2011年4月17日

想定と業

http://mainichi.jp/photo/news/20110417k0000m040109000c.html

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 ◇チリ津波が基準 想定外、高さ15.8メートル
 市によると、51年前に市を襲ったチリ地震津波の高さは5.5メートルで、これを基準に防潮堤を築いた。しかし、震災後に現地調査した東京海洋大の岡安章夫教授(海岸工学)によると、体育館を襲った津波の高さは壁の痕跡などから推定15.8メートルだった。4月11日、戸羽太市長が言った。「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる」

東日本大震災で壊滅した岩手県陸前高田市民体育館。避難所に指定されていたため住民約100人が逃げ込んだが、生存者は3人だった。その1人で市職員の佐々木英治さん(38)や住民たちの話から「あの時」を再現すると、想定外の大津波に、なすすべもなく流されていった高齢者たちの姿が浮かぶ。

 ◇午後2時46分 
 強い揺れが襲った時、体育館内では県立高田高(同市)女子テニス部員15人が練習中だった。主将の金(きん)優里香(ゆりか)さん(17)は「ステージ側の壁がボロボロ砕けて落ち、天井の大きな照明がゆらゆら揺れて落ちそうだった。扉付近の部員がドアを開け、みんなで外へ飛び出した」と振り返る。

 直後に体育館に着いた顧問の川口倫(ひとし)教諭(37)は「体育館の中は停電して真っ暗で、フロアは砂ぼこりが舞い『安全じゃないな』と感じた」といい、生徒たちに高台のグラウンドへ向かうよう指示。部員の菅原美鈴さん(16)は「歩くというより2列になって走った感じ。余震のたびに立ち止まった。泣いている子が多かった」と語る。部員たちは午後3時すぎにグラウンドに到着し、津波の難を逃れた。

 ◇海抜3メートルに立地
 テニス部員と入れ違えるように、体育館には人が集まり始めた。目撃者によると、60代後半以上の高齢者が多く、車椅子の人もいた。市は体育館を避難所に指定しており、防災担当者は「体育館に避難し、津波の恐れがあれば高台に逃げる流れだった。ただ高齢者の場合、高台まで遠くて行けないのが実情だった」と言う。

 隣接の中央公民館に勤務していた佐々木さんがラジオをつけると「予想される津波の高さは6メートル」と伝えていた。「6メートルなら体育館に来るころはもっと低くなると思った。チリ地震津波(1960年)の高さなら、市の想定では浸水は1階だけで済むはずだった」。体育館は海抜約3メートルの土地に建ち、地上から2階通路まで約6.4メートルあった。

 別の市職員の女性(51)は義母(79)を体育館に避難させた。「チリ地震の時も津波は線路(JR大船渡線)までしか来なかったと聞いていたから『体育館2階に逃げれば大丈夫』というのが近隣住民の認識だった」

 一方、体育館近くで食堂を営んでいた鈴木邦夫さん(66)は車で高台へ逃げた。「避難所は体育館になっていたが、自宅と海抜が変わらないので逃げても仕方ないと普段から思っていた」

 徒歩で高台に向かっていた加藤りん子さん(60)は体育館前で、60代ぐらいの女性が「避難所はこちらですよ!」と叫ぶ姿を見た。集まっていたのは50~60人。加藤さんも声をかけられたが「高台に行きます」と断った。体育館を通り過ぎて振り向くと、さっきまで後ろを歩いていたお年寄りたちがいなくなっていた。「みんな体育館に行ったと思う。年配の人たちは、津波警報が出たら体育館に行くよう訓練(毎年5月実施)していた。私は昨年11月末まで福島にいて、訓練したことがなかった」

 ◇行きどまり殺到
 佐々木さんは体育館2階に続く外階段へ避難者を誘導。高齢者に手を貸し、車椅子の人は2人がかりで担いだ。「最終的に100人ぐらいだったのではないか」

 市によると、津波の第1波が堤防を越えたのが午後3時22分。海岸の松林が水に埋まり始めたのが同24分。階段の下で誘導中だった佐々木さんからも大きな津波が見えた。2階に上がると、みんなが「ここも危ないんじゃない?」と騒ぎ始めた。「ドン」と音がして体育館1階に海水が浸入してくると「わー」と叫び声がした。

 奥にある男子トイレへ人が殺到した。その先は行きどまりで、ぎゅうぎゅう詰めだった。佐々木さんは両足が「ぬれた」と感じた瞬間、津波にのみこまれていた。海水を飲み「ああ、これで終わりだ」と思った。「よく言われますが、本当に自分の子供たちの顔が思い浮かびました」

 水中で、同じようにもがく人たちの手足にぶつかった。もがくうちに鉄骨のようなものをつかみ、思い切り頭を突き上げて水面に出た。水かさは天井から約30センチの所まで上昇したが、水は少しずつ引いた。暗くて何も見えない中で「おとうさん、おとうさん」と女性の声がした。離れた所にもう1人、男性が生き残っていた。津波にのまれてから10分ほどの出来事だった。

 天井から長い髪の毛が垂れ下がっていた。どこかでうめき声がして捜したが、間もなく途絶えた。1階は水没したままで、何度も津波が押し寄せた。生き残った3人はずぶぬれのまま身を寄せ、一夜を明かした。

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この例をひけば、市政が当初から主張している「想定外だったので」「なにせはじめてのことで」という言い分は全然正当性がない。防衛者の責務は市税をあずかる市場の胴元としてその市民の生命と財産をいかなる事由の前でも守りきることではないか。
 もし全滅したとしよう。そのあとで「想定外だったので」「なにせはじめてのことで」なら、一体なんの市政だったのか。今後きちんとおのれどもの業のわるさを反省し、想定はつねに最悪の事態を先取りしてもらう。それでも想定外のことがあるだろうが、少なくとも何もしないよりはましになることをみとめねばならない。

また、倭人はよく「一丸になって」と言う。鰯じゃないのだからそれは危ない。一網打尽ということばをうらがえせばそうなるわけだ。「一人でもいいから」というのが真理だと思う。たった一人でも助かる方が、全体最適化で全滅よりはまし。