2013年3月24日

保護が義務の資料

 日本国民、人類はできるだけはやく、以下の資料を重要な歴史資料として、国家単位で保護しなければいけない。

「井伊大老警護の武士逃げた」奉公人の証言発見

幕末の大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」で、居合わせた中間(ちゅうげん)(奉公人)
の証言とされる記録が、広島県立歴史博物館(福山市)で見つかった。

故郷の安芸に帰る途中に役人に語ったもので、襲撃時の慌てた状況が読み取れる。

 記述があったのは、福山藩の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)の弟子、門田朴斎の五男が、
「変」に関する伝聞や風説などを集めた『骨董録』(こっとうろく)(縦22センチ、横15・2センチ、100ページ)。
茶山の子孫が館へ寄贈した資料約1万点の中にあった。

中間は事件の朝、登城する約60人の行列中、駕籠(かご)の後方で馬を引いていた。

 <殿様御駕籠へ誰に候哉、刀抜連切て掛り候者数人有之、其勢之烈しく怖しき事言んかたなし>
��殿様の駕籠に何者か分からないが、数人が刀を抜いて切りかかった。その勢いの激しさと言ったら、恐ろしくて言葉もない)

 〈其内に御駕籠の内か外か不存候へ共、大なる声にて一声叫び候声ハ耳本へ響て聞へ候、
御供方ハ前後へ颯と逃散り、抜合候士も無之様に者相見候へ〉(そのうち駕籠の内か外か分からないが、
大きな声が一声聞こえると、警護の武士は前後に逃げ散り、応戦する者はいないようだった)

中間は恐ろしくなって馬を引いて井伊邸に戻った。

 10月には映画「桜田門外ノ変」が公開予定。時代考証を担当した西脇康・早大講師(日本近世史)は
「井伊の家臣は口を閉ざした部分が多く、これだけの証言は残っていない。突然襲われて慌てふためいた行列の様子が分かる」と話す。

◇桜田門外の変=1860年3月3日朝、江戸城桜田門外で、大老で彦根藩主の井伊直弼を水戸浪士らが殺害した。
尊王攘夷(じょうい)派への弾圧「安政の大獄」を実行した井伊への反感などが背景にあったとされる。
警護した彦根藩士の一部は討ち死にし、生き残った者も切腹、斬首(ざんしゅ)などとなった。 

以下ソース:2010年7月11日01時37分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm
http://web.archive.org/web/20100713071522/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20100711-OYT1T00147.htm