県内工場誘致において、高付加価値産業への特別優遇をおこなうべきだ。それによって県民所得があがるから。一例として、化学工業、精密機械器具製造業、繊維工業、プラスチック製品製造業、ゴム製品製造業、窯業・土石製品製造業、一般機械器具製造業、電気機械器具製造業、輸送用機械器具製造業などの様である。
2013年12月27日
2013年12月8日
2013年11月29日
2013年11月28日
水戸侍町構想
水戸は侍の町として、水戸市そのものを侍色で染めるように、都市計画ならびに宣伝美化活動をすべきである。最後の将軍を輩出した、水戸徳川家の本宅が現存するのがその根拠になる。サラリーマンの町となった東京や神奈川はじめ、首都圏、それどころか日本国からきえてしまった武士道を、唯一、天狗党の回天神社を有した地霊おわす水戸藩だけが、復活し、未来にいきのこらせるべきである。弘道館や、偕楽園、西山荘そして常陸国各地の藩校、義公や烈公の事跡といったサムライ遺産の一体的再開発、そして真の武士道精神の顕現である尊皇攘夷を唱えたサムライ茨城を、おもに海外をターゲットにした県の魅力度向上の最大の起爆剤とすべきだ。
2013年11月18日
広報の外注策
でも、今回のでわかった。自衛隊の人たちっていうのは普通の人だ。何度も言う。普通の人だった。普通に生きて、普通に結婚し、普通に家族親族を持ち、普通に子供を育て、普通に友人と談笑するような普通に生活している人たちだった。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:41:05
それなのに、普通の人なのに、有事となれば個を捨て、命を賭して日本国を日本国民を守ってくれる人だとわかった。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:42:34
私は、私たちはそんな素晴らしい人たちに守ってもらっている幸せ者なんです。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:44:07
自衛隊ってやっぱ多くの国民にとって謎の存在すぎるんだよ。わからないものは怖いに決まってる。ましてやほぼ軍事組織みたいなもんなのだからなおさら怖い。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:39:04
唯一自衛隊の悪いところを言うなら広報が下手すぎる点。
わからないから怖がられるし理解者も増えないんだよ。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:45:45
逆に日本人は自衛隊のことを知らなさすぎる。何かあった時に自分たちを守ってくれる団体について無知とは、冷静に考えてやばい。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:49:11
確かに自分たちはこれだけやってるだとかは言うべきことじゃないかもしれない。でも、基地祭などでのPRはもっとすべきなんじゃないかな。
Hetare_wexy 2012-03-07 02:47:10
http://togetter.com/li/268885
このツイッターのまとめは茨城県というものについても、まったくおなじことをしめしているとかんがえていい。つまり、広報公聴課の、特に広報面に関しての戦略性がおとっているというのが、魅力度調査でみえてくるこの県の特徴であり、それはおそらく謙譲の美徳の過剰さによっているというわけだ。
広報公聴課は、おそらく電通などのそれ専用の先導企業、あるいは民間の大手シンクタンクそのものに広報活動の全面的依頼をした方が賢明であって、自力で広報するのは能力面から無理ということなのだろう。というのも、水戸学の伝統はそれがしっかりとしていればいるほど、漢学をとりいれた部分で、謙遜をおもんじ自慢を否定してきたから、あきらかに自己宣伝が苦手分野になる要素があったのだ。美徳も過度なら損があるということである。PR費そのものを県政が負担して、この様な作戦をとることがこの県の発展と、総合ブランド研究所からのかさねがさねの犯罪の害をとりのぞくのに必要である。
2013年11月15日
茨城県の戦略
わが県にとって必要な態度は、自らの県を世界でもっとも幸福な県として安住することであり、他人からの評価ではない。自己評価がすぐれていれば、他人の評価に一喜一憂する必要はない。それらの他人は、茨城県に住んでいない為にその幸福を享受することがないからだ。
と同時に、県外へは県外の人間がもとめる県内におけるかぎられた情報をあたえるべきであって、いわば洗脳が必要である。いいかえれば、他県の人間が羨望し、熱望し、所望する理想の茨城県の情報をつくりあげ、美化し、もとめられているだけあたえればよく、それが真実である必要はまったくないことになる。マスコミというものはもともと行政のプロパガンダ装置にすぎないので、これがただしいもちいかたなのだ。実際、この様な方法で総合ブランド研究所はこの装置を悪用し、風説流布罪をおこない、評価を捏造し、わが県に多大な経済被害をあたえつづけてきたのだから、同程度以上に、今度はただしいよき方向へ復讐をとげる義務が、わが県民ならびに関東北部の諸県にはあるのだ。
と同時に、県外へは県外の人間がもとめる県内におけるかぎられた情報をあたえるべきであって、いわば洗脳が必要である。いいかえれば、他県の人間が羨望し、熱望し、所望する理想の茨城県の情報をつくりあげ、美化し、もとめられているだけあたえればよく、それが真実である必要はまったくないことになる。マスコミというものはもともと行政のプロパガンダ装置にすぎないので、これがただしいもちいかたなのだ。実際、この様な方法で総合ブランド研究所はこの装置を悪用し、風説流布罪をおこない、評価を捏造し、わが県に多大な経済被害をあたえつづけてきたのだから、同程度以上に、今度はただしいよき方向へ復讐をとげる義務が、わが県民ならびに関東北部の諸県にはあるのだ。
2013年11月12日
2013年11月5日
東海村IT戦略特区策
日本政府はIT戦略特区を茨城県東海村にもってきて、脱原発労働者の雇用吸収策とせねばならない。また県知事はこの施策において国家との調整に尽力すべきである。かつ、この構想の後には、県央行政の簡素化のため、東海村の水戸市との統廃合を断行せねばならない。
2013年10月12日
茨城高品位論
茨城人はその日本あるいは世界でもっともたかい品位をまもり、うながすべきで、衆愚の低俗さにこびるべきではない。大衆は無理解であり、町人文化を延長させたいやしい東京偏見にまみれており、東京資本が発信する商業主義的な東京ジャイアニズムのマスコミに洗脳されているにすぎない。東京と茨城をくらべれば、自然・文化・都市・歴史そして伝統、どれをとっても茨城の方がはるかにすぐれ、はるかにうつくしく品位の高い自治体であるのがあきらかだから、われわれはむしろ、水戸徳川家の貴族的な功徳によって大衆の侮蔑すべき悪趣味からまもられていることに感謝すべきである。われわれのもっている真の魅力つまり品位は、このくにでさえ皇族はじめ一部の王侯貴族にしられるのみであり、かつ低俗な労働者のあつまりとなったスラム化しつづける東京との原則的なすみわけのために、没落していく東京をこのむ無知きわまりないひとびととは対称的に、ますます高貴化がすすむであろう茨城の世界史的勝利を予言しているといえよう。大衆や東京人が丁度そうである様に、いくらむれを形勢したところで、衆愚のもつおろかさあるいは誤解というものはかれらを自滅させる原因で、かつ、皇族や貴族・教養人をはじめたったひとりによるものであれ真の理解は、かれらの地位や身代を上昇させていく原理だから。
2013年10月3日
真の魅力
もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
――岡倉天心
この言葉を茨城県に魅力にあてはめることができる。
もしわれわれが魅力的たるためには、卑俗な喧伝によらなければならないとするならば、むしろいつまでも魅力のない県に甘んじよう。われわれはわれらの偉大な歴史および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
――岡倉天心
この言葉を茨城県に魅力にあてはめることができる。
もしわれわれが魅力的たるためには、卑俗な喧伝によらなければならないとするならば、むしろいつまでも魅力のない県に甘んじよう。われわれはわれらの偉大な歴史および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
2013年10月2日
全国情報適応
情報界へ最適化し、魅力ふくむ宣伝効果を大きくするために、定府制にならって、情報戦略基地をひそかに東京都内に立地させるべきだ。茨城マルシェの内部に秘密組織化してもよい。この基地からえた最適な情報戦略をもとに、宣伝効果を最大化することが勝利につながる。
2013年9月27日
人事を尽くして天命を待つ
本県の魅力度については、わたしはもてるちからのすべてをつくして向上させようとしてきているので、もうあとできることといえば、かみにいのること以外ない。
おそらく、茨城県のよさを理解していない県外の人間が、このもっとも品位のたかい県を誤解した結果、かれら自身に最大の損害をえることになる。よきひとをおとしめるものが地獄にたどりつく様に、うつくしい県をそしるものはもっとも悲惨な結果をえるだろう。
また、君子はひとのおのれをしらざるをうれえず、と孔子はいう。茨城県民は、「他県をしる」様につとめればよく、宣伝はかえってしない方が徳がたかいといえよう。東京都民は、てにはいらないいなかぐらしをそしるきつねの様な存在であり、とおからず自滅のみちをたどるだろう。
おそらく、茨城県のよさを理解していない県外の人間が、このもっとも品位のたかい県を誤解した結果、かれら自身に最大の損害をえることになる。よきひとをおとしめるものが地獄にたどりつく様に、うつくしい県をそしるものはもっとも悲惨な結果をえるだろう。
また、君子はひとのおのれをしらざるをうれえず、と孔子はいう。茨城県民は、「他県をしる」様につとめればよく、宣伝はかえってしない方が徳がたかいといえよう。東京都民は、てにはいらないいなかぐらしをそしるきつねの様な存在であり、とおからず自滅のみちをたどるだろう。
2013年8月15日
海水浴場
なこそ海水浴場はまだひらいているのに、原発からさらにとおく空間放射線量でより安全なはずのいそはら海水浴場は、市役所が指導してはやめに閉鎖してしまうわけがわからない。市長の判断が厳格すぎるか。
茨城県民の智惠
放射能廃棄物について、一括で福島原発付近に最終処分場をつくるのが現実的といえる。この民意を実現にとりつけるため、高萩市長を座長に栃木県と協調して、茨城県の国民たる民意をまとめて国政へぶつけるべきだ。特に茨城県は、すでに原発という巨大な負担によって日本国の首都圏をささえつづけてきたし、いまもささえている屋台骨なので、終始一貫した処分場立地断固拒否の態度をはげしくとりつづける必要がある。
国民で競合する可能性があるのは、福一観光地化を計画する東浩紀氏のgenronだけといえるから、こことの協調もちかい将来必要になるかもしれない。それにしても、最終処分場までをダークツーリズムの対象にすれば問題はない。現にひとがくらしていて、将来もくらしえる国土をさらに汚染するよりは、すでに汚染されてしまってひとがすめない場所の方が最終処分場の立地として合理的といえる。無論いままで散々、われわれ茨城県民や福島県民のお世話になりつづけてきた悪徳のみやこ、東京都へつくるのが責任のとらせかたとして最善だが。それをまず主張し、つぎに代替案として福島原発内への処分場構想がくる。茨城県内は京都府より沢山のひとがすんでおり、京都府以上の大経済圏であり、かつ福島のすぐとなりなのだから、茨城県内に最終処分場を立地するのは国民に損害、不利益や不徳しかない。
また、発電力からいって東海第二原発は廃炉が現実的だ。としよりたちはわかものより、この将来予想の知能でかしこくないといえる。小学生にきけば理解できる程度の命題なのに。火力や石炭でさえ同等の出力は十分可能である。首都圏を壊滅させかねないうえに大した出力ではない危険施設を稼働しつづけて、日本国へなにもいいことはない。日本原子力発電へ最終的な再稼働禁止をつきつけるのは、結局、茨城県民の高度な未来予測の知能なのだ。茨城県民の知的水準しかためされていない。もつエネルギー、いわゆる持続可能な自然エネルギーへ世界の技術方針はうつっている。県内の家庭用をおもとした屋上とやねへのソーラーパネル設置を助成し、従来の原発より多量な発電力をもったうえ、売電収入までえられた方がよほどかしこい。自治体主体での風力発電器の美観的な価値も同様。
また以上について、特に最終処分場の退治と東海第二原発廃炉について、TBSで放映中の、『金スマ』における常陸大宮市でのひとり農業・渡辺ヘルムート直道氏らと協働して、全国へ「茨城の農業を守る」というテーマで反原発テレビキャンペーンを展開すべきだ。おそらく、すでに当選した山本太郎氏もかつて瓦礫に関する放射性物質拡散へ憂慮されていたので、東京または福島への処分場立地について協力的になりえる人物といえる。北茨城市長の論理は「安全なら東京へ」であり、県勢は「人の住めない被曝地へ」であり、どちらにしても県内立地は絶対にありえない。結局、全国2位の農業生産高をもつ首都圏及び日本の食料庫である茨城県へ、最終処分場をつくることは国民には損害しかなく、そこで大した出力ではない原発を実験的に維持しつづけるのも損失ばかりがふくらむ。東海村の被雇用者は家計を依存しているから、代替の雇用を政府または日本原子力発電が斡旋し提示したうえで、東海第二原発は国民のためにできるだけはやく廃炉すべき対象なのだ。そして福島原発内の最終処分場をつくるとしたら、国と東京都が責任をもって大公害をもたらされた福島県民から搾取してきたつぐない、つまり福島県または浜通り地区への大規模な補償をすべきである。
国民で競合する可能性があるのは、福一観光地化を計画する東浩紀氏のgenronだけといえるから、こことの協調もちかい将来必要になるかもしれない。それにしても、最終処分場までをダークツーリズムの対象にすれば問題はない。現にひとがくらしていて、将来もくらしえる国土をさらに汚染するよりは、すでに汚染されてしまってひとがすめない場所の方が最終処分場の立地として合理的といえる。無論いままで散々、われわれ茨城県民や福島県民のお世話になりつづけてきた悪徳のみやこ、東京都へつくるのが責任のとらせかたとして最善だが。それをまず主張し、つぎに代替案として福島原発内への処分場構想がくる。茨城県内は京都府より沢山のひとがすんでおり、京都府以上の大経済圏であり、かつ福島のすぐとなりなのだから、茨城県内に最終処分場を立地するのは国民に損害、不利益や不徳しかない。
また、発電力からいって東海第二原発は廃炉が現実的だ。としよりたちはわかものより、この将来予想の知能でかしこくないといえる。小学生にきけば理解できる程度の命題なのに。火力や石炭でさえ同等の出力は十分可能である。首都圏を壊滅させかねないうえに大した出力ではない危険施設を稼働しつづけて、日本国へなにもいいことはない。日本原子力発電へ最終的な再稼働禁止をつきつけるのは、結局、茨城県民の高度な未来予測の知能なのだ。茨城県民の知的水準しかためされていない。もつエネルギー、いわゆる持続可能な自然エネルギーへ世界の技術方針はうつっている。県内の家庭用をおもとした屋上とやねへのソーラーパネル設置を助成し、従来の原発より多量な発電力をもったうえ、売電収入までえられた方がよほどかしこい。自治体主体での風力発電器の美観的な価値も同様。
また以上について、特に最終処分場の退治と東海第二原発廃炉について、TBSで放映中の、『金スマ』における常陸大宮市でのひとり農業・渡辺ヘルムート直道氏らと協働して、全国へ「茨城の農業を守る」というテーマで反原発テレビキャンペーンを展開すべきだ。おそらく、すでに当選した山本太郎氏もかつて瓦礫に関する放射性物質拡散へ憂慮されていたので、東京または福島への処分場立地について協力的になりえる人物といえる。北茨城市長の論理は「安全なら東京へ」であり、県勢は「人の住めない被曝地へ」であり、どちらにしても県内立地は絶対にありえない。結局、全国2位の農業生産高をもつ首都圏及び日本の食料庫である茨城県へ、最終処分場をつくることは国民には損害しかなく、そこで大した出力ではない原発を実験的に維持しつづけるのも損失ばかりがふくらむ。東海村の被雇用者は家計を依存しているから、代替の雇用を政府または日本原子力発電が斡旋し提示したうえで、東海第二原発は国民のためにできるだけはやく廃炉すべき対象なのだ。そして福島原発内の最終処分場をつくるとしたら、国と東京都が責任をもって大公害をもたらされた福島県民から搾取してきたつぐない、つまり福島県または浜通り地区への大規模な補償をすべきである。
2013年8月4日
当番医の共同
いわき市や高萩市、日立市などと共同で、休日の当番医はかならずすべての科にあてはまるように、県北およびいわき市間で調整すべきだ。たとえば休日眼科にかかりたくてもいわき市内にしか休日の当番医がなかったばあい、病院間で連絡をとりあえれば、緊急患者のたらいまわしをふせげる。
2013年7月18日
廃炉への実力行使
日本原子力発電への合法の枠内でのあらゆる実力行使を視野にいれて、東海第二原発を廃炉すべきだ。自民党政権や日本国をつぶしてもとめるしかない。さもなければ我々の郷土がよごされる。
人のための技術であり、技術のための人ではない。
人のための技術であり、技術のための人ではない。
2013年7月3日
おと
最近、どこからともなく18時になると音楽がなるのだけど、それはとてもいい趣向だとおもう。雨情の童謡のメロディー。多分市役所が設置した拡声器からしてるんだとおもわれるけど。
あと、拡声器からなんらかの市役所からのおしらせをされるのだけど、すこしはなれてるところにすんでるだけで、なにをいっているのかまったくわからない。ホームページに詳細をのせておいて、「おしらせをしました。詳細はウェブで」といった方がいいとおもう。いまの状態だと緊急連絡とかほぼ通じないとみていい。
あと、拡声器からなんらかの市役所からのおしらせをされるのだけど、すこしはなれてるところにすんでるだけで、なにをいっているのかまったくわからない。ホームページに詳細をのせておいて、「おしらせをしました。詳細はウェブで」といった方がいいとおもう。いまの状態だと緊急連絡とかほぼ通じないとみていい。
2013年6月19日
2013年6月17日
2013年6月15日
文化的発展
おとといの茨城新聞の社説に、県北が衰退といった文言がみられるが、自分の実感としてそれは必ずしも真ではない。県南は人口密度があがった分、すみごこちがわるくなっているからだ。自分としては通勤ラッシュがひどい県南から県央よりずっと、それほど混雑しておらず余裕があってすいている県北の状態がよい。県南県央をかんがみると逆に混雑税の導入によって企業・学校側のフレックスタイムや単位制などを誘導し、通勤ラッシュを緩和する必要がある。通勤通学にあたる時間帯の県央地域での通行には、電車・公共交通網に県税をかせばよい。道路網をその時間帯のみ有料化し、電車利用に課税する。
むしろ、北茨城圏についていえばさらなる文化的発展が命題的であるとおもえる。雨情や天心らの先人からの文脈があって、この地域ではある芸術的な理想主義がくらしていても感じられる。たとえば学校の教師にはかつて体罰などをおこなっていた如何な者がいたし(現段階では国・県・市の教育委員会に直接連絡をいれて懲戒すべきである)、炭鉱や漁師、水戸っぽなるものの影響か市民の中にはよかれあしかれ気があらいひとも相当みかけるが、総じて東京的な経済発展というものにはそんなにつよい関心がなさそうにみえる。幸福であるために、経済がキーワードとなる感じのいちではない。ちがう意見のひともいるかもしれないが、人口密度としても、いまの時点で十分にちかい感じがする。
文化という面で、建築から詩劇まで、公共施設から自然景観まで、教養の程度や奉仕の質などさまざまな生活水準をあげていく、という面が県北地域の真の命題である。そしてそれは単なる人口密度や経済規模のことではおそらくない。特に、可住面積がせまい県北地域では個々の住民の資質をすぐれたものにすることが重要であり、いわゆる経済発展へも実はこの教育水準を間接的にあげることが、平原がひろがる県南にくらべ山地がおおく人口比のかぎられる県北でもっとも効果があるといえる。
むしろ、北茨城圏についていえばさらなる文化的発展が命題的であるとおもえる。雨情や天心らの先人からの文脈があって、この地域ではある芸術的な理想主義がくらしていても感じられる。たとえば学校の教師にはかつて体罰などをおこなっていた如何な者がいたし(現段階では国・県・市の教育委員会に直接連絡をいれて懲戒すべきである)、炭鉱や漁師、水戸っぽなるものの影響か市民の中にはよかれあしかれ気があらいひとも相当みかけるが、総じて東京的な経済発展というものにはそんなにつよい関心がなさそうにみえる。幸福であるために、経済がキーワードとなる感じのいちではない。ちがう意見のひともいるかもしれないが、人口密度としても、いまの時点で十分にちかい感じがする。
文化という面で、建築から詩劇まで、公共施設から自然景観まで、教養の程度や奉仕の質などさまざまな生活水準をあげていく、という面が県北地域の真の命題である。そしてそれは単なる人口密度や経済規模のことではおそらくない。特に、可住面積がせまい県北地域では個々の住民の資質をすぐれたものにすることが重要であり、いわゆる経済発展へも実はこの教育水準を間接的にあげることが、平原がひろがる県南にくらべ山地がおおく人口比のかぎられる県北でもっとも効果があるといえる。
2013年5月26日
市内の国有林について
北茨城市は市内国有林や市内国有地のかいあげをかんがえ、そのための経費を公有基金としてもうけていくべきだ。さもなくば今回高萩市が標的にされた様、市民全員に公害をもたらす施設を全体主義国家が将来的につくり、市民が犠牲になりかねないから。
またこのやまのうえに風力発電を、競合入札で事業者をつのって設置すべきだ。単に人家からはなれた設置なので騒音の問題が解決できるうえ、あさゆうのなぎかぜがあるはずなので自然エネルギーによって電力をまかなえ、かつ安定的に市へ電力収入をもたらすはず。現時点でも送電線がとおってはいるが、景観が未来的になるという効果をかえりみて風車のデザインと配置にこだわりをもってえらべば、市内の美観に貢献するかもしれない。実行するにはなんらかの問題がなかったか、あるいは費用分の効果がどうか、景観にあたえる影響もふくめ県内でも先例が石岡辺や神栖辺、日立辺にあるので、それらをすくなくとも参照すべきか。
またこのやまのうえに風力発電を、競合入札で事業者をつのって設置すべきだ。単に人家からはなれた設置なので騒音の問題が解決できるうえ、あさゆうのなぎかぜがあるはずなので自然エネルギーによって電力をまかなえ、かつ安定的に市へ電力収入をもたらすはず。現時点でも送電線がとおってはいるが、景観が未来的になるという効果をかえりみて風車のデザインと配置にこだわりをもってえらべば、市内の美観に貢献するかもしれない。実行するにはなんらかの問題がなかったか、あるいは費用分の効果がどうか、景観にあたえる影響もふくめ県内でも先例が石岡辺や神栖辺、日立辺にあるので、それらをすくなくとも参照すべきか。
2013年5月19日
新私立病院の位置
新市立病院の位置は、中郷町のひとびとにとってきわめて利用しづらいうえ、最大の人口をもっている磯原町からもつかいづらい。
市立病院が以前の計画どおり、二つ島あたりにあれば問題なかったはずだ。
市長の豊田氏は、自分のいえにちかい方へとよせるために、市民の信任をうらぎっているとしかおもえない。なぜあれほど中郷町のひとからつかいえないほどとおくに「市立」病院をつくりたいのか。公務員は全体の奉仕者であり部分の奉仕者ではない。
市立病院が以前の計画どおり、二つ島あたりにあれば問題なかったはずだ。
市長の豊田氏は、自分のいえにちかい方へとよせるために、市民の信任をうらぎっているとしかおもえない。なぜあれほど中郷町のひとからつかいえないほどとおくに「市立」病院をつくりたいのか。公務員は全体の奉仕者であり部分の奉仕者ではない。
2013年5月18日
県議会による東海村民決定権の無機能化について
東海村村民はかれらみずからの営利のために将来の県民全員にわたる莫大な外部不経済をもたらしているので、県議会は東海村村民のありえる議員票をかこいこみその決定権の強制無機能化を議決するべきだ。
東海村は現に日本原子力発電との土地売買契約によって実質的には県民全員に放射能廃棄物のおしつけによる公害をもたらしているむらであり、将来おこりえる事故によっては茨城県そのものを破滅させる原因ともなりえる状況だから、県議の総勢が協力して東海村のおとった内政をかこいこみ多勢に無勢で無機能化することによって、その営利目的のにぶくわるい判断を揚棄してしまうしかない。
追記:あるいは日本原子力研究開発機構と高エネルギー加速器研究機構はそれぞれ独立行政法人あるいは大学共同利用機関法人であり、上述の日本原子力発電とことなり、営利企業の体裁をとっていない。しかし加速器実験施設(J-PARC)は将来的に陽子加速器のなんらかの未知の危険実験によって原子力発電所と同等かばあいによってそれよりはるか甚大な被害をもたらしかねない施設とかんがえられるので、県は国だけをたよらず、独自に過去の世界中でおこなわれた実験の既存安全度を逐次たしかめ、すでに前例があって安全度が十分と認識されるばあいのみにかぎって県知事と市町村長、市民、村民が直接承認後のみ実験可能にする公開制度をつくるべきといえる。すでに福島原発事故の前例があるのだから国家の中央政府にたよっているかぎりで県民の安全はまもりきれないのが確定的だ。
東海村は現に日本原子力発電との土地売買契約によって実質的には県民全員に放射能廃棄物のおしつけによる公害をもたらしているむらであり、将来おこりえる事故によっては茨城県そのものを破滅させる原因ともなりえる状況だから、県議の総勢が協力して東海村のおとった内政をかこいこみ多勢に無勢で無機能化することによって、その営利目的のにぶくわるい判断を揚棄してしまうしかない。
追記:あるいは日本原子力研究開発機構と高エネルギー加速器研究機構はそれぞれ独立行政法人あるいは大学共同利用機関法人であり、上述の日本原子力発電とことなり、営利企業の体裁をとっていない。しかし加速器実験施設(J-PARC)は将来的に陽子加速器のなんらかの未知の危険実験によって原子力発電所と同等かばあいによってそれよりはるか甚大な被害をもたらしかねない施設とかんがえられるので、県は国だけをたよらず、独自に過去の世界中でおこなわれた実験の既存安全度を逐次たしかめ、すでに前例があって安全度が十分と認識されるばあいのみにかぎって県知事と市町村長、市民、村民が直接承認後のみ実験可能にする公開制度をつくるべきといえる。すでに福島原発事故の前例があるのだから国家の中央政府にたよっているかぎりで県民の安全はまもりきれないのが確定的だ。
2013年5月17日
茨城県に必要な文教主義
茨城県の総合的原則として、住民ひとりあたりの所得水準を全国1をめざしてあげていくべき、ということはいえそうだ。ただし、この所得がかたよって存在している状態になるのはわるい。重要なのは「ひろく万遍なく、茨城県民全員が所得水準をあげる」ことだ。茨城県といえば全国でもっとも所得がある地域、となることが理想といえる。幸福度をあげるというもっとも基本的な世づくりの目的にもかなう。
このためには人口密度を抑制しながら、その教育・教養水準をあげることがおそらくもっとも重要だろう。教育水準と所得水準は、巨視的に比例している。いままで、教育・教養の水準は逐次的な一体一対応性がみられにくいことから「実学」あるいはpragmatismという概念をのぞいてこの観点で理解される雰囲気がすくなかったが、先進国のひとりあたり生産性とほかのくにぐにのそれを比較すればわかる巨視的対応性がある理由は、実はひとりひとりの一生の期間にどれほどの蓄財的な家計行動をとりえるか、という生涯賃金の問題と直接関係しているからだ。この蓄財のみをみれば、「浪費をせず、かつ、効率的に身代をかせぐ」という勤倹性が、実質的にはおおまかにその個人の知的段階とひとしいことをしめすといえるだろう。ここにはたしかに厳密な対応性がみえない様な場面もあるが、それは例外的なことが統計的にみなせる以上は、utilitarianismあるいは政治的視野から上述の公理は採用される。
人口密度をさげることは都市化にともなう公害や健康性の低下、犯罪率の増加あるいは商業化による停滞といった負の側面をすてさせる。人口そのものは、首都圏が東海第二原発という超危険施設を致命傷をおう前に廃止すれば増大しつづけるから、単に都市圏人口を分散させることが必要になるだけだろう。宅地造成のまえにまず交通網を計画的に利便化すること、そして人口集中度につながる中心都市のドーナツ化現象をさけるために、都心部にはたかさ制限や大規模都市公園などを順次に整備してその中心街の人口比を人為的に抑制することが有効。県都水戸に関していえば、LRTや地下鉄などでの市街地の人口集中のさらなる分散と、偕楽園の拡張がさらに人口集中度をさげるために役立つだろう。
このためには人口密度を抑制しながら、その教育・教養水準をあげることがおそらくもっとも重要だろう。教育水準と所得水準は、巨視的に比例している。いままで、教育・教養の水準は逐次的な一体一対応性がみられにくいことから「実学」あるいはpragmatismという概念をのぞいてこの観点で理解される雰囲気がすくなかったが、先進国のひとりあたり生産性とほかのくにぐにのそれを比較すればわかる巨視的対応性がある理由は、実はひとりひとりの一生の期間にどれほどの蓄財的な家計行動をとりえるか、という生涯賃金の問題と直接関係しているからだ。この蓄財のみをみれば、「浪費をせず、かつ、効率的に身代をかせぐ」という勤倹性が、実質的にはおおまかにその個人の知的段階とひとしいことをしめすといえるだろう。ここにはたしかに厳密な対応性がみえない様な場面もあるが、それは例外的なことが統計的にみなせる以上は、utilitarianismあるいは政治的視野から上述の公理は採用される。
人口密度をさげることは都市化にともなう公害や健康性の低下、犯罪率の増加あるいは商業化による停滞といった負の側面をすてさせる。人口そのものは、首都圏が東海第二原発という超危険施設を致命傷をおう前に廃止すれば増大しつづけるから、単に都市圏人口を分散させることが必要になるだけだろう。宅地造成のまえにまず交通網を計画的に利便化すること、そして人口集中度につながる中心都市のドーナツ化現象をさけるために、都心部にはたかさ制限や大規模都市公園などを順次に整備してその中心街の人口比を人為的に抑制することが有効。県都水戸に関していえば、LRTや地下鉄などでの市街地の人口集中のさらなる分散と、偕楽園の拡張がさらに人口集中度をさげるために役立つだろう。
2013年5月14日
女性の喫煙リスクについて
喫煙している10代女子はほねをよわめる。
女性の喫煙は卵巣の老化をはやめる。
女性の喫煙習慣は、女性の妊娠するちからを低下させるだけでなく、その後の胎児の健康にも悪影響をおよぼす。
喫煙の発がんリスクは、2000ミリシーベルト以上あびるか、毎日3合以上の飲酒とひとしい。
女性の喫煙は卵巣の老化をはやめる。
女性の喫煙習慣は、女性の妊娠するちからを低下させるだけでなく、その後の胎児の健康にも悪影響をおよぼす。
喫煙の発がんリスクは、2000ミリシーベルト以上あびるか、毎日3合以上の飲酒とひとしい。
飲酒やカフェインの摂取との関係は確認されませんでしたが、喫煙は卵巣の老化を早めることが明らかになりました。また、喫煙習慣は、妊娠する力を低下させるだけでなく、その後の胎児の健康にも悪影響を及ぼすことも明らかになっています。喫煙の習慣がある女性は、妊娠を希望された時点で、禁煙すべきです。
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the New York State Psychiatric Institute の研究チームは、22~49歳の188人の女性を対象に、卵巣予備能を調べました。
卵巣予備能の評価方法は、卵巣年齢の目安とされる4つの指標、前卵状卵胞数とFSH(卵胞刺激ホルモン)の血中濃度、インヒビンB、エストロゲン値を、エコーや血液検査等を調べることによって実施されました。
その結果、喫煙者の血中FSH濃度は、非喫煙者に比べて、23%高いことが判明しました。
ただし、前卵状卵胞数やインヒビンB、エストロゲン値においては違いは確認されませんでした。
また、飲酒やカフェインの摂取は、今回調査した卵巣予備能の指標においては、影響はみられませんでした。
喫煙と血中FSH濃度の関係については、年齢があがるほど強くなる傾向がありました。
喫煙者の血中FSH濃度は、非喫煙者に比べて、30歳では、0.3mIU/ml、35歳では、1.3mIU/ml、40歳では3.2mIU/ml、そして、45歳では、6.9mIU/ml高いことが分かりました。
このことは、喫煙は、卵巣の老化を促進することを示しています。
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妊孕性に影響する因子
2007年02月06日
Human Reproduction doi:10.1093 del496
喫煙や飲酒、カフェインの摂取等の生活習慣が、女性の卵巣機能にどの程度の影響を及ぼすのかを調査した結果、喫煙は、卵巣機能の低下の目安となるFSH(卵胞刺激ホルモン)を高めることから、喫煙は卵巣年齢を高めることが明らかになりました。
http://www.akanbou.com/news/news.2007020601.html
2011年4月25日(月)日本経済新聞
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C938195
95E0E1E2E2EB8DE0E6E2E6E0E2E3E386989FE2E2E2;at=ALL
http://blogs.yahoo.co.jp/go_sinzan/36764235.html
放射線と生活習慣の発がんの相対リスク比較
受動喫煙の女性 1.02~1.03倍
野菜不足 1.06倍
100~200ミリシーベルトを浴びる 1.08倍
塩分の取りすぎ 1.11~1.15倍
200~500ミリシーベルトを浴びる 1.16倍
運動不足 1.15~1.19倍
肥満 1.22倍
1000~2000ミリシーベルトを浴びる 1.4倍
毎日2合以上の飲酒 1.4倍
2000ミリシーベルト以上浴びる 1.6倍
喫煙 1.6倍
毎日3合以上の飲酒 1.6倍
(注)相対リスクは、例えば喫煙者と非喫煙者のがんの頻度を比較した数字
日経新聞2011年4月17日(日)朝刊「ナゾ謎かがく」
また弱い放射線をあらかじめ浴びた細胞は、その後の強い照射に対して抵抗性を示す実験結果もある。ワクチン接種によって免疫が強まるような現象だ。低線量の放射線が体の免疫機能を高めるなど体にプラスに働くとの研究もある。
商業化の抑制が進歩をもたらすことについて
農工商は第一次・第二次・第三次産業に該当するが、原価に上乗せする付加価値(つまり取引時の中間搾取にたす分)に反比例して必需性が減少していく(=壟断)。この商業者の労働力搾取による社会格差化を逓減させるために付加価値税・消費税が存在する。
もし商業が過大で農工業が過小な社会があれば生産性がへっていくが、農工業が過大で商業が過小な社会があれば生産性はふえていく。前者は付加価値の搾取という業務形態の為に原価をへらそうとしてかいたたくが、後者は原価があがる方がのぞましいために競合他者にくらべて品質を改善するかおなじしなものの生産力をたかめるからだ。これは慣習の差といえる。つまり商業者がへるほど社会の生産性はたかまる。商業者のおおさは貨幣経済の浸透度にすぎない。
国民総生産は貨幣経済のとりひき量ではかられてきたが、そのなかですら上記の原理がはたらくだろう。生産的な社会とその逆の消費的な社会があったばあい、前者の内容はさまざまな製品や増大する人口のために進歩していくが後者はその両方がうしなわれていく方向づけになるため後退していくはずだ。こうして商業化の必然的結果としての所得格差は、地域に資源の寡占と人口減少をもたらす。この商業地の衰退は、人口流入によってまかなわれていくことがおおい様にみえるが、実際には大都市化とその滅亡ということは文明のどこでもおこってきた。そのはいりこみのなんらかの原因、たとえば過剰人口であるか職業不足による新規流入者のほとんどは淘汰され次世代で除去されてしまうから、結果はおなじになるだろう。
社会のなかで政治が要請されるのは、純粋に経済的にみれば徴税による所得調整措置を通じて商業化を抑制するためだろう。そしてこの役割の総量は商業慣習が浸透する程度に比例し、循環波状的にそれをあとおいする。ではなぜ商業慣習が浸透する場面があるのかといえば、地域ごとに生産性に偏差があるからだ。ある地域の生産性とほかの地域のそれがことなっていたときに、ゆたかながわからまずしいがわへの壟断が生じる。しかし生産性の改良は農工業にとっては必然的に日々生じていくから、そのひとびとのなかでの才能の出現や選択率に地域ごとにかたよりがあるのは地域の地政的な文化条件ならびに偶然によるだろう。おそらく、この地政的条件づけのため、政治学の予見性とその高度化が必要になるのだろう。
北茨城市や茨城県は、この道理にもとづけば非商業化という一見すると東京化に逆行するみちをたどることが将来的にもただしいことになる。もし以上の見解が経済学的にただしければ、東京化をめざして商業化していく首都圏南部の神奈川県と、わたしのすんでいる北茨城市をふくめて農工業化をめざす首都圏北部の茨城県は、東京の商業化に対して洞察的にとった態度の相違によって、まったくことなる未来のすがたになるだろう。進歩という面からみて、わたしのみているこの道理は茨城県のがわをめぐむはずだ。
もし商業が過大で農工業が過小な社会があれば生産性がへっていくが、農工業が過大で商業が過小な社会があれば生産性はふえていく。前者は付加価値の搾取という業務形態の為に原価をへらそうとしてかいたたくが、後者は原価があがる方がのぞましいために競合他者にくらべて品質を改善するかおなじしなものの生産力をたかめるからだ。これは慣習の差といえる。つまり商業者がへるほど社会の生産性はたかまる。商業者のおおさは貨幣経済の浸透度にすぎない。
国民総生産は貨幣経済のとりひき量ではかられてきたが、そのなかですら上記の原理がはたらくだろう。生産的な社会とその逆の消費的な社会があったばあい、前者の内容はさまざまな製品や増大する人口のために進歩していくが後者はその両方がうしなわれていく方向づけになるため後退していくはずだ。こうして商業化の必然的結果としての所得格差は、地域に資源の寡占と人口減少をもたらす。この商業地の衰退は、人口流入によってまかなわれていくことがおおい様にみえるが、実際には大都市化とその滅亡ということは文明のどこでもおこってきた。そのはいりこみのなんらかの原因、たとえば過剰人口であるか職業不足による新規流入者のほとんどは淘汰され次世代で除去されてしまうから、結果はおなじになるだろう。
社会のなかで政治が要請されるのは、純粋に経済的にみれば徴税による所得調整措置を通じて商業化を抑制するためだろう。そしてこの役割の総量は商業慣習が浸透する程度に比例し、循環波状的にそれをあとおいする。ではなぜ商業慣習が浸透する場面があるのかといえば、地域ごとに生産性に偏差があるからだ。ある地域の生産性とほかの地域のそれがことなっていたときに、ゆたかながわからまずしいがわへの壟断が生じる。しかし生産性の改良は農工業にとっては必然的に日々生じていくから、そのひとびとのなかでの才能の出現や選択率に地域ごとにかたよりがあるのは地域の地政的な文化条件ならびに偶然によるだろう。おそらく、この地政的条件づけのため、政治学の予見性とその高度化が必要になるのだろう。
北茨城市や茨城県は、この道理にもとづけば非商業化という一見すると東京化に逆行するみちをたどることが将来的にもただしいことになる。もし以上の見解が経済学的にただしければ、東京化をめざして商業化していく首都圏南部の神奈川県と、わたしのすんでいる北茨城市をふくめて農工業化をめざす首都圏北部の茨城県は、東京の商業化に対して洞察的にとった態度の相違によって、まったくことなる未来のすがたになるだろう。進歩という面からみて、わたしのみているこの道理は茨城県のがわをめぐむはずだ。
2013年5月11日
資産・収入・所得の高齢者偏重
現在60歳以上の高齢者が日本の資産・収入・所得の過半以上を持っている。
1世帯あたり資産額・収入額
0歳~59歳8359万円<60歳以上9949万円
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4690.html
再分配所得は65歳以上で9割
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4668.html
2013年5月6日
生産的な模範関東北部と、搾取的な悪例関東南部
栃木食料自給率72%>茨城食料自給率70%=イギリス食料自給率70%>日本食料自給率39%>神奈川食料自給率3%>東京食料自給率1%
茨城県の耕地率は日本一。全国最低は東京。
茨城県の中学男子体力は日本一。全国最低は東京。
東京電力株式会社のピンはね比=99.76%
2012年東京電力株式会社 売上高 連結5兆3494億4500万円
2004年原発交付金 福島県 年約130億円
東京都の東京電力株式会社からの株主配当 年25億6千万円
東京電力株式配当による東京都民一人あたりの搾取額年194円
茨城県内の一般家庭の電力総需要:50万kW
茨城県内の発電施設の主な発電供給出力:757万kw
内訳
鹿島火力発電所:440万kW
茨城県・東海村にある東海第二原子力発電所(日本原子力発電株式会社の本社は東京都):110万kw
鹿島共同発電所:105万kW
常陸那珂火力発電所:100万kW
パワーステーション茨城(バイオマス発電所):1.5万kW
山梨県 86万人
群馬県 201万人
栃木県 201万人
茨城県 297万人→首都圏へ供給707万kw
静岡県 377万人
以上北関東3県+2県の人口1200万人→電力需要200万kW
千葉県 622万人
埼玉県 720万人
神奈川県 905万人
東京都 1316万人
以上南関東4都県の人口3600万人→電力需要600万kW
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
http://www.japan-now.com/article/186406079.html
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/sports/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/04/15/1332461_4.pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%BA%90%E4%B8%89%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E5%8A%9B
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110630-OYT1T00082.htm
http://logsoku.com/thread/hatsukari.2ch.net/news/1306361824/
http://www.toukei.metro.tokyo.jp/jsuikei/js-index.htm
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%81%AB%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E9%82%A3%E7%8F%82%E7%81%AB%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
http://www.gpower.jp/company/index.htm
茨城県の耕地率は日本一。全国最低は東京。
茨城県の中学男子体力は日本一。全国最低は東京。
東京電力株式会社のピンはね比=99.76%
2012年東京電力株式会社 売上高 連結5兆3494億4500万円
2004年原発交付金 福島県 年約130億円
東京都の東京電力株式会社からの株主配当 年25億6千万円
東京電力株式配当による東京都民一人あたりの搾取額年194円
茨城県内の一般家庭の電力総需要:50万kW
茨城県内の発電施設の主な発電供給出力:757万kw
内訳
鹿島火力発電所:440万kW
茨城県・東海村にある東海第二原子力発電所(日本原子力発電株式会社の本社は東京都):110万kw
鹿島共同発電所:105万kW
常陸那珂火力発電所:100万kW
パワーステーション茨城(バイオマス発電所):1.5万kW
山梨県 86万人
群馬県 201万人
栃木県 201万人
茨城県 297万人→首都圏へ供給707万kw
静岡県 377万人
以上北関東3県+2県の人口1200万人→電力需要200万kW
千葉県 622万人
埼玉県 720万人
神奈川県 905万人
東京都 1316万人
以上南関東4都県の人口3600万人→電力需要600万kW
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
http://www.japan-now.com/article/186406079.html
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/sports/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/04/15/1332461_4.pdf
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%BA%90%E4%B8%89%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%9B%BB%E5%8A%9B
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110630-OYT1T00082.htm
http://logsoku.com/thread/hatsukari.2ch.net/news/1306361824/
http://www.toukei.metro.tokyo.jp/jsuikei/js-index.htm
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%81%AB%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E9%82%A3%E7%8F%82%E7%81%AB%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80
http://www.gpower.jp/company/index.htm
2013年5月4日
賭博の習癖は遺伝的である可能性
ギャンブルの好き嫌い、脳の特定分泌物が左右
京大など解明
2012/2/21 21:04
脳内に特定の分泌物が少ない人ほどギャンブルに慎重であるという研究成果を、京都大学の高橋英彦准教授が放射線医学総合研究所と共同でまとめた。
高橋准教授らは成人男子19人を対象に実験。ギャンブルで得られる利益が賭け金の何倍以上だと参加するか聞き取り調査をした。その後、がんの診断にも使う陽電子放射断層撮影装置(PET)で脳内の「ノルアドレナリントランスポーター」という分泌物の量を調べた。量が少ない人ほど、賭け金に対して得られる報酬が多くないと参加しない慎重な傾向が出た。~
研究成果は21日付の米の分子生物学専門誌モレキュラー・サイキアトリー(電子版)に掲載された。
日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2103Y_R20C12A2CR8000/?dg=1
ギャンブルにはまる人、脳に特徴 京都大が発見 2012年2月21日20時8分
以上の記事から、賭博が単なる習慣ではなく、脳内分泌されるノルアドレナリントランスポーター量およびその回収口に比例する習性とすれば、これはひとつの遺伝的形質である可能性がある。つまりその行動傾向は、深刻な賭博依存者や、地域の賭博施設利用者人口などにはむしろ特定の脳の傾向をもったひとびとにとっての本能、あるいはもしそれがかれらの生活にとって深刻な損失をもたらしている環境下にあれば遺伝疾患にちかいものであるかもしれない。今後、このノルアドレナリン回収口や、ノルアドレナリントランスポーター量が後天的に習慣で変化するのかがたしかめられるべきだ。脳内の神経のつなぎ目(シナプス)から分泌された情報伝達物質「ノルアドレナリン」を回収する取り込み口の密度を、脳の画像診断装置で調べたところ、慎重でない人ほど高く、「同額ほどでも参加する人」は、「8倍でないと参加しない人」の約2倍だった。~
朝日新聞デジタル
http://megalodon.jp/2012-0222-1301-47/www.asahi.com/science/update/0221/OSK201202210074.html
2013年5月3日
復興ではなく災害地域助成
関根 千佳こういうおかしな役人が復旧とか復興ということばを妄信し、地域の自立をさまたげているとしたら復興庁という名目で、公共の福祉のための災害地域助成が阻害されているのはあきらかといえる。
2012年2月11日 21:55
福島のUD委員会で、驚愕する発言が観光協会からあった。壊れた旅館を建て直すのに、せっかくだからユニバーサルデザインで、と少しだけアクセシブルにしようとしたら、復旧なんだから完全に元通りじゃなきゃ補助金出せない!という国のお達しがあったとか・・・・。
神戸のときは、その後にものすごくUDが進んだのに、なんという違い。これでは50年後、100年後に禍根を残す復旧復興になってしまう。高齢化の進む東北こそUDが必要なのに。福島県民がかわいそうでならない。いったい誰に訴えればいいんだろう????
