2011年3月16日

北茨城市の災害時のこまかな情報と判断

 いきのこり鴎の総意だが、北茨城市と高萩市にとってのぞましい将来性は、『日立市に合併をもうしでる』ことだ。北茨城市は、自分の目でみた真実を書くが、単独ではさまざまな災害対策やこまかな臨機応変な事務対応をできるほどすぐれた自治体ではない。むしろ、大いに劣る。
普段からあらゆる対応において劣るということが市民の目にもはっきりする事勿れ地域なので、高萩市民や高萩市長の明白な反対がないかぎり、できるかぎり早期に(県北部ではもっとも優れた実績のある)日立市への編入をのぞむ。そして想定できる最大限の行政や普段からの政務のしごとを、日立市役所へ集約してもらうことだ。

北茨城市民たる独断だが、もしこれができないとすれば、県へ一切の罷免を覚悟のうえで市の全面的返上をするしかない。

一市民として確信するのは、市役所やその所員の災害時対応はむしろ北茨城市にかぎっては悪い方だった。よくないをこえて悪い。自分以外にもそう感じた人は無数にいたと思う。これは情報が忘却や風化されないうちに、できるかぎりこまかく一市民の観察のかぎり、具体的にどうだったか書いておく。
市は全然臨機応変な対応がとれず、いつものごとく市民へは門前払いや盥回しであしらい、市役所員や民生員はできるだけ責任回避、役人は根拠なく威張りくさっており公僕というたちばを自覚しておらず、要望は否定しながら事勿れで必死に保身し、‘お上の命令には犬のごとく従順’である卑劣あるいは協調的な本性をやはり関東圏人の典型として示すが、結果としてほぼ丸でなにもできなかった。つまり本質で無能政治だったのだ。
いつもの不手際の多さは普段だから緩めにやっているのではなく、本当に無能だからあの程度が能力限界だということにすぎなかったのだ。

あのままの市役所で今後も生活していけるかといえば、いち市民としてはとても不安すぎてできない。
はっきりいって機能していないに近しい状態がずっと、被災の不安感のなか飽くまで長く続いた。※1
特にひどいのは震災直後、一日中なにも連絡や指示がなく、簡易トイレ程度の設置やその通達もなし(これはしろうとでもおもいつく最低限度の)、災害対策らしきなにひとつの救済措置もない。
市民が大地震でどうしたかといえばそれぞれの独自の判断で退避や待機していたのだ。二三日後までいかにもとってつけた小規模な給水車がきたという人づてのうわさ他なにひとつも市民勧告もなく、現在、一週間たってもまだなにもない。
その後の経過で最悪だったのは避難所をおいだすバカ教師がいたらしい。普段から公共広場や市民の共有地を鍵つきで追い出すなとあれだけ注意していたのに、市役所員全員は知能が奇形化しすぎて公徳の観念がまったくなく、市民から税金を貪り取りながらいざとなったら適切な公共の奉仕者たる対処もなんらとれず、それどころか責任逃れと市民睥睨の態度ばかりとは! 
むしろ、この日誌をよんでくれる水戸以南圏の県政にかかわりある県民へはたしかな知慮をつたえたいのだが、北茨城市の公民は本当にろくでもないので、できるかぎりはやく併合なり合併なりで実質権力はなくしてしまうほうがずっといい。すこしでも平穏が回復すると、いままでの経験上、かならず市税をつかった映画なり芸術娯楽施設なり「公徳に欠ける」土田舎者の出来損ない投資へかねを浪費してしまう。※2
恐ろしいのはこれを止める手段がない。なぜなら市議会が、再三の報道でもわかっていただけるはずだが、腐敗しているからだ。あるいは市民性が、知力にせよ勇気にせよ弱すぎる、うつわが小さすぎるのだろう。

 市役所へ行って対応をお願いした人も多数いたと思うが、人である自分ふくめ、門前払いに近い扱いをうけた。
市民を見下しており、上司へはいぬのごとく従順で(解雇さえされなければ己は安全ゆえ)、市民奉仕が仕事であるという道理が全然通っていない。
 残念ながら、自分は対応を所員へお願いしたのだが、つめたくあしらわれ市庁舎内を何度もたらいまわしにされた挙げ句、結局、市民へのぞましい対応をしてくれなかった。
緊急対策チームという立派そうな名前のつけられた柄のいかにもわるい10名程度の壮年オジサンらが市庁舎の三階の、市広域をみわたせる場所に陣取り、手持無沙汰であきらかになにもしていなかったが、市民からの緊急要望を優先度順にききいれる気はなさそうだった。そしてかれらはただ踏ん反り返り‘お上からの命令’をなにもせずに待っていた。(そして市民へはどちらかといえば喧嘩売っていた。これは普段からそうなのでいつも通りということだが! 不良市役所であり市民性。)
 これでも十分やっているんですよ、といった責任御免の言い分は随分きかれたが、市民を守るといった使命感や税収でくらしをたてている者としての自責の念はあまりないっぽかった。

