作るのが合理的。

そうすれば人口が二乗比でふえても、施設はその√分の1のわりあいですむわけだ。つまりは、磯原のあの図書館あたりへ学習設備はあつめるべきなのだ。そうすれば市内のひとがより便利に幸せに勉強できる。

磯原経済学

 産業の質か達は、必ずしも総生産値などの既存経済指標に反映されない。
 需給の振り子はそのいちばで生きる民がなにを需め;もとめ、なにを給る;たまわる かによっている。だから総量にみた経済圏が必ずしも幸福感の比べみた理想の姿ではない場合も多く、逆も然り。
 もし総生産が総取引とは別の値だと分かれば、現代経済学の上で純生産と純取引とは分けて考えられゆくだろう。いちばの取引量を目あてとする税収運営の組織、つまり政府も、もし中間搾取の悪意がよりすくない純生産費のみへのえり好みがいちばでつづけば、相対的にちぢみきえゆくはず。

だから市場での磯原指標の高さは実質の富が必ずしも交換価値の追い求めとならない証として一つの現代経済の進み方を示すだろう。
 なるほど需給の達がより高貴なもとめに応えゆくのは「高い教養教育」が成功したときに限りそうだ。このいちばではつまらない、とるにたらない需要が起きようはずもなく、より高級で上等な品が次々に取引される適所となる。
もし総取引の額がどれほど少なくとも、この様な市場こそが本来の経済の目あてであり、旧総生産指標の高みにより外威を張るおもいは決してよい適所の目安ではない。極論すればそれは人口密度比にしか捉ええない。

2011年3月24日

したたかな浜辺計画

一気にこわされた都市の再建にあたり、ここいらではそうでもないかもだが、もっとも有用なのは「大規模な都市公園」をはじめに中心領域へもうけてしまうこと。

倭系の都市はどうしても江戸化・東京化・京都化というか、過密化へむかってしまいがちだけど、一掃される度々の機会にのみ都市へ共有地としての憩いの広い場をもうけうる。そしてそういう機会をのがすと、ほとんど際限なく過密になっていく一方で最終的には奇形な風儀がはびこる。これは歴史的にいえる。つまり放っておいてもよくはならない。かといって全体統制すると(社会主義国の堅苦しい都みたいに)うまくいかない。
 特に岩手県・宮城県・福島県あとは茨城県大洗町にはおすすめしたい。災い転じて福となす、ということも都市計画にかぎっては大きくある。冥福を祈ると同時にしたたかな長期展望を実行に移す事が今ならできる。

 大洗町の例をとれば町立または県立の海浜公園として、津波のきた限度までは県有地として買い上げ、そこ一帯を砂浜もふくめ超大規模の都市公有地につくり解放しておく。こうすればレクリエーション施設も費用省略でき、一石二鳥。かもめにはあてなくていいけど。

ちなみに大津か平潟、磯原の雨情記念館付近でも、津波記念碑とあわせたひらいた海浜公園をもうけると海からの既存私有地の後退とかねていいとおもう。すくなくともいままでより強烈な堤防で天然記念物的なきれいな砂浜をつぶしていくよりはすぐれた環境になるとおもう。

2011年3月20日

この原発かこまれ市政の法的義務

最低でも、地下へ放射能からの遮蔽効果に十分な避難室を、市内の建築として義務づけねばならない。
今の進歩と賢慮に欠けた不良市長(全て己の身が安全になってから漸く言い訳をはじめた普段税収のかねもうけ団塊虫)とその部下一切を首切りしてからではないと実行されないのが誤りないが、少なくともかれらの首切りが要るのはまったく間違いない。つまりは即刻、罷免。よほど危機に強い人物をおかねば今度こそ、まずい。
世襲政治家ほどまずいものはこの世にない。
 もしあの絶望きわまる無力な市政とそのトップ*1でありながら市民血税で私腹を肥やしてきた悪業の償いをとらせるなら、そこから得た財産全額を市民のシェルター費用へ寄付捻出できねばならない。それでこそ、はじめて市民の魂をまつる意味へ至る。

おそるべき災厄のさなか、まったく音沙汰もないばかりか市役所の対応が市民をまともに相手にしない官僚主義な不良きわまるあしらいとは。
 これで市民の安全よりも、さらに我欲をのばしたいがための東京電力系施設を誘致となったらこれはもう駄目人間どころか極道としかいえない。まこと極道鴎なんか海辺にしても嫌われもの。しっしっ。

 淋 し け り 五 浦 に な き ぞ 鴎 の 宿 り

―――
��1 具体的に市役所員と市議会議員、そして現市長とは、何度となく市民から無駄金を使うな震災対策をしろと注意されていたのに、税金から取った大量の私腹を肥やしつ(なにしろボランティアである民生員らの如くただ働きでは何等ない)、まったく使い物にならない500年前レベルのアナログきわまる半鐘、そもそも周知の努力すらなされていない使えない電子メールしか危機管理がなかった。全国放送のNHKで暴露されたのでもうしらんぷりを決め込むのはむずかしい。
市井の賢人からの忠告や自然を舐めきっていて耐震対策をしなかったいくつもの学校の体育館は、自分ふくめ、震災にあったいざというとき中へ入れなかった。これは常識以下だとおもうけど、ハザードマップを各家庭へ配りもしなかった。さらには、日立市の様な立派な緊急用ラジオも、ここのくさった鈍くさ無能市政はケチすぎ出費を惜しんでつくらせなかった。しかもまねろまねろとただのかもめに注意されていたにも関わらず。
おそるべき物分かりの悪さは、これよりさらに下があり、なんといつもお世話になっているはず「いわき市からの避難民」をほかより優先してうけいれる協定を積極に結びへ行きさえしない。茨城新聞によれば、御市長じきじきに手一杯だなどと恩着せがましい虚偽を放つ。かもめが見た市民体育館は99.5%の空きっぷりだったのに。行政情報に透明性のかけらもないではないか!
どれほどまでの腐敗だったのだろう。しかし、もう先はない。あとは世論に任せればよい。自業自得という前世来世を貫く世界の法に、なにもかもを処分してもらおう。鴎の死骸を運び、海風と舞う潮騒の響きと共に失政の責任者は去るべきだ。

2011年3月17日

県政への御要望

県政がどのくらい動けるかは不明だが、できるだけガソリンがこの市にもたらされればそれは救世主となる。
��自衛隊車両による給水はもし自前でも、ほかのすでに水道が出た地域へまわれば行けるが、その足が絶たれている世帯多数なので都市計画でいう(√人口)\1法則に従って自乗倍の給水所を設けねばならなくなる。)

結論をいえば『磯原駅前・大津駅前・中郷駅前・などの中心圏へ最小限の給水所』をもうけ、そこまでの各世帯や助け合いの足は『ガソリン供給車の最大数の優先派遣』で自家用車で補ってもらうほうが回復と避難民らの退避がはやい。

現状のガソリンスタンドはどこも長蛇の列で路駐の混乱をまねいており、いわき市圏からの避難者がバンバン入ってくる条件上も、今後もさらに需要がますことはあれ決してへらない。(ちなみに一部ガソリンスタンドでは整理券をくばっているので、市政の事勿れとは能力が段違いとわかる。民営化に次ぐ民営化。これがいまの国政全域をふくむいつもの財政健全へ最善の原則と判る。)
 県政が放射線被爆者への調査をしてくれるのは県広域にとっては望ましいので程度あれすべきだが、残念ながら北茨城市圏に退避した人々は、このままいけば下手すると全滅する。そういう危機感をおぼえる「よく状況が分かる」市民も多くいる。平和ボケたオジイサマオバアサマは鴎以外にも無数にいるがそれは全国区でなのでなにもいえない。

2011年3月16日

市の状況

 この市の一市民(自分)が市として現在要求していると考えられるもの。『ガソリン』。これは移動の足がなくなることから緊急度が最も高い。ほかの物資に致命傷はいまのところない。ガソリンがいる、できるかぎり多く。

