2012年9月22日

いじめをとめる理論

 いじめはほまれとたがいに反するむきで、もしその作用をおさえたければ、ほまれをあたえればよいことになる。
 これはよわいものいじめ、つまりscape goatingが喜劇の作用なのに対して、ほまれをあたえるいけにえの作用が悲劇なのと類比できる。『水戸黄門』は公権力による喜劇作用の浄化であり、これは勧善懲悪とよばれる。それはentropyのたかい集団の最大の情報者としてのあらくれものを退治し、その集団のみだれをまわりにとっていごごちよくおさえるから。くらべて、悲劇は徳川慶喜がもっとも類型にあてはまる。例えば『徳川慶喜の英略』の様、きわめてすぐれたほまれだかい人物が当然そうあるべきところへまつりあげられることなく、悲運にめぐまれたとき最大の同情がおこる。これは集団にとってもともと公益をあたえる負のentropyの情報者を集団にとって適切に処理できなかったことへ後悔と残念さ、惻隠の情、しのびなさ、同情のなみだ、つまり武士の情けをあたえるから。そしてこれは劇作用としては、ひどい混沌でよごれているひとびとにとっての浄化になる。
 たとえば『トムとジェリー』や『ドラえもん』は混沌をおさめる喜劇で、Jesusという救世主の受難を伝道するはなしである『新約聖書』や『平家物語』「敦盛最期」で熊谷直実の出家した経緯は秩序をひろめる悲劇といえる。
 このうち、学校という劇場でいじめがおこなわれがちになるのは、喜劇作用がつねに集団におこりがちになっているから。いわばあれていればいるほど、そのクラスには最大の情報量をもつ者が排除されやすい環境が自生的にできあがる。社会集団を維持する方法として人類が祖先からうけついだ作用が劇なのだろう。だから、こういったあれたクラスを再生させるためにはきわめてたかい秩序をつねに生じさせればいいことになる。たとえば先生が優等生をつねに褒章しつづける。そうするとこの人物へのほまれをあたえることの方がおなじ恒常性をもつ集団維持にとって効率がよくなるので、いじめはやむはずだ。逆にだれもほめないばかりかしかること、つまりいじめを禁止したまま集団の個々の情報源である個人間を平等にしようとしていると、entropyは自然に増大するからかならず時間とともにふたたびクラスはあれはじめ、かえっていじめをおこなっている段階より集団維持そのものはむずかしくなるはず。