2011年7月22日

現代文明の流れ

それがどういう結果や理論に結ぶかわからないが、なにか我々の21世紀世代ですでに貨幣経済というしくみはおわっている感じがしてならない。金が回らないのは単に景気問題ではないのでは。
 いろいろ文献というか本をあさってきたけど、精神価値というものが貨幣経済とはかならずしも相性よくない、と哲学面ではいわれたりもしている。価値哲学や価値倫理学というラベルで調べてみればいい。

 物質へのみ貨幣経済があたる。この観点は、自分のしる最も古い思想で、新渡戸稲造の『武士道』に出る。次に和辻哲郎の『倫理学』に。それらの中で、経済は物質への用語で、精神面での価値は貨幣経済をこえており計測されないと説かれている。

貨幣経済の歴史は有史以来なので割と短い。それまでは貝や石や金銀やで代わりにしていた。信用貨幣のしくみは、政府同士の均衡によっており永続するとはかぎらない。

 つまり貨幣経済は永遠のものではないか、少なくとも近代のものでしかない。そこへ他の時代からひきつぐすべてを詰め入れるのは結局ムリらしい。それらの価値をもカネの眼だけで捉えようとするのは近代人の病:やまいではないか。
 おなじく、魂のこと、要は思想をともなう営みへは貨幣経済が入り込みづらいなんらかの条件がありそう。貨幣経済は物へのしくみとしては成功したが、心や魂や精神や自然といった物ではないなにごとかへはうまく適合しない。「賠償」とか「済まない」という言葉をよく観察すれば、カネはただの代償にしかならないのがわかる。

 物すら精神、あるいは究極では頭脳に仕えるもの。脳死の概念がでてきてからはなおさら。だからよき頭脳へ貨幣価値をあてるのは、おそらく諦めた方がいい。貨幣経済は頭脳のあいだの取引へはあまり有効なしくみではないので、よくショートする。やってみればわかるが、これらの文章を書き上げるのも楽な仕事ではない。しかし、多くの物に関わる仕事よりその対価は貨幣として明確ではない。
 例をあげれば、古代の文物、たとえば枕草子や方丈記が貨幣価値として流通していたわけでは全然ない。すべての文物へそういうわけ。だから頭脳の産物、精神性の高い営みは決して物質経済とおなじ取引レートでは量れない。

なにかしら文明の状態が、情報文明とか知識文明とかいわれたりもしてたがそういう段階にさしかかってるのが確か。団塊の金権趣味層がきえたらその面が極大化されてくると思う。だからあと20年から30年の間で劇的に世界は変わるはず。いま60代後半から70代の人が亡くなれば社会のしくみ自体も、そういう精神取引がメインへかわる。
 基礎収入の理論も荒唐無稽にみえるが、共産主義とはちがう目でみていくべきか。しかし、自分は「第一次産業へのみ基礎収入はあってしかるべきでその他は無関係」におもうが。
なくてもいいなりわいにカネをもたせたい意味がわからない。悪用される確率の方がずっと高い。ただでさえ都会には極悪な俗:ならわし があるのに。そういった社会へはもっとはるかに強い負担がおぶせられていいのがまちがいない。つまり、完全一律のベーシックインカム論は100%間違いだ。搾取さ分の生産さ(生産/搾取、つまり逆付加価値割合)の比率が高い産業の種類別に、いわば所得不均衡の調整としてある程度傾斜配分すべき、というのが基礎収入論の本質だとおもう。

 藤原正彦の『国家の品格』とか他のかれの著作にあるが、インドで数学してたバラモンのラマヌジャンはこういう精神取引のレベルというか知識層の典型ではないだろうか。要するに、昔のさむらいじゃないが、精神的な質の高いなりわいは階級的に保護されるのが人間というものらしい。だから貨幣経済へわざわざ仕組まなくともおそらく、ある程度以上にそういう仕事の者は特別視され、他の物質階級よりも高められる。代償として、かれらはいわゆる清貧に近づくかもしれないが。
 その藤原氏いわく日本の特権階級だった侍は、イギリスのジェントリー層なんかとちがってカネに淡泊なのがめずらしいという言い分らしいが、ジェントリーだっていわゆる郷士と変わらないと思う。旗本なんか贅沢だったわけで、新渡戸の理想化された武士は岩手あたりのいなか郷士の姿だったにすぎないはずだ。