すでに連絡したひとは別だが、そうでない人向けに自分のしりえたかぎりでこの地域の状況。震災日から今まで。

��.最初の地震で建物や塀、道路が崩落瓦解(瓦解だけに瓦がほどけた棟多数)。路面も移動困難な場所や、そもそも崖崩れで侵入不可能な場所あり。
��.津波がきて、雨情生家あたりは一階浸水。その高さにあった道路も戦時中みたいにボコボコ。避難した人は市民体育館などに(おそらく)その日から移る。当然、避難勧告らしきものはなし。万一あったとしてもどこであったかもわからない。自主判断で各市民は好きなところへ避難した。
��.線路上へも建物や流されたもの散乱。水道・電気は停止。ガスは機械的に停止(ガスボンべがある人はその後、手動で復活可能だった)。
��.近くの高台や避難所(おもには学校?)へ移動した人あり。ただしあまり多くない。磯高生は徒歩避難の者もいたみたいだったが、おそらく学校で待機していた生徒もいくらかいた(アニマルだからだが、はしゃいでいたチャラ高生あり)。
��.大体、磯原あたりの高台は津波からは無事。町も駅より山側は津波の影響はあまりみられない。
��.携帯電話は震災直後、その後も使えず。混み合っているという反応しか返ってこないのでつながらない。災害情報も数時間後、とっくに揺れがおさまってから突如出現して避難した人らを驚かせる。災害情報掲示板へも同様にしばらくアクセス不可能なのであまりつかえない。

以上震災当日。

��.その後、(避難所でも)おそるべき余震多くあり。寝付くことはほとんど無理。少なくとも二三日はそういう状態で、安心していられないゆえ時のたつのがはやく感じる。きのう地震があった気がしつつ四、五日経過。
��.電話は緊急回線みたいな音がして電気が通らない段階でも、固定電話は使える。携帯電話は震災二日目に回線がようやく回復。ただし電源がないので慎重におそるおそるしか使えない。被災二日目のおわりころには電源が切れた人多し。
��.助け合いをする古くからの市民、勝手に遠方へ逃避した新しい市民など統率のとれた一定の行動はしていない。信号機はとまり、注意深く市民らはそこを通行する。
��.給水車がきたと、ひとづてにどこからともなく噂がひろがり、学校へ行くと皆ががっかりする規模の軽トラックの荷台半分目くらいの小さな給水タンクをつんだ、ふつうの軽トラックみたいなものが二時間くらい余計に予定時間の場で待つときた。整理券を配れという市民がいたが、市の担当職員は「わからねーんだよね」と言って対応せず。市へ電話しても同様のわからないという曖昧対応。市へ直接行って頼んでも同様あるいはそれより悪い門前払いの対応(これでも十分やっている、なにせはじめてのことでと言い訳する職員・緊急対策部の職員あり)。混乱をまねくという私民らの現場予測に従って、4~500人の市民が寒空のした、すぐに空っぽになる給水タンクをくりかえしとりにいくトラックを手持無沙汰で待つ(もっとも先に並んだひとから総合すれば3~8時間程度か)。これは本日まで同様。震災6日後の本日に至っては、まだ水道が出ていない世帯が多くあるが、「出てるところからもらってください」と言い残し、市のトラックは来なくなった。

 まえに書いたが、この最初の被災当日(大抵の人は自宅で待機か?)は一切の市政から勧告も音沙汰もなし。電話しても対応はわかりませんで一点張りだったらしく、自分のばあいもそうあしらわれた(そこまで高圧的ではなかったが責任回避風)。
 震災直後にセブンイレブンとサンユーストアーへ品物をとりにいったら(その為の協定を結んだ直後だったから)、その閉めた入口で「売れないんですよー」という対応だった。「(こういう時なんだから)売ってよー」という土木作業員ぽいおじさんらへもこの対応だった。あれは商店のやとわれびとだから、解雇がおそろしくて自主判断できないことから黄犬風の卑屈な態度しかだせなかったらしい。
ただし、サンユーストアーは一人の勇敢な店員(30代か)が店内へ入っていって、しなもの(一口パン)を格安で売ってくれた。すこしのしなものだったが年寄がいたのでありがたいこと。この店員のほか店内で食品加工をしていたみたいな二人(かれらは「もう売っちゃったんですよー」と言っていたがかなり震災直後だったので本当かはわからない)以外、店員は本部へ連絡をとりに行ったとかでいない。
 市民体育館の中はがら空きで、避難した市民は奥の剣道場と柔道場へつめこまれていた。そこも満杯ではない。市役所のロビーには避難した人用のブルーシートが敷かれており、夜を明かし、炊き出しもあったらしい噂ありだが真偽はわからない。
三日後の時点では市民体育館奥の二か所の避難所へはどこからもってきたものか、おにぎり(具なし。塩漬け。手のひらに入る大きさ)が夜中に一人一個~二個くばられていた。毛布の提供もあったが、中は夜中にはどちらかといえば寒い。一階浸水の家族連れなどがそこで震災日からだろう、1週間程度の生活を送っている。お年寄りも多くいる。雰囲気は険悪ではないが、かならずしも和気藹々ではない。耳の遠いだろう女性のお年寄りが精神的に逼迫したか、さわぐ子供などへ夜中に少々怒鳴ったりした。
 自衛隊は何台かがサッカーラグビー場へ被災三日目に来ていた様だが、給水車を利用している市民はかぎられていたみたいだった。これはいつくるかもわからないし、あの市役所周辺の市民しかわからなかったからだろうし、くるにしても遠すぎて多くの足のない(ガソリンが足りていないので遠出はしにくい)市民には利用できない。以上かもめかもめ。


追記。自販機は震災時につかえない。電気がとまると取り出せない。水道なども電気インフラに依存しない形にしないと電気停止ですべてつかえなくなる。もちろん、オール電化なるものは被災最弱だろう。ガソリンが切れると移動もままならなくなるので、逃げる方法もなくなる。自動車も多源化しておかないとオール電化はやばいか。

北茨城市の災害時のこまかな情報と判断

 いきのこり鴎の総意だが、北茨城市と高萩市にとってのぞましい将来性は、『日立市に合併をもうしでる』ことだ。北茨城市は、自分の目でみた真実を書くが、単独ではさまざまな災害対策やこまかな臨機応変な事務対応をできるほどすぐれた自治体ではない。むしろ、大いに劣る。
普段からあらゆる対応において劣るということが市民の目にもはっきりする事勿れ地域なので、高萩市民や高萩市長の明白な反対がないかぎり、できるかぎり早期に(県北部ではもっとも優れた実績のある)日立市への編入をのぞむ。そして想定できる最大限の行政や普段からの政務のしごとを、日立市役所へ集約してもらうことだ。

北茨城市民たる独断だが、もしこれができないとすれば、県へ一切の罷免を覚悟のうえで市の全面的返上をするしかない。

一市民として確信するのは、市役所やその所員の災害時対応はむしろ北茨城市にかぎっては悪い方だった。よくないをこえて悪い。自分以外にもそう感じた人は無数にいたと思う。これは情報が忘却や風化されないうちに、できるかぎりこまかく一市民の観察のかぎり、具体的にどうだったか書いておく。
市は全然臨機応変な対応がとれず、いつものごとく市民へは門前払いや盥回しであしらい、市役所員や民生員はできるだけ責任回避、役人は根拠なく威張りくさっており公僕というたちばを自覚しておらず、要望は否定しながら事勿れで必死に保身し、‘お上の命令には犬のごとく従順’である卑劣あるいは協調的な本性をやはり関東圏人の典型として示すが、結果としてほぼ丸でなにもできなかった。つまり本質で無能政治だったのだ。
いつもの不手際の多さは普段だから緩めにやっているのではなく、本当に無能だからあの程度が能力限界だということにすぎなかったのだ。

あのままの市役所で今後も生活していけるかといえば、いち市民としてはとても不安すぎてできない。
はっきりいって機能していないに近しい状態がずっと、被災の不安感のなか飽くまで長く続いた。※1
特にひどいのは震災直後、一日中なにも連絡や指示がなく、簡易トイレ程度の設置やその通達もなし(これはしろうとでもおもいつく最低限度の)、災害対策らしきなにひとつの救済措置もない。
市民が大地震でどうしたかといえばそれぞれの独自の判断で退避や待機していたのだ。二三日後までいかにもとってつけた小規模な給水車がきたという人づてのうわさ他なにひとつも市民勧告もなく、現在、一週間たってもまだなにもない。
その後の経過で最悪だったのは避難所をおいだすバカ教師がいたらしい。普段から公共広場や市民の共有地を鍵つきで追い出すなとあれだけ注意していたのに、市役所員全員は知能が奇形化しすぎて公徳の観念がまったくなく、市民から税金を貪り取りながらいざとなったら適切な公共の奉仕者たる対処もなんらとれず、それどころか責任逃れと市民睥睨の態度ばかりとは! 
むしろ、この日誌をよんでくれる水戸以南圏の県政にかかわりある県民へはたしかな知慮をつたえたいのだが、北茨城市の公民は本当にろくでもないので、できるかぎりはやく併合なり合併なりで実質権力はなくしてしまうほうがずっといい。すこしでも平穏が回復すると、いままでの経験上、かならず市税をつかった映画なり芸術娯楽施設なり「公徳に欠ける」土田舎者の出来損ない投資へかねを浪費してしまう。※2
恐ろしいのはこれを止める手段がない。なぜなら市議会が、再三の報道でもわかっていただけるはずだが、腐敗しているからだ。あるいは市民性が、知力にせよ勇気にせよ弱すぎる、うつわが小さすぎるのだろう。

