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●東海村長・村上 達也さんからのメッセージ
志位委員長をお迎えしての日本共産党演説会のご盛会をお慶び申し上げます。
さて、東日本大震災、福島原発事故の後、本当に呆れた政府、情けない国だとつくづく思っています。
特に原子力政策に至っては、何ひとつ新しい方向が打ち出せず、というよりは原発事故に蓋をして、まるで災害がなかったが如くにしてまでも利権集団の利益擁護に血眼になっているのですから。
政府がやっているのは電力会社の利益のため茶番劇を演じてまでの原発再稼動、そして原子力偏重のエネルギー政策の失敗の付けを国民に転嫁する電気料金値上げばかりです。
原発事故で被災し避難している福島県民の救済は全くそっちのけです。呆れるより怒りを覚えています。
私は30Km圏内に100万人が住み、かつ首都圏唯一の東海第二発電所の再稼動中止・廃炉を政府に求め、併せて福島県を除きますが全国の原発立地市町村の首長として只一人脱原発を提唱しています。
そして去る4月28日、三上静岡県湖西市長、桜井福島県南相馬市長、上原前国立市長らと呼びかけ、70数名の市町村長の加入をもらい「脱原発をめざす首長会議」を立ち上げて参りました。
東京の城南信用金庫本店で開催された設立総会では志位委員長からも直接激励を頂きました。お礼申し上げます。
私が脱原発を唱えるのは、目先の経済的利益ばかりを求め、そのためには生存権などの基本的人権さえも抹殺して突き進む原子力ムラの権力的な文化、その体質に長年付き合ってきたがためです。
その発端は約13年前の東海村JCO臨界事故にありました。
その時も、この国は原発を保有する能力、資格のない国だと思いましたが、フクシマ以後の現在をみて更に更に強く思っているところです。
この日本で政治家や官僚、財界人や学者をみれば失望ばかりですが、今私は大いなる希望を抱いております。
それは原子力一辺倒の国策に対する民衆の戦いの盛り上がり、それは安保闘争以来、いやそれさえも超える民衆の戦いが全国津々浦々に巻き起こっているからであります。
これを私は、明治時代初期の古い言葉ですが民権運動、「国権」に対する新たな「民権」の戦いと評価しております。
今や国民世論の80%は政府に対し脱原発によるエネルギー政策の転換を求めています。
東日本大震災、福島原発事故を体験した私たち日本人には、世界の70億人の人々に対し脱原発を達成する責務があります。
そして又、原子力発祥の地である茨城県は、その先陣を切る義務と権利があると思います。
本日の会議が大飯原発再稼動後の野田政権の反動的流れを堰き止めるものとならんことを期待し、そして祈り挨拶といたします。
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以上引用したが、東海村長のおっしゃるとおり、われわれ茨城県民が全国民に先駆けて廃炉を決断する事が日本を救う。というより、茨城県民にはすぐとなりで世界最悪といっていい大公害がおこったかぎり、一切の再稼動廃止、きっぱりと国からの交付金麻薬と縁を切る、勇気ある先導役を率先垂範で決断し、第一に達成せねばならない責務がある。
それがみずから最新技術をためしはじめた者のもつべき誇りだろう。雄々しく進歩しようとするかぎり、人類には失敗するときもある。だれでも失敗しえるのだ。重要なのは失敗ときづいたときにごまかさず、冷静におのれ自身を反省し、間違っているとわかったならきっぱり改める事だ。君子は豹変する。
放射能汚染で犠牲になる世界人類の未来をすくうためだ。このさい、手段はえらばない。日本一国でおさまる問題ですらなく、いまより放射性廃棄物をこのちいさな島から地球中にひろげない為にはなにがなんでも、まず自分たちからそれを達成するしかないのだ。先ず隗よりはじめよ。
原子力発電所は、いわれてきたほど決して効率のよい発電機でもなければ、ひとたびさけられない自然からの影響で大事故になれば手のつけようのない大災害をひきおこすパンドラの箱だった。さらには持続可能性、もつ性能をもっているわけでさえない。廃炉する時期がさきのばしにされるほど汚染物質がたまりつづけ、それを冷却する費用がますますかさむといった「ながいめでみて不経済な」発電装置だったわけだ。
元請けである株主からみれば、下請けにあたる製造者である、加圧水型原子力発電所の三菱重工業、沸騰水型原子炉の東芝やアメリカのGEとくんでいる国内製造業者の日立にも、国民すなわち国家をつくっている主権者自身の国内政策への態度が、最低限でも国内でこれ以上増産をするかどうかの意向へもっぱら方向性をあたえるのはまちがいない。
というより、民間需要としての依頼がなければあれほどの費用と手間がかかる大規模装置は生産されないはずだから、なにもそれをつくらなかったからって伝統と信頼実績のある安心の日立製作所や東芝、三菱重工業といったこれまで原子炉製造にhigh technology面で貢献してきた会社法人が即座につぶれるわけでもなし、そのままおとなしくすくなくとも国内分の原子力発電所製造の関連産業分からは撤退すればよいだけなのだ。簡単にいえばこれから国内ではつくらない、これだけのはなし。
なおす分はこわれてきたらあぶないので必要なだけなおさなければいけないわけで、否定しない、というよりできないけど。
