2011年3月7日

商いと政のちがい

団塊は高度成長といういまの中国みたいな人生経験とその人生観しかないので、あとの世代のしあわせや住み心地を考慮できる能力はない。そこまで栄養がまわった育ちですらないらしい。
だから、強欲で金満家なのはやつらの最悪の性格以外なにも示さないが、それだけ。

かれらはうまれて以来の癖でかねもうけのことしか頭にないだけであり、それゆえ、くらべてみれば品性が低くして実行力が愚鈍なのだ。最もよいのはこの世から即刻退去してもらうことなのだが、残念ながら団塊は貧しい出自なのでしぶとい。この史的真実がある。

 北茨城市長、高萩市長、そして県知事にお尋ねもうしたいのだが(もちろん鴎語で)、そんなに金をむさぼって一体なにがしたいのですか? 
そんなにかねがほしくてほしくて仕方ないならさっさと商売でもおこせばいいのではありますまいか。行政とは「警察組織の執行機関」以外には意味をもたない概念。警察の頭がかねがほしくて仕方ないなど、腐敗以外のなんでもない。警察は商人ではないのだから。

税は、竹中平蔵って経済学者もいってるがいわゆる‘みかじめ料’であり、市場へ累進調整さをもたせてその極端な所得不均衡を均す働きがある。
しかし、市場がほろびれば税収でくってきた行政組織も同時にほろびねばならない。なぜなら上述の様、みかじめ料が必要なのは市場に極端な不均衡や不正取引の余地がある時だけであり、もし経世済民が進んで一切の限界消費性向が満たされれば、すでに行政もふくめ政治界は永久に用済みなのである。*1

だから行政人が意味不明なかねもうけ嗜好をもっているのは、まさに悪代官以外なんでもない。政商はびこりし市場、法の腐敗あり。悪代官は民の俗へ害をあたえること甚だしく即刻駆逐されねばならない。
もし‘もうからない市’になったなら、行政を廃止し、政治家は家を取り潰し、いきのこりは生業をかえればいいだけだ。それはみかじめ料の胴元たる役目を終えたからで、無理に延命してもだれひとり得しない。警察組織という元合法の暴力団をひきつれているかぎり損害は飽くまでも多いらしいが。

 ケインズの主著(1935年著『雇用利子及び貨幣の一般理論』)へ、すでに上に書いてることは抽象的な形でだが予見されている。曰く資本の限界効用は漸次低減すると。
で自分がおもうに特に、限界効用は消費性向の高い品物や奉仕から次第に逓減する。
景気循環がなくなったら行政府はおのずと潰れればいいのみ。福沢諭吉の『文明論之概略』で見通されている政府の撤廃も、社会主義や共産主義とは別の文脈で、こうして限界消費性向の逓減則と共に、ひとりでに必然性を伴って起こる事態。

結論をいうと、かねもうけ行政をするのなら政治まがいの人生をやめよ。そのかわり、上に書いた消費性向をあらたに開発する様な製品なり仕事なりの発明へ時間と労力をつかえ。さもなければ行政府という「平衡装置」へかかわりあいになるな、ってわけ。これは道理が通っていると思う。
本当にみながこうすることができれば社会が停滞することはないはずだが、残念ながら癖というものがあり、侍階層どもは特に上位なほど、ろくでもない切腹覚悟で経済の足をひっぱりつづける傾向があったし、現にその風習がかなりのこっている。
実質では財政面での赤字を記そうが市民が罷免と周辺国の援助に頼るしかない現代なので、悪徳行政人どもを成敗するにも説教しか有効打撃はないのが哀しいところだが(といっても公益に類する批評は名誉毀損や侮辱、誹謗中傷など刑事罰また私事に類しないかぎり処罰の除外になるのが既存の法解釈だからそれは合理的な哀しみだろう。いわゆる『批判の自由』)、なおも税収からふところに金をしまっている全体奉仕者(憲法による)の立場でかねもうけ行政を主義しようものなら、どれだけ言論という凶器で打ち叩こうと足りはしないだろう。繊細きわまる鴎語が通じるかはしらんが。
 悪徳行政人がいるからあれだけ江戸以南ではすさまじい人品の堕落がみられるに違いない。
かねもうけ政商は市場の法治よりも懐手をみているのだし、そうであるかぎりいかなる徳目にもとづく法規範もむくろとなり、実行されなくなる。