http://www.facebook.com/csekine/posts/368899553120650
2013年5月2日
シリコンバレーと筑波の環境の類似性
技術者の宝庫・シリコンバレーつくば市はシリコンバレーからまなぶべき点を吸収すべきかもしれない。
――シリコンバレーの生活環境とは、どのようなものなのでしょうか?
松井 朝早い人が多いです。基本的には9時出社で、6~7時に出社する人もいます。フレックス制ですが、10時に出勤する人は少ないですね。出社が遅い人は独身者に多い。家族がある人は、子供の学校が7時半くらいに始まりますから、子供を送ったあと、そのまま出社する。通勤時間は車で15~20分というのが普通ですね。シリコンバレーはかつて果樹園が広がっていたような田舎町で、ほかに何もなかったところです。今だって車で20分も行けば何もない。山に囲まれた盆地のようなところで、基本的に田舎。アップルの本社があるところも昔は果樹園でした。日本でシリコンバレーと同じ雰囲気を持った土地がどこかといえば、筑波あたりをイメージすればいいかもしれません。若者なら、「こんな刺激がないところには住めない」という人もいます。ただ、家族持ちにとっては、学校教育の環境も充実していて住みやすい。移民も多く、ニューヨークに匹敵するほどです。そのため、子供たちは2カ国語話せることが普通なんです。3カ国語、4カ国語もちらほらいる。それだけアメリカの中でも、特殊な環境なんです。普通の公立高校からもハーバード大学などの有名大学にたくさん入学しますから、ここで子供に教育を受けさせたいという人も多い。エンジニアばかりが集まることによって、より特殊な環境になっているのです。
アップル元社員語る「過酷な社内政治とクレイジーな要求」松井博氏
http://biz-journal.jp/2012/07/post_416.html
2013年4月30日
茨城県の耕地率は全国1位
http://www.japan-now.com/article/186406079.html平成21年耕地面積ランキングから、茨城は耕地率28.8%で全国1位、耕地面積175700ヘクタールで全国2位とわかる。東京は耕地率3.6%で全国最低、耕地面積7800ヘクタールも全国最低である。
全国 耕地面積ランキング
都道府県別耕地面積(平成21年) (単位 ヘクタール)
ランキング 都道府県 耕地面積総数 田 畑 耕地率(%)
2 茨城 175700 100400 75300 28.8
47 東京 7800 301 7500 3.6
2013年4月27日
いじめとスケープゴーティングへの文化的対抗について
いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。“バッシングして構わない過失や落度のある相手なら、どれだけ叩いても構わない”という社会的コンセンサスをなくすか、せめて緩和する必要があるのではないか。この記事で説明されているのは、社会規範や社会正義がよわいものいじめというscapegoating、あるいは犠牲・いけにえでなりたっていることだ。実際、近代人とみずからをみとめているひとたちすら、古代人がしていたいじめ行為とかわらない方法で犯罪者やわるものをつくりあげ、その対象のひとたちをしいたげて「そうならなかったひとたちの社会秩序」を維持している。もっともこの態度からとおいはずliberalの世界ですら、自由でない価値観をもったひとを間接的ないけにえにしているし、本質的には国家の法規範という立法上の多数派の決定に依存している。
だから、オトナ達が子どもに向かって口で注意する前に、まず、オトナ達自身が、慈悲深い身振りを実践してみせる必要がある。そして落ち度や迷惑のあった相手をバッシングしすぎないよう、心がける必要がある。長い目で見れば、これが一番有効なのではないか。
オトナ達の、「大義名分さえあれば、無慈悲にブッ叩いて構わない」という後姿を見ている限り、子ども達は「いじめは良くない」ではなく「大義名分の立たないいじめは良くない」「大義名分が立つなら、とことん叩いて構わない」のほうをインストールしてしまうだろう。それではダメなので、落ち度のあった人・迷惑のあった人に対しても最低限の慈悲・寛容・礼節をもって接する後姿をこそ、子ども達には見せるべきではないか。
シロクマの屑籠、2012-07-07、p_shirokuma氏
「"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120707/p1
こども社会がおとな社会の模倣であるという一般論は、そこにあらわれた社会病理が実際にはおとな社会にすでにあることをしめす、とかんがえられる。いじめはスケープゴーティングが社会全般にはびこっているためその模倣としてあらわれる症状であり、社会規範やその周縁性がゆるくなっているので曖昧な立場の犠牲をさがし、この少数派である中間者の排除によって多数派の再結束をめざす状態にあると分析できる。ネオナチズムや排外主義、ファシズム、全体主義はそれぞれこの一類型なのだろう。
P_shirokuma氏のいう慈悲をしめすとき、今度は世界宗教原理主義という別の社会規範が登場してくる。テロリズムはこのイスラム原理として出現しているもので、さけようもない。
総合してみて、現代がなすべきことはこれらの急激さや突出を緩和することでしかないとおもえる。記者クラブや東京のマスコミ資本が世論を東京ジャイアニズムからのスケープゴーティング、つまり東京からのいじめに誘導しているのはあきらかだが、これらの結束が解体されるまではほかの原理によって中和させるしか抵抗のしかたがない。必要なのは、おそらく知識集団または知識人単独による別の思想での対立的措置だ。そうして群衆の極端なかたより、思想的亢進や行動上の暴走をとめるべきだ。当然そのためには多数派がまだみにつけていないあらたな技術も役立つ。こどもへは、むしろこういったかしこい先進的個性あるいは啓蒙者の模倣を期待すべきである。多数がおろかである状態で、少数のひいでた個性によって状況が改善される、という再秩序化の経験値や、文化英雄的な啓発者への尊敬があるおとな社会の観察をつませるべきだ。こういう個性をとうとぶ社会と単なる全体主義つまり空気や和、集団浅慮が支配したばのちがいは、おそらく先人がつくりあげた慣習の差によるだろう。
2013年4月23日
市政閉塞の原因
「知らない人をフォローすること」と独創性全員協議会がいかに市政の独創性をそいでいるか、がここからわかる。市議会が退屈でつまらないとしたらこのとじられており異論をゆるさない、本議会直前の閉鎖的うちあわせの慣習のせいだろう。
日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子
では、「ありきたり」から逃れるにはどうしたらよいのだろうか。カリフォルニア大学バークレー校の心理学者Charlan Nemeth氏は、その簡単な解決法を発見した。
Nemeth氏は、被験者グループに色つきのスライドを見せるという実験を行なった。被験者はスライドが何色かを答えるのだが、ほとんどのスライドは、見ればすぐに分かる色をしており、被験者たちは、たちまち退屈な作業を淡々とこなすようになった。
ところがNemeth氏は、被験者グループの1つに助手を潜り込ませていた。そしてこの助手に対して、時おり大声で間違った答えを言うよう指示していた。たとえば赤のスライドには「黄色」、青のスライドには「緑」と答える、という具合にだ。数分後、被験者たちは、今度は同じスライドの色を見て、自由に連想する言葉を答えさせられた。結果は印象深いものになった。
「異論条件」に置かれた(先の実験で間違った答えをいう人間がいた)被験者グループのほうが、はるかに独創的な連想をしたのだ。「青」を見て「空」を、「緑」を見て「草」を思い浮かべる代わりに、彼らは連想の範囲を広げ、「青」から「マイルス・デイビス」や「マネーロンダリング」や「パイ」を思い浮かべるようになり、ありきたりな答えばかりが出てくることはなくなった。
その後の研究でNemeth氏は、同様の戦略[異論を許す環境に被験者を置くこと]が、創造性を要するさまざまなタスク、たとえばベイエリアの交通の流れを改善するといった問題の解決能力を向上させる効果があることを明らかにした。
このような「異論」の持つ力は、すなわち「驚き」の力にほかならない。間違った答えが大声で叫ばれるのを聞くこと、つまり、青が「緑」と言われるのを聞くショックによって、われわれはその色の持つ意味をもう一度考えてみるようになる。
その奇妙な回答を理解しようとして、問題を新しい視点から考え始める。その結果、青を空に安易に結びつけるといったわれわれの緊張感のない連想は、影を潜めるようになる。予期せぬものと出合うことで、人間の想像力が大きく広がったわけだ。
放射能risk(引用)
2011年4月25日(月)日本経済新聞
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C938195
95E0E1E2E2EB8DE0E6E2E6E0E2E3E386989FE2E2E2;at=ALL
http://blogs.yahoo.co.jp/go_sinzan/36764235.html
放射線と生活習慣の発がんの相対リスク比較
受動喫煙の女性 1.02~1.03倍
野菜不足 1.06倍
100~200ミリシーベルトを浴びる 1.08倍
塩分の取りすぎ 1.11~1.15倍
200~500ミリシーベルトを浴びる 1.16倍
運動不足 1.15~1.19倍
肥満 1.22倍
1000~2000ミリシーベルトを浴びる 1.4倍
毎日2合以上の飲酒 1.4倍
2000ミリシーベルト以上浴びる 1.6倍
喫煙 1.6倍
毎日3合以上の飲酒 1.6倍
(注)相対リスクは、例えば喫煙者と非喫煙者のがんの頻度を比較した数字
日経新聞2011年4月17日(日)朝刊「ナゾ謎かがく」
また弱い放射線をあらかじめ浴びた細胞は、その後の強い照射に対して抵抗性を示す実験結果もある。ワクチン接種によって免疫が強まるような現象だ。低線量の放射線が体の免疫機能を高めるなど体にプラスに働くとの研究もある。
2013年4月22日
Idolの逆選択性
アイドル・偶像・つまり「つくりもののにたかたち」という名義でおこなわれているのは、現代版の舞妓・芸妓・韓国版で妓生といった老人慰安部の活動とおもう。これは高齢化社会で所得の過半がとしよりがわにあること、またそれらのとしよりたちの趣味が非宗教的で卑俗なことの2つが条件になっている。これらの活動は女性からみれば専業主婦の様な貞操観念の必要な人生あるいは中流生活にむけては不名誉や不評という損失がたかいので、地域の商業化で中流生活の保守性が崩壊し一帯の経済構造が二極化あるいは格差社会化しはじめたことを意味している。逆選択がつよまっているという意味でも、それら舞妓が活発な地域は男性の競合力がひくいはずだ。
つまり、競合力のたかい男性がそれら舞妓のはやった地域では任意に希少となっていて、背後には生活面でのなんらかの悪条件があるのだろう。いいかえれば寡占的または独占的市場秩序が発生している。これを政治的にみれば憂慮にあたいする地域であり、所得への調整的措置を強化すると同時に特にあたらしい家庭をつくりえるわかい男性が自立できる経済助成が必要なのかもしれない。また一般にこういう地域は存続次第でつづけられた逆選択のため、なんらかの形質上の退化またはneoteny化がおこる。
つまり、競合力のたかい男性がそれら舞妓のはやった地域では任意に希少となっていて、背後には生活面でのなんらかの悪条件があるのだろう。いいかえれば寡占的または独占的市場秩序が発生している。これを政治的にみれば憂慮にあたいする地域であり、所得への調整的措置を強化すると同時に特にあたらしい家庭をつくりえるわかい男性が自立できる経済助成が必要なのかもしれない。また一般にこういう地域は存続次第でつづけられた逆選択のため、なんらかの形質上の退化またはneoteny化がおこる。
民間人の核ミサイル対策(引用)
もし本当に核ミサイルが飛んできたらどうすればいいのかまとめ26個 - M3Q
http://m3q.jp/t/369 より
【外に居る場合の緊急回避行動】
��1) とにかく地下へ逃げる
地下鉄や地下街などが近くにあればそこに避難する。
地下鉄なら爆発の後、線路を歩いて安全な場所まで逃げられるかもしれない。
��2) 建物に避難する
広島のとき、爆心地でも半地下の建物などにいて助かった人がいるらしい。
もし助かった場合、爆発が終わったからといってすぐに外に出ないこと。
��3) マンホールをこじ開けて飛び込む
タイミング次第では結構高い確率で助かると思われます。
ただし2~3分で開けることができるかどうか。
さらに「核の雨」が流れ込んでくるので速やかに避難しなければいけません。
��4) 逃げる場所がないときはとにかく伏せる
実際、冷戦下でのアメリカでは「万が一シェルターに間に合わないときは伏せる」という教えがありました。壁などがあればその影に伏せて、頭部と目を覆います。
【建物の中に居る場合の緊急回避行動】
��1) ガラス窓が視界に入らないところに逃げる
ガラス窓が視野に入らない場所は、核爆発時の閃光を受けないばかりか、
衝撃波で飛び出すガラス片を受けにくい。
��2) エレベーターは使わない
待ち時間に被弾するかもしれない。
また、エレベータ移動中に被弾するかもしれない。
��3) そして伏せる
伏せて目と頭部を覆います。
廊下に居る場合は、廊下と平行に伏せて、衝撃波の圧力を受ける面積を少なくする。
【自分の位置を知る】
��1) 周囲の建物のほぼ全てが大破、もしくは自動車が横転している場合
あなたがいる場所は、20kt核爆発換算で半径2km以内である。
火災の危険があり、残留核放射線も危険なので、すぐに地下鉄で脱出をはかる。
��2) 周囲の建物の多くが半壊しても、自動車が横転していない場合
あなたのいる場所は、20kt核爆発換算で半径2km以遠である。
屋内退避を1時間続け、ラジオで情報を得ながら、地下鉄で脱出する。
��3) 周囲の建物の窓ガラスが破損していない場合
あなたのいる場所は、20kt核爆発換算で半径5km以遠である。
火災の危険はない。屋内退避をし、ラジオなどで情報を得る。
【爆発が起きたあとに】
��1) 地下室に避難できた場合はそこにとどまっておく
広島でも最初の爆風や熱線を逃れたとしても、避難の途中で残留放射線を浴びて死んだ人が多い。
1~2週間で残留放射線は大幅に減衰するので、できるだけその場にとどまっておく。
��2) 風下でない場合は1時間の屋内退避後、自宅に帰る
帰り着いたら全ての衣服を脱いでビニール袋に入れ、口を縛って玄関に置いてから家に入る。
シャワーで全身を洗浄し、歯磨きとうがいをし、耳穴、鼻腔もよく拭き取る。
特に、頭髪・頭皮・襟元・耳の裏をきれいにする。
��3) 自宅の気密性を高める
窓、換気扇を塞ぐ。カーテンを閉め、核の灰の屋内への侵入を防ぐ。
ただし、酸欠には注意する。
��4) 飲料水・食料を確保する
水道水が汚染するかもしれないので速やかに風呂桶に水を貯める。
米を炊き、食料の備蓄を確認する。
��5) 情報を得る
テレビ・ラジオ・インターネットから災害情報を得る。
東京が核攻撃されたら、全国向けのテレビニュースは停止する。
【サバイバル術】
��1) 水の調達方法
どんな水も最低48時間待つと、有害な量の放射能が体内に入る危険を大幅に減らせる。
井戸などの地層というフィルターを経た地下水源はもっとも安全な水源。
人家や店の排水管および容器内の水も安全度が高い。
川の水も核爆発後数日経っているなら、降り注いだ放射性降下物は薄まっており放射能の影響は比較的受けない。
��2) 食料の調達方法
全ての卵は食べても安全。
加工食品は容器が破れていなければ安全。
すべすべした表皮をもつ果物や野菜は、洗うと汚染が90パーセント取り除かれるが、ざらついた表皮のものを洗った場合は、約50パーセントしか汚染を取り除けない。
テレビ・ラジオの社会的影響
ブラジルのメロドラマが家庭生活に与えた影響の研究もある。2005年当時、ブラジルで制作されるメロドラマのほとんどすべてを手がけていたのは同国の放送局『ヘジ・グローボ』だったが、ヘジ・グローボの電波が届く地域と届かない地域があったことを利用した研究だ。それによると、メロドラマが視聴されるようになった地域では、離婚率が上がり、出生率が下がったという。視聴者層のうち、若い女性の全般で出生率が下がったが、調査したすべての年を通じて最も激しい低下を示したのは、そのとき放送されていたメロドラマの主要キャラクターに近い年齢層の女性だった。韓流ドラマのほとんどは離婚率上昇と出生率低下という女性解放運動的な結果をともなう可能性がたかく、すでにその傾向が少子化や家庭崩壊につながっている日本にとってはさらなる悪影響がおおきいかもしれない。
テレビが人間社会に及ぼす影響:社会学的研究の数々
http://wired.jp/2012/06/19/natural-experiments/
ダール氏が取り上げている研究のひとつでは、インドネシアの一部の村が地形の関係で、たまたま他地域よりテレビの放送信号が届きやすくなっていることに着目している。テレビの受信状態が良好なそれら地域の住民は、地域のコミュニティ活動への参加傾向が低かった。その傾向は、大都市からの距離など、研究者が考えつきそうなあらゆる要素と無関係のものだった。この論文のタイトルは、「テレビやラジオはソーシャル・キャピタル(社会関係資本)を破壊するか」という悲観的なものだ。こうして茨城県の地域コミュニティを強化するためには、首都圏の放送枠を淘汰または県内の放送局が支配できる条件づけが今後有用になっていくだろう。
小学生の壁画
青森県大蛇小学校前の壁画の様に、小学生が地域の要所に壁画をかくことは郷土愛をはぐくむきっかけになるとおもえる。教育委員会が採用して市政に提案し、同様のpublic artをおこなわせることが教育的かもしれない。
2013年4月21日
英雄と客寄せパンダのちがい
熊本のゆるキャラでの商売は、297億円という商業効果があったとされているが、これにはみうらじゅん氏、小山薫堂氏といったプロデューサー専業者との協働画策があった。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130417/E1366125539006.html
正直なところ、こういったやりかたで県なり自治体なりの宣伝をすることは、長期的にその自治体構成員つまりはその地域の国民に損害だろうとわたしはおもう。自分から低俗ですよ、かねほしさに客寄せパンダでもやりますよと喧伝しているのとおなじだからだ。この点で、むしろご当地ヒーローを募集しその喧伝をした方がはるかによい意味での男性社会性の宣伝効果がたかいとおもう。
市のゆるキャラのなかには、ホームページで確認したかぎりあきらかに天心を模したすがたの白いオバQみたいなのもあったはずだが、あの方が文化英雄的な宣伝効果があった。
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130417/E1366125539006.html
正直なところ、こういったやりかたで県なり自治体なりの宣伝をすることは、長期的にその自治体構成員つまりはその地域の国民に損害だろうとわたしはおもう。自分から低俗ですよ、かねほしさに客寄せパンダでもやりますよと喧伝しているのとおなじだからだ。この点で、むしろご当地ヒーローを募集しその喧伝をした方がはるかによい意味での男性社会性の宣伝効果がたかいとおもう。
市のゆるキャラのなかには、ホームページで確認したかぎりあきらかに天心を模したすがたの白いオバQみたいなのもあったはずだが、あの方が文化英雄的な宣伝効果があった。
2013年4月20日
魅力に関する政策転換
茨城県が「魅力度」でひくいと偏見調査され、宣伝されさえすること自体は茨城県民にとって有徳な点がおおい。新規流入者減によって大都会化の弊害、つまり陸でなしがはいってきたゆえの犯罪率の上昇や結果としての小中学生の体力・学力低下によるスラム化をさけられるからだ。
茨城県民またはその全体的対策が勘違いしてきたのは、この古残がおおいという低魅力の得点と、観光業の損失をかさねてしまったことだ。外貨獲得に注力すればよいのであって、一見さんをふやすことはかえって地域にとって風紀や美観をわるくする悪影響の方がふくらむ。
以上をもとに、茨城県では「外貨獲得主義的政策」に魅力度向上政策をきりかえてしまう必要がある。本当にすぐれている状態というのは県外から魅力度がたかいとおもわれているが新規流入者はすくない状態だ。この点で模範にあたいするのは、むしろ秋田県であるとおもえる。この地域の犯罪率は日本一ひくく、質のたかいふるきよき人々がのこっているため学力・体力もほぼ毎回トップにある。茨城県でも体力では全国一、学力でも有意にたかい成果がでているのは秋田とにた条件、ふるくつよきひとびとのそこあげがあるからだ。
北陸三県(富山・石川・福井)は秋田とかなりにた条件にあるが、そのよい部分が一層顕著にあらわれているのが秋田県だ。逆に人口減少や自殺率のたかさ、病気による死亡率のたかさ、生活保護率など欠点とおもわれる部分もあるが、犯罪率事前抑止策が必要な面をのぞいてこれらに首都圏・太平洋側にあってあかるい風土である茨城県は、あまりかかわりがない可能性がある。
まとめると、茨城県民がとるべきむきは県外から県内本社へ外貨をとってくる方法であり、魅力度という総合ブランド研究所の社員10名ほどが毎年捏造しつづける偏見調査に有利な政策ではない。そして県外での茨城県への印象をよくするなんらかの工夫と同時に、新規流入者のなかでも質のわるい層を最大限淘汰するいわゆる尊攘的意思は維持されるべき、となる。これらにもっとも合理的なのは、茨城県の傾向として指摘されることもおおかった男性社会原理を強化サイクルにおくことではないか。それが自走的に県外でのさむらい的行動をもって、茨城県民の男性らしさという才能を発揮させやすい領域での評判をもってくる可能性がたかい。この点で、桜田門外の変をとりあげた水戸市はさすがの先見の明だったとおもう。今後期待できるのは、学術文化上にも水戸学の風土をさらに強化サイクルにのせることだ。
茨城県民またはその全体的対策が勘違いしてきたのは、この古残がおおいという低魅力の得点と、観光業の損失をかさねてしまったことだ。外貨獲得に注力すればよいのであって、一見さんをふやすことはかえって地域にとって風紀や美観をわるくする悪影響の方がふくらむ。
以上をもとに、茨城県では「外貨獲得主義的政策」に魅力度向上政策をきりかえてしまう必要がある。本当にすぐれている状態というのは県外から魅力度がたかいとおもわれているが新規流入者はすくない状態だ。この点で模範にあたいするのは、むしろ秋田県であるとおもえる。この地域の犯罪率は日本一ひくく、質のたかいふるきよき人々がのこっているため学力・体力もほぼ毎回トップにある。茨城県でも体力では全国一、学力でも有意にたかい成果がでているのは秋田とにた条件、ふるくつよきひとびとのそこあげがあるからだ。
北陸三県(富山・石川・福井)は秋田とかなりにた条件にあるが、そのよい部分が一層顕著にあらわれているのが秋田県だ。逆に人口減少や自殺率のたかさ、病気による死亡率のたかさ、生活保護率など欠点とおもわれる部分もあるが、犯罪率事前抑止策が必要な面をのぞいてこれらに首都圏・太平洋側にあってあかるい風土である茨城県は、あまりかかわりがない可能性がある。
まとめると、茨城県民がとるべきむきは県外から県内本社へ外貨をとってくる方法であり、魅力度という総合ブランド研究所の社員10名ほどが毎年捏造しつづける偏見調査に有利な政策ではない。そして県外での茨城県への印象をよくするなんらかの工夫と同時に、新規流入者のなかでも質のわるい層を最大限淘汰するいわゆる尊攘的意思は維持されるべき、となる。これらにもっとも合理的なのは、茨城県の傾向として指摘されることもおおかった男性社会原理を強化サイクルにおくことではないか。それが自走的に県外でのさむらい的行動をもって、茨城県民の男性らしさという才能を発揮させやすい領域での評判をもってくる可能性がたかい。この点で、桜田門外の変をとりあげた水戸市はさすがの先見の明だったとおもう。今後期待できるのは、学術文化上にも水戸学の風土をさらに強化サイクルにのせることだ。
2013年4月17日
県都のかおとしての水戸駅
県都のかおとして、水戸駅を世界でもっとも先端的なすがたとし、拡張可能性によって今後もしつづけ、また交通の利便をかんがえホームの空中化(または地下化)でえきの南北をつなげる構想を考えはじめるべきだ。
たとえば名古屋駅や京都駅、金沢駅、東京駅、札幌駅などが県都のかおとしての象徴効果を十分にもった駅舎、といえる。水戸駅は実用的ではあるが、この物体あるいは象徴という面でインパクトがうすすぎる状態ではないか。えきのきたがわも、いまの状態はいまの状態でわるくはないが、ペデストリアンデッキ全体としてのひろば空間性にかけているといえる。
自分のいまの構想では、空中化(または地下化)したホーム全体がペデストリアンデッキ階からみわたせる、鉄骨ドーム構造のパディントン駅を巨大化した様なすがたにすればいい。そしてペデストリアンデッキ階は巨大なひろばとして、駅の南北を一体化する。さらに、ここから桜川ぞいをとおって偕楽園・弘道館までのルートを一体的に再開発する。このうめこまれたドーム構造の天井部はふきぬけにすれば、到着時の高揚や、地上部の活気がうみだせるかもしれない。
外観がもっとも重要で、名古屋駅の様に巨大な超高層ビルを付属させるパターンと、京都・金沢駅の様に駅舎そのものを独特のすがたにするものがある。どちらにせよ、世界遺産にあたいする様な「世界でもっともすぐれてうつくしい駅」をつくりだすことが今後首都になる茨城県の発展と格あげのため、是非とも必要だ。
上述の日本のみならず世界各地の駅舎を十分研究したうえで、水戸一高出身の建築家でもあり、日立駅舎の実績がある妹島氏に直接依頼してその洗練と世界最高の美化をはかるべきである。こういう天才というのは一度うしなわれてしまえば二度ととりかえせないものだから、機会をとらえて世界史にのこる規模の県内のしごとを依頼していくべきだ。好都合なことに、東京都の低俗な趣味レベルでは到底この才能を理解できていないので、茨城県がその主要な公共の仕事を提供する必要がある。
たとえば名古屋駅や京都駅、金沢駅、東京駅、札幌駅などが県都のかおとしての象徴効果を十分にもった駅舎、といえる。水戸駅は実用的ではあるが、この物体あるいは象徴という面でインパクトがうすすぎる状態ではないか。えきのきたがわも、いまの状態はいまの状態でわるくはないが、ペデストリアンデッキ全体としてのひろば空間性にかけているといえる。
自分のいまの構想では、空中化(または地下化)したホーム全体がペデストリアンデッキ階からみわたせる、鉄骨ドーム構造のパディントン駅を巨大化した様なすがたにすればいい。そしてペデストリアンデッキ階は巨大なひろばとして、駅の南北を一体化する。さらに、ここから桜川ぞいをとおって偕楽園・弘道館までのルートを一体的に再開発する。このうめこまれたドーム構造の天井部はふきぬけにすれば、到着時の高揚や、地上部の活気がうみだせるかもしれない。
外観がもっとも重要で、名古屋駅の様に巨大な超高層ビルを付属させるパターンと、京都・金沢駅の様に駅舎そのものを独特のすがたにするものがある。どちらにせよ、世界遺産にあたいする様な「世界でもっともすぐれてうつくしい駅」をつくりだすことが今後首都になる茨城県の発展と格あげのため、是非とも必要だ。
上述の日本のみならず世界各地の駅舎を十分研究したうえで、水戸一高出身の建築家でもあり、日立駅舎の実績がある妹島氏に直接依頼してその洗練と世界最高の美化をはかるべきである。こういう天才というのは一度うしなわれてしまえば二度ととりかえせないものだから、機会をとらえて世界史にのこる規模の県内のしごとを依頼していくべきだ。好都合なことに、東京都の低俗な趣味レベルでは到底この才能を理解できていないので、茨城県がその主要な公共の仕事を提供する必要がある。
2013年4月16日
県庁の正面ですがたをかくしている樹木
茨城県庁の真正面にある木、グーグルストリートビューの正面道路側・県庁南大通りからみたときに茨城県庁の石碑のうらがわにあって県庁のすがたをさえぎっている一本の樹木は、デザインの対称性をみだしているばかりか、県庁の威容をかくす効果しかないから、移設した方がいい。
北茨城の美術聖地化
北茨城市はいわゆる美大・芸大というアカデミー形ではない、本来のすがたで美術の聖地をめざすべきだ。
Artはもともと「わざ」という意味だが、このわざは本来は建築の付属物だった。特に純粋美術にかぎると、絵と彫刻というものは建築のいわゆる建具にほどこされた装飾のことだった。イタリア・ルネサンスを起点に、ヴィンチ村のレオナルドがきっかけになってこの絵というものだけが芸術性を独立して主張しはじめることになった。彫刻は同時代人であるミケランジェロによって同様に、独立した美術としてみとめられる様になった。
日本ではルネサンス化は、実際には日本やアジア美術に独自の手法や文脈を保全しようとした岡倉天心を排斥した明治政府によって、この西洋からの潮流をそのままうのみにするかたちですすんだ。東京藝術大学で西洋画を模倣し、明治政府からのおすみつきをもらった黒田清輝が薩摩人であり、おなじく西洋建築を模倣し赤坂迎賓館(もと東宮御所)を設計した片山東熊が長州のひとだったことがこれを証明している。ここまでは福沢諭吉という大分人のイデオローグが指導した、いわゆる脱亜入欧的な西洋模倣とアジア蔑視そのままの文化状況があるわけだ。
しかし、日本は日本だ。日本は西洋ではない。日本は極東にあるうえ、そのことばは日本語であり西洋の語ではない。このことばのちがいというものが決定的なちがいだが、それにくわえて構成している過半のひとびとの形質的特徴も西洋とはおおきくことなっている。このばあい、ちがいということはいわゆる人種差別の用語としてとらえられがちだが、勿論交配可能性はのこっているにもかかわらず、背丈や骨格、髪や目の色といった表面的な形質差がことなるといえるだろう。それは遺伝子間の優劣ではなく、単に身体特徴にあらわれる遺伝形質の傾向がちがっているのだ。
これら、言語・形質というのが2つのおおきなちがいとしてみえてくる。そしてこの2つのおおきなちがいが、結果として慣習のちがい、理解のちがい、文化のちがいにつながってくる。こうして言語・形質がまざりあって、文化という共有された慣習傾向におおまかなちがいがうまれる。
北茨城市では、以上の人類学・地政学的な認識から、美術上の創造がその文化の差異からうまれてきた、という部分にもっと注力すべきだ。それは「ことなる文化」のぶつかりあいの地点に生じる、特に建築装飾にみられることになりやすい製作上の習慣差のことなのだ。
建築は工業製品などにふくめて、応用美術ともいわれるばあいがある。それは実用性とか技術水準、土地の風土的条件などが、完全に独立した価値成立をさまたげるからだ。日本のばあいでいっても建築基準法や、地震・台風などの条件がその建築様式に一定のらちをかしている。このらちがあるかぎりで建築にはいわゆる純粋美術としてとおくまで移動が可能である絵や彫刻よりも土地風土やそれに由来した制度からの制限がかされ、独立性がかぎられている。つまり、建築装飾としてはじめ出発した絵や彫刻こそが真の純粋美術であり、そのつぎに建築という一定の制限のあるはこがくるということだ。したがって「ことなる文化」のぶつかりあいとその創造性は、実際には絵や彫刻の方に敏感でわかりやすくあらわれやすい。
原則としてこういった理論がいえるわけだが、具体的にどうやれば聖地化が可能かといえば、製作用の滞在施設を充実させることだろう。Artist in residenceといういいかたがされているわけだが、要はアトリエ空間を市の単位で大量につくり、それをつねに世界最大の単位で大規模かつ安価にかしだせばよい。こういった場所にはもし宣伝をまったくしなくともはじめ地元人がはいり、つぎにうわさをききつけて世界各国からアーティスト・美術家があつまってきて、自動的に文化のぶつかりあいを生じさせる。それが創造性のみなもとになる。これには費用が必要とおもわれがちだろうが、そうではなく、単に空き家やあき物件などのかりあげをして、もっとも安価でかしだせばいいだけだ。すでにつかわなくなった公共施設の用途転用・conversionはこのもっとも合理的な方針であり、あかねひら青少年の家なども実はこわさずに、適切な耐震補強や老朽化しきった部分のたてかえをしたうえでこのアトリエ空間用にかしだせばよかったのだ。おなじことは、市立病院や、現市立図書館のたてものなどにもあてはまるだろう。重要なのはあめかぜをしのげる空間ということであって、最低限度の設備でなんらかまわず、とにかく沢山製作スペースがあるという意味でなみはずれてひろく大量のアーティストが稼働しまくれるという絶対条件にある。この世界最大のスペースというところさえゆずらなければそのたてものの豪華さなんてどうでもよく、質素きわまりない最低限度の仮設建築的なもの、プレファブでもいいわけだ。なぜならなかみはアーティスト自身がつくるものだからだ。これから中郷と磯原のあいだの大量にたてられた郊外型店舗も当然限界効用がきて利益があがらなくなり空き家物件になることが予想できるから、ここもはじめから市の単位でかりあげ、大規模アトリエスペースとして応募者にかしだすことにきめておけばすでに国道ぞいでおきた廃墟化の様な、くりかえす単なるスクラップ&ビルドの醜態をさけられるだろう。
この構想のたったひとつの欠点をあげれば、新規流入者つまり新参者が生じるためにいくらか犯罪率があがるかもしれないということだ。これは実際、すべての大都市圏だけではなく自分の経験上、現在の北茨城市内でもおきている現象でもある。その事前対策として市警や自警団の独自整備をしておくこと、かつ市民への法律教育があるだろう。
Artはもともと「わざ」という意味だが、このわざは本来は建築の付属物だった。特に純粋美術にかぎると、絵と彫刻というものは建築のいわゆる建具にほどこされた装飾のことだった。イタリア・ルネサンスを起点に、ヴィンチ村のレオナルドがきっかけになってこの絵というものだけが芸術性を独立して主張しはじめることになった。彫刻は同時代人であるミケランジェロによって同様に、独立した美術としてみとめられる様になった。
日本ではルネサンス化は、実際には日本やアジア美術に独自の手法や文脈を保全しようとした岡倉天心を排斥した明治政府によって、この西洋からの潮流をそのままうのみにするかたちですすんだ。東京藝術大学で西洋画を模倣し、明治政府からのおすみつきをもらった黒田清輝が薩摩人であり、おなじく西洋建築を模倣し赤坂迎賓館(もと東宮御所)を設計した片山東熊が長州のひとだったことがこれを証明している。ここまでは福沢諭吉という大分人のイデオローグが指導した、いわゆる脱亜入欧的な西洋模倣とアジア蔑視そのままの文化状況があるわけだ。
しかし、日本は日本だ。日本は西洋ではない。日本は極東にあるうえ、そのことばは日本語であり西洋の語ではない。このことばのちがいというものが決定的なちがいだが、それにくわえて構成している過半のひとびとの形質的特徴も西洋とはおおきくことなっている。このばあい、ちがいということはいわゆる人種差別の用語としてとらえられがちだが、勿論交配可能性はのこっているにもかかわらず、背丈や骨格、髪や目の色といった表面的な形質差がことなるといえるだろう。それは遺伝子間の優劣ではなく、単に身体特徴にあらわれる遺伝形質の傾向がちがっているのだ。
これら、言語・形質というのが2つのおおきなちがいとしてみえてくる。そしてこの2つのおおきなちがいが、結果として慣習のちがい、理解のちがい、文化のちがいにつながってくる。こうして言語・形質がまざりあって、文化という共有された慣習傾向におおまかなちがいがうまれる。
北茨城市では、以上の人類学・地政学的な認識から、美術上の創造がその文化の差異からうまれてきた、という部分にもっと注力すべきだ。それは「ことなる文化」のぶつかりあいの地点に生じる、特に建築装飾にみられることになりやすい製作上の習慣差のことなのだ。
建築は工業製品などにふくめて、応用美術ともいわれるばあいがある。それは実用性とか技術水準、土地の風土的条件などが、完全に独立した価値成立をさまたげるからだ。日本のばあいでいっても建築基準法や、地震・台風などの条件がその建築様式に一定のらちをかしている。このらちがあるかぎりで建築にはいわゆる純粋美術としてとおくまで移動が可能である絵や彫刻よりも土地風土やそれに由来した制度からの制限がかされ、独立性がかぎられている。つまり、建築装飾としてはじめ出発した絵や彫刻こそが真の純粋美術であり、そのつぎに建築という一定の制限のあるはこがくるということだ。したがって「ことなる文化」のぶつかりあいとその創造性は、実際には絵や彫刻の方に敏感でわかりやすくあらわれやすい。
原則としてこういった理論がいえるわけだが、具体的にどうやれば聖地化が可能かといえば、製作用の滞在施設を充実させることだろう。Artist in residenceといういいかたがされているわけだが、要はアトリエ空間を市の単位で大量につくり、それをつねに世界最大の単位で大規模かつ安価にかしだせばよい。こういった場所にはもし宣伝をまったくしなくともはじめ地元人がはいり、つぎにうわさをききつけて世界各国からアーティスト・美術家があつまってきて、自動的に文化のぶつかりあいを生じさせる。それが創造性のみなもとになる。これには費用が必要とおもわれがちだろうが、そうではなく、単に空き家やあき物件などのかりあげをして、もっとも安価でかしだせばいいだけだ。すでにつかわなくなった公共施設の用途転用・conversionはこのもっとも合理的な方針であり、あかねひら青少年の家なども実はこわさずに、適切な耐震補強や老朽化しきった部分のたてかえをしたうえでこのアトリエ空間用にかしだせばよかったのだ。おなじことは、市立病院や、現市立図書館のたてものなどにもあてはまるだろう。重要なのはあめかぜをしのげる空間ということであって、最低限度の設備でなんらかまわず、とにかく沢山製作スペースがあるという意味でなみはずれてひろく大量のアーティストが稼働しまくれるという絶対条件にある。この世界最大のスペースというところさえゆずらなければそのたてものの豪華さなんてどうでもよく、質素きわまりない最低限度の仮設建築的なもの、プレファブでもいいわけだ。なぜならなかみはアーティスト自身がつくるものだからだ。これから中郷と磯原のあいだの大量にたてられた郊外型店舗も当然限界効用がきて利益があがらなくなり空き家物件になることが予想できるから、ここもはじめから市の単位でかりあげ、大規模アトリエスペースとして応募者にかしだすことにきめておけばすでに国道ぞいでおきた廃墟化の様な、くりかえす単なるスクラップ&ビルドの醜態をさけられるだろう。
この構想のたったひとつの欠点をあげれば、新規流入者つまり新参者が生じるためにいくらか犯罪率があがるかもしれないということだ。これは実際、すべての大都市圏だけではなく自分の経験上、現在の北茨城市内でもおきている現象でもある。その事前対策として市警や自警団の独自整備をしておくこと、かつ市民への法律教育があるだろう。
2013年4月14日
ひるねの効用
R25 1晩分の効果!?昼寝のスゴイ効能 2012.11.11
昼寝はそこまで効果的なのでしょうか? 昼寝の研究をしている久留米大学医学部・精神神経科の内村直尚先生に伺いました。
「昼寝には疲労を回復させる効果があります。福岡の明善高校では、5年前から毎日15分間の昼寝を取り入れているのですが、センター試験の成績が上がる、現役の東大合格者が増えるなどの効果が出ています。昼寝をすることで集中力が高まり、個々の持っている能力を引き出しやすくなっているのでしょう。さらに夜の睡眠を深くする効果もあるので、睡眠不足も解消できます」
全11科目の平均点の対全国倍率(明善高校÷全国)は、午睡を実施したH18入試から1.16倍から1.19倍に着実に上昇している データ提供/久留米大学医学部・精神神経科、内村直尚先生
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20121111-00025919-r25
成績をあげるためにひるねという休憩時間が効果的というのは、学校組織として十分にかんがえるべきところといえる。学習成果の定着あるいは長期記憶化のために睡眠が必要とはまえからいわれてきたことだが、ひるねの様な短時間睡眠が体力の回復などにもききめがあるうらづけがとれれば、これは組織規模でむしろ合理的な方法といえるだろう。
賠償請求協同組合の必要性
2013年4月11日 (木)
福島: 膨大な漏洩と放射性降下物は日々続いている … 何年間も
2013年4月6日
Washington's Blog
福島は漏れているのか … それとも、原子炉は全く閉じ込められていない状態なのか?