 市役所へ行って対応をお願いした人も多数いたと思うが、人である自分ふくめ、門前払いに近い扱いをうけた。
市民を見下しており、上司へはいぬのごとく従順で(解雇さえされなければ己は安全ゆえ)、市民奉仕が仕事であるという道理が全然通っていない。
 残念ながら、自分は対応を所員へお願いしたのだが、つめたくあしらわれ市庁舎内を何度もたらいまわしにされた挙げ句、結局、市民へのぞましい対応をしてくれなかった。
緊急対策チームという立派そうな名前のつけられた柄のいかにもわるい10名程度の壮年オジサンらが市庁舎の三階の、市広域をみわたせる場所に陣取り、手持無沙汰であきらかになにもしていなかったが、市民からの緊急要望を優先度順にききいれる気はなさそうだった。そしてかれらはただ踏ん反り返り‘お上からの命令’をなにもせずに待っていた。(そして市民へはどちらかといえば喧嘩売っていた。これは普段からそうなのでいつも通りということだが! 不良市役所であり市民性。)
 これでも十分やっているんですよ、といった責任御免の言い分は随分きかれたが、市民を守るといった使命感や税収でくらしをたてている者としての自責の念はあまりないっぽかった。

 それと、総合してみて、現県知事は県知事としての職責をかなり果たしておられたと思う(もちろんまだ先はある)。電力供給への正論もそうだし、福島県からの避難について混乱なき様、治める方法への啓蒙や周知なども手抜かりがない。だから現知事はそのかぎりで、茨城人として優秀だと分かる。
 今後の県政の大命題としては、東京都政が電力供給や都知事の対応からみても基本的には頼りにならないしジャイアニズムを緊急時には暴走させる、といった性癖がますますはっきりしたことから、現知事がご尽力になっている様、普段に於いて最大限の権限委譲を国との間でとりもつことだ。
 もし東京に利があったとすれば、マスコミだ。哀しいことにテレビ局は東京資本なので、ほとんどマスメディア経由の公的情報が災害時に情報孤立をふせぐといった「公的情報の最大共有地」とならざるをえない環境がある。民放もある程度までは災害への特集を組んでいた。
だから、日立圏が(それ以北をのぞいて)災害用のラジオをくばっていたのは大変にかしこかった。あれがデマを掻き消す効果、東京偏見ではないより地域の事実や実情にのっとった即時の情報をあたえる効果は大きかったとおもう。確認しないとたしかなことはわからないが。哀しすぎることに、このできのわるいほうの市ではなにひとつ対策もなければ、そもそも避難所が安全ではない場所すらあり、ハザードマップもまったくなく、普段は‘安全神話’とかいう亜教を信じこんでいてなにもすべきことをしない。
この網記のログをみればわかるが、説得してもなにもしなかったのだから今後もまずするまい。
市を潰し、周りへ編入させてしまったほうがまだ安心である。そして県放か県内の独自民放も、そもそも対立すべきではないネットメディアとの融合をふくめ、茨城県発で全国や全世界向けに検討し実施していくほうがいい。(ちなみに、当然ながらラジオの方が緊急時には使えた。ラジオ局は費用はすくないが以外に隙間な効果がとても高い。だからラジオ局は少しでも資本があればもった方が徳がある。テレビは「宣伝」効果に由来しているだろう。)
東京偏見のうえで、被災地はまだ回復しないうちから都内には全面的電力回復・くだらない商業CMやお笑い番組復活・計画停電回避ではぜんぜん話にならない首都圏といわれざるをえまい。茨城県にも、普段の時点で放送局を自前で確保しつけるべきだった。そしてそこからより正確な、客観的報道を送るほうがよりよかった。県内資本の首都圏からの奪還をふくめの課題。
 さらに、御知事の先見の明のとおり、国から「公約・盟約」のかたちで原発地域には保険をもらうしかない。いつもから下支えしてきたのに、いざ震災になればああいう後手後手の被災地あとまわしのろくでもない極悪対応をされてはたまらない。

―――
※1 つけくわえれば、市民一人ひとりは役人にくらべれば幾分かまし或いは平淡であり、もちろん普段からそうな様に科学知識や技術へのひどい無知のほどを露呈していてたとえば老人が‘津波がきている辺りを試しにみてこい’や‘放射線がきても遠いから大丈夫だよ’‘(震災当日か次の日に、)きょうの午後には水道出るんだって(⇔デマ)’など誤った判断を示した者がかなりいたが、わりと個々人がパニックで慌てふためく様子はなく、どっちかといえば冷静で、適宜に協力しあっていた。
ただし、これは国民性が奴隷心を古代から涵養されてきた育ちだから仕方ないといえばそうだが、大勢で列をつくっている給水のときも誰かが発想した整理券をくばるといったアイデアへ協賛してくるひとはおらず、びびって誰もそれを実行にうつさず、市長・市役所員・民生員・市民も臨機応変で果断な対応をとれず、おとしよりやこどもふくめ寒空のしたで何時間も何時間も縦列をなしたちぼうけしていた。あれはまことにエネルギーの浪費であり、倭人の集団主義体質の悪面を示していた。まわりが無条件に信頼できないので整理券ごとに相手を信頼して並ぶといった共通ルールが、緊急時にしけなかった。あれは社会心理学で分析し、次回にはちがったルールで対応せざるをえない。不合理な光景だった。というか、いまだにそうしているのだが。

※2 けさのいばしんでもすでに誤った印象をあたえるわるい記事が載っていた。あの市長はあんな英雄的な人間性ではない。直後はいうまでもなく、市民へは1週間、事実上なにも対策しなかったのだ。1週間後、市民がほぼ自分勝手に自力で回復してから、市庁舎で安心しきって大声をはりあげても‘無能か、震災直後の市民へはなんの緊急対策もしなかった’市長と不良チームだったのはこの私がはっきりとみていた。天知る地知る我知る君知る市民知る鴎知る。
マスコミはマスゴミと称されるが、やはり真実より建前を報道しすぎる。真実は無能行政であり、最悪の対応と、しかも責任のがれの事勿れに終始し、緊急事態に公共機関から避難してきた市民を閉め出していった教員をもった市だったのだ。むしろ、茨城新聞記者はこの真実を精確に報道してもらいたい。誤解をまねくことはなはだしい。はっきり書くと、震災時の市の公務員らは悪中の悪だった。かれらは即刻解雇しなければならない。一刻もはやく。
縁故採用をし、イエスマンのやくざで周囲をかため、茨城新聞記者の前でだけいい恰好としようとしても『市民の眼』の前ではそうはいかない。そして現市長豊田稔は、現実の市民体育館はがら空きだったのに、こちらは手一杯だと虚偽をのべていわき市や福島県に恩を売ろうとした権力主義の悪人だったということを我々市民は確実に次世代へ伝えつづけねばならぬ。当然罷免しなければならない。さもなければ、おなじことが再び起きてもおなじことしか起きないのがまちがいない。‘なにせ今回がはじめてのことで’と養っている市役所の税収役人どもへほざかせて。今後、かれの子孫が市政にちかづいても、その血統があるので大変危険であるということをあまねく理解させねばならない。

2011年3月11日

海のねの所信

もしも出馬表明の機会に映画制作会員のサクラをよびこみもりあげムードで市政独裁を正統化してもなにせ普段の議会が閑散すぎるので一夜漬けにしかみえない、という哀しい(多くは哀しすぎる)極北のいちばだが、なにしろ極北なのでそれもしかるべき淋しさである。もしものはなしですよ。
で一句。
 天 心 の 侭 に た ゆ た う 崖 っ ぷ ち