 それと、総合してみて、現県知事は県知事としての職責をかなり果たしておられたと思う(もちろんまだ先はある)。電力供給への正論もそうだし、福島県からの避難について混乱なき様、治める方法への啓蒙や周知なども手抜かりがない。だから現知事はそのかぎりで、茨城人として優秀だと分かる。
 今後の県政の大命題としては、東京都政が電力供給や都知事の対応からみても基本的には頼りにならないしジャイアニズムを緊急時には暴走させる、といった性癖がますますはっきりしたことから、現知事がご尽力になっている様、普段に於いて最大限の権限委譲を国との間でとりもつことだ。
 もし東京に利があったとすれば、マスコミだ。哀しいことにテレビ局は東京資本なので、ほとんどマスメディア経由の公的情報が災害時に情報孤立をふせぐといった「公的情報の最大共有地」とならざるをえない環境がある。民放もある程度までは災害への特集を組んでいた。
だから、日立圏が(それ以北をのぞいて)災害用のラジオをくばっていたのは大変にかしこかった。あれがデマを掻き消す効果、東京偏見ではないより地域の事実や実情にのっとった即時の情報をあたえる効果は大きかったとおもう。確認しないとたしかなことはわからないが。哀しすぎることに、このできのわるいほうの市ではなにひとつ対策もなければ、そもそも避難所が安全ではない場所すらあり、ハザードマップもまったくなく、普段は‘安全神話’とかいう亜教を信じこんでいてなにもすべきことをしない。
この網記のログをみればわかるが、説得してもなにもしなかったのだから今後もまずするまい。
市を潰し、周りへ編入させてしまったほうがまだ安心である。そして県放か県内の独自民放も、そもそも対立すべきではないネットメディアとの融合をふくめ、茨城県発で全国や全世界向けに検討し実施していくほうがいい。(ちなみに、当然ながらラジオの方が緊急時には使えた。ラジオ局は費用はすくないが以外に隙間な効果がとても高い。だからラジオ局は少しでも資本があればもった方が徳がある。テレビは「宣伝」効果に由来しているだろう。)
東京偏見のうえで、被災地はまだ回復しないうちから都内には全面的電力回復・くだらない商業CMやお笑い番組復活・計画停電回避ではぜんぜん話にならない首都圏といわれざるをえまい。茨城県にも、普段の時点で放送局を自前で確保しつけるべきだった。そしてそこからより正確な、客観的報道を送るほうがよりよかった。県内資本の首都圏からの奪還をふくめの課題。
 さらに、御知事の先見の明のとおり、国から「公約・盟約」のかたちで原発地域には保険をもらうしかない。いつもから下支えしてきたのに、いざ震災になればああいう後手後手の被災地あとまわしのろくでもない極悪対応をされてはたまらない。

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※1 つけくわえれば、市民一人ひとりは役人にくらべれば幾分かまし或いは平淡であり、もちろん普段からそうな様に科学知識や技術へのひどい無知のほどを露呈していてたとえば老人が‘津波がきている辺りを試しにみてこい’や‘放射線がきても遠いから大丈夫だよ’‘(震災当日か次の日に、)きょうの午後には水道出るんだって(⇔デマ)’など誤った判断を示した者がかなりいたが、わりと個々人がパニックで慌てふためく様子はなく、どっちかといえば冷静で、適宜に協力しあっていた。
ただし、これは国民性が奴隷心を古代から涵養されてきた育ちだから仕方ないといえばそうだが、大勢で列をつくっている給水のときも誰かが発想した整理券をくばるといったアイデアへ協賛してくるひとはおらず、びびって誰もそれを実行にうつさず、市長・市役所員・民生員・市民も臨機応変で果断な対応をとれず、おとしよりやこどもふくめ寒空のしたで何時間も何時間も縦列をなしたちぼうけしていた。あれはまことにエネルギーの浪費であり、倭人の集団主義体質の悪面を示していた。まわりが無条件に信頼できないので整理券ごとに相手を信頼して並ぶといった共通ルールが、緊急時にしけなかった。あれは社会心理学で分析し、次回にはちがったルールで対応せざるをえない。不合理な光景だった。というか、いまだにそうしているのだが。

※2 けさのいばしんでもすでに誤った印象をあたえるわるい記事が載っていた。あの市長はあんな英雄的な人間性ではない。直後はいうまでもなく、市民へは1週間、事実上なにも対策しなかったのだ。1週間後、市民がほぼ自分勝手に自力で回復してから、市庁舎で安心しきって大声をはりあげても‘無能か、震災直後の市民へはなんの緊急対策もしなかった’市長と不良チームだったのはこの私がはっきりとみていた。天知る地知る我知る君知る市民知る鴎知る。
マスコミはマスゴミと称されるが、やはり真実より建前を報道しすぎる。真実は無能行政であり、最悪の対応と、しかも責任のがれの事勿れに終始し、緊急事態に公共機関から避難してきた市民を閉め出していった教員をもった市だったのだ。むしろ、茨城新聞記者はこの真実を精確に報道してもらいたい。誤解をまねくことはなはだしい。はっきり書くと、震災時の市の公務員らは悪中の悪だった。かれらは即刻解雇しなければならない。一刻もはやく。
縁故採用をし、イエスマンのやくざで周囲をかため、茨城新聞記者の前でだけいい恰好としようとしても『市民の眼』の前ではそうはいかない。そして現市長豊田稔は、現実の市民体育館はがら空きだったのに、こちらは手一杯だと虚偽をのべていわき市や福島県に恩を売ろうとした権力主義の悪人だったということを我々市民は確実に次世代へ伝えつづけねばならぬ。当然罷免しなければならない。さもなければ、おなじことが再び起きてもおなじことしか起きないのがまちがいない。‘なにせ今回がはじめてのことで’と養っている市役所の税収役人どもへほざかせて。今後、かれの子孫が市政にちかづいても、その血統があるので大変危険であるということをあまねく理解させねばならない。