破壊された福島原子力発電所の運営者、東京電力が放射能を含む水の大量の漏れを発表したことを読者はご存じかも知れない。
読者は、福島の使用済み燃料プールの冷却装置が、一カ月の間、二度故障したこともご存じかも知れない。
これは確かに報道の価値がある話題だが … 全体像を完全に見逃している。
AP通信はこう報じている。
専門家達は、原発沖の海で捕れた魚の高濃度汚染からして、地下水系を経由して、継続的に海に漏れ出しているだろうと考えている。
(東京電力の福島原発の図では、水は原発から海に直接流れこんでいるようにさえ見える。これもご覧願いたい。)
日本の専門家達は、毎日、福島は現在930億ベクレルの放射性セシウムを海に流していると言っている。
これは一体どれほどの放射能なのだろう?
ざっと計算すると、ロシアの原発が火事になった際、チェルノブイリから放出された量の約一万分の一ということになる。しかしチェルノブイリの火事が続いたのはわずか10日で … 福島からの放出は、これまで2年以上続いているのだ。
実際、福島は既にチェルノブイリより遥かに大量の放射性セシウムとヨウ素を放出した。福島から放出された放射性セシウムの量は、当初考えられていたものより、およそ20-30倍多い。
福島は、半減期1,570万年の、放射性ヨウ素129も、膨大な量、排出した。福島は、カルシウムを模倣して人の骨に集まり、強力な体内の放射体となり得る、放射性のストロンチウム90も、900兆ベクレル、海に廃棄している。
しかも福島にある放射性燃料の量は、チェルノブイリさえ小さく見せるほどだ。… だから、何十年、何百年、あるいは何千年も、漏れ続ける可能性があるのだ。
The bottom line is原子炉はもはや封じ込められていないのだ。福島で“多少の漏れがある”というわけではない。“漏れ”というのは、炉心は安全に格納建造物内にあるが、そこに小さな穴が一つか二つ開いていて、塞ぐ必要があるということを意味する。しかし、科学者達は、炉心がどこにあるのかさえ分かっていない。これは漏れではない。完全なメルトダウンより酷い。
福島そのものの周辺で暮らしている人々への影響は一体どうなのだろう?
実際、非常に深刻なものとなる可能性がある。
記事原文のurl:www.washingtonsblog.com/2013/04/is-fukushima-leaking-or-is-the-the-reactor-wholly-uncontained.html
翻訳先のurl:http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-613e.html
この「うみへのながれだし」をだれも指摘しないのは大変におかしい。深海魚がもっとも影響をうけることがめにみえているのに、その検査体制と信頼性の基地をつくらないというのも漁業にとって致命的となる選択といえる。マイクロシーベルト単位での検出値の産地表示の義務化が必要といえる。
またしみこんだ土壌から、地下水が汚染されていることも当然かんがえられる。それらは地下をとおって、わきみずとなって周辺にあらわれる可能性がある。この面での温泉地への影響も当然かんがえられる。ここでも、周辺自治体による検査の義務化の体制づくりが必要だ。
このどちらの局面にわたっても、公害をもたらした法人格である東京電力株式会社が費用負担をするのが当然といえる。東京電力株式会社のもうけにくらべれば、これらの費用負担などそこがつぶれるほどには100%ならない僅少な額なのだから、漁協や温泉組合が直接うったえること、また井戸水や農地をもっている周辺住民の直接賠償のくみあいがつくられてしかるべきだ。
2013年4月13日
ただしい人道
石原伸晃の脳内にあるのは、福島第一サティアン発言でもわかるが、放射性廃棄物を福島県の帰宅困難地域におしこめてしまうのが最終決着点なのが理の当然というかんがえかたといえる。このひとはすくなくとも前世(石原慎太郎)が悪質な関西出身者だったこともふくめ、商業的利己主義の傾向がある。
豊田市長の発言「安全だというならどうして都市部につくらないのか」(茨城新聞、2013/4/13)はきわめて正論だ。放射性廃棄物がもれだす可能性がおおいにあり、そうであるかぎり危険だから東京都や、官庁のとなり、皇居、いくらでも土地があまっている高尾山、石原家の土地内にひきうけるきおいはかれら東京人側にまったくない。かれら東京人というものはやはり自分さえよければ他人がどうなろうとかまわない、不仁きわまるいやしい商業的利己主義者なのである。
総合的に批判すると、薩長土肥京芸(薩摩・長州・土佐・肥前・京都・芸州=鹿児島・山口・高知・佐賀・京都・広島)の西国諸藩がそうなのだ。これは明治新政府が商業的利己主義者のむれであったことにひとしい。福沢諭吉がそのもっともしぶといイデオローグだった。かれらは武家社会で外様におしこめられた地位をうらみに、体制をくつがえすべくその米英あるいはユダヤ式の商業的利己主義をアジア侵略のものだねとかんがえとりこんだ。各地でスパイ活動をおこなっていた長州(山口)の吉田松陰や伊藤博文を筆頭に、かれらは社会ダーウィニストとなった。格差社会や弱肉強食をかてば官軍のスローガンとともに信じつづける長州系の安倍晋三、薩摩系の麻生太郎をふくめ、自由民主党なるものも実はこの余波にすぎないといえるだろう。
わたしがいち文民としてみとおせるのは、こういった西日本的利己性は東京都のなかに伝播してしまっているが、東日本人は絶対この悪意にそまってはいけないということだ。日本が米英ユダヤとおなじレベルの社会になりさがってしまうのだろうか。それはしいたげられてきた有色人種の世界で、こころからの日本への期待をうらぎることだ。有色人種の世界をまもらねばならない。日本はアングロサクソンやラテンの欧米人、あるいは関西の倭がこれまでおこなってきたはなはだしい侵略の悪業にあらがい、その不正をあばき、世界史に平和と天下の統一をうちたてる必要がある。白色人種の暴威と、悪徳にこびうる極悪の薩長土肥京芸ら西国蛮夷をうちはらえ。その胎動の地がこの北茨城でなければならない。
義にあたっては天皇だろうとアメリカだろうと、原爆水爆生化学兵器どんな拷問でおどされようと決してゆずってはならない。北茨城市民は原発政策に賛成なのだろうか反対なのだろうか。あきらかに反対だ。われらは原発から被害しかうけていないからだ。平和なくらしをしてきたひとびとをしいたげているのが、この邪悪な東京の電力搾取装置・原子力発電所、そしてそこからもたらされた北茨城市への大公害なのである。それなのに、このもっとも大事にしてきた自然環境を、さらに東京からきた邪悪な権力者集団がよごそうとするものなら、それら邪悪な勢力を地上から一掃すべきである。最低でも北茨城市内に環境相が放射性廃棄物を投棄しようとしたものなら、国政まるごとすべてつぶし完全に支配する気概と勇気をわれらはもたねばならない。邪悪な東京都で原発によって散々茨城県民・地方の人民から、かねと労働を搾取、あげくには「魅力度が最低」と恣意的におとしめ、われら国民の名誉までをすさまじくはずかしめてきた悪徳東京の天皇家もついでに永久廃位させる必要がある。茨城県民がこれまで散々、侮辱罪・名誉毀損罪されてきた分だけ東京都やその天皇がおちぶれなければ道理がたたないからだ。国民が主人であって、世襲の独裁者がではない。なぜソドム東京都の世襲独裁者ごときから、一国の主人であるものが侮辱されつづけねばならない。象徴が堕落したら国民自身の手でかならずそれをかえる必要がある。おそらく勤皇主義の水戸徳川家はこのかんがえかたに反対するだろうが、かれらが世襲の権力者のもとで特権を享受することより、かれらの祖先をやしなってきた郷里である茨城県におわす一国民のいのちを軽視するならそれも仁義のもとにある思想ではないといえる。尊皇なのか尊民なのか。二者択一だ。わたしは世襲の独裁者より国民をとうとぶ。なぜならわたし自身が国民であって世襲の独裁者ではないからだ。国民なくして国家なし、天皇なくとも国家あり。これは原爆投下や特攻隊、小御所会議の不正な決定からいたる最悪の内戦・戊辰戦争、それ以前にも倭朝廷による地方蔑視の一方的侵略犯罪など天皇奴隷制度にまつわるあまたの悲惨をみてきた、もとからのいち日本人として、当然の判断といえる。そもそも、天皇家はこのしまが「日本」となづけられる以前にはこの地にいなかった新参者の人間であり、それよりはるか以前からこのしまを愛し、このしまにくらしてきたなもなき真の日本人らにとってすれば、その存在やおおうその神話づくりでの洗脳など、土台からしったことではない。
人間には生存権がある。うまれきた地にすんでいく権利。いきなり武器をかたてにやってきてそれを一方的に侵害したうえ暴力でひとびとを無理に奴隷化し、国民の平和な生活をエゴイズムにこりかたまった帝国主義で破壊し贅沢と乱倫のために大枚を徴税、侵略自慢の悪業におごってきたのが根っからのならずものとしかいいようがない天皇家だ。これが日本史の真相だ。
茨城県民の総合判断として、福島県の帰宅困難地域あるいは廃炉ずみの施設に最終処分場を一括してつくるのが最善とみなしたとして、石原伸晃自身のかんがえかたとこれは一致している。しかし、福島県知事はいままですさまじい被害をうけ、これ以上負担をおいたくない、ということが予想できる。最終的おとしどころは最終処分場の現実性として福島県知事を説得しあるいは国家が優遇政策をしめしたうえでこれに帰属してもらうか、または根本原理としてこれらの原発はすべて東京のせいで生じているまがものなのだから東京都内に自称安全という最終処分場を立地させるか、この2つのうちどちらかでなければならない。そして福島県知事と連携し、邪悪でしかない搾取主体・公害主体の東京都に自責させるべく、最終処分場を都内立地させることこそ、真にこの国家の人道を回復するみちすじだろう。自称安全なのだから、当然高尾山でこれを安全に運営していけるはずだ。おひざもとである方がよほど管理がしやすく一石二鳥といえる。これを否定する論理などどこかにあるのだろうか。
所詮、極悪搾取をつづける悪徳商売人の連帯である東京都からは、今後とも東京都民の自分さえよければ他人がどうくるしもうと関係ないという不仁きわまる悪質な態度、むれて悪事をしたがるいやしい利己主義・極悪ジャイアニズムのいいわけしかあらわれまい。297万人の茨城県はその707万kwの県外への電力供給で、千葉県622万人・埼玉県720万人・神奈川県905万人・東京都1316万人という首都圏連合4都県の人口計3600万人の電力需要600万kWをながらくささえてきた。茨城県民の需要はたった50万kwしかなかったのに。この偉大なわれら茨城県民のあきらかに国家救済的かつ慈悲にみちた多大な貢献実績のまえで小人都民ごときが散々おごりちらす。そのうえで、さらなる負担と迷惑をとうとい茨城県におしつけたがっている。悪徳商売人の下衆スラム・東京都など、日本と人類の正義のためにはいますぐつぶれればよいのである。邪悪な首都ならない方がいい。悪徳のむれはむれればむれるほどわるくなる。あしき独裁地域は、当然ほろぼされ、革命されるを得る。王道を回復せねばならない。経済支配の悪徳首都東京はうちくだき、大公害による搾取の業をひびほしいままにしている悪質な東京都の全域などいますぐつぶし、有徳の茨城県がかわりに有徳の首都をすべきなのである。もし洗脳された愚民が悪魔の東京都からどれほどだまされていようとも、かれら衆愚みずからが結果として福島県とおなじめにあうだろうし、愚劣なジャイアニズムでしかない東京に連帯したおろかな判断によってかならず失政するにすぎないのだから、有徳の君子として大人にして優等生の茨城人はそれら小人どものざれごとを一切無視すればよい。
もしゆたかなとこよの自然環境をもっとも美点としている関東最古の茨城県・常陸国をかるがるしくよごし、あげく善意の電力供給もとを軽視する計画停電措置という悪魔の意をしめしたうえ、延々と市民とその生物のいのちをうばう致命的なごみをすてにくる悪徳国家日本だとすれば、その首都である東京都をふくむ日本国という悪魔の組織そのものを人類にみとめられた革命権をもとに徹底破壊するべきだ。なぜなら、東京都という巨大な搾取基地をかまえた悪魔の日本国さえなければ、われら国民の安全安心はたもたれるからだ。これもまた現実の真理である。
家系図がながいだけの独裁者天皇とやらの人種差別の尊厳? かれらのつくりこんできた神話? 水戸徳川家の伝統的支配の理念? しったことではない。いのちをうしなえばなんにもならない。そしてこどものいのちをうしなわせる放射能廃棄物をすてにくる極悪人は、なんとしてでも市のテリトリーからおいだし、もしこういった穏健な説得にこれからながらくの政治上のはなしあいの結果として、かれら極悪人がなんとしてでも応じない様ならこれはもはや法の濫用または国政の悪用による国際犯罪に類しており、日本のもっともすばらしい自然をトップダウンの命令で破壊する不法投棄・無法投棄事例なのはあきらかだから、北茨城市民全員が決死の浪士・環境保護運動のゲリラとなってでも、その極悪不法投棄犯人どもを全世界の国家国民群と連携しなにがなんでも退陣させるべきである。勿論わたしは危険な活動をあおっているのではない。このくにの法を最大限まもったうえで、一度うしなえば二度ととりかえしのきかない日本の自然環境を、福島県のおかれることになった悪徳東京都民による自然破壊事例を他山のいしとして市民がその身を賭してでも、搾取や破壊工作をしてくる侵略者どもから絶対にまもれといっているのだ。この究極的覚悟によってしか、おごれる東京都と世襲独裁者天皇家のくみあわせによる地方蔑視の極悪横暴をおさめる方法はなさそうにみえる。かれらの中華思想は、いまの京都にも残存する人種差別・民族差別・地方差別の悪風なのである。
われらはすぐとなりで、もっともしたしい友人である磐城が東京都の極悪行為で破滅させられるのをみた。さらにつづけて、となりまちである高萩市が犠牲になりかねなかったのをみた。この一度ならず二度までの悪業をみながら、だまっているのは男として、すくなくとも人間としてまちがっている。義をみてせざるは勇なきなり。まだつづけて悪事をしようとしている悪徳商人根性・東京都の犯意を、率先してわれらがうちくだくべきなのだ。全人類が東京を妄信していようが関係ない。真実は真実であり、よごれた東京とはことなる善美なわれらの土地が国政から不当におとしめられた分だけ、その悪事をおこなった東京という堕落した場所と土地代を世界の正義のためにおとしかえすべきだ。復讐せよ。そしてこのよのただしいみちすじとして、まわりに迷惑をまきちらすあしき東京都へその東京都民みずからがうみだした強欲という業の結果、すなわち放射性廃棄物の最終処分場をせおわせるのがこのよのただしい人道というものである。
原発などとはまったく無関係なあかの他人の土地へみずからがつくった原発から生じた危険ごみを投棄しようとしてきた極悪東京人が、その悪事におこったじもとの地権者から、しかも東京人よりはるかに正義に敏感だった北茨城市民をあやまってターゲットにしたばかりに、おろかなやくざ東京人のごみをそのやくざである東京人の土地へおしかえされるのは、だれがどうみようと自業自得といえる。福島県の前例をみれば、市内にある大規模発電所のパワーステーション茨城の環境排出物質へもまったくおなじことがあてはまる。この磯原高校よこにあるバイオマス発電所は今後とも、市民の厳重な監視が必要な物件といえるだろう。
豊田市長の発言「安全だというならどうして都市部につくらないのか」(茨城新聞、2013/4/13)はきわめて正論だ。放射性廃棄物がもれだす可能性がおおいにあり、そうであるかぎり危険だから東京都や、官庁のとなり、皇居、いくらでも土地があまっている高尾山、石原家の土地内にひきうけるきおいはかれら東京人側にまったくない。かれら東京人というものはやはり自分さえよければ他人がどうなろうとかまわない、不仁きわまるいやしい商業的利己主義者なのである。
総合的に批判すると、薩長土肥京芸(薩摩・長州・土佐・肥前・京都・芸州=鹿児島・山口・高知・佐賀・京都・広島)の西国諸藩がそうなのだ。これは明治新政府が商業的利己主義者のむれであったことにひとしい。福沢諭吉がそのもっともしぶといイデオローグだった。かれらは武家社会で外様におしこめられた地位をうらみに、体制をくつがえすべくその米英あるいはユダヤ式の商業的利己主義をアジア侵略のものだねとかんがえとりこんだ。各地でスパイ活動をおこなっていた長州(山口)の吉田松陰や伊藤博文を筆頭に、かれらは社会ダーウィニストとなった。格差社会や弱肉強食をかてば官軍のスローガンとともに信じつづける長州系の安倍晋三、薩摩系の麻生太郎をふくめ、自由民主党なるものも実はこの余波にすぎないといえるだろう。
わたしがいち文民としてみとおせるのは、こういった西日本的利己性は東京都のなかに伝播してしまっているが、東日本人は絶対この悪意にそまってはいけないということだ。日本が米英ユダヤとおなじレベルの社会になりさがってしまうのだろうか。それはしいたげられてきた有色人種の世界で、こころからの日本への期待をうらぎることだ。有色人種の世界をまもらねばならない。日本はアングロサクソンやラテンの欧米人、あるいは関西の倭がこれまでおこなってきたはなはだしい侵略の悪業にあらがい、その不正をあばき、世界史に平和と天下の統一をうちたてる必要がある。白色人種の暴威と、悪徳にこびうる極悪の薩長土肥京芸ら西国蛮夷をうちはらえ。その胎動の地がこの北茨城でなければならない。
義にあたっては天皇だろうとアメリカだろうと、原爆水爆生化学兵器どんな拷問でおどされようと決してゆずってはならない。北茨城市民は原発政策に賛成なのだろうか反対なのだろうか。あきらかに反対だ。われらは原発から被害しかうけていないからだ。平和なくらしをしてきたひとびとをしいたげているのが、この邪悪な東京の電力搾取装置・原子力発電所、そしてそこからもたらされた北茨城市への大公害なのである。それなのに、このもっとも大事にしてきた自然環境を、さらに東京からきた邪悪な権力者集団がよごそうとするものなら、それら邪悪な勢力を地上から一掃すべきである。最低でも北茨城市内に環境相が放射性廃棄物を投棄しようとしたものなら、国政まるごとすべてつぶし完全に支配する気概と勇気をわれらはもたねばならない。邪悪な東京都で原発によって散々茨城県民・地方の人民から、かねと労働を搾取、あげくには「魅力度が最低」と恣意的におとしめ、われら国民の名誉までをすさまじくはずかしめてきた悪徳東京の天皇家もついでに永久廃位させる必要がある。茨城県民がこれまで散々、侮辱罪・名誉毀損罪されてきた分だけ東京都やその天皇がおちぶれなければ道理がたたないからだ。国民が主人であって、世襲の独裁者がではない。なぜソドム東京都の世襲独裁者ごときから、一国の主人であるものが侮辱されつづけねばならない。象徴が堕落したら国民自身の手でかならずそれをかえる必要がある。おそらく勤皇主義の水戸徳川家はこのかんがえかたに反対するだろうが、かれらが世襲の権力者のもとで特権を享受することより、かれらの祖先をやしなってきた郷里である茨城県におわす一国民のいのちを軽視するならそれも仁義のもとにある思想ではないといえる。尊皇なのか尊民なのか。二者択一だ。わたしは世襲の独裁者より国民をとうとぶ。なぜならわたし自身が国民であって世襲の独裁者ではないからだ。国民なくして国家なし、天皇なくとも国家あり。これは原爆投下や特攻隊、小御所会議の不正な決定からいたる最悪の内戦・戊辰戦争、それ以前にも倭朝廷による地方蔑視の一方的侵略犯罪など天皇奴隷制度にまつわるあまたの悲惨をみてきた、もとからのいち日本人として、当然の判断といえる。そもそも、天皇家はこのしまが「日本」となづけられる以前にはこの地にいなかった新参者の人間であり、それよりはるか以前からこのしまを愛し、このしまにくらしてきたなもなき真の日本人らにとってすれば、その存在やおおうその神話づくりでの洗脳など、土台からしったことではない。
人間には生存権がある。うまれきた地にすんでいく権利。いきなり武器をかたてにやってきてそれを一方的に侵害したうえ暴力でひとびとを無理に奴隷化し、国民の平和な生活をエゴイズムにこりかたまった帝国主義で破壊し贅沢と乱倫のために大枚を徴税、侵略自慢の悪業におごってきたのが根っからのならずものとしかいいようがない天皇家だ。これが日本史の真相だ。
茨城県民の総合判断として、福島県の帰宅困難地域あるいは廃炉ずみの施設に最終処分場を一括してつくるのが最善とみなしたとして、石原伸晃自身のかんがえかたとこれは一致している。しかし、福島県知事はいままですさまじい被害をうけ、これ以上負担をおいたくない、ということが予想できる。最終的おとしどころは最終処分場の現実性として福島県知事を説得しあるいは国家が優遇政策をしめしたうえでこれに帰属してもらうか、または根本原理としてこれらの原発はすべて東京のせいで生じているまがものなのだから東京都内に自称安全という最終処分場を立地させるか、この2つのうちどちらかでなければならない。そして福島県知事と連携し、邪悪でしかない搾取主体・公害主体の東京都に自責させるべく、最終処分場を都内立地させることこそ、真にこの国家の人道を回復するみちすじだろう。自称安全なのだから、当然高尾山でこれを安全に運営していけるはずだ。おひざもとである方がよほど管理がしやすく一石二鳥といえる。これを否定する論理などどこかにあるのだろうか。
所詮、極悪搾取をつづける悪徳商売人の連帯である東京都からは、今後とも東京都民の自分さえよければ他人がどうくるしもうと関係ないという不仁きわまる悪質な態度、むれて悪事をしたがるいやしい利己主義・極悪ジャイアニズムのいいわけしかあらわれまい。297万人の茨城県はその707万kwの県外への電力供給で、千葉県622万人・埼玉県720万人・神奈川県905万人・東京都1316万人という首都圏連合4都県の人口計3600万人の電力需要600万kWをながらくささえてきた。茨城県民の需要はたった50万kwしかなかったのに。この偉大なわれら茨城県民のあきらかに国家救済的かつ慈悲にみちた多大な貢献実績のまえで小人都民ごときが散々おごりちらす。そのうえで、さらなる負担と迷惑をとうとい茨城県におしつけたがっている。悪徳商売人の下衆スラム・東京都など、日本と人類の正義のためにはいますぐつぶれればよいのである。邪悪な首都ならない方がいい。悪徳のむれはむれればむれるほどわるくなる。あしき独裁地域は、当然ほろぼされ、革命されるを得る。王道を回復せねばならない。経済支配の悪徳首都東京はうちくだき、大公害による搾取の業をひびほしいままにしている悪質な東京都の全域などいますぐつぶし、有徳の茨城県がかわりに有徳の首都をすべきなのである。もし洗脳された愚民が悪魔の東京都からどれほどだまされていようとも、かれら衆愚みずからが結果として福島県とおなじめにあうだろうし、愚劣なジャイアニズムでしかない東京に連帯したおろかな判断によってかならず失政するにすぎないのだから、有徳の君子として大人にして優等生の茨城人はそれら小人どものざれごとを一切無視すればよい。
もしゆたかなとこよの自然環境をもっとも美点としている関東最古の茨城県・常陸国をかるがるしくよごし、あげく善意の電力供給もとを軽視する計画停電措置という悪魔の意をしめしたうえ、延々と市民とその生物のいのちをうばう致命的なごみをすてにくる悪徳国家日本だとすれば、その首都である東京都をふくむ日本国という悪魔の組織そのものを人類にみとめられた革命権をもとに徹底破壊するべきだ。なぜなら、東京都という巨大な搾取基地をかまえた悪魔の日本国さえなければ、われら国民の安全安心はたもたれるからだ。これもまた現実の真理である。
家系図がながいだけの独裁者天皇とやらの人種差別の尊厳? かれらのつくりこんできた神話? 水戸徳川家の伝統的支配の理念? しったことではない。いのちをうしなえばなんにもならない。そしてこどものいのちをうしなわせる放射能廃棄物をすてにくる極悪人は、なんとしてでも市のテリトリーからおいだし、もしこういった穏健な説得にこれからながらくの政治上のはなしあいの結果として、かれら極悪人がなんとしてでも応じない様ならこれはもはや法の濫用または国政の悪用による国際犯罪に類しており、日本のもっともすばらしい自然をトップダウンの命令で破壊する不法投棄・無法投棄事例なのはあきらかだから、北茨城市民全員が決死の浪士・環境保護運動のゲリラとなってでも、その極悪不法投棄犯人どもを全世界の国家国民群と連携しなにがなんでも退陣させるべきである。勿論わたしは危険な活動をあおっているのではない。このくにの法を最大限まもったうえで、一度うしなえば二度ととりかえしのきかない日本の自然環境を、福島県のおかれることになった悪徳東京都民による自然破壊事例を他山のいしとして市民がその身を賭してでも、搾取や破壊工作をしてくる侵略者どもから絶対にまもれといっているのだ。この究極的覚悟によってしか、おごれる東京都と世襲独裁者天皇家のくみあわせによる地方蔑視の極悪横暴をおさめる方法はなさそうにみえる。かれらの中華思想は、いまの京都にも残存する人種差別・民族差別・地方差別の悪風なのである。
われらはすぐとなりで、もっともしたしい友人である磐城が東京都の極悪行為で破滅させられるのをみた。さらにつづけて、となりまちである高萩市が犠牲になりかねなかったのをみた。この一度ならず二度までの悪業をみながら、だまっているのは男として、すくなくとも人間としてまちがっている。義をみてせざるは勇なきなり。まだつづけて悪事をしようとしている悪徳商人根性・東京都の犯意を、率先してわれらがうちくだくべきなのだ。全人類が東京を妄信していようが関係ない。真実は真実であり、よごれた東京とはことなる善美なわれらの土地が国政から不当におとしめられた分だけ、その悪事をおこなった東京という堕落した場所と土地代を世界の正義のためにおとしかえすべきだ。復讐せよ。そしてこのよのただしいみちすじとして、まわりに迷惑をまきちらすあしき東京都へその東京都民みずからがうみだした強欲という業の結果、すなわち放射性廃棄物の最終処分場をせおわせるのがこのよのただしい人道というものである。
原発などとはまったく無関係なあかの他人の土地へみずからがつくった原発から生じた危険ごみを投棄しようとしてきた極悪東京人が、その悪事におこったじもとの地権者から、しかも東京人よりはるかに正義に敏感だった北茨城市民をあやまってターゲットにしたばかりに、おろかなやくざ東京人のごみをそのやくざである東京人の土地へおしかえされるのは、だれがどうみようと自業自得といえる。福島県の前例をみれば、市内にある大規模発電所のパワーステーション茨城の環境排出物質へもまったくおなじことがあてはまる。この磯原高校よこにあるバイオマス発電所は今後とも、市民の厳重な監視が必要な物件といえるだろう。
2013年4月9日
アンコウどん
市の最優秀キャラクターは西郷どんみたいなのでアンコウどんと命名すべき。優秀キャラクター2つは姉弟みたいなので、アンコウきょうだいとしてペアで。これらをみると、つまキャラクターがたりないから新設すべきかもしれない。
このアンコウ家族みたいなアニメーションを、市の宣伝用でディズニーやジブリなどの会社に製作依頼すべきだ。普通はかわいさをえらんでいくはずなのだが、逆にキャラクターのインパクトがおおきいので、いずれはアンコウどん単独での漫画化も可能とおもえる。
また鮟鱇は深海魚なのでみためで選択されてきていない。このみにくさという欠点をかえりみて、新キャラクターをかもめで、もっと格好のよいものとしてつくるべきだ。
追記:アンコウどんのキャラクター象徴性だけではなく市政全般にもいえることだが、市長のひとがらがそうなのかもしれないわけだがはっきりいって洗練されない。非常にどろくさい。このキャラクター募集とその選出結果もおなじだろう。こういう市政の特徴あるいは現在の趣味傾向は、豊田氏のひとつの性質とみていい。もし市民がこういうたちをいやだとおもえば、結局、市長をかえるしかないだろう。そして豊田氏をえらんでいるかぎりで、市域の政治に関するこのよくいえば素朴だが、わるくみられればどうしようもなくどろくさい結果というものを、市民は覚悟しなければならないだろう。
このアンコウ家族みたいなアニメーションを、市の宣伝用でディズニーやジブリなどの会社に製作依頼すべきだ。普通はかわいさをえらんでいくはずなのだが、逆にキャラクターのインパクトがおおきいので、いずれはアンコウどん単独での漫画化も可能とおもえる。
また鮟鱇は深海魚なのでみためで選択されてきていない。このみにくさという欠点をかえりみて、新キャラクターをかもめで、もっと格好のよいものとしてつくるべきだ。
追記:アンコウどんのキャラクター象徴性だけではなく市政全般にもいえることだが、市長のひとがらがそうなのかもしれないわけだがはっきりいって洗練されない。非常にどろくさい。このキャラクター募集とその選出結果もおなじだろう。こういう市政の特徴あるいは現在の趣味傾向は、豊田氏のひとつの性質とみていい。もし市民がこういうたちをいやだとおもえば、結局、市長をかえるしかないだろう。そして豊田氏をえらんでいるかぎりで、市域の政治に関するこのよくいえば素朴だが、わるくみられればどうしようもなくどろくさい結果というものを、市民は覚悟しなければならないだろう。
2013年4月4日
茨城の食料自給率
平成18年概数・関東農政局
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
茨城70%・イギリス70%>スイス49%>日本39%>神奈川3%>東京1%
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
茨城70%・イギリス70%>スイス49%>日本39%>神奈川3%>東京1%
2013年3月29日
バイオマス発電所からの振動公害発生の可能性
かるい振動公害(みみにきこえるほど家具などが振動している)というものが、パワーステーション茨城というバイオマス発電所周辺の民家から指摘されている。その発電機が原因かは不明だが、この発電所が建設されるまえにはそういった事例がなかったことから、かなりこの会社から発生している確率がたかいといえる。
茨城県民は首都圏に大量の電気を供給してきた実績があるが、公害を受ける場合は容赦なくその発電所をつくっている東京都民をせめ、ばあいによっては住民運動でおいかえすべきだ。
以下、資料。
震災後の東京電力の供給能力:3500万kW程
茨城県内の一般家庭の電力総需要:50万kW
茨城県内の発電施設の主な発電供給出力:757万kw
��内訳
鹿島火力発電所:440万kW
茨城県・東海村にある東海第二原子力発電所:110万kw
常陸那珂火力発電所:100万kW
鹿島共同発電所:105万kW
パワーステーション茨城:1.5万kW)
山梨県 86万人
群馬県 201万人
栃木県 201万人
茨城県(東海第二原発ほかで首都圏へ電力供給)297万人→需要50万kW
静岡県 377万人
��以上5県の人口1200万人→電力需要200万kW)
千葉県 622万人
埼玉県 720万人
神奈川県 905万人
東京都(電力浪費で茨城の電力をむさぼる驕れる首都)1316万人
��以上4都県の人口3600万人→電力需要600万kW)
引用元:世界の環境ホットニュース[GEN] 791号 11年3月28日
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
日本原子力発電株式会社、東海第二原子力発電所、発電所概要
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
茨城県民は首都圏に大量の電気を供給してきた実績があるが、公害を受ける場合は容赦なくその発電所をつくっている東京都民をせめ、ばあいによっては住民運動でおいかえすべきだ。
以下、資料。
震災後の東京電力の供給能力:3500万kW程
茨城県内の一般家庭の電力総需要:50万kW
茨城県内の発電施設の主な発電供給出力:757万kw
��内訳
鹿島火力発電所:440万kW
茨城県・東海村にある東海第二原子力発電所:110万kw
常陸那珂火力発電所:100万kW
鹿島共同発電所:105万kW
パワーステーション茨城:1.5万kW)
山梨県 86万人
群馬県 201万人
栃木県 201万人
茨城県(東海第二原発ほかで首都圏へ電力供給)297万人→需要50万kW
静岡県 377万人
��以上5県の人口1200万人→電力需要200万kW)
千葉県 622万人
埼玉県 720万人
神奈川県 905万人
東京都(電力浪費で茨城の電力をむさぼる驕れる首都)1316万人
��以上4都県の人口3600万人→電力需要600万kW)
一般家庭の電力総需要は800万kW(23%)にすぎません。これを5グループにわけて停電を強制した場合、23区も含めても節電効果は160万kW に留まります。一方、大企業に使用制限をかけた場合、オイルショックのときの実績で15%の節電効果が確認されていますから、この時期の需要量を4000万kW とした場合、それだけで600万kWの節電効果が期待されるのです。
本当に節電を目的にしているならば、600万kW の節電が期待できる「需給調整契約の発動」の方がはるかに有効な方策だったといえます。
東海第二発電所は、日本初の大型原子力発電所として1973年4月に着工(第1回工事計画認可)、同年6月に建設工事を開始し、1978年に営業運転を開始しました。
運転・定期検査時の作業性向上やコンピュータを用いた放射線管理システムの導入など安全性や信頼性の向上が図られています。 沸とう水型原子力発電所1基としては日本最高の総発電電力量の記録を更新中です。
運転開始時からの運転実績
発電電力量合計: 2,269.7億kWh
平均設備利用率: 70.6%
平均時間稼働率: 71.4%
(2012年3月末現在)
発電所概要
電気出力 110万kW
原子炉型式 原子炉型式 沸とう水型軽水炉(BWR)
燃料 低濃縮ウラン(約131トン)
営業運転開始 1978年11月28日
送電先 東京電力(株) 東北電力(株)
引用元:世界の環境ホットニュース[GEN] 791号 11年3月28日
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
日本原子力発電株式会社、東海第二原子力発電所、発電所概要
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
2013年3月28日
保護すべき貴重建造物
磯原中学校よこにある石造のくらは、様式からみて、明治・大正時代以来のものかもしれないので、所有者が保護するのが困難なばあい、市がかいとって歴史的建造物として、郷土博物館などの用途として保護すべきだ。以前はとなりに市役所があったため、その関連物の可能性もある。
体力日本一の茨城
全国小中学生体力テスト(平成24年度、2012年4月~7月)
茨城県
中学生男子1位
中学生女子1位
小学生男子2位
小学生女子2位
実施された種目
握力
上体起こし
長座体前屈
反復横とび
20mシャトルラン
50m走
立ち幅とび
ソフトボール投げ(小学生のみ)
ハンドボール投げ(中学生のみ)
��※ 中学生は持久走か20mシャトルランのどちらかを選択)
http://networksansaku.seesaa.net/article/353138580.html
これをもとにかんがえて、将来は茨城県を首都圏の五輪選手要請地区として指定していくのが賢明ではないかとおもう。東京五輪が誘致に成功するにせよしないにせよ、それと協調するにせよしないにせよ、茨城県で五輪をくりかえしおこなうことを前提に五輪競技のおもな競技場・練習場、特に体操の様、種目数がおおいものを優先的に県内へつくり、じもとのすでに体力が全国一のこどものうち才能と努力の能力があるひとをえらび運動選手へ精鋭教育すべきだ。
五輪選手のかずもあと1人が金メダルをとれれば、茨城が北海道以上となり、全国一の金メダル選手出身者数となったのだから、単なる知恵によって競合的にのびられる余地なのがたしかだ。
この茨城人が全国一の体力をもっている、という試験成績の結果・あかしは、今後も維持し、かつその長所をこれからものばしていくべきだ。体力がたかいということは健康性とも比例するはずなので、これからも決して欠点にはならないだろう。
追記
ただし、茨城県の教育委員会からのプログラムというものは、運動がにがてか、病弱なこにとっては全体主義的統制のわるい影響を感じられることにもなりかねない。いいかえればこの「教育組織」からの強制というのは可能なかぎりやめねばならないだろう。この分を、十分なのびはばのある生徒の長所をのばす分へあてても、総合結果はおなじだからだ。つまり、総合結果は
底上げの成績向上度=英才教育の成績向上度
なので、教員はばあいに応じて適宜どちらがより総合結果をのばすことになるのか、最良さを選択すべきだ。
大事なのは、個人個人の健康状態や個性の能力はばに応じて、それぞれの限度での運動習慣づけという教育性にとどめることか。運動がどうもにがてなこどもへは、単にやすみ時間や放課後での、先生らとの散歩の習慣づけをあたえる程度でも十分、どうしても運動したくないこへは「個人的自由」の範囲内でたのしんでsportsをおこなうのが最善とおもえる。そもそも、このsportというのはたわむれ、つまり古代ギリシアで自由人たちがあそびでおこなった競技が語源でもある。
茨城県
中学生男子1位
中学生女子1位
小学生男子2位
小学生女子2位
実施された種目
握力
上体起こし
長座体前屈
反復横とび
20mシャトルラン
50m走
立ち幅とび
ソフトボール投げ(小学生のみ)
ハンドボール投げ(中学生のみ)
��※ 中学生は持久走か20mシャトルランのどちらかを選択)
http://networksansaku.seesaa.net/article/353138580.html
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130323/ibr13032302230003-n1.htm
小中学生全国体力テスト 中2男女とも1位 小5も2位 茨城
2013.3.23 02:23
■各校取り組み成果
文部科学省が22日に公表した平成24年度の小中学生の「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」(全国体力テスト)で、茨城県は中2男女がともに1位、小5男女も2位と好成績となった。小学生、中学生ともに前回調査よりも順位を上げており、県教育委員会は「各校の体力向上に向けた取り組みが上位に入った要因の一つ」としている。
出身都道府県別、夏季オリンピック金メダル獲得者ランキング
http://matome.naver.jp/odai/2134340137697855501
■集計条件
団体・チームでの金メダル獲得は計上しない。
個人での金メダル獲得のみ集計しています。
全ランキング
��位:8人 北海道
��位:7人 茨城県
��位:5人 愛知県、福岡県
��位:4人 秋田県、東京都、熊本県
��位:3人 群馬県、静岡県、大阪府、和歌山県、広島県、山口県、奈良県(1)
��5位:2人 青森県(2)、千葉県、新潟県、三重県(1)、兵庫県、愛媛県、宮崎県、鹿児島県
��3位:1人 宮城県、山形県、栃木県、神奈川県、山梨県(1)、岐阜県、石川県(1)、岡山県、徳島県、高知県、長崎県(1)、佐賀県、大分県、朝鮮
これをもとにかんがえて、将来は茨城県を首都圏の五輪選手要請地区として指定していくのが賢明ではないかとおもう。東京五輪が誘致に成功するにせよしないにせよ、それと協調するにせよしないにせよ、茨城県で五輪をくりかえしおこなうことを前提に五輪競技のおもな競技場・練習場、特に体操の様、種目数がおおいものを優先的に県内へつくり、じもとのすでに体力が全国一のこどものうち才能と努力の能力があるひとをえらび運動選手へ精鋭教育すべきだ。