なにが心配かって、下手に宣伝しすぎるといわゆるgentrification(高貴化)が起こって地元住民がスラムへ追い込まれ且つ追い出される可能性が高いということ。
これはご自分がブレインかねてるっぽい市長、あと水戸市、県政もまだ自覚してないみたいだが、少なくともこの市にかぎって都落ち芸術村助成みたいなあくどいか下世話な構想は諦めたっぽいのでまだいい。
すでにニューヨークのSOHOといわれる地区などで、この一連の社会悪化事例はあかしされている。つまり‘村興し’がうまく行き過ぎると(しかも芸術でそれを行うと)、かなり短い期間に大量のどこかの馬の骨の若者らが入ってきて一気に場が盛り上がるかわりに、続いて、醸成された高級感にたかる宅地業者や各種の芸術商、最高級ブティックなどがその場をいやおうなき大量の資本投下で占領しだし、結果、周辺住民は極貧生活とともに居場所を追い出され、最終的には既存の文化ごと消滅する。

いまの侭で市長がなぜかしら市長のたちばでやりたがってる意味不明な映画制作(観光誘致の為に在住者らの税金があるのか? ただの全体主義な見栄費用ではないのか?)を行ってしまってくと、確率は低いがもし評判として成功しすぎたらだが、急激な高貴化によりあの辺やこの辺やの決してお金もちではない多数の住民は、絶滅か市外退避させられるだろう。
最も被害が大きいのは、近隣漁港の周辺の人ら。かれらは観光誘致程度のかるい意識で土地を売ったら二度と取り返せず、なにかの偶然で還ってきたころにはもうボロボロに自然破壊が及んだあとで。しかもそうなった土地は高すぎる上、あたりの物価も上昇しすぎてまともな暮らしもなりたたないので五浦圏からはのこらずいなくなるだろう。

 もし下手な劇場市議など演出したらこうなるのである。勿論、市税がだれかひとりの支援団体のための農民から奪い取ったばらまき銭っこなど、ではなく公益の為の市民全員の共有財産ならそうではないだろうが! 鴎の目はあざむけない。なにしろ神も天も、鴎らも、普段からなにもかもみているのだからいまさら、わざとらしい人気とりして俺に指揮させろと言ってもまったく冬の海のごとく冷めてしまう。
ベストなのは「大袈裟な映画にはしない」ことだ。岡倉語をひけば互譲の精神くらいならまだ罪は少ない。岡倉がきたころの魂の記録映画程度のもので納めておくがいい。
それなら高貴化もゆっくりとした速度でしか起きず、例えばフラダンスで湯本辺りがそうしたみたく、少しはよい印象をもたれ少しの観光回遊が増した程度に留められるだろうから。まあそれにしても観光政策には反対だ、観光地は必ず自然破壊が進むから。

尤も、貧乏性市民は絶滅させたいなら最大限の財政を投入し最大限の労力を費やしていい。そのほうがいいかもしれない。もしこければ市長もろとも市も潰れるだろう。あっはっは。

 か も め の 城 は 白 い 雲 か な 冬 の 海

なんにせよ、賢明なのはコツコツとまじめに生きていくことだ。勉学にせよ仕事にせよ、或いは娯楽にせよ。鴎だってそうしている。そうしない鴎は田園地帯から基本的にいなくなってしまうものなのだ。
一発逆転の冒険王みたいな漁師気質をもってんのかなんなのか(といってもろくでなし小名浜級の遠洋漁港系でもなかろうに)、大袈裟なしわざは半面で危険選好的でもあるかぎり中道の士からは尊重されない。

2011年3月10日

道徳と政治の正道

「道徳の高さ」を誇示することは、断言するが、かねもうけ行政の千倍以上の政治効果がある。

もし目の前に二人の人物がいる。
片方は山ほど金を余した韓国芸能人級の俗物、片方は正義感にあふれた質実剛健そのものの武士。さて、世を治めようと志した人はどちらと行動を共にしたがるだろう? 
自分が言いたいのはこういうことだ。腐敗した県政なら即刻退去願う。そして天命に遵うのだ。より有徳な者こそ行政の長にふさわしく、ろくでなしの金もうけ行政など即刻廃止、滅亡しか道はない。

 韓国人? なら先に隣の隣にいる東京都の穢多人種どもを潰せ。やつらのまきちらす劣った風俗がここまで水戸を経由してやってきてるのに気づかないのか? 
どうしてあらゆる手段をつかってそれを即刻征伐しようとせず、韓流だか最悪のちゃらちゃらした軽薄ドラマの役者だかを平気で厚遇してる? そんなやつら入ってきた瞬間に討ち取ればいい話ではないか。世界によい影響力でもあるの?

と、鴎が言っていた。事実、これができねば何匹が死のうと県政と国を乗っ取るしかない。堕落した世界へ文明が進む事はないのだ。たとえ鴎界であれ。

2011年3月9日

品性を落す相手とは縁を切れ県政

自分がもし県知事なら韓国便は就航させず、文化上の影響をかねもうけより優先させる為にイギリスとアメリカのLCCとしか結ばない。そのほうが総合してみてよい結果に至るだろう。国内便についてはそのかぎりではないが。

ヨーロッパや中国もいずれは考えるが、そこからの影響は既存の文明より多くは劣っているだろう。

 なぜ団塊の世代はかねもうけしか頭がないのだ? それよりはるかに重要な価値が文化にはある、と理解が及ばない。だから韓国人の観光含む侵入で既存の茨城圏の文化が崩壊しても、金がもうかったから万歳なのだろうか?

自分はいわきというすでにアジア人(中韓、および倭系)のニオイがする汚い街を知っているからそういいきれる。かねがもうかろうと品性を落とせばなにひとつ得はしない。これが人生の真相だ。あんな女飲み屋のあふれる街でまともな人格が育つ可能性はゼロだ。

県の公社が経営してるとすればその責任は知事にある。今の知事が最終的には亜アジア化した茨城県にどんな落し前をつけてくれるかはわからないが、新大久保級の街の様相が出現した瞬間、少なくとも自分は罷免へ最大級の行動をとるつもりだ。人間には金より重要な価値がある。
 極論すれば民間共用部の空港設備を潰してもまだ韓国系の文化を侵入させるよりはいいと自分は思うが。実際、自分がみてきた韓国文化の汚さを知っていていうのだ。勿論、江戸文化よりは多少ましだが、かといって自分からつきあう意味はないばかりか害の方が大きい。

混雑税による緩やかな朝夕

朝夕のラッシュアワーに、大部分が定期券で通勤通学してるんだろうからflex timeさを県都圏へ導入するに、「混雑税」を道路や列車乗車率へかければいい。

 具体的には朝6時から8時まで、夕6時から終電時までは割増料金を条例できめてとる。大体、水戸ー磯原間でいえば200円くらい(約20%)からだろうか(これが効かねば少しずつ増す)。
定期券はその時間帯に利用する分を、+αして売る。つまり通勤通学でつかう為に人々はそれを買うので、最初から20%以上を割り増してしか県内で売らない。
 高速でもその時間帯に利用すると料金の20%くらいの税率をETCで換算する。料金所でもそうする。
一般道、特に国道では混雑が起こるだろうから、公共交通機関をのぞいて一般車両からはやはり徴収する。具体的には水戸市内へ入るおもな国道関門ということになるだろうか。
そこへ定期関所をもうけて、混雑する時間帯に忌避させ、全体としてはいつも一定の通行量を計る様にみちびく。

こうすれば朝夕の混み具合でムダに抑圧溜まりもしないだろうし、夜までに仕事テキパキとかたづける必要から業務の合理性もあがり、健康的でゆるやかに暮らしていける。
��R水戸と県政が合理性をわかればいますぐでも実行できる税収増をかねた工夫だけど。

この策で県外への事業所の流出が起こる可能性はないことはないが、少なくとも一極集中による弊害は減るのでより分散することになるだろう。つまり総合してみれば職住近接へ導くので生活大県の号令にとっては良策となる。

2011年3月7日

商いと政のちがい

団塊は高度成長といういまの中国みたいな人生経験とその人生観しかないので、あとの世代のしあわせや住み心地を考慮できる能力はない。そこまで栄養がまわった育ちですらないらしい。
だから、強欲で金満家なのはやつらの最悪の性格以外なにも示さないが、それだけ。

