産業の質か達は、必ずしも総生産値などの既存経済指標に反映されない。
需給の振り子はそのいちばで生きる民がなにを需め;もとめ、なにを給る;たまわる かによっている。だから総量にみた経済圏が必ずしも幸福感の比べみた理想の姿ではない場合も多く、逆も然り。
もし総生産が総取引とは別の値だと分かれば、現代経済学の上で純生産と純取引とは分けて考えられゆくだろう。いちばの取引量を目あてとする税収運営の組織、つまり政府も、もし中間搾取の悪意がよりすくない純生産費のみへのえり好みがいちばでつづけば、相対的にちぢみきえゆくはず。
だから市場での磯原指標の高さは実質の富が必ずしも交換価値の追い求めとならない証として一つの現代経済の進み方を示すだろう。
なるほど需給の達がより高貴なもとめに応えゆくのは「高い教養教育」が成功したときに限りそうだ。このいちばではつまらない、とるにたらない需要が起きようはずもなく、より高級で上等な品が次々に取引される適所となる。
もし総取引の額がどれほど少なくとも、この様な市場こそが本来の経済の目あてであり、旧総生産指標の高みにより外威を張るおもいは決してよい適所の目安ではない。極論すればそれは人口密度比にしか捉ええない。