五輪選手のかずもあと1人が金メダルをとれれば、茨城が北海道以上となり、全国一の金メダル選手出身者数となったのだから、単なる知恵によって競合的にのびられる余地なのがたしかだ。
この茨城人が全国一の体力をもっている、という試験成績の結果・あかしは、今後も維持し、かつその長所をこれからものばしていくべきだ。体力がたかいということは健康性とも比例するはずなので、これからも決して欠点にはならないだろう。
追記
ただし、茨城県の教育委員会からのプログラムというものは、運動がにがてか、病弱なこにとっては全体主義的統制のわるい影響を感じられることにもなりかねない。いいかえればこの「教育組織」からの強制というのは可能なかぎりやめねばならないだろう。この分を、十分なのびはばのある生徒の長所をのばす分へあてても、総合結果はおなじだからだ。つまり、総合結果は
底上げの成績向上度=英才教育の成績向上度
なので、教員はばあいに応じて適宜どちらがより総合結果をのばすことになるのか、最良さを選択すべきだ。
大事なのは、個人個人の健康状態や個性の能力はばに応じて、それぞれの限度での運動習慣づけという教育性にとどめることか。運動がどうもにがてなこどもへは、単にやすみ時間や放課後での、先生らとの散歩の習慣づけをあたえる程度でも十分、どうしても運動したくないこへは「個人的自由」の範囲内でたのしんでsportsをおこなうのが最善とおもえる。そもそも、このsportというのはたわむれ、つまり古代ギリシアで自由人たちがあそびでおこなった競技が語源でもある。
2013年3月25日
新憲法論
まつりごとは、先祖をまつることだとすれば、この政治の語の意味のうち、特に政にあてられているおこないは、いわゆる祖先崇拝をうちにふくんでしまっている。しかし、互恵的利他性がこの血縁をおなじくする度合いに比例してしかうまれないとすれば、すくなくともおおくの生物でそうなわけだが、このおこないこそが「政治」の原型でもあるのだろう。
ところで、このまつりごと概念をもっともはなれているのは、実はキリスト・救世主であるジーザスの思想。ジーザスは単に祖先ばかりか血のつながった家族よりも万民・みなを優先させようとした。この結果、『旧約聖書』のアダムとイブが神から楽園をおいだされたという原罪のおはなしの解釈のうえでも、キリスト教では祖先崇拝を悪徳とみなしてきた。
いいかえれば、まつりごとはキリスト教とはちがっている。
ここで、信仰心や道徳心があつい者は一体どうすればよいのか。おおくの西洋諸国のうち、一番宗教心が政治権力と分離した思想としてprotestantism・抗議派思想は、その妥協水準を「政治は宗教ではない」とさだめた。政治は現世的権力で調整をつかさどるものであり、宗教は前世や来世つまり過去や未来もふくめてそうするものであり、この2つはわけておくのがたてまえになった。こうしてキリスト教の貴族である教皇はもともといたわけだが、ヨーロッパで王族と共存しながらもこのひとたちはわかれていった。そして抗議派は、さらにこの王族による支配も否定しようとした。もっと純粋にかみさまだけから統治されるために、アメリカへそのひとたちはイギリスから移住してきた。
このアメリカから間接統治された結果、日本は「まつりごとと、抗議派思想を同時にもつ」というとてもまれな憲法をもつことになった。この複雑性が、わたしたちのこころや、その生活をさいなんでいる。たてまえはもっともふるい系図をもつ天皇に政治的にへりくだらねばならないが、抗議派思想のため同時に自分たちが純粋にかみさまを信じる主権者でなければならない。この異常な状態、いたばさみ心理が、太平洋戦争後、68年間つづいてきた。現代日本はねじれているのだ。
実は、いま自民党が憲法をかえようとしているのは、おもにつぎの2つのわけによるとわたしはおもう。
1つめは、山口県からでてきた安倍氏が自衛隊は軍隊ではなく自警団であるという憲法のたてまえをなくして、それを公式に軍隊とみとめてしまおうとしていること。これは安倍氏が海外にいって外国人から、「おまえのくにの軍隊はどうしてる」とかいわれたとき、「いや軍隊なんてないたてまえで、いやでも本音でそれはあるけど、戦争はしなくて」とか、複雑な返答をせざるをえなくてすっきりせず、面倒だからだ。単に自警団というなまえにかえればいいだけだとはおもう一方で、安倍氏ふくめ首相になればその本人は自衛隊という名だろうと日本軍という名だろうと、あるいは国防警察という名だろうとその自警団を指揮できる。だからこれをアメリカなど外国からこいといわれてどこかに派遣して、現地での戦争の後方活動支援にはいるのにも、わたし個人はこれが不義理やよわいものいじめの一端であるとしっているため無論反対だが、すでに小泉政権でイラク戦争後方支援の実例があったよう「現憲法で支障はない」のが現実なわけだ。日本では侵略可能な軍隊あつかいしないが海外ではときにそれを軍事目的にふくむと定義されている一般的軍隊あつかいしてくれ、たとえば復興支援活動にいった現地でも戦地補償してくれというのは二重基準とおもうかもしれないが、実は安倍氏は「他国の戦争に加担すること」がきわめてつみぶかいとはさっぱり理解していない。これはこのひとが吉田松陰ら植民地侵略思想や倒幕思想をもった過去の山口のひととおなじで、暴力をふるっても別にいいものだと信じきっているため。山口のほとんどのひとにとって、暴力equal権力なのだろう。勝てば官軍とはそういう意味内容のことばだ。おそらく、この安倍氏の暴力への勘ちがいは、いずれはだれかなにかによって制裁され、安倍氏はこころから反省することになるだろう。わたしのしるかぎり、慶喜公の出身地である茨城のひとや、あるいは隠居地である静岡のひとはこころのどこかで、「負けるが勝ち」であるとこの真逆のかんがえかたをもっている。これは系統樹のちがいだ。本当に大事なのは他国の戦争を、最大限に暴力なしにやめさせることだ。慶喜公にはそれがわかっていた。それがどうしてもできないときでも、暴力以外の手段をすべてつかわねばならない。それでも無理なときは、いろんなくにの会議からつくられた政治機関である国連へ相談しなければいけない。これは国内でいえば家族会議や市町村役所、都道府県庁、日本国政府なわけだが、暴力をつかった途端それは悪事に加担したことになってしまうからだ。
2つめは、実は安倍氏もそうなのだが、特に麻生氏が皇室の近縁だからだ。このひとは皇室、つまり天皇の家族と血のつながった親戚だから、できるだけ親戚をよりよいたちばにしたい。この点でかれのかんがえかたは寡頭主義的マキャベリアン・もっと端的に財閥政商の典型といってもいいほどなのだが、とかく「まつりごと」は祖先崇拝だからどうしようもない。だから麻生氏は憲法を天皇主権とし、たみは天皇という主人から支配させるという最高法規にかえてしまおうとしている。勿論政治好きな麻生氏もあるいは皇族のなかで世襲寡頭政治がうまくいくとおもいこんでいるひとも、それなら自分たちが統治者の役につけるから大満足なわけだが、麻生氏はこうして民主主義を否定して憲法を単純化しようとしている。一応つけくわえておけば、この麻生氏は薩摩藩・鹿児島県の大久保利通というひとの子孫で、安倍氏は長州藩・山口県にすんでいたひとの子孫だ。この鹿児島と山口は明治のとき、イギリスやほかの外国あいてに戦争をしかけて降参し、イギリスから武器をもらって逆に日本へ戦争をしかけた。こうしてかれらはよわい武器しかもたない日本人を問答無用でおいはらい、したがわなければころし、明治以降、ほとんどの政治家をかれらだけでしめてしまった卑劣な覇道の歴史がともにある。
こういうことをかえりみて、わたしはこうおもう。天皇は宗教家あるいは古代から連綿とした神聖宗長の末裔として水戸において、まつりごと、つまり先祖をまつる儀式のなかで永遠に保護する。政治は皇室典範や天皇の条項をなくしてその儀礼的皇帝制度の本質をめにはみえない暗黙の不文律とし、いまある政治機構は国民による国民のための「現世」の権力調整機能に限定、祖先崇拝から形式的にきりはなす。そして他国の戦争に加担可能にしないために平和憲法・いわゆる憲法9条の「国際紛争を解決する手段としては武力を永遠に放棄する」をのこす。自衛隊は自衛軍なり自警軍なり、あるいは国防警察軍なり名称変更にとどめる。こういうことがいい。
水戸ではなくて京都にしたら、という意見があるかもしれない。けど自分がしるかぎり、京都のひとびとは天皇へ日本で一番好感をもっていない、共産党の投票率すら日本一たかい。しかも天皇家の本当のふるさとは奈良だから、かえらせたまうというのがもし国民世論なら、かれらはそこにかえるのがもっともすじがとおっている可能性すらある。さらには大阪や神戸も、東京とおなじく一時的に御所だったことがある。いいかえればいまの京都というのはかりのやどりだったし、ひとびとがおもいこむほど特に必然性があるわけでもない。双都構想というのもあるが、これは自分はやめた方がいいと感じている。二兎を追うものは一兎も得ないからだ。あらためていえば、二都を負う者は一都も負えない。明治のときすでにこれが前提で天皇は東京にきた、となっているが、この時点でまだ16歳だった明治天皇近辺、具体的には岩倉具視だろうけどそのときこうかんがえたはずなのだ。関東地方、特に大商圏の江戸をあのままにしておけばかならずまた関西地方が実力でくつがえされてしまうだろう、よってそこへ優先して天皇を移動させてしまえ、と。徹頭徹尾、明治天皇は利己的暴力性で地位にともなう税収を独占する目的で、やってきたのだ。もしそうして日本全域を独裁するつもりがなければ、慶喜公はあれほど徹底して朝廷へ忠だったわけだから、関東では徳川家の伝統的武家統治をまかせておけばよかったのだから。
自分がモデルにしようとしているのはイギリス王室で、かれらは大都ロンドンのすこし北にある田園バッキンガムシャーに宮殿をかまえているので、これが自然を愛するこのましい趣味の模範を、世界の国民にあたえてきているとわかっているからだ。そしてこの点は、実は水戸の徳川家もおなじだった。このため茨城県ではすばらしい自然と田園風景がのこされ、偕楽園という天下一となるだろう大公園もつくられのこされた。
ところで、このまつりごと概念をもっともはなれているのは、実はキリスト・救世主であるジーザスの思想。ジーザスは単に祖先ばかりか血のつながった家族よりも万民・みなを優先させようとした。この結果、『旧約聖書』のアダムとイブが神から楽園をおいだされたという原罪のおはなしの解釈のうえでも、キリスト教では祖先崇拝を悪徳とみなしてきた。
いいかえれば、まつりごとはキリスト教とはちがっている。
ここで、信仰心や道徳心があつい者は一体どうすればよいのか。おおくの西洋諸国のうち、一番宗教心が政治権力と分離した思想としてprotestantism・抗議派思想は、その妥協水準を「政治は宗教ではない」とさだめた。政治は現世的権力で調整をつかさどるものであり、宗教は前世や来世つまり過去や未来もふくめてそうするものであり、この2つはわけておくのがたてまえになった。こうしてキリスト教の貴族である教皇はもともといたわけだが、ヨーロッパで王族と共存しながらもこのひとたちはわかれていった。そして抗議派は、さらにこの王族による支配も否定しようとした。もっと純粋にかみさまだけから統治されるために、アメリカへそのひとたちはイギリスから移住してきた。
このアメリカから間接統治された結果、日本は「まつりごとと、抗議派思想を同時にもつ」というとてもまれな憲法をもつことになった。この複雑性が、わたしたちのこころや、その生活をさいなんでいる。たてまえはもっともふるい系図をもつ天皇に政治的にへりくだらねばならないが、抗議派思想のため同時に自分たちが純粋にかみさまを信じる主権者でなければならない。この異常な状態、いたばさみ心理が、太平洋戦争後、68年間つづいてきた。現代日本はねじれているのだ。
実は、いま自民党が憲法をかえようとしているのは、おもにつぎの2つのわけによるとわたしはおもう。
1つめは、山口県からでてきた安倍氏が自衛隊は軍隊ではなく自警団であるという憲法のたてまえをなくして、それを公式に軍隊とみとめてしまおうとしていること。これは安倍氏が海外にいって外国人から、「おまえのくにの軍隊はどうしてる」とかいわれたとき、「いや軍隊なんてないたてまえで、いやでも本音でそれはあるけど、戦争はしなくて」とか、複雑な返答をせざるをえなくてすっきりせず、面倒だからだ。単に自警団というなまえにかえればいいだけだとはおもう一方で、安倍氏ふくめ首相になればその本人は自衛隊という名だろうと日本軍という名だろうと、あるいは国防警察という名だろうとその自警団を指揮できる。だからこれをアメリカなど外国からこいといわれてどこかに派遣して、現地での戦争の後方活動支援にはいるのにも、わたし個人はこれが不義理やよわいものいじめの一端であるとしっているため無論反対だが、すでに小泉政権でイラク戦争後方支援の実例があったよう「現憲法で支障はない」のが現実なわけだ。日本では侵略可能な軍隊あつかいしないが海外ではときにそれを軍事目的にふくむと定義されている一般的軍隊あつかいしてくれ、たとえば復興支援活動にいった現地でも戦地補償してくれというのは二重基準とおもうかもしれないが、実は安倍氏は「他国の戦争に加担すること」がきわめてつみぶかいとはさっぱり理解していない。これはこのひとが吉田松陰ら植民地侵略思想や倒幕思想をもった過去の山口のひととおなじで、暴力をふるっても別にいいものだと信じきっているため。山口のほとんどのひとにとって、暴力equal権力なのだろう。勝てば官軍とはそういう意味内容のことばだ。おそらく、この安倍氏の暴力への勘ちがいは、いずれはだれかなにかによって制裁され、安倍氏はこころから反省することになるだろう。わたしのしるかぎり、慶喜公の出身地である茨城のひとや、あるいは隠居地である静岡のひとはこころのどこかで、「負けるが勝ち」であるとこの真逆のかんがえかたをもっている。これは系統樹のちがいだ。本当に大事なのは他国の戦争を、最大限に暴力なしにやめさせることだ。慶喜公にはそれがわかっていた。それがどうしてもできないときでも、暴力以外の手段をすべてつかわねばならない。それでも無理なときは、いろんなくにの会議からつくられた政治機関である国連へ相談しなければいけない。これは国内でいえば家族会議や市町村役所、都道府県庁、日本国政府なわけだが、暴力をつかった途端それは悪事に加担したことになってしまうからだ。
2つめは、実は安倍氏もそうなのだが、特に麻生氏が皇室の近縁だからだ。このひとは皇室、つまり天皇の家族と血のつながった親戚だから、できるだけ親戚をよりよいたちばにしたい。この点でかれのかんがえかたは寡頭主義的マキャベリアン・もっと端的に財閥政商の典型といってもいいほどなのだが、とかく「まつりごと」は祖先崇拝だからどうしようもない。だから麻生氏は憲法を天皇主権とし、たみは天皇という主人から支配させるという最高法規にかえてしまおうとしている。勿論政治好きな麻生氏もあるいは皇族のなかで世襲寡頭政治がうまくいくとおもいこんでいるひとも、それなら自分たちが統治者の役につけるから大満足なわけだが、麻生氏はこうして民主主義を否定して憲法を単純化しようとしている。一応つけくわえておけば、この麻生氏は薩摩藩・鹿児島県の大久保利通というひとの子孫で、安倍氏は長州藩・山口県にすんでいたひとの子孫だ。この鹿児島と山口は明治のとき、イギリスやほかの外国あいてに戦争をしかけて降参し、イギリスから武器をもらって逆に日本へ戦争をしかけた。こうしてかれらはよわい武器しかもたない日本人を問答無用でおいはらい、したがわなければころし、明治以降、ほとんどの政治家をかれらだけでしめてしまった卑劣な覇道の歴史がともにある。
こういうことをかえりみて、わたしはこうおもう。天皇は宗教家あるいは古代から連綿とした神聖宗長の末裔として水戸において、まつりごと、つまり先祖をまつる儀式のなかで永遠に保護する。政治は皇室典範や天皇の条項をなくしてその儀礼的皇帝制度の本質をめにはみえない暗黙の不文律とし、いまある政治機構は国民による国民のための「現世」の権力調整機能に限定、祖先崇拝から形式的にきりはなす。そして他国の戦争に加担可能にしないために平和憲法・いわゆる憲法9条の「国際紛争を解決する手段としては武力を永遠に放棄する」をのこす。自衛隊は自衛軍なり自警軍なり、あるいは国防警察軍なり名称変更にとどめる。こういうことがいい。
水戸ではなくて京都にしたら、という意見があるかもしれない。けど自分がしるかぎり、京都のひとびとは天皇へ日本で一番好感をもっていない、共産党の投票率すら日本一たかい。しかも天皇家の本当のふるさとは奈良だから、かえらせたまうというのがもし国民世論なら、かれらはそこにかえるのがもっともすじがとおっている可能性すらある。さらには大阪や神戸も、東京とおなじく一時的に御所だったことがある。いいかえればいまの京都というのはかりのやどりだったし、ひとびとがおもいこむほど特に必然性があるわけでもない。双都構想というのもあるが、これは自分はやめた方がいいと感じている。二兎を追うものは一兎も得ないからだ。あらためていえば、二都を負う者は一都も負えない。明治のときすでにこれが前提で天皇は東京にきた、となっているが、この時点でまだ16歳だった明治天皇近辺、具体的には岩倉具視だろうけどそのときこうかんがえたはずなのだ。関東地方、特に大商圏の江戸をあのままにしておけばかならずまた関西地方が実力でくつがえされてしまうだろう、よってそこへ優先して天皇を移動させてしまえ、と。徹頭徹尾、明治天皇は利己的暴力性で地位にともなう税収を独占する目的で、やってきたのだ。もしそうして日本全域を独裁するつもりがなければ、慶喜公はあれほど徹底して朝廷へ忠だったわけだから、関東では徳川家の伝統的武家統治をまかせておけばよかったのだから。
自分がモデルにしようとしているのはイギリス王室で、かれらは大都ロンドンのすこし北にある田園バッキンガムシャーに宮殿をかまえているので、これが自然を愛するこのましい趣味の模範を、世界の国民にあたえてきているとわかっているからだ。そしてこの点は、実は水戸の徳川家もおなじだった。このため茨城県ではすばらしい自然と田園風景がのこされ、偕楽園という天下一となるだろう大公園もつくられのこされた。
2013年3月24日
保護が義務の資料
日本国民、人類はできるだけはやく、以下の資料を重要な歴史資料として、国家単位で保護しなければいけない。
「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見
幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)
の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。
故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。
記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、
「変」に関する伝聞や風説などを集めた『骨董録』(こっとうろく)(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。
茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。
中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。
<殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>
��殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)
〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、
御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのうち駕籠の内か外か分からないが、
大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)
中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。
10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は
「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。
◇桜田門外の変=1860年3月3日朝、江戸城桜田門外で、大老で彦根藩主の井伊直弼を水戸浪士らが殺害した。
尊王攘夷(じょうい)派への弾圧「安政の大獄」を実行した井伊への反感などが背景にあったとされる。
警護した彦根藩士の一部は討ち死にし、生き残った者も切腹、斬首(ざんしゅ)などとなった。
以下ソース:2010年7月11日01時37分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm
http://web.archive.org/web/20100713071522/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm
2013年3月19日
これからの日本像
政治は「暴力性」をひとのあいだに調整する機能として要請された。
ここからみて、天皇という名字の強大な独占権力をもつひとと、それ以外のよわいたちばのひととの利害調整というのは当然はかられるべき政治の職能となる。
天皇が日本国民をいじめている。勿論、「天皇は日本国の象徴」かつ「国民が主権者」と明記された憲法も前提にある。このばあい、第三者である日本国民はそのいじめられているみずからをふくむ日本国民のだれかを、天皇と一緒になっていじめるべきだろうか。これに加担していじめるのはchauvinisticなファシズムだとおもうが、わたしはそうすべきではないとおもう。
天皇は皇帝兼教祖としていきてきた。これを「政教癒着(政治と教育の癒着)」や「政宗癒着(政治と宗教の癒着)」というのだが、天皇はすくなくとも政治家とみれば「いじめ」をなくすがわでなければならない。これはとても素朴なたとえにきこえるかもしれないが。
はっきりいう。西日本はいじめ文化であり、東日本は正義文化なのだ。総合的にみなすと、そういうほかない。そしていじめ文化の代表格が天皇政治であり、正義文化の代表格が幕府政治だった。天皇政治は公家、幕府政治は武家をもたらした。なぜなら公家は天皇という絶対権力者のまえでいかにしても出世可能性がかぎられていることからライバルへ害をあたえるのが自然有利となり、結果相互害他的すなわち競争的になるが、武家は相互利他的な協調性をとることで強者をたおしていけばその最高位である将軍につけたからだ。
この起源は、おそらく縄文=東日本文化と弥生=西日本文化というおおきな過去の系統樹のちがいに由来している。縄文人は古来から日本にすんできたひとびと、弥生人はその後に朝鮮半島から渡来した人とそれに混血した人をふくむ。このふたつの文化傾向はおおきくみると、自分のみるところたしかにちがいがある。つまり地政学的な差、地理と政治に由来した伝統的文化傾向の差なのだ。
生物学的に、同系集団は互恵的利他行動をとりやすい。それは血縁でもあり、個人を長期的に識別しやすくなる環境収容力戦略的なある程度とじられたばでもある。この両面からみて、日本が極東のはずれにあって、しかもしまぐにであることがおもくはたらいてきた。日本では侵入者がほとんどなかったから、ふるくすんできたひとびとへはこの利他性からの淘汰圧がかなりかかっていたはずだ。そしておそらく、うまれつきの知能のよしあしをしめすとおもわれる学力テストの「知識分の活用比率」というものは、この習性的な利他性へ積極的に比例している。
ひとつの明白な例は、秋田県と大阪府のいちじるしい非対称性だ。秋田県では学力テストの知識分の活用比率が抜群で犯罪率は圧倒的にひくい。大阪府では真逆で、学力テストの知識分の活用比率は圧倒的にひくく犯罪発生率は抜群である。この例だけで確証とするには不十分かもしれないが、これほどいちじるしい統計的偏差がみられることは特筆にあたいし、その原因はおそらく秋田が古来・縄文・閉鎖型の文化にあり、大阪が渡来・弥生・開放型の文化にあることとかんがえられる。
こうして犯罪発生率にも比例関係がみられるとおり、人口集中度(人口のうち、何%が人口集中地区に住んでいるかの割合)や人口密度のひくいふるきよき田園、都市化されていない地方にたすけあいの文化がそだちえるのがわかる。逆に、都心化された新規流入者だらけのばは、かならず利己的で害他的なおこないがはびこりがちになるはずであり、しかもそのばかぎりのおこないをしてもむれにまぎれて罰されにくいため利己的なひとびとがいきのびやすいかぎりそこで淘汰されたひとびとには傾向としてぢあたまのよくなさが特徴化されやすい。おそらく、『旧約聖書』におけるソドムの説話も、古代におけるこういった都心化の退廃をしめしていたのだろうと推測される。
こういった自然の理論的背景で、天皇のいえのまわりの人口集中度・人口密度がたかいということは、朱にまじわれば赤くなるため文化面からそこでそだつひとを利己的にしてしまう。つまりこの天皇家のまわりにあつまってすむという都市モデル自体が、西日本的な風土だったのだ。
今日わたしたちをさいなんでいるのは、まさにこの西日本的ないじめ文化の残滓であるといえる。そしてわれらにまたれることといえば、このあしき文化を排撃し、ふたたび武家やその古代のすがたである縄文人にみられた互恵的社交性をとりもどすことだ。また、ここからどうして薩長土肥というにしのはてにあった外様大名とその部下らが、京都にいた公家の一部とともにあれほど、当時の外来人であったイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ポルトガルのひとたちを利用して、母国の日本人やアジアのよわいたちばのひとびとをひどく「いじめた」のかも、こうしてはっきりとわかる。かれらの末裔とその文化傾向は日本そのものの古代人ではないため、利己的かつ害他的なおこないをすることがかれらおよその習性なのだ。そして、もし日本という単位あるいは地球やそれが属した銀河系というなかば閉鎖的な単位がこれからも半開放系としてにとどめられるだろうがときのなかで存続していくならば、そこにくらすひとびとは時代をへてこういったいじめやその文化になれたひとびとをやがては淘汰していくことに成功するだろう。無論、外来者の侵入というかぎられた期間のあいだは、よりもどしの期間や時代はある。日本の歴史にてらせば、おもな国風化時代とその他の外来文化摂取時代との大別ということになる。だがこの開放期間は、系のことわりから決してながくはない。生命をモデルにした半開放系はつねに存続するのだ。たとえば食事をつねにしなければいけない系は、そうしないかたより相対的に個体性をもっていないので移動の自由がかぎられ、単独増殖可能性がかぎられる。それはくにというものでもおなじである。
閉鎖的半開放系が、自然の理由によってよりながい期間をしめていく結果、このよはいまよりも互恵的な利他性、つまりよいおこないとそういう習性をもつひとにみちあふれていくだろう。
わたしのめには、天皇という西日本文化の末裔が将来どうなるか、いきのこるかほろびるかはわからない。しかし、過去をみなおすかぎり、このひとはたしかに利己的で害他的な業にいとまがなかった様だ。いまなお、これほどの負担をせおっている茨城県から労働力搾取をするために原発をふくむ環境負荷のある発電所やその廃棄物を、かれのすみかである最高の人口密度をもつ悪所東京都からおくりだし、われら主権者である国民から金銭と権力を独占濫用しつづけている。この利己的で害他的な象徴の日本国という構図も、それほどなくついえて、やがて天皇以前の真の日本の、単に害自的でないばかりかたがいに利他的なよりすぐれた政治が回復されるだろう。
天皇が国民をいじめている。このばあい、はっきりと天皇というわるものを批判するべきなのだ。たとえ何代分の家系図があろうとまったく関係ない。なぜならわるさはわるさだ。水戸学における義公のおしえ、それもわたし個人にとっては関係がない。『論語』にいう、「仁に当たりては、師にも譲らず」。そしてこの人種差別主義者である天皇をまつりあげる日本国憲法を、その皇室典範そのものをかえることが、日本国民を真にすくいたすける方法だ。これが正義の文化である。
現実的に、まずこの天皇というひとは国政からきりはなして、尊皇のつみかさねがある水戸にひとつの「宗教のいえ」としておき、政治権力者としてのたちば、つまり国家の財産から支出してやしなうことをやめねばならない。これはすでに徳川家がそうなった様に。そうしないかぎり、天皇家というのは政治・宗教・教育の三面にわたる三重権力者なので当然癒着をおこしてどれに対しても腐敗し、あしき世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師たらざるをえないだろう。現に、利己的で害他的な傾向をもつ外来者の都心となった東京がさらに経済の中心までしめてしまっているため、政治・宗教・教育・経済という四重権力者となって、福島原発事故にみられたとおりはなはだしく悪魔のすという構造をもっている様に。こういう悪徳東京に寄生した天皇に関してはやはり東京人なのだから、歴史原理として「絶対権力者は絶対に腐敗」し、世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師かつ悪徳商売人というすさまじくわるい存在とみなされざるをえなくなるはず。
ここからみて、天皇という名字の強大な独占権力をもつひとと、それ以外のよわいたちばのひととの利害調整というのは当然はかられるべき政治の職能となる。
天皇が日本国民をいじめている。勿論、「天皇は日本国の象徴」かつ「国民が主権者」と明記された憲法も前提にある。このばあい、第三者である日本国民はそのいじめられているみずからをふくむ日本国民のだれかを、天皇と一緒になっていじめるべきだろうか。これに加担していじめるのはchauvinisticなファシズムだとおもうが、わたしはそうすべきではないとおもう。
天皇は皇帝兼教祖としていきてきた。これを「政教癒着(政治と教育の癒着)」や「政宗癒着(政治と宗教の癒着)」というのだが、天皇はすくなくとも政治家とみれば「いじめ」をなくすがわでなければならない。これはとても素朴なたとえにきこえるかもしれないが。
はっきりいう。西日本はいじめ文化であり、東日本は正義文化なのだ。総合的にみなすと、そういうほかない。そしていじめ文化の代表格が天皇政治であり、正義文化の代表格が幕府政治だった。天皇政治は公家、幕府政治は武家をもたらした。なぜなら公家は天皇という絶対権力者のまえでいかにしても出世可能性がかぎられていることからライバルへ害をあたえるのが自然有利となり、結果相互害他的すなわち競争的になるが、武家は相互利他的な協調性をとることで強者をたおしていけばその最高位である将軍につけたからだ。
この起源は、おそらく縄文=東日本文化と弥生=西日本文化というおおきな過去の系統樹のちがいに由来している。縄文人は古来から日本にすんできたひとびと、弥生人はその後に朝鮮半島から渡来した人とそれに混血した人をふくむ。このふたつの文化傾向はおおきくみると、自分のみるところたしかにちがいがある。つまり地政学的な差、地理と政治に由来した伝統的文化傾向の差なのだ。
生物学的に、同系集団は互恵的利他行動をとりやすい。それは血縁でもあり、個人を長期的に識別しやすくなる環境収容力戦略的なある程度とじられたばでもある。この両面からみて、日本が極東のはずれにあって、しかもしまぐにであることがおもくはたらいてきた。日本では侵入者がほとんどなかったから、ふるくすんできたひとびとへはこの利他性からの淘汰圧がかなりかかっていたはずだ。そしておそらく、うまれつきの知能のよしあしをしめすとおもわれる学力テストの「知識分の活用比率」というものは、この習性的な利他性へ積極的に比例している。
ひとつの明白な例は、秋田県と大阪府のいちじるしい非対称性だ。秋田県では学力テストの知識分の活用比率が抜群で犯罪率は圧倒的にひくい。大阪府では真逆で、学力テストの知識分の活用比率は圧倒的にひくく犯罪発生率は抜群である。この例だけで確証とするには不十分かもしれないが、これほどいちじるしい統計的偏差がみられることは特筆にあたいし、その原因はおそらく秋田が古来・縄文・閉鎖型の文化にあり、大阪が渡来・弥生・開放型の文化にあることとかんがえられる。
こうして犯罪発生率にも比例関係がみられるとおり、人口集中度(人口のうち、何%が人口集中地区に住んでいるかの割合)や人口密度のひくいふるきよき田園、都市化されていない地方にたすけあいの文化がそだちえるのがわかる。逆に、都心化された新規流入者だらけのばは、かならず利己的で害他的なおこないがはびこりがちになるはずであり、しかもそのばかぎりのおこないをしてもむれにまぎれて罰されにくいため利己的なひとびとがいきのびやすいかぎりそこで淘汰されたひとびとには傾向としてぢあたまのよくなさが特徴化されやすい。おそらく、『旧約聖書』におけるソドムの説話も、古代におけるこういった都心化の退廃をしめしていたのだろうと推測される。
こういった自然の理論的背景で、天皇のいえのまわりの人口集中度・人口密度がたかいということは、朱にまじわれば赤くなるため文化面からそこでそだつひとを利己的にしてしまう。つまりこの天皇家のまわりにあつまってすむという都市モデル自体が、西日本的な風土だったのだ。
今日わたしたちをさいなんでいるのは、まさにこの西日本的ないじめ文化の残滓であるといえる。そしてわれらにまたれることといえば、このあしき文化を排撃し、ふたたび武家やその古代のすがたである縄文人にみられた互恵的社交性をとりもどすことだ。また、ここからどうして薩長土肥というにしのはてにあった外様大名とその部下らが、京都にいた公家の一部とともにあれほど、当時の外来人であったイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ポルトガルのひとたちを利用して、母国の日本人やアジアのよわいたちばのひとびとをひどく「いじめた」のかも、こうしてはっきりとわかる。かれらの末裔とその文化傾向は日本そのものの古代人ではないため、利己的かつ害他的なおこないをすることがかれらおよその習性なのだ。そして、もし日本という単位あるいは地球やそれが属した銀河系というなかば閉鎖的な単位がこれからも半開放系としてにとどめられるだろうがときのなかで存続していくならば、そこにくらすひとびとは時代をへてこういったいじめやその文化になれたひとびとをやがては淘汰していくことに成功するだろう。無論、外来者の侵入というかぎられた期間のあいだは、よりもどしの期間や時代はある。日本の歴史にてらせば、おもな国風化時代とその他の外来文化摂取時代との大別ということになる。だがこの開放期間は、系のことわりから決してながくはない。生命をモデルにした半開放系はつねに存続するのだ。たとえば食事をつねにしなければいけない系は、そうしないかたより相対的に個体性をもっていないので移動の自由がかぎられ、単独増殖可能性がかぎられる。それはくにというものでもおなじである。
閉鎖的半開放系が、自然の理由によってよりながい期間をしめていく結果、このよはいまよりも互恵的な利他性、つまりよいおこないとそういう習性をもつひとにみちあふれていくだろう。
わたしのめには、天皇という西日本文化の末裔が将来どうなるか、いきのこるかほろびるかはわからない。しかし、過去をみなおすかぎり、このひとはたしかに利己的で害他的な業にいとまがなかった様だ。いまなお、これほどの負担をせおっている茨城県から労働力搾取をするために原発をふくむ環境負荷のある発電所やその廃棄物を、かれのすみかである最高の人口密度をもつ悪所東京都からおくりだし、われら主権者である国民から金銭と権力を独占濫用しつづけている。この利己的で害他的な象徴の日本国という構図も、それほどなくついえて、やがて天皇以前の真の日本の、単に害自的でないばかりかたがいに利他的なよりすぐれた政治が回復されるだろう。
天皇が国民をいじめている。このばあい、はっきりと天皇というわるものを批判するべきなのだ。たとえ何代分の家系図があろうとまったく関係ない。なぜならわるさはわるさだ。水戸学における義公のおしえ、それもわたし個人にとっては関係がない。『論語』にいう、「仁に当たりては、師にも譲らず」。そしてこの人種差別主義者である天皇をまつりあげる日本国憲法を、その皇室典範そのものをかえることが、日本国民を真にすくいたすける方法だ。これが正義の文化である。
現実的に、まずこの天皇というひとは国政からきりはなして、尊皇のつみかさねがある水戸にひとつの「宗教のいえ」としておき、政治権力者としてのたちば、つまり国家の財産から支出してやしなうことをやめねばならない。これはすでに徳川家がそうなった様に。そうしないかぎり、天皇家というのは政治・宗教・教育の三面にわたる三重権力者なので当然癒着をおこしてどれに対しても腐敗し、あしき世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師たらざるをえないだろう。現に、利己的で害他的な傾向をもつ外来者の都心となった東京がさらに経済の中心までしめてしまっているため、政治・宗教・教育・経済という四重権力者となって、福島原発事故にみられたとおりはなはだしく悪魔のすという構造をもっている様に。こういう悪徳東京に寄生した天皇に関してはやはり東京人なのだから、歴史原理として「絶対権力者は絶対に腐敗」し、世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師かつ悪徳商売人というすさまじくわるい存在とみなされざるをえなくなるはず。
2013年3月16日
茨城県知事の善
自民党県連が茨城新聞上で県知事へむけて「多選の弊害」というが、それなら125代以上世襲皇帝の地位にのさばってきた天皇陛下こそまこと最大の弊害者となり最初に批判されてしかるべきな理屈になる。勿論、歴代徳川家など偉大な君主のすべてもそうなるわけだ。まず税金を第一に搾取している象徴がみをきらねば、その部下が君主的であるという面だけのために、みをきるおもいをするのは土台おかしなはなしだ。一体あれほど優秀な橋本県知事のどこに多選の弊害があるというつもりなのか、はっきりその弊害部分なるものを自民党県連はいわなければいけない。いわゆる総合ブランド研究所による風説流布の犯罪活動によって恣意的ネット調査で300万人の日本国民が不当にひびおとしめられていることへの対策、以外になにかもっぱら改善すべき点があるとすればだが。ないとすれば自民党は冤罪しているのだ。
震災時にもそれ以前にも、まこと尊敬すべき偉大な功績がかずある現知事への、公徳心や判断において腐敗した自民党からの単なる名誉毀損におもえてならない。茨城県にくらす300万人のひとびとは、まさに急場に真の勇気を発揮し、不道徳な政策へ直接抗議した橋本茨城県知事のおかげで深刻な被災地での計画停電という悲劇からまぬがれ、いのちをすくわれた。そして茨城空港というあらゆる面で有用な自衛隊基地の兼用化という方策も、この賢慮にまさる知事の一貫した英断の歴史によって、東京の悪質なマスコミからのすさまじく不当で陰湿な悪徳商人根性の誹謗中傷にもかかわらず維持されていたおかげで、そこが首都圏で震災当日も唯一いきつづけた貴重な海外からのアクセスポイントとして日本国民ならびに世界人類のいのちをたしかにすくったのだ。正直なところ、これは英雄にのみなせるレベルというほかない。
はっきりいう。あの悲惨な大災害状況の当時、政権与党だった民主党との挙国一致体制を単に政局目的で拒否した悪性きわまる自民党ごときが真の英雄である茨城県知事に侮辱をする。これは、「最悪」というのだ。これほどのあからさまな悪業に、日本国の人民としてすこしもいきどおりがわかない方がおかしい。