かれらはうまれて以来の癖でかねもうけのことしか頭にないだけであり、それゆえ、くらべてみれば品性が低くして実行力が愚鈍なのだ。最もよいのはこの世から即刻退去してもらうことなのだが、残念ながら団塊は貧しい出自なのでしぶとい。この史的真実がある。

 北茨城市長、高萩市長、そして県知事にお尋ねもうしたいのだが(もちろん鴎語で)、そんなに金をむさぼって一体なにがしたいのですか? 
そんなにかねがほしくてほしくて仕方ないならさっさと商売でもおこせばいいのではありますまいか。行政とは「警察組織の執行機関」以外には意味をもたない概念。警察の頭がかねがほしくて仕方ないなど、腐敗以外のなんでもない。警察は商人ではないのだから。

税は、竹中平蔵って経済学者もいってるがいわゆる‘みかじめ料’であり、市場へ累進調整さをもたせてその極端な所得不均衡を均す働きがある。
しかし、市場がほろびれば税収でくってきた行政組織も同時にほろびねばならない。なぜなら上述の様、みかじめ料が必要なのは市場に極端な不均衡や不正取引の余地がある時だけであり、もし経世済民が進んで一切の限界消費性向が満たされれば、すでに行政もふくめ政治界は永久に用済みなのである。*1

だから行政人が意味不明なかねもうけ嗜好をもっているのは、まさに悪代官以外なんでもない。政商はびこりし市場、法の腐敗あり。悪代官は民の俗へ害をあたえること甚だしく即刻駆逐されねばならない。
もし‘もうからない市’になったなら、行政を廃止し、政治家は家を取り潰し、いきのこりは生業をかえればいいだけだ。それはみかじめ料の胴元たる役目を終えたからで、無理に延命してもだれひとり得しない。警察組織という元合法の暴力団をひきつれているかぎり損害は飽くまでも多いらしいが。

 ケインズの主著(1935年著『雇用利子及び貨幣の一般理論』)へ、すでに上に書いてることは抽象的な形でだが予見されている。曰く資本の限界効用は漸次低減すると。
で自分がおもうに特に、限界効用は消費性向の高い品物や奉仕から次第に逓減する。
景気循環がなくなったら行政府はおのずと潰れればいいのみ。福沢諭吉の『文明論之概略』で見通されている政府の撤廃も、社会主義や共産主義とは別の文脈で、こうして限界消費性向の逓減則と共に、ひとりでに必然性を伴って起こる事態。

結論をいうと、かねもうけ行政をするのなら政治まがいの人生をやめよ。そのかわり、上に書いた消費性向をあらたに開発する様な製品なり仕事なりの発明へ時間と労力をつかえ。さもなければ行政府という「平衡装置」へかかわりあいになるな、ってわけ。これは道理が通っていると思う。
本当にみながこうすることができれば社会が停滞することはないはずだが、残念ながら癖というものがあり、侍階層どもは特に上位なほど、ろくでもない切腹覚悟で経済の足をひっぱりつづける傾向があったし、現にその風習がかなりのこっている。
実質では財政面での赤字を記そうが市民が罷免と周辺国の援助に頼るしかない現代なので、悪徳行政人どもを成敗するにも説教しか有効打撃はないのが哀しいところだが(といっても公益に類する批評は名誉毀損や侮辱、誹謗中傷など刑事罰また私事に類しないかぎり処罰の除外になるのが既存の法解釈だからそれは合理的な哀しみだろう。いわゆる『批判の自由』)、なおも税収からふところに金をしまっている全体奉仕者(憲法による)の立場でかねもうけ行政を主義しようものなら、どれだけ言論という凶器で打ち叩こうと足りはしないだろう。繊細きわまる鴎語が通じるかはしらんが。
 悪徳行政人がいるからあれだけ江戸以南ではすさまじい人品の堕落がみられるに違いない。
かねもうけ政商は市場の法治よりも懐手をみているのだし、そうであるかぎりいかなる徳目にもとづく法規範もむくろとなり、実行されなくなる。

これは苦言ですが、高萩市長がやばい。政経塾とか大阪商人の私塾でなんの金権思想をふきこまれたかはわからないが、いうことなすこと団塊まんまだ。まことおそるべき貪欲さ。

繰り返すが、もしそんなにかねがほしくてほしくて仕方ないなら商売を自分でやればいい話。これは経済学上はっきりしている真理。
行政人はみかじめ料を締める市場の、わるくいえば胴元ヤクザの親分ではあるが、役目そのものが所得不均衡の極端になりやすい消費性向間の条件あるかぎり単なる害とばかりされるわけではない。とあるからかい言葉にある‘合法ヤクザ’という名義のとおりそれは法に合うかぎりで否応なく許容されている。そしてかれらがいないと、つまり彼ら警察組織からの武威による強制と制裁のおそれがないと必ずしも法が守られないのが結果の十分に予見できない猿に近い時代の人類だったから少ないほうがいいにせよ仕方ない成員なのだ。
究極の市場たる国(又それらの総体たる国際社会)は、その累進税制度による所得平均化をのぞけば、機能をもたないべき。別の市場規律をもつ他国への侵略行為は、こうして決して正当化されえるものではない。もしそれがあるなら製品商材の優劣にもとづいて自然に起きている所得の総体に由来した合併や協議での併合の道理による。
 いいかえれば『市場の集約』が和平協約により漸進的に起こる場合だけすべての民族間統合は正当化できる。

だから倭王朝が西海や関東や東北、その他の日本の地域へ武力侵略を行った過去は決して正当化できない。根本的には、それらは野蛮の行いであった。極論だが、王族は本来いないほうがよい。地域のヤクザ加減を強化してしまうからだ。*2
この歴史の真相を人々が判るころ、倭の天皇制度は象徴ではなくなり、広域での野蛮時代の地名のなごりにすぎなくなる可能性が高い。尤も、それは「国連社会」で上に書いた市場統治の道理が共認されたあとでだろう。いまのところはこの市内でさえ行政人へ理解が及んでいないので、それはかなり遠い未来ではありそうだが。華族や皇族と血縁結んでるのでまことヤバイ某自民党員もいきのこっているし。


ーーー
��1 マルクス主義だ!と叫んだ知識人の方(いない。京都人か)。
しかし革命思想へはなにも言ってないし革命はないほうが平穏で、資本主義の本質への分析がほんとうのもとのマルクスの考え方なのだったし、実際、自由主義系の経済学者もそこへはいいおよんできた。要は、「低次から高次への限界消費性向の逓減に伴う行政機能の漸次な削減」はいまのところ経済学のみとおす資本の共通原理。どの社会体制下でも。

��2 もちろん、これも理説にすぎない。後付けでない理説は疑う方がよい。ではなぜ王族不用論がおこるかいえば、その所得不均衡への誘因がすくない社会ではそもそも劇的な行政行為をのぞまないからだろう。逆に、王族有用論はそれが極端に大きい場所でおこる。「商業界」が飽くまではやる、人口過剰で新規流入の大きい適所では一見さん向けの取引が多数なことから所得のかたよりが起きやすい。こういう適所でのみ、王族がみかじめを占める体制はいちばのとりしまりについて手順省略の有効さが高いといえそうだ。自分は北茨城圏にすこしもそういう世界へのみちびきをのぞんでいないから、王族無用論を好むというわけだ。なんども書くが、鴎は空を飛んで海の藻屑と砂にかえる。鴎ならその方がよい。わざわざ労多く功少ない世襲した市場支配の悪業をはたすのは、帝国主義をもつ一種の蛮族だけがやればいいこと。人類史の一般則として、帝国はみな最後には亡ぶ。永久の王権はなかった(尤も「長さ」へはこれはあたらないが。つまり、長い王権の証拠を尊ぶ人らも一部にはいつくだろう。自分ではない! やくざ稼業の証拠などなんの名誉だとも感じられないから)。なぜそうなるかいえば、人類の明るい本性は進歩を停滞より望むからだ。明るい自由か暗い支配か、茨城のひとはどちらを望むのだろうか。

2011年3月6日

団塊のゴミすて風習と無教育度

北茨城にかぎった現象ではないだろうが、団塊と団塊jr.世代は不良品世代だと言っていい。この町で限定していえば、道端へゴミを捨てるわ店舗で買い物へ来た客へ店員がガンとばすわ自分から学問する気はないわ本当にろくでもない。あげくには無駄遣いしまくる。しかも最悪なのは、税金を。哀しいくらいに出来のわるい世代だ。