これは苦言ですが、高萩市長がやばい。政経塾とか大阪商人の私塾でなんの金権思想をふきこまれたかはわからないが、いうことなすこと団塊まんまだ。まことおそるべき貪欲さ。

繰り返すが、もしそんなにかねがほしくてほしくて仕方ないなら商売を自分でやればいい話。これは経済学上はっきりしている真理。
行政人はみかじめ料を締める市場の、わるくいえば胴元ヤクザの親分ではあるが、役目そのものが所得不均衡の極端になりやすい消費性向間の条件あるかぎり単なる害とばかりされるわけではない。とあるからかい言葉にある‘合法ヤクザ’という名義のとおりそれは法に合うかぎりで否応なく許容されている。そしてかれらがいないと、つまり彼ら警察組織からの武威による強制と制裁のおそれがないと必ずしも法が守られないのが結果の十分に予見できない猿に近い時代の人類だったから少ないほうがいいにせよ仕方ない成員なのだ。
究極の市場たる国(又それらの総体たる国際社会)は、その累進税制度による所得平均化をのぞけば、機能をもたないべき。別の市場規律をもつ他国への侵略行為は、こうして決して正当化されえるものではない。もしそれがあるなら製品商材の優劣にもとづいて自然に起きている所得の総体に由来した合併や協議での併合の道理による。
 いいかえれば『市場の集約』が和平協約により漸進的に起こる場合だけすべての民族間統合は正当化できる。

だから倭王朝が西海や関東や東北、その他の日本の地域へ武力侵略を行った過去は決して正当化できない。根本的には、それらは野蛮の行いであった。極論だが、王族は本来いないほうがよい。地域のヤクザ加減を強化してしまうからだ。*2
この歴史の真相を人々が判るころ、倭の天皇制度は象徴ではなくなり、広域での野蛮時代の地名のなごりにすぎなくなる可能性が高い。尤も、それは「国連社会」で上に書いた市場統治の道理が共認されたあとでだろう。いまのところはこの市内でさえ行政人へ理解が及んでいないので、それはかなり遠い未来ではありそうだが。華族や皇族と血縁結んでるのでまことヤバイ某自民党員もいきのこっているし。


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��1 マルクス主義だ!と叫んだ知識人の方(いない。京都人か)。
しかし革命思想へはなにも言ってないし革命はないほうが平穏で、資本主義の本質への分析がほんとうのもとのマルクスの考え方なのだったし、実際、自由主義系の経済学者もそこへはいいおよんできた。要は、「低次から高次への限界消費性向の逓減に伴う行政機能の漸次な削減」はいまのところ経済学のみとおす資本の共通原理。どの社会体制下でも。

��2 もちろん、これも理説にすぎない。後付けでない理説は疑う方がよい。ではなぜ王族不用論がおこるかいえば、その所得不均衡への誘因がすくない社会ではそもそも劇的な行政行為をのぞまないからだろう。逆に、王族有用論はそれが極端に大きい場所でおこる。「商業界」が飽くまではやる、人口過剰で新規流入の大きい適所では一見さん向けの取引が多数なことから所得のかたよりが起きやすい。こういう適所でのみ、王族がみかじめを占める体制はいちばのとりしまりについて手順省略の有効さが高いといえそうだ。自分は北茨城圏にすこしもそういう世界へのみちびきをのぞんでいないから、王族無用論を好むというわけだ。なんども書くが、鴎は空を飛んで海の藻屑と砂にかえる。鴎ならその方がよい。わざわざ労多く功少ない世襲した市場支配の悪業をはたすのは、帝国主義をもつ一種の蛮族だけがやればいいこと。人類史の一般則として、帝国はみな最後には亡ぶ。永久の王権はなかった(尤も「長さ」へはこれはあたらないが。つまり、長い王権の証拠を尊ぶ人らも一部にはいつくだろう。自分ではない! やくざ稼業の証拠などなんの名誉だとも感じられないから)。なぜそうなるかいえば、人類の明るい本性は進歩を停滞より望むからだ。明るい自由か暗い支配か、茨城のひとはどちらを望むのだろうか。