Critic、つまり「わかる」ことが批判や批評ということばの原義であり、単にあしざまにいう意味ではない。業績を理解し、そのなかで改善点やのぞましくない点を指摘し、諫言ということだが、そうして公共に処するのが政治家としてのつとめではないか。なぜ具体的内容がともなわない単なる非難や攻撃が、県民ならびに国民の公徳へ資するというのだろう。そのわけもない誹謗、そしり、わるくちはまったく逆の効果、いわば「有徳な君主を悪意をもった小人がひきずりおろす」という革命とは正反対の堕落、最悪の衆愚行為、いわゆる孔子がにくんだ「下にいて上をそしる」不徳なる暴政をもたらすにすぎない。
どんなばあいでも、君主であれ民主であれ、世襲であれ一代であれ政治の中心にあるものは、徳の程度なのである。
それとも一党独裁化した自民党からのいいなりにならないひとは、だれであれ政治活動ができない、とでもだれかいうつもりなのだろうか。おごれるものはひさしからず。
特に、生物学的必然として常陸国人ではない出身ゆえに茨城県民のためにいのちをすててはたらくとはかぎらない現副知事をなぜか擁立して、国会議員にすぎないかぎり地方自治とは無関係な自民党県連が有利に県政へ圧力をかけ、県民の意を牛耳ろうというのなら、それは単に行政的に不正な弾圧、さらにいえば地方選出国会議員や県政への国政からのlobbyistによる不正な談合というほかないはずだ。おそらく邪推でなければだが、自民党県連が現副知事をいきなり擁立しだしたのは、このひとが現職官僚からの出向者だった関係で、族議員とのあいだでの、国政とのこのひとなりの癒着関係がなせるわざとおおよそ予想できるとしても。
県民により直接公選されたのだ、現知事は。どうかんがえても、単なる国会議員にすぎない自民党県連がえらんだということではない。つまり、自民党県連は国政から県政への内政干渉をおこなおうとしている。これはまさに民主主義からみれば不義である。実に単なる弊害なのはばらまき公共政策からの票田による癒着関係を大量にもっている自民党県連の方ではないだろうか。
このどうみてもあからさまに不正な政治的事実、つまり自民党が国家政府の政権与党のたちばから地方政府へ圧力をかける一党独裁制をしめしている。この事実がまちがいではないかぎり、ちかい将来ふたたび悪徳自民党の座がくつがえり、民主党に政権がもどることも十分予想できるといえよう。実際、現首相は地方の自民党議員がえらんだ人物ではない。その自民党内の議員票間の自己目的化されたくだらない派閥抗争の方がよほど多選にわたってきているのだから、国民ならびに県民にとってもおおきな公害があるといえる。いいかえれば、自民党自身が国民から信任をたくされたみでありながら民意にそむく悪業への反省の度をふかめ、地方にすんでいる国民の真の意見へ真摯に真剣にみみをかたむけることこそ、真の地方選出国会議員の「全体の奉仕者」たる役目なのである。この国家政務の王道をわすれ、覇権をとったにすぎない自民党閥を濫用し国政につながりのふかい族議員官僚族にこびをうるとは、なんといっても茨城県民としての公徳にあたいしないと、わたしにはみえる。
茨城県がただの地方自治体だろうか。延喜式に最上区分の大国だった。親王任国であるから現常陸宮家が御皇室により創設された。坂東のかなめとして徳川幕府からその重要な背後をかためる地位である定府制御三家に指名された。ところで、めだとうとしないから魅力がないかの様にみえるただの田園地方でありいなかだから、茨城県民などというものはたかだか一代官僚や世襲皇帝の親族へのなりあがりとやらが、それどころか成金が、はじめからうえから目線で悪徳支配してやるのはちょろいものなのだろうか。いいえ。そうではない。この地方を本当にしっているひとはそうはかんがえられないだろう。ここは長年、いや日本でもっともふるく『古事記』『日本書紀』という他者からの記録のみならず『常陸国風土記』という古老の代に記録された、卑怯な一方的侵略者へのきわめてはげしい対抗戦をしいた当時から、『大日本史』や水戸学における尊攘論にみられる非常につよいpatriotismの啓蒙に至るまで日本人にとって郷土、ふるさとに対する報国心とそれにともなう偉大な公徳というものをうみだしてきた伝統がある地域なのだ。否定しようもない水戸っぽなるものの性格を、ここでうまれそだち、本当にみをもってしっているひとは、この地方におけるひとびとがおどろくほどつよい武士道精神から延長された極端なまでの道義心をあちこちにひめているのをしっているだろう。
茨城という故事にみられる侵略犯へのはげしいresistance。佐竹公が上杉方への不義理を自重したこと。四十七士。桜田門義士、坂下門義士、天狗党義士。大政奉還。これらの共通項はなんだろうか。茨城県うまれのひとびとがもっていたはっきりした正義感の証拠だ。
要するに、自民党県連は「国政」と「地方政」を混同している。この2つはことなる選出システムでおこなわれているのだから、そのふたつが最適化しないことはむしろ、地方自治の独自性や個性をよい意味での民主的な多様性としてのこす、本来の地方自治の理念にとってまこと維持すべき点なのである。このすきま、自由の介在しえる双方の権限と役割分担があるからこそ、国政の濫用も、地方政の濫用も相互監視によってふせがれる。小と大のあいだでの公益へむけての権力均衡の状態にこそ日本あるいは世界にとって最大の公共性が期待できる。このしくみの事情は、世界からみれば地方にすぎない「日本国」と、世界の国政といえる「国際連合」とのあいだでもひとしい。
結局のところ、現茨城県知事の偉大な功績、長年この地球における世界と日本国家および首都圏に対する勤倹実直で慈善と勇気にみちた労務の功徳をたたえられないばかりか、だれのめにもあきらかなはっきりした有能さと善を否定し、冤罪にかけ、むれつどった劣等さや悪に加担する妨害をおこなうとするならば、それは現自民党閥の心底からのたちのわるさあるいは悪意でないとすれば単なる理解力不足以外なにひとつしめしていないとおもえる。まず、地方と中央をとわない国民のためにも、国政のためにも、そして世界のためにもあまりに長期政権をしいてきすぎた自民党の内部自浄作用がはじめられねばならないだろう。こういった意見をさきんじて発表しているほど徳がたかく、地方票をもっともあつめた石破氏がなぜあれほどおとなしくさせられているのか。あきらかにこれは中央政界をおかしくている明治簒奪以来の、薩長藩閥なるものの弊害なのだ。皇族の近縁? どこかの財閥? 戦後の首相? 小御所会議での慶喜公への岩倉や薩摩藩はじめ西日本諸地方主からのぬれぎぬとそこからきた西日本の人による覇道政権独占という悲惨な歴史? 関係がない。このうみをとりのぞかねば、自民党そして日本の国政に未来はないだろう。重要なのはちすじでも財産でも出身でも経歴でもない。徳、しかもできるだけおおきな公徳なのだ。
なお福沢諭吉は『文明論之概略』で私智、公智、私徳、公徳の4つに理知を分類しそのなかで公智を称揚しているが、わたしはこのかんがえかたはすくなくとも政治論に関しては偽であるとおもう。
私智:知識、ものしり:knowledge
公智:判断、理解、ものわかり:understanding
私徳:倫理、習慣、独慎、なれ:moral
公徳:道徳、大義、浩然の気、のり、みち:virtue
おおよそこういう風に分解すると、結局政治とは徳側の分野なのだ。智つまりintelligenceがもとめられるのはおもに、理論的傾向のある学術分野の方だ。アリストテレスの定義にかさねれば、徳つまりethicsとしての能力こそ思慮という実践的なよさにかかわる。さらにいえば、西洋ではソクラテスにより東洋では王陽明により智徳の一体性がとなえられてきたが、そこに福沢の有名な命題「物ありてのちに倫あり」をかさねると、このあらたな知識から道徳への応用というのは学問が一系性としてもっている既存の性質だということ。もっと端的にいえばphysicsからmetaphysicsへ、自然学から社会学へという学問的認識の発展方向をしめしている。そして自然学の始原にあるのがその記号言語をきめる数学とすれば、社会学の最終形として哲学がそのばにあってあらためてわれらがどうすべきかという「のり」をきめる。こののりという発音の制度的側面を法つまりlawといい、規律的側面を則つまりruleという。この混沌からひきはなされ秩序化された一体感にあるのは、結局そのひとたちが学問の、といまなぶ共同体としてすでにある知見からみずからの社会的行動をつくりあげていく経過である。そして老子は究極のところ、これを道となづけたのだろう。
震災時にもそれ以前にも、まこと尊敬すべき偉大な功績がかずある現知事への、公徳心や判断において腐敗した自民党からの単なる名誉毀損におもえてならない。茨城県にくらす300万人のひとびとは、まさに急場に真の勇気を発揮し、不道徳な政策へ直接抗議した橋本茨城県知事のおかげで深刻な被災地での計画停電という悲劇からまぬがれ、いのちをすくわれた。そして茨城空港というあらゆる面で有用な自衛隊基地の兼用化という方策も、この賢慮にまさる知事の一貫した英断の歴史によって、東京の悪質なマスコミからのすさまじく不当で陰湿な悪徳商人根性の誹謗中傷にもかかわらず維持されていたおかげで、そこが首都圏で震災当日も唯一いきつづけた貴重な海外からのアクセスポイントとして日本国民ならびに世界人類のいのちをたしかにすくったのだ。正直なところ、これは英雄にのみなせるレベルというほかない。
はっきりいう。あの悲惨な大災害状況の当時、政権与党だった民主党との挙国一致体制を単に政局目的で拒否した悪性きわまる自民党ごときが真の英雄である茨城県知事に侮辱をする。これは、「最悪」というのだ。これほどのあからさまな悪業に、日本国の人民としてすこしもいきどおりがわかない方がおかしい。
Critic、つまり「わかる」ことが批判や批評ということばの原義であり、単にあしざまにいう意味ではない。業績を理解し、そのなかで改善点やのぞましくない点を指摘し、諫言ということだが、そうして公共に処するのが政治家としてのつとめではないか。なぜ具体的内容がともなわない単なる非難や攻撃が、県民ならびに国民の公徳へ資するというのだろう。そのわけもない誹謗、そしり、わるくちはまったく逆の効果、いわば「有徳な君主を悪意をもった小人がひきずりおろす」という革命とは正反対の堕落、最悪の衆愚行為、いわゆる孔子がにくんだ「下にいて上をそしる」不徳なる暴政をもたらすにすぎない。
どんなばあいでも、君主であれ民主であれ、世襲であれ一代であれ政治の中心にあるものは、徳の程度なのである。
それとも一党独裁化した自民党からのいいなりにならないひとは、だれであれ政治活動ができない、とでもだれかいうつもりなのだろうか。おごれるものはひさしからず。
特に、生物学的必然として常陸国人ではない出身ゆえに茨城県民のためにいのちをすててはたらくとはかぎらない現副知事をなぜか擁立して、国会議員にすぎないかぎり地方自治とは無関係な自民党県連が有利に県政へ圧力をかけ、県民の意を牛耳ろうというのなら、それは単に行政的に不正な弾圧、さらにいえば地方選出国会議員や県政への国政からのlobbyistによる不正な談合というほかないはずだ。おそらく邪推でなければだが、自民党県連が現副知事をいきなり擁立しだしたのは、このひとが現職官僚からの出向者だった関係で、族議員とのあいだでの、国政とのこのひとなりの癒着関係がなせるわざとおおよそ予想できるとしても。
県民により直接公選されたのだ、現知事は。どうかんがえても、単なる国会議員にすぎない自民党県連がえらんだということではない。つまり、自民党県連は国政から県政への内政干渉をおこなおうとしている。これはまさに民主主義からみれば不義である。実に単なる弊害なのはばらまき公共政策からの票田による癒着関係を大量にもっている自民党県連の方ではないだろうか。
このどうみてもあからさまに不正な政治的事実、つまり自民党が国家政府の政権与党のたちばから地方政府へ圧力をかける一党独裁制をしめしている。この事実がまちがいではないかぎり、ちかい将来ふたたび悪徳自民党の座がくつがえり、民主党に政権がもどることも十分予想できるといえよう。実際、現首相は地方の自民党議員がえらんだ人物ではない。その自民党内の議員票間の自己目的化されたくだらない派閥抗争の方がよほど多選にわたってきているのだから、国民ならびに県民にとってもおおきな公害があるといえる。いいかえれば、自民党自身が国民から信任をたくされたみでありながら民意にそむく悪業への反省の度をふかめ、地方にすんでいる国民の真の意見へ真摯に真剣にみみをかたむけることこそ、真の地方選出国会議員の「全体の奉仕者」たる役目なのである。この国家政務の王道をわすれ、覇権をとったにすぎない自民党閥を濫用し国政につながりのふかい族議員官僚族にこびをうるとは、なんといっても茨城県民としての公徳にあたいしないと、わたしにはみえる。
茨城県がただの地方自治体だろうか。延喜式に最上区分の大国だった。親王任国であるから現常陸宮家が御皇室により創設された。坂東のかなめとして徳川幕府からその重要な背後をかためる地位である定府制御三家に指名された。ところで、めだとうとしないから魅力がないかの様にみえるただの田園地方でありいなかだから、茨城県民などというものはたかだか一代官僚や世襲皇帝の親族へのなりあがりとやらが、それどころか成金が、はじめからうえから目線で悪徳支配してやるのはちょろいものなのだろうか。いいえ。そうではない。この地方を本当にしっているひとはそうはかんがえられないだろう。ここは長年、いや日本でもっともふるく『古事記』『日本書紀』という他者からの記録のみならず『常陸国風土記』という古老の代に記録された、卑怯な一方的侵略者へのきわめてはげしい対抗戦をしいた当時から、『大日本史』や水戸学における尊攘論にみられる非常につよいpatriotismの啓蒙に至るまで日本人にとって郷土、ふるさとに対する報国心とそれにともなう偉大な公徳というものをうみだしてきた伝統がある地域なのだ。否定しようもない水戸っぽなるものの性格を、ここでうまれそだち、本当にみをもってしっているひとは、この地方におけるひとびとがおどろくほどつよい武士道精神から延長された極端なまでの道義心をあちこちにひめているのをしっているだろう。
茨城という故事にみられる侵略犯へのはげしいresistance。佐竹公が上杉方への不義理を自重したこと。四十七士。桜田門義士、坂下門義士、天狗党義士。大政奉還。これらの共通項はなんだろうか。茨城県うまれのひとびとがもっていたはっきりした正義感の証拠だ。
要するに、自民党県連は「国政」と「地方政」を混同している。この2つはことなる選出システムでおこなわれているのだから、そのふたつが最適化しないことはむしろ、地方自治の独自性や個性をよい意味での民主的な多様性としてのこす、本来の地方自治の理念にとってまこと維持すべき点なのである。このすきま、自由の介在しえる双方の権限と役割分担があるからこそ、国政の濫用も、地方政の濫用も相互監視によってふせがれる。小と大のあいだでの公益へむけての権力均衡の状態にこそ日本あるいは世界にとって最大の公共性が期待できる。このしくみの事情は、世界からみれば地方にすぎない「日本国」と、世界の国政といえる「国際連合」とのあいだでもひとしい。
結局のところ、現茨城県知事の偉大な功績、長年この地球における世界と日本国家および首都圏に対する勤倹実直で慈善と勇気にみちた労務の功徳をたたえられないばかりか、だれのめにもあきらかなはっきりした有能さと善を否定し、冤罪にかけ、むれつどった劣等さや悪に加担する妨害をおこなうとするならば、それは現自民党閥の心底からのたちのわるさあるいは悪意でないとすれば単なる理解力不足以外なにひとつしめしていないとおもえる。まず、地方と中央をとわない国民のためにも、国政のためにも、そして世界のためにもあまりに長期政権をしいてきすぎた自民党の内部自浄作用がはじめられねばならないだろう。こういった意見をさきんじて発表しているほど徳がたかく、地方票をもっともあつめた石破氏がなぜあれほどおとなしくさせられているのか。あきらかにこれは中央政界をおかしくている明治簒奪以来の、薩長藩閥なるものの弊害なのだ。皇族の近縁? どこかの財閥? 戦後の首相? 小御所会議での慶喜公への岩倉や薩摩藩はじめ西日本諸地方主からのぬれぎぬとそこからきた西日本の人による覇道政権独占という悲惨な歴史? 関係がない。このうみをとりのぞかねば、自民党そして日本の国政に未来はないだろう。重要なのはちすじでも財産でも出身でも経歴でもない。徳、しかもできるだけおおきな公徳なのだ。
なお福沢諭吉は『文明論之概略』で私智、公智、私徳、公徳の4つに理知を分類しそのなかで公智を称揚しているが、わたしはこのかんがえかたはすくなくとも政治論に関しては偽であるとおもう。
私智:知識、ものしり:knowledge
公智:判断、理解、ものわかり:understanding
私徳:倫理、習慣、独慎、なれ:moral
公徳:道徳、大義、浩然の気、のり、みち:virtue
おおよそこういう風に分解すると、結局政治とは徳側の分野なのだ。智つまりintelligenceがもとめられるのはおもに、理論的傾向のある学術分野の方だ。アリストテレスの定義にかさねれば、徳つまりethicsとしての能力こそ思慮という実践的なよさにかかわる。さらにいえば、西洋ではソクラテスにより東洋では王陽明により智徳の一体性がとなえられてきたが、そこに福沢の有名な命題「物ありてのちに倫あり」をかさねると、このあらたな知識から道徳への応用というのは学問が一系性としてもっている既存の性質だということ。もっと端的にいえばphysicsからmetaphysicsへ、自然学から社会学へという学問的認識の発展方向をしめしている。そして自然学の始原にあるのがその記号言語をきめる数学とすれば、社会学の最終形として哲学がそのばにあってあらためてわれらがどうすべきかという「のり」をきめる。こののりという発音の制度的側面を法つまりlawといい、規律的側面を則つまりruleという。この混沌からひきはなされ秩序化された一体感にあるのは、結局そのひとたちが学問の、といまなぶ共同体としてすでにある知見からみずからの社会的行動をつくりあげていく経過である。そして老子は究極のところ、これを道となづけたのだろう。
2013年3月14日
県内政府による文化助成のありたい方針
ご当地ヒーローとしてのイバライガーを武家が配置され雄性形質がとうとばれた伝統のながい茨城県では、いわゆるゆるキャラなるものよりも宣伝材料へマスコットとしてつねづね起用すべきだ。勧善懲悪の象徴として水戸黄門同様、政治社会が採用するにふさわしいものでもある。実際すでに茨城県警は契約しキャラクターにつかっているが、もっと県政のあちこちで宣伝役の前面におしだしてどれほど強調してもいいだろう。
最小のとき夜警国家としての防衛組織、最大のとき福祉国家としての公共組織が政府の役割だから、客寄せパンダの様なゆるキャラにみられる商業主義という宣伝役のつかいみちはいずれにしても、百歩ゆずろうと決して政治的職分ではないことに注意しなければいけない。単に集客用宣伝というものは利害をともなうため厳格な競合がおこなわれる民間の商業者がおこなってはじめて、最良の結果をともなう。この面でもこどもじみた行政版ゆるキャラなるものの流行は、政府の役割からすれば効率性や実用性、徳の面でも反面教師たるにすぎない。
北茨城市でもひとの決してすぐれてはいない面をまねて同様のゆるキャラを公募していた様だが、そんな精神年齢のひくい幼稚なことに税金をついやす現市政はおろかというほかない。一体、政策のneoteny化が日本というガラパゴス社会の大方針とでもいうつもりなのだろうか。このくにの行政人は、競合性のひくさのために退行が極度にあらわれた生態現象としての幼形成熟、neotenyという現象が僻地における奇形化の前兆なことをしらないのだろう。各地で絶滅してきた保護されるべきよわさのサイクルにはいって奇形化された少数派生物と同様、それは成熟的形質に関する強壮化にくらべ、包括適応度の減退としてかなり危険な兆候なのだ。こういう生態学的理解からも、わたしはイバライガーふくむご当地ヒーローという形式を宣伝役へ、ゆるキャラなるものよりもおしたい。いいかえれば英雄的形質の強調は、擬人化されたネオテニータイプの強調よりも適応度的にずっとすぐれている。勿論助さん格さんといった人物像もそうだが、スーパーマンやスパイダーマンの様な成熟類型があることをかえりみてほしい。
こういういいかたが偏見でなければもし幼形への愛護を性差の誇示という面でこのむおもに女性や、みずからのすがたかたちににたものをこのむこども向けだとしても、すでにシェアのひろいミッキーとかピカチュウとか世界的なひろがりをもつ擬人化されたanima characterに類したものが市場で失敗しても倒産するおそれのほとんどない行政という組織から実現できるのか。奇跡でもなければ事実上不可能にほぼひとしいだろう。一部の美人投票的偶然でとりたてられたごくまれなキャラクターにくらべ、投資あたり無駄づかいになった公共の税は一体どれほどだったろう。これは結果面からいっても行政組織による賭博にすぎない。そして未来からみなおせば、かりに成功したとしてもそういう退行的な行政のふるまいは単にけせないおさなさの記録として、成熟した人類からあざわらわれ、恥をかきたてられるだけにすぎなくなる。すでに公募してしまったからにはできるだけよいもの、すなわち愛想よくかわいげのあるものをマスコットにするのしかないのかもしれないが、あるいは内容にもよるかもしれないが将来的にはずかしいので消極的に予算を配分せず適当にみのがして、できたらはやめに自然消滅というかたちでやめてほしいと個人的におもっている。県央から県南でいくらか行政がおこなっているらしいご当地アイドルなる、全体の利益とはあまり関係のない商業者用集客か県内外へこびをうるだけのための女歌劇団まがいのものもおそらく政治が助成する対象として同様にくだらないといえよう。その分の税を災害対策か競合性がひくくめぐまれないたちばのひとびとへの公的福祉あるいはなにもつかいみちがなければ市警や自警団の強化にでもつかうべきなのだ。宣伝役というものは才能やしごと柄が基本的にちがっている利益優先の民間業者にすべてまかせておくか、あるいは贅沢にすぎないのだが万一いくらかなり投資するとしてもみつもりをふくむ公的に透明な競技方式などで厳格に選別のうえ、あきらかに優秀な専門の民間業者へまるなげしてしまえばいい。
また、おそらくこの原則は「コンテンツ産業」とか「文化関連予算」にもほぼあてはまる。全体主義的な文化助成はかえって、その全体最適化の集約的投資によって既存の学術性へなんらかの覇権をもたらし、bottleneck的淘汰によってある文化環境内のありえる多様性を低減させてしまうかもしれない(覇道効果)。イギリスや韓国がすでにそういった投資をしてきて部分的に効果がみられるが、投資額によって文化の傾向が極度に一様化、産業内容が任意にかたよってしまっているとおもえる。たとえば政府がハイアートに投資した結果サブカルチャーでイギリスのシェアはよわまった様だし、政府が先端産業とコンテンツ分野に集中投資した結果韓国はハイテクと歌劇へと市場が一様化しがちになっている。これは総合的に文化の普遍適応力がさがったということだ。よってできたら最小にとどめた方がいいが、もし政府が公的におおはばな助成をすべき範囲といえば、いわゆるそのままではほろびてしまうだろう伝統芸能や伝統工芸、歴史遺産、人間国宝といった市場での競合力のうしなわれたかうしなわれやすい希少だねにかぎるのだろう。貴重性の保護が、市場内でのもちこされた過去との融合によって将来的に貴種を再生させえるという点での未来の多彩さと、先哲から維持された品位をそこあげる。この点からも六角堂や弘道館という市場があまり競合力を付与していないが歴史的な意義のきわめてたかい建築物への行政が積極的にかかわった修繕はただしかったといえる。
くりかえすが、いきた人間ではない擬人マスコットに税をつかって、社会的弱者であるなまみの人間は不遇をかこつ。これは行政権の濫用であり、政治の堕落だ。偶像崇拝の末路のひとつの奇形的な社会のすがたというほかない。偶像崇拝の念の有無は、美術や芸術あるいは学問という偶物へ政治がどの程度肉薄するかにもかかわる重要な信念上の判断基準だ。三種の神器を心配し、原爆投下時に日本国民のうしなわれゆくいのちへの同情よりも、まずそのことをてがみにかいた昭和天皇をふくむ天皇という行政権力者兼宗教長の偶像性はいまさらいうまでもないが、普段のなにげない理解の習慣がおおきくみなすといかに国家のありさまをちがえてしまうか、ここにはっきりしめされているといえる。かつてキリスト教、儒教、イスラム教で偶像が禁じられていた理由はこういう巨視的な結果に厳密にでているとおもえる。たとえば孔子は殉死をあおる埋葬用の偶像の風習のみならず、うまやがやけたときはじめに人間を心配した様、動物を単に擬人化してあつかうこともきらうはずだ。それはキリスト教での、神の似姿としての人類への高等生物視とおなじhumanismという古代からの智恵をてらしだしている。
最小のとき夜警国家としての防衛組織、最大のとき福祉国家としての公共組織が政府の役割だから、客寄せパンダの様なゆるキャラにみられる商業主義という宣伝役のつかいみちはいずれにしても、百歩ゆずろうと決して政治的職分ではないことに注意しなければいけない。単に集客用宣伝というものは利害をともなうため厳格な競合がおこなわれる民間の商業者がおこなってはじめて、最良の結果をともなう。この面でもこどもじみた行政版ゆるキャラなるものの流行は、政府の役割からすれば効率性や実用性、徳の面でも反面教師たるにすぎない。
北茨城市でもひとの決してすぐれてはいない面をまねて同様のゆるキャラを公募していた様だが、そんな精神年齢のひくい幼稚なことに税金をついやす現市政はおろかというほかない。一体、政策のneoteny化が日本というガラパゴス社会の大方針とでもいうつもりなのだろうか。このくにの行政人は、競合性のひくさのために退行が極度にあらわれた生態現象としての幼形成熟、neotenyという現象が僻地における奇形化の前兆なことをしらないのだろう。各地で絶滅してきた保護されるべきよわさのサイクルにはいって奇形化された少数派生物と同様、それは成熟的形質に関する強壮化にくらべ、包括適応度の減退としてかなり危険な兆候なのだ。こういう生態学的理解からも、わたしはイバライガーふくむご当地ヒーローという形式を宣伝役へ、ゆるキャラなるものよりもおしたい。いいかえれば英雄的形質の強調は、擬人化されたネオテニータイプの強調よりも適応度的にずっとすぐれている。勿論助さん格さんといった人物像もそうだが、スーパーマンやスパイダーマンの様な成熟類型があることをかえりみてほしい。
こういういいかたが偏見でなければもし幼形への愛護を性差の誇示という面でこのむおもに女性や、みずからのすがたかたちににたものをこのむこども向けだとしても、すでにシェアのひろいミッキーとかピカチュウとか世界的なひろがりをもつ擬人化されたanima characterに類したものが市場で失敗しても倒産するおそれのほとんどない行政という組織から実現できるのか。奇跡でもなければ事実上不可能にほぼひとしいだろう。一部の美人投票的偶然でとりたてられたごくまれなキャラクターにくらべ、投資あたり無駄づかいになった公共の税は一体どれほどだったろう。これは結果面からいっても行政組織による賭博にすぎない。そして未来からみなおせば、かりに成功したとしてもそういう退行的な行政のふるまいは単にけせないおさなさの記録として、成熟した人類からあざわらわれ、恥をかきたてられるだけにすぎなくなる。すでに公募してしまったからにはできるだけよいもの、すなわち愛想よくかわいげのあるものをマスコットにするのしかないのかもしれないが、あるいは内容にもよるかもしれないが将来的にはずかしいので消極的に予算を配分せず適当にみのがして、できたらはやめに自然消滅というかたちでやめてほしいと個人的におもっている。県央から県南でいくらか行政がおこなっているらしいご当地アイドルなる、全体の利益とはあまり関係のない商業者用集客か県内外へこびをうるだけのための女歌劇団まがいのものもおそらく政治が助成する対象として同様にくだらないといえよう。その分の税を災害対策か競合性がひくくめぐまれないたちばのひとびとへの公的福祉あるいはなにもつかいみちがなければ市警や自警団の強化にでもつかうべきなのだ。宣伝役というものは才能やしごと柄が基本的にちがっている利益優先の民間業者にすべてまかせておくか、あるいは贅沢にすぎないのだが万一いくらかなり投資するとしてもみつもりをふくむ公的に透明な競技方式などで厳格に選別のうえ、あきらかに優秀な専門の民間業者へまるなげしてしまえばいい。
また、おそらくこの原則は「コンテンツ産業」とか「文化関連予算」にもほぼあてはまる。全体主義的な文化助成はかえって、その全体最適化の集約的投資によって既存の学術性へなんらかの覇権をもたらし、bottleneck的淘汰によってある文化環境内のありえる多様性を低減させてしまうかもしれない(覇道効果)。イギリスや韓国がすでにそういった投資をしてきて部分的に効果がみられるが、投資額によって文化の傾向が極度に一様化、産業内容が任意にかたよってしまっているとおもえる。たとえば政府がハイアートに投資した結果サブカルチャーでイギリスのシェアはよわまった様だし、政府が先端産業とコンテンツ分野に集中投資した結果韓国はハイテクと歌劇へと市場が一様化しがちになっている。これは総合的に文化の普遍適応力がさがったということだ。よってできたら最小にとどめた方がいいが、もし政府が公的におおはばな助成をすべき範囲といえば、いわゆるそのままではほろびてしまうだろう伝統芸能や伝統工芸、歴史遺産、人間国宝といった市場での競合力のうしなわれたかうしなわれやすい希少だねにかぎるのだろう。貴重性の保護が、市場内でのもちこされた過去との融合によって将来的に貴種を再生させえるという点での未来の多彩さと、先哲から維持された品位をそこあげる。この点からも六角堂や弘道館という市場があまり競合力を付与していないが歴史的な意義のきわめてたかい建築物への行政が積極的にかかわった修繕はただしかったといえる。
くりかえすが、いきた人間ではない擬人マスコットに税をつかって、社会的弱者であるなまみの人間は不遇をかこつ。これは行政権の濫用であり、政治の堕落だ。偶像崇拝の末路のひとつの奇形的な社会のすがたというほかない。偶像崇拝の念の有無は、美術や芸術あるいは学問という偶物へ政治がどの程度肉薄するかにもかかわる重要な信念上の判断基準だ。三種の神器を心配し、原爆投下時に日本国民のうしなわれゆくいのちへの同情よりも、まずそのことをてがみにかいた昭和天皇をふくむ天皇という行政権力者兼宗教長の偶像性はいまさらいうまでもないが、普段のなにげない理解の習慣がおおきくみなすといかに国家のありさまをちがえてしまうか、ここにはっきりしめされているといえる。かつてキリスト教、儒教、イスラム教で偶像が禁じられていた理由はこういう巨視的な結果に厳密にでているとおもえる。たとえば孔子は殉死をあおる埋葬用の偶像の風習のみならず、うまやがやけたときはじめに人間を心配した様、動物を単に擬人化してあつかうこともきらうはずだ。それはキリスト教での、神の似姿としての人類への高等生物視とおなじhumanismという古代からの智恵をてらしだしている。
2013年3月12日
No title
2013年03月06日
Y染色体の起源を探る
背景:
ヒトは遺伝情報を保存するDNAの構造の1つとして染色体を利用している。ヒトは22組の染色体と性別を決定する1組の性染色体を持っている。性染色体がXXの組み合わせだと女性、XYの組み合わせだと男性として成長していく。
要約:
現在生息している全てのヒトは1組の夫婦から広がっていったという考えがあり、ミトコンドリアは母親のみから、Y染色体は父親のみから受け継がれるため、その場合の母親をミトコンドリアイヴ、父親をY染色体アダムと呼ぶ。では現生人類の持つY染色体の元となったアダムはどれほど昔のヒトであったのだろうか。
この度アリゾナ大学のMichael Hammer博士らによって、Y染色体の共通祖先はこれまで考えられていたよりも70%さかのぼり、その起源は現生人類が歴史上に生まれるより以前、さらに現生人類の祖先がネアンデルタール人と分岐する以前である、338000年前となることが、最新のデータから導き出された。
Y染色体は、他の染色体と違って変異を起こしにくい性質を持つため、その先祖を容易にさかのぼることができる。例えば、ある2人のY染色体が同じ変異を持っていた場合、その2人は過去のどこかで共通の父方の祖先を持つことになる。そのため、Y染色体上の変異に措いてより多くの違いが見つけられると、父方の共通祖先はよりさかのぼられることになる。
今回見つかったY染色体は、サウスカロライナ州に住むアフリカ系アメリカ人のものであり、とても珍しい変異を有していた。このY染色体はカメルーン西部の狭い地域に住むムボと呼ばれる人々と似たものであり、このゲノムを50万人以上の個人から成るY染色体系統樹やデータベースと共に解析することで、上記のような結果が得られた。
これまでY染色体で最も分岐していたのは、ピグミーやコイサンのように狩猟・採集生活を送る、多くの現代人から最も遠縁となっている人々であった。そのためHammer博士によると、今回カメルーン西部のごく小さな地域でこのような事実が見つかったことは、驚くべきことであったという。
今後、アフリカ系アメリカ人やアフリカ人の中に更に広く分岐したY染色体系統が見つかる可能性はあるだろうという。すると、Y染色体系統樹の年代は更にさかのぼっていくことになる。
http://blog.livedoor.jp/xcrex/archives/65736432.html
元記事:
Human Y Chromosome Much Older Than Previously Thought
http://www.sciencedaily.com/releases/2013/03/130305145821.htm
参照:
Fernando L. Mendez, Thomas Krahn, Bonnie Schrack, Astrid-Maria Krahn, Krishna R. Veeramah, August E. Woerner, Forka Leypey Mathew Fomine, Neil Bradman, Mark G. Thomas, Tatiana M. Karafet, Michael F. Hammer. An African American Paternal Lineage Adds an Extremely Ancient Root to the Human Y Chromosome Phylogenetic Tree. The American Journal of Human Genetics, 2013; DOI: 10.1016/j.ajhg.2013.02.002
以上の論文から、Y染色体アダムがカメルーン西部のムボ族付近にある33万8000年前の父系遺伝なことがわかるので、日本起源の神話である『古事記』『日本書紀』の天孫降臨や国生みの科学性は否定されることになる。また万世一系という父系遺伝による世襲人種差別的な天皇一族の排他的神格化も無意味になる。その遺伝はさらに共通の祖先であるY染色体アダムからつながっているものにすぎず、共通祖先は日本国外、しかも原生人類ではないヒトかそれ以前の哺乳類にいるから。
またここから、天皇家がよつぎで尊属するばあいかならずしも父系遺伝でなければならない理由はないことになる。奈良で天皇家によりつくられた神話のなかで天皇直系の父祖とされる天孫あるいは天照大神なるものの創造性が日本に限定されているかぎり、その存在はY染色体アダムの傍系であることになるだろうし、神武天皇以降の歴代天皇もそうだ。そして女性天皇を天皇をかえりみれば、父系遺伝の一系保守性あるいはひとつづきのY染色体崇拝論というのは単に日本の皇統のなかでさえ事実的でなく、祖先崇拝という神道思想の一傾向のなかにつくられたごく最近の慣習であるとわかる。
もし血縁差別をするなら、これ自体が日本国憲法十四条の法の下の平等の理念とは矛盾もしているため「天皇は国民ではない」ゆえに国民や世界の人類がなにをされても日本の法律によってはさばけない、という完全に異常な悪魔を国内に存在させているどう仕様もない定義がなりたってしまう。また特にY染色体血縁差別、父系遺伝の一系保守性をとおすばあい、幕府からおわれた後醍醐天皇をたてた楠木公を表彰してきた水戸学や天皇家・徳川家のいわゆる南朝正統論とは決定的に矛盾し、かりに今後も同様の定義にもとづけば、たとえある天皇を当時の政治権力者がおいたてて別の天皇をたててもなんら問題ないことになる。おそらく尊皇主義者であった義公が心配したのはこの部分なのだろう。また明治天皇や孝明天皇の様、ちちはおなじでもははの家へ養子にはいったこのばあいはキリスト教やユダヤ教のおしえをふくむ近代法の男女平等制を否定してしまう。
喫煙している10代女子はほねをよわめる
高校生は骨の弱化や骨粗しょう症について考えるには早すぎるように思えるかもしれないが、シンシナティ小児病院医学センターのLorah Dorn博士らによって、喫煙をしている10代の女の子は骨ミネラル量が低下してしまうことが分かった。
骨粗しょう症は高齢の女性に頻発し、骨密度が低くなることで日常生活で簡単に骨折してしまうようになる。骨は生きている間は絶え間なく再生・再構築されるが、その強さや密度の増加に措いて10代はとても重要な時期となっている。
Dorn博士によると、青年期に強い骨の構築に失敗してしまうことで、閉経後骨密度が低下していく時に必要となる、「骨の貯蓄」が正しく行われなくなってしまう。この貯蓄の約50%は青年期に獲得されるため、その時期は将来の骨の健康にとても大きな意味を持つという。
彼らは11歳から17歳の健康な262人の女の子を対象に3年間調査を行った。すると喫煙をしていない女の子の腰椎や股関節部の骨密度は安定して上昇していたのに比べて、喫煙をしている女の子では、腰椎の骨密度がほとんど成長せず股関節部では低下してしまっていた。彼女らが19歳に達したときには、喫煙者は非喫煙者に比べて骨ミネラルの蓄積が丸1年遅れていた。
メンフィス大学のKenneth Ward博士によると、喫煙の影響は徐々に蓄積していくものであるため、青年期では明確な害が現れることは珍しい。そのためこの研究によって、青年期での喫煙の明確なリスクが明らかにさらたことは素晴らしいことだという。
またこれまでにも、喫煙者の女性は脊椎の骨折が13%、股関節部の骨折が31%増加するという研究結果があった。今回の研究結果はこの以前の研究結果とも合致し、より若い女性にも同様の害が現れることが示され、喫煙をしている子供たちにより危機感を示すことができるようになるだろうという。
http://blog.livedoor.jp/xcrex/archives/65723289.html
元記事:
Smoking hurts teen girls' bones - Lower density likely in adolescents who smoke cigarettes
http://www.sciencenews.org/view/generic/id/346875/description/Smoking_hurts_teen_girls_bones
参照:
L.D. Dorn et al. Longitudinal impact of substance use and depressive symptoms on bone accrual among girls aged 11-19 years. Journal of Adolescent Health. doi: 10.1016/j.jadohealth.2012.10.005.