学校内でも暴力を振るうわ法律の知識もないわ、行政府にありながら逮捕されるわケチだわ低俗だわ下品だわ評判がいいということはない。勘違いした外人が経済成長でハンガンの奇跡だか韓国人と類似だと感じるのも無理はない。

さらに我々が迷惑なのはかれら不良品世代とおなじ時代に生きていくしかないというところ。やつらが死ぬのは先が長い道程で、しかもjr.世代は社会を牛耳る気満々で団塊へすりよっていく。

 これらの悪条件にもかかわらず、やはり文明は進んでいく。川へ道へゴミすてまくってマルトで客へ喧嘩うっているやつらもその子世代も、「不良債権」としては厳密に処理されていく。ただならぬ国債を発行し赤字行政をつづけ町をコンクリートづめで荒廃させ無益きわまる土建道路で自然破壊しまくり金と権勢を独り占めし若者を道理なく虐めつづけていたやつら出来損ないも、巨視すれば「大衆化時代の俗物」という以外に評価されようがないだろう。
経験上もたしかだと思うが、団塊と団塊jr.世代は救い様がない。
 仮説だが歴史の一般則として内的増加率に従って生きてきた世代はできがわるい、といえそうだ。それはとるにたらぬ亜種も生存できる条件だったからなんだろう。

団塊と団塊jr.世代は口をひらけば金金で少しも尊敬できないし、社会の進化に着いてこれず、そればかりか足をひっぱりこむ迷惑行為しかできない。本当の話、芸術施設などわざわざ行政が支出する意味はない。おフランスか。
芸術など所詮お遊びでしかなく、装飾の効果しかもたないのだから勝手に好きなやつらへやらせておけばいいだけの話。そんなもんに金金とかいいつつも大金を投じる。まこと馬鹿げている。

 自分がおもうのは、もっと若い世代へかれらのまねだけはさせたくないということだ。かれらをまねればすべてはより悪くなった。
こないだ議会の場へわざわざ少年少女をよびこんでろくでもない討議をさせていたが、あれもやはり悪影響だけだろう。そもそも議会は公益に関心のある市民がやればいいのであり、「監視」の意味をこえて市場の足をひっぱる生業へ生徒をよびいれるなどヤクザとしても最低の部類にはいる。
 そうではなく、少年少女はかれらヤクザを反面教師に、勉学と発明発見の重要性、そしてそれらを社会へ展開させる一連の手際だけみていたほうがよほどいい。全員協議会とかで自由な討論を不可能にしているヤクザの集会によびこむとは。まこと団塊世代の思考能力は蚤ほどのレベルだ。
あれだけ川や道端へゴミをぽいすてしてなにも感じない。ヤクザにも下限がある。なぜゴミをゴミ箱に入れられないのか? 人間ですらない。それはしつけされてない猿の行いだ。大事なお客様をガンつけてきたあのマルトの店員というか裏手にいた作業員のオッサンは、いま僕の書いたことを理解するだろうか? きっとしないだろう。客がみせに利益をもたらすのもわからないからお客様へああいう態度をとれるのだ。無法しかるべし。

教育がなにより優先。まちがっても芸術施設など遊びの場所をつくってはいけない。やつらの増長をゆるすだけで市民がますます後退していく。市民の税でつくらせた運動場すら締め切るヤクザが支配した極悪の市政なのだからなにをしてもおかしくはないが、それにしても川や道端へのゴミすて加減はひどい。知能がないにしてもゴミを道端にすててなにが楽しいんだろう、野蛮民は。

2011年3月5日

シンプルな意見

中郷になんかつくりたいという今の市長の先がよめない血統はわかるが、一市民というか市鳥としておもうのはさっさと大学つくってほしい。

この市民の弱点は知的水準が低いということだ。今更アイパッドはつかえないとか言っている。そういう問題ならパピルスや石版をつかってるかとおもいきや普通に紙の本をおさめた図書館なんかもある。なにがしたいのだろうか。
こういうこと書くと反論が「お前の知的水準が低いんだろ」とか小学生の成績わるい方の同級生みたいな市民性なのである。だから、さっさと大学つくってほしい。
それもどうでもいい娯楽にすぎない芸術関係の遊びのやつじゃなく、本気で全世界の科学をリードするたぐいの。芸術なんかすきなやつがやればいいだけだ。奨励してもちゃらちゃらしたやつがふえるばかり、なにもいいことはない。

 残念ながら古くから住んできた人にはさとられている様に、自分の記録がまちがいでなければ、今の市長のお父上かご先祖はあのさっさとぶっこわしちゃった青少年の家を計画なさったまったくもって先のよめなかった人だった。その血統があることは否めない。一代でぶっこわして平気でつぎの箱物計画もないもんだ。何百年もつかいこんだ風格ある伝統的建造物だらけイギリスのケンブリッジやオックスフォードの大学街でも見学してきたらあまりの恥ずかしさに関南へひっこむかもしれない。

いまの市長でいくとしても、最大の長期計画力のある人物を行政外部にご意見番として常駐させたほうがいい。いまの副市長は強い意見を言うほうではないっぽいので秘書がわりにつかわれてるだけで、実質のある働きしてるとは見えない。
 箱物と土建思想であたまの固まった団塊まっさかりの行政人はまこと放置すると社会環境を悪化させてくるだけでなにもいいことはしない。極論みたいだが、いまの社会状況をみればこれは真実です。末路はあのコンクリ詰めの東京だ。磯原にかぎって言っても、この2、30年は違法パチンコ屋が豪華になり遊んでた空き地が駐車場になっただけでなにも文化の進歩はなかった。
コンクリ埋めの金儲け都市などだれも住みたいとはおもわない。鴎はいうまでもない。それならぜんぶ磯の原っぱにしろ。そのほうがよほど綺麗だし。

「推定無罪の原則」を守れ、茨城新聞社員

ただの団塊かそのjr.オッサンが書いてるから仕方ないんだろうけど、茨城新聞も大手全国紙とおなじで頭が堅すぎる。答えがすでにある問題をわざわざ暗記させ解かせる意味はない。科挙なのだ。

官僚になるために時の無駄遣いの仕方を学ぶためにはあれらの受験奴隷界は意味あるだろうけど、それを除けばない。

 時々、日本人でノーベル賞とった途端受験勉強肯定論いいだす馬鹿がいるけど、もしその時間をより生産的かつ独創的な学習につかえれば10倍高い成果をあげられたのだから矛盾している。これだから一流な知的発見の総量がオランダ級なのだ。できのわるすぎる倭人連中。

とかく、江戸メディア系の一丸は衆愚化にしか至らないので100%危険だ。やつらが一斉におなじことを言っていたら100%まちがってると思ったほうがいい。本当。ホリエモンも灰色なことやったが、あのヤクザ連中に潰された。だがヤクザに関われば自分もヤクザにおちぶれるだけだ。
飽くまで報道は自律した視点から最大限に客観性のある真実を記述していればいい。カンニングという行為は万が一あのまま、阿呆な大学のあたまかたまった使えない老人どもせいで軽犯罪あつかいされるにしても非常に軽度すぎる笑える程度のものであり、明治でいえば漱石もカンニングで東大入ってたわけなので、いまの既得権オッサン偽善者どもは最悪の性格なのがまちがいない。

繰り返すが、辞書や計算機、ウィキペディアや文献上に答えのある問題をわざわざ暗記させ解かせる意味はまったくない。科挙の悪風なのだ。
無駄な労力で若い民衆を精魂使い果たさせ、野に遺賢なしとかほざきたいばっかりの、知慮の独裁をめざす悪意しかその根拠はない。そして実際に悪業をつづけた伝統の中華政権はみな滅亡している。*1

先のある若者へ総打っ叩きは何一つ徳はなく、みずからの希少な人材を涸らすだけだ。普通に道交法違反な暴走ヤンキーや各種の猥褻物犯罪(制作及び販売)、そして風営法に抵触する悪業を先に潰せ(というか、あんなもの何一つ認めるな。民衆に得はゼロ、救えない賎民が殖えるばかりでなにも意味はない、亜細亜の悪風なのだ)。この市でいえば普通に換金してる違法パチンコ店、および風営法の抜け道にすぎない整体屋、そして平気で漫画やDVDで猥褻物販売して利益を占めているコンビニと本屋とワンダーグーだ。どれも違法犯罪を日常に行っているのだから貴様等ろくでなしの団塊と団塊jr.うまれついての不良さがつくりだしてきた悪業でしかない。まだあった。あの駅前の風営法で届け出してるわけがない(田舎には法律上たてられない)さびれスナックだ。
おのれは違法を堂々と見逃しにしつつ、疑いを被った状態にすぎないあたまのいい貴重な一青年をメディアスクラムで虐めるな、糞茨城新聞の悪人めが。

