社会をかえること、それをのぞましいむきにかえること。
すべて科学、知識、scienceは自体としてものぞましいが、その応用とみればこれにつかえるだけだろう。工学の濫用が戦争や侵略をまきおこす。しかし、政治のしかたがただしいかどうかがとわれている。
人類史でおきたもっとも悲惨なできごとのひとつは、ヨーロッパ移民らによるアメリカ大陸の先住民の虐殺での建国だ。これがアメリカ大陸の精神として政治上ただしいとはおもえない。そして同様の歴史は、茨城の名義になっている天皇家支配へもあてられる。このどちらのばあいも工学はまちがったつかいみちをされている。工学は芸術の基礎だから、目的としての芸術を高度化させるためにある。つまり岡倉天心のいう意味での「戦争による野蛮人が高貴な芸術をこどものあそびにあたいするとおもいたければおもえ、われらはよろこんでまとう」というのが、アメリカや天皇家へ、あるいは薩長土肥ふくむ明治以来の新政府へいえることだ。もっと巨視すれば、平和の縄文文明が戦争の弥生文明がわへあてつけられる真理だ。そういった蛮行で絶滅戦争をした結果は、かれらをふくむ種の多様化をそこなうばかりかにくしみやうらみ、あるいはきらいをかい、将来の繁殖価をへらすことだろう。だれからもうらまれたりいとわれたりしないばかりか好感をもたれる人間になれれば、つまりよいひとになれれば種の多様化という本来のいきものとしてのめあてにかなえる。
善はいそげ、悪はのばせ。このことわざは過去から未来まで人類に記録や記憶の才があればかならず業があるから。なんらかの利他性を徳あるいはのりとし、工学や知識は別個のものとする。こうすると、いわゆるmeta-physics、「自然学のあと」というものは、工学や知識というphysicsより優先度がたかいのがみてとれる。それは業という社会のなかにあるしくみが、いずれ人類のなかにかえってきやすいから。善はいそいだ方がよい行動者の系列としてひとびとに協調性をうけがいやすく、悪のばあいはどうしようもなくしなければいけないときでもできるかぎりさきのばしにしていれば、いずれ状況がかわり、しなくともすむことになるかもしれない。
ある時間をへだててみれば、こういった因果ははっきりでる。ゆえに科学のつみかさねは、ある意味では形而上学とよべるかんがえ、社会を運用していくのりとしての哲学のもとでしかない。そしていそがれているのは、実際には善をになう哲学の方なのだ。真善美は科学、哲学、芸術というそれぞれのしわざがうみだすある特長をいいあてている。