2011年3月2日

県史の教育

東京偏見は殆ど最悪のいざないを伴うから「みなかったことにする」上で(そのほうがよい結果になるのがまちがいない)、最近はやりだしていた県民性の話題からいって、茨城県では県史を全ての義務教育課程で必修教科にしたらどうだろう? そんで高齢者や成人向けへはNHK水戸か県放で毎週定例の県史をたどる番組を流す。

そのほうが全ての面で、道徳教育とやら(そもそも道徳は教育できず、既存の理説を批判すなわち手比べてみて判るだけだろう)よりもいい結果がでると思う。敵を知り我をしれば云々ってやつだ。

 というのは、なぜ他県の文化からみると茨城が怒りっぽくみえるかいえば、その高い学資(つまり水戸学の高見)にくらべて説明するための方式が欠けているので「なぜ相手(茨城の人)がそう考えているのかわからない」という状態が、たえずやり取りのなかに入り込むからだろう。
要するに、誤解を招きまくってしまうという傾向がある。これは藩士以外へは弘道館での直接的教育がおよばなかった儒学の弊へ因果がある。民に由らしむべしというやつだ。

こういってはなんだが、天狗党の存在も根本的にはこの行政情報の非対称さがつくりだした可能性がある。他の学者の分析を待つ。

 ある面でこの『茨城らしさ』は理解の非対称さとして有利な点ではあるが、少なくとも県でそだった民については充分な真意を理解させたほうが徳があるのではないか。様々な民間のはなしをみてると、そもそも茨城を尊重しておらず、東京偏見にまんま毒され県の民やその達を不必要に卑下している層も少なからずいるっぽい。
マスコミは完全につかえない。江戸ニュースのキャスターとかほぼ100%最低なので、やつらに洗脳された他県や他国のひとというのは救いがたいし、いずれは報いがある。自分は東京やその人々の性質を知って、なおいうのだ。ただネットはもうかれらの支配から相当外れているので、東京ジャイアニズムという概念みたく内情はばれているらしいけど。

東京には江戸時代からいわば世間のはきだめさがあるので、東京偏見にしたがうかぎり俗化はまぬがれない。また非都心にとり最も不利な条件は、マスメディアを東京の企業が寡占していることだ。しかしネットの媒体については先がある。だからこの媒体進化の機会に、県民へは真意を教えておいた方がいい。

世界史か日本史は高校で必修なので、県史を独自におしえておく方が総合してみて茨城県出身者を「高度な人材」へとみちびくのが確かだと思う。特に県南部ではそうだ。
かれらへは水戸藩のもっている格式が充分に浸透していない。土浦の位置づけもその点で微妙なのだから。

 僕が見通すところでいえば、東京偏見に従わせるより水戸格式に従わせるほうが土浦周辺の人間をより上等な人達にする。

僕が以前、ひたちのうしくという駅でおりたときその駅員の態度はいわゆる黄犬(卑屈なまでに上下関係へ隷従する達)のものだったが、現実の水戸以北はどちらかといえば正義感や道理の方、要は「理屈」をその種の場当たりな政治世界より優先させる土壌をもっている。全ての上下関係はそのなかではじめて成り立っている傾向がある。
そして自分の判定が正しければ、政治世界へ下手にまきこまれるより、道理に遵っているほうがより幸福なのだ。というのも、高尚なる道理というものはまず政治的安寧が確立された上ではじめて育つ心象だからだ。その先にある単なる知性へ進むには政治闘争ともういい加減係わり合いにならないほうが得策だ。
勿論、支配趣味的な個性やその自由は認めた上でいうのだが。

茨城県の名称に顕れる様、倭の政治界と係わり合いになりたくないのがこの地域の本音だと思う。そして佐竹氏の心理もおそらくここにあったし、同じく義公の先見の明も多分にそこにあった。
関東最古来の重鎮として権現様のおわす栃木と連携し、東洋文明の基礎固めをまだ着実にしている方がいい。その為にはそもそも先史時代から倭民族の侵略があった頃、そして慶喜公の恭順までなぜ我々が現代こうあるかを教えておくほうがいい。
 実際の東京都をしっている人間ならこの意見にみるべき理由があると思うだろうけど。つねなる江戸の俗にそまらず、東京と決定的にすみわけるべきだ。そうすることでむしろネットの浸透からちかぢか多数派へなってくる、東京偏見を脱却した人々から尊敬され、信用される。実際、そのほうが日本であれ世界であれよくなると自分はみる。
こないだアドマチックとかいうあの趣ない毎度つまらん番組で水戸徳川家の殿下がご高説なさっていたが、やはり東京にならうより水戸の風にならうほうがよい結果に至る。それはいくら東京のマスメディアが洗脳してもいずれは誰もわかるものだから、我々としては地道に、冷静に漸進していればいい。県民showより県史教育をしたほうが、他県民や他国民と対峙しても堂々と適切につきあえる。