未成年者喫煙禁止法で20歳未満のこどもへ喫煙させた親権者・監督者には科料、たばこと喫煙用具を保持した未成年者には行政処分で没収、未成年者へたばこそのものと喫煙用具を販売した者は50万円以下の罰金が科せられている。
これらはもともと、理性的判断がそだっていないこどもが、かれら自身の最晩年にまでおよびみずからの健康を害するおそれがない様につくられた法であることがますますあきらかになった。この善意のおや世代、おとなの善慮からの世話をしりぞけてしまうのは、そのこにとってはみずからを長期的にも短期的にも害するという点でどうみても悪徳である。そればかりか、母体とみれば出産およびのちのこそだての過程で、ははであるかれら自身の不健康さによって、その子女にすら不健康さとしての不幸がひろがりかねない。つまりはっきりしたほねをよわめる証拠がある10代女子の喫煙は特に、かれら自身とばあいによってはその子女へ不幸と悪影響をあたえる結果になるはずなので、やめるべきである。
2013年3月11日
避難者の大津波対策
大津波警報がでたばあい、精華小学校は磯原高校へと避難先をかえること。またおなじ警報下で中郷第一小学校は屋上階への避難か、高台状の松井までのルートをできればばらばらにたどるか、さもなくば津波避難ビルを整備しそこににげこむ準備のどれかひとつ以上が必要。
磯原中学校、磯原幼稚園は、北茨城インターチェンジまでの避難が必要。杉の子幼稚園はちかくの高台まで、関南小学校は屋上階、または津波避難ビルが必要。
最悪なのは、全員をまとめようとして全滅する、というばあい。これは宮城県石巻市立大川小学校の例。
ちかくの友達とであれ単独であれ、勝手に、事前に想定しておいた安全地帯である高台へにげることを親が事前に啓発しておく方がいい。ルールはいのちあってのものであり、全体主義的な公立学校で柔軟な対応など期待しづらいから。また、公立学校がわとしては、総点呼を学校がわと避難先の現地、二回おこなうつもりでできるだけはやく具体的避難行動をさせるつもりでいるべきだ。
磯原中学校、磯原幼稚園は、北茨城インターチェンジまでの避難が必要。杉の子幼稚園はちかくの高台まで、関南小学校は屋上階、または津波避難ビルが必要。
最悪なのは、全員をまとめようとして全滅する、というばあい。これは宮城県石巻市立大川小学校の例。
ちかくの友達とであれ単独であれ、勝手に、事前に想定しておいた安全地帯である高台へにげることを親が事前に啓発しておく方がいい。ルールはいのちあってのものであり、全体主義的な公立学校で柔軟な対応など期待しづらいから。また、公立学校がわとしては、総点呼を学校がわと避難先の現地、二回おこなうつもりでできるだけはやく具体的避難行動をさせるつもりでいるべきだ。
2013年3月10日
旧茨城県庁の記念碑的な屋上開放
昭和天皇が、終戦直後の戦災状況を視察するため、昭和21年11月18・19両日水戸に行幸された時に、茨城県庁屋上から市街をみわたされて
「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちおとも たかくきこえて」
と復興ぶりのお歌をお詠みになられた。翌22年の新年御歌会において、「あけぼの」と題されて、水戸で詠まれたお歌をご披露になられた。
-- いろはに踊る;水戸の町!
http://blog.goo.ne.jp/sqq123/e/3322d8b74a75acbe10e0c7f4dae25630
この真とおもわれる史実をしのぶ意味から、このたび再建された旧茨城県庁の屋上階はこの歌碑とともにひとびとへ、復興記念に屋上公園として開放化すべきだ。
2013年3月9日
2013年3月7日
自動車盗難の一因
トラクター窃盗など容疑、ベトナム人4人逮捕 茨城
産経新聞 3月7日(木)7時55分配信
県警捜査3課などは6日までに、県内で発生したトラクターの窃盗事件に関与したとして、窃盗などの容疑で、坂東市小山の無職、ドアン・ディーン・ヒュー容疑者(25)らベトナム国籍の男4人を逮捕した。容疑を否認している。
ドアン容疑者の逮捕容疑は、2月12日夕から13日朝までの間に、筑西市飯島の倉庫からトラクター5台(被害額1600万円)を盗んだとしている。
県警は今月6日、ドアン容疑者が出入りしていた坂東市内の一時保管場所を捜索し、盗難車両を押収。現場にいた自称ベトナム国籍の男3人を、盗品等保管の容疑で現行犯逮捕した。
捜査3課によると、昨年1年間の県内のトラクターの盗難被害は74件、93台に上り、9割が県西・県南地区に集中。余罪や盗難車両の流通ルートなどについて解明を進める。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130307-00000074-san-l08
自動車窃盗は、おそらく国際的な転売をめざし外国人犯罪グループがおこなうばあいもある、という事件。県警の捜査能力がここに発揮されてしかるべきといえる。
2013年3月5日
2013年3月4日
映画費用と内容のチェック
松村克弥という人物はかつて犯罪の内容や残虐な映画をとってきた者である。また、公金を着服する可能性はみのがせない。なぜ映画はとりおわっているのに追加資金などが必要になるのか。市政はどうしてその過去のわるい作品の経歴がある映画監督にわざわざ依頼したのかを説明する義務があるし、つかいみちをすべてすきのない様にチェックする必然がある。競技方式でえらんだわけではないなら、余計に癒着着服の危険度がたかくなる。
以前の映画評では「あとあじのわるさ」、というのが指摘されている。もしそういった内容になったならばだが、なぜその様なかえって市の印象をさげる可能性がたかい映画をかつてつくってきた経歴の人物にわざわざ、公共のものである市税をついやす意図があったのか豊田市長こと映画の実行委員長は市民へ説明可能なのだろうか。
完成後も、事前チェックしてすでにしはらった額のわくないで、悪徳表現はすべて修正させるべきだ。公金をつかうのだから、当の市民ふくむ全世界の人類が、たとえこどもをふくむ家族と一緒にみても安心して感動できる良識的な内容でなければならない。ホームドラマ、教育的内容。それが全体の奉仕者としての義務だ。水戸市のつくらせた某映画はこの点で注意があまく、ある意味で大失敗だった。前轍をふんで、もし詩劇のえがきかたが悪徳の強調でしかないなら、それは悪政となり逆に汚名を市にもってくるだけになるだろう。
後援者としての最終結果までの責任が、公金をついやす市政にはあるといえる。そして期待どおりかそれ以上の「良識的な」できばえでなかったばあいは、市税の濫用あるいはばあいによっては猥褻物頒布罪として映画監督や実行委員長を市民は直接うったえる準備がなければならない。
以前の映画評では「あとあじのわるさ」、というのが指摘されている。もしそういった内容になったならばだが、なぜその様なかえって市の印象をさげる可能性がたかい映画をかつてつくってきた経歴の人物にわざわざ、公共のものである市税をついやす意図があったのか豊田市長こと映画の実行委員長は市民へ説明可能なのだろうか。
完成後も、事前チェックしてすでにしはらった額のわくないで、悪徳表現はすべて修正させるべきだ。公金をつかうのだから、当の市民ふくむ全世界の人類が、たとえこどもをふくむ家族と一緒にみても安心して感動できる良識的な内容でなければならない。ホームドラマ、教育的内容。それが全体の奉仕者としての義務だ。水戸市のつくらせた某映画はこの点で注意があまく、ある意味で大失敗だった。前轍をふんで、もし詩劇のえがきかたが悪徳の強調でしかないなら、それは悪政となり逆に汚名を市にもってくるだけになるだろう。
後援者としての最終結果までの責任が、公金をついやす市政にはあるといえる。そして期待どおりかそれ以上の「良識的な」できばえでなかったばあいは、市税の濫用あるいはばあいによっては猥褻物頒布罪として映画監督や実行委員長を市民は直接うったえる準備がなければならない。
2013年3月2日
埼玉のある中学生らの功徳
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130302-00000306-saitama-l11「通路にごみがひとつもなく大変驚きました」「大変きれいにご利用いただき感激した」―。こんな文面の一通の封書が1月下旬、毛呂山町立川角中学校(毛呂山町川角、生徒数369人)に届いた。差出人は、東京駅で新幹線車両の清掃業務を担当する会社の女性社員。同校の2年生が修学旅行で東海道新幹線を利用した際、生徒らの行き届いた清掃に感激した女性からのお礼だった。大里冶泰校長(54)は「30年間の教師生活で初めて。当たり前のことをやって、それを認めてくれる人がいることに感謝の気持ちでいっぱいです」と話している。
http://megalodon.jp/2013-0302-2301-10/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130302-00000306-saitama-l11
埼玉新聞 3月2日(土)12時12分配信
「ごみひとつなく感激」新幹線の清掃担当からお礼の手紙 生徒「最高の思い出」/毛呂山・川角中学校
清掃会社の女性社員から毛呂山町立川角中学校に送付された封書と便箋
送付された手紙は便箋2枚。「貴校に利用いただいた車両の清掃を担当した者です」と始まり、車両にごみがなかったことに触れ「貴校の普段の教育ならびに引率教員の方の行き届いた指導を、生徒の皆さまがよく理解され、大変きれいにご利用いただき、感激した」とつづられている。
さらに「おそらく生徒の皆さまが素晴らしい学園生活を送っておられるだろうこと。そして校長先生をはじめ諸先生方の行き届いた学生の皆さんに対する思いを深く感じながら楽しく清掃をさせていただきました。ひと言お礼を申し上げたく、筆を取りました」と、送付理由を記している。
封書には、「見ると幸せになれる」という都市伝説のある東海道新幹線の軌道を検査する車両「新幹線電気軌道総合試験車(愛称・ドクターイエロー)」の写真も同封されていた。
同校によると、2年生123人は1月20日から22日まで2泊3日の日程で、京都・奈良に修学旅行した。最終日の22日は清水寺などを見学した後、京都駅から午後1時6分発の「のぞみ」に乗車。同3時23分に東京駅に到着した。
生徒らは東京駅で降車する際、用意したごみ袋にごみを入れ、椅子は元に戻すとともに、ヘッドカバーを張り直し、床に落ちたお菓子などのごみを拾った。ごみ袋はまとめて車両の出入り口脇に集めた。
同校ではあいさつなど5項目の達成目標を設定し、指導している。ただ、大里校長は「車両のごみを持ち帰る指導はしていない」と話す。
女性からの手紙が届いたのは1月25日。校長らは学年集会で手紙の内容を生徒に報告するとともに、学年主任の教諭が女性宛てにお礼の手紙を送付した。手紙のコピーと同封された「ドクターイエロー」の写真は2年生の教室前の廊下に貼り出されている。
修学旅行の実行委員長を務めた斉藤望さん(14)は「思い出に残るイベントにするため、マナーを守ることを目標にした。車両のごみは実行委が率先して片付け、周囲の生徒らも協力してくれた。自分たちで実行したことに感謝され、最高の思い出になった」と喜んでいる。
大里校長は「使命感を持って行ったことが評価され、生徒らは自信がついたように見える。生徒の良さと取りえを伸ばすためにプラスのスパイラルになってくれれば」と目を細めている。
極悪東京の国賊政治屋を日本国外へ追放すべし
極悪天皇一族はもともと、かつても常陸国内へ勝手にやってきて極悪殺害行為をしていばっていたすくい様がなく邪悪で野蛮な過去がある極悪犯罪人のちすじだ。これをたてているのは水戸学のてまえにすぎず、はっきりいえばそんな他人をころす様なおおばかものの末裔、そんな極悪人の血へなどゼロ未満、マイナス以下の悪魔という評価しかくだせないのが良識たかき日本を愛する真の日本人の憂国の情として、いうまでもなく当然である。
要するに業をみるかぎり極悪独裁者天皇家は千年ちかく独裁の地位を世襲してきたというだけ、その極悪さは人類最悪のレベルの種ということにすぎず、単に邪教祖としてなんとか善意ある日本人の権力に寄生してきた。これが真実だ。業をみれば、極悪天皇一族とはこのしまぐにでもねっから最低のたみなのだ。わたしも一度も天皇から益をうけたことなどない。害ならうけた。善良な茨城県のひとびとは平和なくらしをいとなんでいたし、とおくのどこのうまのほねかしらぬ自称天皇のきちがいになどなんの害もくわえるはずもなく、ふるきよき自然と四季のめぐりをたのしみながらおだやかで優雅にくらしていた。ところが、奈良県のやまおくから調子にのって一方的に国民をころしにきたのが極悪天皇家だった。すでに日本国内だけではなく海外でもひろくその残虐無慈悲にして悪魔の本性がしられる様にはなったが、極悪天皇一族とはもともとあたまのおかしな祖先崇拝の邪教祖のいえであって一番、武器や権力をもたせてはいけない不徳の狂人にして史上最悪のヤクザなのである。手段をえらばぬ領土拡大を妄信した最悪の侵略犯罪人兼世界帝国覇権主義者racistの血というものは、それだけでも永遠につぐないきれないふかいうらみをいだかれるには十分すぎるほどの極悪加減、完全な極悪徳にして最悪賊であり、この極悪天皇一族のあしき性状について古来の文献や地名にのこるうごかぬ証拠がある。茨城がそれだ。常陸国へいきなりきて、いばらでさくをつくってなんとひとごろしをしたのだ。絶対極悪犯罪人天皇は当時もいまも世襲であるかぎり、単なる極悪世襲独裁者かつ極悪殺人鬼であり、しかも邪教のおさをかねる最悪のちすじなのである。なんと、やることはすべて無力な民間人を犠牲にした暴力と極悪犯罪行為。これで国民を支配したとほざきまわってなんとみんなの財産をうばいとって独占し乱費濫用、浪費無駄づかいしようという。極悪虐めっ子極悪天皇の一族とは、こういった極悪ヤクザの最悪の業実現が目的で、自分で京都から東京までひっこしてきたというすさまじい悪質さなのだ。すくわれ様がない。すくい様もない。地獄以外のどこに適応しようがあるというひとたちなのだろうか。
もしこのわたしの、ひとりの日本国の主権者としての見解がまちがいだというなら、どうしてその極悪天皇家が搾取してきた原発で放射能大公害というろくでもない被害を極悪東京から一方的にくわえられたこの善美なる北茨城、なんの罪もないばかりか永遠に聖なる場所が、極悪世襲独裁者天皇家のひびたえまなくいつも世界侵略の悪業用にぜにもうけ搾取する極悪東京都のつくってもうける罪悪きわまりない極悪東京ぜにもうけ原発から極悪ヤクザ天皇家がすきこのんでうみだした最低の廃棄物をおしつけられかねないのか。理由をこのほしにすむ全人類のだれかただひとりでもいいから、はっきり説明してほしいものだ。天皇一族が極悪人の血だから。これ以外になにかこどもにでもわかる正当な理由でもありえるのだろうか。われらは被害者だ。加害などなにひとつたりともしていない。そればかりか、われらはしはらってきた税金としてひごろの勤労としてそして人類の学術へのたえざる貢献として、公共に、国民に、世界に、どれほどちいさなものだろうがひとりのこらず、必死の努力でたしかな益をあたえつづけてきた。
天皇家からは害ばかりうけた。益などなにもなかった。搾取してくるその極悪東京都内に他人のいえをうばってすんでいる極悪侵略・極悪強盗・慶喜公への極悪冤罪・江戸城極悪不法侵入罪ヤクザの極悪天皇家は、たべるものもきるものもひびの生活費もなんとその悪性をあわれんだ天の様にそこしれずいつくしみぶかくとうといこのわたしがやしなってあげているのだ。そんななにからなにまで国民であるわたしからあたえられてきている日本はじまって以来奴隷かすぐとなりのアジアの善良なひとびとからうらみをもたれる極悪犯罪囚人レベルのたちばである最悪の人種差別主義者のちすじ侵略犯罪天皇ごときが、一体、主人である国民さまに害をあたえるとはなにごとなのか。これはもう神のいかりをかってしかたない最悪の業であり、その極悪東京ヤクザにまもられてひび贅沢におごりかえる極悪天皇ヤクザ一族のすさまじいつみには最大限の天罰があたえられてしかるべきとさえいえるであろう。
極悪人天皇が薩長土肥京のいつもの悪徳外道ヤクザ連中をひきつれて強盗にきた江戸城内に、さもなければ有害無益なうえ東京ヤクザしかだれもいらない不経済原発でぜにもうけをするいやしい無恥な資本主義あきんどこと悪徳政商の極悪ヤクザ石原慎太郎、または極悪政商の極悪息子原発搾取チンピラ石原伸晃の実家がある極悪東京都の犯罪商売奨励でかせいだあさましいにわか国税浪費のなければいいきたないへやにでも、おのれども愚劣きわまる極悪東京土民がうみだした放射能廃棄物の最終処分場をつくる。これがおとなの責任のとりかたというものだ。天皇明仁や皇太子徳仁、石原慎太郎や石原伸晃はこの程度の責任すらとれない。それならその越権や象徴というみのうえにまったくふさわしくない単なる悪徳のヤクザ連中、すなわち主権者たる日本国民への逆賊、いや真の民敵である極悪天皇家や極悪石原家は、土台が政治などにはむいていないこしぬけ外道の悪徳雑魚商人としかいえないではないか。もしきちんと責任をとって、極悪天皇家と極悪石原家の搾取の悪業でおのれでうみだした放射能廃棄物の最終処分場を極悪東京都の極悪皇居か極悪石原家、最低でもその現居住地である極悪東京都内に直接つくれなければ、善良なわが国民に寄生しつづける極悪天皇家と極悪石原家、こんなわれわれがひびその血と肉とをやしなってあげているのにわれらに害しかあたえてこない奇形俗悪害虫俗物どもはおもてもうらも単なるすくえない国賊であって、わがくにの領土をよごす我利亡者の極悪政商、先進国最大量の森林をもつ日本列島大自然を破壊する最悪ごみ投棄ヤクザなのはすでに最初の環境省決定があったとおりまちがいないので、わが領土をまもるため、わが主権をもつ日本国からこのふたつの極悪権力濫用犯罪人家族は、公正なる日本国民とその政治の名において永久追放することが必然の命令である。
追記:この記事を書いてから再考してみるに、天皇家は「実権をもって施政していない」以上、いくらまともな正論による批判を直接受けてもいまの時点ではどう仕様もないかもしれない。たとえば不徳な俗衆の土地東京から、徳のたかい水戸に皇居がうつれば、こういった公徳と象徴の一致に関する問題そのものも矛盾なくまとまるだろう。つまり徳の象徴としての天皇が純粋無雑な尊皇の聖地水戸へ御成り、現世的権力機構としての俗悪東京政治界からきりはなしてみることもできる様になる。国民を害する天皇家の反省がもしあってもなくとも、天皇による直接の施政という建前を期待できないかぎりではだが、そのつみは現政権に帰されるべきだろう。常陸国水戸藩の格式たかい伝統として、尊皇のむねそのものを安易にすてさるべきではないかもしれない。それは北茨城市民が間接に東京都民としての天皇家から放射能や名誉に関する害をうけてきたとしても、まだ天皇家がこれまでわれら国民へあたえてきたつみを反省し豹変する余地があり、現に直接、皇室から害をうけたのではないかぎりにおいてそうすべきだろう。
追記2:この前者の追記と本文からさらにかんがえるに、天皇の尊厳は実質的効用として国民という主権者に役立つかぎり、公益に該当しているかぎりでのものであると理解できる。天皇の効用は絶対無限定のものではないのだ。害をあたえてくる人間をあがめたてまつるおろかものはこのよにいないからだ。よって、本文にいう悪徳天皇家の国外追放令は、現に日本国民の一員としての北茨城市民が、極悪東京都や極悪東京都民というわれらから原発搾取をおこなってきたばかりか、一方的に放射能汚染をしてきた極悪自治体からわれら国民がとてもおおきな害をあたえられてきたかぎりでたみの正義であり、かつわれら国民へますますおおきな害を放射能廃棄物のおしつけでおこなおうとする極悪東京都や極悪東京都民として天皇がいるかぎりでこの天皇家一族そのものが、日本国民の税金と象徴という憲法上の職責を濫用する極悪人であるのはうたがい様がない。つまり前追記の水戸学上の意味でいう「宗教的尊皇説」と「政治的尊皇説」は実際にはきりはなすことができ、わたしは前者に水戸藩の伝統の一端をになうものとして一定の理解はあるが、後者の現実におこなわれている害がわれら国民にとってはなはだしいかぎり、全体としてこの天皇宗派というものは国民を害する公害団体であり政治権力と癒着した邪悪な宗教組織とみなすほかない。それがみずからの良心にそむかない、また日本国の現実にある民主主義的な道徳律と、政治機構からのありえるかぎり最大限の天皇家のきりはなしと、今回の様、象徴権力の濫用におよぶ独裁程度がはなはだしくわが日本国民へ与える公害がすさまじいばあいによっては極悪天皇一族の国外永久追放という将来のみちすじをみとおした誠実さだ。現に、悪徳の世襲独裁者を国外へ追放したうえで、別の高徳な王家を国民議会の議決によって再度むかえるすがたで名誉革命をへたイギリスの現王家もあるわけで、東洋でいう天子交代説あるいは易姓革命論と一致するかぎりなにも非常識なことではない。全世界のどこであれ、公共人はその徳においてのみ要請され、徳がないばあいは罷免、最悪のばあいは追放されるものなのだ。もし天皇が尊皇の聖地水戸をつぎの定着地にえらぼうとえらぶまいと、これらの主権の正義に関する政治論上のむねには事実としてかわりがないはずだ。
要するに業をみるかぎり極悪独裁者天皇家は千年ちかく独裁の地位を世襲してきたというだけ、その極悪さは人類最悪のレベルの種ということにすぎず、単に邪教祖としてなんとか善意ある日本人の権力に寄生してきた。これが真実だ。業をみれば、極悪天皇一族とはこのしまぐにでもねっから最低のたみなのだ。わたしも一度も天皇から益をうけたことなどない。害ならうけた。善良な茨城県のひとびとは平和なくらしをいとなんでいたし、とおくのどこのうまのほねかしらぬ自称天皇のきちがいになどなんの害もくわえるはずもなく、ふるきよき自然と四季のめぐりをたのしみながらおだやかで優雅にくらしていた。ところが、奈良県のやまおくから調子にのって一方的に国民をころしにきたのが極悪天皇家だった。すでに日本国内だけではなく海外でもひろくその残虐無慈悲にして悪魔の本性がしられる様にはなったが、極悪天皇一族とはもともとあたまのおかしな祖先崇拝の邪教祖のいえであって一番、武器や権力をもたせてはいけない不徳の狂人にして史上最悪のヤクザなのである。手段をえらばぬ領土拡大を妄信した最悪の侵略犯罪人兼世界帝国覇権主義者racistの血というものは、それだけでも永遠につぐないきれないふかいうらみをいだかれるには十分すぎるほどの極悪加減、完全な極悪徳にして最悪賊であり、この極悪天皇一族のあしき性状について古来の文献や地名にのこるうごかぬ証拠がある。茨城がそれだ。常陸国へいきなりきて、いばらでさくをつくってなんとひとごろしをしたのだ。絶対極悪犯罪人天皇は当時もいまも世襲であるかぎり、単なる極悪世襲独裁者かつ極悪殺人鬼であり、しかも邪教のおさをかねる最悪のちすじなのである。なんと、やることはすべて無力な民間人を犠牲にした暴力と極悪犯罪行為。これで国民を支配したとほざきまわってなんとみんなの財産をうばいとって独占し乱費濫用、浪費無駄づかいしようという。極悪虐めっ子極悪天皇の一族とは、こういった極悪ヤクザの最悪の業実現が目的で、自分で京都から東京までひっこしてきたというすさまじい悪質さなのだ。すくわれ様がない。すくい様もない。地獄以外のどこに適応しようがあるというひとたちなのだろうか。
もしこのわたしの、ひとりの日本国の主権者としての見解がまちがいだというなら、どうしてその極悪天皇家が搾取してきた原発で放射能大公害というろくでもない被害を極悪東京から一方的にくわえられたこの善美なる北茨城、なんの罪もないばかりか永遠に聖なる場所が、極悪世襲独裁者天皇家のひびたえまなくいつも世界侵略の悪業用にぜにもうけ搾取する極悪東京都のつくってもうける罪悪きわまりない極悪東京ぜにもうけ原発から極悪ヤクザ天皇家がすきこのんでうみだした最低の廃棄物をおしつけられかねないのか。理由をこのほしにすむ全人類のだれかただひとりでもいいから、はっきり説明してほしいものだ。天皇一族が極悪人の血だから。これ以外になにかこどもにでもわかる正当な理由でもありえるのだろうか。われらは被害者だ。加害などなにひとつたりともしていない。そればかりか、われらはしはらってきた税金としてひごろの勤労としてそして人類の学術へのたえざる貢献として、公共に、国民に、世界に、どれほどちいさなものだろうがひとりのこらず、必死の努力でたしかな益をあたえつづけてきた。
天皇家からは害ばかりうけた。益などなにもなかった。搾取してくるその極悪東京都内に他人のいえをうばってすんでいる極悪侵略・極悪強盗・慶喜公への極悪冤罪・江戸城極悪不法侵入罪ヤクザの極悪天皇家は、たべるものもきるものもひびの生活費もなんとその悪性をあわれんだ天の様にそこしれずいつくしみぶかくとうといこのわたしがやしなってあげているのだ。そんななにからなにまで国民であるわたしからあたえられてきている日本はじまって以来奴隷かすぐとなりのアジアの善良なひとびとからうらみをもたれる極悪犯罪囚人レベルのたちばである最悪の人種差別主義者のちすじ侵略犯罪天皇ごときが、一体、主人である国民さまに害をあたえるとはなにごとなのか。これはもう神のいかりをかってしかたない最悪の業であり、その極悪東京ヤクザにまもられてひび贅沢におごりかえる極悪天皇ヤクザ一族のすさまじいつみには最大限の天罰があたえられてしかるべきとさえいえるであろう。
極悪人天皇が薩長土肥京のいつもの悪徳外道ヤクザ連中をひきつれて強盗にきた江戸城内に、さもなければ有害無益なうえ東京ヤクザしかだれもいらない不経済原発でぜにもうけをするいやしい無恥な資本主義あきんどこと悪徳政商の極悪ヤクザ石原慎太郎、または極悪政商の極悪息子原発搾取チンピラ石原伸晃の実家がある極悪東京都の犯罪商売奨励でかせいだあさましいにわか国税浪費のなければいいきたないへやにでも、おのれども愚劣きわまる極悪東京土民がうみだした放射能廃棄物の最終処分場をつくる。これがおとなの責任のとりかたというものだ。天皇明仁や皇太子徳仁、石原慎太郎や石原伸晃はこの程度の責任すらとれない。それならその越権や象徴というみのうえにまったくふさわしくない単なる悪徳のヤクザ連中、すなわち主権者たる日本国民への逆賊、いや真の民敵である極悪天皇家や極悪石原家は、土台が政治などにはむいていないこしぬけ外道の悪徳雑魚商人としかいえないではないか。もしきちんと責任をとって、極悪天皇家と極悪石原家の搾取の悪業でおのれでうみだした放射能廃棄物の最終処分場を極悪東京都の極悪皇居か極悪石原家、最低でもその現居住地である極悪東京都内に直接つくれなければ、善良なわが国民に寄生しつづける極悪天皇家と極悪石原家、こんなわれわれがひびその血と肉とをやしなってあげているのにわれらに害しかあたえてこない奇形俗悪害虫俗物どもはおもてもうらも単なるすくえない国賊であって、わがくにの領土をよごす我利亡者の極悪政商、先進国最大量の森林をもつ日本列島大自然を破壊する最悪ごみ投棄ヤクザなのはすでに最初の環境省決定があったとおりまちがいないので、わが領土をまもるため、わが主権をもつ日本国からこのふたつの極悪権力濫用犯罪人家族は、公正なる日本国民とその政治の名において永久追放することが必然の命令である。
追記:この記事を書いてから再考してみるに、天皇家は「実権をもって施政していない」以上、いくらまともな正論による批判を直接受けてもいまの時点ではどう仕様もないかもしれない。たとえば不徳な俗衆の土地東京から、徳のたかい水戸に皇居がうつれば、こういった公徳と象徴の一致に関する問題そのものも矛盾なくまとまるだろう。つまり徳の象徴としての天皇が純粋無雑な尊皇の聖地水戸へ御成り、現世的権力機構としての俗悪東京政治界からきりはなしてみることもできる様になる。国民を害する天皇家の反省がもしあってもなくとも、天皇による直接の施政という建前を期待できないかぎりではだが、そのつみは現政権に帰されるべきだろう。常陸国水戸藩の格式たかい伝統として、尊皇のむねそのものを安易にすてさるべきではないかもしれない。それは北茨城市民が間接に東京都民としての天皇家から放射能や名誉に関する害をうけてきたとしても、まだ天皇家がこれまでわれら国民へあたえてきたつみを反省し豹変する余地があり、現に直接、皇室から害をうけたのではないかぎりにおいてそうすべきだろう。
追記2:この前者の追記と本文からさらにかんがえるに、天皇の尊厳は実質的効用として国民という主権者に役立つかぎり、公益に該当しているかぎりでのものであると理解できる。天皇の効用は絶対無限定のものではないのだ。害をあたえてくる人間をあがめたてまつるおろかものはこのよにいないからだ。よって、本文にいう悪徳天皇家の国外追放令は、現に日本国民の一員としての北茨城市民が、極悪東京都や極悪東京都民というわれらから原発搾取をおこなってきたばかりか、一方的に放射能汚染をしてきた極悪自治体からわれら国民がとてもおおきな害をあたえられてきたかぎりでたみの正義であり、かつわれら国民へますますおおきな害を放射能廃棄物のおしつけでおこなおうとする極悪東京都や極悪東京都民として天皇がいるかぎりでこの天皇家一族そのものが、日本国民の税金と象徴という憲法上の職責を濫用する極悪人であるのはうたがい様がない。つまり前追記の水戸学上の意味でいう「宗教的尊皇説」と「政治的尊皇説」は実際にはきりはなすことができ、わたしは前者に水戸藩の伝統の一端をになうものとして一定の理解はあるが、後者の現実におこなわれている害がわれら国民にとってはなはだしいかぎり、全体としてこの天皇宗派というものは国民を害する公害団体であり政治権力と癒着した邪悪な宗教組織とみなすほかない。それがみずからの良心にそむかない、また日本国の現実にある民主主義的な道徳律と、政治機構からのありえるかぎり最大限の天皇家のきりはなしと、今回の様、象徴権力の濫用におよぶ独裁程度がはなはだしくわが日本国民へ与える公害がすさまじいばあいによっては極悪天皇一族の国外永久追放という将来のみちすじをみとおした誠実さだ。現に、悪徳の世襲独裁者を国外へ追放したうえで、別の高徳な王家を国民議会の議決によって再度むかえるすがたで名誉革命をへたイギリスの現王家もあるわけで、東洋でいう天子交代説あるいは易姓革命論と一致するかぎりなにも非常識なことではない。全世界のどこであれ、公共人はその徳においてのみ要請され、徳がないばあいは罷免、最悪のばあいは追放されるものなのだ。もし天皇が尊皇の聖地水戸をつぎの定着地にえらぼうとえらぶまいと、これらの主権の正義に関する政治論上のむねには事実としてかわりがないはずだ。
2013年2月27日
防犯灯
青色または青白色の防犯灯が犯罪抑止に効果がある、と実証的・帰納的にいわれだしている。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG10014_Q2A011C1CR0000/
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/fservice/faculty/sawada/sawada.j/sawada01.j.html
プルキンエ現象か副交感神経への影響、沈静のセロトニン分泌効果がかんがえられている様。高萩駅前にもすでにあった様だが、えきまえの駐輪場あるいはコンビニまえ、学校まえなどにそなえつければ防犯性があらわれるかもしれない。
茨城県全域でいえば、すべての駐車場にそなえつけることが第一に自動車窃盗をふせぐ効果があらわれる可能性がある。またHIV罹患率をさげるために風営法で規制された場所である水戸と土浦の一部、あるいは日本人のHIV患者は相対的にすくない茨城県ではこのおもな感染ルートでもあり風紀のわるくなっている外国人居住区の様な場所周辺にも、行政区が計画的に青色灯を設置するべき。そして鉄道会社と協議のうえ、線路ぞいにもうけることがとびこみをふせぐかもしれない。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG10014_Q2A011C1CR0000/
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/fservice/faculty/sawada/sawada.j/sawada01.j.html
駅に青色灯、飛び込み自殺8割減 東大分析 2012/10/10 11:56
東京大学の沢田康幸教授らは10日までに、駅や踏切などに取り付けた青色灯が列車への飛び込み自殺を防ぐ効果があるとの研究結果をまとめた。首都圏の71駅で2000~10年に起きた自殺のデータを分析した結果、青色灯を設置した駅は未設置の駅と比べ、自殺が平均84%減少した。
沢田教授らの研究グループは青色灯のある11駅と未設置の60駅を対象に計128件の自殺の傾向を調べた。駅の大小などの条件も考慮したうえで、統計的に処理すると、自殺の発生に明らかな差があるとしている。
青色灯には人間の気持ちを落ち着かせる効果があるとされ、防犯灯として設置する地域が増えている。鉄道会社が駅や踏切に設ける動きも進んでいるが、自殺者が減る効果を示す科学的な根拠はなかった。
沢田教授らは青色灯はホームドアに比べてコストが低く、費用対効果の観点からも有効な自殺防止対策とみている。
プルキンエ現象か副交感神経への影響、沈静のセロトニン分泌効果がかんがえられている様。高萩駅前にもすでにあった様だが、えきまえの駐輪場あるいはコンビニまえ、学校まえなどにそなえつければ防犯性があらわれるかもしれない。
茨城県全域でいえば、すべての駐車場にそなえつけることが第一に自動車窃盗をふせぐ効果があらわれる可能性がある。またHIV罹患率をさげるために風営法で規制された場所である水戸と土浦の一部、あるいは日本人のHIV患者は相対的にすくない茨城県ではこのおもな感染ルートでもあり風紀のわるくなっている外国人居住区の様な場所周辺にも、行政区が計画的に青色灯を設置するべき。そして鉄道会社と協議のうえ、線路ぞいにもうけることがとびこみをふせぐかもしれない。
茨城空港のえらさと東京のわるさ
極悪東京都民とNHK、中部国際空港がLCCを就航させるときはさもいいことかの様に偏見報道。
ところが茨城空港がそれを首都圏のさきがけとしてすでに震災前、大々的におこない、現に首都圏の深刻な被災にもかかわらずひとびとをすくいたすけるためうごかせつづけた高徳の功績から、海外のローコスト・エアポート2011を受賞したことはまったく報道しなかった(豪シンクタンク、CAPA Centre for Aviation; Low Cost Airport of the year 2011)。
東京都民は首都圏をになうほどの道徳性はない馬鹿者である。そればかりか、なんとかえってそれ以前の建設時に、なぜか茨城県税の使途を勝手に無駄だ無駄だといいながら茨城県民の主権者としての公益を完璧におとしめつづけて風評被害をあたえまくっていた。自分たち俗物連中は羽田がちかくぜにもうけしやすく便利なので、とうといわれら茨城県民の利便であるばかりか首都圏アクセスの補完として、自衛隊基地を民営利用するアイデアものの立派で平和的な近未来の茨城空港の偉大なすがたは一体全体、一方的にすさまじい偏見報道のむれでおとしめつづていいとでもいうつもりなのだろうか。いいかえれば、東京都民は単に低俗でみるめがなくおろかきわまりないばかりか、ねっから我利亡者の商売根性にそまりきった完全な悪人なのだ。東京都民は首都圏にあってまったく最低の悪友としかいいようがなく、ちかい将来おちぶれるのはみたところまちがいない。東京とは不徳かつ極悪の地域であり最悪の俗物のすんでいるあつまりなのである。いまのうち、賢明かつ良識的な優等生である茨城県民と茨城県は、まこと悪徳にそまりきっている邪悪な東京とは縁をきれるだけきり、そとからもわかりやすく首都圏社会でのたちばをとおざけておくべきだ。
茨城空港はアジア・太平洋地域でナンバー1のLCC空港
配信日:2011/10/20 22:15
http://flyteam.jp/news/article/5382
ちなみに茨城空港のテーマ曲は、北茨城市出身の石井竜也氏のうたう米米クラブの名曲『浪漫飛行』に専属契約すべきだ。すでにHALCALIのカバーもある。
ところが茨城空港がそれを首都圏のさきがけとしてすでに震災前、大々的におこない、現に首都圏の深刻な被災にもかかわらずひとびとをすくいたすけるためうごかせつづけた高徳の功績から、海外のローコスト・エアポート2011を受賞したことはまったく報道しなかった(豪シンクタンク、CAPA Centre for Aviation; Low Cost Airport of the year 2011)。
東京都民は首都圏をになうほどの道徳性はない馬鹿者である。そればかりか、なんとかえってそれ以前の建設時に、なぜか茨城県税の使途を勝手に無駄だ無駄だといいながら茨城県民の主権者としての公益を完璧におとしめつづけて風評被害をあたえまくっていた。自分たち俗物連中は羽田がちかくぜにもうけしやすく便利なので、とうといわれら茨城県民の利便であるばかりか首都圏アクセスの補完として、自衛隊基地を民営利用するアイデアものの立派で平和的な近未来の茨城空港の偉大なすがたは一体全体、一方的にすさまじい偏見報道のむれでおとしめつづていいとでもいうつもりなのだろうか。いいかえれば、東京都民は単に低俗でみるめがなくおろかきわまりないばかりか、ねっから我利亡者の商売根性にそまりきった完全な悪人なのだ。東京都民は首都圏にあってまったく最低の悪友としかいいようがなく、ちかい将来おちぶれるのはみたところまちがいない。東京とは不徳かつ極悪の地域であり最悪の俗物のすんでいるあつまりなのである。いまのうち、賢明かつ良識的な優等生である茨城県民と茨城県は、まこと悪徳にそまりきっている邪悪な東京とは縁をきれるだけきり、そとからもわかりやすく首都圏社会でのたちばをとおざけておくべきだ。
茨城空港はアジア・太平洋地域でナンバー1のLCC空港
配信日:2011/10/20 22:15
http://flyteam.jp/news/article/5382
茨城空港はローコスト・エアポート2011を受賞しました。センター・フォー・アジア・パシフィック・エイビエーションによる2011年の最も優れたローコスト運営の空港やターミナルを表彰する部門で、アジア太平洋と中東地域で1位に輝きました。
2011年10月20日にシンガポールで開催される授賞式に茨城県の橋本知事が出席し、受賞の喜びをコメント。
いわく
「東日本大震災により被災した本県にとって,このような賞を受賞できたことは,大変大きな励ましとなります。・・・我々のめざしてきたものが評価されたものであり、・・・今後とも皆様が使いやすい空港づくりに取り組んでまいりたいと存じます。」(一部略)
とのこと。
今回の受賞理由に震災の被害を受けながら、LCCへ優れたサービスを継続して提供したことも評価されています。
震災当日は、成田空港や羽田空港が閉鎖したことから、茨城空港にダイバート便が到着。空港ターミナルビルの天井の一部崩落があり、春秋航空も不規則な運航を行いながらも、4月1日から通常サービスを提供していました。
関空でも本格的なLCCターミナルが着工されましたが、空港として先輩でもLCC空港としては茨城の方が先輩。これからもLCC空港として楽しいイベントや茨城ならではのサービスにも期待しましょう!
