2012年7月18日

人口理論

余剰人口で労働への最低賃金がさがる、というのりをみれば、少子化そのものもかならずしもみじめではないことになる。

 少子化でこまるといっているのは、高度成長期の価値観をもちつづけているひとが政策をになっているからかもしれない。
 どちらかといえば、少子化した方が人口あたりの所得水準があがるか。

 生活水準を世代間で向上しつづけるには、この人口あたりの所得(人口\所得)のあたいをあげるしかない。
人口が逆数なので、少子化にともなって所得水準があがっていくことが、過剰人口をかきあつめる政策態度よりも、たみのしあわせに寄与するところおおきい。

 反論者の態度のなかには、戦争を前提にその先勝をえるべく人口増強をとなえている、いわゆる富国強兵へにた思想がみられる。
たとえば現東京都知事や現大阪市長などは人口は国力だと公言されているのを私はみたことがあるが、戦争を前提にしなければ、この国力という概念へうたがいをもつことができる。
 政治学上いえるとおり、防衛力に致命傷をあたえるだけの人口の極度のすくなさは問題だろうが、それをのぞけば戦争せずにすませる方が本来の先憂後楽のむねにかなう。
いいかえれば中規模以上の人口比が軍事バランス上あって、なおかつ持っている兵器の技術レベルが戦争がおこりえるすべての諸外国とくらべて十分に高度ならば、かならずしも人口の絶対数というものがいきのこりに不可欠ではない。適応放散があるから、はじめの種は極微でも最後には最大数をもつ可能性がつねに生物にはある。
 自分の観察するかぎり、現に東京や神奈川の平均的な土地家屋でのくらしより、茨城のそれの方が水準が高い。
そして統計からよみとれるのは、むしろ労働者の数を南関東圏へながしてしまうのは、茨城そのものの平均的な所得水準をあげる効果が人口密度のひくさにともなってあるということ。
まず子供がへるなかで労働力のたたきうりがひとりでにふせがれ、最低賃金があがる。つぎに人口密度がさがるのでひろい持ち家を確保しやすくなる。これで父母より教育費に余裕がありかつ勤労であってもし所得がすこしでもあがるなら、投資すべき子孫がすくないほど以前より生活水準があがらないはずがない。

 くわえて、「所得水準のたかい事業」へのえりごのみをつづければ、ますます県内の高級化がすすむ。福島原発の人災による風評被害というものも、産業構造の避けようのない高度化につながるならかえってプラスになる。だから、おおきくみると製造工場の海外移転もそれより所得のたかい設計開発部門の集積と反比例するほど、県民にとって家計的に望ましいことになる。
 おなじ理論は大量の電力を要する工場が誘致されるかどうか、あるいはまた産業へつかわれる大規模発電所がどれほど必要かへ、高度成長期のそれとはことなった態度をもちいるだろう。

 唯一、この高級化にとってさまたげとなりえるのは民衆政の多数決の原理だろう。最大の人口数のもつ意向が、多数決ではとおりやすくなる。
 もしここへの対策をこころがけるなら、情報のかざかみにたつしかない。
いわばあらゆる媒体、特に発信力のおおきなマスメディアをできるかぎりもつことが、人口比にくらべた世論と国際的影響をはたらかせるにたる策だろう。それは姿勢や理念であって、かならずしも資本規模だけではないはず。
 BBCワールド、みたいなちいさな国から発信されてはいるがほとんどの国々へ影響力をはたらかせている世論の基準は、このひとつの手本といえそう。質の高い情報をできるかぎり広域につたえる努力をつづけていけば、そういう世界世論への指導的な地位をえられるだろう。