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*1  つけくわえれば、科学というかscience(「知る」という意味)の本質は、自然界の比例を数式や法則などカンタンなかたちにまとめ、ほかの人にもつかいやすくしおくことだけだ。「論拠」は暗記すべきものではなく、それを検証しなおしてより精確なものへかきかえるためにある。
既存の文献にあることを信じ込むのは科学者の態度ではない。それは二流以下の、おおくのばあいは素人をとおりこして丸で無学な者の態度でしかない。学校でやっているすべての課程は、これをおしえるためだけにある。この働きさえわかればいちいち誰かに教えられなくても自分から進んでいけるはずだ。そして研究生活はそういう孤独な独創の連続なのだ。もちろん、既存の文献との対話とか、おなじ目的や興味、似た分野やらさまざまな研究の人たちとの社交や会話の機会があるばあいもあるが、多くの「天才」の部類になるとほとんどこんな手間に時間をとっていない。彼らはただ静かに自然現象と数式とを往復してすごしていたのだ。
 そしてそういう人らの判ったことを、いま我々は追認している。その先に進むのが文明の進展ということだ。科学をするに、受験勉強は「特定の学際環境」への希望入学者を仕方なしにふりおとす便宜として興ってきた風習だが、本質ではない。そして上述の様おおくのばあいは手段としても必要条件ではなく、中華官僚をつくりあげる科挙の風習とまざった不純なものだ。『学問のすすめ』でつけられた実学イデオロギーを信じ込んでいる者らの風の俗:ならわし というはなしにおさまる。それがアメリカなど実用主義な諸国ではいまだに通っているが、中世のスコラ哲学の衰退をみても、科学の本質をうがってるわけではないから永遠につづく風習ではないだろう。

2011年3月4日

New tastement for North Rose Castle

It's the my meaning of English, all people on Japan does thier belonging. & I disagree it.
I can't say Queens English, but I may use Syoguns it. If you know that all my 'Engrishes' are nonverbal, you'll see cultivation for globalism.

Why people don't use it on their usual famility days, on their zone of globalism phenomenon? Is it some customs, for China born.
In far East, everyone haven't necessity using Kanji. But you should learn our chances of Kanji. Both of learning or ignoring are an imperfect.

To do, is the words changes. New using customs for learn more their nobility.

On North Rose Castle, people must use & make Kitaibarakish. Isn't it? Or something.
For example, 's' may not be their nowly mode. If you want to say 'He' or 'She', you must not fix 's' after your native verbal words. Because it is a NRC words using mobile, or some Kitaibarakishes.

Always Japanese want to make perfect answer. But perfection aren't thiers, there are going on God words.
Really you know, this world is full of the mimicries, falses, truthes, or imperfection.
Kakuzoo Okakura said that is 'imperfection is to the eternal beauty.' I saw his few works to understand. So in NRC, you ought to do new words for our beautiful imperfection.
It will be good recreations. Or something.

教育予算の工夫論

教育関係予算へつぎこむ工夫だが、おそらく基本的に最善なのは「放送大学」を、さらには国内放送のそれだけでなく現状で先進国系のそれをできるだけ安く受信できる契約を結ぶこと、で水戸から県内へ無償配信することだろう。
いまの国内のにかぎっては無料放送だから水戸の電波塔が中継ぎするだけでよく5分でできる。5分か5時間かそのあたり。

 あと、どうしても官僚趣味に傾く御県知事の御経歴から申して、教育の改良はもう海外委託したらいい。日本人など教育大国だったのは遥か昔というか20年前くらいでしかもあれはただの受験大国でしかなかった。つまり駄目教育なのだ。まじで。
結論からいえばイギリスの名門校(いわゆるラグビー校、オックスブリッジ)、あとアメリカの技術校(MITやIITをはじめ、ハーバードとかコロンビアとか)へ選抜教育委員を派遣し、かれらのまねを徹底し、うけた貴重なるアドバイスへ全面的に倣うべき。今のところ出来のいい優等生達からなにもかもをまなびとるしかない。
途上国群の必死さをみれば、中堅学力に平気で安住とかしてるとあっという間に不良グループへおちこみかねない。つまりは先進国内では学業の劣等生である日本人に学ぶことは殆どない。もしあるとすれば秋田の小中学生が置かれた物静かな環境と先生へ提出する作文ノートくらい。

御横浜育ちの矢野新一さんが天からふったあぶく銭金と豪華超高層ビルの群れを余しながら、この素朴なる梅の香に足るを知る質実藩へ「見栄っ張り」とか「成金趣味で自己主張」とほざく世知がらすぎるどころか最悪凡俗現世では、かねを使うより工夫する、もっぱら工夫しまくるという点が重大。しかも非常に。
単につかうだけではやつら本物の成金(明治以前は原野だったさがみの馬の骨)となんらかわりないし、江戸マスゴミのメディアスクラムにイバクーのときみたくまんま遭いかねない。西日本からやってきたなにもしらん御国税収で喰らわせられておられる前原大臣どのが御全国放送で軽く冷笑しながらね。
 ま、山形県とかわらん予算規模しかないというのを十分認識したほうがいい。外からどうみえてようと、合理的効率を追求するのみ。
あと旧県庁舎は、リノベーションすれば全然つかえるし、むしろ質実剛健の気概が感じられる明治っぽく佳い建物なので耐震補強で使いつづけるべし。あのヤバイ風格は質実藩でしかでない。薄暗く狭い地下通路ではパイプが普通にじか露出してたり中庭での寛ぎは完全無視とか。

こないだあのど阿呆都知事が一瞬で見栄を張るためだけに無駄遣いした400億の、3分の1程度しか全財産のない大々財政市民としては、水戸辺りにすら浪費されたら救われようがない。その危険度は薄々感じられるとして。
でそうなったらきっとわずかにこの市より財政規模のすくない高萩市長が県知事へ必ずしも伊達に辞表を帯刀せず、にこやかに嘆願してくれるはず。頼むから優等生からまなんでくださいと。浪費万歳の上級官僚趣味はどうか勘弁してくださいと。ま、後者は言わん(言えない)だろうけど。もちろん、これらはカモメ語でこそ書けるはなしだ。

2011年3月3日

ホーリーホック財源案

ホーリーホックが財源面で不安というのは、「葵宝くじ」を毎年か毎シーズンごと発売してそれを元手に殖やしていけばいい。
応援へのいざないとして、totoとは別に、毎回試合でも籤を販売し、勝利を収めたチームへかけていたらグッズをあげるとか選手と握手できるとかそういうものを加えるとわりと人気出るのでは。

宝くじは個々人の負担は少ないが、胴元には非常に効率の高い事業なのでやった方がいい。フーリガン発生への煽りとかにつながりかねないけど、いわゆるカジノ構想やら江戸系の他の娯楽よりも多分、文明度にとっては上等なのでは。選手育成や体力維持へ還元されるから。倭人系統に生来のなよなよしさから言っても、民の俗:ならわし としてスポーツくじはむしろ奨励されたほうがいい。

ある偏見の話

矢野新一という株式会社ナンバーワン戦略研究所所長なる肩書をもつ人物が監修した、プレジデントという雑誌別冊の県民性うんぬんという本に書いてあるが(この雑誌はいつもほぼろくでもない江戸偏見をうえつけまくってるのでいずれは廃刊するのがまちがいない)、茨城の項目に「見栄っ張り」という揶揄が入ったのはこの本が最初だろう。

ほかの統計で厳密に実証されない偏見調査では茨城は無名NO.1とかいうのもあったので、この二つは東京偏見のそのままをうつしているといえる。東京には芸能人が腐るほどいるが、彼らより目立ちたがる者は国内では許しておけない。

前のご当地ブランド魅力度調査でもいえるが、民間の研究所は政府よりも客観性のある意見をいう傾向があると仮定して、この雑誌でもわかる様、出版する社や監修者の主観や利己心をうつしこむのがどうやら殆どだ。
確証バイアスもあって、いちど何らかの偏見がうけつけられると逆メディア計略で批判されないかぎり半永久にその情報だけが意図的に収集されていく傾向が、衆愚にはある。それは理性が薄いという民衆政のあしき点で、扇動によわいということ。