ちなみに茨城空港のテーマ曲は、北茨城市出身の石井竜也氏のうたう米米クラブの名曲『浪漫飛行』に専属契約すべきだ。すでにHALCALIのカバーもある。
2013年2月25日
関東北部と高萩の方策
最終処分場は、栃木県と徹底連携し、東京都へおしかえすべきだ。もしおしつけてくる様なら、茨城県民は首都圏最大の電力の供給もとであり北茨城市内にすら株式会社パワーステーション茨城という15,000kWのバイオマス発電所が現にあるわけだが、その茨城県内での消費量分の生産量が100%以上(茨城県民の総需要50万kw<東海第二原発の総出力110万kw)と過剰なのですべて、東京都や神奈川県はじめ、関東南部で深夜需要がある東京圏へおくるためだけに発電されていることを科学的根拠にしなければいけない*1。つまり、核廃棄物の最終処分場は「法人格としての東京電力株式会社」、「株主としての責任主体である東京都」そして「電力消費地としての東京都」という3つの点から、かならずや東京都内にその東京都民自身の排泄物をかえさねば道理がたたない。なにがなんでも、だ。自分で自分のしりすらぬぐえない幼稚きわまりない阿呆で俗物の東京都と極悪の東京都民をせめるべきで、せめすぎは絶対にない。どれほどおおごえでどれほどこわだかでもいい。マスコミすべてをつかい、海外の主要メディアにうったえてもいい。いや、かならずや、永遠にうったえつづけねばならない。わるいのは東京都なのだから。
地元自治体からのいい分をきかないばあい、具体的にそれらの廃棄物を、このうらみをはらす戦争の機会があったばあいにそなえダーティボムにしあげるための県政にのりだす必要がある。それがせめてもの、原発搾取でのうのうと暮らしてきている極悪東京都民への最終責任のとらせかただろう。
最終的にききわけがないばあいは、公正無私にして善良な県民300万人の命をまもるべく、自民党政権と石原一族で計80万人程度の極悪我利亡者どもの勢を二度と復活できない様、根底からつぶすつもりでやるべきだ。目的は勧善懲悪。これは原発政策に対して距離をおいてきた脱原発派である茨城県北部の人にとって、今後の死活問題になりかねないから。
また高萩えきまえのあき地は都市公園としてできるだけおおきなひろばにすれば、むしろえられがたいだけのぞましいつくりになる。中心市街地でもあるえきまえに広大な公園があるのは、計画してえられたわけではなかったにせよ文化のたかさでもあるといえる。
*1 引用元:世界の環境ホットニュース[GEN] 791号 11年3月28日
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
日本原子力発電株式会社、東海第二原子力発電所、発電所概要
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
地元自治体からのいい分をきかないばあい、具体的にそれらの廃棄物を、このうらみをはらす戦争の機会があったばあいにそなえダーティボムにしあげるための県政にのりだす必要がある。それがせめてもの、原発搾取でのうのうと暮らしてきている極悪東京都民への最終責任のとらせかただろう。
最終的にききわけがないばあいは、公正無私にして善良な県民300万人の命をまもるべく、自民党政権と石原一族で計80万人程度の極悪我利亡者どもの勢を二度と復活できない様、根底からつぶすつもりでやるべきだ。目的は勧善懲悪。これは原発政策に対して距離をおいてきた脱原発派である茨城県北部の人にとって、今後の死活問題になりかねないから。
また高萩えきまえのあき地は都市公園としてできるだけおおきなひろばにすれば、むしろえられがたいだけのぞましいつくりになる。中心市街地でもあるえきまえに広大な公園があるのは、計画してえられたわけではなかったにせよ文化のたかさでもあるといえる。
*1 引用元:世界の環境ホットニュース[GEN] 791号 11年3月28日
http://melma.com/backnumber_90715_5142774/
日本原子力発電株式会社、東海第二原子力発電所、発電所概要
http://www.japc.co.jp/plant/tokai/dai2top.html
映画天心への2つの疑問
映画天心は、岡倉覚三を有名にこそすれ、北茨城市そのものあるいは茨城県の地域振興や、よい印象づけとはなんら関係がなくなるのではないか。
また映画が小中学生や、家族で安心してみられる内容にならなければ、市税という「全体の奉仕」のための財産を、一部のおとなの利益のためについやすのにすぎなくなるのではないか。
また映画が小中学生や、家族で安心してみられる内容にならなければ、市税という「全体の奉仕」のための財産を、一部のおとなの利益のためについやすのにすぎなくなるのではないか。
2013年2月23日
茨城県民の地味な上品さ
われらのもっている非俗物さは、いいかえれば素朴さだが、俗物さを媒介にした資本主義経済とは最適化しているわけではないわけだ。このわれらというのは、平均してみた茨城県民といえる。
茨城県民の体力や学力は最上位にあり、県民所得や総生産も中くらいからたかい方で、首都圏にあるのにもちいえがおおく、かなりひろいにわつき一戸建てすまいは結構常識的でもあり、くらしむきにはゆとりがある。すばらしく綺麗な自然景観もいくつもあり、そして人口も比較的おおい。それにもかかわらず、県外のひとにはすこしも認知がなく、魅力がないとおもわれている。栃木県もにたもの同士かもしれないが、このわけは実感としても茨城県がなにかを外部へむけて主張するまでもなく自足しやすいほどめぐまれた適所であること、さらにそこにながらく適応してきたひとの温和さは、こういった「県外のひとびとの不幸な勘違い」に対して誤解をとこうとする意欲すら特段よびさまさないからなのだ。現実には特別に愛郷心のつよいひとか、一旦その外部にでてからじもとへの客観性をみにつけたひとにしか、これだけすぐれた場所柄を魅力がないとおもうほど趣味がわるく、茨城県への関心がない様な俗物への対策を講じたりもしない。総じて、この穏健さこそが茨城県民の平均してもっているある特質なのだろう。
明治維新のときの水戸藩内の抗争は、『文明論之概略』によれば学問の宗教化の弊と喝破されているが、それすら山口県、鹿児島県で実際におきた激しい藩内抗争とはおもむきを異にする。山口では第二次長州征伐以来、非正規軍が正規軍を制圧してしまい、藩内クーデターが成立した。鹿児島では私塾によった武装勢力が政府軍と戦争をして滅びた。このどちらのパターンともことなって、茨城ではこの同時期、非正規軍は西へと出陣していっていなかったうえ、のちこの残党が新政府側としてもどってきて抗争し藩組織を交代させた。つまり、水戸藩内でおこったのは正統性、legitimacy、権限にもとづく正規軍のいれかえだけで、しかもそれは藩士組織の実質的な政権交代劇にすぎなかった。つまり懸案の攘夷戦争はおきなかったし、一般市民へおよぶ影響もほぼなかった。このやすらかな感覚は『覚書 幕末の水戸藩』で慶喜公がかえってきたときのあっけらかんとした感想でわかる。
とかくこの穏健派であって急進派とはのりがあいにくいこと、これがなぜ資本主義経済へ最適化しているいわゆる大衆または俗物との温度差が、茨城県にうまれてくるかのおおきなわけだ。急進的なひとびとは江戸へやってきて、巨大都市東京をつくった。
しかもこの特質は勘違いされやすく、単に穏健なだけなのだが、急進したい人間からはおくれにもみえないことはない。これが田園のよさを理解しないひと、すんだこともないひと、いわゆる趣味の面からみれば自然への感受性がない完全な俗物なわけだが、こういった自称都会の俗塵うまれには、いなかといえば俗語で田舎いのであってなんら関心がないわけだ。そして究極のところ、こういったひとたちとののりのあわなさは永遠につづくだろうから、ロマン主義以前の俗物根性というのは所詮われらのみちではない。
要は、大衆的な俗物性をもとにした資本主義経済というものは茨城県民の平均的特質にとって、おそらく封建時代の水戸学からきた遺風なのだろうがわれらは貴族的で上質なものをこのむというすこしのずれがあって、最適化はされていない。かといって県民所得は全国でもよい方なので、それがかならずしも苦手なわけではない。単に俗物さからとおいだけだ。そしてふたつとなりにあって俗物が集積している大都会東京、あるいはその原理とよくにた大阪からかなりとおい心理であり、ある特質をもっている。たとえばシャイネスや謙遜、いわゆる武士道時代の古きよき道徳目が多少あれ維持されているのは首都圏でも茨城県民であるといえよう。
こうしてふりかえれば、実質は大変すぐれているのに魅力がないとおもわれていることは茨城県民が平均してもつひとつの個性でもあり、いわゆる謙虚や謙遜、謙譲といったゆずりあいの徳と一致しているある資質、うまれのよさなのかもしれない。たとえば財産の面で全国に比して茨城県が特別たりないわけではないので、テレビ局に関心がないというのもあきらかにこの特長がでた部分といえる。そして現実にわたしがじもとの人間としてくらしてきたよい意味での自足の状態として、東京や大阪発の卑近なテレビはみるだけ気分がわるくなるにすぎず、まったくくだらないし必要ないばかりか、いまおもいかえしても茨城県民へ害しかおよぼしていない。現実にはありえない化粧された映像をみせつけられて不幸感をふやすだけ、贅沢自慢の実にくだらない卑俗な内容がつぶれてくれれば、それだけよのひとびとのくらしの質もあがってくるだろうから。
こうして、俗物の反対概念としてのとうとさやその質をまとった聖なる価値をもとめ茨城県民は東京都民へせをむけてあるきだせばよい。この行路はたとえ全国民が理解できなかろうとまったく関係がない。世界の人類はおろかものばかりではないし、そもそも東京の日本語によるテレビなどみていない。俗物はどこでも俗物なのだから、俗物である大衆からは魅力がないとおもわれているほど反俗物的でわれらの謙遜のよい効果があらわれている、とかんがえていい。それだけ茨城県に俗物がくる機会がへり、真に趣味のよい人間があつまりあるいは安心して定着してくれるだろうから。
また、ある意味ではこの高貴高尚で理解されがたいか、素朴でひかえめであるために卑俗な社会にあえてちかよらない、ちかよれないという部分は、われらのもっているうまれのよさとして貴族精神、gentleさにもなりえる。むしろよい特長として維持されていい。現実にはすばらしいよさがあるのだが、魅力がひくいとまわりからおもわれる、というのは一つのはっきりした才能をもつ個性であり、それは維持された方が多分無個性よりすぐれている。かえってこれはpartnerとしての安心感をうむだろうから、安心してつきあえるという面で交際がひろくなることも十分かんがえられる。つまり「派手でないためまわりから魅力がないとおもわれる」、というある欠点にみえるものはむしろ俗物根性からはなれればはなれるだけ長所でもあって、「地味」という特別な個性としてそれ自体が主張されていい。たとえば徳川慶喜にも同様のはっきりした個性、貴族的なうまれのよさがみられる。そして趣味の一般原理はこれを上品さとして評価する。おそらく、将来にわたってもそういうジェントルな個性がえらばれうまれそだち、出身していきやすい場所柄があるのだろう。
俗物根性を媒介にしている資本主義経済の社会はいずれおわり、あるいはかわるか、商人世界のものとして限定化されるだろうし、すくなくともそのうまれをわるくする淘汰によって、全体最適化しないひとを俗塵からとおざけてくれる。自分のみるかぎり、派手な宣伝効果によりそとづらは魅力的とおもわれているが実質はよごれた大変すみづらい東京にいついているひとと、節度あるおさえられた趣味のため魅力がないとおもわれているが実質は綺麗で大変すみごこちのよい茨城にいるくる、あるいはかえるひとびとのあいだでおきているのもその関係性であるとおもえる。
茨城県民の体力や学力は最上位にあり、県民所得や総生産も中くらいからたかい方で、首都圏にあるのにもちいえがおおく、かなりひろいにわつき一戸建てすまいは結構常識的でもあり、くらしむきにはゆとりがある。すばらしく綺麗な自然景観もいくつもあり、そして人口も比較的おおい。それにもかかわらず、県外のひとにはすこしも認知がなく、魅力がないとおもわれている。栃木県もにたもの同士かもしれないが、このわけは実感としても茨城県がなにかを外部へむけて主張するまでもなく自足しやすいほどめぐまれた適所であること、さらにそこにながらく適応してきたひとの温和さは、こういった「県外のひとびとの不幸な勘違い」に対して誤解をとこうとする意欲すら特段よびさまさないからなのだ。現実には特別に愛郷心のつよいひとか、一旦その外部にでてからじもとへの客観性をみにつけたひとにしか、これだけすぐれた場所柄を魅力がないとおもうほど趣味がわるく、茨城県への関心がない様な俗物への対策を講じたりもしない。総じて、この穏健さこそが茨城県民の平均してもっているある特質なのだろう。
明治維新のときの水戸藩内の抗争は、『文明論之概略』によれば学問の宗教化の弊と喝破されているが、それすら山口県、鹿児島県で実際におきた激しい藩内抗争とはおもむきを異にする。山口では第二次長州征伐以来、非正規軍が正規軍を制圧してしまい、藩内クーデターが成立した。鹿児島では私塾によった武装勢力が政府軍と戦争をして滅びた。このどちらのパターンともことなって、茨城ではこの同時期、非正規軍は西へと出陣していっていなかったうえ、のちこの残党が新政府側としてもどってきて抗争し藩組織を交代させた。つまり、水戸藩内でおこったのは正統性、legitimacy、権限にもとづく正規軍のいれかえだけで、しかもそれは藩士組織の実質的な政権交代劇にすぎなかった。つまり懸案の攘夷戦争はおきなかったし、一般市民へおよぶ影響もほぼなかった。このやすらかな感覚は『覚書 幕末の水戸藩』で慶喜公がかえってきたときのあっけらかんとした感想でわかる。
とかくこの穏健派であって急進派とはのりがあいにくいこと、これがなぜ資本主義経済へ最適化しているいわゆる大衆または俗物との温度差が、茨城県にうまれてくるかのおおきなわけだ。急進的なひとびとは江戸へやってきて、巨大都市東京をつくった。
しかもこの特質は勘違いされやすく、単に穏健なだけなのだが、急進したい人間からはおくれにもみえないことはない。これが田園のよさを理解しないひと、すんだこともないひと、いわゆる趣味の面からみれば自然への感受性がない完全な俗物なわけだが、こういった自称都会の俗塵うまれには、いなかといえば俗語で田舎いのであってなんら関心がないわけだ。そして究極のところ、こういったひとたちとののりのあわなさは永遠につづくだろうから、ロマン主義以前の俗物根性というのは所詮われらのみちではない。
要は、大衆的な俗物性をもとにした資本主義経済というものは茨城県民の平均的特質にとって、おそらく封建時代の水戸学からきた遺風なのだろうがわれらは貴族的で上質なものをこのむというすこしのずれがあって、最適化はされていない。かといって県民所得は全国でもよい方なので、それがかならずしも苦手なわけではない。単に俗物さからとおいだけだ。そしてふたつとなりにあって俗物が集積している大都会東京、あるいはその原理とよくにた大阪からかなりとおい心理であり、ある特質をもっている。たとえばシャイネスや謙遜、いわゆる武士道時代の古きよき道徳目が多少あれ維持されているのは首都圏でも茨城県民であるといえよう。
こうしてふりかえれば、実質は大変すぐれているのに魅力がないとおもわれていることは茨城県民が平均してもつひとつの個性でもあり、いわゆる謙虚や謙遜、謙譲といったゆずりあいの徳と一致しているある資質、うまれのよさなのかもしれない。たとえば財産の面で全国に比して茨城県が特別たりないわけではないので、テレビ局に関心がないというのもあきらかにこの特長がでた部分といえる。そして現実にわたしがじもとの人間としてくらしてきたよい意味での自足の状態として、東京や大阪発の卑近なテレビはみるだけ気分がわるくなるにすぎず、まったくくだらないし必要ないばかりか、いまおもいかえしても茨城県民へ害しかおよぼしていない。現実にはありえない化粧された映像をみせつけられて不幸感をふやすだけ、贅沢自慢の実にくだらない卑俗な内容がつぶれてくれれば、それだけよのひとびとのくらしの質もあがってくるだろうから。
こうして、俗物の反対概念としてのとうとさやその質をまとった聖なる価値をもとめ茨城県民は東京都民へせをむけてあるきだせばよい。この行路はたとえ全国民が理解できなかろうとまったく関係がない。世界の人類はおろかものばかりではないし、そもそも東京の日本語によるテレビなどみていない。俗物はどこでも俗物なのだから、俗物である大衆からは魅力がないとおもわれているほど反俗物的でわれらの謙遜のよい効果があらわれている、とかんがえていい。それだけ茨城県に俗物がくる機会がへり、真に趣味のよい人間があつまりあるいは安心して定着してくれるだろうから。
また、ある意味ではこの高貴高尚で理解されがたいか、素朴でひかえめであるために卑俗な社会にあえてちかよらない、ちかよれないという部分は、われらのもっているうまれのよさとして貴族精神、gentleさにもなりえる。むしろよい特長として維持されていい。現実にはすばらしいよさがあるのだが、魅力がひくいとまわりからおもわれる、というのは一つのはっきりした才能をもつ個性であり、それは維持された方が多分無個性よりすぐれている。かえってこれはpartnerとしての安心感をうむだろうから、安心してつきあえるという面で交際がひろくなることも十分かんがえられる。つまり「派手でないためまわりから魅力がないとおもわれる」、というある欠点にみえるものはむしろ俗物根性からはなれればはなれるだけ長所でもあって、「地味」という特別な個性としてそれ自体が主張されていい。たとえば徳川慶喜にも同様のはっきりした個性、貴族的なうまれのよさがみられる。そして趣味の一般原理はこれを上品さとして評価する。おそらく、将来にわたってもそういうジェントルな個性がえらばれうまれそだち、出身していきやすい場所柄があるのだろう。
俗物根性を媒介にしている資本主義経済の社会はいずれおわり、あるいはかわるか、商人世界のものとして限定化されるだろうし、すくなくともそのうまれをわるくする淘汰によって、全体最適化しないひとを俗塵からとおざけてくれる。自分のみるかぎり、派手な宣伝効果によりそとづらは魅力的とおもわれているが実質はよごれた大変すみづらい東京にいついているひとと、節度あるおさえられた趣味のため魅力がないとおもわれているが実質は綺麗で大変すみごこちのよい茨城にいるくる、あるいはかえるひとびとのあいだでおきているのもその関係性であるとおもえる。
2013年2月21日
科学と善
社会をかえること、それをのぞましいむきにかえること。
すべて科学、知識、scienceは自体としてものぞましいが、その応用とみればこれにつかえるだけだろう。工学の濫用が戦争や侵略をまきおこす。しかし、政治のしかたがただしいかどうかがとわれている。
人類史でおきたもっとも悲惨なできごとのひとつは、ヨーロッパ移民らによるアメリカ大陸の先住民の虐殺での建国だ。これがアメリカ大陸の精神として政治上ただしいとはおもえない。そして同様の歴史は、茨城の名義になっている天皇家支配へもあてられる。このどちらのばあいも工学はまちがったつかいみちをされている。工学は芸術の基礎だから、目的としての芸術を高度化させるためにある。つまり岡倉天心のいう意味での「戦争による野蛮人が高貴な芸術をこどものあそびにあたいするとおもいたければおもえ、われらはよろこんでまとう」というのが、アメリカや天皇家へ、あるいは薩長土肥ふくむ明治以来の新政府へいえることだ。もっと巨視すれば、平和の縄文文明が戦争の弥生文明がわへあてつけられる真理だ。そういった蛮行で絶滅戦争をした結果は、かれらをふくむ種の多様化をそこなうばかりかにくしみやうらみ、あるいはきらいをかい、将来の繁殖価をへらすことだろう。だれからもうらまれたりいとわれたりしないばかりか好感をもたれる人間になれれば、つまりよいひとになれれば種の多様化という本来のいきものとしてのめあてにかなえる。
善はいそげ、悪はのばせ。このことわざは過去から未来まで人類に記録や記憶の才があればかならず業があるから。なんらかの利他性を徳あるいはのりとし、工学や知識は別個のものとする。こうすると、いわゆるmeta-physics、「自然学のあと」というものは、工学や知識というphysicsより優先度がたかいのがみてとれる。それは業という社会のなかにあるしくみが、いずれ人類のなかにかえってきやすいから。善はいそいだ方がよい行動者の系列としてひとびとに協調性をうけがいやすく、悪のばあいはどうしようもなくしなければいけないときでもできるかぎりさきのばしにしていれば、いずれ状況がかわり、しなくともすむことになるかもしれない。
ある時間をへだててみれば、こういった因果ははっきりでる。ゆえに科学のつみかさねは、ある意味では形而上学とよべるかんがえ、社会を運用していくのりとしての哲学のもとでしかない。そしていそがれているのは、実際には善をになう哲学の方なのだ。真善美は科学、哲学、芸術というそれぞれのしわざがうみだすある特長をいいあてている。
すべて科学、知識、scienceは自体としてものぞましいが、その応用とみればこれにつかえるだけだろう。工学の濫用が戦争や侵略をまきおこす。しかし、政治のしかたがただしいかどうかがとわれている。
人類史でおきたもっとも悲惨なできごとのひとつは、ヨーロッパ移民らによるアメリカ大陸の先住民の虐殺での建国だ。これがアメリカ大陸の精神として政治上ただしいとはおもえない。そして同様の歴史は、茨城の名義になっている天皇家支配へもあてられる。このどちらのばあいも工学はまちがったつかいみちをされている。工学は芸術の基礎だから、目的としての芸術を高度化させるためにある。つまり岡倉天心のいう意味での「戦争による野蛮人が高貴な芸術をこどものあそびにあたいするとおもいたければおもえ、われらはよろこんでまとう」というのが、アメリカや天皇家へ、あるいは薩長土肥ふくむ明治以来の新政府へいえることだ。もっと巨視すれば、平和の縄文文明が戦争の弥生文明がわへあてつけられる真理だ。そういった蛮行で絶滅戦争をした結果は、かれらをふくむ種の多様化をそこなうばかりかにくしみやうらみ、あるいはきらいをかい、将来の繁殖価をへらすことだろう。だれからもうらまれたりいとわれたりしないばかりか好感をもたれる人間になれれば、つまりよいひとになれれば種の多様化という本来のいきものとしてのめあてにかなえる。
善はいそげ、悪はのばせ。このことわざは過去から未来まで人類に記録や記憶の才があればかならず業があるから。なんらかの利他性を徳あるいはのりとし、工学や知識は別個のものとする。こうすると、いわゆるmeta-physics、「自然学のあと」というものは、工学や知識というphysicsより優先度がたかいのがみてとれる。それは業という社会のなかにあるしくみが、いずれ人類のなかにかえってきやすいから。善はいそいだ方がよい行動者の系列としてひとびとに協調性をうけがいやすく、悪のばあいはどうしようもなくしなければいけないときでもできるかぎりさきのばしにしていれば、いずれ状況がかわり、しなくともすむことになるかもしれない。
ある時間をへだててみれば、こういった因果ははっきりでる。ゆえに科学のつみかさねは、ある意味では形而上学とよべるかんがえ、社会を運用していくのりとしての哲学のもとでしかない。そしていそがれているのは、実際には善をになう哲学の方なのだ。真善美は科学、哲学、芸術というそれぞれのしわざがうみだすある特長をいいあてている。
2013年2月16日
東京の反面教師性
茨城県は東京都のわるい部分をしりぞけて、最高の地位をしめるべきだ。わけなく東京都を模倣している水戸以南の人間は、そのわるい面すらまねてしまっているとおもわれる。
基本として日本のマスコミに扇動されたり、総合ブランド研究所の様なネット世論まがいの偏見にだまされる人間は「衆愚」とよんでいい。この集団にこびへつらう必要はまったくなく、かえってこのclusterは最大限さけ、その逆にいくことがよい結果になる。
特に性的退廃というのが東京都の最悪の面だ。水戸と土浦はだれがなんといおうと、こういった「わるい」なりわいを東京都むかしでいう江戸からまねてしまって、そのひどさは東京ほどではないにせよ県全体に害毒をもたらしている。こういった商売は売春防止法によって断固としてとりしまられていい。東京都というのはこの点はっきりいえば世界でも最低の場所、最悪の風俗だからまったく反面教師にしかならない。もしこの真相が理解できないか誤解しているとしたら、テレビなどで印象操作されて真実をしらない衆愚でしかないのであいてにするだけ損害だ。水戸市内、土浦市内で茨城県警は断固、性をうりものにしている犯罪者のとりしまりをしていいのだ。そもそもこういった人間はどの国家にあっても最も害がある。いいかえればそのたぐいの隣国からのアメリカへの移民が現に迷惑がられている様に、あるいは茨城県でも現に迷惑であるごとく、普段からごく風紀のわるい東京や大阪からどこかのくにへの移民にも同様のみかたがされることが当然予想できる。外国人HIV患者、あるいは同日本人、性的に堕落した東京人とそこから影響をうけたひとびとが東京都から直接飛び火しているのが、茨城県内の風紀にとっては最大の憂慮である。電車や地下鉄、道路での東京都とのつながりはこの点むしろ不便なくらいの方がいい。
つぎに、犯罪率。東京都は当然だが大阪府とおなじくらい日本最悪の発生率で、まったくわるい場所だ。強姦、強盗、侵入強盗、殺人の人口比における犯罪発生率1位が東京である(出展: 警察庁、犯罪統計資料(平成24年1~4月分)。
結局このどちらの場面でも、警察のつよさ、とりしまり能力がおおきく効果をもち、なおかつほとんどの課題が水戸をふくみそれ以南、特に県南にあるとかんがえられる。それだけ、東京からはいってくるひとがいるからだ。
茨城県知事にはつよく、この2つのとりしまりを強化されることをねがう。まず水戸や土浦の売春防止法にもとづく徹底的な風俗浄化、そして警察組織の強化による犯罪の徹底的なとりしまり。どちらも、東京都、特に甚だしい前例のある新宿あたりが反面教師になるといえるだろう。
この全体図をみると、こうわかる。
テレビの登場以降、それが洗脳装置としてはたらき日本をふくめ人類の現実感をうそでぬりかためてしまった。東京都などすみごこちからいえばほとんど最悪の場所にちかいのに、テレビではさもいい場面ばかりをきかざってうつすので、その洗脳装置にあたまを支配された人間は、どこにもない東京という場所を現実にはそれよりはるかによい茨城よりもすぐれているとおもいこんでいる。これが真相である。この洗脳された愚民というべき人間は、また総合ブランド研究所によるネット世論のにないてでもあって、北海道や沖縄という過酷または深刻な自然環境や、経済状況や心身の健康におとった場所をいわばテレビ洗脳されてよい場所だとおもいつめている。いいかえれば、テレビの内容がかれら衆愚にとっては現実におきかわってしまったのだ。
としよりがテレビで洗脳されつづけていく光景があちこちでみられる。それどころか、こどもさえそうだ。テレビはこうして資本主義の悪魔のはこ、パンドラのはこだった。
茨城県が唯一、テレビ局をもっていない。これは以上の論旨をもってすればかえってよいことというほかないだろう。俗にそまっていない。まだたすけがい、すくい様があるのだ。そしてわれらはこの日本でもっとも貴重な長所をむしろそだてていかねばならないだろう。テレビやマスメディアなんてあいてにしないし、かえってそういう態度をもった高貴かつ良識的な人間を大事にし、まねき、すまわせ、かこいこんでいく。この方向性が知識人、文化人のだけではなく、一般人の社会としても将来性があるといえる。そして本来あるべきすがたとは、東京都のごとき俗物根性のすみかたではなく、茨城県の様に質実剛健のいきかたでなければならない。日本人や外国人の衆愚がこのことにきづくときづくまいと、われらは人類としてまっとうで、ただしいみちをいくべきだ。そしていつか衆愚はそのあやまちとあやまりのために大失敗があきらかになるだろうし、うそを本当かの様におもいこんでいたひとびとはそこからくる不経済のために結局はくらしを悪化させ、健康性をそこなったり悪質な子女しかそだてえないだろう。つまりは社会的な淘汰がおこるかぎりはこういったわるい系譜はそもそも時代ごとにすこしずつ除去され、数がへるか、末期には絶滅するはずだ。
結局、こうしてみれば洗脳装置によって衆愚をあざむいてみたり、印象操作をして世界に害をあたえたりしていた結果は、巨悪として因果にはねかえってくるのだろう。現実に東京都ほど生活環境が最悪なのは、おなじ日本では大阪府くらいのものだろうが、いまだに衆愚はさもこれらの最悪レベルのくらしづらい場所をよいものかのごとく、ひびの映像と音声による洗脳で頭脳を支配されているわけだ。日本の極端な人口密度のかたよりはこうして生じている。しかしそういったむれたがる人間へなにも仕様がないから、単におろかものとしてみかぎるほかない。
東京都のよい点はおもにその人口規模のみ、といえるかもしれない。すでに人口比がそのまま、出自しえる才能の多様性としてノーベル賞受賞者数に比例するとわかっている(社会学)。つまり、茨城県ではこれから人口比をもっとふやすこと、たくみな宅地開発や都市部のたかさ制限、緑地整備などで人口集中度をおさえながら総合人口比では東京都よりもおおくなることが必要になる。
また将来機会があれば、茨城県では放送大学よりもすぐれた質をほこる局をもって、県民がほかの諸都道府県より徳をえられる様にすべきだろう。自分のしるかぎり、NHKのBSプレミアムをのぞけば、イギリスBBCワールドニュースがその視野のひろさとまじめさという点で質のたかい報道局であり、これをNHK水戸放送局は模すればいいかもしれない。
法人としての放送大学そのものを、幕張から県内に誘致することもひとつの有効なてだてになるかもしれない。そしてこういった放送大学で筑波大学や茨城大学、ほかの公開大学講座を茨城県民へ限定してとどければ県民の教育レベルをあげることができる。この最後の構想はいわば弘道館テレビ局化構想といえる。
基本として日本のマスコミに扇動されたり、総合ブランド研究所の様なネット世論まがいの偏見にだまされる人間は「衆愚」とよんでいい。この集団にこびへつらう必要はまったくなく、かえってこのclusterは最大限さけ、その逆にいくことがよい結果になる。
特に性的退廃というのが東京都の最悪の面だ。水戸と土浦はだれがなんといおうと、こういった「わるい」なりわいを東京都むかしでいう江戸からまねてしまって、そのひどさは東京ほどではないにせよ県全体に害毒をもたらしている。こういった商売は売春防止法によって断固としてとりしまられていい。東京都というのはこの点はっきりいえば世界でも最低の場所、最悪の風俗だからまったく反面教師にしかならない。もしこの真相が理解できないか誤解しているとしたら、テレビなどで印象操作されて真実をしらない衆愚でしかないのであいてにするだけ損害だ。水戸市内、土浦市内で茨城県警は断固、性をうりものにしている犯罪者のとりしまりをしていいのだ。そもそもこういった人間はどの国家にあっても最も害がある。いいかえればそのたぐいの隣国からのアメリカへの移民が現に迷惑がられている様に、あるいは茨城県でも現に迷惑であるごとく、普段からごく風紀のわるい東京や大阪からどこかのくにへの移民にも同様のみかたがされることが当然予想できる。外国人HIV患者、あるいは同日本人、性的に堕落した東京人とそこから影響をうけたひとびとが東京都から直接飛び火しているのが、茨城県内の風紀にとっては最大の憂慮である。電車や地下鉄、道路での東京都とのつながりはこの点むしろ不便なくらいの方がいい。
つぎに、犯罪率。東京都は当然だが大阪府とおなじくらい日本最悪の発生率で、まったくわるい場所だ。強姦、強盗、侵入強盗、殺人の人口比における犯罪発生率1位が東京である(出展: 警察庁、犯罪統計資料(平成24年1~4月分)。
結局このどちらの場面でも、警察のつよさ、とりしまり能力がおおきく効果をもち、なおかつほとんどの課題が水戸をふくみそれ以南、特に県南にあるとかんがえられる。それだけ、東京からはいってくるひとがいるからだ。
茨城県知事にはつよく、この2つのとりしまりを強化されることをねがう。まず水戸や土浦の売春防止法にもとづく徹底的な風俗浄化、そして警察組織の強化による犯罪の徹底的なとりしまり。どちらも、東京都、特に甚だしい前例のある新宿あたりが反面教師になるといえるだろう。
この全体図をみると、こうわかる。
テレビの登場以降、それが洗脳装置としてはたらき日本をふくめ人類の現実感をうそでぬりかためてしまった。東京都などすみごこちからいえばほとんど最悪の場所にちかいのに、テレビではさもいい場面ばかりをきかざってうつすので、その洗脳装置にあたまを支配された人間は、どこにもない東京という場所を現実にはそれよりはるかによい茨城よりもすぐれているとおもいこんでいる。これが真相である。この洗脳された愚民というべき人間は、また総合ブランド研究所によるネット世論のにないてでもあって、北海道や沖縄という過酷または深刻な自然環境や、経済状況や心身の健康におとった場所をいわばテレビ洗脳されてよい場所だとおもいつめている。いいかえれば、テレビの内容がかれら衆愚にとっては現実におきかわってしまったのだ。
としよりがテレビで洗脳されつづけていく光景があちこちでみられる。それどころか、こどもさえそうだ。テレビはこうして資本主義の悪魔のはこ、パンドラのはこだった。
茨城県が唯一、テレビ局をもっていない。これは以上の論旨をもってすればかえってよいことというほかないだろう。俗にそまっていない。まだたすけがい、すくい様があるのだ。そしてわれらはこの日本でもっとも貴重な長所をむしろそだてていかねばならないだろう。テレビやマスメディアなんてあいてにしないし、かえってそういう態度をもった高貴かつ良識的な人間を大事にし、まねき、すまわせ、かこいこんでいく。この方向性が知識人、文化人のだけではなく、一般人の社会としても将来性があるといえる。そして本来あるべきすがたとは、東京都のごとき俗物根性のすみかたではなく、茨城県の様に質実剛健のいきかたでなければならない。日本人や外国人の衆愚がこのことにきづくときづくまいと、われらは人類としてまっとうで、ただしいみちをいくべきだ。そしていつか衆愚はそのあやまちとあやまりのために大失敗があきらかになるだろうし、うそを本当かの様におもいこんでいたひとびとはそこからくる不経済のために結局はくらしを悪化させ、健康性をそこなったり悪質な子女しかそだてえないだろう。つまりは社会的な淘汰がおこるかぎりはこういったわるい系譜はそもそも時代ごとにすこしずつ除去され、数がへるか、末期には絶滅するはずだ。
結局、こうしてみれば洗脳装置によって衆愚をあざむいてみたり、印象操作をして世界に害をあたえたりしていた結果は、巨悪として因果にはねかえってくるのだろう。現実に東京都ほど生活環境が最悪なのは、おなじ日本では大阪府くらいのものだろうが、いまだに衆愚はさもこれらの最悪レベルのくらしづらい場所をよいものかのごとく、ひびの映像と音声による洗脳で頭脳を支配されているわけだ。日本の極端な人口密度のかたよりはこうして生じている。しかしそういったむれたがる人間へなにも仕様がないから、単におろかものとしてみかぎるほかない。
東京都のよい点はおもにその人口規模のみ、といえるかもしれない。すでに人口比がそのまま、出自しえる才能の多様性としてノーベル賞受賞者数に比例するとわかっている(社会学)。つまり、茨城県ではこれから人口比をもっとふやすこと、たくみな宅地開発や都市部のたかさ制限、緑地整備などで人口集中度をおさえながら総合人口比では東京都よりもおおくなることが必要になる。
また将来機会があれば、茨城県では放送大学よりもすぐれた質をほこる局をもって、県民がほかの諸都道府県より徳をえられる様にすべきだろう。自分のしるかぎり、NHKのBSプレミアムをのぞけば、イギリスBBCワールドニュースがその視野のひろさとまじめさという点で質のたかい報道局であり、これをNHK水戸放送局は模すればいいかもしれない。
法人としての放送大学そのものを、幕張から県内に誘致することもひとつの有効なてだてになるかもしれない。そしてこういった放送大学で筑波大学や茨城大学、ほかの公開大学講座を茨城県民へ限定してとどければ県民の教育レベルをあげることができる。この最後の構想はいわば弘道館テレビ局化構想といえる。
2013年2月14日
水戸市の高級文化サロン計画
ところで現在、茨城県水戸市で「第1回世界チョコレートフェスティバル」という催しが行われている。水戸市は2005~2007年の総務省家計調査品目別調査で、世帯あたりのチョコレート購入額1位。2009~2011年の調査でもチョコレートで9位(5116円)、菓子類全般で見ても全国2位(9万2362円)と、全国有数のスイーツ都市と言えそうだ。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130213-00000011-pseven-life
では、全国No.1のスイーツ都市はどこか。全「菓子類」で総合No.1は石川県金沢市(9万5110円)。金沢市は「ようかん」「まんじゅう」を除いた「他の和生菓子」(1万6952円)や「チョコレート」(5840円)でも1位を獲得している。
水戸市はまた、統計局の家計調査(二人以上の世帯)によれば、メロン購入額(1世帯当たり年間の支出金額及び購入数量)が全国1位と統計局の調査ででている。茨城はメロンの生産量も全国1位で、全国の1/4を収穫している。
http://www.stat.go.jp/data/kakei/5.htm
都道府県別 メロン生産量ランキング一覧
メロン 収穫量及び出荷量 (平成21年産)
ランク 収穫量t 出荷量t 前年産対比収穫量% 前年産対比出荷量%
全国 199400 181100 96 96
1 茨城 46500 43700 99 100
http://www.japan-now.com/article/192626160.html
つまり、水戸市が菓子文化全般で全国2位にあり、茨城県はメロンという高級品でも全国1位の生産・消費地ということは、石川県の金沢市を研究してそのうえをめざせば日本一の菓子文化の都市にできる。兼六園もかさなるから、この庭園と文化という2面から金沢市を十分研究し、換骨奪胎でそれを改良するかたちによりさらに、すぐれた都市をつくっていく必要があるだろう。
同じ統計局の平成21~23年平均の家計調査品目別データ、菓子類(エクセル:46KB)の購入金額によれば、金沢市は「他の和生菓子」と「チョコレート」で1位、「カステラ」で2位、「チョコレート菓子」と「アイスクリーム・シャーベット」で3位になっている。水戸市の得意分野というのはきわだっていない。つまり、全般的に菓子文化をもりたてていくなかで、和菓子、チョコレート、チョコレート菓子、カステラ、アイスクリーム・シャーベットを重点的な販売目標にすればよいことになる。
http://www.stat.go.jp/data/kakei/zuhyou/rank09.xls
