2011年4月17日

実証科学の習性づけ

市内の主婦層の間では非科学な迷信がとびかっている。具体的に何日へ余震があるというなんの根拠もない俗説、因果関係のあきらかではない鯨などの海洋生物の浜辺打ち上げとの確証偏見こみの関連説など。それがかれらの不安感をひどく煽っている様だが。

 こういう風に普段から強烈なほど科学で教育されていない市民というのは、危急時には簡単に俗説や風評へ流されてしまう愚民といえる。そしてこういう社会へあしき宗教説などがはびこってくる。

やはり今すぐ、科学の啓蒙を徹底せねばならない。自分にできる域のことは最大限おこなうが、最も合理なのは大学を建設することだ。共同体が運営する市立でも構わない。とかく市民が科学的に合理な行動をとれる様に普段の学習が要といえる。それがない場合、危急に陥れば一層状況はひどい。

教育されていない老人というのは、儒教圏では一層たちがわるい。頑固とも固陋ともいいがたくなかみのない、あるいは害でしかない権威をおぶせかけて少しも恥じることがない傾向がある。儒教はすでに日本国内、少なくとも北茨城市では害毒の方が大きい思想だと自分はみる。
社会の趨勢についてこれなくなった引退すべき老人が、迷惑をまきちらす言い分につかわれる思想な傾向が大変たかいが、現実にはそれがあるだけ社会へあたえる悪影響も大きい。その分停滞してしまうからだ。儒教は宗教とみれば信じる者がいてもかまわないが、すこしも学校教育や社会構築で‘必要な’思想ではない。

年上の悪徳もちがいた場合、この人物を批判してさっさと先に行くことが有用だ。儒教圏ではズルズルとこの人物の後を追うみたいだが、それも悪徳にすぎない。年寄りにかまってはいけない。経験則のたねとしても利用できなくなったらパスすべきだ。