それにしても、現に賢慮ある東海村長殿が脱原発技術、というあたらしいことばで構想しておられるとおり、廃炉にかかわる技能やそれまでありつづけるしかない原子炉システムについては即座に需要が消滅するではない。というか、はっきりいえば合理的で経済的な廃炉技術を開発するといったあたらしい分野にむけて進んでいった方が、すでにできあがってしまっているものをほぼ自動で維持しつづけているだけよりも、はるかにかずおおくの有効需要が、下請けにあたる関連産業すべてに発生するに相違ない。
要するに、原発をやめようとすることさえ「とかくもっこをうごかす」「ふねをみがかせる」「うまくいかなかったピラミッドをつくりかえる」様な、いまの大不況時にごく景気回復へききめのあるケインズ政策なのだ。安心さえ買えるわけだから、日本最大の機械製造業者であられる日立製作所様には是非とも方針転換系の新事業をおねがいしたいものなのである。
国際的なシェアについては、いまだに途上国のあらゆるところでふえつづけるしかない需要や、これはいいすぎでなければ是非ともという特別注文の依頼がつきないので、絶対にもう二度と事故をおこさせないという「安全技術面で貢献できる」ことはまだまだ器用な日本勢にはあるはずだ。
勿論、われわれ茨城県民が、すなわち日立製作所発祥の地でなおかつ東洋における原子力発電発祥の地でもあるところですべきことは、「ひとびとが原発なんてもうやめたいとおもった」ときにはすぐさま、もっともよいてだてで廃止できる技術をさきにつくっておくことだろう。つぎつぎ濫造したがっていて、たとえ日本の製造業者だけが手を引いたところでとめられない途上国からはまだまだでてくることになる、世界中でうずつもっていくほかない放射性廃棄物のもっとも安全な処理に関するそれもふくめて。
しかも、(http://kamomenome.exblog.jp/16416709/ 「夜間の過剰電力のための原発」) にみられるとおり)発電量がとても調整しにくいので夜間電力の過剰化にしか役立たないとなれば、これから少子化がおこるのだから国内での大量の電力需要がみこめているわけではないかぎりできるだけはやく手を引く方がすべてにまさって賢明といわざるをえない。
先憂後楽という水戸光圀公の座右の銘を、今一度おもいかえすべきだ。茨城県は全国民から勇気をたからかにしめすことを、いまこそ期待されているのだ。ひとびとをがっかりさせてはいけない。名誉をえるか、それとも敗北かだ。間はない。
問題をさきおくりにしたところで、どちらにしてもつぎの世代が廃炉に向けていくしかないのならば、善は急げ、というほかない。
大事なのは、中途半端ではなく、このばあいとりかえしのつかない祖先伝来の郷土を永遠にうしなうという大事故の危険性がつねにめのまえにありつづけるかぎり、中庸さえなく、県政の原子力発電事業の継続に関する意志をはっきり国家といういまの体制いいかえれば、「主権者である国民自身へ」しめすかどうかだ。世論もそれを支持するにちがいない。
このばあい、すでに大規模なデモが都心の官庁あたりや代々木で何度も起こっており、やむ風向きがないかぎりはっきりときりかわった世論のながれの風下にある経済産業省の動向については、皇統に象徴された日本国の中央政府の永い権威を重んじる茨城県民のひとりなので個人的には軽視するはずはないが、とりあえずひとりの意見の自由をもつ国民とみれば除外していいはず。
なぜなら、もし省庁がこれへ無理にさからおうとしても、つぎの選挙でこういった争点の処世にいずれたくみな
所詮、国つまり国家という体制さえ個々の国民があつまってつくっているだけなのだから、国家ということばは幻想にすぎず、実態はただの国民みずからが団結するというときの姿勢やこころざしにすぎない。特にrepublicや、民主政にちかい民衆支配状態のもとでは。国とは一帯の文化がもっているなにかをするときの雰囲気、のりでしかない。
現実にする行動といえば原発という維持していくのが不合理とわかった事業体そのものを減らしていくしかないにせよ、それとは別に、国民をひとまず安心させる結果になるので理念の上ででもいいのであるから、尊敬すべき東海村長のごとく、「はっきりやめると決断をしめす」かどうかで男として天と地の差がある。これはわらうところだが、東京都知事とは格がちがうところをみせつけるべきである。
人事を尽くして天命を待ち、いずれひとは信じる道をすすむほかない。
水戸学がつたえるところに報本反始、ということばがある。その思想をうみだしてきた県の北端のちいさな市民でしかない自分の常識が、身近にまきおこされたこれまでの隣接自治体での事故後の経過ならびに状況をみあやまっていたのではなければ、最終的にわが県知事殿は、あるいは未来の運命をにぎっているこどもをふくめ11万人が現に署名した個々の茨城県民の意思をどう尊重するかと同様に、無数の史跡や文化財、国宝級の文物をふくめて、歴史や伝説に事欠かないきわめて有名な県都である水戸市というまこと格式高い土地がこの決してひろくはない日本、もしくは地球そのものから将来破滅するかどうかにさえ、致命的な決定権をもっておられるのではないだろうか。
無論、なんらかのこれらとは質のちがう方針であっても立場がことなればはかりしれない最大の熟慮のうえだろうから、以上の論旨でもって北茨城市民としてできるかぎりその決定が持っている合理性や不合理性への意見はするが、いずれ別の説得方法をもちいるなり、みずからがえらんでいる公権力である県政の方針そのものへは一県民としてさわがずしたがうつもりだが。