2011年5月8日

物分かりのよいことば

最近マスメディアでよく見聞きする「批判」という言葉、誤用というか曲解された文脈で使われてる節がある。

原語に遡ると、ギリシア語由来でcriticus(うろ覚えだが)というラテン語があり、英語ではcriticと単純な表記に至る。で日本語にはドイツ語のその語の意味とまざって流通しているっぽい。
��riticusは「分かる」という日本語が最も近い。しかし、おそらくイマニュエルカントの書物をはじめに翻訳するとき批判という訳語を当時の日本の人の誰かがあてて、すこしことなるニュアンスを加味させたのだろう。明治あたりのはなしなのでおおよそ武士階級だった確率が高い。だれかは不明で、後学に待つ。当時の辞書と、翻訳書の流布の経過をたどっていけば原因はつかめるとおもう。
 英語のばあい、criticは批評という意味合いで通っている。文字でいえば手比べて平に言うと書いてあるが、そんなニュアンスだ。
だから日本語で批判の語にあるっぽい否定的分かり方という内容は必ずしも入り込んでないとおもう。Criticというのはよく喋る物分かりのいいやつ、弁士といった響きだと多分おもう。
��白川字学でいえば、批の文字はもとビンタするといった内容らしいが、事実上その形相は抜け落ちておりほぼ誰も意識できない。だから素直に、文字通り「手比べる」という解釈をするのが日常用語とみて自然だろう。判は半分にわける、なる「分かる」の分と同ニュアンスの文字。分かつことが理解するの初義にあったらしい。)

現在、新聞雑誌テレビネットなどで盛んに流通しまくっている流行語、批判の意味はおそらくカント哲学やその後のヘーゲル哲学らしきものが入り込んで、複雑観念お化け用語になってるのではないか。人々はこの比較的あたらしい「批判」の語に、畏怖と積極的野心を両方みているのではなかとか。これは九州弁まがいだが。
 ヘーゲル哲学でいうと弁証法という考え方があり、正反合なる三段階で物事は論理的に上昇していくという話。で、批判の語にはこの反の側面、つまり物事を否定する側面だけがとりあげられている節がある。(京都学でいう和辻哲郎は「空」なる禅語で否定の権威づけをしたから、もしかすると関西語圏では特にこの意味合いがつよいかもしれない。)
カント哲学では書物名に使われてるので明らかだが、学問の論理的基礎づけ、つまり礎といったニュアンスで批判、つまりラテン語criticusのゲルマン派生語を使っていたのではなかったか。

 とかく日本語の中に、こうして、ゲルマン思想がいくらか流れ込んでいるということが「分かる」。
この分かるという意味合いでだけcriticは正しくつかわれていい。(ヘーゲル哲学の反の働きだけに、あるいは和辻哲学の空のそれだけに「分かる」ことがあるのではないからだ。なにもかも分かろうと否定しなければならない、ってはなしではない。否定的論理だけが強調されるのはうまくないわけだ。)
ところで、批評すること、つまり手比べて評することは何かしらおかしな話でもないわけで、特に手比べるっていう批の語にあるビンタニュアンスがなくなれば、これはより明らかな話。
どちらにしろ、物分かりがよい人間は、より比べてわかる力がつよいはず。もし飴玉がある。これがrain dropと違うのは比べねばわからない。

結局、現代人の認識の基礎になってる実証科学(つまり実験を根拠にした論理体系)も、根本的にはさまざまなデータを逐一比べていって最も妥当な近似値をえらびとる、といった作業のくりかえしといえる。科学の言語づくりとしての数学でいっても、円周率みたいに近似計算は平気で使われるし漸近や極限、微積の概念(つまりちかいあたいをつかうこと)もある。
だから「くらべてわかる」のは何かしらおかしな、わるいはなしでもなんでもない。批判するという怪しげ難解用語をつかいまくることなく、「分かる」へその意味の素をまとめてればいいはなし。

そして分かるそのもののことばの中に、分かったすでに二つのものをくらべる、といった曖昧模糊さとの決別の意味が入り込んでいる。