2013年3月14日

県内政府による文化助成のありたい方針

 ご当地ヒーローとしてのイバライガーを武家が配置され雄性形質がとうとばれた伝統のながい茨城県では、いわゆるゆるキャラなるものよりも宣伝材料へマスコットとしてつねづね起用すべきだ。勧善懲悪の象徴として水戸黄門同様、政治社会が採用するにふさわしいものでもある。実際すでに茨城県警は契約しキャラクターにつかっているが、もっと県政のあちこちで宣伝役の前面におしだしてどれほど強調してもいいだろう。

 最小のとき夜警国家としての防衛組織、最大のとき福祉国家としての公共組織が政府の役割だから、客寄せパンダの様なゆるキャラにみられる商業主義という宣伝役のつかいみちはいずれにしても、百歩ゆずろうと決して政治的職分ではないことに注意しなければいけない。単に集客用宣伝というものは利害をともなうため厳格な競合がおこなわれる民間の商業者がおこなってはじめて、最良の結果をともなう。この面でもこどもじみた行政版ゆるキャラなるものの流行は、政府の役割からすれば効率性や実用性、徳の面でも反面教師たるにすぎない。
 北茨城市でもひとの決してすぐれてはいない面をまねて同様のゆるキャラを公募していた様だが、そんな精神年齢のひくい幼稚なことに税金をついやす現市政はおろかというほかない。一体、政策のneoteny化が日本というガラパゴス社会の大方針とでもいうつもりなのだろうか。このくにの行政人は、競合性のひくさのために退行が極度にあらわれた生態現象としての幼形成熟、neotenyという現象が僻地における奇形化の前兆なことをしらないのだろう。各地で絶滅してきた保護されるべきよわさのサイクルにはいって奇形化された少数派生物と同様、それは成熟的形質に関する強壮化にくらべ、包括適応度の減退としてかなり危険な兆候なのだ。こういう生態学的理解からも、わたしはイバライガーふくむご当地ヒーローという形式を宣伝役へ、ゆるキャラなるものよりもおしたい。いいかえれば英雄的形質の強調は、擬人化されたネオテニータイプの強調よりも適応度的にずっとすぐれている。勿論助さん格さんといった人物像もそうだが、スーパーマンやスパイダーマンの様な成熟類型があることをかえりみてほしい。

 こういういいかたが偏見でなければもし幼形への愛護を性差の誇示という面でこのむおもに女性や、みずからのすがたかたちににたものをこのむこども向けだとしても、すでにシェアのひろいミッキーとかピカチュウとか世界的なひろがりをもつ擬人化されたanima characterに類したものが市場で失敗しても倒産するおそれのほとんどない行政という組織から実現できるのか。奇跡でもなければ事実上不可能にほぼひとしいだろう。一部の美人投票的偶然でとりたてられたごくまれなキャラクターにくらべ、投資あたり無駄づかいになった公共の税は一体どれほどだったろう。これは結果面からいっても行政組織による賭博にすぎない。そして未来からみなおせば、かりに成功したとしてもそういう退行的な行政のふるまいは単にけせないおさなさの記録として、成熟した人類からあざわらわれ、恥をかきたてられるだけにすぎなくなる。すでに公募してしまったからにはできるだけよいもの、すなわち愛想よくかわいげのあるものをマスコットにするのしかないのかもしれないが、あるいは内容にもよるかもしれないが将来的にはずかしいので消極的に予算を配分せず適当にみのがして、できたらはやめに自然消滅というかたちでやめてほしいと個人的におもっている。県央から県南でいくらか行政がおこなっているらしいご当地アイドルなる、全体の利益とはあまり関係のない商業者用集客か県内外へこびをうるだけのための女歌劇団まがいのものもおそらく政治が助成する対象として同様にくだらないといえよう。その分の税を災害対策か競合性がひくくめぐまれないたちばのひとびとへの公的福祉あるいはなにもつかいみちがなければ市警や自警団の強化にでもつかうべきなのだ。宣伝役というものは才能やしごと柄が基本的にちがっている利益優先の民間業者にすべてまかせておくか、あるいは贅沢にすぎないのだが万一いくらかなり投資するとしてもみつもりをふくむ公的に透明な競技方式などで厳格に選別のうえ、あきらかに優秀な専門の民間業者へまるなげしてしまえばいい。
 また、おそらくこの原則は「コンテンツ産業」とか「文化関連予算」にもほぼあてはまる。全体主義的な文化助成はかえって、その全体最適化の集約的投資によって既存の学術性へなんらかの覇権をもたらし、bottleneck的淘汰によってある文化環境内のありえる多様性を低減させてしまうかもしれない(覇道効果)。イギリスや韓国がすでにそういった投資をしてきて部分的に効果がみられるが、投資額によって文化の傾向が極度に一様化、産業内容が任意にかたよってしまっているとおもえる。たとえば政府がハイアートに投資した結果サブカルチャーでイギリスのシェアはよわまった様だし、政府が先端産業とコンテンツ分野に集中投資した結果韓国はハイテクと歌劇へと市場が一様化しがちになっている。これは総合的に文化の普遍適応力がさがったということだ。よってできたら最小にとどめた方がいいが、もし政府が公的におおはばな助成をすべき範囲といえば、いわゆるそのままではほろびてしまうだろう伝統芸能や伝統工芸、歴史遺産、人間国宝といった市場での競合力のうしなわれたかうしなわれやすい希少だねにかぎるのだろう。貴重性の保護が、市場内でのもちこされた過去との融合によって将来的に貴種を再生させえるという点での未来の多彩さと、先哲から維持された品位をそこあげる。この点からも六角堂や弘道館という市場があまり競合力を付与していないが歴史的な意義のきわめてたかい建築物への行政が積極的にかかわった修繕はただしかったといえる。

 くりかえすが、いきた人間ではない擬人マスコットに税をつかって、社会的弱者であるなまみの人間は不遇をかこつ。これは行政権の濫用であり、政治の堕落だ。偶像崇拝の末路のひとつの奇形的な社会のすがたというほかない。偶像崇拝の念の有無は、美術や芸術あるいは学問という偶物へ政治がどの程度肉薄するかにもかかわる重要な信念上の判断基準だ。三種の神器を心配し、原爆投下時に日本国民のうしなわれゆくいのちへの同情よりも、まずそのことをてがみにかいた昭和天皇をふくむ天皇という行政権力者兼宗教長の偶像性はいまさらいうまでもないが、普段のなにげない理解の習慣がおおきくみなすといかに国家のありさまをちがえてしまうか、ここにはっきりしめされているといえる。かつてキリスト教、儒教、イスラム教で偶像が禁じられていた理由はこういう巨視的な結果に厳密にでているとおもえる。たとえば孔子は殉死をあおる埋葬用の偶像の風習のみならず、うまやがやけたときはじめに人間を心配した様、動物を単に擬人化してあつかうこともきらうはずだ。それはキリスト教での、神の似姿としての人類への高等生物視とおなじhumanismという古代からの智恵をてらしだしている。