金銭めあての商業化は、必ずしも國風によい影響がない。多くは反する。例えばオランダとイギリスを比べれば判る。同様に郷風、近しい身近な暮らしにとってもそういえる。
生産性を上げる事で結果的に十分に高質な品物をできるだけ安価に消費者へ提供できる様なしくみが、本来の経済原則(但し奢侈品目は掛け値についてこの限りではない)。
産業革命が重要だったのは、このしくみがいち早く確立されたから。19世紀から20世紀はみなその影響下に近代化が進んだ。
宗教心が無視されたり、商業のために道徳が軽視されてはならない。それは経済の本質へ逆行する。経世済民という漢語をeconomy*1の語にあてたケイザイは、もとは民を済う;すくうという是政者の徳だった。いわば財政の徳度をこそ経済という。
だから元々は道徳上の高い価値を実現する社会づくりと、経済行為は一致していなければならない。あしき商業は成立してはいけない。それは福祉、つまり大多数の道徳上の行状に反するから。
日本では福沢の思想がはやってこの経済観念がかなり低落したものになっている。もとは清教徒思想と一致した功利主義の傾向こそ英米の自己正当化や政治経済上の地位を担保するものだった。福沢は、そのうち覇権を握られない為の先手の部分だけを強調しすぎた。
日本人は厳密な無宗教者が多く、経済観念をただの金回りと勘違いした結果、こういう事情、つまり「道徳の補完としての商行為」という意味を見逃している。
オランダをこえて覇権をにぎったイギリスの原動力には、清教徒革命から一貫した『神への奉仕』としての陰徳(隠れて為す徳行)の経済活動が存在していたと思われる。
カルウ゛ァンという思想家が発明した考え方だが、中世イギリス人の信仰上の救いは、世の中の現世価値の為ではなく、来世の救いへの確信としての天職とその陰徳としての経済活動を全うすることだった。「仕事」の内容には、彼らの勤勉さの中にこの意義が含まれる。
日本人や常陸國の人々はこれらの意味をいつか理解しなければならない。そうしてこそ本来の経済活動はこの國に宿るだろう。それはまた、単なる皇祖への祖先崇拝の念ではなく、GODの訳語としての神、つまり一神教の神を日常に認める宗教革命でもあるだろう。
最近筑波で発明された田植えロボットは、おそらく日本人の文化史では最も大きな衝撃の一つだろう。生活の最も基礎に関わる技術革新ほど経済の効果は大きい。県政や国政は、その発明者の氏名をきちんと歴史上に記録し、栄誉を称える必要がある。
そうしてより生産性を高めた品物を交易することが、金銭主義な国体とは違う國柄をつくる。このくにがらこそ経済行為が本来求めているもの、つまり他者や隣人からの救済であり好意であり、信仰を通した協調や和平といえる。陰徳としての経済行為は、その地風を周囲より恵まれて善良なものにするからだ。
��1
「周辺支配」の意味。元は家政のギリシア語oikonomosからでてきた。ラテン語oeconomia→古代フランス語economieを経由してイングランド語economyに至る。語の出自をみると、「家守(いえもり、やもり)」というのがもっとも原義に近い日本語だとおもう。