2013年4月27日

いじめとスケープゴーティングへの文化的対抗について

いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。“バッシングして構わない過失や落度のある相手なら、どれだけ叩いても構わない”という社会的コンセンサスをなくすか、せめて緩和する必要があるのではないか。
 
 だから、オトナ達が子どもに向かって口で注意する前に、まず、オトナ達自身が、慈悲深い身振りを実践してみせる必要がある。そして落ち度や迷惑のあった相手をバッシングしすぎないよう、心がける必要がある。長い目で見れば、これが一番有効なのではないか。
 
 オトナ達の、「大義名分さえあれば、無慈悲にブッ叩いて構わない」という後姿を見ている限り、子ども達は「いじめは良くない」ではなく「大義名分の立たないいじめは良くない」「大義名分が立つなら、とことん叩いて構わない」のほうをインストールしてしまうだろう。それではダメなので、落ち度のあった人・迷惑のあった人に対しても最低限の慈悲・寛容・礼節をもって接する後姿をこそ、子ども達には見せるべきではないか。
シロクマの屑籠、2012-07-07、p_shirokuma氏
「"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120707/p1
 この記事で説明されているのは、社会規範や社会正義がよわいものいじめというscapegoating、あるいは犠牲・いけにえでなりたっていることだ。実際、近代人とみずからをみとめているひとたちすら、古代人がしていたいじめ行為とかわらない方法で犯罪者やわるものをつくりあげ、その対象のひとたちをしいたげて「そうならなかったひとたちの社会秩序」を維持している。もっともこの態度からとおいはずliberalの世界ですら、自由でない価値観をもったひとを間接的ないけにえにしているし、本質的には国家の法規範という立法上の多数派の決定に依存している。
 こども社会がおとな社会の模倣であるという一般論は、そこにあらわれた社会病理が実際にはおとな社会にすでにあることをしめす、とかんがえられる。いじめはスケープゴーティングが社会全般にはびこっているためその模倣としてあらわれる症状であり、社会規範やその周縁性がゆるくなっているので曖昧な立場の犠牲をさがし、この少数派である中間者の排除によって多数派の再結束をめざす状態にあると分析できる。ネオナチズムや排外主義、ファシズム、全体主義はそれぞれこの一類型なのだろう。
 P_shirokuma氏のいう慈悲をしめすとき、今度は世界宗教原理主義という別の社会規範が登場してくる。テロリズムはこのイスラム原理として出現しているもので、さけようもない。
 総合してみて、現代がなすべきことはこれらの急激さや突出を緩和することでしかないとおもえる。記者クラブや東京のマスコミ資本が世論を東京ジャイアニズムからのスケープゴーティング、つまり東京からのいじめに誘導しているのはあきらかだが、これらの結束が解体されるまではほかの原理によって中和させるしか抵抗のしかたがない。必要なのは、おそらく知識集団または知識人単独による別の思想での対立的措置だ。そうして群衆の極端なかたより、思想的亢進や行動上の暴走をとめるべきだ。当然そのためには多数派がまだみにつけていないあらたな技術も役立つ。こどもへは、むしろこういったかしこい先進的個性あるいは啓蒙者の模倣を期待すべきである。多数がおろかである状態で、少数のひいでた個性によって状況が改善される、という再秩序化の経験値や、文化英雄的な啓発者への尊敬があるおとな社会の観察をつませるべきだ。こういう個性をとうとぶ社会と単なる全体主義つまり空気や和、集団浅慮が支配したばのちがいは、おそらく先人がつくりあげた慣習の差によるだろう。