政治は「暴力性」をひとのあいだに調整する機能として要請された。
ここからみて、天皇という名字の強大な独占権力をもつひとと、それ以外のよわいたちばのひととの利害調整というのは当然はかられるべき政治の職能となる。
天皇が日本国民をいじめている。勿論、「天皇は日本国の象徴」かつ「国民が主権者」と明記された憲法も前提にある。このばあい、第三者である日本国民はそのいじめられているみずからをふくむ日本国民のだれかを、天皇と一緒になっていじめるべきだろうか。これに加担していじめるのはchauvinisticなファシズムだとおもうが、わたしはそうすべきではないとおもう。
天皇は皇帝兼教祖としていきてきた。これを「政教癒着(政治と教育の癒着)」や「政宗癒着(政治と宗教の癒着)」というのだが、天皇はすくなくとも政治家とみれば「いじめ」をなくすがわでなければならない。これはとても素朴なたとえにきこえるかもしれないが。
はっきりいう。西日本はいじめ文化であり、東日本は正義文化なのだ。総合的にみなすと、そういうほかない。そしていじめ文化の代表格が天皇政治であり、正義文化の代表格が幕府政治だった。天皇政治は公家、幕府政治は武家をもたらした。なぜなら公家は天皇という絶対権力者のまえでいかにしても出世可能性がかぎられていることからライバルへ害をあたえるのが自然有利となり、結果相互害他的すなわち競争的になるが、武家は相互利他的な協調性をとることで強者をたおしていけばその最高位である将軍につけたからだ。
この起源は、おそらく縄文=東日本文化と弥生=西日本文化というおおきな過去の系統樹のちがいに由来している。縄文人は古来から日本にすんできたひとびと、弥生人はその後に朝鮮半島から渡来した人とそれに混血した人をふくむ。このふたつの文化傾向はおおきくみると、自分のみるところたしかにちがいがある。つまり地政学的な差、地理と政治に由来した伝統的文化傾向の差なのだ。
生物学的に、同系集団は互恵的利他行動をとりやすい。それは血縁でもあり、個人を長期的に識別しやすくなる環境収容力戦略的なある程度とじられたばでもある。この両面からみて、日本が極東のはずれにあって、しかもしまぐにであることがおもくはたらいてきた。日本では侵入者がほとんどなかったから、ふるくすんできたひとびとへはこの利他性からの淘汰圧がかなりかかっていたはずだ。そしておそらく、うまれつきの知能のよしあしをしめすとおもわれる学力テストの「知識分の活用比率」というものは、この習性的な利他性へ積極的に比例している。
ひとつの明白な例は、秋田県と大阪府のいちじるしい非対称性だ。秋田県では学力テストの知識分の活用比率が抜群で犯罪率は圧倒的にひくい。大阪府では真逆で、学力テストの知識分の活用比率は圧倒的にひくく犯罪発生率は抜群である。この例だけで確証とするには不十分かもしれないが、これほどいちじるしい統計的偏差がみられることは特筆にあたいし、その原因はおそらく秋田が古来・縄文・閉鎖型の文化にあり、大阪が渡来・弥生・開放型の文化にあることとかんがえられる。
こうして犯罪発生率にも比例関係がみられるとおり、人口集中度(人口のうち、何%が人口集中地区に住んでいるかの割合)や人口密度のひくいふるきよき田園、都市化されていない地方にたすけあいの文化がそだちえるのがわかる。逆に、都心化された新規流入者だらけのばは、かならず利己的で害他的なおこないがはびこりがちになるはずであり、しかもそのばかぎりのおこないをしてもむれにまぎれて罰されにくいため利己的なひとびとがいきのびやすいかぎりそこで淘汰されたひとびとには傾向としてぢあたまのよくなさが特徴化されやすい。おそらく、『旧約聖書』におけるソドムの説話も、古代におけるこういった都心化の退廃をしめしていたのだろうと推測される。
こういった自然の理論的背景で、天皇のいえのまわりの人口集中度・人口密度がたかいということは、朱にまじわれば赤くなるため文化面からそこでそだつひとを利己的にしてしまう。つまりこの天皇家のまわりにあつまってすむという都市モデル自体が、西日本的な風土だったのだ。