庭園文化とみて、千羽湖畔と偕楽園をみわたせる場所にかずおおく喫茶店をつくればよい。そしてそこを上述の高級品の提供をおもとした首都圏最大のいこいの場として、貴人のたむろするさかりばにすればよい。いってみれば、全世界から第一流の貴族と文人があつまる高級文化サロンを、偕楽園の付近につくりだせればいい。単に烈公のすでにつくった好文亭を模し現代化した大規模再開発計画なので、うけいれられやすいだろう。そして将来的に、地球でもっともひろい都市公園へと偕楽園を拡張し、さらにその質を高貴に展開していくべきだ。
こうしてLRTかtube(地下鉄)かはきめられていないが、つくばとの直通化も必要になるとおもわれる。おそらくチューブ化の方が防空対策とみてもすぐれており、LRTはひろがった構造をもつ水戸市内循環バスがさらに環境学的かつ電気的に効率化され代替されるものだろう。
2013年2月11日
東海第二原発の無意義さ
日本の火力発電所一覧と東京電力の火力発電所、そして東海第二原子力発電所によると、茨城県にある東海第二原発の総出力は、たった110万キロワットにすぎず、たとえば石炭が燃料の常陸那珂火力発電所100万キロワット2機で十分まかなえる。副生ガスや重油による鹿島共同発電所で105万kw。石炭、重油、炭化燃料、木質バイオマスによる勿来発電所で162.5万kw。重油、原油による鹿島火力発電所で440万kW。都市ガスによる品川火力発電所で114万kw。
さらに、猪瀬都知事の記者会見発言によれば、そもそもこの日本原子力発電という東京電力株式会社も28.23%出資するほぼすべての全国の大規模電力会社が共同出資で、いわば商用原子力発電のさきがけとしてつくった東京都にある会社、そこからの東京電力への80%の売電分など、まったく眼中にもはいっていないのだ。
猪瀬知事記者会見 平成24年12月18日(火曜) 14時10分~15時05分
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2012/121218.htm
言及さえしてない以上、あってもなくてもかまわない、どうでもいいというあつかいである。それなら茨城県民がくるしいだけなのだからいますぐやめてしまえばいい。まじめで善良な茨城県民は、東京や横浜という大電力消費地からたのまれ、かれらをたすけるつもりであえて負担のおおきな電力供給の元となり長年苦労しながらなんとか関東地方・首都圏の同士らをてつだってきたのだが、かれらからなんにも感謝されていないならいますぐやめるしかない。それどころか、東京都や神奈川県の俗物たちは、かえってこうしたてつだいをしてきた茨城県をいなかだの魅力がないだのと馬鹿にしてくる始末であり、悪友としか言い様がない。東京都民と神奈川県民の平均値は、カウントリーサイドの自然美を理解できない悪趣味の俗物どもでしかないのであり、悪友でしかない不良の東京都と神奈川県とは、優等生の茨城県民はいますぐ金の切れ目をつくることによってできるだけ縁をきるべきだ。それがわれらのためだけではなく、全国民ひいては人類の向上のためになる。
くりかえすが、日本電子力発電株式会社は東京が本社なのに原発そのものは茨城に立地させているうえ、あまんじてその苦労してつくってきた電力(ほかには食料や人材すら)を茨城からうけとって楽ばかりしている東京や神奈川の連中は、ながながと苦労をせおってきている茨城県域のわれらになんの感謝の念もまったくない。それどころかおなじ首都圏の茨城にあることさえしらないわけだ。完全に悪友である東京都と神奈川県というたましいのよごれきった下賎なスラムである南関東俗物界は、てつだってやるだけ世の害、いままでは茨城県民が好意からやってきた食料や人材を好意から今後あたえてやることなどはいうまでもなく、原発による電力のてだすけなど完全にやってあげているだけ損がふくらむとしかいい様がない事業なのである。
また最初の資料をみると、原子力発電所というものは案外出力がひくく、はっきりいってわりがあわない発電装置であるとはっきりわかる。しかも危険はもっともたかいわけで、ない方がいいというのがあきらかだ。即刻廃炉にむけていくのが県民のためとかんがえていい。
原子力発電所というのは電力の出力用ではなくて、単にCO2悪玉論という科学的かどうかさえあやしい面から要求された偶然の施設である、といえる。そしてこの出力量のなんということはなさは、十分ほかの種類の発電源でもまかなえる分であるかぎり、東海第二原発というのは廃止しようがまったく首都圏には悪影響がないと確約できる。かわりにもっと環境負荷と危険のすくない発電所を建設すればいいにすぎない。東海村にある東海第二原子力発電所の発電出力そのものが、おそらく実験炉という位置づけのためだろうが、すぐとなりの常陸那珂にある石炭発電所となんらかわらないのである。そんな中途半端なものをわざわざもっておきたい理由がまったくない。たとえば廃炉の技術がうんぬんといういいわけが政治方面からきこえるが、そんなものは全国にも全地球にもいくらでも原発が現につくられているし現にあるのだから、じもとにひとつもなかろうとなんの損でも不徳でもない。それをだれひとり非難しないだろう。そればかりか、率先して脱原発のさきがけになったとなれば平和主義者らから確実にほめてもらえる。そして原発がじもとにひとつもなかろうと、数十年ちかく延々とつづく廃炉作業が全世界のあちこちにのこっているかぎり、たとえば日立プラントテクノロジーや東海村の原発関連事業への従事者らにそれに類したしごとが地球からなくなることも最低でもあと百年以内にはありえない。むしろこれから、全地球規模で原発技術者はひっぱりだこになっていくだろう。しかし、地雷撤去の専門家みたいなものでじもとでの原発の有無とはまったく無関係だし、危険物はくらしのちかくにない方がいい。廃炉から計画における最大の安全率確保まで、いわば人類の安全圏をひろめるための専門家なのだから。
それと、IAEAは核の平和利用を前提とした団体なので、燃料ウランの核兵器への転用は当然ここからの離脱が必要となり、さまざまな原子力機関への忠告や助言、情報提供もうけられないことになるから、はっきりいってそんなことはできない。そういった陰謀論じみたかんがえかたはすべて公然となって透明化されていないかぎり、また国家が公然としていないかぎりは不正、ゆえ国民にとってないものとみなすべきなのだ。
勿論、ソーラーパネルの設置助成や風力といったもっとも自然にちかい発電装置をひろげていくことが、あきらかに政治的であるといえるだろう。最大多数の最高幸福が功利主義でいう政治の目的である。県民の安心をおびやかしながら、首都圏に危険施設を運転していく必要などまったくないばかりか、完全に損害しかないとさえいいきれる。そして金銭や経済というものは「いのちあってのものだね」であるかぎり、交付金ほしさに永遠につづくともいえるおおきな不安とたえざるいのちの危険をせおうのは、そればかりか土地財産を全部うしないかねない危険物を廃炉にむけていかずなんと逆に再稼動させていくのは、まことにおろかなこととしかいえない。一体、茨城県民とはそんなに判断力がなくおろかしくてすくえない、どう仕様もない賭博うちなのだろうか。
生活大県というわれらが県知事の御発言と御展望はまことに煥発きわまりないが、県内の原子力発電所の廃止というのは当然その第一歩になるものであると期待する。また全世界に率先して日本初の商用炉をおこした歴史からおなじく、日本初の全面廃止をきめたあかつきには、地球人類の先端をはしる科学技術というものの希望と限界を甚大な事故がおこるまえに他山の石から学習した勇気とたかい技能、そして賢慮ある県民として、全国民をふくめた世界から茨城県へのその偉大な英知へのかぎりない賞賛とまぎれない名誉のかがやきを予想する。というより、この立派としかいいがたい最高の業績からはノーベル平和賞をもらえて当然といえよう。
われらが県知事は東海第二原発の再稼働について、東海村議会、県議会、県安全対策委員会(委員長は岡本孝司東大院工学系研究科教授)のうち、1か所でも反対があれば再稼働を行わない、と御発言があったというツイッターの情報をみた。このうち、東海村議会は村長が健在であれば反対になるだろう。県の最北部にあるわれらとしては県議会での反対決議しかとれるてはないことになる。
さらに、猪瀬都知事の記者会見発言によれば、そもそもこの日本原子力発電という東京電力株式会社も28.23%出資するほぼすべての全国の大規模電力会社が共同出資で、いわば商用原子力発電のさきがけとしてつくった東京都にある会社、そこからの東京電力への80%の売電分など、まったく眼中にもはいっていないのだ。
猪瀬知事記者会見 平成24年12月18日(火曜) 14時10分~15時05分
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2012/121218.htm
【記者】東京のエネルギーですね、エネルギー政策としましてですね、火力発電所がありますね、風力発電のエネルギーも再生可能エネルギーとしてどんどん採用していくと。こういう中において、猪瀬都知事のですね、目指すものは何なのかということなんです。簡単に言いますと…。
【知事】簡単に初めから言ってくれよ。
【記者】簡単に言いますと、脱原発依存社会を目指すのか目指さないのかという問題が1つあると思うんですね。東京のエネルギーをいかにして確保していくかという問題とあわせて、その姿勢を改めてお聞きしたいと思っております。
【知事】東京は、既に脱原発社会になっています。なぜならば、福島から900万キロワット来ていません。新潟から、柏崎刈羽から800万キロワット来ていません。1700万キロワットの原子力発電の電源が失われています、現在。そして、こういう電気がついている。ということは、東京湾に今、老朽火力発電所、35年から40年物だけで1700万キロワットあります。それがフル操業しています。それでこういう状況で、何とか節電効果と相まって電力が供給されていると、こういうことですので、既に新しい火力発電所は幾つかありますが、1700万キロワット分の老朽火力発電所は、リプレイスして新しいものに変えていく。その場合に、民間の資本を入れていく、新電力の参加を促す。それから、お隣の中部電力だって、東京電力エリアで発電所を運営していいんですよ、こういうふうな形で、東京電力改革というのは、電力の自由化の第一歩であります。で、全国で9電力独占体制というのがありますが、新電力の比率は3.5%しかないので、これを少なくとも1割、2割、3割ぐらいになることによって、また9つの電力会社の独占体制の壁を打ち破ることによって、むしろ電力供給は安定化するだろうというふうに考えております。これだけでも大仕事です。で、それを多分、やる人はいないと思いますので、僕は東京都知事になった1つの理由は、そこにもあります。
言及さえしてない以上、あってもなくてもかまわない、どうでもいいというあつかいである。それなら茨城県民がくるしいだけなのだからいますぐやめてしまえばいい。まじめで善良な茨城県民は、東京や横浜という大電力消費地からたのまれ、かれらをたすけるつもりであえて負担のおおきな電力供給の元となり長年苦労しながらなんとか関東地方・首都圏の同士らをてつだってきたのだが、かれらからなんにも感謝されていないならいますぐやめるしかない。それどころか、東京都や神奈川県の俗物たちは、かえってこうしたてつだいをしてきた茨城県をいなかだの魅力がないだのと馬鹿にしてくる始末であり、悪友としか言い様がない。東京都民と神奈川県民の平均値は、カウントリーサイドの自然美を理解できない悪趣味の俗物どもでしかないのであり、悪友でしかない不良の東京都と神奈川県とは、優等生の茨城県民はいますぐ金の切れ目をつくることによってできるだけ縁をきるべきだ。それがわれらのためだけではなく、全国民ひいては人類の向上のためになる。
くりかえすが、日本電子力発電株式会社は東京が本社なのに原発そのものは茨城に立地させているうえ、あまんじてその苦労してつくってきた電力(ほかには食料や人材すら)を茨城からうけとって楽ばかりしている東京や神奈川の連中は、ながながと苦労をせおってきている茨城県域のわれらになんの感謝の念もまったくない。それどころかおなじ首都圏の茨城にあることさえしらないわけだ。完全に悪友である東京都と神奈川県というたましいのよごれきった下賎なスラムである南関東俗物界は、てつだってやるだけ世の害、いままでは茨城県民が好意からやってきた食料や人材を好意から今後あたえてやることなどはいうまでもなく、原発による電力のてだすけなど完全にやってあげているだけ損がふくらむとしかいい様がない事業なのである。
また最初の資料をみると、原子力発電所というものは案外出力がひくく、はっきりいってわりがあわない発電装置であるとはっきりわかる。しかも危険はもっともたかいわけで、ない方がいいというのがあきらかだ。即刻廃炉にむけていくのが県民のためとかんがえていい。
原子力発電所というのは電力の出力用ではなくて、単にCO2悪玉論という科学的かどうかさえあやしい面から要求された偶然の施設である、といえる。そしてこの出力量のなんということはなさは、十分ほかの種類の発電源でもまかなえる分であるかぎり、東海第二原発というのは廃止しようがまったく首都圏には悪影響がないと確約できる。かわりにもっと環境負荷と危険のすくない発電所を建設すればいいにすぎない。東海村にある東海第二原子力発電所の発電出力そのものが、おそらく実験炉という位置づけのためだろうが、すぐとなりの常陸那珂にある石炭発電所となんらかわらないのである。そんな中途半端なものをわざわざもっておきたい理由がまったくない。たとえば廃炉の技術がうんぬんといういいわけが政治方面からきこえるが、そんなものは全国にも全地球にもいくらでも原発が現につくられているし現にあるのだから、じもとにひとつもなかろうとなんの損でも不徳でもない。それをだれひとり非難しないだろう。そればかりか、率先して脱原発のさきがけになったとなれば平和主義者らから確実にほめてもらえる。そして原発がじもとにひとつもなかろうと、数十年ちかく延々とつづく廃炉作業が全世界のあちこちにのこっているかぎり、たとえば日立プラントテクノロジーや東海村の原発関連事業への従事者らにそれに類したしごとが地球からなくなることも最低でもあと百年以内にはありえない。むしろこれから、全地球規模で原発技術者はひっぱりだこになっていくだろう。しかし、地雷撤去の専門家みたいなものでじもとでの原発の有無とはまったく無関係だし、危険物はくらしのちかくにない方がいい。廃炉から計画における最大の安全率確保まで、いわば人類の安全圏をひろめるための専門家なのだから。
それと、IAEAは核の平和利用を前提とした団体なので、燃料ウランの核兵器への転用は当然ここからの離脱が必要となり、さまざまな原子力機関への忠告や助言、情報提供もうけられないことになるから、はっきりいってそんなことはできない。そういった陰謀論じみたかんがえかたはすべて公然となって透明化されていないかぎり、また国家が公然としていないかぎりは不正、ゆえ国民にとってないものとみなすべきなのだ。
勿論、ソーラーパネルの設置助成や風力といったもっとも自然にちかい発電装置をひろげていくことが、あきらかに政治的であるといえるだろう。最大多数の最高幸福が功利主義でいう政治の目的である。県民の安心をおびやかしながら、首都圏に危険施設を運転していく必要などまったくないばかりか、完全に損害しかないとさえいいきれる。そして金銭や経済というものは「いのちあってのものだね」であるかぎり、交付金ほしさに永遠につづくともいえるおおきな不安とたえざるいのちの危険をせおうのは、そればかりか土地財産を全部うしないかねない危険物を廃炉にむけていかずなんと逆に再稼動させていくのは、まことにおろかなこととしかいえない。一体、茨城県民とはそんなに判断力がなくおろかしくてすくえない、どう仕様もない賭博うちなのだろうか。
生活大県というわれらが県知事の御発言と御展望はまことに煥発きわまりないが、県内の原子力発電所の廃止というのは当然その第一歩になるものであると期待する。また全世界に率先して日本初の商用炉をおこした歴史からおなじく、日本初の全面廃止をきめたあかつきには、地球人類の先端をはしる科学技術というものの希望と限界を甚大な事故がおこるまえに他山の石から学習した勇気とたかい技能、そして賢慮ある県民として、全国民をふくめた世界から茨城県へのその偉大な英知へのかぎりない賞賛とまぎれない名誉のかがやきを予想する。というより、この立派としかいいがたい最高の業績からはノーベル平和賞をもらえて当然といえよう。
われらが県知事は東海第二原発の再稼働について、東海村議会、県議会、県安全対策委員会(委員長は岡本孝司東大院工学系研究科教授)のうち、1か所でも反対があれば再稼働を行わない、と御発言があったというツイッターの情報をみた。このうち、東海村議会は村長が健在であれば反対になるだろう。県の最北部にあるわれらとしては県議会での反対決議しかとれるてはないことになる。
茨城の近未来
「関東地域の食料自給率(関東農政局)」
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
にみられるとおり、茨城県と栃木県は食料自給率が70%をうわまわっている。それぞれ、茨城70%、栃木72%。茨城県と栃木県は食料自給の優等生なのがあきらかだ。
ところが、東京1%、神奈川3%と、この南関東の2地域は日本の食料自給率、そして緊急時のそなえをおこたっている。こうしてみると、東京都と神奈川県は、その食料自給率について日本国に害を与えている「わるい地域」なのだ。
おなじページから「主な先進国の食料自給率(関東農政局)」によれば日本の食料自給率は先進国で最低という惨憺たるありさまで、茨城や栃木が首都圏にあってもいかに優等生であり、全国の模範にたるかはあきらかである。だれもそれをみとめてはいないが、茨城県が全国第2位の農業生産高によって、このなさけない日本の首都圏を、栃木という同士をのぞけば、ほとんどたったひとりで改善しようとがんばって先導してきているのである。
そして東京や神奈川はこの日本人のひどい能なし状態のあしをさらにひっぱっている。都会自慢でスラムをふやし、なかんづく小国であるイギリスでも当然そうしている報国的な関税の法をなんと撤廃しようとする全面的TPPによって、つまりは日本社会の弱肉強食化によってわがくにの食料自給の努力を妨害し、報国哲学である水戸学を間接的にかろんじる神奈川出身の平山洋氏のごとく福沢諭吉の独立自尊のおしえをふみあやまって致命的に外国依存の体質をつくりだそうとする。
一体、『帝範』による「農は国の本なり」、を徳たかくも忠実に実践していた水戸徳川家は烈公のまえで、いいかえればその伝統をつぐ茨城県民の御前で諸外国から経済制裁をうけて食料輸入がとざされ、大切なたみが餓死状態になったらどうするつもりなのだろうか。
東京では東日本大震災のときすでにはなはだしい混乱におちいって、食糧難の被災地をさしおきながらあまっている食料かいしめ、あるいは供給もと茨城をさしおいてみずから東京を優先させる計画停電策という不徳かつ利己的でまことなさけない前例がある(当時の東京都知事は石原慎太郎)。おごれるものはひさしからず、東京や神奈川は、かれらの商業主義的な大都会化という状態を過信して、電気は茨城や福島等々からおくっているにもかかわらずその大衆報道をつかってまことにひどい偏見と悪意にみちみちた風説をながしてきたし、現にしている。特に東京はその食料や電気、人材を提供している茨城を魅力が最低と、単なる情報量の不足によるうそや無知と無理解でのぬれぎぬにみちた暴言をはきながらありとあらゆる資源をむさぼり、ながながと首都圏を「わるい地域」にしようとしているのである。これが東京ジャイアニズムといわれているものの本体だ。東京と神奈川は資本主義経済にあっては金融流動化の妄信、民主主義政治にあっては減反をすすめさせてようとしている。かれらは巨大な格差社会をつくりだす堕落した大消費都市にうまれそだったよごれた南関東の悪友らによって、きよらかな田園地帯がどこまでもひろがった北関東におけるふるきよき善良な風俗を悪化させたがっているし、つみぶかくも現に程度こそあれしてきた。要するに、大消費地である東京や神奈川は大生産地である茨城や栃木の印象を悪意をもっておとしめながら食料や原発、あらゆる負担をおしつけている。東京や神奈川は虚栄にそまった傲慢きわまる言動で金と権力を濫用しながら日本と世界に害をあたえ、茨城や栃木のよのためひとのため正直なおこないの邪魔をしているのだ。これは日本国のなかにかくされた巨大な罪業のしくみともいえるだろう。そして東京や神奈川は政府にかけあい減反させることでこめをはじめとした国内の食料を悪意をもってたかくし、なおかつ地方からの人材と電気の搾取でもうけたかねをひとりじめ浪費するばかりか権力を濫用するのにもちいて、非生産的で堕落し、おちぶれた虚栄をたくましくさせるという悪風をうみだしているので、わがくに不経済のねであるのもうたがい様がない。
東京や神奈川は消費、茨城や栃木は生産であるかぎり、東京や神奈川は悪、茨城や栃木は善である。東京や神奈川がなくともひとびとは生活できるが、茨城や栃木がなくてはたべものや電気さえなくなるのでひとびとは生活できなくなるからだ。日本国と世界にとって、東京や神奈川はかるく、茨城や栃木はおもい。
いままで、マスメディアですさまじいまでにカウントリーサイドである茨城や栃木への名誉毀損がおこなわれてきた。特に魅力度調査という東京にある総合ブランド研究所でおこなわれているネット風説にたぐいした情報源から、茨城ははなはだしい風評被害をうけたきた。その経済損失ははかりしれない。
勇敢な茨城と栃木の500万人は、この事実をはっきりとおおやけにうったえて、原発をつくらせその廃棄物で電気や土地だけでなく、たべものや一番大事な人材まで搾取する「わるい地域」である極悪洗脳主体・東京と神奈川の2200万人へ、できたらたくみに抗議していかなければならない。これは、実は漫然とおこなわれてきた搾取へたちむかう、このよの正義をただす政治闘争なのである。
関西広域連合にくらべても、この労働者が密集した東京と神奈川の無知ははなはだしいわけで、いってみれば京都にたぐいした茨城に対して大阪や兵庫の様な状況を呈している。おそらく「関東広域連合」として、食料がゆたかな北部と人口がおおい南部はともにてをたずさえていくのがよいのだろう。ところが、東京や神奈川には石原慎太郎の様に関西圏からはいってきた関東に親和性のない人物がまぎれこみ、内部を撹乱させているのが観察できる。
関東一円の統合をおもんじられた権現公は、まな息子である御三家を茨城県すなわち常陸の国は水戸に、墓所は栃木県すなわち下野の国日光に位置づけられたのにもかかわらず、である。これは日本の歴史を大きく展開させてきた東国武士層の勢力を重視した結果だろう。
関西からの陰謀をさけさせるに最善なのは、イギリスにおいて事実上の首都であるロンドンからすこしきたに皇居があるバッキンガムシャーを参考に、尊皇のほまれたかい水戸へわが皇室の御居場所をうつらせたまうことである。はるか古代、鹿島立ちの時代から幕末をへて、戦中に幾多の犠牲をはらいながら、常陸国府時代よりかわらず尊皇のたましいをつらぬいた水戸の風をほまれにおもわれた昭和天皇敗戦後第一の御製。
たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちおともたかくきこえて
こうして、日本最大の経済地域であるほかない関東諸地域は道州制をもちいる関西広域連合からしくまれているはず内紛と、南北の分断による首都圏弱体化の悪意をまぬがれ、和を以て貴しとなし、ともにてをたずさえて維持され発展していくだろう。ふるいつきあいのある兄弟分として人口分散というはじめの目的も、これで政治の中枢としての東京都と矛盾なくまとまるはずである。日本人がカウントリーサイド、田園側を愛したまい、いつくしい自然との調和をとうとび、イギリス人の様に品性のたもたれたなかまになることをわたしはのぞむ。
http://www.maff.go.jp/kanto/kids/graph/graph03.html
にみられるとおり、茨城県と栃木県は食料自給率が70%をうわまわっている。それぞれ、茨城70%、栃木72%。茨城県と栃木県は食料自給の優等生なのがあきらかだ。
ところが、東京1%、神奈川3%と、この南関東の2地域は日本の食料自給率、そして緊急時のそなえをおこたっている。こうしてみると、東京都と神奈川県は、その食料自給率について日本国に害を与えている「わるい地域」なのだ。
おなじページから「主な先進国の食料自給率(関東農政局)」によれば日本の食料自給率は先進国で最低という惨憺たるありさまで、茨城や栃木が首都圏にあってもいかに優等生であり、全国の模範にたるかはあきらかである。だれもそれをみとめてはいないが、茨城県が全国第2位の農業生産高によって、このなさけない日本の首都圏を、栃木という同士をのぞけば、ほとんどたったひとりで改善しようとがんばって先導してきているのである。
そして東京や神奈川はこの日本人のひどい能なし状態のあしをさらにひっぱっている。都会自慢でスラムをふやし、なかんづく小国であるイギリスでも当然そうしている報国的な関税の法をなんと撤廃しようとする全面的TPPによって、つまりは日本社会の弱肉強食化によってわがくにの食料自給の努力を妨害し、報国哲学である水戸学を間接的にかろんじる神奈川出身の平山洋氏のごとく福沢諭吉の独立自尊のおしえをふみあやまって致命的に外国依存の体質をつくりだそうとする。
一体、『帝範』による「農は国の本なり」、を徳たかくも忠実に実践していた水戸徳川家は烈公のまえで、いいかえればその伝統をつぐ茨城県民の御前で諸外国から経済制裁をうけて食料輸入がとざされ、大切なたみが餓死状態になったらどうするつもりなのだろうか。
東京では東日本大震災のときすでにはなはだしい混乱におちいって、食糧難の被災地をさしおきながらあまっている食料かいしめ、あるいは供給もと茨城をさしおいてみずから東京を優先させる計画停電策という不徳かつ利己的でまことなさけない前例がある(当時の東京都知事は石原慎太郎)。おごれるものはひさしからず、東京や神奈川は、かれらの商業主義的な大都会化という状態を過信して、電気は茨城や福島等々からおくっているにもかかわらずその大衆報道をつかってまことにひどい偏見と悪意にみちみちた風説をながしてきたし、現にしている。特に東京はその食料や電気、人材を提供している茨城を魅力が最低と、単なる情報量の不足によるうそや無知と無理解でのぬれぎぬにみちた暴言をはきながらありとあらゆる資源をむさぼり、ながながと首都圏を「わるい地域」にしようとしているのである。これが東京ジャイアニズムといわれているものの本体だ。東京と神奈川は資本主義経済にあっては金融流動化の妄信、民主主義政治にあっては減反をすすめさせてようとしている。かれらは巨大な格差社会をつくりだす堕落した大消費都市にうまれそだったよごれた南関東の悪友らによって、きよらかな田園地帯がどこまでもひろがった北関東におけるふるきよき善良な風俗を悪化させたがっているし、つみぶかくも現に程度こそあれしてきた。要するに、大消費地である東京や神奈川は大生産地である茨城や栃木の印象を悪意をもっておとしめながら食料や原発、あらゆる負担をおしつけている。東京や神奈川は虚栄にそまった傲慢きわまる言動で金と権力を濫用しながら日本と世界に害をあたえ、茨城や栃木のよのためひとのため正直なおこないの邪魔をしているのだ。これは日本国のなかにかくされた巨大な罪業のしくみともいえるだろう。そして東京や神奈川は政府にかけあい減反させることでこめをはじめとした国内の食料を悪意をもってたかくし、なおかつ地方からの人材と電気の搾取でもうけたかねをひとりじめ浪費するばかりか権力を濫用するのにもちいて、非生産的で堕落し、おちぶれた虚栄をたくましくさせるという悪風をうみだしているので、わがくに不経済のねであるのもうたがい様がない。
東京や神奈川は消費、茨城や栃木は生産であるかぎり、東京や神奈川は悪、茨城や栃木は善である。東京や神奈川がなくともひとびとは生活できるが、茨城や栃木がなくてはたべものや電気さえなくなるのでひとびとは生活できなくなるからだ。日本国と世界にとって、東京や神奈川はかるく、茨城や栃木はおもい。
いままで、マスメディアですさまじいまでにカウントリーサイドである茨城や栃木への名誉毀損がおこなわれてきた。特に魅力度調査という東京にある総合ブランド研究所でおこなわれているネット風説にたぐいした情報源から、茨城ははなはだしい風評被害をうけたきた。その経済損失ははかりしれない。
勇敢な茨城と栃木の500万人は、この事実をはっきりとおおやけにうったえて、原発をつくらせその廃棄物で電気や土地だけでなく、たべものや一番大事な人材まで搾取する「わるい地域」である極悪洗脳主体・東京と神奈川の2200万人へ、できたらたくみに抗議していかなければならない。これは、実は漫然とおこなわれてきた搾取へたちむかう、このよの正義をただす政治闘争なのである。
関西広域連合にくらべても、この労働者が密集した東京と神奈川の無知ははなはだしいわけで、いってみれば京都にたぐいした茨城に対して大阪や兵庫の様な状況を呈している。おそらく「関東広域連合」として、食料がゆたかな北部と人口がおおい南部はともにてをたずさえていくのがよいのだろう。ところが、東京や神奈川には石原慎太郎の様に関西圏からはいってきた関東に親和性のない人物がまぎれこみ、内部を撹乱させているのが観察できる。
関東一円の統合をおもんじられた権現公は、まな息子である御三家を茨城県すなわち常陸の国は水戸に、墓所は栃木県すなわち下野の国日光に位置づけられたのにもかかわらず、である。これは日本の歴史を大きく展開させてきた東国武士層の勢力を重視した結果だろう。
関西からの陰謀をさけさせるに最善なのは、イギリスにおいて事実上の首都であるロンドンからすこしきたに皇居があるバッキンガムシャーを参考に、尊皇のほまれたかい水戸へわが皇室の御居場所をうつらせたまうことである。はるか古代、鹿島立ちの時代から幕末をへて、戦中に幾多の犠牲をはらいながら、常陸国府時代よりかわらず尊皇のたましいをつらぬいた水戸の風をほまれにおもわれた昭和天皇敗戦後第一の御製。
たのもしくよはあけそめぬ水戸の町うつつちおともたかくきこえて
こうして、日本最大の経済地域であるほかない関東諸地域は道州制をもちいる関西広域連合からしくまれているはず内紛と、南北の分断による首都圏弱体化の悪意をまぬがれ、和を以て貴しとなし、ともにてをたずさえて維持され発展していくだろう。ふるいつきあいのある兄弟分として人口分散というはじめの目的も、これで政治の中枢としての東京都と矛盾なくまとまるはずである。日本人がカウントリーサイド、田園側を愛したまい、いつくしい自然との調和をとうとび、イギリス人の様に品性のたもたれたなかまになることをわたしはのぞむ。
2013年2月8日
全員検査の権利と、アンコウの検出値の明白な数値化
市民の被曝量の全員検査を北茨城市もおこなうべき。その費用は、もとから東京電力株式会社の公害で検査が必要になったのだから、東京電力株式会社へ市から請求されるべきだ。また市外へ転居したひとも同様の権利をうけるべきだ。
すでに茨城県の牛久市や、福島県民では同様の権利を獲得しており、検査の結果福島県民で最大が30mSv(これは100mSvの被曝量で野菜不足と同等の健康リスクなので、あきらかにその3分の1以下のリスクとして十分な安全範囲になる)、茨城県の牛久市では検出されなかったとあるので、こういった全員検査が市民の安心をうみだす根拠になるのはまちがいない。そして市内に定住しても被害がない、あるいは市内で家庭をもっても安全であるとはっきりすることになるのだから、人口増につながるのがまちがいない。となりのいわき市では、福島県民の単位で全員検査がされるのにくらべ、すぐとなりの町になっただけでなんの権利もないというのはあまりにおかしい。
市の単位で有名な美味としてのアンコウなべも、このアンコウの放射能検出量をはっきりと明示すべきだ。基準値以上なら出荷できないかぎり、どうせすべてのアンコウは基準値以下なのだから、はっきり明示した方が食するひとにとっては安心できる。
このどちらのばあいにも、行政や市場を構成する漁業関係者の怠慢がなせるわざなのかもしれないが、グレーゾーンのままにして曖昧にしてしまうのがもっともよくない。動植物が基準値以上なら出荷できないし、人間の被曝量が非常にたかければ保障をうけて出産しない方がいいかもしれないのだ。後者のばあいは、放射能のプルームがいわき市と北茨城市の範囲でうみがわからもっとみなみへふきぬけたらしいという事故から数日以内のかざむきの条件から、われらの地域のおかれてきた市内環境ではたしかにほぼゼロまたは福島県の立ち入り禁止地域内から直接避難してきたひとにのみいくらかの可能性がある程度なのが科学的には予想できるにせよ、現実にしっかり検査してみて、はっきりした数値として目に確認できることが真に安心につながる。
すでに茨城県の牛久市や、福島県民では同様の権利を獲得しており、検査の結果福島県民で最大が30mSv(これは100mSvの被曝量で野菜不足と同等の健康リスクなので、あきらかにその3分の1以下のリスクとして十分な安全範囲になる)、茨城県の牛久市では検出されなかったとあるので、こういった全員検査が市民の安心をうみだす根拠になるのはまちがいない。そして市内に定住しても被害がない、あるいは市内で家庭をもっても安全であるとはっきりすることになるのだから、人口増につながるのがまちがいない。となりのいわき市では、福島県民の単位で全員検査がされるのにくらべ、すぐとなりの町になっただけでなんの権利もないというのはあまりにおかしい。
市の単位で有名な美味としてのアンコウなべも、このアンコウの放射能検出量をはっきりと明示すべきだ。基準値以上なら出荷できないかぎり、どうせすべてのアンコウは基準値以下なのだから、はっきり明示した方が食するひとにとっては安心できる。
このどちらのばあいにも、行政や市場を構成する漁業関係者の怠慢がなせるわざなのかもしれないが、グレーゾーンのままにして曖昧にしてしまうのがもっともよくない。動植物が基準値以上なら出荷できないし、人間の被曝量が非常にたかければ保障をうけて出産しない方がいいかもしれないのだ。後者のばあいは、放射能のプルームがいわき市と北茨城市の範囲でうみがわからもっとみなみへふきぬけたらしいという事故から数日以内のかざむきの条件から、われらの地域のおかれてきた市内環境ではたしかにほぼゼロまたは福島県の立ち入り禁止地域内から直接避難してきたひとにのみいくらかの可能性がある程度なのが科学的には予想できるにせよ、現実にしっかり検査してみて、はっきりした数値として目に確認できることが真に安心につながる。
2013年1月30日
東京からの不正な生活保護流入者問題
不正に生活保護を受給している者が県南に、東京都から流入しているという情報がある。
この人は受給条件をしりあいの医者などをとおしてごまかしていて、あまり罪悪感をおぼえずにそうしている様だ。もと東京都民であり、神奈川県にそういったなかまがいて、茨城県にまで転居してきたという。さらに、このひとには子までがいるという。
もしこういった事例を放置していけば、県南および茨城県内での生産的な習慣、勤労の習慣をそこなうことになり、総じてよくない結果をともなう。はやめにとりしまりや予防策を、県政と各市町村の単位にしく必要があるといえる。
不正に生活保護を受給することは、第一に本来社会保障をうけるべきひとがうけにくくなるという損失をこうむる、第二に一般社会にとってはただのりであり寄生にすぎず、最後にこの不正をしてくらすひと自身が怠惰の習慣をつけることによってかれら自身を堕落させてしまう。
この人は受給条件をしりあいの医者などをとおしてごまかしていて、あまり罪悪感をおぼえずにそうしている様だ。もと東京都民であり、神奈川県にそういったなかまがいて、茨城県にまで転居してきたという。さらに、このひとには子までがいるという。
もしこういった事例を放置していけば、県南および茨城県内での生産的な習慣、勤労の習慣をそこなうことになり、総じてよくない結果をともなう。はやめにとりしまりや予防策を、県政と各市町村の単位にしく必要があるといえる。
不正に生活保護を受給することは、第一に本来社会保障をうけるべきひとがうけにくくなるという損失をこうむる、第二に一般社会にとってはただのりであり寄生にすぎず、最後にこの不正をしてくらすひと自身が怠惰の習慣をつけることによってかれら自身を堕落させてしまう。
ネット世論調査のあしき面
http://mainichi.jp/feature/news/20130122dde012040010000c.html
特集ワイド:「ネット世論」は世論にあらず 「ゾウは細長い」と錯覚も!?
毎日新聞 2013年01月22日 東京夕刊
世論調査に詳しい政治学者、菅原琢(たく)東大先端科学技術研究センター准教授は「そもそもネット投票は世論調査とはまったく別物」と説明する。「世論調査は無作為抽出によって回答者を選ぶことで、有権者全体の意見分布を『世論』として示します。一方、ネット投票は無作為ではなく、特定の意見の人々が互いに呼びかけあって結果を動かしたりする。ネット投票の結果を『世論』と呼ぶこと自体が誤りなのです」と指摘する。
ネット投票以外の代表的な「ネット世論」の場に掲示板やSNSがある。菅原さんは「例えば中国や韓国への極端な嫌悪を表明するような人は日常生活では触れる機会が少ないが、ネット上では同じ意見の人々が集まって活発に発言するために目立つ。この結果、極端な意見が実態以上に大きく見えてしまい、『世論』として扱われ、『若者の右傾化』とみなされたりする」と説明する。
「極端な意見や集団行動を目にしたメディアが、それを『ネット世論』として取り上げることで、実態以上に印象が膨れ上がる。その意味で『ネット世論』はバブルのようなものです」と菅原さんは指摘するのだ。
■
ネットと集合知(多数の意見が積み重なって生まれる知識)を研究する駒沢大グローバル・メディア・スタディーズ学部の山口浩教授は「ネットでは同質性の高い人が共感し合い、意見が先鋭化しやすい。『脱原発は世論の多数派』と思っていた人が選挙結果を『不正選挙だ』と訴えるのも、安倍晋三首相のフェイスブックのコメント欄で嫌中嫌韓的な意見が先鋭化しがちなのも同じ構造です」と指摘する。
「会議ならば100人中5人だけが発言しても残り95人の存在が目に入る。ところがネットは黙っている人の存在が一切見えないメディアです。極端な意見だけが繰り返し流れてくる結果、それらを間違って『世論』と認識してしまう。特に政治家やメディアは『絶賛の嵐』や『一方的な非難』ばかりに見舞われやすいので要注意です」
この記事によると、ネットでの世論調査には「偏見」的な集中がはいりこみやすいしくみがある、とわかる。
茨城県政でも課題になっている、魅力度調査の結果にも、当然このネット調査特有である、一部のひとのかたよったみかたが拡大されている、と分析できる。いいかえれば、ある恣意的なひとたちがブランド総合研究所という一企業の顧客として、世論操作をし、意図的に茨城県の魅力評価をおとしめていることが十分かんがえられる。
そしてそうであるかぎり、ネット世論調査という方法を意図的につかっているブランド総合研究所という企業そのものを不正な意図をもった企業とみなしてかこいこみ、調査内容のかたよりに関する不正をあばくしか、その偏見をふくむランクづけから300万人の県民がうけつづけてきた風評被害への解決策はないことになるだろう。