2013年5月14日

商業化の抑制が進歩をもたらすことについて

 農工商は第一次・第二次・第三次産業に該当するが、原価に上乗せする付加価値(つまり取引時の中間搾取にたす分)に反比例して必需性が減少していく(=壟断)。この商業者の労働力搾取による社会格差化を逓減させるために付加価値税・消費税が存在する。
 もし商業が過大で農工業が過小な社会があれば生産性がへっていくが、農工業が過大で商業が過小な社会があれば生産性はふえていく。前者は付加価値の搾取という業務形態の為に原価をへらそうとしてかいたたくが、後者は原価があがる方がのぞましいために競合他者にくらべて品質を改善するかおなじしなものの生産力をたかめるからだ。これは慣習の差といえる。つまり商業者がへるほど社会の生産性はたかまる。商業者のおおさは貨幣経済の浸透度にすぎない。
 国民総生産は貨幣経済のとりひき量ではかられてきたが、そのなかですら上記の原理がはたらくだろう。生産的な社会とその逆の消費的な社会があったばあい、前者の内容はさまざまな製品や増大する人口のために進歩していくが後者はその両方がうしなわれていく方向づけになるため後退していくはずだ。こうして商業化の必然的結果としての所得格差は、地域に資源の寡占と人口減少をもたらす。この商業地の衰退は、人口流入によってまかなわれていくことがおおい様にみえるが、実際には大都市化とその滅亡ということは文明のどこでもおこってきた。そのはいりこみのなんらかの原因、たとえば過剰人口であるか職業不足による新規流入者のほとんどは淘汰され次世代で除去されてしまうから、結果はおなじになるだろう。
 社会のなかで政治が要請されるのは、純粋に経済的にみれば徴税による所得調整措置を通じて商業化を抑制するためだろう。そしてこの役割の総量は商業慣習が浸透する程度に比例し、循環波状的にそれをあとおいする。ではなぜ商業慣習が浸透する場面があるのかといえば、地域ごとに生産性に偏差があるからだ。ある地域の生産性とほかの地域のそれがことなっていたときに、ゆたかながわからまずしいがわへの壟断が生じる。しかし生産性の改良は農工業にとっては必然的に日々生じていくから、そのひとびとのなかでの才能の出現や選択率に地域ごとにかたよりがあるのは地域の地政的な文化条件ならびに偶然によるだろう。おそらく、この地政的条件づけのため、政治学の予見性とその高度化が必要になるのだろう。
 北茨城市や茨城県は、この道理にもとづけば非商業化という一見すると東京化に逆行するみちをたどることが将来的にもただしいことになる。もし以上の見解が経済学的にただしければ、東京化をめざして商業化していく首都圏南部の神奈川県と、わたしのすんでいる北茨城市をふくめて農工業化をめざす首都圏北部の茨城県は、東京の商業化に対して洞察的にとった態度の相違によって、まったくことなる未来のすがたになるだろう。進歩という面からみて、わたしのみているこの道理は茨城県のがわをめぐむはずだ。