2011年4月20日

復興論

復興構想というものを政府主導でやろうとしているが、この地域ら辺の為に事前な忠告をねっておくと、ほんとうに賢い復興は『完全に民間主導』でなければ。

 社会主義国系の首都をみればわかるが、政府がおもにたって行った都市計画はわるい意味で冷たく、人間味がなく、暮らしづらい居場所となりいわゆるスラム化が進む。
例えば家をたてるときを考える。完全に家族構成やら細かな好みの違いを無視というか度外視して政府高官が自己満足度のために与えた計画どおりに家がたったとしよう。ところがこれには風呂便所も一緒だわパーティーのための洋風テラスがきわめて広いが洗濯する場所もないわだとする。社会主義系都市計画の使いづらさはこの‘使用者目線の欠如’にある。

この地域は今のところ復興税とやらが投資されそうな雰囲気はないが、それがもしきたとしても、政府、つまり市政の独断で使い道を決めさせない方がいい。そうではなく、できるかぎり民意を吸い上げる形、または直接各家庭か個人へ配分する形でこの復興財源を用いた方がいい。
普段から近くに買い物を足す場所がなくて困っていた人も、今にも崩れそうな崖の補修をしてもらいたい人も、のりあいのタクシー券を発行してほしい人もいる。数かぞえきれない需め;もとめがあるが、すべてを市政がじかに満たすのは至難。
だから、「社会基盤」とされる法的整備の域、つまり道路や河川や防波堤あるいは図書館や大学など公共施設やその法治の条例施行にかぎっては政府がじかに発注を行うのは構わないだろうが、それをこえてはいけない。こえれば都市の私生活はうまく働かなくなる。かもめを繋ぐな。砂浜は保全しても、かもめ自身を放っておけ。そういうこと。

もちろんこういった公営事業へも競争発注や、市民へすべての情報を最大限公開したうえでのはなしあいで詰めていく経過をとったほうが、政治というかいまの市長の独断で進めるよりうまく市民の幸福へ期する確率が高い。そうみれば民意の代理人としての市長には無私のみが徳なのだろう。

追記。
一例をひけば、磯原中央公園なるものが6月までにいちおうできあがるらしい。けど、あれも社会主義系の施策ってかいきなり上から目線でつくりはじめていきなりできたものだから、市民にとってすばらしく幸福な代物かって言うとかなりちがう。市長の自己満足かもしれないが、かえって周辺住民の一部は迷惑がっていることもある。あの空き地は、たとえばすぐ目の前に昔からある教員住宅にとって、また昔からの住民にとって目の保養というか唯一、「なにもない雑草の空き地」としてこの地域の原型をとどめていた希少な場所だった。駐車場にならなかったのは救いだったかもしれないが、今度はすぐ窓の目の前に公衆トイレが出現した。資産価値がおちるのみならず、すみごこちも以前よりはわるくなった。さらに、以前は雑草がしげってたので転んでもすりむかなかった遊び場だったが、今度はなぜかケチったか遊び場は土の広場になってしまった(雇用体系とみても芝生管理はいい高齢者向けの仕事とおもうのに)。ここで遊んでも土煙で学校の校庭とかわりないばかりか、行くにも道路をわたらねばならず、しかも道路に面してるのでまちがって飛び出したら死亡事故が起きるかもしれない(飛び出しに対応する計画ではないし、フェンスも気づかなかったかで設けられていない)。
 ‘トップダウン政策’型の公共施設は大抵失敗する(いわゆるコンクリート系箱物批判)というわけで、ここでも市民からの公募とか話し合いで詰めていく設計や発注競技をおこなわなかった業が明るみに出る。景気循環をはかろうと土建業にみつぎまくる結果、市内ではその末裔による暴走族ごっことか、学校の荒れ加減とか、或いは違法パチンコ店のもうけがあがり市政へ傘下(ママ)してくる。
 今度こわれた堤防あたりでも、或いは市の設備でも最大限の透明性のもと、審査過程も審査員の経歴もはなしあいの経過も結果もすべて公開していった方が「公共設備への投資」は巧くいくことが多い。なにしろ最も腐敗というか、土建票との癒着がおきやすい一点なので、自民党閥がよわまっているいまのうちにこういう慣習を身につけた方がいい。もちろん、この公募は公募で民意をすいあげた結果、中庸案にまとまりがちな傾向があってきわめてすぐれた君主による先見の明ある施策には及ばない場合もなくはないが、それは時と場合による。こういうワンマンな断固トップダウンが成功するのは絶超名君が出現し在籍できていたという一定期間に限るだろうが、割合とみればきわめて期間が短くその機会も少ない。すくなくとも、文化の働きとしてはボトムアップ(底上げ)型の施策も試みておく方がいい。それが通常の時点での良策につながっていく。