要は特権階級的な精神奉仕者は、どの時代でも富そのものとは一線を画すがゆえに魂の貴族とみなされる。はっきりいうと、この構図がやぶられたのは歴史的には二三度の偶然の場合によるのではないか。古代ギリシアの自由市民、中世スコラ学者系のカトリック教皇、で近代のプロテスタントかユダヤ資本家。これが西洋版だが他の地史でも似た姿がいくらかある。日本でいえば古代大和王朝の土地豪族、中世の荘園領主か国司系の公家または武士、で近代の華族系資本家。つまり「封建層」とかいわれる連中が精神貴族、魂の仕事の地位をとってかえそうとすると正道が歪むか水準が落ちるということ。

 以上の文章をまとめれば、魂の貴族こそ真の貴種なのでその仕事はどの時代でも特権にあたいし、しかも貨幣価値や富の程度をこえているので特別あつかいされていいというわけ。そして擬態したりまねたりしてにせ貴族のふりをする封建層には気をつけろ、そいつらは本来の貴種ではないが、時代時代の搾取体制のしくみだけを利用して自らが私腹を肥やすために貴種をよそおうのだ、と。
上述の和辻『倫理学』にあるが、ある時代をつくりだした力はその創始者にこそ宿り、ほかのまねしていった勢力は二次的な層なので必ずしも最初の族ほど重要ではないと。つまり時代の創始者が本来の貴種であり貴族の資格があるわけだ。平氏が第一の武士として大化の改新でそれまでの公家の怠け癖へ別れを告げさせた如く。

で、現在はそういう時なら、やはり知識階級の中から新しい時代が動きはじめてきていると思う。一時はいわゆるベンチャービジネスみたいなものがそうかとおもわれてたが違うらしい。日本では、知識階級がその発端になり時代をかえていくはずだ。人々は、というか団塊はNEETという新時代の自由人の状況にある世代をさげすんでいるが、労働せずとも衣食住をみたされているのは古代ギリシア以来のことなので理解が及ばないにすぎず、また彼らの中から高等遊民をこえて真実の知識人が出現するだろう。そしてその人種が全体として時代を精神活動の面だけで率いていくはず。
 いわゆる経済成長という現象はおこらないだろう。イギリス病はイギリス病ではなく、単に物質文明のある程度の需給限度だったといえるだろう。それから先へは知識の進展と、いくらかの技術展開が続けざまにおこるだけだろう。コンピューターがオートマトン理論から生まれたのはその最も典型な例だが、そういう「小さな知識の革新から次第に大きな技術変革が続けざまに起こる」という過程が、たえず先進国のどこかでくりかえされるだけだろう。日本もその流れの中にあり、既存の日本の特徴らしく芸術に傾く様ではあるが、凄まじい手描きアニメが授業中のパラパラ漫画絵の展開から育ったみたいなのもそういう一つの例なのだろう。技術的にはアメリカとそんなに変わらないというかほぼ同時刻変化、一歩遅れくらいのペースで来てるみたいだが。

 そういうわけで、自分は水戸という都市にはどうかロンドンを模倣又は参照してくださいとおもう。東京はニューヨーク的な過密摩天楼都市になったが、理論面でいえばロンドン的な河川沿いの田園の中の中低層都市としてかなり都市分類学的同位種だし、近世水戸学時代から「理論面で他を導く責務」があるきがするから。ロンドンよりも水戸は気候が明るいので、そこは違う姿になるとは思うけども。というわけで水戸市はロンドンと姉妹都市になればいいのだが。