この点で東京偏見はおおくのばあい、悪い。というか極悪。9割のマスメディアを資本ごと握っているので独裁の意図があきらかに入っている。

 少し反省すればわかるが、水戸藩など大昔から涙が出るほど質実剛健の気質そのものなのだ。自分がその地域にくらしてきたのだから疑いようもない。たとえば『武家の女性』という幕末の本を参考資料にあげてもいい。他にも浮華とは縁遠い文化だった証拠は、たとえば特産がほしいもと吉原殿中と磯原饅頭なのからもはっきりしている。くえばわからー。

この点で、横浜旧市街地育ちの江戸産まれ某土民は相応に報いがあるとおもう。世間を誤解させること、まこと甚だしい。
アマゾンのレヴューにも冷静な意見はないことはないが、自分の経験上も歴史の事実上もいうが、水戸の風を誤解させるのは末恐ろしい話である。むしろこの矢野新一さんを同情しないではない。水戸は、残念ながら「本物」なのだ。僕がよくみくらべてきたのだから間違いない真実でござる。

横浜ランドマークタワーからさがみにボンボン建った成金世間を睥睨し、ゴキブリハウスだらけの東京スカイツリーから天下は我が物とみくだし、小春日和に梅の花さく水戸弘道館を「見栄っ張り」「成金趣味で自己主張」とほざく。いやはや、末おそろしい。
だが人生の真実というのは記録されるものだから、必ずかれらには悲惨な末路が訪れるに違いない。とりあえずこの人物の行いについてはおしえておく。ナンバーワン戦略どころか東京偏見戦略または勘違い戦略の研究所でござる。

2011年3月2日

常磐線のながめ

常磐線はとても長い車両編成のときがあり、しかし車内へは車掌室への連絡の装置(たとえばエレベーター内とかについてる緊急電話みたいなやつ)がない。
 それは設計でかえられる点なので、できるだけ近い将来に改良すべきではないだろうか。

最近は県南圏での乗車率があがってきたからか、昔のボックス席つき車両があまりない。水戸以北ではそのほうが景色もみられて、落ち着けるからいい(とある人は少なからずおもってるはずな)のだけど。

 それと、こないだ夜9時にたまたま日立駅にいたら、三人の軽薄な服装をした若い女がぎゃーぎゃーダッシュして土浦行きの電車へ向かってたみたいだったが、ひとは見かけによらないとして、あいつらはどこへ行ったのだろう? 帰って寝ろ。

より高い道徳状態からは社会での法的とりしまりの必要性が削減できる(いわゆる徳治政が訪れる)ので、科学が決定的に進むのはそういう場合だけ。
『文明の進歩には徳治場が前提』。
法違反者らとかいう最低の連中に構わねばならないときおちついて勉強などしてられるはずがない。学校内をおもいかえしてみればわかることだろうけど、社会の時空間としても同じだ。
 乱れた風紀は亜熱帯に住んでいた人種が死亡率の高さからうみだした苦肉の策(つまり免疫力のたかい雄への傾斜配分の理)だったのだろうが、現代文明では公害でしかない。より文明化の進んだ世界では、いかなる過剰接客業も極悪犯罪でしかないに違いない。

東京にのまれてはいけない。統計をとってみればわかるが、東京都のエイズ罹患率などは異常な値であり、風紀が日本で最も乱れた場所だからそっちに染まると社会そのものが救いようがなく荒廃してしまうだろう。とかく現況でいっても水戸へ着くべきだ。話はそれから始まる。

県史の教育

東京偏見は殆ど最悪のいざないを伴うから「みなかったことにする」上で(そのほうがよい結果になるのがまちがいない)、最近はやりだしていた県民性の話題からいって、茨城県では県史を全ての義務教育課程で必修教科にしたらどうだろう? そんで高齢者や成人向けへはNHK水戸か県放で毎週定例の県史をたどる番組を流す。

そのほうが全ての面で、道徳教育とやら(そもそも道徳は教育できず、既存の理説を批判すなわち手比べてみて判るだけだろう)よりもいい結果がでると思う。敵を知り我をしれば云々ってやつだ。

 というのは、なぜ他県の文化からみると茨城が怒りっぽくみえるかいえば、その高い学資(つまり水戸学の高見)にくらべて説明するための方式が欠けているので「なぜ相手(茨城の人)がそう考えているのかわからない」という状態が、たえずやり取りのなかに入り込むからだろう。
要するに、誤解を招きまくってしまうという傾向がある。これは藩士以外へは弘道館での直接的教育がおよばなかった儒学の弊へ因果がある。民に由らしむべしというやつだ。

こういってはなんだが、天狗党の存在も根本的にはこの行政情報の非対称さがつくりだした可能性がある。他の学者の分析を待つ。

 ある面でこの『茨城らしさ』は理解の非対称さとして有利な点ではあるが、少なくとも県でそだった民については充分な真意を理解させたほうが徳があるのではないか。様々な民間のはなしをみてると、そもそも茨城を尊重しておらず、東京偏見にまんま毒され県の民やその達を不必要に卑下している層も少なからずいるっぽい。
マスコミは完全につかえない。江戸ニュースのキャスターとかほぼ100%最低なので、やつらに洗脳された他県や他国のひとというのは救いがたいし、いずれは報いがある。自分は東京やその人々の性質を知って、なおいうのだ。ただネットはもうかれらの支配から相当外れているので、東京ジャイアニズムという概念みたく内情はばれているらしいけど。

東京には江戸時代からいわば世間のはきだめさがあるので、東京偏見にしたがうかぎり俗化はまぬがれない。また非都心にとり最も不利な条件は、マスメディアを東京の企業が寡占していることだ。しかしネットの媒体については先がある。だからこの媒体進化の機会に、県民へは真意を教えておいた方がいい。

世界史か日本史は高校で必修なので、県史を独自におしえておく方が総合してみて茨城県出身者を「高度な人材」へとみちびくのが確かだと思う。特に県南部ではそうだ。
かれらへは水戸藩のもっている格式が充分に浸透していない。土浦の位置づけもその点で微妙なのだから。

 僕が見通すところでいえば、東京偏見に従わせるより水戸格式に従わせるほうが土浦周辺の人間をより上等な人達にする。

僕が以前、ひたちのうしくという駅でおりたときその駅員の態度はいわゆる黄犬(卑屈なまでに上下関係へ隷従する達)のものだったが、現実の水戸以北はどちらかといえば正義感や道理の方、要は「理屈」をその種の場当たりな政治世界より優先させる土壌をもっている。全ての上下関係はそのなかではじめて成り立っている傾向がある。
そして自分の判定が正しければ、政治世界へ下手にまきこまれるより、道理に遵っているほうがより幸福なのだ。というのも、高尚なる道理というものはまず政治的安寧が確立された上ではじめて育つ心象だからだ。その先にある単なる知性へ進むには政治闘争ともういい加減係わり合いにならないほうが得策だ。
勿論、支配趣味的な個性やその自由は認めた上でいうのだが。

茨城県の名称に顕れる様、倭の政治界と係わり合いになりたくないのがこの地域の本音だと思う。そして佐竹氏の心理もおそらくここにあったし、同じく義公の先見の明も多分にそこにあった。
関東最古来の重鎮として権現様のおわす栃木と連携し、東洋文明の基礎固めをまだ着実にしている方がいい。その為にはそもそも先史時代から倭民族の侵略があった頃、そして慶喜公の恭順までなぜ我々が現代こうあるかを教えておくほうがいい。
 実際の東京都をしっている人間ならこの意見にみるべき理由があると思うだろうけど。つねなる江戸の俗にそまらず、東京と決定的にすみわけるべきだ。そうすることでむしろネットの浸透からちかぢか多数派へなってくる、東京偏見を脱却した人々から尊敬され、信用される。実際、そのほうが日本であれ世界であれよくなると自分はみる。
こないだアドマチックとかいうあの趣ない毎度つまらん番組で水戸徳川家の殿下がご高説なさっていたが、やはり東京にならうより水戸の風にならうほうがよい結果に至る。それはいくら東京のマスメディアが洗脳してもいずれは誰もわかるものだから、我々としては地道に、冷静に漸進していればいい。県民showより県史教育をしたほうが、他県民や他国民と対峙しても堂々と適切につきあえる。