今日わたしたちをさいなんでいるのは、まさにこの西日本的ないじめ文化の残滓であるといえる。そしてわれらにまたれることといえば、このあしき文化を排撃し、ふたたび武家やその古代のすがたである縄文人にみられた互恵的社交性をとりもどすことだ。また、ここからどうして薩長土肥というにしのはてにあった外様大名とその部下らが、京都にいた公家の一部とともにあれほど、当時の外来人であったイギリス・フランス・アメリカ・オランダ・ポルトガルのひとたちを利用して、母国の日本人やアジアのよわいたちばのひとびとをひどく「いじめた」のかも、こうしてはっきりとわかる。かれらの末裔とその文化傾向は日本そのものの古代人ではないため、利己的かつ害他的なおこないをすることがかれらおよその習性なのだ。そして、もし日本という単位あるいは地球やそれが属した銀河系というなかば閉鎖的な単位がこれからも半開放系としてにとどめられるだろうがときのなかで存続していくならば、そこにくらすひとびとは時代をへてこういったいじめやその文化になれたひとびとをやがては淘汰していくことに成功するだろう。無論、外来者の侵入というかぎられた期間のあいだは、よりもどしの期間や時代はある。日本の歴史にてらせば、おもな国風化時代とその他の外来文化摂取時代との大別ということになる。だがこの開放期間は、系のことわりから決してながくはない。生命をモデルにした半開放系はつねに存続するのだ。たとえば食事をつねにしなければいけない系は、そうしないかたより相対的に個体性をもっていないので移動の自由がかぎられ、単独増殖可能性がかぎられる。それはくにというものでもおなじである。
閉鎖的半開放系が、自然の理由によってよりながい期間をしめていく結果、このよはいまよりも互恵的な利他性、つまりよいおこないとそういう習性をもつひとにみちあふれていくだろう。
わたしのめには、天皇という西日本文化の末裔が将来どうなるか、いきのこるかほろびるかはわからない。しかし、過去をみなおすかぎり、このひとはたしかに利己的で害他的な業にいとまがなかった様だ。いまなお、これほどの負担をせおっている茨城県から労働力搾取をするために原発をふくむ環境負荷のある発電所やその廃棄物を、かれのすみかである最高の人口密度をもつ悪所東京都からおくりだし、われら主権者である国民から金銭と権力を独占濫用しつづけている。この利己的で害他的な象徴の日本国という構図も、それほどなくついえて、やがて天皇以前の真の日本の、単に害自的でないばかりかたがいに利他的なよりすぐれた政治が回復されるだろう。
天皇が国民をいじめている。このばあい、はっきりと天皇というわるものを批判するべきなのだ。たとえ何代分の家系図があろうとまったく関係ない。なぜならわるさはわるさだ。水戸学における義公のおしえ、それもわたし個人にとっては関係がない。『論語』にいう、「仁に当たりては、師にも譲らず」。そしてこの人種差別主義者である天皇をまつりあげる日本国憲法を、その皇室典範そのものをかえることが、日本国民を真にすくいたすける方法だ。これが正義の文化である。
現実的に、まずこの天皇というひとは国政からきりはなして、尊皇のつみかさねがある水戸にひとつの「宗教のいえ」としておき、政治権力者としてのたちば、つまり国家の財産から支出してやしなうことをやめねばならない。これはすでに徳川家がそうなった様に。そうしないかぎり、天皇家というのは政治・宗教・教育の三面にわたる三重権力者なので当然癒着をおこしてどれに対しても腐敗し、あしき世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師たらざるをえないだろう。現に、利己的で害他的な傾向をもつ外来者の都心となった東京がさらに経済の中心までしめてしまっているため、政治・宗教・教育・経済という四重権力者となって、福島原発事故にみられたとおりはなはだしく悪魔のすという構造をもっている様に。こういう悪徳東京に寄生した天皇に関してはやはり東京人なのだから、歴史原理として「絶対権力者は絶対に腐敗」し、世襲権力者かつ邪教祖かつ不良教師かつ悪徳商売人というすさまじくわるい存在とみなされざるをえなくなるはず。