2011年3月28日

公園事業のおはなし

いそはら中央公園なるもの出現。まだ未完成だが。ひろくみえるのはいい。しかしもとの広場状態でもかえって希少価値な「なにもなさ」がよかったのだけど。
団塊とそのjr.は空き地というものへ不思議と手を加えたり、囲いあげ閉めたがるがるふしがある。けど、ちいさな子供は空き地を最大の遊び場にする。不思議だが、高度成長期以後はこういうなにもない空き地がきえてしまった。かわりに地代あげのためのサブカルチャー店舗やら大規模郊外型量販店やら巨大駐車場やらフェンスで囲って市民を締め出した悪徳行政の独占独裁地がいくつもいくつもできた。しかも放課後、学校は入れない。勇気と寛容さ、そして智恵のないおとなの自業自得のみならずこどもへも環境は悪化したようだ。

ところで、広い道路がわへは高さのある程度あるフェンスがいるのではないか? 幼児や子供がボールあそびをしていて事故にあったり、歩道の通行者へ予期せぬダメージをあたえそうなのがめにみえる。そこはしごとの手落ちではないだろうか。

あといつもそうだけど、トイレとかのデザインが適当に古臭い。駅のむこうのも。
だれが設計してるかわからないけど、いつもの票田手法のごとく土建票つながりで、競争発注や設計競技みたいのはしてないのだろうか。よかれあしかれ保守的か退歩的な性格があちこちにでてくる。
 けど技術革新へ退行して伝統工芸みたいなものをずっと飽きずにつくっていると、必ずや地帯の産業地位は低下してしまう。生産性の機械的向上がないから。
できるだけ伝統や風土、地域らしさと調和する、最先端の技術をつねに採用していったほうがいい。磯原駅は一つの模範。いままでとかわりないただの屋根がわら(しかも崩落対策なし)はああいう感じで地震によわい伝統なのでもしかすると外観装飾の質としてかならずしも最善でなかったのかもしれないが、ホログラムをつかったり音響装置をいれたり技術への感心の高さがみられるのがよい。